思いのほか僕もいた街   作:久路土 残絵

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マイベスト雛月はEDテーマ『それは小さな光のような』のアニメ版ジャケットの雛月です。


それぞれの足跡

 宙を漂う斑点は空の境界を曖昧にする。

 

 ぽつりぽつりと降り注ぐ雪が肌に触れては消えていく様はどこか儚げだ。

 

 大人になると煩わしいばかりだった雪なのに、今どこか気分が高揚しているのはやはり肉体に精神が引かれているからだろうか。

 

 

 

「悟?大丈夫?」

 

 

 

 隣を歩く少女ーー雛月が案ずるように眉を垂れ呟いた。

 

 その瞳には色濃い不安が表れていて、それは目覚めてからというもの母さんがよく浮かべる色だった。

 

 

 

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。 初めての中学校だからさ緊張してたかも」

 

 

 

 僅かばかりの嘘。

 

 けれど、雛月の表情は和らいだ。

 

 それどころか喜んでいる様にさえ見える。

 

 

 

「どうかした?」

 

 

 

 予想より大きな反応をした雛月に、俺は生まれた疑問を投げ掛けた。

 

 けれど雛月は「ううん。なんでも」とだけ答えて口を噤む。

 

 僅かに残るモヤモヤ。しかしそんなものは

 

 

 

「やっぱり、ランドセルもったげよっか?」

 

「いいよ、もう結構体力戻って来てるから。それに俺は男だぞ。そんなみっともない真似できない」

 

「でも、今腕相撲したら多分私が勝つべさ」

 

「うぐっ………」

 

 

 

 他愛もないやり取りを繰り返す内、熱に溶かされ消えていく。

 

 

 

 中学校への通学路は、小学校と比べるとかなり長い。

 

 三年前は「違和感」を追うことに精一杯で、町並みを見て歩く事なんてしなかった。

 

 だからだろう。昔、歩く度に憂鬱になったこの道も何処か目新しいものの様にさえ見える。

 

 登校中、存分にある時間で雛月は色々な事を話してくれた。

 

 新雪を踏み歩きながら、俺は雛月が語るみんなの足跡を心に刻んでいく。

 

 ケンヤのノートにも色々と書いてあったけれど、アレは日記と言うよりは捜査手帳だ。また趣が違う。

 

 眥を垂らす俺に雛月は小さな口で早口に、矢継ぎ早に日常を語る。

 

 オサムとカズが馬鹿やった話、ケンヤが他校の女子に告白されて大変だった話、ヒロミが他校の男子に告白されて大変だった話。そんな他愛のない全てが、それらが雛月の口から語られるという事実が、俺の空白の三年間に意味を持たせてくれるようで、嬉しくて。

 

 

 

『あいつらも変わらないな』

 

 

 

 ふと、そんな八代の言葉を思い出した。

 

 けれど、それは違う。

 

 変わらない筈が無い。皆何かが変わってる。

 

 前に進んで、偶に退がって。俺の知らない何かを積み重ねて。

 

 そうして少しずつ成長している。

 

 目の前の雛月だって変わった。

 

 昔よりも素直で、明るくなって、何よりもよく笑うようになった。

 

 

 

「---」

 

 

 

 今、胸に沸いた感情の中にはきっと置いて行かれた3年間への悲哀も混じっているのだろう。けれど、後悔はない。

 

 失った3年は俺が必然を積み重ねた結果で、力が足りなかった事の代償なのだから。

 

 そして何よりも、これから皆と一緒に変わっていける事への喜びの方が大きい。

 

 

 

「悟。なんかお婆ちゃんみたいな顔してる」

 

「せめておじいちゃんにしてくれ。と、着いたね」

 

 

 

 文字通り時間を忘れ雛月と会話していた俺は、周囲の視線を感じてようやく学校の前に到着した事に気がついた。

 

 ふと、周りを見渡せば、見覚えのある顔が歩いている。

 

 少し仲が良かったやつ、ソリが合わなかった奴いる。しかし、何れも俺のことは覚えていない。

 

 けれど俺は覚えている。

 

 彼らの視線は当然ながら級友に向けるものではなく、奇異の視線だ。

 

 けれど、苛立ちや怒りという感情は無い。

 

 この胸にあるのは感謝だけだ。

 

 俺の入院費。医者がこれ以上は無駄だと匙を投げた俺の命の維持費。それはこの学校で行われた募金活動で賄われていた。

 

 募金活動をしてくれた殆どの人は俺の顔も知らないだろう。単なる学校行事だと、面倒だと思った人も居るだろう。

 

 けれど、彼らのお陰で俺は救われた事に変わりない。

 

 だから、感謝しか無い。

 

 今日の全校集会で挨拶をする事にもなっている。その時、存分にこの気持ちを伝えよう。

 

 しかし、この視線に雛月を晒すのはまた別の話だ。

 

 俺は校内に避難する為に足を早める。雛月とは昇降口でお別れだ。

 

 

 

「それじゃあ雛月(・・)、したっけまた後で」

 

「うん………したっけ」

 

 

 

 俺は手を振り一時の別れを告げると、僅かに不機嫌というか、不満そうな声音が返ってきた。 それは懐かしい声音でもある。俺はなんだか懐かしくなって笑みを浮かべたが、目線の先には、ムッとした顔。やっぱり周囲の視線が気になったのかだろうか。

 

 そうして雛月と別れ、俺は職員室へと向かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 全校集会はつつがなく終了した。

 

 元の時間じゃ壇上に上がって話す事なんて無かったからどぎまぎしたけれど、そこは有って無いような人生経験でカバーした。

 

 何より相手は俺を小学五年生だと思っている。そう思えば気が楽だった。

 

 そんな風に心中でぽろぽろと言い訳を零しながら緊張の余韻に浸っているこの場所は俺だけの特別教室だ。

 

 元は簡易物置として使われていたこの教室。 端には机と椅子が積まれ、やたらと大きな三角定規やコンパスが傘立てのような箱に挿さっている。

 

休み時間に意味もなく友達とここに来て駄弁っていたのを思い出す。ほんの少し埃っぽい、古い木の匂いも何もかもが懐かしい。

 

 徐ろに、古びた学習机を撫でる。

 

 指の腹をくすぐる凹凸は、とりとめも無い落書きが刻まれた跡だ。

 

 俺もしょっちゅう机に漫画描いてたなぁ。

 

 感慨と共に撫でられた机は、足のパーツが欠損しているのか、ガタガタと音を立てて歪みを訴えている。

 

「机くらいちゃんと選んでくれよ……」

 

 この机は後で取り替えることにしよう。

 

「……?」

 

 この思考には既視感があった。

 

 そう言えば「最初」の時間でも俺は自分の机の調子が悪くて倉庫の机と取り替えたんだった。

 

 折角だからヒマを見て、元の時間で俺が使っていた机を探すのも良いかもしれない。

 

 

 

「悟くん」

 

 

 

 そんな事を考えていると俺だけの教室に幼馴染の声が響いた。

 

 振り向くと、戸の隙間からヒロミが覗いていた。

 

 小学生の頃は10人に聞けば9人が女の子だと勘違いするような容姿だったけど、今のヒロミは6人ぐらいに男らしくなっている。

 

 

 

「雛月も一緒か」

 

「……」

 

 

 

 扉の隙間。ヒロミの頭の上からひょっこりと雛月の顔が現れた。

 

 朝の不機嫌顏が治っていない。

 

 また何かあったんだろうか。

 

 教室の中を見渡した二人は、先生が居ないと見ると教室の中に入り、壁際に積まれていた椅子を二脚、俺の机の側に置いて腰掛けた。

 

 

 

「かっこよかったよー」

 

 

 

 と、唐突に言ったのはヒロミだ。多分主語は全校集会での俺の挨拶だ。

 

 俺は幼馴染からの好評に俺は胸を撫で下ろす。

 

 チラリと窓ガラスを見るとドヤ顔の中学生が映った。

 

 調子に乗るな29歳。

 

 

 

「みーちゃんは怒ってたけどね」

 

 

 

 続いたヒロミの言葉に、首をかしげると雛月から「美里」と注釈が入った。

 

 美里は朝の雛月の話にも良く出てきていた。だから何となくは予想していたがアダ名で呼ぶ程に親しくなっていたとは予想外だ。

 

 これも元の時間ではあり得なかったこと。

 

 自然と、頬が綻ぶ。

 

 ちなみに、美里が怒っている件については多分に心当たりがある。

 

 

 

「照れてるだけだべさ」

 

 

 

 件の募金活動は何と美里が言い出した物だというのだ。だから俺は挨拶の締め括りに美里に名指しで礼を言ったんだ。

 

 思えば皆の善意に差を付けるようで良く無かった。

 

 けど、俺は俺で溢れる感謝と緊張でいっぱいいっぱいだったんだ。勘弁してほしい。

 

 

 

 まぁ……後でこっそり謝りに行こう。

 

 

 

 それから少しして時計を見ると、たった十分ばかりの休み時間も終わりだった。間もなく予鈴が鳴るだろう。

 

 それに気が付いたのは雛月達も同様で、腰掛けていた椅子を端に寄せ、教室を後にする。

 

 それを、

 

 

 

「よう、小学五年生!」

 

 

 

 バカでかい声を上げる新たな来訪者が阻んだ。

 

 運動部然とした坊主頭にこんがり焼けた黒い肌は健康的で、ある意味で模範的な中学生像と言えるだろう。

 

 

 

「シンジか……!?」

 

 

 

 その姿を見て俺は思わず声を上げた。

 

 こいつの事は知っているんだ。

 

 篠田慎二。野球部キャプテンで所謂クラスのお調子者でもある。

 

 カズにちょっと似たところがあって結構仲が良かった奴だ。

 

 

 

「な、なんだオメェ馴れ馴れしいな」

 

 

 

 喜色を帯びた俺とは対照的に、口を尖らせたシンジはおっかなびっくりな声を出した。

 

 しまった。一応これが初対面になるのか。

 

 

 

「あのシンジ君。さっきの……」

 

 

 

 どう取り繕うか迷っているとシンジから訝しげな視線を浴びせられた。けれど珍しく眉を潜めて口を開いたヒロミのお陰で注意が逸れた。

 

 しかし、

 

 

 

「んあ?『女男』もいたべか」

 

「……む」

 

 

 

 シンジの性格は直情径行。根は良い奴だが素直すぎるのが祟って、意図せず人を傷つける事がある。初対面で『オメェ暗えな』と言われてムキに騒ぎ立てたのは良い思い出だ。

 

 けれど、今のはダメだ。

 

 ヒロミが容姿を密かに気にしていた事を俺は知っている。

 

 何よりその容姿を理由に、八代の逃走の道具としてヒロミが殺された事が過ってしまう。

 

 

 

「おいシンーー」

 

 

 

 撤回してもらおうとシンジに声を掛ける。が、

 

 

 

「ぐえっ」

 

 

 

 言い終えるよりも先にシンジの顏がタコみたいになった。俺は唖然として目を見開いた。

 

 

 

「取り消すべさ」

 

 

 

 剣呑な声音は雛月のモノ。

 

 そしてその手はシンジの頬を鷲掴みにしていた。

 

 

 

「ななな、なんで加代までここに……」

 

「加代って呼ばないで」

 

 

 

 シンジはもごもごと言葉を紡ぐが、雛月は余程腹に据えかねたんだろう。取り付く島も無い。

 

 やがてシンジはぐるぐると目を回して、雛月の手から強引に離れると「女男は女男だべ!」と捨て台詞のように叫んで正面の教室に消えていった。

 

 

 

「……」

 

 

 

 教室には三つの沈黙。

 

 今のやり取りで雛月は輪をかけて不機嫌になった様子で、隣のヒロミはバツが悪そうに頬を掻いている。

 

「あんまり気にするなよ。ヒロミ。 シンジだって本当は悪い奴じゃ無い」

 

 俺は淀んだ空気を入れ換るよう、明るい声音で言った。

 

「悟くん。 ありがと。 でも」

 

「なんで悟が篠田の事知ってるべか」

 

 ……俺は本当に学ばない生き物だ。あまりの馬鹿さに思い切り頭を掻き毟りたくなる。

 

しかも、挙句出た言い訳が「予感……かな」だ。

 

 僅かに稼げた時間で新たな言い訳を捻り出そうとする俺だったが、

 

「……予感」

 

「悟くんの予感かぁ……」

 

 

 

 目の前で二人が「なら仕方が無い」みたいな顔で納得をしてしまっていた。

 

 信頼。と考えれば喜ばしいけど、これ以上は2人の中で俺が不可思議(スピリチュアル)な存在になってしまうような気がした。今後は一際注意しよう。

 

『-----』

 

 と、俺が煩悶としていると、予鈴が響いた。

 

「それじゃ悟」「またね悟くん」

 

「うん。 またな。 ヒロミ、雛月」

 

 眉を垂れる雛月と笑顔のヒロミ。対照的な二人が向かいの教室に消えていく。

 

 見送った俺は一つだけの席に着き、次に会うときまでに雛月の機嫌が治っている事を祈った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

『-----』

 

「よ。調子は?」

 

 二時限目終了の予鈴と共に聞こえたのは、声変わりして昔よりも落ち着きが増した幼馴染の声。

 

 振り向くと、やはり中学生らしからぬ大人っぽさを纏うケンヤが居た。

 

「良好」

 

 俺は親指を立てて短く答えた。

 

 休み時間だから様子を見に来たと言うケンヤは俺だけの教室を物珍しそうに見渡すのも数秒。一転して真剣な顔で喋り出す。

 

「ヒナとヒロミは次が体育だから来ない。 カズとオサムは理科の授業が二時間続くから多分来ない」

 

 そう言ったケンヤの瞳には、鋭利な光が灯っていて俺は特に意味もなく唾を飲み込んだ。

 

 ケンヤは暗に言っている。

 

『込み入った話でも構わないぞ』と。

 

 けれどケンヤの気遣いに俺は首を振る。 本当は話しておきたい事は幾つも有るけれど、今日ぐらいはこの空気に浸っていたい。

 

 そんな俺の態度を見るケンヤの瞳が柔和に細められた。

 

「無いならそれに越したことはない。 他には何か相談あるか? くだらない事でもいいぞ?」

 

 冗談めかして言うその姿はやはりどこか大人びていて、けれど浮かべた笑みは子供っぽくて。

 

 朝の雛月の話も頷けた。『元の時間』でもケンヤは女子に人気だったし。

 

 あ、子供っぽいってのはケンヤには禁句なんだった……。声には、出てない。

 

「えっと、くだらなくは無いんだけどさ。シンジがヒロミやわ『女男』って呼んでるのが気になった」

 

 俺は差し当たっての懸念をケンヤに投げる。するとケンヤはげんなりといった風にその整った顔を手で覆った。

 

「何回注意してもやめないんだアイツ。 俺は違うクラスだからさ、正直目が届かない」

 

 ケンヤの言葉に俺は瞑目し、問う。

 

「なんで、そう呼ばれ始めたんだ?」

 

 今の問いはヒロミの容姿には重きを置いていない。ヒロミの容姿が男にしては可愛らしいと言うのは言うまでも無い。

 

 ただ、俺の知る篠田慎二は無意識的に人を傷つける事はあれど、容姿を馬鹿にするような奴では無かった。

 

 豪放に見えて、実は意外に細かい所を気にしているのがアイツだ。

 

 

 

「シンジはヒナに気がある」

 

 

 

 ケンヤは問いの意味を聞き返すこともなく、まるで「お前ならコレで分かるだろ」とでも言いたげな表情で一言だけ口にした。

 

 過度な信頼はケンヤに比べて元の知能が高くない俺には困る話だけど、今回の事に限っては実は聞く前から何となく答えは分かっていた。

 

 シンジが雛月に向けたあの態度。

 

 アレには覚えがあった。もっとも俺の知る未来では相手は雛月ではなく美里だったが。

 

 ケンヤの確認も取れ原因がはっきりすると、俺は小さく安堵した。

 

 シンジは所謂『小学三年生的思考』の持ち主だ。

 

 つまり、アレはシンジなりの雛月へのアプローチ。巻き込まれたヒロミからすれば傍迷惑な話だけど、効果が無いと見れば止める筈だ。しかし、

 

「けど、そう単純な話じゃないんだ」

 

 とケンヤはうんざりだと眼を瞑り、俺の考えを否定した。

 

「アイツは野球部のキャプテンでクラスの人気者だ。 本人に意図があるにせよないにせよ、無駄に発言力がある」

 

 続いたケンヤの言葉から経緯と真意を推察する。

 

「……ヒロミを悪く言うのがシンジだけじゃないってこと?」

 

「ああ、ヒナを好きな男子なんて大勢いるからな」

 

「え、嘘……」

 

「……お前それヒナの前で言うなよ?」

 

 思わず口を突いた言葉にケンヤは呆れるように笑い、諭すように続ける。

 

「ヒナの容姿。どう思う?」

 

「そりゃあ、可愛いと思うけど」

 

 艶のある柔らかな茶髪に3年経って更に整ったあどけない顔立ち。表情も柔らかくなってかつての陰が魅力として昇華されている。万人が認めるなんとやらってヤツだ。

 

 だからと言って俺がそういう目で見ているという訳では無いんだけど。

 

「そう、小学校の時から目を惹く容姿だった」

 

「けど、ヒナに男子は近寄らなかった。何故だ?」

 

「……本人が人を近づけないようにしてたから」

 

「正解。 そして悟に助けられてからはその空気は薄くなった。目を覚ましてからなんて特にだ」

 

「なら?」

 

「うん。納得した」

 

 ケンヤの懇切丁寧な説明に俺はようやく納得した。

 

「それでだ。 C組の男子の大半は憧れのヒナと仲良くしてるヒロミが少なからず妬ましい。 そんな所にクラスの人気者が率先してヒロミを馬鹿にし始めたらーー」

 

「それも……納得」

 

 一つ前より重苦しい声音で俺は呟いた。

 

「悪気が無くても数が増えればそれはもう同調圧力だ。 ヒロミを何とも思ってない奴らまでそう言って良いもんだと思ってしまうんだ。 俺はそれがイジメと何が違うのかが分からない」

 

 義憤を燃やすケンヤの拳が硬く握られた。

 

 話を聞く限りケンヤはそれを止めさせる為に動いている。それで止められない自分への怒りもあるんだろう。

 

「分かった。 じゃあ放課後には何とかする」

 

 俺は少し整理して、それからニッと笑ってそう言った。

 

するとケンヤは目を見開いて、同じように笑った。

 

「嘘だろ。って言いたい所だけど。あぁ、お前は本当にやっちまうんだろうなぁ」

 

 懐かしむ様な瞳が俺を捉える。俺はその瞳を真っ直ぐに見据える。

 

 何も考えずに強がったわけじゃない。

 

 そして止められ無かったケンヤが悪いわけでもない。

 

 今の、俺の立場だからこそ出来ることがある。それだけだ。

 

「俺に出来ることは?」

 

「ううん、今回は任せて」

 

「今回は……か。 分かった。3年ぶりのお手並み拝見だな。 頼んだぞ、正義の味方(ヒーロー)

 

 俺はケンヤの言葉に笑みで応え、交わった視線を逸らさないまま拳をつき合わせた。

 

 一拍置いて、何とも言えない気恥ずかしさが漂う。

 

 所在無さげに右手で頭を掻いたケンヤはこの空気を流そうと「そう言えば」と話題を変えた。

 

 

 

「ヒナの機嫌がやたらと悪いように見えたんだが。悟、何か知ってるか?」

 

「雛月? そうだ。俺も聞こうと思ってーー」

 

「いや、もういい。 原因がわかった」

 

 半眼になったケンヤが俺に言葉を継がせない。

 

 余りに早い切り返しに問われた筈の俺は思考がついていかずにポカンと固まった。

 

 そしてヒロミの話をした時よりも一層げんなりとした様子で両手で顔を覆ってしゃがみこんだ。

 

 そしてため息一つで立ち上がり、

 

「お前、何でヒナの事苗字で呼んでるんだ?」

 

「え? あ。」

 

 間抜けな声。

 

 ここでようやく雛月--加代の様子がおかしかった原因が自分にあったのだと気がついた。

 

 加代を誘拐したあの夜から、俺とケンヤは雛月の事をそれぞれ「加代」「ヒナ」と呼び始めたんだ。

 

 ……こんな大切な事、どうして忘れていたんだろう。

 

「なんで、加代も言ってくれれば--」

 

 と、言いかけて気づく。

 

 言える訳が無い。

 

 俺は記憶障害って事になっているんだから--。

 

 あの夜は特別だ。俺にとっては明確に「踏み込んだ」第一歩として、加代にとっては「踏み出した」第一歩として。

 

 俺が加代を雛月と呼ぶ事は、あの夜を、その先を覚えていない事になる。

 

 思い出を共有できない事が、苦しみを喜びを共有できない苦しみを俺は知っていた筈なのに。

 

 

 

「……」

 

 

 

 ケンヤは再びため息を一つ。

 

 

 

「頼むぞ悟。 ヒナは他の男には絶対に加代って呼ばせないんだぞ? 意味、分かるよな」

 

 

 

 押し黙る俺にケンヤは『意味』という言葉に力を込めて言った。

 

 脳裏にはさっきのシンジと加代のやり取りが蘇る。

 

「--加代は、もしかしてまだ俺の事……その、気にかけているのか? 三年経った今でも」

 

 直接的な言葉は避けたがケンヤには通じた筈だ。

 

 そしてこれは--確認。あくまで確認だった。

 

 けれど、俺の言葉を聞いたケンヤの表情が固まった。釣られて俺の表情まで硬くなる。

 

 そして、硬直したケンヤから読み取れる僅かな感情、それは驚愕と戸惑い、そして怒りだ。

 

 

 

「それは。 それは本当にヒナの前で言うな」

 

 

 

 ついさっきと同じ言葉。けれど先の悟すような口調では無く、命令に近い。

 

 ケンヤが発した迫力に俺は息を飲んだ。

 

 

 

「これは、きっと俺が言うべき事じゃない。 --けどお前は知っておくべきだ」

 

 

 

 そう断言したにもかかわらず、ケンヤは10秒以上も逡巡し、それから重苦しく口を開いた。

 

 

 

「お前が眠ってた3年の間。 ヒナがお前の病院に行かなかった日は、無いんだぞ」

 

「--は? え?」

 

 

 

 心臓を思い切り殴られたような衝撃。

 

 ともすれば八代に追い詰められた時よりも動揺しているかもしれない。

 

 

 

「なんの誇張でも、比喩でも無い。 ヒナは、ヒナだけは本当に毎日お前に会いに行っていた」

 

「そんな--」

 

 皆が、よく見舞いに来てくれていた事は知っていた。定期的に集まってくれていた事も。俺の誕生日には病室で誕生会までやっていたそうだ。

 

 それでもだんだんと頻度は減っていった。

 

 当然だ。 みんなにはみんなの未来がある。

 

 中学生になれば部活に塾にと打ち込むものは数多い。

 

 そういえば朝、加代から語られたのはみんなの話ばかりだ。加代自身が普段何をしていたかは一言も聞いた覚えが無い。

 

 なら本当に--

 

 

 

「悟。 これ」

 

 

 

 呆然としていた俺にケンヤは一通の手紙を差し出した。

 

「これはーー時期が来たらヒナに渡すようにって悟のお母さんから預かってた手紙だ。 俺も貰ったから、内容は大体分かってる。 もう必要ないもんだ。 悟に渡すよ」

 

「母さん……時期?」

 

 

 

 俺はオウム返しに耳についた単語を繰り返す。

 

 俺は未だ理解が追いついていない。しかし、なおもケンヤは続ける。

 

 

 

「お前の目が醒める可能性が低かった事は聞いてるな?」

 

「うんーー母さんと、お医者さんから」

 

「多分、それを聞いて悟が思った三倍は絶望的な状態だったと思う」

 

 

 

 俺は息を飲む。

 

 鋭い瞳。そして決して誇張することの無いケンヤの性格。

 

 俺の中にそれが嘘だという疑念は微塵も生まれなかった。

 

 微かに震える手で封筒を開け、几帳面に折り目がつけられた便箋を取り出す。

 

 

 

「医者は何度も悟のお母さんを説得してた。色々と濁しちゃいたけど暗に「これ以上は無駄」ってな。 医者だけじゃ無い。 保護者や先生、色んな人達もそうだった。 それでも悟のお母さんは『ふざけるな』って断ったんだ」

 

「本当に凄い人だよ。 両親以外に尊敬したのは二人だけだよ」

 

「そして、そんな悟のお母さんだからこそ、この手紙の決断をしたんだ」

 

 滔々と続くケンヤの話に耳を傾けながら、俺は母さんの字が記された手紙に目を落とした。

 

 

 

『加代ちゃんへ』

 

『突然いなくなってしまってゴメンなさい』

 

『悟と私は次の一歩を踏み出す時が来ました』

 

『あなたは私の暗い心にさした光でした。献身的なあなたの行動が私に道を示してくれました。 私は感謝の気持ちでいっぱいです』

 

『加代ちゃん 私はあなたにも次の一歩を踏み出す時が来ているのだと思います』

 

『私は加代ちゃんの明るい未来を願っています。毎日 悟の為に来てくれてありがとう。私の心を救ってくれてありがとう。』

 

『いつかまた必ず会いましょう。元気でね。 藤沼佐知子』

 

 

 

「お前は千葉の病院に移る事になってたんだ。 表向きには内地の方が医療費が安いからって事になってる。 けど、本当の理由は、分かるよな?」

 

 

 

 悲しげに、されど強い意思を込めてケンヤは俺に問いかけた。

 

 分かるさ。分かったさ。

 

 手紙にあったのは、ありえたかも知れない別れの未来。

 

 俺があのまま目覚め無かった場合の未来。

 

 そして目覚めない俺を待ち続ける加代を慮っての母の決断だ。

 

 

 

『あなたは私の暗い心に差した光でした』

 

 

 

 飾りたてた言葉で人を動かせない事を母さんは知っている。

 

 ならこの言葉は、手紙は、母さんの本心だ。

 

 3年間俺を守り続けた母さんを、強いのだと、凄いのだと、そんな言葉で片付けてしまっていた。

 

 けど母さんだって弱ってたんだ。一杯一杯だったんだ。

 

 それを皆が、加代が支えていた。

 

 

 

 妖怪は、もう一人いた。

 

 

 

 母さんも、俺も、纏めて救ってくれていた妖怪が。

 

「お前が眠ってから、みんな色々な事を考えた。 カズは警官に、ヒロミは医者。俺は、まあいいとして、みんな『次の一歩』を踏み出し始めてる。 けど、加代だけは違う。 待ってたんだよ。 お前と『次の一歩』を踏み出したくて」

 

 

 

「--」

 

 

 

 ケンヤの怒りは、きっと俺の知らない3年を積み重ねた故の、俺の知らない加代の3年を見てきたが故の怒りだ。

 

「ああ、でもヒナの3年間にお前が責任を感じる必要は無いからな。お前の事だから「加代の時間を奪ってしまったんじゃないか」とか考えてるんだろ? 」

 

 

 

「うぐっ」

 

 

 

「ヒナは何も助けられた恩に縛られてたんじゃない。 ヒナはヒナの意思でお前を待つって答えを出したんだ。だったら気には掛けても気負う必要はないさ」

 

 

 

 ケンヤはまるで心を読んだように、俺の胸の不安の悉くを緩衝した。

 

 大人っぽい、大人っぽいと何度も評したが、本当に俺よりも大人だ。

 

 中学生に簡単に心を読まれるアラサーなんてお笑いだけど、実はそれがどうしようも無く嬉しかった。

 

 3年経った今でもケンヤの中に、色濃く『藤沼悟』が残っていた事が。

 

 

 

「ケンヤも、妖怪だ」

 

 

 

 声に出たんじゃない。声に出したんだ。

 

 どうやら俺の中で『妖怪』は大切な人って意味になっていたみたいだから。

 

「よ、妖怪!?」

 

「うん、ありがと。ケンヤ」

 

 一瞬、取り乱したケンヤだったけど、俺の言葉からニュアンスを感じ取ったのか照れ臭そうに頭を掻いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

『ーーーーーー』

 

 放課後を告げる鐘。

 

 帰りのHR。俺は担任の話が終わるや否や、教室を飛び出した。

 

 思った以上の鈍足は斜め向かいの教室に行くだけで手間取った。

 

 まだ、C組はHRが終わっていない。

 

 静謐な教室に先生の声だけが響いている。

 

 実行するには絶好のシチュエーション。

 

 この一発解決の策はケンヤにはきっと出来ない。

 

 

 

 でも。俺は出来る。何たってーー

 

 

 

加代(・・)!一緒に帰ろう!」

 

 

 

 小学五年生なんだから。

 

 静けさを破った俺に三十もの頭が一斉に向く。

 

 驚愕、好奇、困惑。そして事態を飲み込んだ一部男子からの敵愾心。様々な感情が肌を刺す。

 

 完全に音を無くした教室。

 

 加代だけが遅ればせて顔を上げた。

 

 その瞳には様々な感情が渦巻き、窓から差す日差しのせいか頬には朱が差している。

 

 続く沈黙の中、小さな口が言いあぐねる様に開いて、閉じて、

 

 

 

「うん…!」

 

 

 

 弧を結んだ。

 




外伝とanother recordは都合の良いところだけ拾っていくスタイルで行きます。

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