歌と爆弾 ~コズミック・イラ 東京異聞~   作:VSBR

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第六話  測れぬ距離

 目印は人気の同人ソフトのキャラクターが描かれた紙袋。問題は、この界隈ではそういう格好をした人間が多数であり、それではたいした目印にならないという事だ。その分野に詳しくない限り、描かれたキャラクターの区別をつける事は困難である。

 しかし、街に溶け込んでいない印象を与える人間というのはよく目立つ。そういった人間同士で、おずおずとお互いの名前を聞き合いながら集まっていく。傍から見れば、それはパソコンで知り合った者同士のオフ会のような集まりに見えるだろう。

「時間は厳守でお願いしたいものです」

「ならば、もう少しマシな集合方法を提示してもらいたかったものですな」

 ジュンコ・ヤオイの言葉に、参加者の一人が言い返した。秋葉原の裏通りにある雑居ビルの一室に、数名の人間が集まっている。もちろんオフ会などではなく、ジャンク屋組合の残党などによる、アングラのネットワークの会合であった。お互いに摘発された場合の事を考え、集まっているメンバーは全て初対面である。

 ジュンコの所属する組合は秋葉原で一番大きな組織であるが、それでも傘下業者は七社の個人商店のみである。他の参加者も、同様に小さな組合か、大きな個人商店といったものであった。全面戦争の終結に、軍需関連物資の取引規制や軍事費の削減などが続けば、この業界も身の丈に合わせて小さくなっていく。

 しかしこのトウキョウ特別行政区は、彼女らのようなアングラ組織の最後の聖域といって良かった。MS運用ノウハウや開発技術が他の連合主要国と比べて劣る東アジア軍は、彼女らのような非合法活動をある程度黙認してでも、それらの技術を取り入れたいと考えている。そのため軍需関連物資の取引規制は弱く、軍そのものがジャンク屋の取引先となっている事さえあるのだ。

 それに加えて特別行政区内の複雑な政治事情が、摘発の緩さや取引のし易さをもたらしている。今やトウキョウは、MSの一大裏市場となっているのだ。彼女らはそこを取り仕切る元締めであった。

「いよいよ日本軍も得意先か・・・」

「納入済みが二機、受注残も五機。金の出所はオーブの支援団体か?」

 製品の売れ行きに喜ぶだけでは元締めは務まらない。元の組合は政治に関与しすぎ、オーブの傭兵として使い捨てられたのだ。彼らが目指すべきは、トウキョウという聖域を維持する事である。最近の日本軍の動きは、それを揺るがしかねない。

 ジュンコはプリントアウトした資料に目を落とした。日本軍の資金の出所についてはある程度調べを進めている。特別居留区に向けられた小口での送金が、急激に増えていた。参加者の一人が、説明を求める。

 彼女は顎に手を当てて、細い目をさらに細める。そして言葉を選びながら言った。

「おそらく、中華街でしょう」

「幇か!?」

「待て、それじゃ・・・いやありうるが、それだとこちらとしてはどうする」

 会合は夜遅くまで続けられた。参加者の誰もが、自分たちの売上高の上昇が近いうちに何をもたらすかを知っているのだ。彼女らは兵器を扱っていても死の商人ではない。戦争は、いつも彼女らの目の前で起こるのだから。

 日付が変わった頃、ようやく会合は終わる。参加者はぐったりした顔で、雑居ビルを出て行った。目印にした紙袋の中には、流行のアニメキャラクターの等身大水着姿がプリントされたシーツを入れられている。

 

 

 

 

 

 取材が思いのほか長引き、既に日が傾きだしていた。今からだと、ヨシトの身分証ではゲートをくぐれなくなる場面が出てくる可能性がある。そのため二人は、NGO団体の代表でこの孤児院の院長でもあるナタリア・ファリロスからの申し出に甘え、今晩は孤児院に泊めてもらう事にした。

 子供達はめいめいにエプロンをつけ、台所へと向う。食事の支度を手伝うのだ。厨房に立つのは、みなスーツにエプロン姿の屈強な男達だ。子供達も、慣れた手つきで自分に出来る事を手伝っている。

「お客人、こちらへ」

 ダルと呼ばれている男性が、そう言って二人を案内した。柔らかい物腰とは正反対だが、とても礼儀正しい人物のようだ。言葉遣いは少々乱暴に聞こえるが、子供に対しても節度と威厳を持って接していた。

 だが、孤児院というイメージとはかけ離れた人物である事には間違いなく、そんな男性ばかりがここの職員として勤めている。ヨシトはその事を聞いてみた。

「我々は、昔からお嬢とファリロスの家に仕えています」

 答えになっていない返事だが、ヨシトは彼らの間に他人が介在できないような信頼関係があるのだろうと納得した、案内された部屋でベッドに腰をかけ、取材メモを整理しておく。特別行政区の情勢については、いくつか面白い情報が手に入っていた。

 隅田川と荒川を使って人道物資を特別居留区へと運ぶ活動も行っているこの団体は、特別居留区との間で武器や薬物の取引を行っているマフィアの動向について詳しかった。どうやら最近になって、それらの摘発が強化された事と、その摘発に何らかの意図があるのでは無いかということだった。

 もう一つは、現地の行政職員の「独り言」として入手したという話であるが、支援物資でも特に医薬品は今から十分に備蓄しておくべきだという話だった。

「摘発された組の名前、社の方で調べてもらったら何か分かるかもしれないですね。後の方の話は・・・」

 ルーイに意見を求めようと思ったが、彼の姿は向かいのベッドには無かった。彼は厨房を覗いている。ナタリアの隣で野菜を刻んでいる女性の後姿を見ていた。

 あれからもタチバナ邸を尋ねたついでという名目で、病院に顔を出している。だが勤務時間中であったり帰った後であったりと、あれ以降彼女には会えていない。だからこそ、この偶然に驚き以上のものを感じてしまうのだ。ロマンチストではなくとも、異国の地でそんなときめきを感じる事はあろう。アメリ・カグタが時計を見上げる。

 冷蔵庫の上のラジオが六時の時報を告げた。アメリは手にしていた包丁を洗い、そしてエプロンを外す。子供達も分かっているのだろう、めいめいに彼女に挨拶をしていった。厨房から出る彼女に、ルーイが声を掛けた。

「その・・・お久しぶりです」

 アメリは微笑みを返す。だが、その笑みは残念そうな表情を隠せないでいた。夜勤があるので、今から帰らないといけないというのだ。ここには、時々手伝いに来ているので、今度会えたらゆっくり話しましょうと言ってくれる。

 孤児院の玄関まで出て彼女を見送るルーイは、小走りに駅へと向う彼女の後姿を見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

 店内の猥雑なざわめきが不意に落ち着いた。伴奏のピアノは下手だが、その横から聞こえる静かな歌声は、場末のキャバレーからは遠く隔たった印象を与える。日本の言葉でもなければ、連合の公用語でもない、外国の歌。だが、その旋律に潜む哀しさは、聴いている者にも届いているだろう。

 だが、ここにいるのは他人の哀しみに耳を傾ける事の出来る人間ばかりではない。いや、そんな人間の方が少数なのだ。酔客の一人がマイクを持って、歌を歌う女性の横に歩み寄り、下手な歌をがなり始めた。

 女性の腰に手を回し、おぼつかないろれつで歌っている男を、女性は担ぐようにして席に着かせる。さらにデュエットを要求する男に、女性は指名料を求める仕草を見せた。

「律儀ね、わざわざ来てくれるなんて」

 カラオケ男を軽くあしらった女性は、そう言って別の男の横に座る。キリルが視線の置き場を探すように、テーブルの上のグラスを見つめている。

「君がマリアちゃん? ごめんね、こいつこういう店初めてみたくてさ。色々リードしてやってよ」

 しな垂れかかる女性をあやすようにしながら、エリックがそんな事を言う。睨みつけるキリルの視線も、ここでは滑稽以外の何物でもない。景気良くボトルを注文し、さらに別の女性を指名した。

 プラントにこの手の店は無いと言っても過言では無い。十歳で博士号を取るような女性は水商売を選択しないのだ。それに、基本的に人口の少ないプラントでは、可能な限り多くの人間が生産活動に従事しなければならない。男に酌をするだけの女など、プラントでは無益どころか有害なのだ。女に注いでもらう酒が無ければ仕事の出来ない男の居場所はプラントに無く、男に酒を注ぐ時間があれば太陽電池パネルの一枚でも磨いていた方が有益なのだから。

 もちろん、一般人の知らないところでこういった店が存在するという噂はあるが、それが都市伝説の域を出る事は無い。

 だからザフトの男は、地球に降りてからこういう遊びを覚えるのだ。エリックもその一人だった。もちろんキリルのような真面目な男がいる事も分かるが、それはとても損な事だと思った。安い化粧と香水の匂いの奥に隠れている女の体臭は、それだけで男を奮い立たせてくれるでは無いかと。

 両脇の女性の柔らかなボディラインを確かめように手を動かしながら、エリックはじっとテーブルを見つめたまま水割りを飲んでいるキリルを横目で見る。横に座ったマリアという女性は、何かと話し掛けようとしているようだが、キリルはまるでダメだった。この店に入ろうと言ったのは彼であるにも関わらずだ。

 キリルがどういう経緯で彼女の名刺を手に入れたかは知らないが、どうやら彼が南千住周辺を熱心に調査していたのは、ひとえに彼女の存在があったからだろう。この堅物にもそんなロマンスめいた事があるのかと微笑ましく思った。

 人の恋路に首を突っ込むほど野暮ではない。もっとも、これでは恋に発展する前に終わるなとも思う。マリアを指名した客がいたようだ、彼女は申し訳なさそうにキリルに微笑み、薄暗い店内に溶け込むように去っていった。

 

 

 

 

 

 瓦礫を撤去しただけのような空き地の上にテントが立ち並ぶ。食べ物や服などが無造作に並べられているそこは、市場であった。夜のうちに荒川を渡ってきた物資が、朝にはこうやって並ぶのだ。ダンボールの切れ端にマジックで書かれた値札には法外な桁が示されているが、これが日本人特別居留区の生活を支えている。

 セメントとブロックだけで作られたような家から出てきた人が、市場に集まり始める。喧騒と怒号が渦巻く朝の風景であった。

「川一本を隔てたら、ああですよ」

 朝靄が晴れてくると、隅田川の向こう側の摩天楼群が姿を現す。ここはトウキョウ特別行政区内に現出する壮絶な格差の現場であり、東アジア共和国の国内統治手段を如実に示すものであった。それは再構築戦争がもたらした歪みの一端であり、旧世紀から変わらぬ歪みの一端である。

 周りの人間とは明らかに服の汚れ方が違う数人が、軍服のようなものを着た男に先導され、遠くの摩天楼と目の前の廃墟を見比べるように歩いていた。東アジア軍による空爆や侵攻によって、めぼしい建物は全て破壊されている。そんな中、つぎはぎのような修復がなされたビルが、現在の日本軍の司令部となっていた。

 司令部といっても、中枢は別の場所に分散して潜伏しており、ここは前線司令部のようなものである。中にいた男達が敬礼で出迎える中、案内されてきた数人は少し居心地の悪さを覚える。

 彼らはオーブに拠点を置く亡命日本人組織の人間で、特別居留区と日本軍に対する支援物資とともにここを訪れたのだ。その事については、篤いお礼が述べられた。旧式のM1とはいえ、三機のMSを無償供与したのが利いているようだ。

「オーブ政府も動いているのですな」

「いえ、アスハ大統領は他国の内政への干渉はしないと明言しています」

 司令官を名乗る人物の問いにそう答えた。オーブの資源衛星が反ザフト組織の支援を受けて独立を画策したペディオニーテ動乱は、オーブと連合、ザフトによる共同作戦で鎮圧されていた。それ以降、連合加盟各国もプラントも、それぞれの国の内部における分離独立の動きに干渉しないという暗黙の了解が出来ていた。

 再・再構築は、あくまでも現在の中央政府が主導する形で、平和裏にかつ経済的権益を損なわない形で行われなくてはならない。外国勢力と結びついた急進的な独立は、ただ現在の枠組みを破壊するだけで構築はしないのだ。

 もちろん、ユーラシアのように自国の再・再構築の動きを利用して、他国の分離独立運動を刺激しようと画策するところもある。だが、軍事力による干渉などはどの国も考えていない。正確には、国家財政にそんな事を考える余裕が無いのだ。

 オーブ政府が考えている再・再構築は、タマユラ地区の租借権の放棄である。もはやトウキョウの一角にオーブの権益があったところで、そこから得られる収益はそれを維持するための支出を上回らなくなっていた。租借権の延長交渉をしてはいるが、あくまでもポーズであり、最終的には延長しないという形で決着するはずである。

 亡命日本人組織としては、そういったオーブ政府の動きに危機感を覚え、日本軍と接触したのだ。だが、日々空爆に怯えて暮らす特別居留区の組織と、オーブで平和に暮らす組織の間には、埋めがたい溝がある事もまた事実である。

 

 

 

 

 

 テロの未遂事件が相次いでいるのは、警備体制が強化された事によると考えられている。だが手口に稚拙なものが多く、押収された爆発物の分析結果も、まちまちであった。日本軍には分派も多く、またマフィアの抗争でも仕掛け爆弾は使われている事から、取り締まりの成果というより、模倣犯が増加していると考えた方がいいだろう。

 利根川を越えてのロケット弾攻撃は散発的ながら続いており、特別行政区の治安情勢は芳しくなかった。特に東アジア軍の増派が決まってから、何かが軋むようにあちこちで動きが出始めている。警察官としての第六感がそう告げていた。

 芸術的なまでに書類が積み上げられている机で、シュウ・サクラはタバコをふかす。警備部特務課第一係のオフィスは、保安局庁舎で唯一喫煙可能な場所であった。

 日本人特別居留区への物資密輸の頻度が上がっている事や、タマユラ地区の港にヨコハマからの貨物船が幾度か入港している事など、日本軍の監視を行っている隊からは気になる情報が上がってきている。東アジア軍に何らかの動きがあるため、それに対応しているのではないかとも思うが、軍の情報はまったく入ってこない。火を着けたばかりのタバコを空き缶の口に押し当てて、次のタバコに火を付けようとする。

「アラーム!? 緊急か!!」

 オフィスに響いた内線のコールは通常のものと異なった。受話器を取ったシュウは特別強襲部隊の出動命令を受ける。彼らの本職であるが、同時にそれは最も危険な仕事である。

 全隊員に召集の連絡が回され、庁舎内の人間から順に装備を整えていく。防弾・防刃繊維で織り込まれた濃紺のボディスーツに、同色の超軽量セラミック製ボディアーマー。アーマーと同じ素材のヘルメットに、発泡金属製の小型の盾。機関拳銃を持つ突撃要員とアサルトライフルを装備した支援要員が、防弾・防爆装備の専用車両に分乗して、桜田門の庁舎を出て行く。

 マフィアの事務所で立て篭もり事件が発生したとの情報であったが、受話器の向こうの警備部長の言葉は、何かを含むような言い方だった。感度の悪い無線で前後の車と連絡を取りながら、シュウは頭を巡らせる。

「川が流れてたな・・・渋谷川か」

 現場は明治通りを越えてすぐの場所にある小さなビルであった。所有者がマフィアの幹部であり、ビル全部がその事務所として使われていた。シュウは、付近の様子が普段と違う事に愕然とした。

 普通、自分達が現場に着く頃には交通課などが付近を封鎖し、近隣住民の避難などを終えているはずだ。だがここには近くの交番から来たらしいパトカーが一台、ようやく止まっているだけだ。

 そして現場のはずのビルは、あまりにも静かだった。パトカーの中で書類を書いていた警官に、シュウは声を掛けた。完全防備のその姿に、二人の警官は驚いた顔をしている。

「いえ、組事務所から大きな音が聞こえるって通報があったんで来てみたんですが」

 本庁に一報を入れてから現場に来てみれば、今のように静かだったので誤報か何かだと思っていたところだという。

 突然、乗用車がビルの前に止まった。中から出てきたスーツの男は、特別強襲部隊の車両を一瞥するとビルに入ろうとする。隊員がそれを押し留めた。

「保安局の者です。申し訳ないが、身分証を」

「申し訳ないのはこちらです。この現場は東アジア軍が管轄しますので、お引取りを」

 そう言ってビルに向うユ・ケディンをシュウが引き止めた。冷たい言葉で押し問答が続く。二人とも下がる気は無い。シュウがケディンの服装を注意して言った。

「ビルの安全が確保されるまで、下がっていてもらえますか。そのスーツは防弾では無いでしょう」

「心配は無用です」

「いえ、後五秒で突入なんですよ」

 ニヤッと歪んだシュウの口元に、ケディンが怒りと驚きを同時に表す。押し問答しながらも、シュウは隊員の一部に突入の指示を出していたのだ。ガラスの割れる音と、閃光手榴弾の音が同時に響いた。

 しばらくは隊員の怒声が聞こえていたが、それもやがて聞こえなくなる。その一種異様な雰囲気に、シュウは正面に待機していた隊員にも突入を命じた。ケディンも後ろからついてくるようだが構ってはいられなかった。両国の事件を繰り返すわけにはいかないのだ。

 だが既に手遅れであった。ただ、被害者が自分の部下ではなかったというだけだ。ビルは死体で埋め尽くされている。

「ここからは警察の仕事で、いいですか」

 スーツやアロハシャツの死体はマフィアでいいだろう。その周りに転がっている死体は、東アジア軍の軍服を着ている。それも完全武装の姿だ。マフィアが握っている拳銃で何とかなる相手ではない。

 流石に色を失っているケディンを押しのけるようにシュウは隊員に指示を出していく。東アジア軍が特別行政区のトップに圧力をかけ、その命令が保安局に回ってくるまでに、調べられる事は全て調べておきたい。ここに東アジア軍の人間がいる理由は後から考える事だ。

 装備を見れば普通の部隊で無い事は分かる。壁に残った銃弾を確保させ、本庁へと回す。分析すれば部隊の素性も分かるはずだ。

 隊員の一人がビル外壁に付着したゴミを見つける。予想通り川を使ってここまで侵入してきたのだろう。品川や芝浦の爆弾テロも、フロッグマンによる侵入工作の公算が高いとの調査結果であった。

「さて・・・何がどうなっているのやら」

 無性にタバコが欲しくなる。シュウは鉄錆の匂いが充満する空気を吸って、それを我慢するしかなかった。

 

 

 

 

 

 頻繁に川の両岸を行き来しているため、その違いをいつまでも認識する事ができる。タマユラ地区と特別行政区の間は身分証確認ゲートの数も多く、またそのレベルも一日の内に何度も変更されるため、往来が不便なのだ。そのため、普通の人であればめったに川の向こう側に渡る事は無い。

 特別行政区で暮らしていれば、身分証確認ゲートの存在にも慣れてくる。タマユラ地区にはゲートが無く、いつでもどこにでも移動できるという事を知らない人すらいるであろう。カズヤ・イシは、この仕組みの巧妙さにため息をつく。

 とにかく、ゲートの存在と仕組みに慣れなければ円滑に生活できない。そして慣れてしまえば、その存在を気にも留めなくなる。だが特別行政区は、ゲートのレベルを操作する事によって、人々の意識すら操作するのだ。

 特別行政区にとって不都合な場所に行く事は出来ず、人々は見ても構わないものしか見ない生活をする。報道は規制され、表現物は検閲されている。ネットでさえ、高度な知識と専用の機械がなければ、特別行政区にフィルタリングされた情報にしかアクセスできない。

 犯罪を助長する表現から青少年を保護する、繁華街への夜間外出は青少年の健全な育成を阻害する。理由は何とでも付けられるが、やっている事は人間の全ての行動を把握し統制しようという試みだ。それも強制力をもって行うのではなく、無意識のレベルからそれを行おうとしている。

 特別行政府としては、独立運動の摘発や過激派の取り締まりといった、実利的な側面を求めているのであろう。だがそれは、旧世紀に描かれた全体主義ディストピアの出現では無いのか。

「オーウェルでしたか、読んだ覚えがあります」

 相手に口を挟まれて、カズヤ・イシは自分がしゃべりすぎた事に気付く。テーブルの上の茶に口をつけて、ヒートアップした頭を落ち着ける。今日はそういう話をしに来たのではない。

 窓の外に視線を送っていた男性がカズヤに向き直る。落ち着いた雰囲気の壮年だが、かつてはオーブの公安関係者であったらしい。ここはタマユラ地区に本社を持つ警備保障会社である。

 オーブの租借地とはいえ警察権は特別行政区が持っている。この警備保障会社は、タマユラ地区そのものを警備するための会社だというのが、周囲の一致した意見であろう。本国から救援の部隊が到着するまでの間、東アジア軍の侵攻に耐えうるだけの装備を有しているとまことしやかに語られているのだ。

 カズヤの語る噂話に、特別顧問という肩書きを持った男性は笑う。そして噂であればそれに越した事は無いと真顔でいう。

「なにせ、ここも割れていますから」

 本国の方針に従って撤収の準備を始めている者、あくまでもオーブ租借地という権益の維持を目指すもの、そして日本軍のシンパだ。兵器など持っていれば、何が起こるか分かったものではないと言った。

 そこに冗談のような雰囲気を感じなかった事に、カズヤはぞっとする。彼はタマユラ地区から日本人特別居留区への支援の実態について取材に来ていたのだ。通常の人道支援ではなく、分離壁と呼ばれる壁を越えて日本軍に武器弾薬などを供給している団体がタマユラ地区に存在するのは、公然の秘密である。

 だが、オーブ政府も出資している警備保障会社の一部にも日本軍のシンパがいるとは予想外だった。現地の宗教を取り入れるなど脱日本化を進めたとはいえ、オーブの対日本感情にはまだまだ複雑なものがあるようだ。

「何か対策でも?」

 カズヤの問いに、顧問は武器の密輸なら取り締まりようもあると言う。だが既得権益を擁護しようとするグループは対処も難しいといった。オーブ政府としては収支がつりあわずとも、個々の企業や団体をみれば潤っている部分もある。

 そして、オーブ政府がタマユラ地区へ関与せざるを得ない状況を作り出すために、その二つのグループが結託するのが一番厄介だろうと言った。カズヤは、さらに質問を続けていく。

 ハルサ・ニビというこの男性は、顧問という肩書きの割には会社の内部事情からオーブの政治事情まで突っ込んだ話をしてくれる。この人物も、何か複雑な思いをオーブに抱いているのかもしれない、そんな事を思った。

 

 

 

 

 

 飲み代の請求は半分しか通らなかった。残りは給料から天引きされるという事で、しばらくは夜の情報収集はお預けだろう。エリックはコンピューターの画面を眺めながら、ポールペンを指先で回している。

 夜になるとゲートのチェックも厳しくなり、自分の持つ偽造の身分証もいつバレるか分からない。結構な無理をしていただけに、いい休止期間なのかもしれなかった。ただ、ようやく掴みかけてきた情報があるので、それについてはもう少し深い調査をしてみたいと思っている。

 グレートバリアリーフ号では、今日もパーティが開かれていた。特別行政区の要人や財界関係者を招いてのもので、主催は船会社だが大洋州の政府も一枚噛んでいるという話だ。大洋州も、プラント一辺倒の外交だけでやっていけるとは考えていないのだろう。ザフトの諜報員を間借りさせている船で、東アジア政府向けのレセプションを行っている。

「たいした面の皮・・・じゃなくて、それが政治か」

 結局、プラントが目指すべき方向とは、そういった政治なのだ。自分達はその最前線に立っている。二度も大きな戦争を招いてしまったのは、プラントも連合もそういった政治技術を忘れ、原理主義に傾斜したからだ。

 国家とは原理原則によって作られるのではなく、国家が原理原則を作るのだ。いざという場合、変えるべきは原理原則であって国家ではない。それが出来なければ、かつてのユーラシアのように、自国を焼き払うという愚挙に出るだろう。

 プラントにもその危険性がある、いやコーディネーターによって作られた国だからこそ、その危険性は高い。キリルを見ているとそれが良く分かる。

「生まれや育ちに影響されるってのは、普通の人間って事なのにな・・・」

 報告書の作成スキルや情報の分析能力、課題設定の巧みさや疑問点を洗い出しの上手さ、さらには頑健な体力に裏打ちされた脚力まで、彼がその能力を見込まれてここに配属された理由は分かる。だが、彼の原理主義的性向は、それを損なってしまっていると思う。

 コーディネーターとしてあるべき姿、プラントの進むべき方向、そういったものに理想を持ちすぎているのだ。優良な人間だからこそ人類全体に対して責任を持ち、幾多の戦争を引き起こしてきた旧世紀の政治システムから決別するために、プラントは率先して行動しなければならない。彼はそんな事を考えている。

 およそスパイには向かない考えである。一世代上の人には多い考えかもしれないが、それがあの大戦を引き起こした事も事実だ。エリックは、この前読んだ資料を思い出した。身内を調べるような事なので気は進まなかったが、キリルの経歴を見せてもらったのだ。

 彼の母親は、前大戦時にバイコヌールから脱出したザフトの将兵だけでなく、一緒に脱出したナチュラルの軍隊とともに、中立プラントへの亡命を画策した人物であった。戦後、弱体化した宗主国からの独立を目指す中立プラントの政庁と結託し、敗色濃厚であったザフトを見限ったのだ。

 ヤキン・ドゥーエ宙域戦前後に起こったプラントでの政変に乗じて、その企ては成功するかに見えた。しかしジェネシスによる連合軍の壊滅で、プラントの敗戦ではなく連合との休戦という形で戦争が突如終結してしまい、計画は未遂に終わり彼の母親もプラントに戻ってくる事となった。

 ザラ派、クライン派、ブルーコスモス、三つの原理主義者が果てしない殲滅戦を繰り広げる中で、彼の母親は政治的に立ち回っていたと言える。プラントもコーディネーターも関係なく、より有利に生き残れる状況を求めて活動していたのだ。

 キリルの考え方は、そんな母親の生き方とは正反対なのだろう。今はアカデミーの事務局長をやっている母親に、彼はどんな思いを抱いているのか。

 エリックはコーヒーを注ぎに席を立った。彼としてはそんな彼の生い立ちより、今の彼の様子を聞きたいと思っている。あのキャバレーの女性からは電話番号をもらっていたはずだ。

 

 

 

 

 

 彼にとって、その研究は既に完成されたものでありこれ以上の発展性もないと考えているものである。事後的な遺伝子改変技術という分野には、多少の余地もあると考えられるが、出生前にそれを行えばいいだけの話である。トレーニングルームにいる数名の兵士を見ながら、チン・ヤンチャンは深く息をつく。

 研究員が持って来たデータに目を通すがそれだけであり、指示するような事も特に無かった。ここにいるパオペイレンと呼ばれる強化兵士は、経口による投薬以外は完全にメンテナンスフリーであり、その投薬も睡眠前の一回で済む。

 これまでに実戦投入されたパオペイレン、それに大西洋やユーラシアのブルーコスモスが使用していたという強化兵士のデータと比較してもその能力に遜色はなく、記憶の操作や意識の改変を伴わないため精神面の安定性に置いては群を抜いていた。製造コストを除けば、完全に実用段階に入っているといえる。

「それでも二流のコーディネーターに過ぎない」

 いかに強化されようと、彼らは人間だとヤンチャンは認識している。だがコーディネーターには、その認識が持てなかった。そんな怪物を作り出した科学者と、結局には人間をいじる事しかできない自分の差に、ただ愕然とするだけだ。

 だから本格的にコーディネーター研究をするために彼はオーブに渡った。そこで少しの間研究に携わったのち、斡旋を受けてここに来た。

 日本軍の武装闘争を支援している組織だという事は、着任後に知った事だ。さらにその裏には日本自治政府が関わっていた。どの程度、自治政府が関与しているかは定かでは無い。だがこの施設の設備を見ればそれなりの資金は出しているのだろう。

 彼はパオペイレンの製造と管理を受け持っている。しかしその運用に関しては全くタッチしておらず、その作戦行動について文句を言う立場でもなければ注文をつける立場でもなかった。その事を訪ねてきた人間に言う。

「部隊の運用についてはその責任者に言っていただきたい」

「ですが彼は・・・」

「私の研究の被験者ですが、それだけです」

 パオペイレンを使った都心部での破壊工作、そしてMSを使った東アジア軍に対する襲撃。それらの指揮を取っているのは、MS・エヴィデンスのパイロットであるハニス・アマカシである。

 彼が現在行っているSEEDに関する研究の被験者であり、同時にミツネ・ササの研究の被験者でもあった。まだ二十歳にもならない少年であるが、指揮官としての能力もパイロットとしての能力も非常に高いものである。ただ、自身の能力をひけらかすようなところがあり、作戦がだんだんと大胆になっている。

 東アジア軍に対する挑発が、相手の軍事行動を誘発しては意味が無い。自治政府としても看過できず、作戦の見直しと自制を求めて人をよこしたのだ。ナチュラルの感覚であれば、二十歳前の人間に何らかの権限があるとは考えずチンチャンのもとを訪ねてきたのだろう。

 先日は都心部のビルで、東アジア軍の特殊部隊とパオペイレンが交戦し敵を全滅させている。事前に東アジア軍の情報を掴んでいたらしいが、その情報源はハニス以外は知らないものであった。

 昨夜は彼自身がエヴィデンスで出撃し、東京湾上で戦闘機二機を撃墜していた。彼に言わせれば、それは十二分の自制なのかもしれない。少なくともミツネは、エヴィデンスにそれ相応の能力を持たせていると言っている。

「コンバーターに関しては、オリジナルの機体であるストライクフリーダム以上です」

 パイロットが普通のコーディネーターである以上、機体がいかに強化されようとレクイエム戦役のような異常事態が起こることは無いだろう。だがエヴィデンスに搭載された機能は、そもそもが異常な機能なのだ。

 それが何かを引き起こす前に、ちゃんと鈴をつけておくべきだろうと言って、ヤンチャンはその場を辞した。施設内に静かに流れるBGMはプラントで昔流行った歌であり、ヤンチャンが選曲したものである。




 次は日曜日に投稿する予定です。

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