* * *
六月の終わり。
うっすらと汗ばむくらいだった気温はさらに上昇し、空から照りつける日差しは道路のアスファルトをじりじりと焦がす。
手にしたハンカチでときどきおでこの汗を拭きながら、今となってはすっかり通い慣れた道をぺたぺた歩く。視界の先はもやもやと揺らめき、サンダルを履いたわたしの足元でも無機質なコンクリートが確かな熱を放っている。
今日は一段とあっついなぁ……。
炎天下のせいか、普段よりも目的地までの距離が長く感じてしまう。身体と心の不快指数が天井なしに上がり続けていく中、黙々と足を進める。
時間にして、駅から数分。わたしの体感では、数十分。ようやく見えてきた一角に、ふーっと大きく息を吐いた。
駅前の大通りの喧騒から外れた、閑散とした住宅街。夜になるとどこか寂しげな感じを醸し出すこの雰囲気が、わたしは結構好きだ。遠くに見えるコンビニの看板も、塗装が剥げて少し錆びている標識も、今はもう頭にはっきりと焼き付いている。
そのまましばらく歩いて、すっかり通い慣れた一軒家のインターフォンを一切の躊躇なく押す。直後、玄関の戸を挟んでどたばたと騒がしい物音が耳に届く。
あー、小町ちゃんだなこれは……。
「いろはさん、いらっしゃいませー!」
「小町ちゃん、こんにちはー」
勢いよく扉がばんっと開かれ、小町ちゃんがにこぱっとした笑顔でわたしを迎えてくれた。
「ささ、あがってください」
「はーい、お邪魔しまーす」
中に入ってサンダルをよいしょと脱ぐと、すぐに小町ちゃんがスリッパを出してくれた。ほんとよくできた妹さんだなぁ……。でも将来そんなこの子はわたしの義妹に……や、さすがにまだ気が早すぎるか。
「兄ならたぶん部屋で寝腐ってると思いますので、叩き起こしちゃってください!」
「あ、あはは……」
叩き起こしてもいいけど、怒られるのはわたしなんだよなぁと苦笑しつつ。
気を利かせて一階に残ってくれた小町ちゃんに促され、とんとんと階段を上る。一段、また一段と上るたび、わたしの弾む心を表すかのように軽快な足音が床板を鳴らす。
二階に上がって目的の場所へ一歩、また一歩と近づくたび、一段、また一段と、胸のどきどきが早まっていく。
そうして、猛暑の中を潜り抜けてやっと見えた扉。わたしのほっぺたはふにゃんと緩む。
髪とか大丈夫かな……? メイクや服も変じゃないかな……? 恋する乙女特有の不安に陥りながらも、その隔たりの前に立つ。
「せんぱぁ~い、来ましたよ~」
けど、扉の奥から返事はない。わたしのテンションは一段階落ちた。
「せんぱーい? 来ましたってばー」
併せてこんこんとノックしてみたものの、やっぱり返事はない。わたしのテンションはさらにもう一段階落ちた。
あー、朝まで本読んでたりしたパターンかなこれは……。しょぼくれつつ、ドアノブに手をかけそーっと扉を開く。すると、空いた隙間からひやりとしたエアコンの冷風が流れてきた。他には机に突っ伏して寝ているらしき先輩の姿。
……風邪引いてないといいんだけど。
ドアを開けたことでできた小さなスペースにんしょっと身体を滑り込ませ、そろりそろりと近づく。さてさて遅くまで一体何読んでたのかなーと投げ出されたままの手元を見ると。
「……せんぱい、お疲れさまです。あと、ありがとうございます……」
わたしの目に飛び込んできたのは、二つ。
一つは、自分の受験用に広げられたノート。克服しようとしているのか、文系科目だけじゃなく苦手な数学関係の参考書も一緒に積み重ねられていた。
そしてもう一つは、わたしのためにまとめたと思われる、二年次の期末試験対策用のメモ。わざわざ引っ張り出してきたのか、せんぱいが当時使っていたらしきノートもいくつか見受けられる。
ベッドの隅に丸まっていたタオルケットをわたしは手に取り、それを優しく、せんぱいの肩にかけた。
「……寝顔、可愛い」
普段からは想像もつかないほどあどけない顔立ちに、思わず手を伸ばしてしまう。……なんかこうやって見ると、せんぱい、子供みたい。
……頭、撫でちゃおっかな。
あーでも、でもでも……!
ううっ……。
……だめだめ! 今日は我慢するの!
甘い誘惑にふるふるとかぶりを振って、机のある側とは反対側の壁に向かってとてとて歩く。そうして壁に立てかけられていた折りたたみ式のテーブルの脚を持つと、そのままゆっくりと床に着地させた。
さてさて、お次はっと。
肩にかけっぱなしだったショルダーバッグを床に置き、持参した教科書やノートと筆記用具を中から取り出し、テーブルの上にぱたぱたと広げて準備を整える。
そこでわたしは一旦振り向き、猫背のちょっぴり頼りない背中を名残惜しむように、じーっと見つめる。
……やっぱり甘えたいなぁ。
ちょ、ちょっとくらい……。
いやいや、我慢我慢……。今日は勉強するために来たんだし……。
……よしっ、頑張ろっと!
雑念を振り払い、改めて意気込んだわたしはペンをぐっと握った。
時計の針はかちこちとした音を刻み、冷たい風を吹きつけるエアコンは物静かに機械的な音を立てている。二つの規則正しい環境音に挟まれながら、わたしは文字をノートに書き連ねていく。
ここで勉強を始めてから、一時間くらいは経っただろうか。さすがに集中力も切れかけてきたので、組んだ両手を上へ伸ばし、んんっと背伸びする。
「ふいー……」
「ん……」
溜まった疲れからつい吐息をこぼすと、それに反応したのか、背後から呻く声が聞こえた。ずっと聞きたかった声にわたしはノータイムで振り返り、意識も視線も全力で注いでしまう。
のそっと上体を起こし、気だるげにせんぱいが首をこきこき動かす。そりゃあんな体勢で寝てたらなぁ……。
数秒の間の後、わたしに気づいたせんぱいはごしごしと瞼をこする。
「……ん、ああ、もう来てたか。悪い、完全に落ちてた……」
「おはようございます、せんぱい」
起きるには起きたんだろうけど、まだ相当眠そうだなぁ。目は半開きだし、まばたきはゆっくりだし。
「……ちなみに、今何時だ?」
「もうすぐお昼ですよ」
「マジか……。その、すまん……」
「あー、気にしなくていいですよ」
……や、ほんとはすっごい寂しかったけど。今もすっごい甘えたいけど。でも寝落ちしちゃうくらい頑張ってたせんぱいを見たら、わたしももっと頑張らなきゃって思ったから。
今すぐ飛びつきたい衝動をなんとか抑え、すっくと立ち上がる。
「せんぱい起きましたし、先ご飯作っちゃいますね」
「ん、頼む。……いつもありがとな」
「いえいえー。じゃあ、キッチンお借りしますねー」
せんぱいと付き合い始めてからはわたしたっての希望で、こうしてよくご飯を作っている。お休みの日にここへ来た時もそうだし、学校がある時だってちょくちょくせんぱいの分のお弁当も作ったり。
全然やる気が出なかった料理も、おいしそうに食べてくれるせんぱいを想像するだけで今は途端にやる気になってしまう。ほんと、恋の魔力って不思議。
ふんふんと上機嫌で一度一階に下り、リビングへと繋がるドアを開く。
「小町ちゃんー」
「およ、時間的にアレですかな?」
「うん、またお願いしたいんだけど……」
「了解です! 小町にお任せあれー!」
わたしの意図を即座に汲み、びしっと敬礼する小町ちゃん。う、うーん……やっぱりわたしと似てるよなぁ、そういうとこ……。
* * *
もうすっかり使い慣れた二階のキッチンで、てきぱきと調理を進めていく。
今日作るものは、冷やし中華。季節的にもちょうどいいし、それが一番せんぱいに喜んでもらえそうだったというのが理由だ。……冷蔵庫の中身的に。
小町ちゃんに具材を切ってもらっている間、わたしは調味料を混ぜ合わせてタレを作る。とんとん、かちゃかちゃと、二つの物音が楽しげに響く。
そうして作ったタレをスプーンでひとすくい、小皿にとってぺろりと味見してみる。……わたし的にはこれでいいんだけど、小町ちゃん的にはどうだろう。
「ごめん小町ちゃん、お願い」
「あいあいさー!」
小皿を差し出し、今度は小町ちゃんに味見してもらう。
「……どうかな?」
「んー、もうちょっと濃くしたほうが兄好みかなーと」
「はーい、かしこまりですー」
これが、わたしの料理修行に小町ちゃんが必要な理由。
基本的にせんぱいは何を作ってもおいしいって言ってくれるし、残さずに全部食べてくれる。だから、普通に料理を作るだけならわたし一人で充分。でも、わたしはせんぱいの好きな味が知りたい。すごく些細なことも一つ残らず、全部、知りたい。……恋する乙女の舞台裏を見せるのはなんか恥ずかしいから、せんぱいには内緒だけど。
ほんのちょびっと味を濃くしてから、もう一度。たぶん、このくらいで合格点をもらえるはず。
「これでどう?」
「おお、ばっちり……」
やっぱり。小さくて大きな正解に、自然と口元が綻んでしまう。
「短い時間でここまでとは……やりますねー、いろはさん! あー、ほんとお兄ちゃんにはもったいないくらい素敵な彼女さんだなぁ……」
…………。
……せんぱいの、彼女。
わたしが、せんぱいの、恋人……。
「……ふへへ」
「いろはさん、いろはさんや」
意識の外から聞こえてきた小町ちゃんの声に、はっと我に返る。
「……わたし、今、顔に出てた?」
「とっても幸せそうな顔をしておられました」
またやらかした。一体これで何回目だ。
反省ついでに、両手で自分のほっぺたをあうあうぺちぺち叩きながら数えてみる。
一、二、三、四……。
……え。
毎週毎回とか……。
…………。
「待って待って待って待って待って」
思わず声が出た。声に出た。ああもう恥ずかしい泣きたい穴があったら今すぐ入りたい飛び込みたい潜りたい埋まりたい。
あまりの失態の多さに、いやいやうりんうりん身体をくねらせていると。
「おうふ……」
ふと聞こえてきた、妙な吐息交じりの声。不思議に思い瞳をちらり動かしてみると、小町ちゃんはおでこに手を当てて身体を後ろにのけ反らせていた。心なしか、くらくらしているようにも見える。
「ど、どうしたの……?」
「ああいえ、お気になさらず。兄と同じ気持ちが小町にも芽生え始めてきたってだけですから」
「えっ、せんぱい? ……えっ? どういうこと?」
「いろはさん」
「うん?」
「将来はぜひとも小町のお義姉ちゃんになってください」
「へ……? あ、うん……」
わたしとしてもそのつもりではあるけど……って、そうじゃなくて。
さっきの言葉の意味を聞こうと思ったものの、話はおしまいとばかりに小町ちゃんがぐいぐい背中を押してきた。
「ささ、この調子で残りも仕上げちゃいましょう」
「う、うん……」
はぐらかされた挙句、無理やり話を流された。
……なーんか、なーんかなぁ。
小町ちゃんに頼まれ、一度キッチンを離れて自室待機しているせんぱいを呼びに行く。わたしがいない間に顔くらいは洗ってくれただろうから、二度寝してたりはない……はず。
廊下へ出てすぐ、実質目の前に近い扉を開き、空いた隙間からひょいっと中を覗き込む。
「せんぱーい、起きてますかー? ご飯できましたよー」
「おお、今行くわ」
わたしの声に、せんぱいが読んでいたラノベをぱたんと閉じる。……なんかこうしてると新婚さんみたい。今はまだ無理だけどいつかは……なんて。
幸せな未来を勝手に描き膨らませつつ二人揃ってキッチンへ戻ると、テーブルの上に移された冷やし中華を残して小町ちゃんはいなくなっていた。
……いつもありがとね。
毎回気を遣ってくれる小町ちゃんに心の中でぽしょっとお礼を言った後、わたしは恋人と二人きりの時間をめいっぱい楽しんだ。
* * *
窓から降り注ぐ日差しがいっそう強まった、昼下がり。
お昼ご飯を食べた後は、中断していた試験勉強を再開した。たださっきと違うのは、せんぱいがすぐ後ろにいることと、そのせいでわたしの集中力が散漫になっていることだ。
「……さっきからどした」
「あ、いえ、なんでも……」
ベッドのフレームに寄りかかってラノベを読んでいたせんぱいが、定期的にちらちらと向けられるわたしの視線に訝しむ。
……甘えたい。
甘えたい甘えたい甘えたい甘えたい!
ハグもキスも何もかも足んない! せんぱい成分が圧倒的に足んない!
……でもでも勉強がぁ。テストがぁ。
ううっ……。
内心でうだうだ葛藤するわたしを見かねてか、せんぱいがはぁと一つため息を吐く。おっ、もしかして……?
「……いろは」
「はい!」
「手、止まってる」
「……はい」
鬼! 悪魔! わたしが今どんだけ甘えたくなってるか知ってるくせにー! ……けど、自分で決めたことだしなぁ。
仕方なく、しぶしぶ諦め、手元の教科書とノートに意識を戻す。表では頬を、裏では不満をぷっくり膨らませつつ。
かちこち。
かりかり。
ぺらっ、ぺらっ。
時計の針の音、わたしがペンを走らせる音、わたしとせんぱいがページをめくる音。規則的な環境音と不規則な物音が、エアコンの冷風に包まれた部屋の中で反響する。
つい浮気しがちな集中力ながらも、一ページ、一ページと進めていく。ゆっくり、確実に、試験範囲の終わりまで近づいていく。
……よしっ、もうちょっと。ようやく見えてきた終わりに、あと一息と鼓舞してラストスパートをかける。
かちこち。
かりかりかりっ。
ぺらっ……。
「終わったー! ……あれ?」
なんとかゴールまで辿り着いた瞬間、喜びと開放感のあまり叫び声をあげてしまった。けど、跳ね返ってきた音はわたしの声だけで。
不思議に思い、はてと視線を後ろに向けてみると、そこには。
「…………」
くてりと身体を崩れさせ、片手に本を携えたまま、くうくうと寝息を立てているせんぱいの姿があった。寝るつもりはなかったことを体勢が物語っているくらい、明らかな寝落ちだった。
……これは、もしかしなくてもチャンスなのでは。
手にしていたペンをていっと机の上に転がし、足音を殺して近づいてみる。
「せんぱーい……?」
距離を大きく詰め、耳元で小さく呼びかけた。けど、反応はない。わたしのテンションは一段階上がった。
「せんぱぁ~い……?」
ちょんちょんと肩を突っつきながらもう一度呼びかけてみたものの、案の定せんぱいから反応はない。わたしのテンションはさらにもう一段階上がった。
「……やっぱり寝顔、可愛い」
視界いっぱいに映る、二回目のあどけない寝顔。……あーもうたまんないっ!
これはしょうがない、これはしょうがないとよくわからない自己暗示をかけつつ、我慢できなくなったわたしはおそるおそる手を伸ばす。
ぷにっ。
……わー、ほっぺた柔らかいなぁ、せんぱい。
つんつん。
ぷにぷに。
「……ん」
くすぐったいのか、指の感触から逃げるようにせんぱいが反対側へ顔を背ける。……ほんと可愛いなぁ、もう!
わたしはたまらず、逸らしたことで大きく広がったその部分へ唇を落とす。かすかな水音を伴って触れた直後、胸の奥からじんわりと愛情が込み上げ、溢れ出してきて。
「大好きですよ、せんぱい……」
無意識に、完全に緩みきった口元から、そのままこぼれていった。
わたしはせんぱいの隣に並んで座り、近くに丸めてあったタオルケットをよいしょと掴む。そしてそれを、優しく、包み込むように、自分とせんぱいの身体にかける。
「えへへ……」
心が満たされていくのを感じながら、わたしはゆっくりと瞼を下ろし、目を閉じた――。
本編から引き続きご覧下さった方、お久しぶりです。
初めてご覧下さった方は、初めまして。あきさんと申します、どうぞお見知りおきを。
いろはの誕生日に合わせて投稿しました。
この平和で幸せな感じ、久々。超久々。
不定期ではありますがまたふらっと投稿しますので、気長にお待ちくださると幸いです。
ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!