周囲の情景が一瞬にして変わる。私はこの感覚を知っている。だが、ひとつ違うのは周囲の風景が違う事。あの赤くて暗い地下室では無い。白い壁に木製の床、そして正面には黒い外套を羽織ったお兄様。
「お兄ちゃん?」
こいしも連れてこられたようで周囲の変化よりも先に私達に背を向けるお兄様に対して読心を続けていた。サードアイから垂れた血が床を赤く染める。痛くはないのだろうかという単純な疑問が今更湧いたが、今はそれどころではない。この能力は時間停止。咲夜、紅魔館のメイドの能力だ。お兄様が使えるはずが...
「ちょうど良かった。フランはこの能力は経験があるみたいだね」
口調が違う...?少し後ずさりして右手に目を集中、すぐ能力が発動するように構える。サードアイに見られていないはずなのにも関わらず、心が読まれた。外套の下に隠れている可能性もある、それでも完全に見えない事なんてあるのだろうか?
「フランちゃん...大丈夫。わざとやってるみたい」
横で血涙を流すサードアイをフランに向けたこいしが手で能力を切るように伝える。それに無言で頷き、フランは能力を切った。
取り敢えずの不安は去った。だけれど。
「突然だけど。こいし、フラン、協力して欲しい」
「内容は?」
当然だろう。来ると分かっていた必然的な問い。だが、うまく言葉にする事が、今の彼には出来なかった。
「......」
3人の間に静寂が続く、外では怪我人なのか病人なのか、それとも虚偽の患者なのか。救急車がサイレンを鳴らし走っていく。音が遠ざかり、残響を残し、それすらも消えた後。彼は遂に口を開く。
「さとりが記憶を失った。恐らく俺が死んだという事実に耐えるために精神が保護のために行った自然的な現象だ」
フランとこいしはあまりにも軽く伝えられたさとりの現状に目を見開くが、彼は淡々と続けていく。
「俺は能力を使って、さとりの記憶を戻そうと思う。その際に、記憶を少し弄って俺の身体能力を身につけさせる。その方が俺が護る上で楽だと判断した。そこまでは良いがここで問題が発生した。記憶をいじるのは精神に大きな負担が掛かる。誰かが付きっきりで診ておく必要がある」
「どうやって?」
単純な疑問だった。覚妖怪は記憶を読むことはできても記憶の変更は出来なかったはず。そんな事が既に出来るなら、能力の強化が終了しているということになる。けれど、八雲紫は彼の能力をなにかを犠牲に物体を変更する程度の能力と言っていた。どちらの能力を使ったとしても記憶は物体では無いし、読心は変える事はできない。となると...既に彼は、本来異形と化すレベルまで進行しているということになってしまう。
「鋭いな、フラン。その通り、お前の想像以上に俺はもう長くはない」
苦い苦笑を浮かべている彼を見て、フランは背筋に寒気が走る。異形化すればもうどうなるかわからない。なのに何故、彼はあんな表情を。今思えば、初めて戦ったあの時、彼は吸血鬼の私の攻撃を正面から受けたのにも関わらず、痛みに苦しむような事もなかった。ただ、冷静に傷を治し、向かってきた。表情も変える事なく。
「そこまでだ、フランドール・スカーレット。それ以上は辞めろ、お互いに一切得がない」
「お兄様...」
気づいてしまったか。
横目に表情の曇ったこいしを収めつつ息を吐く。まぁ、構わない。俺は俺の役目を果たすだけだ。それにもう、俺の何を知ろうがあまり関係はない。
「俺はそれまでに下準備をしておく。外の知識は既にお前らの記憶に入れておいた。いつ帰れるかわからないが、それまで待っていてくれ」
こいしに鍵を投げ渡し、それを受け取ったのを見て自らの座標を変更。幻想郷に飛ぶ。
場所は変わって幻想郷。
「あれが本当に、秦 空なの?紫」
「間違いないわ」
少し時は遡り、通常よりも多くの結界で囲われた博麗神社でスキマから秦 空の戦闘を眺めていた八雲 紫と博麗 霊夢。依姫、豊姫、藤原妹紅、八意永琳、蓬莱山輝夜。最強の面子と言っても差し支えないほど強力な面子だった。それが、これといって苦戦させる事もできずに撃墜。その後に現れたレミリア・スカーレット、パチュリー・ノーレッジ、十六夜咲夜、紅美鈴は不意打ちに成功、能力の封印まで成功したにも関わらず撃墜された。どうやら彼に殺す気は無かったようで、全て殺すまでは至っておらず。医師である八意永琳に関してはほぼ無傷だった。裏を返せば、それだけ余裕があったという事だ。
「月のあいつらでもあんなやられ方するのに、私達で勝てるの?」
博麗神社の巫女にして幻想郷最強と謳われる彼女でさえ、依姫と豊姫には敵わなかった。その2人がああも簡単にやられればいつもは気丈な彼女でも幻想郷の未来を憂い、少し弱気になるのも仕方がない。
「取り敢えずは、まだ敵ではないようね」
あの感じだと、殺そうと思えば簡単に殺せた筈。それにあの最後の消え方。恐らくは時間停止。十六夜 咲夜の能力に自らの能力を変化させたとしても能力で時間ごと止めたとしても、異形化の侵攻はかなり進んでいると見て間違いない。時間ごと変更で止めたとすれば既に、生と死を変更してくる可能性も十分高い。最も恐るべきはそれだ。死を生に変更されれば、死人が蘇り、生を死に変更すれば、誰一人として彼に敵対すら出来なくなる。不老不死すら変更されれば意味を成さない。だが、最も恐ろしい使い方は死という概念を変更して無くす事。それだけはさせてはいけない。
勝算がなくなるなんてレベルの話ではない。単純な怪物の誕生だ。そんなものが生まれれば、幻想郷どころか世界が危うい。
例え、核の雨を浴びようと、溶岩に沈めようと、宇宙空間に飛ばそうと、死ぬ事はない。そんなもの、止めれるものはない。
「彼の理性と彼の異形化、どちらが勝つかによって全てが決まるわね」
「でもあの感じだと異形化は既に...」
「分かっているわ」
倒すだけであっても能力を乱用すれば楽に出来た筈だ。それなのに何故、能力を使う事を極力避けたのか。
彼の真意に触れかけた時。空気が突然凍った。何が起きたのか理解する前に、闇色の外套を羽織った少年が現れる。あまりに濃い鉄の匂い。彼の外套をからは赤い血が滴っていた。
「ああ、その通りだ」
「一体どうやって入ったのかしら?」
後ろに跳びのき、霊夢をスキマに詰める。完全に入り、スキマが閉じるまで庇った後に彼に向き直る。
「俺のいる座標を変更した」
「とんでもないわね。でも、会話の成立する辺り案の定大丈夫と踏んで良いのかしら?」
血に濡れた外套、顔すらあげない少年の一挙手一投足に警戒し、八雲 紫は質問を投げかける。理性が既に無いのなら、今は逃げる他ない。
「ああ、異形化は恐らく理性を消して感情を暴発させるものだ。見た目の変化は正直おまけと言ってもいい。そして、これ以上異形を殺す事は意味がない。無尽蔵に増えすぎだ。死肉に集ったハエすら異形化していた。俺の殺すスピードでは追いつかない。殺しきる前にどう計算しても俺の理性が尽きる」
外套から血を零しながら彼は続ける。
「俺の能力は何かを犠牲に物体を変更する程度の能力、それとサードアイによる読心だ。俺はこれまで体力を使って前者の能力を使用して来た。だが、異形化によって体力ではなく強制的に理性を使わされている。通常なら理性は回復するが、異形化の影響で一度理性が無くなればそれは補えない。もっと早くに気づくべきだったが、既にかなりまずい状況まで来ている」
「自分の本来の能力まで理解したのね。まぁ、いいわ。それは具体的にどれくらいかしら?」
既にまずい状況とは言ってもどれほどなのかは分からない。既に血に濡れた外套を変更しないあたりそこまで危険なレベルまで来ている可能性もある。
「俺も分からない。というのが答えだ、理性は確認のしようがない。だが、俺が体を人間態に戻した時の異形化の侵食具合で判断できると思っている。外の異形で人間や妖怪の姿を留めたままのものは居なかった。予想でしか無いがな」
「既にどの程度まで進行しているのかしら?」
少年は無言で外套を落とす、布の落下音とは異なる肉塊が落とされたような鈍い音がし、彼の体が露わになる。右の眼球は赤く染まり、右腕には既に人の名残はなく、黒い鱗で覆われていた。足は隠れて見えないが、既に右半身は異形化していると捉えて問題無いだろう。
「さっきの戦闘で修復に使わされたのがマズかった」
「想像以上ね。で、何か策はあるのかしら?このままだと幻想郷は壊滅するわ。あなたに策が無いなら私達も最終手段に出る他ないのだけれど」
一体最終手段とは何なのか、少し気になったが敢えて触れずに心も読まず放っておく。
「古明地 さとりの記憶を弄って戦闘力を俺と同等まで引き上げる。その上で、俺に関しての記憶を消して、俺も名を変え、さとりに従僕する」
「同じ覚妖怪だからいけるだろうという事かしら?けれど、古明地さとりは貴方と違って武器は作れないわよ。貴方が従僕するからといって貴方の強みの武器の無限生産は出来ないわ。それに、貴方はイレギュラー、古明地 さとりにはきっと貴方の代役は務まらない」
「それに関しては俺が作る。従僕としての役割としてな。物体から物体の変更なら消費も軽い。肉体面も変更して筋肉量も俺と全く同じにする」
「成る程、確かに。それが成功すれば、まだ抵抗は出来るかもしれないわ。けれど、わざわざ貴方に関しての記憶を消す意味はあるのかしら?」
彼は異形化した右目を瞑るとのんびりと口を開く。外では相変わらず人の形を、元の形を失った肉塊の悲鳴が、嬌声が、欠伸が、響いている。
「さとりは記憶を失った。そのトリガーは俺が死んだか異形化したからと確信したからだった。俺に関しての記憶を何とかしない限り戻しても俺の姿を見た瞬間にまた記憶が飛ぶ可能性がある。そこまで膨大な量の記憶の変更は消費がキツイ筈だ。一度でも失敗すれば俺が異形化する可能性がある。それはお互いに避けたいだろう?」
「そうね。でも、貴方はそれで良いのかしら?彼女は貴方のことを愛してくれていた筈よ。それに貴方も彼女のこと嫌いではないんでしょう?」
異形化した目を開き、体の後ろから半分鱗に覆われて、異形化の影響が色濃い歪なサードアイを回してくる。そして彼は苦笑した。
「これは英雄の武勇譚じゃ無いんだ。八雲 紫、これは罪人の贖罪譚、1人の少年の罪滅ぼしなんだ」
紫は悲愴を顔に浮かべるが、口には出さず、ただ受け入れた。そうする他無かった。
「そう...わかったわ。貴方、名を変えると言っていたわね。何にするの?」
少年は考えていなかったようで頭に手を当てて考えるが、少しすると軽く頷く。
「エルドラで行こう。これ以降俺はこの姿でいる事はお前らへの連絡以外無くなる。さよならだ、八雲 紫。幻想郷は、彼女の居場所は俺が必ず護ってみせる」
このさよならの意味を、八雲 紫は直感的に理解していた。これまで幾人もの人々、妖怪が戦場に出向く所を、死に至る所を見てきたがこれはもう...帰ってこれないと確信している者の顔だ。死を、覚悟している者の目だ。
「ええ、短い間だったけれど、また話せる事を祈っているわ。秦 空」
もうないと、分かっていての返答。ここで、彼の心配をするのは無粋だ。彼は既に覚悟を決めていた。もう、誰が何を言っても止まらない。
「ああ」
一言残すと、彼は再度座標を変更。こいしのいる場所へ飛ぶ。
「話がついた。今からさとりの記憶を変更する。ただ、その時に俺に関する記憶は全て消す事にした。そして俺はもうここに戻らない。さとりだけは戻すが」
「え?」
余りにも残酷過ぎる結論。
さとりは彼を愛してしまっていた。だが、それが裏目に出るのなら。この物語をハッピーエンドにする為に邪魔なら排除すべきだ。
「お兄様はそれでいいの?」
フランが慌てて彼の決まっていた決断を変えようと足掻く。
「ああ、これが俺の決断だ」
「お姉ちゃんは?」
ソファに腰掛けていたこいしが背を向けながら口を開く。
「お姉ちゃんは、どうなるの?お兄ちゃんは良くてもお姉ちゃんは良くない。だってこんなの酷いよ。外で皆で幸せに暮らせば良い!幻想郷の奴らは酷い奴らばっかりだった。お兄ちゃんが異形から戻る方法もきっとあるよ!」
たしかにその通りだ、だが。
「すまない。それは、出来ないんだ。俺は幸せに暮らせない。いや、そんな資格はないんだ」
こいしがソファから立ち上がりうつろに詰め寄り、涙で潤んだ瞳で彼を見据える。
「みんな幸せに暮らす資格はあるよ!何でそんなこと言うの?」
彼はこいしを見返すと苦笑い。古明地 こいしの翡翠色の髪を撫でると静かに語る。彼の過去を、彼の罪を、彼の贖罪を、彼の揺らぎと共に。