血濡れた手帳に走り書き。多少字体は崩れているが、覚えのあるものである ――
この手帳に走り書きを残したのは皇妃。
テロに遭遇した皇妃は、自分も負傷していたが、家臣の救出を指示し、その能力を駆使し重傷者を治療し、本人は出血多量で倒れ還らぬ人となった ―― というべきか。
はたまた、わたしは狂っていたというべきか。それとも狂い続けているというべきなのか。
「はい。御前さまが、意識が戻ったら渡すよう、命じました」
皇妃は下男に手帳を用意させ、指示を出しながら様々なことを書き記した。その内容なのだが、
―― わたしが所持している前世の記憶が消えて無くなりそうなので、全ては不可能だが、必要だと思しきものをここに記しておく ――
である。
いや、よく分からんというか……あの時の
「性格が変わったかどうか? ですか。まったくお変わりありませぬが」
前世の記憶とやらがなくなってしまったことで、何らかの変化があるかと下男に尋ねたが、変わりはないとのこと。
だよねー! わたしには、わたしの記憶あるしー。途切れている感ないしー。性格だってこういう性格だったよねー。前世の記憶ってなに? 出血で譫妄状態にでも陥っちゃったのか☆自分にそんな資質があったとは知らなかったーでも父さんの娘だしね☆
……と、ばっさりと終わらせたいところなのだが、思い返してみると、自分の行動におかしな点が幾つもあることに気付き、一概に「妄想ですね☆」とも言い切れない。
例えばなのだが、わたしは手帳を読みながら「なんというちゅうにびょうだ」と流れるように当たり前に、まさに息をするように思ったのだが、そもそも「ちゅうにびょう」とはなんぞや。
「チューニヴョーですか? 御前さまのお口から聞いたことはありませぬが」
うん、わたしも知らないが、前世の記憶だとか、前世は何とかだったとかいう妄想をする人のことを、何故かわたしは「ちゅうにびょう」だと思うのだ。そしてこれ以上ぴったりと合う言葉はないと言い切れてしまう。ただし語源は分からない。
次なる違和感なのだが、変わった料理をよく作っていた。変わった料理を作っていることは覚えている。
「皇妃殿のオリジナルだと聞いたが」
誰に習ったわけでもないのに、変わった料理を作ることができ、そのレシピはわたしの脳内にあるのだが、このレシピ、どこから出てきたものなのか不明である。
試行錯誤をした記憶はほとんどなく、最初からこんな形のもので、こんな味のものが出来上がると分かって作っている記憶はあるのだが、ではなぜそんな発想になったのかというと、全く覚えていない。
天才ならそうなるんじゃないの? だが、残念ながらわたしは天才ではない。これは断言できる。
また料理だけならばまだ流せるのだが、脳内には「ショウユ」「ミリン」「ミソ」などという調味料の類いの作り方まである。
もちろん自分が作っているのは覚えているのだが、なぜ大豆でショウユというものが作れるのを知っていたのか?「酵母を捜す」「乳酸菌はあそこで手に入れよう」「麹菌はクラインゲルトにいいのがあるな。取りに行くか」など、発酵に必要な菌類のことまで知っている始末。これも菌類を集めて試行錯誤した記憶があれば納得できるのだが、ほぼピンポイントでの採取、そして発酵、完成である。
記憶はなくなっていないことは断言できる。
だが特殊な記憶がなければ出来なかったであろう行動に覚えがある ―― 何故その行動を取ろうと思ったのか心当たりがないのだ。
ただ、ここまでは良い。
まあ許す。ちょっと電波入ってるくらいだ。
だが、そうは言っていられない問題が多々ある。
ラインハルト・フォン・ミューゼル、現皇帝に結婚を申し込んだことだ。記憶の中のわたしは、ある日突然「ラインハルトと結婚しよう」と、陛下が当時住んでいた下宿に直行したのだが、それ以前に陛下の情報に触れた記憶が全くない。
もちろん寵姫の弟なので、少しくらいは知っていたのだが……思えばわたしは頑なにフリッツのことを拒否していた。
あの時点でフリッツを頼っても悪くはなかったはずなのに、フリッツに頼ることは破滅に繋がると信じて行動していたようだ。
わたしは結婚を申し込むのと平行して、離婚も申し出ていた。
「御前さまは、まだ一准将だった陛下のことを覇王と呼んでおられました」
なぜ覇王と呼んでいたのか? 覇王になることを知っていたからなのだろう。ラインハルトが覇王となるのならば、フリッツは弑逆される、それを知っていたから避けたのか?
そうだとすると、全権を握ると知っている覇王と離婚しようとした理由が分からない。
いや、たしかに記憶にはあるんだ。でも理由が思い出せない。
記憶力はいい方だから、忘れるはずないんですがね☆
ただなーこの前世の記憶が凄く気になのですよ。
この手帳によると、前世の記憶で危険を回避して、ここまで生き延びたとのこと。
理由は箇条書きされていまして
*リップシュタットで門閥貴族はほとんどRの敵になることは知っていた
*我が家が敵対したかどうかは不明だが、天下を取ることを知っているのに敵対する必要はないので取り入った
とのこと……おかしいよなー。
意味が分からないよ☆
大体これ、前世の記憶とかいうのがなくても分かるだろ。あの状況で門閥貴族が勝てるなんて思えないし、わざわざ勝てないところに属するつもりはないから、ラインハルトのところに行くし。
え? それ以上におかしいところあるだろうって。うん、分かってる。わたしもおかしいとは思っている。それは次の項目が顕著だ。
*ねじ曲げたものにヴェスターラントの核攻撃がある
*本来ならばヴェスターラントの核攻撃は実行され、Rはそれを見逃し敵兵士の離反を試み成功する。オーベルシュタインの提案に乗ったが決断したのはR本人
*これにより親友Kと道を違えかけるが、完全に別れる前にKは謀殺される
たしかにわたしはコレを阻止した記憶はあるのだが、核攻撃が来ることを知っていて、ラインハルトの回りをうろついていたような気がする。
そもそも従卒になった理由がはっきりとしない。
ラインハルトに頼まれたわけでもなければ、キルヒアイスに頼まれたわけでもない。自分の意思で従卒になったのだが ―― なにを持って従卒になろうと思ったのか、全く以て不明なのだ。
*核攻撃を阻止したのは、後々のことを考えてだが、わたし自身核攻撃には拒絶反応がある
*前世は人類史上初めて核を投下された国の出身
*もちろんその時代には生きていなかったが
人類史上初めて核を投下された地球上の国がどこかは知っている。この手記を書き記した人物は最後の方で、その国があった場所を宇宙からもう一度見たかったとも書いている ―― たしかにレンネンカンプが地球教を殲滅するために地球に行くと聞いた際、その国の跡を見たいと思った記憶はあるが、じゃあなぜそこを見たいと思ったのか? そこはやはり不明です☆
それよりも何がおかしいかって何で
ちなみにわたしは前世の記憶とやらがなければ、ラインハルトが核攻撃を見過ごすのを止めなかったはず。実行されれば二百万人くらい死ぬが、コラテラルダメージの範囲内ってことで割り切れるというか割り切るし、この程度割り切れないなら軍人やってられないだろうとすら思う。
だがキルヒアイスは割り切れなかった ―― だから心が離れる。これは阻止したほうがいい。となれば未来を知っている書き手が阻止して当然だ。
でも地球出身なんだよね☆この地球出身というのは、かなり印象深いので、前世を記した書き手の中で、重要な位置を占めているのだろう。
まだ地球が滅びていなかった頃、どこかの怪しげな秘密結社の秘技かなにかで作られた未来が予見できるホムンクルスが転生でもしたのか? ……ま、考えても分かりませんけどね☆
*本来ならば金銀妖瞳が
*記憶がなくなっていなければわたしが、なくなっていたとしてもわたしが実行してくれることだろう
*降伏を決めた男は殺すべき
わたしの内なる記憶が
*わたしの記憶ではこれからウルヴァシーでR暗殺未遂事件がおき、同行していた
ちなみにこの項目は打ち消し線が引かれている。
何故か? コルネリアス・ルッツが今回のテロで死亡したからに他ならない。
そう言えばあの時わたしは、ルッツとワーレンは軽傷で、シルヴァーベルヒは死亡してしまうから治さねばと思い込んで行動していた。その根拠はやはり不明である。
だが記憶は途切れていない。
手帳を用意するよう命じたのも覚えているし、書き込んでいたのも覚えているのだが、内容は全く覚えておらず、こうして手記を読んで悶々とするはめになっている。
ちなみにこの手記の書き出しは「Rは膠原病の一種で死亡する未来なので、それを阻止するためにできる限り治療するように」 ―― そう言えば、ラインハルトが早死にしそうなことは分かっていたし、日々の治療にも精を出していたが、理由はやっぱり不明。あの見た目健康そうなラインハルトが病に冒されるなど、考え……るし、思いつく点は山ほどある。ラインハルト本人自分の体力と若さを過信して、激務に激務を重ねてるから。でも膠原病の一種、まだ発見されていない病気だというのは、普通は分からないよなあ。与太話でなければな。
仮名が「変異性劇症膠原病」で後に「皇帝病」と呼ばれるようになるとのこと。正直自分が「皇帝病」などという、不吉で不敬極まりない名称を書き記すとも思えない。だからこれは、本当のことなのだろう。となれば出来る限り阻止はしようと……
「髪長姫!」
血相変えたラインハルトが飛び込んできた。
ラインハルト、旧同盟滅ぼしたんですか!
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
抱きしめられた、キスされその後これでもかというほど叱られた ―― 人生においてこんなに叱られたのは初めてである。
その勢いたるや周囲にいた医師や副官の顔が引きつるほど。
よく叱られていると聞くビッテンフェルトだって、こんなに叱られたことはないだろう。ビッテンフェルト越えとは中々やるなわたし! おいお前、全然反省してないだろ? いや、いや、反省はしているよ。
「あなたが現場に残って指揮を執るなど! 確かにあなたは指揮を執る能力を持ち合わせているが負傷していたのだぞ! 自らの身を厭わぬとは! どういう了見だ!」
だが後悔はしていないし、同じ場面に遭遇したら同じことするわ☆一応反省している素振りとして「同じ場面に遭遇したら同じことするわ☆」は言わないでおくけど。
それにしても叱責である。それにつけても叱責中。ラインハルトの血圧上がって倒れるんじゃないか心配なのだが、口を挟んだら駄目なような気がする。
割と要領よく生きてきたため、こんなに叱られるようなこと、しでかしたことなかったんだけどなー。
「不調や違和感はないか? 些細なことでも言ってくれ」
その後、超高級直参幕僚連中がやってきて、ラインハルトを宥めはじめた。途中オーベルシュタインがやってきて、ラインハルトが再び激昂。
いや、わたしがあの場に残った理由なのだが、軍官僚のトップが意識不明になったことで、命令系統の一本化が難しくなったので ―― ラインハルトが近場にいたら良かったのだが、居なかったのでわたしがその座について、命令系統の一本化を図ったというわけさ。
大変だったぜ。ワーレンとルッツの部隊とオーベルシュタイン管轄の部隊、そこにケスラー率いる憲兵総監の部隊がやってきて……常々オーベルシュタインはNo.2は不要だと言っているので、オーベルシュタイン管轄の部隊がトップになるわけでもなし、オーベルシュタインの部下の調査局長兼官房長が出て来たところで、どうにもならん。調査局長兼官房長にテロの混乱を収拾させる権限はないのだ。役職的にはかなりの権限を持っているが、階級といい権限といいワーレンやルッツ、ケスラーには遠く及ばん。
ワーレンやルッツ、そしてケスラーはテロ行動に対して反撃する権限はあるのだが、前者二人は反撃鎮圧する権限はあっても、調査する権限はない。それら全てを持ち合わせているのは、帝国においては憲兵であり指揮するのはケスラー。故にケスラーの部隊が独占したがるのだが、ワーレンとルッツの部隊が大人しくしくするはずもなく……軍人なんてのは、究極の体育会系。自分が所属する部隊は家族。上司は家長でその命令には絶対服従だが、上司じゃないやつの命令には絶対被服従。とかまあ、感情と激情の相乗効果で面倒くさい状態だったので、それらを全て凌駕するラインハルトのカリスマを拝借して皇妃権限で押し切った☆
超法規的措置ができるならした方が良いときというのはあるのだよ☆特に頭に血が上った暴力装置の安全弁が壊れぬようにしてやらねばならぬのだ☆
わたしが病院に行かず指揮を執った結果、オーベルシュタインにワーレン、そしてケスラーが叱責されたっぽいけど、そこは許せ……というか謝ったよ。
皆気にしなくていいですと言った後に、万が一再びこのようなことに巻き込まれたら、このようなことはなさらないで下さいと言われたが……ふふふ、わたしがお前たちの言うことを聞くとでも思ったか! 甘いぞ! 帝国軍高級将校ども!
「記憶がなくなっている? どういうこと……わたしが誰か分からないのか?」
あなたがラインハルト・フォン・ローエングラムなのは存じておりますがな。
「どういうことだ?」
前世の記憶とかいうのはさすがに言えないが、部分的に記憶が失われているらしいことを正直に告げた。
「なるほど。そういうことか」
部分的に記憶がなくなっていることを証明するのは中々に難しい。なにせ記憶がなくなっていることに、記憶をなくしている当人は気づかぬのだから、通常であれば記憶がなくなっていると言うことができない。特にわたしのように、人が分からなくなっているわけでもなければ、日常生活が送れぬわけでもなく、特技の三次元チェスの腕も衰えてはいないので証明が難しい。だが記憶が失われていることは ―― この手記を書き記した自分のことを信じて。
わたしから話を聞いたラインハルトが医師を呼び、同じことを説明する。医師にもっと早めに言って欲しかったと言われたが、何を言っているのだこの医師は。
十八年間の人生を完璧に反芻し、記憶の欠落部分を拾い集めるのには、この位の日数がかかって当然であろう。
十八歳なのに十八年間なのですかと聞かれたが、わたしの記憶は生まれた時からある。別におかしくはあるまい。
「三次元チェスの名手は、打った手の全てを覚えているというしな。あなたほどとなれば、生まれた時からの記憶が完璧でもおかしくはないか……だから記憶がなくなったことが分かったのかもしれないな」
そうかも知れませんね、ラインハルト。
「一つ聞きたいのだが……あなたの初恋の人物について……」
ん? 初恋。いやそんなモノ存在していませんが。なんでラインハルトがそんなこと……確かそう言えば、わたしは離婚する際に初恋の人がいるとかなんとか言っていた。理由は全く分からない。ということは、前世の記憶が所持していた初恋のことなのだろう。
わたしはラインハルトには誠実でいたいので ―― 偶にアレなこともしますが、まあ今の気分は誠実ってところ。なので、初恋の人など覚えていない、むしろラインハルトが初恋ですと告げた。
「……そ、そうか。ゆっくり休んでくれ」
ラインハルトは仕事があるのでと、病室から風のように去っていった。仕事はあるだろうなあ。というか、病室に居すぎたような。
病室に一人きり ―― 医者が作った検査日程表に目を通す。明日から再度脳波の検査などが行われるのだが、異常は見つからないだろう。本来ならば存在し得ないものがあり、それが消えただけなのだから。
思うに前世の記憶に人格はなかった ―― 下男が性格に変わりはないというのだから、確かだろう。それに関しては、わたしはわたし自身より下男の方を信じる。
それにしても……前世の記憶には感謝している。どうしてかって? それはラインハルトと結婚に踏み切ってくれたことだ。
残された手記には
*わたしとRは本来は結婚しない
そう残されていた。
なんで好きになった男と別れなくてはならないのか、意味が分からない……分かるけどさ。前世の記憶に引っ張られたんだろうことは。
それが消えてなくなったのだから、もう何もわたしは憂えることなく、はっきり「好きだ」と自分自身に告げるのだ。
さて、大好きなラインハルトを殺されては困るので、エル・ファシルの英雄だとか魔術師だとか言われている逆賊を屠ろう。
お願いだから殺して下さいと言えなくなるまで拷問し、無様で惨めな冷え切った肉塊を下水にでも捨ててやろうかとも思ったが、亡国の英雄にして最後の希望。犯人捜しは必ず行われるであろうし、そこから魔女狩りにエスカレートし、治安が悪化する恐れがあるので ――
「過度のストレスからのくも膜下出血ですか。畏まりました」
ベッドの上で死ぬことくらいは許してやろう。やれ、数式ども、この聖下たるわたしが命じる。それにしても、さっさと殺しておけば良かったのに、わたし☆らしくないぞ、わたし☆ ―― まあ前世の記憶があり、あまりにも乖離した行動をとると、未来が読めなくなるから殺さなかったからだろう。
その慎重さは好ましいし、覚えていたら同じ策を取っただろうが、残念ながらわたしはこの先のことはもう分からんのでな。未来が変わろうが知ったことではない。死ね逆賊 ―― わたしの為に。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
脳に神経、果ては精神まで検査した結果 ―― わかりません☆で終わり。
分かるわけないわー。だって前世の記憶という今世の記憶を持った地球生まれの地球人(アジア系)の記憶だもん。分かるわけないよー。わたしだって未だによく分からないのだから。分かったら困る☆
「忘れられていなくてよかった」
そこまで薄情ではないぞ、アベル。というか、お前は現存している存在だから、なくならない……と言っても分からんだろうな。説明のしようがない。
安心しろアベル。お前と一時期決別した理由も、言い争った内容も全て覚えているからな☆
「それは忘れてくださっても、よろしいのですが」
残念だったな、アベル。
「曾祖父さまのことは、お忘れになっていないのですね」
仕事が一段落した
曾祖父は実在した人物だから忘れないよ☆
「あの……小官が記憶を失っていた時のことですが……」
はいはい、
完璧に覚えているよ☆
「そう……ですか」
あれを洗われたのが恥ずかしいのか。四捨五入したら四十になる男が、その程度のこと照れるなよ! 気にするな! 夫の大切な部下の健康維持は、わたしの大切な役目! またお前が同じ状態になったら、あとで照れるのは知っていても同じことをするぞ。しちゃだめとは言われたが、気にしないー!
「皇妃陛下は、乳児の頃からご記憶があるとお聞きいたしました」
アベルとケスラーが個人的に見舞いに来た。この二人とは、それなりに付き合いがあるので、特に気にはならなかった。
……で、今見舞いに来ているのはアベルと、話しているビッテンフェルト。
ビッテンフェルトと個人的な話って、ほとんどしたことない。話したくないわけではなく……なんというか、向こうが避けていたような気がするのだが? どうした、趣旨替えしたのか。
「今から十七年近く昔のことになります」
ビッテンフェルトの唐突な語りに耳を傾けると ―― 幼かったビッテンフェルトは、貴族が乗っている地上車にひき殺されそうになっていたのだそうだ。
偶々その時通りかかったのが、母さんとわたしと、お供をしていたアベル。買い物帰りだったそうで、母さんはわたしを抱っこし、アベルは荷物を持っていた。
あれ、もしかして、あの空に飛ばされた日の出来事か? あれってたしか……子猫を助けたと聞いたのだが、もしかして子虎だったのかね☆母さんだったら、いまのビッテンフェルトのサイズを見ても子虎と言いそうですが。
話を戻すが母さんはビッテンフェルトを、今まさに引かんとしている地上車の脇腹に突進して横転……ではなく、側面を下に立った状態に。そうか、あの車体の裏側にいたのか、ビッテンフェルト。
「公爵夫人には子猫を助けたと呟かれておりました。覚えてはおいでで……覚えていらっしゃる? さすがにございます」
ビッテンフェルトを助けるために、母さんはわたしを上空に放り投げた。あの時、オーディンの丸さを感じ取ったんだったなあ……母さんのパワフルな
そう言えば、その場で少し佇んでいたなあ。
へえ、足の骨が折れてたの。
「皇妃陛下の母君が治療して下さったのです」
あ、そうなんだー。母さん、あんまり平民を治療しちゃいけませんよ☆もちろん母さんのそういうところ、大好きだけど☆
「”このことは誰にも話してはならぬぞ。卿とわたしは会ったことも、話したこともない。よいな”と言われ、早々に立ち去るよう背を押されました。その時背後から、普通は喋らないであろうほど幼い子供の声が聞こえました」
あ、それ、わたしだ。
母さんが「子猫助けたんだよ」と言ったので「子猫一匹では死んでしまうのでは? 飼えば良かったのに」と……わたしは素直なのさ! 今も昔もこれからも! だから母さんの言葉をそのまま信じたのさ!
子猫、連れて帰らなくてよかった……ということは、アベルとビッテンフェルトは顔見知りなのか?
「士官学校で先輩後輩として再会いたしましたが、わたしもビッテンフェルト提督も、姉上のお言葉を守り、初対面を貫きました」
当時事務局に勤めていた母さん本人にも、挨拶はしなかったそうだ。
言ってはいけないというのを、ここまで守り通したのか。見事だな、ビッテンフェルト。でもなぜわざわざ、その秘密を語りにきた?
「もしも記憶がなくなられていたら、一大事だと思いまして」
母さんとの数少ない思い出が消えてると大変だと(九歳で死別してるもんね)いままで知らぬ存ぜぬを通してきたが、禁を破ってこうして報告にきたと。
「お叱りはお受けいたします!」
なんで叱らなければならないのか、理解不明ですよ☆お前らなんでもかんでも、お叱り受けるに変換すんな! 叱られるのが好きなのか! あーお前好きそうだなあ、ビッテンフェルト。いっつもラインハルトに叱られ……叱られるだけで、降格などないところをみると、ラインハルトもお前のこと気に入ってるんだねえ。良い主従関係でなによりだ☆
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
退院後、ルッツの親族にお悔やみを言いにいってきたよ☆恐縮されたが、気にすんな! 本当は国葬に参加したかったのだが、脳の検査が思いのほか長引き「大事を取るように」とラインハルトとオーベルシュタインに言われたので、仕方なく。
「皇妃陛下」
なんだね、オーベルシュタイン。
ん? ヤン・ウェンリーがくも膜下出血で死亡した……そうか、それは良かった……いやラインハルトにとっては残念なことが起こったな。
ヤン・ウェンリーなる男は最初
「数式をお使いになられたので」
それは聞かぬが花というものだぞ、オーベルシュタイン。まあ、人を上手く殴ってくも膜下出血を引き起こすのは簡単だ。ヤン・ウェンリーとやらは体術には優れていないので、特に簡単だったとか。問題はヤツの護衛を務めるシェーンコップとかいう男。
強いとは聞いた。そして女にもてるとも ―― 抱いた女の夫に訴えられたとか。色男も初めての経験だったらしいなあ。
金を要求したら美人局だが、夫はただ謝罪だけを求めた。
当初は代理人同士の話し合いだったが、直接謝罪を求め ―― ヤン・ウェンリーの部下ならば、人妻を抱いてもお咎めなし、夫との話し合いにも応じなくとも許される、
それだけだよ☆
色男は信頼している部下が、敬愛する上官の頭部にダメージを与えるとは思っていなかったようだ。まあ分からんか。その部下はお前の部下としては忠実だ。だが魂は我が手元にある。分からんだろうなあ。教えてやるつもりもないが。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ラインハルトはヤン・ウェンリーに弔辞を送ったそうだ。
エル・ファシル独立政府とやらは、その弔辞を受け取ったあと解散 ―― そして帝国に完全に下った。
ヤン・ウェンリーの部下たちは、武力ごとどこかへ行った。
最大の反抗勢力としてまた戦いを挑んでくるだろうが、ラインハルトはヤン・ウェンリーがいない敵対勢力には興味がないらしい。一万すこしの艦隊など、余程の人物が率いて居ない限り全帝国艦隊の敵にはならんものな。
わたしはヤン・ウェンリーそのものに興味がないというか、
「ヤン・ウェンリーのことは忘れてしまったのか」
ラインハルトとヤン・ウェンリーについて話していた記憶はあるが、かなり靄がかかっている。相当前世の記憶に頼って話をしていたのだろう。ヤン・ウェンリーとかいう逆賊の思考回路を読み先回りし布陣させたのは、確実に前世の記憶だなあ。
ヤン・ウェンリーのことをはっきりと思い出せないと告げると、ラインハルトが少し寂しげになったので、こちらとしても寂しく、必死に思いだそうとしたのだが、こればかりはどうにもならなかった。手帳に書き残されていたこと以外は分からないし ―― ヤン・ウェンリーについては書かれていなかった。同盟の将校で書き記されていたのは一人だけ。
アンドリュー・フォークは味方ですよ☆殺しちゃだめだよ☆
……とは書かれていたが。
ちなみに実名をはっきりと記されていたのも、コイツだけである。余程の重要人物なのだろう。それも駄目な方向に。どうして? 他の人は実名で書いていないから。
そんな過去人が持つ前世の記憶という名の未来見、それを記した手帳は全力で宇宙に捨てた。間違って残っていたら厄介なことになりそうというか、自分が電波だと思われるのは嫌なので。勿論頭には残っているが、とにかく前世の記憶よ、安らかに眠れ。もうお前に頼ることはない!
……と言っておきながら、前世の記憶に頼りたい! 男性の誘い方が分からん! 前世の記憶の中にあったような、なかったかなあ。でもあったような……
力尽くで上に乗る程度なら、やって出来ないことはないが、なんかそれは違うと思う。きっと違う。それに……そうだ、聞いてみよう! 分からないことは聞くべき……でも身内に性的なことを聞くのはなんか。
誰に聞けばいいのかなー。聞く相手……いないな。自分で頑張るしかないのか!
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「喜んでしまった。まったく……俺は身勝手な男だな、キルヒアイス」
「記憶を失うということが、どのようなものか俺には分からないが……お前との思い出が消えてしまうのは嫌だ。だが俺はまだ喜んでいる」
ちなみにロケットはわたしのお手製。
でもどうしてロケットを作ってキルヒアイスの写真と頭髪を入れるようアドバイスしたのか? 張本人であるわたしも分からない。
前世の記憶がそうさせたのだろう ―― 前世の記憶、キルヒアイスを助け切れなかったのか、それとも生かしておいてはいけないので、殺されるよう導いたのか? 分からないけれど、あの時感じた悲しさは本物だ。それだけはわたしにも残っている。
「ラプンツェルの初恋の相手が誰だったのか……気にはなるが、記憶を失ったラプンツェルを苦しめるわけにはいかないから……消えて本当に嬉しいんだ、キルヒアイス」
わたしの初恋か……そういうのとは縁遠いというか、そんな余裕はなかったというか、メシ食ってるほうが楽しいというか。前世の記憶はわたしよりも、少しは色気があったのだろう……わたしがなさ過ぎるのか☆
「そうだな、キルヒアイス」
そして今日も皇帝の独り言は絶好調である! ―― よし、ロケットを閉じて胸元にしまったから話し掛けよう。
そしてこれから、少し進歩した関係を築こう!