浦賀水道を挟んで、対岸は三浦半島である。海岸沿いの崖に無理やり敷かれたような道が通るだけの土地であるが、房総半島もトウキョウ特別行政区の区域であった。三浦半島が大西洋の軍事基地となっている以上、東京湾への出入りを確保するためには房総半島側から浦賀水道を守らなくてはならない。
山肌に擬装されたトーチカや砲台が、日夜三浦半島を睨んでいる。プラントという仮想敵の存在が遠くなった今、ここは連合内部の争いの最前線なのだ。一度事が起これば、浦賀水道の上空は、行きかうビームと砲弾によって彩られるであろう。
山の頂上に設置された観測所からは、夜を照らす大西洋軍の基地の明かりとヨコスカへと向う軍艦の姿がはっきりと見える。
「距離、計測しておけよ」
屋上で望遠鏡を覗いている兵士に、上官が声を掛けた。浦賀水道はその幅の60%が東アジアの管轄となっている。大西洋の軍艦がそのラインを越えていないかどうか、チェックしているのだ。
レーザー測距儀を起動させようと視線を移したとき、兵士はまったく別の場所に光を見つけた。しばらくして音が聞こえる。異変を察知して屋上に上がってきた上官に、兵士は、望遠鏡を覗いたまま報告する。
「おそらく鋸山です! 砲撃を受けている模様!」
「砲撃位置は!?」
「・・・山側? それも空中?」
他の観測所からの通信も届いているが、どれも大西洋側からの砲撃は確認していない。上官が退避を命令する。観測所の兵士が慌しく動き出すと同時に、手前の尾根に砲弾が突き刺さった。
間違いなく海側からの砲撃では無い。では何者による攻撃なのか。その攻撃が、日本軍を名乗るテロリストによる手製のロケット弾などでは無い事は、山肌の抉れ方を見れば一目瞭然だ。特別行政区の領域内に侵入して、駐留軍の陣地に対して攻撃を仕掛ける事のできる戦力など、聞いた事がない。三浦半島から大西洋軍の部隊が発進していない事は、彼ら観測要員が一番知っている。
キサラヅの港に配備されていた空母から発進したのであろうMSが、上空を飛び越えていく。まるでそれを待っていたかのように砲撃音が止んだ。
「ミラコロの限界時間まで何秒だ?」
「あと30秒です」
浮遊状態のアッザムがゆっくりと降下していく。一応民家は避け、山間に張り付くような畑を着陸地点に定めた。その上空には、音もなく浮かぶ一機のMSがいる。
それを確認した三機編隊のウィンダムⅡは、警戒するように速度を緩めた。宙に浮いたMSが、ゆっくりとその腕を振るう。次の瞬間、先頭のウィンダムⅡが、胴体を三分割されるような形で破壊された。
謎のMSがその背中の羽を広げる。スラスターの音も光も発する事無く飛ぶそのMSは、混乱した様子のウィンダムⅡに掌を接触させる。コクピット部を撃ち抜かれたような形で墜落していく僚機の姿に、残った一機が必死の反抗を試みる。
だが放たれたビームライフルはそのMSの眼前で上空に向けて弾き返され、振り下ろされたビームサーベルは情けない形に曲がってしまう。パイロットが事態の異常さに気付いた時、最後のウィンダムⅡは背中をへし折られる形で地面に崩れ落ちた。
「29秒」
暗闇から湧き出すように姿を現したアッザムは、MS格納用のハンガーを降ろす。白を基調としたそのMSは、闇夜にぼんやりと浮かんでいるように見えた。
アルコールの残渣を頭の中に感じながら、ルーイは晴れた空を見上げる。飲みながら話を聞いたせいか、後半部分の話はあまり記憶に残っていなかった。もう少し買っておくんだったボヤきながら、二本目のミネラルウォーターを飲み干す。ヨシトの声が、妙に頭に響いた。
今日は、カズヤ・イシに紹介された人物に会いに行く事になっている。電車の経路については問題無いようだった。窓の外は、ビル街からこころなしか住宅街へと変わったような気がする。
都心部から少し離れると身分証確認ゲートも数が少なくなり、路地などを通れば迂回も出来るようになる。ヨシトは、地図と周りを見比べながら指定された住所を探していた。閑静な住宅街の一角、不意に林が現れる。
その林を一回りする形で、目的の家へとたどり着いた。周囲の家とは明らかに異質な雰囲気を持った邸宅だ。この国の建築様式などは知らないが、それが重苦しさを排除しながら何らかの重みを見る者に与える姿をしているのは、ルーイにも分かった。
立派な門構えに、どうやって中に入ればいいのか迷っていると、表にタクシーが止まった。そして門が開いて、中から白衣を来た人が出てくる。
「それでは、お大事に」
そう言ってタクシーに乗り込むのは医者だろう、家政婦らしき中年の女性が頭を下げている。医者の後ろについていたのは看護婦だろうか。タクシーに乗り込もうとする彼女と目が合った。瞬間、ルーイはその顔に見覚えがある事を思い出す。
彼女の方もそうなのだろう、タクシーに乗りかかったまま動きを止めている。車内からの声に返事をして、微笑だけを向けてくれた。走り去るタクシーを視線が追いかけていくが、それはヨシトの声に妨げられる。家政婦の女性が邸内に招き入れてくれた。
「往診の先生です。近くのヤクモ病院から、週に一度来てもらっているんですよ」
先ほどの帰った人の事を聞くと丁寧に教えてくれた。客間に通され、二人は居住まいを正す。目的の人物は、ここで古くから古物商をやっているという人だった。
「イシ君は元気かね? たまには顔を見せろと言ってくれ」
いきなりそう言って現れたのは、ブンジ・タチバナ。綺麗に禿げ上がった頭と、顔に比べて少し小さい眼鏡、恰幅のよい体型にこの国の民族衣装がよく似合う老人だった。よく通る声で家政婦にこまごまと言いつけながら、二人と握手をする。
そしてこちらから何を切り出す間もなく話を始めた。現地の言葉なので、ルーイには聞き取るのがやっとだ。それに気付いたのかブンジが聞く。
「日本語、ダメかね」
「いえ、ヒアリングは出来るのですが」
公用語で話してヨシトに伝えてもらおうとする。ブンジがそれを制した。
「そのなまりだと、ドイツ語か」
「!」
ユーラシアでは公用語の他に地域言語が複数存在する。ルーイの母語はブンジの言う通りドイツ語であるが、それを公用語の僅かななまりで把握し、なおかつ完璧なドイツ語で話したブンジにルーイは驚きを隠せなかった。
結局、公用語で話す事に落ち着いたのだが、その一件だけでこの人物がただの古物商などではない事が分かる。カズヤ・イシが紹介しただけの事はある人物だ。彼からの紹介と聞いて、ブンジも用件の想像はつけていたのだろう。挨拶程度と考えていた彼らに、いきなり本題を振ってきた。
「何を調べたい、このトウキョウの」
「いえ・・・その・・・」
「まぁ、このトウキョウも風通しが悪い。君らブンヤは息苦しくて仕方ないだろう」
そう言ってガハハと笑い、再び長い話が始まる。家政婦の女性がお茶のおかわりを持って来たタイミングで、暇を請うた。まだ話し足りなさそうな顔をしている彼に、近いうちに協力をお願いすると頭を下げた。
帰り際に家政婦の女性に連絡方法を聞いて、邸宅を後にした。ヨシトが、一人でホテルまで帰れるか聞く。一旦、ヨコハマの通信社に戻る用事があるのだという。路線図を持っているので大丈夫だろうと答え、ルーイはヨシトと分かれた。
腕時計を見るとまだ十分に時間はありそうだった。彼は駅に向う前に、別の場所に足を向けた。
特別行政区保安局本部庁舎は、青々とした森を目の前にひっそりとそびえている。かつては官庁街の一角を占め、国家中枢の一翼を担った建物であるが、今ではかつての面影を唯一留める建物となっている。
特別行政府が発足し、永田町と霞ヶ関はその役割を失った。特別行政府の本庁舎が新宿に置かれた事から、現在の政治中枢はそちらへと移っている。各官庁が引越しを行う中、警視庁だけはその位置を動かなかった。彼らはただの警察組織ではないが故に、桜田門と呼ばれるのだ。保安局と名前が変わった後も、彼らの役割は変わらない。
紫煙立ち込める喫煙ブースから、タバコをまとうように男が出てくる。立派な体格の壮年だ。妙に据わった目が、機嫌の悪い事を示している。
「今日は残業しないわよ。旦那とデートだから」
「分析室からも話を通すんじゃなかったのか!?」
狭い部屋に男の怒鳴り声が響いた。ここ最近頻発している爆弾テロ事件の捜査方針が決定されたのだが、日本人特別居留区に対する重点監視と日本軍及びその協力者への摘発強化という従来方針がそのまま続けられただけであった。保安局警備部特務課のシュウ・サクラにとって、その方針は見当違いもはなはだしいものだ。
使用された武器や爆発物の分析から、それが日本軍によるものでは無い事は明白である。そして両国で彼の指揮する部隊の一つを全滅させた連中と、同じ組織に属している可能性が濃厚なのだ。証拠も、その分析結果も出ているというのに、決定はそれを無視している。
両国の事件と他の爆発事件には、明確な関連性がないとして別件での捜査と決まったのも納得できない物であった。両国の事件への捜査員の配分が極端に少なく抑えられているのだ。
「これ以上はシュウちゃんとこの仕事じゃないでしょ。でしゃばると刑事部に嫌われるわよ」
「関係あるか!」
「あるわよ・・・警察官でしょ、シュウちゃんも」
そう言った女性が、コーヒーをサイホンから外した。シュウがブラックで飲むのを知った上で、砂糖とミルクを入れて差し出す。そして、総監よりも上で決まった事だと言った。それくらい分かるだろうと付け加えた女性に、シュウは顔をしかめて見せた。
特別行政府のトップ、そして東アジア軍が捜査方針に絡んできたのは間違いない。おそらく、何らかの目星をつけているのだろう。保安局に首を突っ込まれたくないものが何かを考えてみる。公表はされていないが、房総半島で戦闘行為らしきものが確認されている事にも関連するのかもしれない。
コーヒーカップを煽ったシュウに、女性が落ち着いたかと聞く。そして奇貨は置くべきだと言った。
「蛇の道は蛇、同じ穴の狢、テロリストを追えば出てくるのはテロリストよ」
トウキョウ特別行政区の成り立ち、東アジア共和国の成立に関する歴史。そういったものが関わっているとしても、市民を標的としたテロ行為は許されるものではない。同じ言葉を話す者として複雑な心情を持たざるを得ないが、日本軍はテロリストに他ならないのだ。
警察官としてその摘発は当然の仕事であり、その捜査線上に別のテロ組織が浮かび上がる可能性もある。彼はカップを置いて部屋を出て行く。
船を出る直前にレポートが届けられた。臨時と書かれたそれは、房総半島における東アジア軍襲撃事件に関する報告であった。
「流石だな、ジュンコ姐さんは」
エリックは報告書の写しを眺めながら呆れたように言う。日付は今日であり、事件の起こった日は前日の夜であった。それほどに早くこんな情報を入手できる組織が、特別行政区の地下にうごめいているのだ。ゾクゾクするなとつぶやく彼に、キリルは渋い顔をした。
確かに、手探り状態での活動が続く彼らにとって、彼女らのルートは非常に有益ではある。だが相手は、それに見合うリターンを要求してくるはずだ。今のまま一方的に借りを作る事は、ザフトにとってのちのち不利益となるのではないか。
だからこそ、独自に情報を入手できる体勢を作らねばならない。それは結局、自分の足に頼るしかないのだ。
「行くぞ」
それだけ言うと、キリルは食堂を後にする。今日はレコード会社の社員という肩書きで、放送局に挨拶回りをする事になっていた。グレートバリアリーフ号での任務は、基本的に地味な作業ばかりである。特別行政区と日本自治区で発行される全ての新聞で記事を分析をしたり、オピニオン誌を中心に世論の調査をしたり、テレビやラジオそしてネット上からの情報収集をしたりだ。
メディア関連を中心とした企業回りもその一環である。エリックはその中からアングラに繋がる人間を見つけたいと言っていた。特別行政府内の報道はかなりが規制されており、表向きの報道は当たり障りのないものばかりである。
だが、電気街の一角に平然とジャンク屋組合の残党が居座る都市である。放送局や通信会社などが、何らかのネットワークを作り上げている可能性は高いと踏んでいるのだ。
「そのためにもまずは顔を売って、信頼関係を構築する」
だからもっと愛想のいい顔をしろとエリックは笑う。眉間の皺は二枚目を台無しにすると茶化す彼をキリルは無視した。
最寄りの駅から電車に乗り込み、庭園の緑を視界の端に入れながらキリルは車内を見回す。夕方近くになって、少し人が増えてきたのだろうか。汐留の駅を降りた時、エリックが間違ったと額を叩いた。駅を挟んで反対側に出てしまったのだ。ため息をついてもう一度駅に戻ろうとした時、すぐ近くで爆発音が響いた。
ビルとビルの間から、丁度煙が上がっている場所が見える。キリルは反射的に走り出していた。周りの人間は、何が起こったか把握できていないような顔をしている。既に何件ものテロ事件が起きていながら、ここの人間は危機意識が向上していないようだ。二度目の爆発で、ようやく人々は同じ方向に向って走り出す。キリルはその人の波をただ一人逆走していた。
「フロッグマンか!?」
海の水を引き込んである水路から、ダイビング用のスーツを着た人間があがって来るのが見えた。キリルは咄嗟に物陰に転がり込んで、投げつけられた音響照明弾をやり過ごす。
世界中で、その形には大きな違いは無いようだ。病院の位置はすぐに分かった。大きな病院というわけではないが、一通りの診療科のそろった総合病院である。待合室には何人もの人が待っていた。
見渡したところで、都合よく相手が見つかるわけも無い。そもそもこんな訪問は仕事中の相手に失礼かもしれない。ルーイはしばしの逡巡を見せた後で受付に聞く。
「・・・あぁ、カグタさんの事かな。待って下さい、まだ帰ってないと思いますよ」
受付の女性が後ろの人に何事かを聞いている。そして、待合室で待つように言われた。ルーイが空いている席を探そうとした時、目当ての人物が現れた。
この国の人では無いと分かる艶やかな浅黒い肌。僅かにウェーブのかかった髪は、無造作に束ねられているだけだが、それでいて何かが損なわれた感じはしない。控えめな服装の下であっても、その官能的でさえあるプロポーションは隠しようが無い。微かに差された淡いピンクの口紅が、はにかむように微笑んでいる。アメリ・カグタが丁寧に挨拶をした。
ルーイは思わず居住まいを正してしまった。そしてぎこちなく自己紹介をする。オオサカの音楽イベントでたまたまインタビューを行った女性に、まさかトウキョウで出会うとは思わなかった。
「仕事場まで押しかけて、すみません。あまりにも思いがけない偶然だったので」
「いえ、私も驚きました」
今から家に帰るところだという彼女と連れ立って病院を出た。会話の糸口を探ろうと、ルーイはオオサカのイベントの話題を振る。チケットは、ブンジ・タチバナからもらったものなのだそうだ。彼はその手の流行にも詳しいらしく、かなり早い段階でチケットを入手していたのだという。
トウキョウには取材に来ているのかと聞かれたので、ルーイは一応そう答えておいた。だが、何をどのように取材するかも決められておらず、ただトウキョウに滞在可能なビザを持っている関係で送り込まれた事もちゃんと言っておいた。
複雑な微笑みを浮かべたアメリに、ルーイは出身地を聞いた。彼女はアフリカだと答えて遠い目をする。
「内戦はひとまず終わったのですけど・・・」
経済的な復興などいまだ始まってもいないアフリカの現状では、医療従事者といえどもまともな職場は無く、彼女のように国外に職を求める者も多いのだという。彼女の送金が、アフリカにいる母親の生活を支えているのだそうだ。
母親と限定して言った彼女に、ルーイはそれ以上を聞かなかった。トウキョウに来てどれくらいかと尋ねると、もう5年になるという。彼女は、東アジア政府が行っている労働研修制度を利用して来ていた。アフリカに比べて格段に進んだ東アジアの技術を学びながら働けるという制度で、他にも技術者などによく利用されている制度だった。
渋谷駅の構内で二人は別れた。ルーイは宿泊先の電話番号を教えておこうとする。だがホテルの電話番号が書かれた紙を取り出した時、彼女の姿は既に雑踏の中に見えなくなってしまっていた。
夜はすっかり更けてしまっていた。月が頭の上から光を投げかけ、野良犬が寂しげに道を横切っている。キリルはあたりを見渡し、とりあえず明るい方に足を向けた。テロ現場で見つけた怪しげな集団を追いかけてきたはいいが、完全に見失った上に、自分が何処にいるかも分からなくなってしまった。
相手が車での逃走を図ったため、彼もタクシーを使ったのだが、キリルの身分証があまりにも特別行政区内をフリーに走れる事を怪しんで、運転手が途中で彼を降ろしてしまったのだ。キリルは恨めしげに身分証を見る。
エリックともはぐれてしまったが、彼に関しては気にする事もないとキリルは思う。そのくらいの有能さは認めていた。
「南千住・・・か」
黒々とした広大な貨物駅を背後にしたその駅だけが、明かりをともしていた。周囲に目立った建物は無く、駅周辺だけがこじんまりと明るい。
すぐ東を流れる隅田川を渡ればそこは日本人特別居留区であり、以前は隅田川貨物駅が東アジア軍の物資集積地に使われていたことから、特別行政区発足当時はテロの一番の標的とされた場所であった。そのため一般住民の多くは別の街に移り住み、今は一種スラムのようになっているのだ。
貨物駅は未だに軍も使用しているため、軍関連の人間を相手にする商店が駅前に集まっている。その多くは飲食店であり、またその半数はいかがわしい店であった。少なくともキリルにはそうとしか映らない。スーツを着た客引きの男を邪険に追い払う。
駅は既にシャッターを下ろしていた。明け方まで電車は無い。空腹は感じるが、適当な店で食事をしようという気にはなれなかった。コンビニエンスストアで軽食と飲み物を買って、駅前のベンチにたたずむ。
あちこちから酔客の大声が聞こえ、タクシー乗り場では女の腰を抱いた男がひっきりなしに乗り降りしている。それに冷ややかな視線を向けながら、キリルはゴミ箱を探した。テロへの警戒という奴なのかゴミ箱にはことごとく鍵がかかっており、彼はそれを買った店まで引き返す。
電車が動くまでの五時間半ほどを何処で過ごそうかと、キリルはコンビニエンスストアの明かりを背中に受けながら思う。当ては無いが、とりあえず歩き出した。
遠くで言い争いが聞こえる。一人は男の声だが、もう一人は女性のようだ。しばらく立ち止まっていたキリルは、その声の方向に走り出した。女の声が変化したのだ。耳を澄ませながら、その方向を探す。
「ダメ! 止めてって言ってるでしょ!」
「客だぜ、俺はよ!」
路地とも言えないビルとビルの隙間、人がもみ合っているのが見える。いや男が女を壁に押し付けているのだ。キリルの拳は声よりも早く男の顔を捉えていた。
「クズが! 恥を知れ!!」
「・・・てめぇっ」
次の瞬間には、男は鳩尾への一撃で気を失ってしまう。赤ら顔の男が、奇妙な格好で地面に転がっていた。キリルは振り返って女を見る。
扇情的なドレスを着た女は、露わにされた肩を隠すように服を直す。そし気を失っている男を覗き込んだ。そしてキリルに非難めいた視線を向けた。その目に、キリルは戸惑う。
「いや・・・これは・・・」
「・・・構わないわ、別に悪気は無かったのでしょ」
「しかし、君は現に・・・」
「確かにね。でもそれは、こいつが同伴の金しか払っていなかっただけの事だから」
後から請求してもよかったと言って、女は気絶した男を肩に担ぐ。手を貸そうとすると、店まで連れて行くだけだから構うなという。そして、悪いと思っているなら店に顔を出してと、名刺らしきものを投げてよこした。
『キャバレー・ユンミン』とピンクの稚拙なデザインで書かれた店名の下に、マリアと名前が書かれている。
連合とプラントとの戦争がもたらした、地球圏全域に及ぶ経済的疲弊は、再構築戦争によって形成された国家集団に対する再考を迫るものとなるだろう。現在存在する国家集団の内部のみでは、経済を立て直す事が不可能だという認識が育ちつつあるのだ。経済圏を拡大し、自由な交易によって偏った資源を効率的に配分する必要がある。
経済のブロック化と戦争遂行に必要だった様々な国家統制も、戦争被害の復旧が終わった時点で不必要となった。逆にそれらの統制は、経済復興のために必要な自由貿易を阻害する要因にもなる。ましてや現在の国家体制は、内部にいくつもの不安定要因を抱え、統治するだけで多大なエネルギーを要するものとなっているのだ。
経済を完結できるだけの広大な領域を抱え込み、国家によって経済をコントロールするという再構築戦争後の国家モデルはもはや通用しない。国家そのものはダウンサイジングし、それらを自由貿易によってネットワーク化することによって、地球圏全体で経済を循環させるという旧世紀の国家モデルが目指されるはずである。
大西洋連邦は南米の直接統治政策を転換し、ユーラシア連邦は国内を複数の地域に分けで大規模な分権化を推し進めている。再・再構築と呼ばれるこの動きの中で、北海道の問題は生じていた。
「あそこはよい所です。日本である事を忘れるほどに広い」
はじめて見る地平線には感動を覚えますよと言って、老人は微笑んだ。ヨコハマの中華街、リ・ウェンが客を迎える時に使う店はその一角にある。日本自治政府の高官が円形テーブルに並んでいる。
料理を勧め、思い出話をとうとうと語る老人に、高官達は箸が進まなかった。彼らの懸案事項は北海道の帰属問題である。
現在ユーラシア領となっている中国東北地方と北海道の返還が、そのユーラシアから打診されているのだ。中央アジア地域での国境問題とセットになった交渉であるが、その北海道が日本自治区領となるのか否かが問題であった。
東アジアは、大西洋やユーラシアのような再・再構築の動きが活発ではないのだ。ブレイク・ザ・ワールドでペキンが大きな被害を受け、経済の中心はシャンハイに移ったのだが、それが東アジア中央政府の警戒心を強めた。シャンハイ閥の勢力拡大を恐れるペキンの中央政府は、世界の趨勢に抗うように中央集権の強化を進めている。そのため、ユーラシアが返還を打診する両地域ともに、中央政府が直接統治に乗り出す事は十分考えられた。
ユーラシアとしては、北海道に関しては返還を規定路線と考えており、東アジアの側で話がまとまれば、すぐにでも返還手続きが行われるとの事であった。だからこそ日本自治区としては、打てる手を全て打っておかなくてはならない。リ・ウェンとの接触は、もっとも重要なものの一つであった。
「我々としても側面支援は・・・」
「房総半島のアレですか? やり方が愚かだ」
老人は目の笑みだけを消す。そして条件闘争などに興味は無いと言った。意図を見透かされたような言葉に、高官達は目配せを隠せない。
「ペキンは、我が祖先よりその国土を奪い、我が両親よりその郷里を奪った」
これはビジネスの話ではないと老人は言う。そしてあなた方もそうであろうと問うた。再構築戦争とは新たな国が生まれたのではなく、幾多の国が失われた戦争なのだ。それを取り戻したいのは同じだろうと、老人は穏やかに問うた。
これまで同様に互いの協力関係を継続する事は確認される。ただ、自分達を自治政府の駒だと考えているようなら、考えは改めた方がいいと老人ははっきり言った。トウキョウに対して行える事は、当然オオサカに対しても行えるのだと。
残った料理を詰めた折り詰めを持たされ、高官達は帰路に着く。緊張の糸が切れたように息を吐いた一人が、忌々しげにつぶやいた。
「あの老人、台湾華僑だったな・・・」
「あれは例外だ。だが例外だからこそ、ああまでなれたのだろう」
単に日本で生まれ育ったという愛着だけではない。祖先から受け継いだ恨みもまた、あの老人の原動力なのだ。ビジネス上の損得勘定で動くのではないだけに、それを御する事は難しい。
キサラズの港の隅に、東アジア軍のMS空母が停泊している。大西洋軍の要塞が東京湾の入り口にあるため、東京湾の各港には常時軍艦が待機している。岸壁に横付けされたトレーラーの積荷がクレーンで引き上げられ、その幌が外される。
空母に搭載されているMSは全て移動され、MSデッキはその積荷を調べるための広いスペースとなっていた。運ばれてきたのは、先日の戦闘において撃墜された三機のMSである。どの機体も、一目で普通の壊れ方ではないのが見て取れた。
技師や作業員が、それぞれの機体に取り付き調査を開始した。コクピットから抜き出された戦闘データや画像、装甲の一部などのサンプルは先に専門機関のほうに送られており、その結果との照合も行われる。
「大佐、いらっしゃるのであれば迎えを用意・・・」
「構わん、それより見せてもらえるな」
ユ・ケディンはヘルメットだけ受け取ると、調査用の資料に目を落としながら各機体を観察する。機体の破壊跡に、高熱による変性は確認されていない。戦闘データからも、ビームによる破壊ではない事が裏付けられている。
そして装甲断面の分析から、何らかの強い圧力によって機体が破壊されている可能性が示唆されていた。ケディンは技師の指差す部分を見上げる。コクピット部分に穴をあけられた機体である。
「例えて言うなら、杭打ち機で金属製の杭を打ち込まれたような傷です」
ただ、MSの装甲の中で最も堅牢に作られているコクピット前面装甲をこのように打ち抜くのは不可能に近いとも言う。戦闘データから飛行状態で撃墜された事は分かっているのだが、杭打ち機のような武器を使用された場合、穴が開くよりも早く機体が吹き飛ばされるはずだ。
MSの装甲素材よりはるかに固い物質で作られた杭を、レールガン並みの速さで打ち込めば可能かもしれないが、破壊跡から推測される杭の大きさでその速度を計算すると必要となる電力はMSに積めるものでは無いという。
もう一機の機体は、実体剣のようなもので破壊されたようにも見える。これも技師の話では切り口が異なり、押し切ったというより引き千切られたような形状の破壊だという。最後の一機は、文字通り機体を強い力でへし折られていた。
「強い圧力による破壊・・・か」
それが何によるものかは全く分からないが、ビームライフルを弾きビームサーベルを捻じ曲げる現象と何らかの関わりがあるのではないかと、調査結果は結んである。ケディンは、たいして意味のないその報告に首を捻った。どちらの側面から調べを進めるべきかということだ。
敵がMSを運用している事は明らかであり、その線から相手の足取りを追う事は可能であろうし、定石のアプローチでもある。だが、この奇妙な機体の破壊のされ方に引っかかりを感じるのだ。以前、荒川上で接触したアンノウンも、ビームライフルを弾いたという報告を受けている。
確証は無いが、そのアンノウンと今回の敵MSが同一の機体である可能性は高いと彼は見ている。アンノウンの捜索には定石のアプローチを試みているが、今のところ進展はなかった。
何らかの特殊機構を備えたMSを開発できる組織、そういった観点から捜索を行うべきかもしれない。ケディンはもう一度報告書に目を通す。
次回は、明日投稿できるはずです。