絶海の戦士たち   作:小湊拓也

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第2話

 青銅聖闘士・羅針盤座の海斗は思った。

 自分たちはまた誰かの作り出した幻覚の中に迷い込んでしまったのではないか、と。

 悪夢の中にある光景の如く、いびつに捻じ曲がった楼閣が、いくつも聳え立っている。石造り、であろうか。

 足元は、どうやら石畳だ。

 発狂した彫刻家が作り上げた石細工、のような建造物群が、南太平洋の真ん中に浮かび上がっている。

 上空からは、そう見えるであろう。

「な……何でぇ、ここは一体……」

 青銅聖闘士・竜骨座の漁牙が、落ち着きなく周囲を見回している。

「薄気味悪い小宇宙が、プンプン臭いやがる。ゲロ吐きそうだ」

「あたしたち聖闘士だから、まだいいけど……普通の人がここに来ちゃったら、吐くくらいじゃ済まないわね」

 青銅聖闘士・帆座のナギが、軽く頭を押さえる。

「こんなのが今、世界じゅうに垂れ流されて……」

「大勢の人たちを、発狂させている」

 青銅聖闘士・艫座の勇魚が、片膝をついて身を屈め、石畳に片手を触れる。

「この下……地下なのか海底なのかは、わからないけれど」

「ああ、とんでもねえゲテモノが眠ってやがるな、どうやら。そいつが、このワケわかんねえ小宇宙を垂れ流してやがる」

「眠ってるって言うか、そろそろお目覚めみたいね。また眠らせてあげるのが、あたしたちのお仕事」

 ナギが、左掌に右拳を打ち込んだ。

「とっとと始めましょうか。手っ取り早く終わらせて、カミュ様に会いに行くの!」

「……邪念に満ちた小宇宙が溢れ出してるぞ、ナギ」

 苦笑しつつ、海斗は空を見上げた。

 まるで三日月の如く、空中に裂け目が生じて消えず残っている。

 シュラの聖剣がもたらした、空間の裂け目。

 そこを通って、青銅聖闘士4名が今、この謎めいた場所に降り立ったところである。

 神殿、なのであろうか。

 地下に眠る、この禍々しい小宇宙の発生源を、神などと呼べるならばだ。

「……お出迎えが来たぜ、おい」

 漁牙が言った。

 無数の人影らしきものが、青銅聖闘士4名を取り囲む形に、湧き出して来る。歪み聳える楼閣の、中から、陰から。

 人間大の、武装したカエル。あるいは四肢を生やした怪魚。そんな姿の怪物たちだ。

 あの幻覚の中で海斗たちを襲った、異形の生き物の群れ。

 幻覚の彼らは素手で海斗たちを引き裂こうとしていたが今、現実に存在している彼らは全員、槍を手にしている。

 魚の骨の如くギザギザとした穂先。長柄のノコギリ、のようでもある。

 そんな凶器が、あらゆる方向から海斗に、漁牙に、ナギと勇魚に、襲いかかる。

「あの人……」

 海斗はふと思い、言った。

「あの幻覚の中で、こいつらとの模擬戦を経験させてくれたのか……こいつらが何者なのか、もしかしたら知ってるのかも」

「そんなら、もっと話聞いときゃ良かったなー」

 呑気な声を出しながら、漁牙が拳を振るう。

 砲丸を叩き付けるようなパンチが、襲い来る槍を何本もへし折り、それを握る怪物たちの上半身をグシャグシャアッと粉砕した。

「どんな奴らが相手でも、あたしは蹴散らしてカミュ様に会いに行くのッ!」

 欲望そのものの小宇宙を燃やしながら、ナギが怪物の群れに突入して行く。

 少女の形良い両手が手刀を成し、多方向に閃いた。

 ノコギリ状の穂先が、ことごとく切断される。カエルのような魚のような生き物たちの生首が、スパスパと宙を舞う。

「ああんカミュ様! 帆座のナギが今、参りますっ! 必殺、セーリング・ウェイブ・ソルト!」

 ナギが跳躍した。

 水着のような聖衣をまとう細身が、空中で柔らかく反り返り、しなやかな脚が跳ね上がって下から上へと弧を描く。

 海面が盛り上がり、高波となって天を衝く。そんな光景を海斗は一瞬、確かに見た。

 20体近い怪物たちが、その高波に打ち上げられ、高々と宙を舞いながら砕け散った。

「ナギは……少しくらい心に邪念があった方が、強いみたいだね」

 微笑みながら勇魚が身を揺らし、あちこちから襲い来る槍をかわしてゆく。

 くるくると躍動する回避の舞い。それに合わせて、左右の足が高速離陸し、回し蹴りの形に弧を描く。

「僕の琴は、まだ修行中……オルフェ先生の足元にも及ばない、未熟な技」

 竪琴を抱き締めたまま勇魚は、2匹3匹と怪物たちを蹴り砕いてゆく。

「とても人様に聴かせられるものじゃないから、君たちにはこれを……ヴォルテクス・レクイエム!」

 ナギの技が高波であるならば、勇魚の技は大渦であった。

 超加速する連続回し蹴りが、怪物たちを潰し砕いてゆく。大量の肉片と体液の飛沫が、勇魚を中心として激しく渦を巻いた。

「俺もそろそろ……自分の技、考えないとな」

 呟きながら海斗は、自分に向かって来る怪物たちを見据えた。

「まだ、ちょっと思いつかないから……先生すいません使わせてもらいます、マーブルトリパー!」

 人型のカエルあるいは魚としか表現し得ない異形の群れが、振りかざした槍もろとも砕け散る。食べられそうにない挽肉が、大量にぶちまけられる。

 蜥蜴座のミスティが放つ本物のマーブルトリパーは、このような無様な残骸を残さない。あらゆるものを原子の塵に変え、綺麗さっぱり消滅させる。

「ふん……そこそこは、やるようだな。アテナの聖闘士ども」

 声がした。

 同時に、凄まじい小宇宙が、羅針盤座の聖衣の上から海斗の全身を打つ。

 まだ大量に生き残っている怪物たちを掻き分けるようにして、1人の聖闘士が姿を現したところである。

 いや、聖闘士ではない。

 聖衣のようなものをまとった、筋骨たくましい男。だが聖闘士ではない。聖闘士とはあまりにも異質な存在。

 あの鋼鉄聖闘士など問題にならないほど、おぞましい何者かである事が、海斗にはわかった。

 最も特徴的なのは、両肩だ。聖衣のショルダー部分のようなものが、無数の、蠢く触手を生やしている。大型のイソギンチャクが、左右の肩に1体ずつ寄生しているかのようだ。

 そんな怪物じみた鎧をまとった男が、名乗りを上げた。

「我が名はムナガラー。大いなるルルイエを守る者の1人よ」

「1人だと……つまり、あと何人かいるって事か」

 海斗は言った。

「なのに、あんた1人で来た……俺たちが、なめられてるって事かな」

「拍子抜けよ。我らはな、黄金聖闘士どもの襲撃を想定して防備を固めているのだぞ? 青銅の小僧小娘など、何匹群れようが俺1人で充分よ」

「そうかい。じゃあ俺らは全員がかりでボコらせてもらうぜえ!」

 漁牙の小宇宙が燃え上がり、巨大な竜の骨格を成した。

「喰らいやがれ! スカルドラゴン・クラッシャー!」

「あたしはカミュ様に会いに行く! 邪魔する奴にはセーリング・ウェイブ・ソルト!」

「安らかに……ヴォルテクス・レクイエム!」

 ナギが高波を、勇魚が大渦を発生させる。

 3方向からの攻撃を、ムナガラーはかわさなかった。

「貴様たちの血を、肉を、命を、魂を、我らが支配者に捧げてくれようぞ……アビス・トルネード!」

 巨大な禍々しい小宇宙が、ムナガラーの周囲で荒れ狂う。

 高波が、大渦が、骨の竜が、砕け散った。

 ナギが、勇魚が、漁牙が、吹っ飛んで石畳に激突する。

 荒れ狂う攻撃的小宇宙の奔流。その軌道を、流れを、海斗は見据えた。見極めた。

 見極めながら、踏み込んだ。ムナガラーの禍々しい小宇宙が、全身あちこちをかすめて走る。

 だが、直撃はなかった。

「む……貴様」

 ムナガラーが軽く息を呑む。

 その眼前に、海斗は到着していた。

「俺、逃げ足は速くてね……逃げ回ってるうちに、相手の懐に飛び込んでいた。そんな事、よくあるんだよっ」

 拳を繰り出す。ムナガラーの身体が、激しく揺らぐ。

 そこへ2発、3発と、海斗は左右の拳を叩き込んだ。

 流星拳。

 聖闘士の技の、基本とも言うべき攻撃だ。パンチを、とにかく可能な限り高速で放つ。

 これを、必殺技と呼べる段階にまで高めた聖闘士もいるらしい。

 海斗の流星拳は、そこまでのものではない。

 だが2発、3発とムナガラーを揺るがし、怯ませる事は出来た。

「うぬっ……小僧……」

「とどめだ、マーブルトリパー!」

 師匠からの借り物である技が、ムナガラーを直撃した。

 吹っ飛んだムナガラーが、しかし大柄な身体を軽やかに一転させ、着地する。

「……それが全力か、アテナの聖闘士よ」

 不敵な、凶悪な笑みが、ニヤリと海斗を威圧する。

 ムナガラーの両肩で、無数の触手が蠢いた。そして伸びた。

「取るに足らぬ、微弱な小宇宙だが……まあ吸い尽くしてくれようか。このアビス・テンタクルでなあ!」

 海斗の身体が、宙に浮いた。

 ムナガラーの両肩から伸びて来たものたちが、少年の全身を絡め取り、持ち上げている。

「ぐっ……う……ッ!」

 海斗の悲鳴が、呼吸が、詰まった。

 触手が、首に巻き付いているだけではない。羅針盤座の聖衣の上からミシミシ……ッと、容赦なく締め付けを加えてくる。

 このままでは絞め殺される、あるいは五体を引きちぎられる……いや、それよりも。

 全身から力が、小宇宙が、吸い出されてゆくのを、海斗は呆然と感じていた。

 イソギンチャクのようなムナガラーの両肩が、無数の触手で、海斗の身体から小宇宙を吸引しつつあるのだ。

「ふん……小宇宙の、質も量も貧弱そのもの。この程度の者どもがよくもまあ、たった4人でルルイエに乗り込んで来たものよ。アテナや黄金聖闘士どもは、どうやら貴様らを捨て石に使うつもりのようだな」

「俺たちは……捨て石……程度の役にも、まだ立っちゃいない……」

 触手の拘束に抗う力もないまま、海斗は呻いた。

「……このまま……倒れる……わけには、いかないんだよ……っっ!」

「ほざくな小僧。そんな様で何が出来る」

「俺が、何にも出来なくても……な……」

 海斗の言葉に応えるかのように、まず漁牙が立ち上がっていた。

「おいクラゲ野郎……いや、イソギンチャクだかホヤだかは知らねえがよ。とにかく酢か何かに合えて食っちまうぞ」

「……あたし遠慮しとくわ。こんなゲテモノ、食べたらお腹壊しちゃう」

 ナギも、それに勇魚も、立ち上がっていた。

「死にそうだね海斗。弔いの曲でも、弾いてあげようか?」

「……いいね、弾いてやれよ。こいつの、ために……」

 全身を締め付ける触手の、発生源である男に、海斗はニヤリと微笑を向けた。

「……群れるしか能のない、雑魚どもが」

 海斗を絡め捕えて空中に持ち上げたまま、ムナガラーが怒りの小宇宙を燃やす。

「貴様ら小魚の群れは、より強い生物に喰われるしかないのだ。それが海の掟よ!」

 その小宇宙が、激しく渦を巻いた。

「我らの偉大なる支配者が、夢を見る! その夢を共有し、狂う者は狂い死ぬ者は死ぬ! そして生き残った者の糧となるのだ! 大いなる狂気の時代の到来、邪魔はさせん! アビス・トルネェードォオオオッ!」

 巨大な小宇宙の奔流が、青銅聖闘士3名を襲う。

 禍々しく荒れ狂う小宇宙の流れを、行く道を、しかし漁牙もナギも勇魚も見切っていた。

 3人が、アビス・トルネードをかわしながら、揺らめくような足取りで踏み込んで行く。

 ムナガラーが狼狽した。

「何ッ……!」

「海斗が、手本を見せてくれたんでなあ」

 漁牙が笑い、勇魚が語る。

「僕たちは、四身一体の戦船。羅針盤座の聖闘士が成し遂げた事は、僕たちにも可能になる。こうやって小宇宙を同調させれば、ね……羅針盤は、船を導くものだから」

 語りながら、竪琴を爪弾く。ムナガラーの眼前、と言うか耳元に近い位置でだ。

「弔いの楽曲、聞いてもらうよ。ストリンガー・ノクターン!」

「一緒に喰らいやがれ、スカルドラゴン・クラッシャー!」

 先ほどの勇魚たちのように、今度はムナガラーが吹っ飛んでいた。

 触手がちぎれ、海斗の身体が解放されて落下する。

 漁牙が、受け止めてくれた。

「大丈夫かよ、海斗」

「まあな……助かったよ」

 漁牙の大きな身体に半ば寄りかかるようにして、海斗はどうにか立ち上がった。

 ムナガラーも、立ち上がっている。

「雑魚どもがぁあ……許さんぞ、粉々に噛み砕いてくれる!」

 ちぎれた触手たちがニョロニョロと再生し、凶暴に蠢き躍る。その発生源である両肩が、円形に口を開き、牙を剥いている。

 青銅聖闘士4人を、触手で捕えて食い殺す。そんな構えである。

「粉々になるのは、あんたの方よ。これ、何だかわかる?」

 ナギが1歩、進み出た。

 その細い全身で、小宇宙が揺らめいている。天女の、羽衣のように。

 小宇宙で組成された、羽衣……と言うより、帆であった。

 羽衣のような帆が、何かを受け止め、蓄積し、くすぶらせている。

「海斗のおかげでね、あんたの技を見切る事が出来た。見切って、受け止めて、力に変える……帆は、風を受けて船を動かすものだから」

 小宇宙の帆が、光に変わり、ナギの身体から3方向に分かれて飛んだ、まるで流星のように。

「……セーリング・カウンター」

 3つの光が、漁牙の、勇魚の、海斗の身体に吸い込まれる。

 力を吸い取られた身体に、新たな力が流れ込んで来るのを、海斗は感じた。

 それはナギが小宇宙の帆で受け止め、蓄積したもの……アビス・トルネードの全威力を、4分割したものの1つだった。

「貴様ら……!」

「……覚えておけ。聖闘士に、同じ技は2度も通用しないんだ」

 海斗が、そして漁牙が、勇魚が、ナギが、身構えた。

 4つの星座から成る、英雄の戦船が、そこに出現していた。

「まとめて噛み砕かれるだけの小魚でも、この程度の事は出来る! アルゴ・エクスクラメーション!」

 4分割された力が、4人の聖闘士によって放たれた。各々の小宇宙を、上乗せされた状態でだ。

 そして1つの巨大な力となり、ムナガラーを直撃する。

「ぐっ! わ、我らが偉大なる支配者に! 狂気と栄光あれええええええええええッッ!」

 最後の叫びを響かせて、ムナガラーは原子の塵と化した。

 海斗は1つ、息をついた。

「聖闘士らしく正々堂々、1対1の戦いなんて……俺たちには当分、無理なんだろうな」

「勝たなきゃあ、地上の平和も正義もクソもねえ。デスマスク様が、そう言ってたぜ」

 漁牙が軽く、海斗の肩を叩いた。

 実戦では、なかなか1対1とはいかん。正々堂々というのは、まあ心構えだな。

 アイオリアも、そんな事を言っていたものだ。

 拍手が、聞こえた。

「見事……実に、お見事。最下級の青銅聖闘士なりに力の入った、実に興味深い戦いぶりよ」

 カエルのような怪魚のような怪物たちの群れ。その中から、また1人、聖衣に似たものをまとう男が姿を現したところである。慇懃無礼に、拍手をしながらだ。

「君たちとの戦いをムナガラー1人に押し付けてしまった、我らの不手際を認めざるを得まい」

「……とか言いながら、あんたも1人で戦おうってわけ? あたしたちと」

 ナギが、続いて勇魚が言う。

「僕たちとしては、その方が都合がいい……各個撃破を、させてもらうだけさ」

「我々も忙しくてね。偉大なる支配者の目覚めに備えて、いろいろと準備しなければならない事がある」

 ムナガラーがイソギンチャクであるならば、この男はヒトデだった。全身あちこちで、星型の金属鎧が不気味に輝いている。

「総出で害虫退治に繰り出すほど、暇ではないのさ。たまたま手の空いた私が、仕方がないから君たちを駆除してあげよう……小賢しいアテナの尖兵たちよ、このゾス・オムモグの手にかかる事を光栄に思いたまえ」

 

 

 アテナの聖闘士たちが、このルルイエに、たった4人で攻め込んで来たという。

 無謀である。笑いたくなるほどの、愚かしさである。

 だが単身で攻め入って来た、この少年に比べれば、まだいくらかは頭を使っているのかも知れない。

「我らの支配者が、まだ完全には目覚めていない今であれば……1人でどうにか出来る、とでも思ったのか」

 鉄格子の向こうで鎖に繋がれている少年に、ダゴンは語りかけた。

 少年は、応えない。海水に浸しても錆びる事のない特殊な鎖で四肢を拘束されたまま、無言で俯いている。潮の香りに満ちた闇の中で、目を閉ざしている。

 眠っている……いや、死んでいるようにすら見えてしまう。

「わかるぞ少年よ。お前は今、眠っているのでも死んでいるのでもない……力を、蓄えているのだ。ミソペサメノスに近い力で、己を休眠状態に落とし込んでいる」

 屍のようでもある少年の身体は、鎧に覆われている。アテナの聖闘士たちが身にまとう、聖衣に相当する武具だ。

 引き剥がす事は、出来なかった。この鎧は聖衣の如く自らの意思を持ち、少年の身体にしがみついているのだ。

「このような状態にあってなお、お前は我らと戦う事を諦めてはいない。命を奪っておくべき、なのかも知れん」

「それはいけませんよ、ダゴン様」

 声をかけられた。

 声で、辛うじて男とわかる。たおやかな容姿は、しかし美女のようでもある。

「これほどの戦士、ただ殺してしまうのは生命と力の無駄遣いというもの……そう申し上げたばかりではありませんか」

 その美貌は、深海魚を思わせる不気味な形状の兜で、禍々しく彩られている。

 細い全身のあちこちに貼り付いているのも、金属製の深海魚とも言うべき、おぞましい形の甲冑だ。

「私が、使いこなして御覧に入れますよ。忠実な操り人形として、ね」

「いささか楽観が過ぎるのではないか、ハイドラよ」

 ダゴンは言った。

「こやつの力、実際に戦った私でなければ本当にはわからぬ。殺すには惜しい、それは確かだが危険な男でもあるのだぞ」

「殺すのは、いつでも出来ます。私はね……この少年が、気に入ったのですよ」

 ねっとりと鉄格子にすがりつきながら、ハイドラが艶然と微笑む。

 ダゴンは、それ以上は何も言わなかった。

 この少年を気に入っているのは、ハイドラだけではない。

 この少年を生かしておく。それは、偉大なる支配者の意思でもあるのだ。

「…………おや?」

 ハイドラが、軽く目を見張った。

「我らの支配者が……また、夢を見ておられるようですね」

「そうだな。目覚めの近い、激しい夢だ」

 この場に普通の人間がいれば、その者はたちどころに狂死を遂げているだろう。

「地上では、多くの人間どもが……この夢を、偉大なる支配者と共有しているのであろうな」

 狂気に取り憑かれ、通りすがりの人間を襲う者もいるだろう。建物から身を投げる者もいるだろう。

 車を運転しながら発狂し、人を轢きながら自身も死ぬ。そんな者もいるだろう。

 狂う者は狂い、死ぬ者は死ぬ。生き残った者のみが、新たなる狂気の王国に住まう民となるのだ。

「お前も、この夢を受け入れさえしてくれれば……我らの同志として、生かしておいてやるものを」

 鉄格子の向こうの少年に、ダゴンは語りかけた。やはり、応えはない。

 この少年が、己を仮死に近い休眠状態に落とし込んでいる。

 それはやはり、この狂気の夢の影響を受けぬようにするためであろう。


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