歌と爆弾 ~コズミック・イラ 東京異聞~   作:VSBR

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第十一話 生の情報

 玄関先の掃き掃除を終えて、空を見上げる。日が傾き始めるほんの少し前の曖昧な青空。ダルウィーシュ・ダルは、箒の握りを変える。このところ、孤児院の周辺を怪しげな連中がうろついているのだ。

 日本人特別居留区への人道支援などを行っている以上、当局から監視される事は仕方のない事である。だが、法手続きに間違いが無い以上、それ以上の干渉を受けるいわれは無い。ダルの殺気に気付いたのだろう、背後の気配が消えた。慎重に後ろを振り向くと、見慣れない男が立っている。

「会場は、もう一つ向こうの駅ですよ」

 東京武道館で行われているコンサートに向う人が、時々道を尋ねてくる事があった。この男はそうでは無いだろうと思いつつ、ダルはそう言った。男はにこやかに礼を返す。そして、ここは幼稚園か何かかと聞いてきた。

 ダルの返答に、中を見せてもらいたいと男が申し出る。警戒心を隠さない彼に、男は歌声の主を知りたいと言う。そしてダルの答えも聞かずに、男は孤児院の敷地に足を踏み入れた。

「これでも音楽は少しかじっていまして。その歌が本物かまがい物かは分かるんですよ」

 建物の中では、アメリがピアノを弾いていた。周りの子供達と一緒に歌を歌っている。どこの国の歌ですかという問いにダルは答えないが、男がその歌を熱心に聴いているのだけは分かった。

 子供達は、アメリの歌を耳から聞こえるままに声にしている。歌詞が持つ意味より前に、そこには音楽があった。男が手を叩き、視線が集まる。いつもの客とは違う男の姿に、子供達は不思議そうな顔をしていた。

 アメリは目を合わせてきた男に軽く会釈をした。彼女は、子供達を園庭へと連れ出す。

「・・・素晴らしい歌だ」

「自分は音楽に詳しくないもので」

「響くんですよ。ここの・・・ずっと奥にね」

 男は自分の額を指先で叩くようにして言う。その歪んだ口元に、ダルは男を明確に危険と判断した。それも、当局の監視などとは全く異なる危険だ。

 どうやって男をこの場から遠ざけようかと考えていると、男の方から頭を下げてきた。そして仕事の邪魔をした事を詫びて、玄関の方へと足を向ける。しかし、そんな男の後姿にも、ダルは拍子抜けした感じを受けない。

 あの男は再び現れるだろう。それも、ここではなくアメリの前に。ダルは玄関先まで出るが、男は既に駅に向う道の角を曲がるところであった。

 一瞬だけ孤児院の方に視線を向けた男、ハニス・アマカシはダルの勘の鋭さに苦笑する。あの手のナチュラルは、並みのコーディネーターより厄介だろう。

 しかし、とんだ拾い物であった。メンバーとの接触のためにコンサート会場に向う途中で、あの歌声に出会えたのだから。彼女が何者かを調べさせなくてはならない。あの歌声は、あんな子供達だけに聞かせるにはもったいない声なのだから。

「ようやく、本物の歌が聴ける」

 ハニスは一人笑った。その瞳の鮮やかさは、どこまでも深く美しく、そして不気味であった。

 

 

 

 

 

 女の出した紙コップのコーヒーを飲み干す。女は、彼がブラックしか飲まない事を知っていて、わざと砂糖とミルクを入れている。それをいちいち気にするほど、彼らも短い付き合いではなかった。

 彼のオフィス同様に散らかった女のオフィスには、書類に埋もれて遭難者のようになっている課員が二名ほどいる。忙しさはどこも同じようだ。

「シュウちゃんくらいよ、鑑識に来る警備部の人なんて」

「それより頼んでたものは?」

 シュウ・サクラは手短に言う。女はそっと小指でコーヒーカップを指差した。底にメモリーチップが貼り付けられている。

 トウキョウ特別行政区の発足に伴い、トウキョウにおける刑事事件はその種類を増した。各国の諜報員やテロリストのメンバー、区内の活動家やマフィア、アングラ勢力などが入り乱れている。しかし警察は、保安局と名称が変わっただけで、その組織にほとんど変化がなかった。

 そのため、様々な部課が横の連携の薄いまま活動を続けている。シュウの所属する警備部は日本軍の動向には詳しいのだが、それ以外の情報については蚊帳の外なのだ。だから彼自身が、独自に情報を集めている。

 コウキ・ヨシオカとの関係もその一つであるし、ここに顔を出すのもそうだ。鑑識と科学捜査研究所は刑事部内のセクションであるが、ここにだけは各部の情報が集まる。テロリストの使用する爆弾の種類の特定も、スパイが使用する暗号の解読も、マフィアの売買する薬物の検査も、ここで行うのだ。

 だからこうして甘いコーヒーを飲みに来る。今日取りに来たのは、ブンジ・タチバナについての情報であった。

 コウキからのリークで、軍が動く事を事前に察知したシュウは特務課を派遣してそれに備えていた。結局、不審な車両はいたものの何も起こらなかったのだが、何故その人物が狙われるのかがよく分からないのだ。

「その筋じゃ、超有名人らしいわ・・・」

 女の勧めるコーヒーを断って、シュウはカップを返した。礼も言わずに立ち去る彼に、女は昼食くらい奢れと声をかける。そして、椅子の背もたれに体重を預けた。

 特別行政区の発足に伴う混乱の中、その稀有な人脈で多くの人間を結び付けてきた人物。それがブンジ・タチバナだった。その人物が再び脚光を浴びだしたという事は、すなわちトウキョウが再び混乱するという事ではないのだろうか。

 彼のコネクションが特別行政区や日本自治区を安定させたと評価するものもいれば、まったく逆の評価をする者もいる。果たして、今度はどのような評価を下されるのであろうか。

 窓の外は良い天気であり、天井の照明はどこか滑稽だった。それなのに、何故か明るさを感じない。悪い予感というほどはっきりはしていないが故に、より不安が掻き立てられる、そんな雰囲気だった。

 

 

 

 

 

 リクエストされた曲は彼も知っている物だった。オオサカの音楽イベントで流れていた曲。今は東京武道館でライブを行っているアイドルの歌である。ピアノ用にアレンジされたものがあるのか、彼女はためらいもなくそれを弾き、伸びやかに歌った。彼女が歌を歌う時だけは、場末のキャバレーがその趣きを変えた。

 歌が終わり、まばらな拍手が消えると、店内は再び猥雑なノイズに満ちる。融けた氷を飲もうとするキリルの手を押し留め、ピアノの前から戻ってきたマリアがボトルを手にする。彼女はグラスの中の水を飲み、手早く水割りを作り直した。

 手渡されたグラスには、うっすらとルージュが残っている。その淡い形は艶かしく、キリルはそのグラスをテーブルに戻した。不思議そうな顔のマリアに、不機嫌な横顔を見せてしまう。

 自分はどうかしていると思った。

 彼女の仕草に覚えるときめきは、そのまま苦い嫉妬になってしまう。ここがそういう店である事は分かっているはずなのに、彼女が別の男にも同じ仕草を見せている事に苛立ちを覚える。彼女の手に触れると、その手を握り返してくれた。だが、それが自分だけのものでは無い事が、苦しくてならない。

「どうか、した?」

 彼女の声に我に返った。内心の焦りを取り繕うように、キリルは試験の話をする。彼女が受けると言っていた在留資格更新試験だ。特別行政府で正規の労働者として働くためには、合格しなければならない試験なのだという。

「合格したら、ここで働く事も無くなるから、会えなくなっちゃうわね」

「そんな事、どうでもいい。君は、こんなところで働くべきじゃ・・・」

 彼女の手を握る力が強くなっている。困ったような彼女の顔をキリルは正視できない。チーママがマリアを呼び、彼女が席を離れる。代わりに、ママがキリルの横に座った。店の経営者である彼女が直接相手をする客は少なく、キリルはその数少ない上客の一人なのだ。

 キリルの肩の力が抜けるのを見て、ママは含み笑いを漏らした。基本的に若い女の子目当ての客ばかりが来る店で、そうではないママとの会話を楽しみにしている男はいない。キリルが話を切り出そうとした時、ママがそれを制するように言った。

「幇の事に首を突っ込むのは止めておきなさい」

 それはこの街で十年過ごせた人間だけが触れられる話題だという。彼女は、それ以外の話であれば、今まで通り報酬次第で話せる事もあると付け加えた。キリルはグラスの水割りを口にした。そして話題を変える。

「マリアを、その・・・貸していただけないか?」

 ママは大げさな表情で驚いてみせた。同伴させても食事だけで女を帰す男にしては意外な申し出だと言わんばかりだ。そして、それはマリアに直接聞くべき事だろうといって、席を外した。

 戻ってきたマリアが悪戯っぽく微笑みながら聞く。

「それは客として? それとも、男性としてのお誘い?」

 

 

 

 

 

 ボディーガードの二人の女性を下がらせ、リ・ウェンは夜のトウキョウを眺める。計画は、いくつかの不確定要因を抱えながらも、概ね順調に推移していた。東アジア軍による日本人特別居留区への攻撃も、一週間以内には最終決定がなされるであろう。こちらは予想以上にシャンハイが粘ってくれたようだ。

 東アジア中央政府は、ペキン派とシャンハイ派が激しい権力闘争を繰り広げている。トウキョウ特別行政区と日本自治区の関係も、この二つの派閥の代理紛争と見る事も可能だ。

 だがそのような権力争いに、ウェンは何らの興味も持っていなかった。

「ここは東京であり、日本なのだ・・・」

「トウキョウではなく、日本自治区でもないと」

 ウェンの振り返る先には、スーツの男が座っている。上海第七銀行のカヲ・ツォピン、ウェンが代表を務める会社への融資話を持ってきている男だ。シャンハイの財界では名の通った男が、トウキョウにまでわざわざ出向いている。しかも、トウキョウをこまめに歩き回っているという情報も上げられていた。

 無色透明のビジネスマンであり、職業倫理には忠実な男だという話なので、警戒するには当たらない。だがウェンは、カヲがトウキョウをどのように見ているかについて興味があった。それは、自分の計画の今後を占うものかもしれない。

 彼は問う。トウキョウは融資に値する街か否かを。

「トウキョウへの融資は検討に値します。ですが、東京に関してはリスクが大きすぎる」

 そう言って立ち上がる男を引きとめる事はしない。銀行屋としては、それでいいのだろう。だがウェンは事業を自ら行ってきた人間である。自らの才覚でリスクを請け負い、そのリターンを手にする。ハイリスクに見合うハイリターンがあれば、それを追い求める。そうやって、今までビジネスの世界を渡り、そして成功を収めてきた。

 だから、ビジネス以外の世界であっても、同様に振舞うのだ。

 故郷を奪われた彼らの父祖は、民族の血を絶やす事無くこの地に根付き、この地の人々ともに生きてきた。だが彼らは、第二の故郷ともなったこの地を、再び奪われる事となったのだ。再構築戦争の終結がもたらしたものは、東アジア共和国の成立ではなく、日本の消滅だったのだから。

 だから彼は、彼らから二度までも故郷を奪った者達に向けるための牙を研ぎ続けていた。後は、それを敵の首筋に突き立てるだけでいい。ペキンの喉笛を食いちぎり、東アジア共和国の首を落とすのだ。

「日本独立」

 その狼煙は、この東京で上がる。そしてそれは、日本だけに留まらない。東アジア共和国全体に、独立の火の手は広がっていく。それはやがて、彼の父祖の土地をも解放する炎となるだろう。

 消える事の無い街の明かりを見下ろしながらウェンは思う。日本が存在していた最後の年に生まれた自分が手がけるべき最後の事業として、これほどふさわしいものがあるだろうかと。

 

 

 

 

 

 旧世紀、個人用の携帯型無線端末は全世界で使用されるツールとなっていた。その技術進歩は目覚しく、名刺サイズのコンピューターとして使用できるまでになった。しかし、Nジャマーの撒布とその副次効果である電磁波障害は、携帯電話と呼ばれた無線端末に致命的なダメージを与える事になる。

 現在では、特にインフラの整った大都市で赤外線を使用した無線端末が使用できる程度である。ヨシト・モリは、インタビュー相手の携帯電話を見せてもらった。

 映っているのは、先日追加日程を終えたプラントのアイドル歌手のライブ映像だ。主催者であるハーモナイズコミュニティは、ライブ映像をそうそうにネット上で公開しているのだ。

「これは生?」

「当然じゃん、冷凍なんて見てる奴いないぜ」

 インタビュー相手の若者は、少しだけ声をひそめてそう言った。ヨシトは礼を言ってその場を後にした。どうやら、特別行政府の情報統制には大きな綻びがあるらしい。プラントの歌手があれだけの観客を動員できたのも、その辺りに理由がありそうだ。

 近くのコーヒースタンドに腰を据えて、メモをまとめる。赤外線無線を完備しているのが売りのチェーン店だけに、客の多くは携帯電話を弄っていた。

 特別行政区は、インターネットに流れる情報についても監視の目を光らせ、公序良俗に違反するとされた情報はアクセスが出来なくなる。もちろんそれは建前であり、反政府活動やテロリストの情報など公安上問題のあるものを取り締まっているのだ。そうやって、当局によって規制を受けた状態の情報は、俗に冷凍物と呼ばれていた。

 それに対して、当局の規制を受けていない情報が生と呼ばれているのだが、それを入手するためには、専用のソフトや設定が必要となる。先ほどの若者も、それによってライブ映像を入手していたのだ。

 もともとあの歌手は当局の規制の枠外にあるのだが、歌詞や衣装などが細かく規制され、ライブ映像も当局が加工したものが出回っているという噂であった。その噂がどこまで本当かは分からないし、特別行政府もそこまで暇では無いだろうとは思う。

 しかし重要なのは、トウキョウ特別行政府がそのような規制を行っていると、市民に思われているという現実である。生情報を入手するためのソフトは違法であり、所有者には実刑もありうるのだが、おそらくトウキョウにいる人間の大多数が、生情報に触れているのだろう。

 ヨシトはメモを閉じコーヒーのカップを手にする。今朝もテロ未遂が一件見つかり、鉄道の運行も色々と影響を受けていた。だが、店の窓から見えるトウキョウの姿は、日本自治区にあるヨコハマの姿と変わる所が無い。視界の隅に見える身分証確認ゲートだけが、二つの街を分けている物だった。

 だが、それこそが決定的な違いなのだ。あのゲートは不自由の象徴であり、違法ソフトを用いて得られるライブ映像は自由の象徴なのだ。

 

 港に停泊する船の数を数える。MSが隠されているとすれば貨物船以外は考えにくい。

 ある程度の部品に解体すればコンテナでも運べるだろう。ソフトウェアや電子部品関係はトウキョウでも調達できる。パイロットだけを上陸させ、MSは各種のルートを使って部品を運んで組み上げる事も可能だ。アキハバラのジャンク屋組合はその可能性の方が高いと判断しており、部品の売り先に目を光らせているようだ。

 だからこそ、裏をかいてMSを丸ごと運んでいる可能性がある。エリック・リブーは双眼鏡をキリルに手渡して、そう言った。

 地球圏全体での取締りが強化された事から、かつては世界中で紛争を受け持っていた傭兵も今では宇宙にいくつかの組織を残すのみである。それだけに、タマユラ地区に傭兵が上陸したという情報は、その真偽を確かめる必要があった。地球にいた傭兵が、連合各国と密接な関係にあったのと同様、宇宙に本拠を置く傭兵はプラントが関与している組織だからだ。

「・・・敵も味方も分かりゃしねぇ」

 エリックはガムの包みを開けながら、そう吐き捨てた。彼らがカーペンタリアからトウキョウに派遣されたのは、プラントの地球拠点としてトウキョウが使えるか否かの調査のためである。だが傭兵を送り込んだ人間は、もっと直接的かつ早急な関与を望むものであろう。

 どの程度まで関わるつもりかは分からないが、上が分裂しているだろうという状況は、現場にとっては面白くない事だ。キリルが立ち上がって、行くぞと言う。

 この情報の調査を要請してきたアキハバラのジャンク屋組合も、大口のクライアントだった善隣幇のここ最近の動きに警戒を強めている。敵味方が分からなくなっているのは自分達だけでは無いのだろう。

 一隻の船が接岸して、何かを降ろし始めていた。二人は小走りにそちらへ向う。船の中から出てくるものはMSのような形をしていたのだ。

「こんな目立つ事するか?」

「まて・・・サイズが、違う?」

 近づくとそれはMSの三分の一ほどの大きさの作業機械であった。複数の手足を持った姿は、見れば見るほどMSとはかけ離れた姿をしている。その車体に塗られたペンキは新しく、全体がワックスでピカピカに光っていた。

 船から降ろされたそれは、トレーラーに載せられていく。どこかの工事現場にでも運ぶのだろう。

「すみません、関係者以外は・・・」

 スーツにヘルメットだけを被った女性がそう言って近づいてきた。エリックは機先を制するように名刺を差し出す。複数用意されたもののうち、彼が選んだのは経済誌の記者を騙るものであった。

 女性は納得したのか自分の名刺を差し出す。シュバルベ工業技術主任、ユンディ・ミナカミ、それが彼女の名前だった。

 

 

 

 

 

 カフェコーナーの窓から見える景色は雨模様であった。天気予報は何と言っていたであろうかと、どうでもいい事を思う。ミルクだけを入れたコーヒーが苦い。チン・ヤンチャンはカップを置く。

 ツクバには最近、日本自治区のエージェントに代わって、日本軍の関係者が顔を出すようになっていた。詳しい事は彼の耳に入る事ではないが、その両者が異なる利害をもってツクバに接触を行っている事は分かる。エヴィデンスの戦果は、いよいよ無視できない物になってきたのだ。

 ヤンチャンは実験結果の書かれたノートを開く。SEED現象の発現に関する実験は、それなりの進展を見せ始めていた。特殊な非可聴領域音波が人間の脳神経系に何らかの作用をもたらし、それがSEED現象発現のきっかけとなっている事は、ある程度まで実証できていた。

 だがサンプル数が絶対的に少なく、個人差や別の要因の存在を完全に否定できるものではなかった。これに関しては、大規模な実験を地道に行っていくしかないのであるが、今のツクバの状況はそれを許さないだろう。

「先生の研究は世界規模で行ってこそ意味があるものでしょう」

 その声にヤンチャンは首を横に向け、目だけを後に向ける。ハニス・アマカシが笑いながら近づいてくる。かつてプラントが行っていたような地球規模の実験。あれを再現してこそ意味のある研究だと、彼は言った。

 ギルバート・デュランダルであればあるいは、そういった意図があったのかもしれない。だが、彼もそこまでの確信があったわけでは無いだろう。プラントが行っていたのは、あくまでもプロパガンダの一つに過ぎない。ミーア・キャンベルにせよ、ラクス・クラインにせよ、その歌はザフトの宣伝でしかなかったのだ。

「だったら、先生が始めにやればいい。その価値のある事です」

 人類の中に眠るSEED因子。それをあまねく発現させたとき、人は新たな種へと羽ばたく。その時、調整者としてのコーディネーターという、ジョージ・グレンの予言は現実のものとなるだろう。

 種を芽吹かせる歌声を世界中の人々に届ける。それはもはや科学の枠に留まらない、人類史の偉大なる一歩であろう。ハニスは笑みを浮かべ、真剣にそう語っていた。ヤンチャンはカップのコーヒーに口をつける。

 考えておいて下さい、ハニスはそう言ってカフェコーナーを後にする。ヤンチャンは、雨粒の滴る軒先を見つめていた。

 彼はハニスに、ハーモナイズコミュニティなる組織との接触を勧められていた。そこであれば、兵器開発の片手間としての研究ではなく、純粋に科学としての研究が可能となるだろうと。

「科学・・・か」

 少なくとも、今のハニスが語った事は科学では無い。それは宗教の最も危険な側面に肉薄するものだ。しかし同時に、軍事的な成果を求められない研究活動というものに、心を動かされた事も確かだった。

 いずれにせよ、もう少し彼の素性を確かめてからでなければ、判断のしようが無い。カウンターに奥にあるテレビが、天気は西から回復してくると伝えていた。

 

 

 

 

 

 雨上がりの空に、ようやく薄日が差してきた。本社への報告を終えたルーイは、腕時計を見る。今から孤児院に顔を出す時間はあるだろうか。列車の時刻表がないので、はっきりした事が分からない。とりあえず駅まで行ってみようと思ったところで、ヨシトに出会った。

 日本自治区からトウキョウ特別行政区への入区審査が厳しくなってから、なかなか顔を合わせる機会がなかったのだ。一応、取材成果は送っているのだが、そのやりとりも頻繁にとはいかなかった。

 そのせいか、ヨシトはまくし立てるようにしゃべる。

「聞いているんですか、キリロフさん!?」

 ルーイは慌ててヨシトの顔を見るが、話は全く聞いていなかった。ただ、自分の仕事ぶりについて、文句を言っているだろう事は分かった。自分で言うのもなんだが、最近はろくに取材をしていない。だが、仕事に追われるよりずっと充実した日々を送っていると思っていた。彼はもう一度腕時計を見る。

 ヨシトはそれを見咎めた。ルーイのそういう態度が、どこまでも不真面目なものに見えるのだ。最近、彼に交際相手が出来たらしいという事は知っている。

 その事自体に文句を言いたいわけではない。だが、ルーイが自分の置かれている状況を全く理解できていない事に腹が立つのだ。彼の持っている報道ビザは、トウキョウで遊ぶために発行されたものではない。

 そもそもユーラシアのテレビ局のスタッフに、特別行政区内部でも通用する報道ビザが発行されたこと自体、奇跡のようなものである。日本自治区で報道に携わっているヨシトですら、特別行政区に入る事は困難となっているのが現状なのだから。ならば、その奇跡はより有効に活用されてしかるべきである。

 トウキョウは今、その水面下が激しく動いている。当局の追跡を受けながらも取材活動をしている独立系ジャーナリストも、特別行政区内の不穏な動きを刻々と伝えているのだ。

「それなのにあなたは・・・!」

 思わず荒げてしまった声に、ヨシトは口をつぐんだ。周りを見渡すと、付近の通行人が怪訝な顔をして二人を見ている。その中で一人だけ、足を止めて視線を向けている女性がいた。

 ルーイが気付くより早く、ヨシトが声を上げる。先ほどまでの声とは全く違う、トーンの上がった興奮気味の声だ。ピンクのヘアバンドの女性が、その声に苦笑していた。彼は声の様子そのままに女性へと駆け寄り、再び通行人の視線を集めてしまうような声で女性に話しかける。

「エルフリーデ・シーハンさんですよね!? 著書は読ませて頂きました!」

 握手を求めるヨシトに応じながら、彼女は視線をルーイへと向け続けている。しかし彼は、その視線をそらしたままだった。

 

 

 

 

 

 ヨコタを始めとした、トウキョウ特別行政区各地にある東アジア軍駐留基地は、その動きが活発化していた。日本人特別居留区に潜伏するテロリストを掃討するための作戦日時がようやく決定され、そのための準備に追われているのだ。

 日本人特別居留区は都心部に隣接する区域であり、簡単なロケット弾であっても容易に人口密集地を攻撃できる。作戦にあたっては、都市住民の避難誘導なども迅速かつ的確に行なわなくてはならない。身分証確認ゲートや各種交通機関の運行状況管理など、様々なシミュレーションが繰り返されている。

 東アジア政府は分離主義を認めないという断固たる姿勢を示すためには、是が否でも成功させなくてはならない作戦である。メガネを掛け直した男がそう言った。

「ペキンによる中央集権体制は断固維持する、だろ」

 東アジアの軍内では目立つ、真っ黒の肌をした男がはっきりと言った。ギブスが取れたばかりの腕をさすりながら、出されたコーヒーに手を伸ばす。

「ジョン・マグナルド・・・いや、ヒュー・レペタ。そう固くなることは無い」

 ユ・ケディンがメガネの奥の瞳を光らせた。そして、ヒューとの接触は自分の独断であり、情報部とは無関係だと言う。音を立ててコーヒーをすするヒューは、その言葉を聞き流すような表情をしているのだが、ケディンが持ちかける話には耳を傾けざるを得なかった。

 彼が欲しがっているのは、今回の作戦に際してヨコスカの大西洋軍がどのような動きを見せるのか、その一点であった。軍上層部は動くはずが無いとたかをくくっているが、彼はその点を危惧していた。ヨコスカが動きを見せれば、カデナやミサワの連合軍共同管轄地区に駐留している部隊も呼応するだろう。

 そうなれば、全面衝突はないにせよ、連合内部での深刻な対立を内外に示す事になる。大西洋とユーラシアが北極海で睨み合うなど、最近連合加盟国内部の軋轢は増えていた。それは対プラントを考える上では、極めて拙い事態なのだ。

「考えるべき国益の範囲は広い」

 ケディンはヒューに、ヨコスカの情報と引き換えに、作戦時における特別行政区内部の規制地図を示すという。ヒューの背中に冷たい汗が流れた。彼は、ヒューがヨコスカの司令部から下された指示を把握しているのだ。

 東アジア軍の足元での活動である。自分達の情報を完璧に隠せているとは考えていなかったが、よもやそこまでとは予想外であった。同時に、そこまでの情報を掴んできおきながら、なおヨコスカの真意を測りかねているという事だろう。

「まぁ、信用できるような国では無いがな」

 再構築戦争のおり、安全保障の条約を反故にして日本の東アジア共和国併合を容認しながら、自分達の権益である基地と極東における軍の駐留だけは手放さなかった国である。特別行政区の混乱に乗じて、何かを仕掛けてくると考えるのも当然だろう。

 ヒューは申し出を受けた。ケディンを安心させるくらいの情報なら、自分でも引き出せる。差し出されたケディンの手を握り返し、ヒューは気になっている事を聞いた。日本軍の掃討で、事態は一段落するのだろうかと。

 ケディンの無言は否定であった。おそらく、軍が想定している事態とは全く異なる事が起こる。トウキョウを舞台に諜報活動をしている者の皮膚感覚のようなものであった。

 ヒューは、うんざりとしたため息をついた。

 

 

 

 

 

 かすかなモーター音とともに門扉が開く。インターホンから聞こえてきた声の主が、頭を下げながら出迎えてくれる。割烹着が良く似合う老婦人で、ここで住み込みの家政婦をしている人だという。

 その女性の柔らかな対応がなければ、きっと気後れしてしまうだろう。ブンジ・タチバナの邸宅には、堂々たる風格を感じた。労働組合の先輩のツテを頼って訪ねてきたのだが、聞いていた以上の人物であるようだ。

 床の間に通されて少し、邸宅の主が現れる。立って挨拶をしようとする彼を制し、ブンジは彼の持って来た土産を手に上機嫌に言った。

「あの子も、わしが医者に色々と止められてるのを知ってるようだ」

 スグル・ハタナカは、そんなブンジの様子に唖然とする。大先輩をあの子扱いするのもさる事ながら、自分のような若造に対して威圧感を全く見せないのだ。手土産の濡れ煎餅をつまみながら、お茶を持って来た家政婦に隣の部屋にも分けてやるようにいる。

「これだけ広いお屋敷ですと、やっぱりたくさんの人が」

「じいさんの一人暮らしに人はいらんよ。ただ最近は物騒なんで、知り合いが用心棒を貸してくれていてね」

 その用心棒はコーディネーターで、剣の達人だという。そして刀とドスの違いに関する講釈と、最近手に入れたという日本刀の自慢話を聞かされ、ようやくスグルは本題に入ることが出来た。

 彼のいる労働組合の連合会は、リ・ウェンから提案された資金援助を、検討中という名目で先延ばしにしていた。リ・ウェンの背後関係が不明確で、判断の材料が乏しかったのが主な原因である。

 だが、リ・ウェンは彼の所有する企業と傘下のグループにあるそれぞれの労働組合を通して、連合会に所属する個別の労働組合との接触を続けていた。連合会は切り崩しを受けたような状態となり、各組合への統制力が弱くなっている。

 そして、それらの労働組合が統一してある行動を行う準備をしているのだという。

「ゼネスト・・・ですか」

 ブンジの感心したような声に、スグルは深く頷いた。特別行政区の労働者が一斉にストライキを起こそうというのだ。そういった活動を取り締まる軍の部局の動きも現在は何故か鈍く、流れは止まりそうにないという。

 しかし、そのような大規模な行動が軍を刺激すれば、不測の事態が起きかねない。言いよどむスグルに代わってブンジが言った。

「日本人相手なら、平気で引き金を引くでしょうな」

 スグルは、各労働組合が過激な行動を取らないように説得を続けるとは言う。だが万が一ゼネストが実行されるような事態になれば、状況がどう推移するか予測できない。そこでブンジの知恵を借りたいという。

 頭を下げるスグルにブンジは困った表情を見せた。リ・ウェンとの会談を取り持っても、事態は動かないであろう。そういう相手だというのがブンジの見立てだ。かといって、トウキョウの市民が危険に晒される可能性を放っておくことも出来ない。彼は、慎重に言う。

「おそらく、普通の発想ではリ先生の思惑通りにしかならない」

 彼の考えている事の良し悪しはともかく、何も知らない市民にまでリスクを負わせるのは筋が違うだろう。だからその思惑を超える発想が必要になる。ブンジはスグルに、ハーモナイズコミュニティ事務局への連絡方法を教えた。




 次回は。月曜日を予定しています。

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