思いのほか僕もいた街   作:久路土 残絵

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恐怖と決意

 君が居なくなってしまってから、僕は僕である為の衝動を失ってしまった。

 

 最早どれだけの代償行為も過去の衝動を真似ただけの紛い物に過ぎなくなってしまった。

 

 悟。君は特別だったんだ。

 

 僅かな可能性をまるで蜘蛛の糸を手繰るように引き寄せる君は。

 

  君は惰性である僕の生に勢いを与えてくれたんだ。

 

 だが君はもう目覚めることは無い。

 

 僕の『最も幸せな瞬間』がこの先更新される事は無いのかもしれない。

 

 僕は君に言ったね。『勇気ある行動の結末が悲劇でいいハズがない』と。

 

 今になって本心からそう思うよ。

 

 僕にとっても君にとっても、だ。

 

 まさか僕がこんな陳腐でチャチな言葉を使う日が来るとは思いもしなかったよ。

 

 

 

 悟。僕は今、

 

 

 

『絶望している』

 

 

 

 ◇

 

 

 

「無理は禁物だよ。 悟。 君が目覚めた事をみんなが喜んでいるんだ。 君の身体はもう君だけのものじゃ無い」

 

 優しい、しかし何処か違和感をはらんだ八代の言葉に俺は唾を飲んだ。

 

 あれから俺は八代に連れられて病室へと戻った。

 

 あまりの驚きに、言葉一つ発せぬままに。

 

 口封じに来たのだと、そう思った。

 

 しかし八代は丁寧に、不気味な程に丁寧に俺を寝かせると、見舞いだと持ってきたリンゴを剥き始めた。

 

 たどたどしい手つきで剥かれた林檎の皮がブツ切りに皿の上に落ちていく。

 

「……」

 

 そんな光景を目にしていると、ツゥっと冷ややかな汗が頬を撫でた。

 

 暖房が効きすぎている、というわけではない。

 

 湖に沈んでいったあの時と同じ無力感が俺を苛んでいたせいだ。

 

 八代が口封じに来たにしろそうでないにしろ、身動きすらまともに出来ない今の俺には勝ち目なんてない。

 

 まな板の上の鯉の方がまだ抵抗できる。

 

 そして注意深く観察する程に、奴の行動一つ一つが俺の不安を煽った。

 

 例えば八代の使っている果物ナイフ。

 

 あれは母さんが置いて行った物だった。看護婦が触ったのも見たことがある。

 

 そして、八代は今――手袋をしている。リンゴを持つ左手は脱いだのに、ナイフを持つ右手は脱いでいないのだ。

 

 凶器にする条件は整っている。

 

 嫌な汗が背中に滲む。

 

 俺は悟られないように深く呼吸をした。

 

 ――落ち着け、俺。

 

 人の多い病院で刺殺。そんな証拠が残りやすい手段をこいつが取るか?

 

 けれども、もしかすれば俺に見えないそれ以外の手段があるのかもしれない。

 

 なんたって相手はこれから12年もの間、警察を欺き続ける化物だ。

 

 

「……」

 

 

 ――どうする。

 

 沈黙の中、ふと目に入ったナースコールのスイッチが希望に見えた。

 

 これを押せば少なくとも今は逃げ延びることが出来る。

 

 だけど、

 

 

「先生。お見舞い、来てくれてありがと」

 

 

 俺は、然も記憶が戻っていないように演じることにした。

 

 そう。ここにはもう勝ち目は無いんだ。

 

 なら、引き分けに持ち込んで未来に繋ぐ。

 

 ここで俺が記憶障害だと確信させられたなら、それは再上映(リバイバル)に変わる大きなアドバンテージになる筈だ。

 

 無様でもいい滑稽でもいい。最後まで抗ってみせると、そう決めたんだから。

 

 

「……当然じゃないか。 悟はいつまで経っても僕の生徒なんだ」

 

 

 八代は目をリンゴに向けたまま、俺にそう言葉を返した。

 

 ――乗ってきた。

 

 しかし喜ぶのはまだ早いこれは入り口だ。

 

「そうだ悟。みんなはもうお見舞いに来たのかい?」

 

 そう続いた八代の問に、みんなを関連付けたくない思いから「来ていない」と言いそうになる。

 

 だが俺はギリギリの所で否定の言葉を飲み込んだ。

 

「うん、廊下走って看護婦さんに怒られてた」

 

 馬鹿か俺は。八代は、俺の反応を見ているんだ。

 俺の意識が戻ったということはまだ公にされていない。

 3年間意識不明の少年が意識を取り戻すなんて如何にもゴシップな話題だけど、取材なんて来ちゃいない。

 

 それどころが、院内を移動している時でさえ、誰も俺をそういう(・・・・)目で見ない。

 

 どうやら初めに俺が記憶の事を尋ねられた時に、倒れたのが効いたらしい。医者は俺の情報を世間に伏せてくれていた。

 

 そりゃそうか。倒れた理由どころが、目覚めた理由も定かでは無いんだ。

 一時は匙を投げたという俺の命。安定するまでは不確定な要素は極力避けたいんだろう。

 

 だから母さんが知らせたのはケンヤ達にだけ。それも記憶障害の治療という名目でどうにか医者から許しを得たらしい。

 母さんとケンヤは八代を疑っている。教えるわけがない。

 

 なら八代がここに居るのは――。

 

 俺を見ていたからだ。

 

「はっはっは。 もう中学生だってのにあいつらも変わらないな」

「あはは……」

「そうだ悟。 記憶の方、大丈夫なのか?」

 

 なんでもないことのような、さも今思いついたかのように八代が放った言葉に、どきりと心臓が跳ねる。

 

 驚いたのは記憶の事をやはり知られていたこと、じゃあない。

 ヤツが恐らく知った上でカマをかけて来ているということだ。

 やはり八代は俺がボロを出すのを舌舐めずりして待ちわびている。

 

「ううん、まだちょっと。 誕生日の辺りまではハッキリ覚えてるんだけど」

 

 無様でいい、逃げ切れ。

 

「そうか……大変だな。そういえば悟の誕生日は3月2日だったな。 あと三ヶ月か」

 

「うん、みんなお祝いしてくれるって」

 

「お!それは良かったなぁ。 先生からも何か――そうだ悟。 退院したらまた2人でドライブでもしないか?」

 

「――そ、そう言えば母さんと乗せてもらった事もあったね。あの時はありがと」

「先生たくさん飴隠してて笑っちゃたなぁ。まだ載せてるの?」

 

 2人で、という言葉は気づかないフリをした。

 そしてこれ以上この話題が続くのは拙いと思った俺は、子供らしさを装って話を逸らした。

 

 しかし、痛恨の失敗だ。

 

 俺は動揺を隠せずに目まで逸らしてしまった。

 しまった。と視線を戻した時には八代の双眸が俺を捉えていた。

 

 八代は林檎の皮を剥き終えた果物ナイフを手に、言葉を発するワケでもなくただ俺を見つめている。

 

「先、生――?」

 

 驚愕、歓喜、怒り。

 その表情からはどんな感情も読み取ることが出来ない。

 けれど奥の、奥の、奥まで。俺の中に八代が入り込んできて全てを暴かれるような不快感があった。

 

 鼓動が、うるさい。

 

 汗でベタついた背中が冷えて気持ち悪い。

 

 たかだか数秒の時間が永遠に感じられる。

 

「―――はい、悟」

 

 俺の不安をよそに、八代は笑みを浮かべ、爪楊枝に刺さったリンゴを一欠片俺に差し出した。

 残りの欠片が乗った皿はベット脇のキャビネットの上にコトリと置かれた。

 

「アレは手放せない。 前にも言ったろう? 代償行為だよ。 心に空いてしまった穴は他の何かで埋めないといけないんだ」

 

「は、はは。そんな話、したかなぁ……?」

 

 拙い、八代と目を、合わせていられない。

 

 俺の中で八代への恐怖が肥大しすぎている。

 

 目の前で剥かれた林檎にさえ何かあるのではないかと勘ぐってしまう。

 

 冷静になれ、警戒を悟られちゃダメだ。

 

 記憶があると知れれば万に一つも潰えてしまう。

 

 俺は勿論、未来と同じように母さんにもきっと八代の手は伸びるだろう。

 

 『寝たきりの息子を支えてきた母。息子の死に絶望し命を絶つ』

 

 いかにも八代が考えそうなシナリオだ。

 

 俺は喉を鳴らす。カラカラに乾いた喉には何も流れない。

 

 覚悟を決めた俺は微かに震える手で爪楊枝を受け取って、ひと齧りした。

 

 乾いた口に果汁が心地良かった。わずかに出た唾液と共に果肉を嚥下すると、リンゴの酸味が全身に広がっていくのがリアルタイムで感じられた。

 

「ああ、これは僕が六年生を受け持った時に卒業式でする話だった。 悟には、聞かせてあげられ無かったね」

 

 八代は懐かしむような悔やむようなそんな表情声音で語ると、ハッと気づいたように話を変えた。

 

「おっと、すまない。暗い話はするつもりは無いんだ。 僕も一つ食べようかな」

 

 八代は丸椅子に腰掛けると、キャビネットの上の林檎にプスリと左手に持った爪楊枝を刺すと、俺と同じように口に運んだ。

 

「うん、旬からは少し外れるが美味しいな」

 

 そんな間の抜けた事を言う八代を見て俺は、小さく息を漏らす。ここで初めて、張り詰めていた心に少しだけゆとりが出来た。が、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――決して大きな音じゃない。

 

 

 

 八代が膝を指でノックしている。それだけの事だ。それだけの事なんだ。

 

 他の誰が聞いても何も思わない。

 

 けれど俺は、俺だけはその音に反応してしまう。

 

 たわんでいた心が瞬時に引き絞られ、心臓がツーサイズ程も大きくなったような気がした。

 

 その規則正しいリズムが強制的に湖の夜をフラッシュバックさせる。

 

 まるで大きな氷柱を丸呑みさせられたような窒息感と寒気。

 

 

 

 ――怖い。

 

 

 

 幼い体に精神が引きずられているのだろうか、それとも未来の俺であってもこんなに怯えただろうか。

 

 手も、足も震えだしていた。

 

 

 

 ――怖い。

 

 

 

 駄目だ、止まれ。

 

 小さく息切れが始まる。歯の根までもが震えだす。

 

 

 

 ――怖い。

 

 

 

 駄目だ、駄目だ、駄目だ。駄目――

 

 

 

 焦点が定まらなくなった俺の瞳が、薄く裂けていく八代の口元を捉えた。

 

 

 

 ―――――― ――

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 気が付くと、病室の戸を開けた八代がこちらに背を向けていた。

 

 な、んだ?

 

 まさか俺、気を失っていた……のか?

 

 

「それじゃあ悟。 お大事に」

 

 

 トン、と小さく音を立てて戸が閉められた。

 

 八代の足音は遠ざかっていく。

 

 あまりにも唐突に、あんまりにもあっさりと。

 

 助かった筈なのに安堵なんてまるで感じない。

 

 感じるのは強烈な『違和感』だけ。

 

 まるで、狐にでもつままれたような気分だった。

 

 

「したっ、け」

 

 

 理解が及ばない俺は、もういない八代に別れの言葉を告げるのが精一杯だった。

 疑問と疑念が決して優秀ではない俺の頭の中で渦を巻き、せせら嗤う。

 

 

「一体、なんだってんだ……」

 

 

 そんな呟きを漏らしながら俺は、ショートしそうになった頭を少しでも癒そうと林檎に手を伸ばす。しかし、

 

 

「あれ、林檎……」

 

 

 キャビネットの上には何もなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 院内は既に消灯時刻。非常口の明かりのみが昏く辺りを照らしている。

 俺はベットの上で小さなスタンドを頼りに一冊のノートを読んでいた。

 

 これは今日、母さん伝いでケンヤから送られてきたものだ。

 

 ノートには俺が眠ってからの出来事が事細かに纏められていた。

 

 更に事件に関わる雑誌や新聞の切り抜きまで丁寧にスクラップされている。

 

 記事の横に鉛筆で書かれた注釈は几帳面な友人らしくなく文字が乱れていて、濡れて乾いたような跡が幾つもあった。

 

「ありがとう……ケンヤ」

 

 俺はノートを1ぺージ、1ぺージと、文字に浮かぶケンヤの感情を受け取りながら読み進めて行く。

 ノートからはケンヤがどれだけ本気で調べていたかが分かった。

 俺の事件の他にも3件、未解決の女児殺害事件の記事が纏められている。

 

 スクラップされていた事件の被害者は、

 

 親に虐待を受けていた少女。

 

 公園でいつも一人で遊んでいた少女。

 

 習い事の帰りに失踪した少女。

 

 そしてそれらの犯行の手口には俺が防いだ雛月達の事件に酷似する点が幾つかあった。

 やはりケンヤは八代に狙いを定めているようだ。

 

 

「ーー!」

 

 読み進めてふと、気づいたことがあった。

 

 それらの3件の事件はそれぞれ千葉、千葉、東京。いずれも事件は関東で起きていた。

 俺は固くなった手でページをめくる。

 気づけばそれが最後のページだ。

 

 今はもう八代との邂逅から一カ月。ヤツから接触は一切無かった。

 それもそのはずだった。

 

 八代は今、千葉に居る。

 

 最後のページに書かれていたのはケンヤの知る限りの八代の動向だった。

 俺の事件後、八代は一身上の都合という事で教職を辞していた。

 詳しい理由は誰にも言っておらず、教師や父兄は俺の事件に責任を感じて辞めたのだと勝手に察していた。

 

 ケンヤ達が八代を最後に見た日、5年生の修業式では千葉に行くと言い残していたらしい。

 

 その時、八代が本当の事を言ったのかは分からない。しかしそれを裏付ける為にケンヤは関東の事件をスクラップしているのだろう。

 

『僕はこの街を出て行く事にする』

 

 今となっては真偽が怪しいけど、確かに俺の記憶の八代はそんな事を言ってたな。

 そして俺の記憶では6年生になった時の担任は八代だった。

 一応、あいつなりに約束を守ったつもりなんだろうか。

 

「……そういえば元の時間でも八代は千葉に居たな」

 

 母さんとの買い物帰りに起きた誘拐未遂事件。あれが発端だった。

 代理の犯人を仕立て上げる奴の手口からして遠出した先での犯行は考え辛い。

 

 もしかすれば八代はこれから千葉に根をおろすのかも知れない。

 

 『西園って人が怪しいと思う。バッチつけてたし多分市議』

 

 橋の下でアイリはそう言っていた。

 市議になる為の下準備は一朝一夕で整うモノでは無いはずだ。

 そうなると今後10年、奴のテリトリーは関東である可能性が高い。

 

「なら千葉に近づかなければ――」

 

「っ!」

 

 俺はバチン、と両の頬を張った。

 一瞬、甘い考えをよぎらせた自分を消し飛ばしたかった。

 俺は今ホッとしたのだ。

 

 八代が手が届かない所に居ると知ってホッとしてしまったのだ。

 

 いい加減学べよ俺。

 踏み混むんだろ。

 

 逃げて解決する事なんて何一つ無いんだ。

 

 俺が千葉に行かなければ母さんは死なないかもしれない。

 

 そんなものは俺の妄想だろ。

 

 確かに12年後はそうかも知れない。

 

 けれど13年後は?14年後は?

 

 12年より先は俺にとっても未知の領域なんだ。

 

 やり直せた事が奇跡なんだ。

 

 詰めを間違えるな。

 

 自分に言い聞かせるように、八代への恐怖を塗りつぶすように自答した。

 

 そういや前にケンヤが言ってたな。「ちゃんと結末は見えているか」って。

 

 大丈夫。どれだけ問題があっても結末だけは変わらない。

 

 俺の目指す結末は一つだ。もう、迷わない。

 

「警官がいいかな。いや澤田さんみたいに追う手もあるのか」

 

 待ってろ八代。たとえ10年、20年掛かっても、お前を捕まえてやる。

 

 

 ◇

 

 

 【1991年2月9日】

 

 北海道の朝はやっぱり冷える。気がつけば石油ストーブに引き寄せられるように動いてしまう。

 

 俺は冷える手を擦りながらバタバタと登校の用意をしていた。

 

 今日から俺は中学校に行く。

 

 俺の予定としては3年の中頃を目標としていたんだけど、入院中から母さんが入学の用意を進めてくれていたみたいでこんなにも早く念願が叶った。

 

 しかし残念ながら、ケンヤ達と同じクラスというわけにはいかなかった。

 

 俺一人の特別学級が設けられているらしく、そこで様子を見ながらと言うことだった。

 

 当然か、周りからすれば俺は小学5年生で止まっているんだ。

 

 だからだろう。学力テストを受けた時には驚かれた。

 

 俺が殆どの科目で満点を取ったからだ。

 

 この調子でいけば3年次からは合流できるかもしれないとも言われた。

 

 29歳舐めんな。

 

「悟」

 

 ランドセルに物を詰め終えると、母さんに呼び止められた。

 その手にはケンヤ達が着てたのと同じ学生服がある。

 

「着せたげる」

 

 ニンマリと笑った母さんに、俺は引きつった表情を返した。

 

「い、いいよ!自分で着れるよ」

 

 この歳になって親に服を着せてもらうのは、って一応13歳なのか。

 

「いいからいいから」

 

 俺の言葉を押しのけて母さんはさっさと俺に学生服を羽織らせた。

 俺は渋々袖を通して母さんにされるがままになる。

 むず痒い。元の時間じゃこんな事はなかった筈だぞ。

 

 目の前でボタンを留める母さんの髪留めが揺れる。

 なんでも器用にこなす母さんにしては手間取っているようだ。

 

「……」

 

 そんな母さんを見ていると不意に名状しがたい感情がこみ上げた。

 俺がこんなに早く退院できたのは母さんのお陰だ。

 俺が眠っている間、母さんは三年間、何時間も掛けて俺の体のケアをしてくれていた。

 目が覚めるかも分からない息子の為に毎日、毎日。

 

「ホント、妖怪だよ……」

 

「うん?何かいったべか」

 

「……ううん、なんでも」

 

 ボタンを留め終わり、襟元のホックを掛けると懐かしい窮屈さを感じた。

 

「はーい、出来た。おお、中々いい男に見えるべ。 これなら加代ちゃんに見せても恥ずかしくないべさ」

 

 パンと俺の胸を叩いて母さんは立ち上がった。

 

「何言ってんだよ全く」

 

 唐突に軽口を叩く母さん。俺は呆れ顔で向き直る。

 すると、母さんの様子がおかしかった。

 俺を見て固まっていた。

 

「うん?どこかおかしいところあるかな?」

 

 学生服にゴミでも付いているたと思ったが、腕を上げても背中を見てもおかしな所は無い。

 

「ねえ、母さ――」

 

 そう声を掛けようとして、気づけば母さんに抱きしめられていた。

 

「ありがとうね……悟」

 

 耳元で声が震える。

 シャツの襟に熱を帯びた液体が滲むのを感じた。

 

 ――ああ、そうか、そうだよな。

 

 眠っていた3年。俺からすれば一瞬の出来事だった。けれど母さんは一体どんな思いで過ごしてきたのだろうか。

 着慣れたこの学生服も、母さんにとっては見ることのなかったかも知れない物。

 

 俺にとっての雛月やヒロミのように。

 

 ――この熱を忘れてはいけない。

 

「母さん。ありがとう」

 

 

 俺はもう一度決意した。

 

 絶対に、あの未来には繋げない。

 

 ------ -

 

 時計を見ると短針が7の字を離れ始めていた。

 

 俺は小学生のものより一回り大きくなったランドセルを背負って玄関に居た。

 それを見送る母さんは鉄面皮に戻っている。

 

「ティッシュは持った?」

 

「持った」

 

「ハンカチは?」

 

「持った」

 

「車に気をつけるべさ」

 

「分かってるって」

 

 以前よりも過保護になった気がする母さんと問答を繰り返すうちに、履き慣れないサイズの靴を履き終わった。

 

「それじゃあ行ってくるね」

 

 トントンと少し大きめのつま先で地面を叩きながら母さんに手を振り、

 

「本当は母さんが学校まで送っていきたいけど……悟!加代ちゃんはしっかり捕まえとくべさ」

 

 俺は盛大につまづいた。さっきまでの感慨を返してくれ。

 

「何だよさっきから! 3年も経ってるんだぞ!?」

 

 流石に脈絡なさすぎるだろ。

 ああ、そういえば俺は雛月が好きだって事になっていたんだったな。

 確かカズが勝手に騒ぎたてた所為だ。

 雛月に近づいた本当の理由は母さんを救うためだったのに。

 

 確かに……情が湧かなかったかっていえば嘘になる。

 

 けどそれはきっと俺の精神が体に引きずられていた所為だ。中身は29歳のおっさんだぞ。

 

 だいたい、子供にとって3年という時間は余りに永い。

 女心は秋の空。それが多感な小中学生なら尚更だ。

 

 たとえ雛月が当時俺に淡い恋心を持っていたのだとして、3年間も待っているなんてそんな馬鹿な話があるワケないだろ。

 

「ったく。それじゃあ、もう行くから!」

 

 馬鹿な事を言う最高の母親に手を振って、俺は玄関のドアを開いた。

 そして俺は、さっきの母さんのように固まった。

 

 白く積もった雪の上。

 

 そこには俺が綺麗だと評した女の子が、頭の上にこんもりと雪を積もらせて、いつかの俺のように座っていた。

 

 その吐息は白く、頬は赤い。

 

「ばか……なの?」

 

 思わず、そう口にしていた。

 

 今の俺はきっとひどく間抜けな顔をしているに違いない。

 

「うん。ばかなの」

 

 雪の華のように雛月は笑った。




感想やご指摘をいただけると凄く嬉しいです。
雛月がヒロインじゃなかった事にショック受けた人とか特に。

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