大英博物館の地下深くに広がる魔術教会の総本山、時計塔。その最深部にある【橋の底】と呼ばれる特別区画は、魔術師の中で名誉と同時に忌み嫌われる称号【封印指定】にされた魔術師たちが数多く幽閉されていた。
その橋の底では、魔術師たちは生きたままホルマリン漬けにされ、試験管の中に存在していた。暗い地下倉庫で魔力による光だけがその場所を薄暗く照らし、被検体達の姿を映していた。皆が魔術による措置で魔力の封印と永遠の眠りについていつ終わるともわからない悠久の時間をサンプルとして過ごす。
中には、死体や脳頭蓋だけのサンプルもあるなど、魔術師の闇が平然と陳列している。その区域を研究目的の魔術師がお目当ての存在を求めて訪れる以外は、ほとんど人が訪れはしない。
ーーーーーーゴポ
「なんだ?」
「どうしたのかね?」
「いや、なんかこいつが動いた気が」
「馬鹿を言うものではない。そんなことはありえはしない」
不気味なホルマリン漬けの試験管の並ぶ一角を、2人の中年魔術師たちが通っていた。その時、物音さえしないその場所で何かの音を聞いた魔術師が立ち止まる。そして、自分の右側に陳列されている幼い少女の標本を見つめる。
それを不審に思ったもう一人が聞けば、気のせいだと立ち止まった足を動かし、上階への階段に向かう。
彼らが通り過ぎた後、先程の男性魔術師が見つめていた試験管に浮かぶ少女に異変が起こった。永遠の眠りにつき、二度と世界と干渉する事の無い6歳ほどの少女。身長をゆうに超える長い髪は、ホルマリン液の中で漂っていた。
意思などと言うものは既になく、記憶や生体機能ですら剥奪された少女に世界はある物を与えた。
ほのかに光るだけの試験管。その中に居る少女の右手の手の甲が、突然眩い赤き光を発する。意識の無い筈の少女が手の甲のまばゆい光に導かれるようにホルマリン液の中で上がっていく。
力無く上がった右手が胸の高さまで上がると、何年、いや何百年眠っていたかわからない魔術回路に右手の甲から魔術が逆流する。膨大な魔術が赤い稲妻として右手から全身に魔力が駆け廻り、封印されていた魔術回路をこじ開ける。魔力が全身に廻り、封じられていた生体活動が再開する。少女の心臓が新たに鼓動を刻んだ時、硬く閉じられた少女の目が開かれる。
世にも珍しい七色に輝くひとみが開いた刹那。手の甲で輝いていた光が形を持ち始める。光は、十字架を囲うウロボロスの形を取って、令呪として刻まれる。令呪が刻まれし時、少女や他の研究対象の試験管が一斉に砕け散った。
「ごほ、ごほ、……」
試験管から解放された少女は、石の床に転がると肺にたまったホルマリン溶液を吐きだす。そして、咽ながら不器用に産まれたての小鹿のように地面を這いながら手の甲を眺める。視力が回復していないまでも令呪の存在感が彼女にそれを促した。記憶も自己意識もない死んでいた少女は、令呪に導かれるように声を上げる。
「あーー、あああああーーーーーーーーーー」
酸素が胸に入り酷く苦しい、試験管の破片が身体を傷つけ血が流れる。そして、周囲の封印された魔術師達は、己の入っていた試験管の破片でそれぞれが出血。ドーム状の端の底全体にホルマリン液とそれぞれの血液が運命に導かれるように巨大な魔法陣を創りあげていた。その中心で少女は大きな声を上げ、赤ん坊が母親を本能で呼ぶかのように、声を上げた。
何百と言う封印指定の魔術師達の血で偶然完成した魔法陣は、唯一生き返った少女の魔力に反応して赤く輝く。
その輝きが橋の底を太陽のような輝きで覆いつくし、ようやく光が終息する。
「あ~……?」
前代未聞の規模で偶発した神秘。それは、空っぽの少女の前に一人の存在を召喚したのだった。少女を見下ろし、口の橋を釣り上げる存在。
身長は180前後で、髪の色は闇のような黒と赤い瞳。肌の色は日に焼けたコーカソイド。着ている衣服は、魔術回路が模様として縫われた灰色の外套とナイフを備え付けたズボン。見た限りでは、どの年代の服かは判別不能。
だが、少女を見下ろす瞳はどこか悲しげで、それでいながら表情は明るげだった。
「俺を召喚した大馬鹿はお前か? 」
「?」
最初に少女に話しかけた美丈夫。しかし、首をかしげられるだけで反応がない。数秒相手の反応を待つが、少女は喋れない。徒労である。
「よんじゃいけない……というか喚べない英霊を喚ぶ大馬鹿がどんな破滅願望者か興味あったけど……これじゃな」
「う~」
「座に帰ろうかな……」
コミュニケーションが取れていない現状に喚び出された存在は頭を抱える。そして、少女を見極めようと腰を曲げて七色に輝く瞳を見つめる。
「生まれたばかり……か。中身がなんもねぇな」
「おー、あ……」
両脇に手を通して少女を持ち上げるただならぬ雰囲気を纏った男。心底困った表情で手のなかで不思議そうに見返す少女を観察する。
衣服を着ていないため寒そうだなと考えるのが関の山だった。
「畜生、願いも願望も本当にない奴に俺の力貸していいのか? 」
「……いん、すとーる」
彼に抱き上げられ、この場で産まれて初めて他者と接触した少女。特に意味はなく、口が勝手に開き、自発的に魔術回路が起動する。掌で触れている部分から、彼の体を少女の魔術回路が侵食する。そして、全身をめぐった魔術回路は、すぐに少女の体へと戻る。
「俺を食うつもりだったか?」
「……おそと、でたい」
突然少女が言葉を発したことに驚く男性。先程までただ生きているだけの存在が、自分に何かをしたこと知識と言語を得たのだ。
ふたたび少女を見極めようとすれば、相変わらず感情は皆無だが、生物として世界に根を下ろしていた。
「中身がない……だから、他の存在を読み込むことで補う魔術か」
「ん?」
どうやら効率は良くないらしい。だが、彼は少女が人間に進化しうるのなら、見守る方針を定めた。
「英霊(サーヴァント)として、喚ばれたのも何かの縁か。いいぜ、お前が人間になるまで面倒見てやる。そして、本当のお前が完成した時、選ばせてやるよ」
正体不明のサーヴァントは、少女を抱えたまま、出口を探す。自分で抱き上げている間も、少女は幾度となく「install」と言いながらサーヴァントたる彼の機能を読み取っていく。
「俺とお前のラインは、相当強いみたいだ。お前の成長具合まで把握できるぜ……だが生憎だな、俺の記憶とかは全く読み取れてないぞ」
貪欲なまでに相手を解析する少女。彼女は彼から取り入れた好奇心と欲望から、現在の行動原理を得た。だが、サーヴァントたる存在を全て解析するなど無理な話。それこそ抑止力にでもならない限り他者を完璧に理解することなど不可能である。
出口に向かう途中、結界のようなものがサーヴァントである彼を阻んだ。バチバチとサーヴァントを拒絶する強力な結界と橋の底の管理を担う防犯魔術が鎖のような魔術で彼を縛っていく。これは、もしサンプルが脱走した場合、その場で封印する術式だった。魔術工房どころか神殿すら凌駕しかねない時計塔の深き階層。
「普通のサーヴァントならこれはヤバイな」
「う……」
「大丈夫だ。けど魔術師がダース単位で乗り込んでくるぞ……仕方ねぇ」
出られないと思い、後ろを見る少女。記憶はなくても本能的に戻りたくはないのだろう。それを悟った彼女のサーヴァントは封印する術式を膂力で引きちぎり、階段ではなく天井に眼を向ける。
人間離れしたサーヴァントの耳には、多くの殺気だった魔術師が降りてくる足音が聞こえた。鉢合わせしないためには、階段以外を使う他ない。
「よかったな。死ぬほど燃費のいいサーヴァントでよ」
彼のサーヴァントは、腕を天井に振り上げた。少女を抱えていない方の拳は空気を激しく叩き、幾重にも貼られた結界を打ち砕き、魔術で強化された天井を紙のように貫いた。年代を重ねた魔術師達の術を腕力で砕いたサーヴァント。
天井を突き抜けた空気の拳は、地上目指してドリルのように階層の天井や床を貫いていく。時計塔の一角が地震のようなものに襲われ、数々の本が倒れ、研究材料が壊れたりなど被害は甚大だった。
橋の底に向かった魔術師たちも突然の揺れに足をとられていた。それでも使命を果たすために橋の底に駆け付けた魔術師達が見たのは。
地上まで突き抜けた天井と、床に転がる封印指定の標本達だけだった。その惨状は酷いもので、時計塔史上初の大混乱となっていた。
そのせいで多くの魔術師が魔術の秘匿や建物の修復に割り当てられた。封印指定のサンプルも瓦礫に埋まるなどして、判別できないものなどもあった。それらの要素が逃げ出した少女の正体を隠してしまった。
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「さすがに生き返ったばっかのお前じゃ魔力が尽きるな」
そして、まっすぐ地上に出ようとしたサーヴァントだが、魔力切れから途中の階層で立ち止まってしまう。もう一度、跳ぼうかとしたとき、少女が一人で立ち上がり、何かに導かれて歩いていく。それは地上ではなく時計塔の通路だった。
「どこ行くんだ……捕まってもしらないぞ。まぁあいつが惹かれたものがアイツの中身になるならいいか。どうせここに集まるんだから、暫くはいい目眩ましになるだろ」
勝手に何処かに歩いていく少女の後ろ姿を見て、魔力温存のために霊体化するサーヴァント。己がこじ開けた地上までの通路で混乱は起こせた。いざ見つかれば少女を連れて逃げればいいと彼女を追いかけた。
「くちゅん……」
(寒いのか……全裸だしな、しかたない)
ガヤガヤと時計塔に空いた大穴に集まる魔術師達の足音が聞こえ、柱に隠れるも全裸ゆえにくしゃみをした少女。サーヴァントとしては、最低限守るべきだと判断し、廊下のカーテンをもぎ取り少女に巻く。
「おー……」
(魔術苦手なんだが、一応気配遮断は掛けておいた……がんばれ)
意味を理解していないだろうが、健気に歩いていくカーテンを巻いた少女。それを応援しながら初めてのお使いを応援する母親の気持ちを理解したサーヴァント。
少女にとって初めてみる世界は、とてつもなく広大で謎に満ちていた。しかし、感動する心は補完できていないため、記憶にとどまるだけだった。
(ずいぶん遠くまで歩くなアイツ)
小さな足をちょこちょこ動かしながら、歩いていく少女。どこに向かっているかまで把握できないサーヴァントは、行く末を見守るしかない。
「ほう、この世界にはお前が喚ばれるとはな。こんな世界なら観測しないはずだが、耄碌したか」
即席隠蔽概念武装のカーテンを着た少女が、風格ありげな老人すれ違った時、老人が少女を見つけて声をかける。
それに振り返った少女は老人と向き合う。
「う?」
「お前ではないよ。後ろのだ」
老人は、少女の背後に控えていたサーヴァントに話しかけていた。
「あんた……俺を知ってるのか?」
「知っている。無限の可能性のなかで、お前が現れる世界はそもそも観測すらしないがな。しかし、お前と今はまだ空っぽの器が出会うとは……多少は興味がある、一つアドバイスじゃ」
サーヴァントは、正体を知っているという明らかに出鱈目な力を持った爺を警戒する。しかし、その警戒を予想外だと言わんばかりに目を大きく開いた老人は、気まぐれだといってサーヴァントに語る。
「お前の存在は、ここでは目立ちすぎる。色んなものが目覚めてしまう前に、極東にある冬木に行け」
「……ふゆき?」
「人を隠すなら人の中、魔術師を隠すなら時計塔、サーヴァントを隠すなら聖杯戦争じゃ。ちょうどそういう可能性を引き当てた奴がいる……せいぜい利用してみるがいい」
「消えた……霊体化じゃない。不気味なじいさんだな」
周囲に気を配るも先程の老人の気配は、消滅していた。まるでこの世界から消えてしまったかのように。一方、少女は、こっそり老人をinstallしようとしていたが、触れる前に消えられたことで当初の目的に向かって突き進んだ。落ち込むという機能が少女にはなかったからだ。
そして、騒ぎ中心から離れた静かな図書館で、少女はそいつを見つけた。先程の騒ぎも読書に熱中し自分の世界に入っているのか気がついた様子がない。
(この見た感じ小さい兄ちゃんが、悪人ではないけどな)
霊体化しつつ、聖杯戦争の資料を読み、小包を開けようとしている少年を観察する。
だが、少年に興味があるのか大人しく背後で待っていた少女が少年の袖を掴んだ。
-------これが少女とサーヴァントが冬木の聖杯戦争に参加する結末の原因だった。
to be continued
サーヴァントやマスターの情報は載せた方がいいのかな?と疑問が尽きません。