歌と爆弾 ~コズミック・イラ 東京異聞~   作:VSBR

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第十三話 強奪

 新中川と旧江戸川の合流地点にかかる橋の上に車を止め、窓の隙間から双眼鏡を突き出す。朝焼けの空は美しいものではない。まだ早い時間なので車も少なく、路肩に止まっている車を怪しむ者もいないだろう。コーヒーを頼む相手を間違えたと、水筒の中の甘すぎるコーヒーを胃に流し込む。

 タマユラ地区と日本人特別居留区を間に挟んでいるため、距離以上に都心とは離れた感覚のある場所だ。身分証確認ゲートも駅と荒川にかかる橋にしかなく、車道に監視システムが設置されているとはいえ、都心部に比べて往来も楽である。

「当局の締め付けが緩い・・・と」

 水筒の蓋を閉めて、シュウ・サクラはもう一度外を眺めた。そろそろ、仕事に戻らなくてはならない時間だ。

 軍の方で何らかの動きがあるらしく、都心部の警備には軍が管轄する武装警察が入りだした。シュウのいる警備部は、お払い箱よろしく旧江戸川区における日本軍シンパへの警戒活動をとるように命じられているのだ。シュウはその合間を見つけては、街を眺めて回っていた。自分の感じている違和感の正体を探しているのだ。

 都心部に武装警察が入りだしたからといって、市民生活に大きな影響があるわけではない。駅などを中心に巡回を行っているが、ニュースでも軽く触れる程度でありこれといった混乱は生じていない。

 だが「雰囲気」が悪くなった事は確かである。街に流れる空気に、冷ややかな嫌悪感が充満しているように感じるのだ。

 それは、こちらに来てから、より一層感じるようになった。正確に言えば、都心部にでは巧妙に隠されている物が、ここでははっきりと顔を見せる事があるのだ。タマユラ地区から違法に伸ばした通信用ケーブルで、特別行政区による監視を外れている情報に接する事の出来る地下ネットカェが複数確認されているなど、当局への反発が目に見える形を取っている事がある。

 それは、トウキョウの通底音として響いているものでは無いだろうか。自分は、それに違和感を覚えるのだろうか。

「・・・違うな」

 彼の感じる違和感は、その通底音に自分自身が共鳴している事なのだ。トウキョウの治安を守る立場にある自分が、トウキョウの不穏な通底音を共に奏でているという事に違和感を覚えるのだ。

 自分らしくも無い考えをため息で吹き消し、シュウは煙草を取り出す。一服したら仕事に戻ろうと思う。彼はもう一度、双眼鏡を覗きこんだ。ダイヤルを回して倍率を最大に上げる。

 一キロほど南を流れる、旧江戸川と荒川を結ぶ新川を、何かが移動しているのだ。荒川側から移動してきたそれは、旧江戸川に入ると、そのまま川を下っていった。水の中を動いていたのだ、船などではあるまい。

 車の無線機を弄ってみるが、今日はNジャマーの濃度が高いようだ。普段は雑音を我慢すれば使えるレベルの周波数帯も、全く音が聞こえない状態だった。彼は、車のモーターを始動させる。

 

 

 

 

 

 目覚めると、腕の上に彼女はいなかった。だが。微かに残る腕の痺れは、彼女がつい先ほどまでそこで眠っていた事を教えてくれる。椅子にはバックが置いたままであった。キリルが服を着て部屋を出ると船内はまだ静かで、窓から見える薄明かりだけが夜明けの時間を告げている。

 昨夜、部屋に行く前に夜景を眺めた船のデッキに足を向ける。マリアは、微かな潮風に髪を揺らしていた。昨夜のドレスではなく、彼女が着て来た地味な洋服姿。それでも、その後姿に昨日の感覚が生々しく蘇り、彼は言葉を飲み込んでしまう。

 急に立ち止まったキリルが立てた音に気付き、彼女がゆっくりと振り向く。待っていたかのような微笑みで、おはようの挨拶をした。

 挨拶を返すしか出来ない彼は、彼女の隣に立ち遠くを見つめる。朝日に照らされだした都心のビル街が、靄の向こう側で幻のように立っている。船が波を切る音しか聞こえず、彼女の視線も遠くを向いたままだった。キリルは聞いた。

「その・・・聞かないのか?」

 彼は、彼女に何も説明していない。自分の正体も、このパーティーに出席した理由も、全て曖昧に伏せたままだった。その事が、あまりにも不誠実だと思ったのだ。

「男の人には、色々とあるのでしょ」

 それは、どんな意味で言った言葉なのだろうか。ただキリルが感じた事は、彼女が「経験者」だという事だ。その瞳は、一体何人の男を見てきたのだろうか。彼は、彼女を抱き締めていた。

 愛おしくて切なかった。この美しい人が、ただ美しいままでいられなかった事が悲しかった。そして、自分では手出しの出来ない彼女の過去が辛かった。彼女の声が、彼の名を呼ぶ。だが、口付けは許されなかった。

「何だっ!?」

 海面から何かが飛び出た音と降り注ぐ海水の向こう側に、巨大な影が見える。マリアを庇うキリルは、自分達を見下ろすMSのカメラを睨みつける。

 白を基調としたトリコロールに、広げられた六対の羽根。ガンダムと呼称される独特の頭部デザインを有したそのMSは、キリルも知っている物であった。東アジア軍部隊にゲリラ攻撃を仕掛けている、謎の動力源を有する正体不明機(アンノウン)。そのコクピット内で、ハニス・アマカシは涼しげに笑う。

 エヴィデンスを持ち出したはいいが、肝心のターゲットをどう探そうかと考えていたのだ。客船を解体しながらだと面倒だと思っていたが、まさかデッキに姿を現してくれるとは。幸運が重なるのは、日頃の行いの賜物だとうそぶく。

 一緒にいた男が、女を守るような体勢で船内に逃げ込もうとする。ハニスは、エヴィデンスの指を弾いた。空気が音を立てる。

「キリル!!」

 マリアの声で、辛うじて気を失わずに済んだ。突然の突風、いや空間全体が押し迫ってくるような力に吹き飛ばされて、デッキの手すりに全身を打ちつけたのだ。立ち上がるキリルの前で、アンノウンはマリアをその手に掴んでいた。

 大切なものをそっと手で包み込むような仕草でマリアを手の中に収めると、アンノウンは音も無く飛び去っていく。

 キリルは吼え、そして駆け出していた。

 

 

 

 

 

 失意、そんな単語が浮かんでルーイは苦笑する。大げさ過ぎるその単語が、見事に彼の思いを表現していたからだ。昨日、アメリの勤める病院に顔を出したところ、午後から休暇を取ったというのだ。ただ一日会えなかったというだけで、気の落ち込みようが尋常ではなかった。

 昨日は、さらにそれがはっきりと顔に出ていたのだろう。顔見知りになった看護婦にもその事を指摘された。

『休みの理由をはっきり言わなかったから、てっきり君とデートの約束でもしているのかと思ったんだけど』

 今まで、休みを取ること自体なかったそうで、しきりにその理由を気にしていた。そして試験に向けての準備でもあるのだろうと言う。ルーイは、試験の事について聞いてみた。彼女に聞いても、あまり詳しい事は教えてくれないのだ。

 経済のブロック化の名残で、現在でも国家間の労働者の移動には様々な制約がある。そこで、アメリが使った研修生制度を利用すると、東アジアへの入国手続きが簡略化されるのだ。しかし正式な労働者として東アジア共和国で働くためには、その後に実施される試験に合格しなくてはならない。

 それに合格しない限り、研修生待遇として東アジア共和国の労働規制の枠外扱いされるのだ。深夜業や残業が禁止される代わりに賃金は安く、また休日も少なく設定され社会保障制度の利用も出来ない。さらに解雇権も幅広く設定されているため、事実上の使い捨て労働力として利用されていた。

 そのため、可能な限り試験合格者を減らすため、試験は非常に難易度が高く設定されている。過去の問題は公表されるがその答えは公開されず、合否のみの発表で自分の得点すら公表されないのだ。

 噂では、東アジア人であっても50点を取れない試験だというのに、合格ラインは85点以上なのだ。さらに、年に一度しかないその試験を受けなければ、不法滞在として強制送還される。そこでは病気や怪我といった事情は、一切考慮されないという。

『あんなに真面目で良い子、ちゃんとお給料払って働いてもらうべきよ』

 その看護婦はそう憤る。そして、ユーラシアのテレビでそういうのを取り上げてもらえないかと言っていた。

 ルーイはため息をついて電車に乗り込む。エルフリーデであれば、間違いなく食いつく話題であろう。だから、その事を話すのは止めにしておいた。

 アメリが今年の試験に臨むのであれは、それを見守っていよう。もしダメであれば、その時は自分が手を差し伸べよう。ユーラシアにも働き口はあるし、夫婦になれば入国も容易になるはずだ。

 そんな考えに頬が緩むのを感じるが、朝早くの電車には人も少ない。営団地下鉄東西線の列車は荒川の鉄橋を渡っていた。窓を通る朝日が眩しい。

 

 

 

 

 

 パイロットスーツも着ずにコクピットに乗り込む。シートとベルトを調整して、機体を始動させる。メインモニターが明るくなるまでの一瞬を、異常なほどに長く感じる。久しぶりのMS、しかもいきなりの実戦であるが、不安のようなものは全く感じない。そんな意識が入り込む隙間は全く無かった。

「ローレンス中尉、もう一度確認する。東アジア軍の動きがあれば、直ちに撤退だ」

「了解」

 キリルは短く言って通信を切った。横たえられたMSはそのままの姿勢で、ハンガーごと横にスライドしていく。注水が開始され、各部の自動チェックが始まった。グレートバリアリーフ号の側面、その海面下の一部が解放され、海中にMSを乗せた台がせり出していく。

 バラストタンクの一部を改造し、ザフトは密かにMSを運び込んでいたのだ。万が一の事態に備えたものであるが、まさか本当に使う事になるとはと、艦長はぼやいている。

 だが、トウキョウで確認されている謎のMSはザフトも関心を寄せているものであり、その詳細なデータを回収できる千載一遇のチャンスなのだ。トウキョウは現在、広範囲にわたってNジャマーが濃く、東アジア軍もヨコスカの大西洋軍も探査能力が極限まで低下している。

 目視情報から軍部隊の出動までの時間にアンノウンと接触できれば、その交戦データを入手できるだろう。ブリッジからサインが出され、キリルは発進を告げる

「キリル・ローレンス、ガルバルディ出る!!」

 圧搾空気を使って海面から飛び出した濃い緑色のMSは、飛行用バックパックの翼を展開してスラスターを吹かせた。予想以上の加速に、キリルは気合を入れ直す。

 現在のザフトの制式MSであるグレブは、ジン・シグー・ゲイツといったMMI系統の機体である。一つ前の制式機であったゲルググは、ザクに始まるニューミレニアムシリーズの機体であり、今キリルが乗っているガルバルディもその系統に属する。実質的な制式機のコンペティションであったペディオニーテ動乱時に、ガルバルディはロールアウトが間に合わず、そのまま採用に漏れるという結果になっていた。

 バッテリー出力に対して機体重量が軽いという特徴から、コンペティション用に生産された機体は、地上基地で配備運用される事になっていた。グフ用の飛行パックを流用しても、空戦用MSに匹敵する能力を発揮できるのだ。

 最大望遠のモニターがアンノウンを捉えた。手に人を乗せているからであろう、非常にゆっくりした速度で海面近くを飛んでいた。スラスター飛行ではすぐに推進剤を失ってしまうような飛び方だ。キリルはペダルを踏み込む。

「追って来たか」

 ハニスは熱紋センサーの音に、後方のモニターを見上げる。見慣れない機体だが、モノアイならばザフトのものであろう。ならば、あの船から追ってきたということだ。お姫様を攫った者として、追われるのは当然の義務だろうと思うが、状況はそれほどのん気に構えていられるものではない。敵機の航続距離がザフトMSの平均値ならば、ツクバまで追ってくる可能性もある。

 エヴィデンスの動力は、パイロットの精神活動が大きく関わるシステムであるため、コクピットにパイロット以外の人間を乗せられないのだ。彼女が、あの声の持ち主であっても、それは変わらない。

 一旦、彼女を安全な場所に降ろしてから追っ手を撃墜して、戻るしかなさそうだ。地図を呼び出して鉄橋を見つけた。せっかくのお姫様に逃げられては、元も子もないのだから。

「すぐ、戻るからね」

 スピーカーをオンして、ハニスはそう言った。鉄橋のトラスの上部、点検用のキャットウォークのようなものが近くにあるが、走って逃げられる場所ではない。ふわりと浮いたまま、エヴィデンスは向きを変える。

 腕を振るったエヴィデンスの一撃を、敵MSは完全にかわした。ハニスは緩んでいた表情を引き締める。多少なりともこちらの事を知っている相手なのだろう。彼女がトラスの縁をしっかりと掴んだまま動かないのを確認して、ハニスは機体をあおった。

「はぁっ!!」

 キリルの気迫と共に、ビームサーベルが振り降ろされる。アンノウンがマリアを降ろした事は確認している。次にすべき事は、この鉄橋から敵を引き離す事だ。空を斬った勢いを無理やりに殺して、ガルバルディの進行方向を曲げる。至近距離からシールドを構えての体当たりだったが、手ごたえを感じない。

 だが、敵の機体に接触していないとはいえ、押し返す事は出来ている。アンノウンの発生させた斥力より、ガルバルディのスラスター推力が勝ったのだ。キリルはシールドを傾けさせて、次の一撃を受け流す体勢を取る。案の定、強い斥力が襲ってきた。

 押し付けてくるような力の流れにシールドを乗せるようにして機体を撥ね上げさせ、敵機の直上でビームライフルを構えた。だが、三連射したビームはどれもアンノウンを避けるような軌道で捻じ曲がり、川へと着弾する。キリルの目が鉄橋へと向いた。

 十分に距離を保っている、そう思った瞬間にはシールドが引き裂かれていた。PS素材で出来た盾だが、まったく無関係のようだ。紙のように引き裂かれたシールドの断面に、キリルは冷たい汗を感じる。

「流石はコーディネーター、ってところか・・・」

 ハニスは、自分の苛立ちを宥めるようにそう言った。東アジアの雑魚ばかりを相手にしていたので、少々調子に乗っていたのかもしれない。ビームライフルとビームサーベルを構える敵の姿を、じっと見据えた。このまま推進剤が切れるまで睨み合おうなどとは考えない。

 両手を交差に構え、背中の羽根を最大限に広げる。敵が先に動いた。その動きを見定めながら、次々と斥力を放っていく。狭い範囲に集中された力は、当たるだけでMSをへし折る力を持つ。ただ、どうにも射程距離が短いのだ。エヴィデンスを操り、距離を保って攻撃を仕掛けていく。

 敵の反撃は全て弾けばいい、ハニスは意識を攻撃に集中させた。わざと敵機をサーベルの間合いにまで誘い込み、放った斥力でその腕をもぎ取る。怯む素振りを見せない敵は、そのままの距離でビームライフルを連射した。

「無駄だぁ!!」

 機体周囲に張り巡らせた斥力の壁は、ビームのエネルギーでは突破の出来ない値に設定してある。そして別次元から引き出されるその力に、エネルギー切れは存在しない。苦し紛れに投げつけられた半壊したシールドを、空中で空き缶のように圧縮して潰して見せる。

 一枚の羽根から放たれた斥力が敵の脚を引き千切った。ハニスは勝利を確信してエヴィデンスの手を突き出させる。

「!?」

 アンノウンの挙動に、キリルは死を予感した。モニターに映る周囲の様子がやけにゆっくり見える。しかし彼は、マリアの顔を思い出す時間がある事に気付き、まだ死んでいない事を確認する。圧倒的だったはずの敵に、動揺が見えた。左の手足を失い、バランスの極端に悪くなった機体を制御してビームライフルを撃つ。

 やはり攻撃は当たらないが、敵が反撃に移らない。それも、こちらを誘っての動きではない。キリルは猛然と仕掛ける。パックに残ったエネルギーの全てをつぎ込んでビームライフルを叩き込み、情けない形に曲がってしまうビームサーベルで何度も切りつける。

 ハンドグレネードの黒煙が、アンノウンを包み込む。それでもなお、敵は動きを見せなかった。そのコクピットの中で、ハニスがパネルを殴りつけている。

「どういう事だ!?」

 突如としてSEEDコンバーターの出力が不安定になったのだ。機体の制御や防御を優先しているが、攻撃への転用が出来ないでいる。防御用斥力も時折弱くなり、ビームで撃ち抜かれる可能性も出てきた。

 何より、このままでは機体を空中に留めて置く事が出来ない。SEEDコンバーターによる機動のみであるため、それが使えなくなれば墜落するのだ。ハニスはモニターを睨む。鉄橋はいつの間にか遠くなってしまった。

 砕けんばかり力で奥歯を噛み締め、女を諦める。SEEDコンバーターの力を全て推力に振り分けると、エヴィデンスは一気に上空高くに飛び上がっていった。ツクバで原因の究明を図らなくてはならない。

 突然の事態に、キリルは全身の力が抜けていくのを感じる。バッテリーも推進剤もギリギリであり、全てのアラームが悲鳴を上げている。だが、アラームの一つは次の敵の接近を告げるものであった。

「東アジア軍か・・・」

 モニターが捉えたのは、ジェットストライカーをつけたダガータイプが三機。ここまでだった。

 キリルはコクピットの中でマリアの名を叫ぶ。

 ガルバルディの頭部のとさか状のユニットから、熱紋センサー阻害効果を持つ特殊な煙幕が噴射された。同じ煙幕を張るロケット弾も発射され、江戸川の空の一角は黒い煙に覆われる。

 

 

 

 

 

 報告者を下がらせて、ブラインドを上げる。朝のシブヤはもう動いていた。普段通りのトウキョウが、今日も始まる。その様子は、旧世紀の東京と何ら変わるところがないように見える。だがそれこそが欺瞞なのだ。

 東アジア共和国という幻想の中に、あやふやに存在する日本自治区。その中心に穿たれた閉鎖都市トウキョウ。そこは、日本人特別居留区というゲットーを抱え、オーブ租借地という租界を寄生させ、身分証確認ゲートと各種の監視システムで分断されている醜悪な街である。そしてそれを隠蔽するために、全ての情報は当局によって脚色されているのだ。

 しかし、それももはや限界である。戦争という外の出来事が消えた今、人々の目は確実に内へと向けられている。そして、この街の醜さに気付いた人々は「東京」を再発見するのだ。

「それは日本を再び見つけることでもある」

 トウキョウを見下ろすリ・ウェンはそうつぶやく。既に、東アジア軍の動きは日本軍へと伝えてある。日本独立に向けた第一幕を上げるのは、ペキンの傲慢さである。旧世紀から変わらない自己を中心に物事を考える事しか出来ない思想は、ここから崩れていくのだ。

 秘書兼ボディーガードの女性が差し出した茶を口に含み、ウェンはゆっくりとソファに腰を下ろした。チャイナドレスのスリットから見える白い脚に、小さな赤い斑点がいくつか付いている。それを指摘すると、女性は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 おそらく、昨夜の立ち回りで付いた返り血であろう。

結い上げられた髪を乱す事無く侵入者を撃退する彼女らにとって、返り血が付くなどという事は恥以外の何物でもない。

 だが、確かに自分を標的とした襲撃が、増えている事は感じる。たいていは事前に情報を掴んでそれを避けるのであるが、たまに彼女らが直接手を下さなくてはならない事も生じる。襲撃者は、善隣幇と敵対する幇であったり、菱丘組の中にいる提携に不満を持つ者達であったり、東アジア軍であったりだ。

 特に、軍の動きには注視していた。自分に目をつけて直接的な行動を行うなど、なかなかの慧眼の持ち主がいるものである。幇の幹部は、シブヤではなく本拠地であるヨコハマで指示を行えば済むと言う者が多くいるが、それではトウキョウの空気を感じられない。

 今回の計画は、その空気を直接感じ、その空気に乗り、そしてその空気を導いていく事が何よりも重要な事なのだ。だから彼は、ハーモナイズコミュニティの動きが気がかりであった。

 彼らもまた、空気の流れを作り出そうとしている。いや、プラントから来たというアイドルは、確実に空気の流れを作り出したのでは無いだろうか。今のところ、その流れは自分の計画を阻害するものではない。だが彼らの目的は、どうにも不明確なのだ。

 彼らの情報力は侮れず、今は是々非々の協力関係をとっているが、それもいつまで続くかというところであろう。

「タチバナ先生は、学園祭と評していたが・・・」

 彼らは、際立った政治的意図を持つのではなく、不明確な「何か」のために明確な行動が取れてしまう集団だと言っていた。昨夜のパーティーに出席した者からの報告も上がってきてはいるが、めぼしい情報は見当たらなかった。

 

 

 

 

 

 電車は妙典の駅で止まった。車内アナウンスは要領を得ないが、周囲から聞こえる話によれば、テロか何かだろうという。乗客は、その駅で有無を言わさずに降ろされた。ルーイは改札を出て、路線図を見上げる。

 とりあえず西船に行くには、南を走る京葉線に乗った方がいいのだが、最寄りの市川塩浜まで行く方法が分からない。まだバスには慣れていなかった。その上、京葉線も電車を止めているかもしれない。

「南行徳から一之江まで、直通の臨時バスを運行します」

 スピーカーを持った駅員が大声で言っている。西船に行かずとも、都営新宿線で京成八幡まで行けば同じ事だ。都営新宿線は動いているらしい。問題は、営団地下鉄東西線が南行徳での折り返し運転になったため、妙典から南行徳までは結局、電車以外の方法で行かなくてはならないのだ。

 人の流れに乗るようにしてルーイも動く。どの道、自分と同じような人達であろう。バス停らしき場所が長蛇の列だったので、彼は少し外れてコンビニエンスストアを探す。買った缶コーヒーを傾けながら、時計を見た。早くに出て正解だったと思う。

 店先のゴミ箱に空き缶を捨て、バス停の方に戻ろうとする。ルーイは思いがけない人に、声をかける。

「アメリ? どうしたの?」

 声を掛けられた彼女も驚いた顔をしていた。いつものように控えめな服装だが、髪は大きく乱れ、両手の平を真っ黒に汚していた。そして何より、疲れきったような顔をしている。

 彼女は辛うじてといった感じの微笑みを見せると、コンビニのトイレに入った。少し落ち着いた顔をして出てきた彼女は、大きく息をついた。そして、ルーイに身分証と小銭を貸して欲しいと言う。

 財布でも落としたのかと聞くと、マリアは苦笑した。そしてコンビニの脇に置いてある電話ボックスに向う。公衆電話を使用するにも、身分証が必要なのだ。彼女はルーイに何度も礼を言う。

「お財布を忘れた場所に電話したら、届けてくれるって。身分証が無いと、動けないから」

 ルーイは彼女と一緒に待つと言った。仕事ではないのかと聞くマリアから、少し視線を逸らした。彼は、彼女に会うために孤児院に向っていたのだ。彼女に会えた以上、急ぐ理由は何もない。

 二人は、コンビニの休憩スペースに腰を据える。昼近くになってようやく、彼女のバッグが届けられた。社用車らしい地味な車から降りてきたスーツの男が、丁寧な仕草でマリアにバッグを手渡すのを、コンビニの窓越しに見つめる。

 昨日は、こちらで知り合った女性の友人と都心のホテルでディナーと一泊だったそうだ。ルーイは、その言葉に心底安心していた。

 

 

 

 

 

 プラントから来たアイドルとやらは、思いがけない収益を生んでくれた。東アジア軍による傘下組織への襲撃以来、資金獲得に大きな支障をきたしていた凌雲会としては、コンサートさまさまであった。こういった興行事に、警備スタッフや設営スタッフの派遣、それらスタッフへの仕出し業務など、様々な関係者を割り込ませるのは、マフィアの古典的なやり口であった。

 そういった古いやり方は好きではないのだが、えり好みをしていられる余裕も無かった。現にその収益が無ければ、このチャンスを逃してしまうところであった。コウキ・ヨシオカは、収益の報告書をテーブルに投げ出し、次の指示を出す。

 このところ日本人特別居留区の動きが活発であり、特に日本軍の関する物資が大量に発注されているのだ。利幅の大きな銃器、弾丸類の注文も多く、その手配に多くの人員を割いていた。

「デカいテロでもおっぱじめる気か、連中・・・」

 葉巻に火をつけて煙をくゆらせる。味など分からないが、こういう小道具こそ、ハッタリとして効果的である事は、よく知っていた。

 浅草寺の傍に立つビルの最上階。凌雲会の本部事務所のオフィスから、隅田川の方に視線を向けた。直線距離にして500mほどで日本人特別居留区である。少し目を凝らせば、瓦礫とバラックの立ち並ぶ荒れ果てた街並みが見えるのだ。だが、感じるものは特に無い。

 東アジア軍の武装警察が入ってきてから、隅田川と荒川の境界線警備は厳しくなった。物資も支払い代金もその輸送は渡河が主であるため、仕事はやりにくい。タマユラ地区との境にある分離壁の下を通じるトンネルの利用も考慮には入っているのだが、民間のトンネルはその使用料がネックであった。

 結局は警備の目を掻い潜るしかないのだが、予想外に摘発件数が少ないのは、保安局が都心の警備から外された影響であろう。東アジア軍ではアングラの情報も入手困難なのだ。

「あとは、サクラの旦那の頼み事か・・・」

 コウキは腕を組んで、天井を見る。刑事部や暴対でもないのに、何かと情報収集をしているシュウ・サクラから、人の確認を頼まれていた。ブンジ・タチバナの邸宅を訪れた人間の隠し撮り写真を手に取る。

 その人物は、極星会の会長で間違いが無かった。菱丘組の関連団体の一つであるが、普通のマフィアとは少し系統の異なる組織である。

「的屋のジジイが、何だって・・・それも親父を通さずにと来たもんだ」

 複数のマフィア組織の連合体である菱丘組では、各組織のトップの動向を組長であるユウゾウ・カトウに報告する事となっている。だが写真の日時に、極星会の会長がタチバナ邸を訪れたという報告は上がっていないはずだ。要人との面会は、もっとも重要な報告事項のはずだ。

 シュウには、聞かれた事だけ回答しておく事にした。この情報がどのような意味をもち、どのような展開を導くのか。この情報にいち早くアクセスできたアドバンテージは、生かさなくてはならない。

 

 

 

 

 

 体のあちこちが痛いのは、小さなソファーで寝たからだ。せっかく借りたフォーマルも皺だらけになっている。エリックはアキハバラの雑居ビルで眼を覚ましていた。コーヒーを出してくれたのは、事務所に出勤してきた無口な男だった。ジュンコはもう少ししたら出てくるとだけ言った。

 昨夜、彼女を家まで送った後、彼女の部屋に上げてもらう事は許されず、この事務所で一晩を明かしたのだ。コーヒーは苦く、朝日は眩しかった。

「よく眠れた?」

「・・・それを今聞きますか?」

 事務所のドアが開き、ジュンコが入ってくる。普段通りの彼女に、恨みがましい視線を向けた。嫁入り前の女は、自分の部屋に男を入れないのがこの国のルールだとうそぶいた彼女は、デスクのパソコンをつける。都内交通機関の運行情報が映し出された。

 江戸川の河口近くで何かがあったらしく、電車が止まっていた。何があったかは公式発表されないようだ。ジュンコは別の画面を開いた。ネットの掲示板のような画面には、次々と情報が書き込まれている。

 江戸川上空でMS戦が行われたようだ。ブレまくりであるが、一部には画像も貼り付けられている。ジュンコはエリックの表情に、思い当たる節があるのだろうと推測する。彼はつぶやくように聞く。

「これは、生って奴ですか?」

 ジュンコは頷き、別の画面を写す。オーブ政府の公式ホームページであった。普通、トウキョウではアクセスできないものだ。彼女が投げてよこしたメモリーチップには、当局による情報のブロックを回避するためのプログラムが収められている。

 グレートバリアリーフ号にはレーザー通信衛星との回線があるが、天候によっては使い物にならず、このプログラムはありがたかった。だがエリックの言う生という言葉を、ジュンコは笑う。

「その情報が正しいという事は、誰が判断するの?」

 そもそも生だの冷凍だの言うのは隠語であり、当局の検閲を通っていないかいるかの違いでしかない。その言葉が情報の『正しさ』を保障するものでは無いのだ。彼女は、画面を指差し、この情報は冷凍ではないが加工品だといった。

 このプログラムが作られた場所はイケブクロである。ハーモナイズコミュニティのトウキョウでの活動拠点がある場所だ。アキハバラの関係者にとって、このプログラムの胡散臭さは当初からささやかれていたと言う。それがトウキョウ中に知れ渡らないのは、ひとえにオタクネットワークの狭さであろう。

 特別行政府が、自分達にとって都合の悪い情報を削除して流通させるように、ハーモナイズコミュニティは自分達にとって都合の良い情報を選別して流通させる。エリックが手にしているのは、そのためのプログラムなのだ。

「そうでなきゃ、あんな歌手が空前の人気を持ち得るはずがないわ」

 昨日のパーティーを思い出しながら、エリックは半分納得する。個人的には嫌いな歌手ではない。だが、そういった個人的な感想が問題なのではない。彼は、このプログラムが一般に出回りだした時期を聞く。

 何らかの意図をもってこのプログラムを配布したのであれば、周到な準備を整えているという事であろう。いよいよ、日本軍など瑣末な問題に過ぎなくなってきたようだ。

 エリックは立ち上がり、一夜の宿の礼を言う。礼には及ばないと涼しげに言うジュンコに、その通りだと言い返しておいた。




 次回は、金曜日の予定です。

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