その日オーベルシュタインは、元帥府に向かう車中で、かつての上官から「借りたままになってしまった」黒のアイパッチを眺めていた。
―― あなたのお父上より預かったものです。お父上はあなたのことを小さな姫と呼び、いつか成長したら、一緒にこのアイパッチを装着し宇宙を駆けようとしておいででした。小官はお父上の副官を務めさせていただいており、目を掛けていただき、随分とよくしていただきました。そのご恩を是非ともご令嬢たる……
オーベルシュタインはかつて公爵夫人の父親の副官を務めていた。
細かいことは一切合切気にしない、闊達ながら冷酷、常人であれば言えないことも、すっぱりと言えるその父親のことを、オーベルシュタインはとても信頼していた。それこそ、次の皇帝になっていただきたいと思う程に。
ちなみに父親はオーベルシュタインに「お前、王者の器じゃないな。王の器を見つけるまで、ゴールデンバウム王朝打倒すんなよ」と、軽やかに語っていた。
娘がそれを知ったら「粛正されるだろうが、馬鹿オヤジ」と叫ぶのは必至だが。
「閣下、到着いたしました」
回想に浸っていたオーベルシュタインはアイパッチを胸元へとしまい込み下車し、元帥府へ ――
「そこな血色の悪い上級大将。そう、おぬしだ」
向かおうとしたオーベルシュタインを呼び止める声。オーベルシュタインなどとは一言も言っていないのだが、その場にいた上級大将はオーベルシュタインだけ。
ついでに言えば血色が悪いのも ―― 己の血色の悪さを熟知しているオーベルシュタインは足を止め、声がした方を振り返る。
そこには犬を連れた所作若々しい老人が、笑顔で立っていた。
オーベルシュタインは犬と老人を注意深く観察し、老人の頼みを聞き元帥府への立ち入りを許可した。
「規則ですので」
「構わぬが、ややこしいことになりそうだ」
念のためにと老人の身体検査をフェルナーに命じ、犬の検査はオーベルシュタイン自身が立ち会った。
犬の検査を終えて、老人の元へと戻ってきたオーベルシュタインに、フェルナーが駆け寄り、マズイのではないかと尋ねるのだが、
「間違いなく男性です」
「そうか」
「よろしいのですか? 男性ですよ」
「男性だな」
オーベルシュタインはフェルナーの言葉をいつも通りに全く無視して、下男に連絡を入れた。
その日、公爵夫人は下男の元を訪れており ――
「元気だったか、兄弟。そちらが公爵殿か」
存在だけは知っていた「曾祖父のはとこであり、
『兄弟はお止めくださいと、あれほどお願い申し上げたではありませんか』
「兄弟は兄弟であろう」
『まったく……お変わりありませんな。軍務尚書閣下、そのお方は間違いなく御前さまの親族でございます』
「そうか。卿がそう言うのであれば間違いないな。公爵夫人、面会希望者でございます。ご足労ですが、元帥府までお越しいただきたい」
公爵夫人はすぐに向かうと告げ、老人と犬の見張りにフェルナーを置き、オーベルシュタインは仕事の一つである、ラインハルトと幕僚たちの昼食会へ。
「遅かったな、オーベルシュタイン」
ラインハルトに声を掛けられたオーベルシュタインは ―― ラインハルト以外、オーベルシュタインに話し掛ける者はいない。ビッテンフェルトなどは、来なくて良かったのにと声に出す始末。
その発言に対し、ほとんどの者は苦笑を、言われたオーベルシュタインは完全に無視を貫き、遅れた事情を説明する。
何があっても我関せずなオーベルシュタインが遅れた事情を話すなど珍しいと、耳を傾けていたラインハルトは、意外な理由に料理を口に運んでいた手を止めて聞き返す。
「髪長姫の近しい親族? そのような者がいたのか」
ラインハルトは公爵夫人に親族がいるなど思っていなかったので、心から驚き目を見開いた。
「はい」
「今更現れるとは、金の無心か?」
ラインハルトは心底馬鹿にしたような笑いで、言い捨てるも、貧乏で困っている時には現れず、裕福になってから現れたのだ、そう言われても仕方がない。
「それは聞いてみないことには」
「だが、本当に親族か? キルヒアイスは近親者はいないと言っていたが」
当初ラインハルトたちに門閥貴族のスパイではないかと疑われていた公爵夫人。その疑いを晴らしたのは今は亡きキルヒアイス。彼の調査には不備はないと ―― 彼に全幅の信頼を置いているラインハルト。だが、オーベルシュタインの調査能力にも一目置いているので、頭から否定するような真似はしなかった。
「通常の調査では、発見できない類いの人物です」
オーベルシュタインが本日元帥府を訪れた髪長姫の親族を見つけたのは、まったくの偶然であった。彼が捜していたのは、ゴールデンバウム王家の血を引いている人物で ――
「詳しく説明しろ、オーベルシュタイン」
「御意。本日訪れた人物は、オトフリート五世の
料理を口に運んでいた者たちのほとんどが動きを止め、オーベルシュタインの方を見る。唯一切った肉を口に入れ、咀嚼しているのはアイゼナッハ。
「隠し子の類いか?」
ラインハルトはフォークとナイフを置き、自らの豪奢な金髪に指を絡めて、話を続けろと促す。
「いいえ、正真正銘皇后が産んだ
「いたのか?」
オトフリート五世の息子の一人がフリードリヒ四世。ラインハルトが自らの手で八つ裂きにしても、溜飲下がらぬ存在。その血縁ともなれば ――
「いるのです。そして経緯は不明ですが、先々代公爵の
オーベルシュタインは傀儡として使えそうな、王家の血を引く幼い子を捜している最中に、先ほどの老人の存在を知った。
だが、さすがのオーベルシュタインも、なぜ公爵夫人の家に養女として出されたのかまでは掴むことはできなかった。
「確かに先々代の公爵と皇女は親戚であろうが……どうした? ミッターマイヤー」
アイゼナッハ以外の幕僚たちは、ラインハルトとオーベルシュタインの会話の内容が全く分からず、手を止めて二人の会話に聞き入っているのだが、ラインハルトにはそれが奇異なものに映った。
「閣下。おそらく諸提督方は、公爵夫人がどのようなお方なのかご存じないのかと」
遅れてきて、事情を説明しているので、料理に一切手を付けていないオーベルシュタインに気付き、ラインハルトは彼を制して自ら語り出した。
「そうか、説明していなかったな。良い機会だ、一度説明しておこう。髪長姫の曾祖父はオットー・ハインツ二世の嫡子だ」
公爵夫人本人の過去を語るのはラインハルトとしても憚られるが、家系図を詳らかにするのは良かろうと。
「嫡子ですか?」
皇帝の嫡子と言えば、ほとんどが皇太子に冊立され、その地位を失う場合、大体が命も落としている。
だが公爵夫人の曾祖父は命を落としておらず ―― ただ、大公でもなければ侯爵でもない、あまりにも不可思議な立ち位置に、門閥貴族の決まり事に詳しくないミッターマイヤーが、多分に疑問が含まれていることが分かる声をあげた。
「たしか……オットー・ハインツ二世の嫡子は、聡明さゆえに幼くして皇太子に冊立されたものの早くに父帝を亡くし、叔父のオトフリート五世に皇位を譲った人物でしたな」
メックリンガーは心当たりがありますと頷く。
「その皇太子こそが先々代の公爵だ。髪長姫は世が世であれば、皇帝の第一皇女だ」
「ワルキューレのシミュレーション戦闘で、未だ破られぬ前人未踏の記録を叩き出されておいででしたな」
元撃墜王のケンプが語る通り、先々代の公爵はワルキューレの操縦に関して「恐るべき」と称される才能を持っていたのだが、元皇太子をワルキューレに乗せるわけにはいかず、その才能を戦闘で使うことはなく後方勤務のみで軍人のキャリアを終えた。
先代公爵 ―― 元憲兵副総監だった公爵夫人の祖父、彼も提督としての才を持っていたのだが、やんごとない血筋の持ち主ゆえに前線になど出してもらえない。
そのことを理解していた先代公爵は、さっさと華やかな艦隊戦に見切りをつけて、憲兵として身を立てることにし成功した。
「この元副総監の妻だが」
「フォン・ツークツワンク。或いは大ツークツワンク」
沈黙提督の名は伊達ではないアイゼナッハが、ラインハルトも知らないことを突然語り出した。
「お前喋れたのか!」
相変わらず失礼なことを、大声で叫ぶビッテンフェルトだが、声こそ出しはしなかったが、他の将校たちの驚きぶりも、それに似たようなものであった。
「フォン・ツークツワンク?」
「三次元チェスの神と謳われた方です」
同僚の驚きを無視し、アイゼナッハはラインハルトの問いに答える。
公爵夫人の祖母は三次元チェスの名家の生まれにして、帝国に金字塔を打ち立てた人物であった。
祖母とその父親 ―― 小ツークツワンクと呼ばれる ―― の二人で、帝国三次元チェスの最も権威ある大会(一年に一度開催)で八十四連覇を達成している。内訳は小ツークツワンクが三十連勝、大ツークツワンクこと公爵夫人の祖母が、前人未踏の五十四連勝。
帝国のチェスの試合の最高峰は、小ツークツワンクの三十一連勝が、公式戦一度も勝利していない大ツークツワンクに阻止された一局。
これ以上の試合はないと、誰もが認める名勝負。
公爵夫人の祖母は、公式・非公式どちらも生涯一度も負け知らず。接待など知ったことかと、銀河帝国の神聖不可侵も容赦なく叩きのめし続けた、宮廷三次元チェスプレイヤーであり、宮廷数学者であった。
「通りで強いわけだ」
公爵夫人と三次元チェスを打ったことのあるラインハルトは、その強さの理由を知り、しきりに頷き、納得したところで、語ろうとしていたことに触れる。
「そのフォン・ツークツワンクは辺境伯であり、髪長姫もその爵位を継いでいるのだが、領地はない。それというのも辺境伯は領地をゴールデンバウムに返還し、その見返りとして爵位を継ぐ際に相続税がかからぬようにしてもらったのだ」
「帝室から見返りですか?」
ゴールデンバウム王朝の性質から、没収はあっても取引は珍しいのではとミュラーは尋ねる。
「かつての辺境伯の領地に建った要塞こそイゼルローンだ」
公爵夫人に結婚の申し込みが殺到したのは、この辺境伯領地献上の際に与えられた特権も関係してくる。
特権とはイゼルローン要塞の要職に優先的に就けるというもの。
門閥貴族は泊付けとして、地位を欲しがるもの。特に銀河帝国は軍事国家で、軍の要職は非常に見栄えがよい。
公爵夫人を妻に添えれば、銀河帝軍内部でも、倍率の高い要塞の重職に難なく就けるとなれば ――
実際公爵夫人の
前線に赴きたくともその地位から赴けなかった祖父や曾祖父とは違い、父親は特権を有する辺境伯の地位を所持していたことが関係していた。
父親本人は要塞の司令官よりも、駐留艦隊の司令官になりたがっていたことを、公爵夫人は覚えている。
「なるほど。では軍務尚書閣下が先ほど語られた元皇女殿は、それに関係して公爵家の養女に……」
ミュラーは語りながら、それは違うであろうと感じ、語尾が弱くなる。
「嫁いだのであれば、意味は分からなくもないが、養女で独身、今まで何処にいたのかも不明では」
「元皇女はフェザーンに居を構えています」
そんな話をしていると、フェルナーがやってきてオーベルシュタインに耳打ちをした。
表情が変わることないオーベルシュタインは、軽く頷き伝える。
「閣下。公爵夫人がどうしても、この場でお話したいことがあるそうです」
「用件はなんだ?」
「遺伝子を弄った動物と人間の決闘について。凄惨な映像を観て貰うことになるため、時間をおいてからお越し下さいとのこと」
「構わぬ。卿らは食事を楽しむがいい。軍務尚書、部下を借りるぞ」
「ご随意に。御案内しろ」
直属の上司であるオーベルシュタインにそう言われたフェルナーは、
「畏まりました。こちらへ」
ラインハルトを
「お初にお目にかかる、若き獅子よ」
老人の顔だちは兄弟ゆえに仕方ないことだが、ラインハルトが蛇蝎のごとく嫌っているフリードリヒ四世と似てはいた。だが、ラインハルトは不快感を表情に出すことはしなかった。
ラインハルトは老人に対して自己紹介をする。それを聞き終えた老人は、少し離れたところに立っているフェルナーを手で呼び寄せ、
「まずはこの身についてなのだが、そこでおかしな顔をして立っている若造が、まずは語ってくれるであろう」
自身のことについて語るよう指示を出した。
それは、オーベルシュタインが公爵夫人に出向いてくれるよう依頼した理由でもある。
「なんだ?」
老人を公爵夫人の元に送り届けるのが普通であり、足を運んでくれるよう依頼するのはオーベルシュタインの立場としてはおかしく、老人の立場からいってもそれはあり得ない。
だがわざわざ呼ぶ ―― 向かう途中、下男から事情説明を受けた公爵夫人は「その理由なら仕方が無い」と納得した。
公爵夫人、下男、老人は分かっているが、ラインハルトとフェルナーは分かっていない。特に後者は半端に知っているので、混乱の度合いも強い。
「はい。小官は軍務尚書から命じられて、ゴールデンバウムの皇族を軒並み調べ、そのお方を発見したのですが……調査書には確かに女性とあるのですが、この方は男性です」
「男? どういうことだ」
ラインハルトが驚くのも無理はない。
「なぜ男性なのかについては、小官も存じ上げません」
上官に何度も良いのかとフェルナーが尋ねた理由でもある。
そんな驚いている若い二人を前に、老人は自分について端的に語った。
「わたしは生まれてきたときは女だったのだが、どうも自分の性別に馴染めなくてな。男なのに、何故か女の体……言っても通じぬであろうが、幼少期から違和感があり、成長するにつれてそれらが大きくなってな。悩めど、どうにもならず、自殺を考えていた時に、養父がわたしの悩みに気付き、それは性同一性障害というものだと教えてくれた」
「性同一性障害?」
帝国では馴染みのないそれを、老人は軽く説明し、
「そのようなことがあるのか。それで?」
稀代の頭脳を持つ若い覇王は、老人の説明を柔軟に、そして難なく理解し、話を続けるよう促す。
「養父は”任せておくがいい”と言い、わたしの父であったオトフリート五世と会談し、どのように話を纏めたのかは教えてはもらえなかったが、わたしは養女として臣籍に下ることとなった」
体は女だが精神は男なので、結婚という選択肢は当初から除外されている。
「オトフリート五世は知っていたのか?」
「知っていた。最後に二度と顔を見せるなというお言葉と、お前が皇子で”あれ”が皇女なら良かったのに、あの二男は要らん、とのぼやきとしか取れぬ呟きをもらい新無憂宮を出た。その際に養父は言ってくれた”皇族なんて宇宙でもっともつまらない職業だ。元皇子で皇太子だった俺が言うんだから、間違いない”と。続けて”女を辞めるのに関しては、俺は男だからなにも言えないが、男はそれなりに楽しいぞ”。そこから、養父のところで生活することになったのだが、男の格好をすることを許され、男として扱われ、それは嬉しかった」
「なるほどな。先々代は懐が深かったのだな」
”そいつは買いかぶり過ぎですぜ、ラインハルトさん。アレは楽しそうだからって理由で、エライことしでかす迷惑な生き物ですぜ”
公爵夫人は内心では思っていたが、喋りはしなかった。
「まあなあ。こうして養父の元で生活し、ある程度の知識を蓄えたところで、性転換手術をするかどうか? その選択するように言われた」
「性転換……性別を変える手術か。フェザーンでは、そんな手術もできるのか?」
「あの国は金さえ積めば、なんでも」
「なるほど」
「だが性転換手術をした場合は、帝国に戻ってきてはならない、もしも戻ってきたら処刑すると。それが父と養父との間で交わされた臣籍降下の条件だったそうだ。わたしは性転換手術を受けることにし、二度と戻らぬことを誓い、帝国から去った」
「そして男になったのか」
「そうだ。死亡届が出されているものとばかり思っていたのだが」
老人は帝国に戻ってきた場合、処刑されることになるのだが、それを知りながらなぜ帰ってきたのか?
それは理由は惨殺ショーの存在を知り、これは中央に知らせねばと考え、証拠となる映像を手にやってきた。
「年若い子供たちが殺されるのはしのびなくてな」
下男から記憶媒体を手渡されたフェルナーが再生機にかけると、遺伝子を改造されたかろうじて元は犬だと分かる生き物が、泣き叫ぶ若者を食い殺している映像が映し出された。
ラインハルトはすぐに消すよう命じ、
「ところで、あなたはどのようにして、この惨劇を知ったのだ」
重要な部分を尋ねた。
「わたしが連れてきた犬。あの犬の遺伝子を譲ってくれと言われてな。あまり見かけぬ犬種ゆえに、悪党共の目にとまったらしい」
ラインハルトが犬を連れて来るように命じ ―― オーベルシュタインが老人の飼い犬を連れてやってきた。
かなりの大型犬で、これを改造し人を襲わせてショーにするのかと眺めていたらラインハルトは、疑ってはいなかったが、この老人が本当に皇帝の一門であることを認めた。
「たしかにあまり見ぬ犬種……これはレオンベルガーか。なるほど」
レオンベルガーという犬はゴールデンバウムの皇族のみが飼うことを許された犬。これを連れて歩いているということは、ゴールデンバウムの血を引いているという証しでもある。
「声を掛けてきたからは、世話人だと思っていたようだが」
「そう思わせるように仕向けたのでしょう。あなた様は誘導が大のお得意だ」
「その通りだ、兄弟。だがな、外れてもいるぞ。わたしは皇籍を外れたその日から公爵殿の家臣であり、公爵家に二番目に忠実な使用人。一番はもちろん兄弟、お前だ」
買い付けにきた者は「老後を遊んで暮らしたいだろう」等と言って金を提示してきた。幾ら金を積まれても売る気などない老人に痺れを切らした売人が、脅しをかけたのだが、
「お前もこうなるぞ……脅し目的で映像持参で、我が家の再生機で再生してな。我が家の再生機は再生したものは、全て録画するようにセットしていたので、こうして証拠映像を採取することができた。言ってはなんだが、部下が馬鹿だと綻びが出て大変だな」
老人としては殺すと脅されたところで痛くも痒くも無ければ、恐くもない。
だが不愉快であり、これを看過するわけにはいかないとして、荷物を纏め犬を連れて帝国へと戻ってきた。
「どうせ死ぬのであれば、直訴して死んだほうが命の有効利用というものだ。もっとも昔の帝国であれば、戻ってこなかったが、今は若き獅子が支配しており、非常に治安が良いと聞いたので事態解決の期待してのことだが」
「分かった。早急に対処する」
ラインハルトはオーベルシュタインに指示を出し、この事件はこれで終わる ――
「立会人? 三次元チェスの?」
惨劇を食い止めるためにやってきた老人は、養父との誓い通り死を選ぼうとしている。
公爵夫人は手をこまねいて
「卿は公爵夫人を当主と仰ぐ一族のものなのであろう? ならば当主の命令は聞くべきだ」
ラインハルトも死ぬ必要はなかろう、そして勝負の立会人は務めてやるので、今すぐ行うが良いとなり、大ツークツワンクに直接教えを受けた大伯父と、同じく大ツークツワンクから直接手ほどきを受け、実の息子をすっ飛ばして後継者と謳われた下男に習った公爵夫人が勝負することとなった。
「兄弟よ」
「兄弟ではございません」
「兄弟でいいではないか。兄弟、公爵殿は強いかね?」
「御前さまは、わたしめなどより余程お強いですよ」
「はっはっはっ! それは敵わんな。あの大ツークツワンクが認めた兄弟より強いか!」
「辺境伯さまの名を継ぐに相応しい強さです」
”三次元チェスの強さと辺境伯が務まるのに、なんの関係があるんだ?”公爵夫人は思っていたが、勝って自殺を防ぐのが目的なので、彼らに黙って話をさせたままにしておいた。
側で見ていたラインハルトをして「異次元の戦い」と言われた二人の手合わせは終わり、勝負は公爵夫人の圧勝 ――
「さすが大ツークツワンクの後継者であらせられる公爵殿。この老体では、遊び相手も務まりませぬな」
「
こうして老人は帝国で余生を過ごすことになる。
下男の家に住むことになった老人だが、もともと死ぬつもりで身辺整理を済ませオーディンに帰ってきた。
蛮行を伝える他に、公爵夫人に返金する目的もあった。
「この金はもともと
老人の父親オトフリート五世は、娘が男性のように振る舞い生きて行くことは許したが、性転換までは……といった考えであった。
そのオトフリート五世を説得し、首を縦に振らせた最大のポイントは、性転換手術の費用は公爵夫人の曾祖父が持つという条件。
「父上はそれはそれは吝嗇家だったからな」
オトフリート五世は吝嗇だが、他人の金の使い道に四の五の言うような男ではない。公爵夫人の曾祖父が用立てるのであれば、許可せざるを得ない。
「条件を聞いた義妹が、纏まった金が必要なのだろうと、辺境伯の資産を全額譲ってくれたのだ」
老人は手術費用だけで、残りは返却しようとしたのだが「臣籍降下したとは言え元は皇族。そのような身分を持っている者が、彼の地で物乞いにでもなったら、帝国の恥である」義妹に言われ無理矢理押しつけられる形で持たされた。
「使わせてもらった分は補填した。あとは適度に利子も足している。是非とも受け取ってくだされ、公爵殿」
祖母の遺産が入った通帳を手渡された公爵夫人は、金額を見ることもせず老人に手渡し、亡き祖母と同じように、品性を損なわぬよう生活するよう言い渡した。
そして立会人を務めてくれ、
ラインハルトはそこで公爵夫人の手料理を希望した。
「ならばラプンツェルが作った料理が食べたい。そうだな、タルタルステーキがいいな」
言われた公爵夫人は、そんなものでいいのですか? と ―― 非常に陳腐なやり取りではあったが、ラインハルトは非常にくすぐったい気持ちに。
いくら恋愛感情に疎いと言われるラインハルトでも、さすがにこれが意図する感情くらい分かったのだが、そこには立ちはだかる壁があった。
ラインハルトと公爵夫人は契約上の関係。感情の変化はあれど、契約書は一切変わらぬまま ――