犬に人間用の傷薬を塗りつけ、包帯を巻く。
それで怪我が治るのかどうか、漁牙としてはいささか疑問を感じなくはない。
だが、治る。
その少女を見ているうちに漁牙は、自然に、何の根拠もなく、そう確信していた。
傷を負った仔犬の前肢に、包帯を巻く。
少女のその愛らしい指先から、何やら不思議な力、としか表現し得ぬものが溢れ出しているからだ。
「おまえを、こんな目にあわせたのは誰? おじいさまにお願いして、潰してあげましょうね」
そんな事を言いながら、少女が微笑む。
自分たちには決して向けてくれない笑顔だ、と漁牙は思った。
この少女が拾って来たのか、あるいは城戸邸に迷い込んで来たのか。
とにかく、その仔犬は怪我をしていた。
そして、城戸邸のお姫様とも言うべき令嬢に、手当てをしてもらっている。
令嬢は7歳、漁牙も7歳。
同じ年齢でも全く違う、と漁牙は思う。
この少女は、城戸邸の令嬢であり、お姫様であり、女王であり、皇帝であり、対する自分は奴隷……否、奴隷ですらない。良くても愛玩動物か。いや、愛玩などしてもらえない。
仔犬の方が、自分たちよりもずっと大切にされている。
そんな事を思いながらも漁牙は、木陰からじっと見入った。
城戸邸の、広大な庭園の片隅にある、夢のような光景に。
「さあ、もう大丈夫よ……あら、まだ痛いの?」
この少女が、優しい声を発している。優しく微笑んでいる。
漁牙にとっては、まさしく夢にも等しいほど、ありえない事態である。
小さな前足に包帯を巻かれた仔犬が、少女に甘えてゆく。
少女は、可憐な細腕で仔犬を抱き上げていた。
「では痛くなくなるまで、こうしていましょうね。うふふ、痛いの痛いの飛んで行きなさぁーい」
不思議な力、としか表現し得ない何かが、少女の小さな全身から溢れ出し、仔犬を包む。
盗み見をしている漁牙の心をも、包み込む。
(お嬢様……ほんとは、優しいんだなぁ……)
木陰で漁牙が夢見心地になっている間、しかし事態は急変していた。
「……何をしているの、そんな所で」
少女が、仔犬を抱いたまま、こちらを見ている。睨んでいる。
冷たく鋭く澄みきった瞳が、木陰で立ちすくむ漁牙を射すくめている。
「そこから出て来なさい。お前……確か、檄? だったわね」
「い、いえ漁牙ッス。檄はもうちっと、うすらでかくて頭悪そうで」
へらへらと愛想笑いを浮かべながら漁牙は、少女の面前へと歩み出た。
左腕で仔犬を抱いたまま、少女が右手で鞭を突きつけてくる。先日、邪武の尻を滅多打ちにした鞭だ。
「誰でもいいわ。お前……そこで私を、盗み見ていたのね」
「ほ、ほっこりしてたっす。へへへ」
激痛が、漁牙の顔面で弾けた。
少女の鞭が、頬の辺りを直撃していた。
「あっ……つ……ッ、あふうっ……く……」
頬を押さえながら、大柄な身体を屈めてうずくまる漁牙。
見下ろしながら、少女が命ずる。
「お前、馬……は、もういいわ。犬になりなさい」
「はっ、はひ……くぅん、わんわん! わひぃいいいん!」
犬の鳴き声、と言うよりも悲鳴を張り上げ四つん這いで走り回る漁牙に、少女が冷ややかな眼差しを向ける。愛らしい美貌に、微かな嘲笑を浮かべながらだ。
クンクンと甘える仔犬を左腕で抱いたまま、少女が鞭を一閃させる。
「犬は可愛い……だけど人間の形をした犬は、とても無様」
漁牙の背中にビシッ! と激痛が走る。
鞭打たれた犬の如く這いつくばりながら、漁牙は悲鳴を上げた。
自分が犬なのか人間なのか一瞬、わからなくなった。
そんな漁牙に、少女が問いかけてくる。
「それで……お前、私の何を盗み見ていたの?」
「や……やさしい……とこ……」
泣きながら、漁牙は微笑んだ。涙と鼻水にまみれた顔で、令嬢を見上げた。
「お、おれ……かんどう、してます……お嬢様、ほんとは優しいんだって……みんなにも……」
「余計な事は言わないように」
漁牙の口元に、鞭が飛んで来た。
唇を押さえて転げ回る漁牙に、少女が冷ややかな、眼差しと命令を降らせて来る。
「お前は何も見なかったのよ。見ざる、言わざる、聞かざる……お前、猿になりなさい」
あの時、漁牙は猿になった。
目を閉じ、耳を塞ぎ、口からは滑稽な悲鳴を発しながら、ひたすら鞭打たれて跳ね回った。
今、自分を打ちのめしているのは、しかしあの令嬢ではない。
出来損ないの聖衣のようでもある、異形の鎧をまとう男だ。
うっすらと目を開きながら漁牙は、ようやくそれを思い出した。
「……まいった……走馬灯の思い出が、コレかよ……」
口をきくのも億劫なほど力を消耗している、にもかかわらず漁牙はそんな言葉を発していた。
そして、起き上がる。
武骨な竜骨座の聖衣をまとう巨体が、よろよろと立ち上がって身構える。
「アテナの聖闘士は……打たれ強さが唯一の取り柄である、と聞くが」
ゾス・オムモグが呆れ、嘲笑う。
「ここまで往生際が悪いとはな。楽に死にたい、とは思わないのかね」
「あいにくだな……お嬢様に、しばいてもらえるってんならともかく……てめえなんぞにブチのめされて、気持ち良くお寝んねしようって気にゃあなれねえよ」
眼前に立つゾス・オムモグの姿が、かすんでいる。目が、見えなくなりかけているのか。
問題ない。
敵の、おぞましいほどに邪悪な小宇宙は、視覚ではないものでしっかりと感じられるのだ。
その小宇宙が、凄まじい勢いで膨張し、燃え上がってゆく。
「嫌でも眠りにつく事となる。この一撃でなぁ……ディープシー・スターライトバァーストッ!」
ゾス・オムモグの両肩……巨大な金属のヒトデが2つ、激しい光を発した。
禍々しい攻撃的小宇宙が、激烈な可視光となって迸ったもの。それが、真正面から漁牙を襲う。
襲い来る小宇宙の光の奔流を、漁牙は見極めた。
見る事が出来た。かわす事も出来る。聖闘士に、同じ技は何度も通用しない。だが。
琴の音が、ルルイエ全体を包み込むように流れている。
全世界におぞましい悪夢を垂れ流す邪神を、眠らせるための楽曲。
漁牙の背後で今、1人の少年が、それを奏でているのだ。
青銅聖闘士、艫座の勇魚。
彼は今、涙を流しながら、竪琴を掻き鳴らしていた。
いや、涙ではない。
潰れたように閉ざされた、その両目からは鮮血が溢れ出し、嫋やかな少年の顔を赤く濡らしている。
勇魚は今、五感を損傷するほどに己の小宇宙を振り絞って楽の音に変換し、迸らせているのだ。
ルルイエの地底あるいは海底に鎮座して悪夢を振りまく邪神を、眠らせるために。
だが、足りない。
この神を、夢も見ないほどの眠りに陥らせる。そのためには勇魚の力だけではなく、もう一撃が必要なのだ。
だから海斗とナギが、ルルイエの内部へと向かった。
この場に残った漁牙と勇魚をもろともに粉砕する勢いで、ディープシー・スターライトバーストが襲い来る。
勇魚の楯となる格好で立ったまま、漁牙は小宇宙を燃やした。
「スカルドラゴン・クラッシャァアアアアアア!」
燃え上がり、立ち昇った小宇宙が、巨大な竜の姿を形作る。
鱗も肉も臓物もない、骨格だけの竜。
それが、迫り来るディープシー・スターライトバーストにぶつかって行く。
骨の竜が、一瞬にして砕け散り消滅した。ディープシー・スターライトバーストの威力を、いくらかは殺す事が出来たのか。
漁牙は直撃を喰らい、吹っ飛び、勇魚にぶつかりそうになりながら仰向けに倒れた。
『……漁牙……倒れたのかい?』
すぐ近くにいるはずの勇魚の声が、ずいぶんと遠い。耳も、聞こえなくなり始めている。
『まさか、とは思うけど……僕を庇って、敵の攻撃を受けたんじゃ……ないだろうね……?』
「バカやろう……誰が、てめーなんざぁ……」
言いかけて、漁牙は気付いた。
勇魚は、口を動かしていない。
口から発する言葉、ではないもので勇魚は今、喋っている。
『唇と、それに舌の感覚がないんだ……指も、ね』
竪琴を掻き鳴らす指先が、血まみれである。音曲に合わせて、鮮血の飛沫が散る。
勇魚は今、弦の感触すら感じていないのではないか、と漁牙は思った。
『こんな状態なのに……何故だろう、いつもより良い音が出ている……ような、気がするんだ……耳は、聞こえないけれど』
「俺もな、耳がダメになりかけてる……てめえの下手くそな音楽が、いつもよりずっとマシに聞こえちまうくれーになあぁ……」
五感が、ことごとく死んでゆく。
それによって、五感ではない何かが身体の奥で目覚めつつあるのを、漁牙はぼんやりと感じた。
倒れていた身体が、いつの間にか立ち上がっている。
「哀れな……もはや死に体ではないか」
ゾス・オムモグが呆れている。
「そこまでして何故戦う。諦めない心、折れない心を褒めて欲しいのか?」
「そんなんじゃあねえ……ただ、てめえが弱っちいってだけの事よ」
ゾス・オムモグに、漁牙は人差し指を向けた。
「てめえの攻撃なんざぁ全然効いちゃいねえと、要するにただそれだけの事よ!」
「……アテナの聖闘士は、往生際の悪さが取り柄というだけではなさそうだな。身の程知らず、でもあるようだ」
ゾス・オムモグの小宇宙が、怒りで揺らめく。
「良かろう、そこまで命が要らぬと言うのであれば……むっ!?」
異変が起こった。
その異変を、漁牙も感じ取っていた。目覚めつつある、五感でも第六感でもない何かで。
ルルイエ内部で、とてつもなく強大な小宇宙が渦巻いている。
それが、この異形の神殿を浮かべる海域そのものにまで影響を及ぼしていた。
海面が荒れ狂い、半ば津波に近いほどに隆起して、ルルイエの石畳を激しく叩く。
漁牙のいる所にまで、水飛沫が飛んで来る。
「こ、これは……この小宇宙の高まり……まさか、ダゴン様が……」
ゾス・オムモグが、何やら戦慄しているようだ。
「あの技を、お使いになるのか……迷い込んだ小魚にも等しい青銅聖闘士2匹が、まさかそれほどの相手だと言うのか……!」
ルルイエ周辺で、海が荒れ狂っている。
海原の大振動が、この迷宮内部にまで伝わって来る。
「細胞のひとかけらも残さず、この海に消え果てるが良い……アテナの聖闘士たち」
海そのものを揺り動かす小宇宙を発しているのは、ダゴンである。
その小宇宙が、今から自分たちを襲う。
羅針盤座の海斗と、帆座のナギ。2人の青銅聖闘士を、一緒くたに粉砕せんと燃え上がり渦巻く小宇宙。
それを、ダゴンが放って来る。
「受けよ、我が奥義……ケイオティック・オーシャン!」
小宇宙の渦巻き、小宇宙の奔流、小宇宙の荒波。
否……それは、小宇宙の海であった。
巨大な海そのものが、荒れ狂いながら押し寄せて来る。
その前に、ナギがいつの間にか立っていた。海斗を、背後に庇う格好でだ。
(ナギ……!)
呼びかけようとしても、声は出ない。舌も、声帯も、麻痺している。
海斗の五感は、すでに死んでいるのだ。そしてそれは、ナギも同様であるはずだ。
満身創痍の細身に、水着のような青銅聖衣を装着した少女が、荒れ狂う小宇宙の大海原に身を晒している。
まるで天女の羽衣の如く光り揺らめくものを、まといながらだ。
『セーリング・カウンター……』
ナギの小宇宙が、静かに燃え上がる。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それに第六感。その全てを失った少女が、7番目の何かを覚醒させながら小宇宙の帆を広げ、迫り来る死の大海原へと挑んでゆく。
まるで、大波に揉まれる小舟だった。ちっぽけな帆は、今にも折れて破けてしまいそうである。
7番目の力でしっかりと立てられ張られた帆は、しかし折れなかった。破れなかった。ちぎれそうにはためきながらもケイオティック・オーシャンを受け止め、船の推進力へと変換してゆく。だが。
『うっ……く……ッ!』
ダゴンのもたらす小宇宙の奔流、小宇宙の荒波の中で、ナギの細身が痛々しく揺らぐ。
保たない、と海斗は思った。
やはりナギ1人では、ダゴンの強大な力を完全に受け止める事は出来ない。ナギ1人ならば、だ。
『俺によこせ、ナギ!』
耳では聞こえぬ声で、海斗は叫んだ。
『俺が、叩き込んでやる……お前の受け止めた、それを』
『……まかせた……わよ……海斗……』
ナギの細い身体が、よろめき、もたれかかって来る。
海斗は、左腕で抱き止めた。
激しくはためく小宇宙の帆が、海斗の全身にまとわりつく。
帆に吸収されたケイオティック・オーシャンの破壊力全てが、全身に流し込まれて来る。
海斗は、血を吐きながら右拳を握った。
体内に流し込まれて来たもの全てが、その拳に集中してゆく。
海斗は叫んだ。もちろん声にはならない。血を吐きながらの、無言の叫び。
それと共に、右拳を繰り出す。
流星拳。パンチをただひたすら高速で放つだけの、聖闘士にとっては基本中の基本と言うべき技。
そこに海斗は、ナギから受け取ったもの全てを宿し、叩き込んだ。
ケイオティック・オーシャンの全破壊力を孕んだ流星拳が、ダゴンを襲う。
「む……っ」
風に舞う木の葉のように身を翻して、ダゴンはかわした。
絶大な破壊力の塊となった流星拳が、そのまま高速直進して迷宮の奥へと消えて行く。
「……肝を冷やしたぞ。どうやら、君たちを侮っていたようだ。最強の技を考え無しにただ放つだけで倒せるなどと」
ダゴンが言った。
「だが、これで終わりだ。あれを外してしまった以上、もはや君たちには何も残ってはいまい」
『……何度でも、言うぞ。俺は……羅針盤座の、聖闘士だ……』
叫ぶように、海斗は激しく念じた。
『外しはしない……攻撃を、正しい方向へ……導くだけさ……狙いは、お前じゃないんだ』
「何……!」
ケイオティック・オーシャンの破壊力を内包した流星拳は、ダゴンに回避された今もなお、迷宮の奥を直進している。
いや、左へ曲がった。
続いて右に曲がり、しばらく直進した後、右折と左折を繰り返す。そして下り階段に到着し、下へと降りて行く。
ルルイエの最下層、最奥部へと向かって、巨大な破壊の流星は迷宮内を飛翔し続ける。
海斗の、小宇宙による操作に従ってだ。
『これが……俺の、必殺……ナビゲーション・ブロー……!』
ルルイエ全体が、揺らいだ。少年は、そう感じた。
ミソペサメノスと同系統の秘術で己を仮死・休眠状態に落とし込んでいたのは、ルルイエの神が発信する狂気の悪夢から身を守るためだが、その休眠も覚めてしまった。
狂気の悪夢は、しかし襲って来ない。
謎めいた小宇宙を、少年は仮死状態にありながら、ずっと感じてはいた。
それは、音楽であった。
恐らくは竪琴によるものであろう小宇宙の調べが、先ほどからずっとルルイエの神に干渉していたのだ。
演奏者は、どうやら神を眠らせようとしていたらしい。壮絶なまでの無謀、とは言える。
だが今、神に一撃を叩き込んだ者がいる。
まるで、流星のような一撃だった。
流星あるいは隕石が、ルルイエの最奥部のみを直撃した。
そんな烈しい小宇宙の激震を、少年はこの牢中にいながら感じていた。
まだ完全に力を取り戻してはいない神を、怯ませるには充分な一撃だった。
怯んだ神に、小宇宙を孕む竪琴の楽の音が襲いかかる。
神が再び、夢も見ないほど深い眠りへと落ちてゆくのを少年は感じた。
「……誰だか知らんが……よく、やってくれた」
両手両足を拘束していた鎖を、少年は引きちぎった。
ルルイエの神は眠り、狂気の悪夢も消え失せた。もはや仮死の秘術で待機し続ける必要もない。
「夢も見ない……どころではない。永遠の眠りに就かせてやるぞ、異形の神よ」
呟きつつ少年は、否、と思った。
あれは、神などではない。
大海原に汚れをもたらす、おぞましい怪物でしかないのだ。
この海という領域において、神と呼ぶべき存在は1つしかない。
「ポセイドン様の聖域を穢す者ども……生かしてはおかぬ」
つい今まで休眠状態にあった少年の全身に、小宇宙が満ちてゆく。
細く無駄なく鍛え込まれた身体を包む鱗衣が、光を宿した。
「1匹残らず、魚の餌にしてくれるぞ。この、カリュブディスのガニメデが!」