* * *
今期の生徒会活動もほとんど終わり、残すは終業式のみとなった。けど、わたしには自習という日課がある。そのためだけに今日も生徒会室目指し、廊下をとてとて歩く。
ただ、最近ちょっとした悩みを抱えていたり。去年は確か、誰とどこに行こうかなだとか、何して遊ぼうかなとかだったっけ。でも、今年は行く相手も何をしたいかも既に決まっていて。
お祭りに花火、もしかしたらお泊りも。初めてできた彼氏と過ごす夏は、今から楽しみでしょうがない。
だから、わたしが現在頭を抱えているのは違うタイプの困りごと。
「…………」
まただ。一体なんなんだろう。
近頃、やたらと妙な視線を感じる。特にせんぱいのクラスに寄った帰りが一番酷い。生徒会室や職員室に向かう時。階段や廊下、果ては気分転換のためにベストプレイスへ行く時まで。そして大抵は、わたしが一人の時。
当初はあまり気にならなかったが、こうも毎日続くとさすがに居心地が悪くなってくる。……今日、せんぱいたちに相談してみよっかな。
止めていた足を再び動かし、いつもの場所へ急ぐ。そうして辿り着いた扉を開くと、不在の役員に代わって二人の人物が迎えてくれた。
「よお」
「ひゃっはろー、いろはちゃん」
「こんにちはです、せんぱいっ」
「ちょっとー? お姉さんにはー?」
自分だけが挨拶されなかったことに対し、陽乃さんがむーっと抗議の眼差しを送ってくる。ふふん、こないだわたしをからかったお返しです。
とはいえ、やりすぎると後が怖い。これくらいにしとこっと。
「……冗談ですよ。はるさんもこんにちはです」
「よろしい」
陽乃さんからお許しが出たところで、せんぱいの隣に腰掛ける。いつもと変わらない二人に安心しながらも、ふうと息を吐く。
……さて、本題に入らなきゃ。
机に置いた鞄から勉強道具一式を取り出し、脚をぱたぱたと遊ばせつつ。
「なーんか最近、誰かに見られてるんですよねー……」
愚痴るようにぽしょり言葉を落とすと、二つの瞳がわたしに向けられた。一方は心配そうに、別の一方は興味深そうに。
「……ストーカーか?」
「あ、いえ、それはないかと」
わたしが感じている視線の種類は、男子特有のエッチなやつじゃなくて。どちらかと言えば、女の子特有のねちっこい目。悪意とまではいかないけど、それに近い感じのもの。
根拠なんてない。でも、確信はある。だって、その手の嫌な感情は散々味わってきたから。
「……何かされたりとかは」
「今のところ、特に何も」
表立った行動はされてないし、実害も受けていない。また、これから起こる気配もない。ただただ、まとわりつくような視線が鬱陶しいだけ。
「そうか……」
わたしの身に何も起きていないことがわかると、せんぱいの表情が少し和らいだ。その変化を見て、自分のほっぺたもふにゃんと溶けた。
……えへへ。とっても愛されてるなぁ、わたし。
「いろはちゃんってさ、比企谷くんのことになるとよく別の世界に旅立つよねぇ」
くすくすと笑う声にはっとして、妄想に飛びかけた意識を現実に引き戻す。……いけないいけない、またしても失態を晒すところだった。や、もう既にいろいろ手遅れかもだけど。
「はぁ……」
陽乃さんの言葉に、せんぱいが恥ずかしそうにわたしから目を逸らす。ちょっ、なんですかそのため息は! せっかく恋人が愛情を感じて喜んでいるというのに!
「……それより他にないのか、手がかり的なもんは」
さらには話題の舵を強引に戻し、わたしのやらかしを完全に流す体勢に入っていた。なにこれ恥ずかしい。別に悪いことしたわけじゃないのに無性に恥ずかしい。
誤魔化しも兼ね、こほんと咳払いして場を取り繕う。
「……じーっと見られてるだけなんですよね、ほんと。なんかやな感じで」
「嫌な感じ、か……」
「ちなみにいろはちゃん、いつぐらいから?」
「七月に入ってちょっとしたくらいからですかねー」
順に答えていくと、せんぱいがふむと顎に手を添えて考える仕草をとる。陽乃さんも視線を斜め上へと移し、んーと小さく声を発していた。わたしも二人に習い、ペンをくるくる回しながら一応はと思索を巡らそうとした時。
ぎしりと椅子を軋ませた音と共に、恋人が重々しそうに口を開いた。
「……一人、心当たりがある」
「奇遇だね比企谷くん、わたしもだよ」
「……へ?」
そして、陽乃さんが間髪を入れずに声を重ねた。
遠くにいる誰かを思い浮かべたような表情を見せる二人。だが、何も知らないわたしはぽかんと口を開けることしかできなかった。
* * *
翌日の放課後。
日課をこなすためだけに、変わらず生徒会室へ足を運ぶ。ただ、少しルートを変えて。
リノリウムの床をとんとんと踏み叩きながら、わたしは昨日の一幕を思い返す。
せんぱいと陽乃さんが揃って候補に挙げた人物は、自分の予想からそう遠くなく。推測で欠けていた部分は、二人の説明ですとんと腑に落ちた。
わたしに恋人ができたのが面白くない。なら、普通はせんぱいに敵意が向くはずで。自身の経験からくる直感に正当性のある理由が加わり、視線の主が男子という線はほとんど消滅した。もちろん、完全に消えたわけじゃないけど。
そして、学校内でのせんぱいの評判は最悪だ。なので、わたしに嫉妬する女の子はほとんどいない。もしせんぱいに恋心を抱く女の子が結衣先輩の他にいたとしても、あの人の優しさを知っているのなら、そういうことは絶対にできないはずで。
つまり。
せんぱいに恋人ができたことが、なにより面白くなくて。
だからといって、直接的な行動に踏み切る勇気はなくて。
でも、やっぱり気に入らなくて。違う形で屈辱を晴らしたくて。
疑問や動機の全てが集約して、結びつく人物。
その正体は――。
「ねぇ」
呼び止める声に緊張しながらも振り返ると、赤茶色のショートカットヘアをした女の子が、不機嫌そうに立っていた。
記憶の刹那に覚えのあるシルエット。
わたしを見つめる嫌悪感に溢れた瞳は、散々感じたものとまったく同じ。
――相模南先輩。
視線の主は、せんぱいたちの予想通りだった。
「……わたしに何か?」
最初はしらを切り、まずは用件を引き出すことに徹する。
「今、ちょっといい?」
「はぁ、別にいいですけど……」
首肯すると、声を返さずに相模先輩がくるりと身体を反転させた。どうやら、ついてこいという意味らしい。
お互いに無言のまま、中央階段から屋上へと続く階段を上る。そこにある扉の鍵が壊れていることは、女の子の間ではわりと有名な話だ。
まるで、秘密基地へ繋がる細い道を進んでいる気分のよう。
一段一段踏み進めるにつれ、終点へ近づいていく。外と内を隔てる扉の先にあるのは、開けた行き止まりだ。
だから、たぶん。
わたしも、せんぱいも。
きっと、彼女とこの先深く交わることはないだろう。
なんとなく、そんな気がした。
* * *
立てつけの悪くなった扉をぎっと開くと、空との距離が狭まった。快晴の下、吹き抜けていく風がうっすらと汗ばんだ肌に心地よい。
そんな中、一歩前を歩いていた相模先輩がわたしに向き直った。
「……あんたさ、あいつと付き合ってんでしょ?」
「はい、今も超ラブラブです」
「いや、別にそこまで聞いてないんだけど……」
間を空けずに答えると、相模先輩の顔がひくっと引きつった。あれ、おかしいな。一言余計だったか。
「一体、あいつのどこがいいの?」
「……は?」
わたしはともかく、先輩のことをバカにするとは。ついつい冷たい声が出てしまった。
「な、なによ……聞いただけじゃん……」
自分で思うより迫力があったらしく、相模先輩がひっと身体を後ろにのけ反らせた。わたしは素直な反応しただけなのに、まったく失礼な。
……でもまぁ、ちょっと大人げなかったかも。未だ幼い部分が残る自分に反省しつつ、唇に人差し指を当てながらうーんと小首を傾ける。
「いいところ、ですか……」
せんぱいの顔を思い浮かべ、頭と心の隅から隅まで確かめてみる。
「……たぶん夜になっても終わらないと思いますけど、それでも聞きます?」
「うちが真面目に聞いてるのに、あんまふざけないでくんない?」
正直に言ったのに、なぜか怒られた。なんでだ、理不尽すぎる……。
にしても。
相模先輩は、どうしていまさらせんぱいのことを知りたがっているのだろう。
「……ていうか、なんでそんなこと聞きたいんですか?」
切り返すように尋ねると、相模先輩が気まずそうにふいと目を逸らす。……はっ! もしかして泥棒猫!? ……や、ないな。
「別に。あんたなら男に困ることなさそうなのに、なんでよりによってあいつなのか気になっただけ」
なるほど。話はだいたいわかった。
一月前にせんぱいと恋人になってから、ちらほらと噂されるようになり。おそらく、それを耳にして。ただあの時と違い、敵意や悪意といった否定的な色にはまみれてなくて。それで、噂の真実が知りたくなって。
だったら、わたしと相模先輩はこの場において対等だ。
「あの、逆にお聞きしてもいいですかね?」
「……なに?」
「去年の文化祭で、せんぱいは何をしたんですか?」
わたしの問いかけに、相模先輩が俯きながら唇を噛みしめる。スカートを握る拳は固く、未だ相当に根が深いことがわかった。
当時は、まったく興味のなかった舞台裏。奉仕部と関わりができるまでは、まったく知らなかった関係図。それを全部語ってはくれないだろうけど、また一つ、せんぱいのことを知るきっかけになれば。
「……うちは、あいつに酷いことを言われた」
しばらくの空白が続いた後、相模先輩がようやく口を開いた。その声は上ずっていて、かすれ気味で。喉の奥からなんとか言葉を絞り出したような感じだ。
「具体的には?」
「………………言いたくない」
「……そうですか」
相模先輩のメンタルが弱いのか、せんぱいの言葉があまりに辛辣だったのか。どちらにせよ、相当こたえているらしい。その様子からこれ以上は望めそうにないので、わたしはどうしたものかと吐息を漏らす。
すると、相模先輩がふと顔を上げた。
「うちは、今でもムカついてる。だから、あいつなんかと付き合ってるあんたも気に入らない」
わぁー、直球。まぁ、おかげでぴんときたけど。
わたしは、せんぱいに救われた人間だ。ただ、同じ境遇のはずの相模先輩と決定的に違う部分がある。印象の奥にある認識のズレがあるからこそ、勘違いしてすれ違う。結果、食い違ったまま交わらない。
きっと、一歩間違えば。あの冬の日に、歯車が噛み合わってなかったら。
わたしも、相模先輩と同じ思いを抱いていたかもしれない。
巡り合わせに感謝しつつ、時間差で問いかけの答えを返す。
「……わたしがせんぱいを選んだ理由、でしたね」
そんなの、決まってる。
今もずっと追いかけ続けているのも、好きになれたのも。
知りたくなれたのも、理解したくなれたのも、真剣に向き合えてこれたのも。
付き合い始めて、もっと大好きになれたのも。
全部、全部、せんぱいだから。せんぱいだったから。
「たぶん、言ってもわからないと思いますけど……」
見下すように目を細め、相模先輩がわたしを睨む。でも、そんなのはお構いなしだ。だって、それが真実だから。問いかけに対する言葉は、わたしの嘘偽りない本音だから。
「せんぱいは、自分の手が届くところには誰よりも優しいんです。自分を犠牲にしてまで必ず守ってくれます」
誰よりも狭い優しさに、何度救われてきただろう。
誰よりも不器用な手に、何度守られてきただろう。
わたしには、痛みを一緒に受け止めてあげることしかできないけど。それでも、せんぱいの痛みがちょっぴり和らぐのなら。ぼろぼろになった心と身体を、少しでも癒してあげられたらって。
そのために、わたしは伝えるんだ。伝えたいんだ。
遠まわしでも、遠回りでも。
あの人が、そこにいた証を。
誰かを守ったことでついた、確かな傷痕を。
「だから、相模先輩もせんぱいに救われたんですよ、きっと」
強い感情の込められた瞳同士がぶつかる。なのに、見ている景色は間違いなく別々で。
「……うち、あんたに名前言ってないよね」
肯定も否定もせず、わたしはくすりと一つ笑う。瞬間、相模先輩の目つきがより細まった。
「やっぱりあんたも……ムカつく」
くるりと身を翻し、相模先輩がわたしから離れていく。でも、最後に吐き捨てた声には最初ほど嫌な感情が込められていなかったように思う。
なら、わたしと相模先輩の始まりは。
もう、ここで終わりだ。
そうして、複雑な心境のままほっと一息つこうとした時――。
「ここか?」
錆びついた扉が開かれ、話題に挙がっていた人物が乱入してきた。
「…………」
「え、相模?」
そのせいで、ちょうどこの場を離れようとした相模先輩とばっちり目が合ってしまっている。
……さすがにタイミング悪すぎませんかね。や、わたしを心配して探しにきてくれたのは超ポイント高いけど。ていうかもう上限を振り切りすぎてせんぱい以外にときめかないまであります。
「……ねぇ、そこ、どいてくんない」
「あ、ああ……」
「…………っ」
一瞥もくれず、かと思いきや。
道を譲ったせんぱいを横目で見ながら、相模先輩は階段を下りていった。ただ、口元が一瞬だけかすかに動いた気がする。
そのせいだろうか。
今はない相模先輩の後ろ姿に、せんぱいの視線が固定されたままだ。わたしが駆け寄っても、抱きついても、それは変わることがなかった。
うーん。
なんか、やだ。
……すごく、やだ。
だって、わたしが目の前にいるのにー!
「せんぱいは、わたしだけを見てればいいんですっ!」
「おい、いきなり引っ張るな……んむっ」
ちょっとしたやきもちから、独り占めしたくなって。
わたしは、せんぱいの制服の襟元を掴んで引き寄せ、強引に口付けた。
相模先輩に、どんな心境の変化があったのかはわからない。
でも、たとえそうだとしても。
――せんぱいは、渡さないもん。
原作やアニメだとまったく接点がない二人なので、焦点をあててみるべや。
そんな発想から書いてみたお話です。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!