帝国歴四八九年十二月九日 ―― ミッターマイヤー艦隊がオーディンを発つその日、
「閣下は」
「お休み中です」
時間になってもラインハルトがやってこないので、オーベルシュタインが衛兵に尋ねたところ「お休み中」との返事が返ってきた。
表情には出さなかったが、ラインハルトが休んでいるとはめずらしい ――
「公妃は」
「ご一緒だそうです」
「……そうか」
二人が一緒でお休み中 ―― 「間違いの一つでもあってくれたら良いのだが」オーベルシュタインは考えたが、直ぐに小さく頭を振り、その考えを追いやった。
「失礼いたします」
二人がいる部屋に入ったオーベルシュタインは、色気の欠片もない光景に ―― ため息をつくことはなかった。目の前には自分の予想以上の光景が広がっていたのだ。
「閣下お時間です」
ラインハルトは公爵夫人の肩に頭を預けて居眠りをしていた。
そのラインハルトに肩を貸している公爵夫人なのだが、タイトスカートながら少々足を開き、その間に前回のフェザーン行きの際に貰った剣を立て、柄の部分に両指を絡めて持っていた。
その姿、完全に
公爵夫人は眠っておらず、オーベルシュタインの声を受けてラインハルトを揺すって起こした。
ラインハルトは欠伸をし体を伸ばし、
「もうそんな時間か……あなたと話をするつもりだったのに、ついつい心地良くて居眠りをしてしまった」
髪をかき上げてから立ち上がる。
公爵夫人も立ち上がり、盗撮しているフェザーンのために一芝居打つべくホールへと向かい、滑らかに嘘をつき ―― ラインハルトはフェザーンに向かう艦隊を見送った。
「髪長姫は大丈夫だろうか、軍務尚書」
「閣下。公爵夫人が乗ったミッターマイヤー提督の旗艦は発ったばかりですが」
「大丈夫だとは思うが」
「下男殿に元皇女殿も付いておられますから」
「その二人は信頼できるが、ここぞという時は髪長姫の言うことしか聞くまい」
「それは仕方のないことかと。閣下、それよりも公爵夫人の一件、いかがなさるおつもりで?」
ここまでだましだましで続けてきた夫婦生活だが(ただし肉体関係はない)フェザーン占領で終わりになるのは、明察な彼らゆえ分かっているのだが、対応策がまったく思い浮かばず。
「……たしかに時間はないが」
「閣下がフェザーンの地に降り立った時点で、旧王朝は終わりです。公爵夫人はそのことを直ぐに感じ取るでしょう」
「契約満了か………………同盟を攻略する策はいくらでも思いつくのだが、髪長姫の攻略方法は一つも思い浮かばない。物を欲することもなければ、権力も欲しない」
そう言った欲を持つ人間をラインハルトは嫌う傾向にあるので、好意を抱く相手は当然それらを持っていない。取っ掛かりとなる単純な手法すら用いることができないので、攻略の難易度が上がる ―― 自分の好みの女が落とせないのは、自分自身の好みが最大の障害。
「清貧な生活をなさっておりましたから、必要以上に物を欲しがることはありませんし、権力が欲しいのならばフリードリヒ四世の養子になることも可能でしたが、それも断ったそうですから」
「オーベルシュタイン。髪長姫の初恋の人を見つけ出せぬか?」
「それはもう」
「会わせるつもりはない。だが髪長姫の好みが分かる」
「閣下とは正反対の男性でしたら、どうするおつもりですか?」
ラインハルトは自分の美貌には無頓着だが、輪郭の線が細いことは分かっている。これで公爵夫人の好みが逞しい顔つきだったら……
「…………髪長姫に好きなことをさせたら、少しは好感を持ってもらえるだろうか?」
滅多に自信を失うことのないラインハルトだが、これだけは例外なので、直ぐに捜すことを止めた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「楽しんでもらえるだろうか?」
「どうでしょう」
ファーレンハイト、ケスラー、オーベルシュタインとの腕枕撮影を終えたラインハルトは、画像を見ながらどれを送るか選別を始めた。
ちなみに腕枕撮影を持ちかけられた時、三人とも反応に困ったが「髪長姫の希望だ」と言われたので―― 主君に腕枕して、その映像を主君の妻に送るなど、彼らがどれほど明晰な頭脳を持っていても理解不能。それでも頑張れたのは「三十路の男には十代の娘が好むものは分からない」彼らが自分を客観視できるからに他ならない ―― その客観視が全く役立っていないのも事実だが。
「閣下」
「なんだ? ファーレンハイト」
「わたしが言えた義理ではありませんが、戦乙女のことよろしくお願いいたします」
「……唐突にどうした?」
「戦乙女は世間一般で言う可愛げのある性格ではありませんし、分かりやすい女らしさとは縁遠いお人ですが、それらを補ってあまりある良い乙女ですので末永く」
ファーレンハイトは公爵家に心酔はしているものの、公爵夫人が普通の娘とは全然違うことは理解していた。
とくに確りとし過ぎて、可愛げなど遙か遠く。当人も可愛げがないなど言われたら「貴様なぞに言われずと、朕がもっとも分かっておるわい」と素で言い返してしまう世紀末覇王感漂う娘なので、色々と心配はしていた。
「ああ、そういうことか。それに関しては心配しなくていい、髪長姫の全てがわたしの好みだ……わたしが髪長姫の好みかどうかは分からないが」
「それは心配ないでしょう。戦乙女は好みではない男と結婚するような性格ではありません」
ファーレンハイトは帝国には公爵夫人好みの男はいないように見えたので ―― 公爵家伝統のどこかから男の子を拾ってきて、使用人ではなく婿用に育てて結婚でもするのではないかと思っていたくらい、好き嫌いがはっきりとしている。
「そうだな。それはそうと、ファーレンハイト。あのホームビデオで卿が巨大虫に誘拐されたときのことなのだが……」
救出劇について幾つかの疑問を尋ね、選んだ画像を公爵夫人に送り ――
「わたしは髪長姫に、嫌われてはいないようだな」
「小官も嫌われていると分かっていたら、契約継続はお勧めいたしません」
公爵夫人はラインハルトのことを嫌ってはいない。むしろ好感を持っているのは、誰の目から見ても明らかで ―― それ故に契約結婚などという奇妙な形態の夫婦であることに誰も気付かない。
「だが髪長姫の好みも分からない」
オーベルシュタインも聞くまで何らかの事情があっての結婚だとは感じていたが、まさか覇権を握るまでの期間限定な関係だとは思わなかった。
「若い娘というのは、見た目が良く金持ちで権力もある誠実な男性を好むかと……閣下は全てに当てはまっておりますので自信をお持ちください」
「容姿は当人の主観だからな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
フェザーンに向かっているラインハルトの元に、公爵夫人が同盟弁務官事務所を制圧した映像が届いた。
ラインハルトが贈った赤く塗装された軍用バイクに跨がり、片手に剣を持ち、それを地面にあてて火花を散らしながら大通りを逆走し、弁務官事務所の二階に突っ込んでいくシーンを見て ――
「ミッターマイヤー。髪長姫はできるだけ外に出さないように」
『御意』
危険に突っ込んでいかないよう厳命を下した。
「好きなことをさせたほうが好感を持ってもらえると思ったが……さすがにあれは困る。髪長姫の実力と下男や元皇女の補佐があれば危険ではないのだろうが……」
公爵夫人が火花を散らして道路を突っ切っている時、元皇女は軍用ヘリを操縦し下男はそれに搭乗して銃を構えて、周囲に危険はないかどうかを監視していた姿も映っていた。二人の補佐も信頼しているが、心配というものはそれで消え去るものではない。
「そうですな」
こうして公爵夫人は占領には全く携わることはできなかったのだが、
『犯人は高名な一族の当主たる、公妃殿に勝負を挑んできた模様です』
今度は連続猟奇殺人犯に勝負を挑まれることとなった。
「卿らで対応はできぬか?」
『公妃殿に言わせると、専門外でも時間をかけて調査さえすれば捕らえることは可能だが、その間に被害者が増え続ける。これは捕らえぬ限り犯行は止まらないと。また公妃殿が、自身を調査に当たらせないと、犯人が犯行を暴露しフェザーン市民の動揺を煽る可能性が極めて高いと仰っておられました』
ラインハルトは犯罪に関して一通りの知識はあるが、深い知識は持ち合わせていない。また犯罪者の心理などには一切興味がなく ――
「……仕方ない許可は出そう。ミッターマイヤー、髪長姫の護衛は任せた」
「御意」
結局専門家である公爵夫人に任せるしかなかった。
「……」
通信を切ったあと、ラインハルトはいらだたしげに肘掛けを指先で叩く。
「閣下」
「オーベルシュタインか」
「公爵夫人でしたら、すぐに事件を解決してくださることでしょう」
「それは分かっているのだが……ファーレンハイトから聞いたのだが、髪長姫の母方の祖母は猟奇殺人犯によって殺害されたのだそうだ。大まかな筋しか聞いていないが、二度と聞きたくはない内容であった。髪長姫はそれに関しては聞かされているらしい。なので、あまりそのような事件に関わらせたくはない」
「公爵夫人の母方の祖母といえば、皇女で有名なオペラ歌手でしたな」
「そうだ……わたしはゴールデンバウム王家は嫌いだが、そこまで凄惨に殺されてしまえとは思ってはいない」
「それほど凄惨で?」
「ああ。このわたしですらフリードリヒ四世を
「然様で。ところで閣下。なぜマリーンドルフ伯爵夫人を同行させたのですか?」
「あの伯爵夫人がオーディンに居られぬようにしたのは、卿ではないか。オーベルシュタイン」
ラインハルトがヒルダを同行させた理由だが、ヒルダたっての希望によるものである。
ヒルダは先の内戦でラインハルト側に属し、その際マリーンドルフ家の地位を保証する公文書を渡し、ラインハルトは彼女が関係している貴族たちにも同じように公文書を渡すべきかと尋ねるも、求める者以外には必要ないと ―― この時ヒルダは横の繋がりを全て排除した。
内戦終了後、マリーンドルフ家は安泰であったが、他の多くの貴族は凋落する。公文書の有無が大きく関係しており、マリーンドリフ家の類縁が何故公文書について教えてくれなかったのだと詰め寄る。
ヒルダは自分は正しいと言い張るが、約五百年間、マリードルフ家が単独で誰の助けも受けずに存在していたわけではない。持ちつ持たれずで生きてきたものをばっさりと切り捨てた結果、ヒルダの周りは全て敵となった。
これでヒルダに媚びを売れば、おこぼれに預かれるというのならばまた別だが、ラインハルトはヒルダには才能に見合った地位を与えたが、それ以外の者に対して地位を与えることはしなかった。とくにヒルダの実家と付き合いのある家というのは、カストロプ系列で、どの家もさほど身綺麗ではないので、側に置きたくなかったというのも大きい。
領地を没収されたくない貴族や、追徴課税がなされた貴族は金銭や宝飾品で補い ―― 公爵夫人への婚約指輪を選ぶ際に、オーベルシュタインが選ばせなかったケースに収められていた品が該当する。
ラインハルトに敵対しなかったが領地を幾分削られた、ヒルダのために色々と便宜を図っていた貴族などから不義理ではないかとそれは恨まれた。おそらくヒルダの父親が生きていたら上手く調整できたであろうが彼は既に故人で ―― 新進気鋭で才能溢れ、他の凡庸な貴族たちとこれといった交友を結んでこなかったヒルダは、家の関係でかなり苦しむことになる。
対するラインハルトは粛々と門閥貴族の権力を削いでいくわけだが、もともとラインハルトは門閥貴族には好かれてはいなかったし、彼らと何らかの繋がりがあったわけでもない。
そして権力を握った彼に対抗する力もなく ―― だが不満が募り、それらが全て門閥貴族の中でもっとも
これはオーベルシュタインがやや意図的にそうしたものであり、ヒルダも分かってはいるが、ラインハルトの中ではヒルダとオーベルシュタインでは優劣をつける以前の問題。ラインハルトの信頼度はオーベルシュタインのほうが遙かに高いことは理解している。
残っているのは情に訴えるというものだが、これもあまり上手くはいかなかった。怜悧な頭脳や理論的な思考でラインハルトに接してきたヒルダは、情に訴えた時に初めてラインハルトが自分に対して良い感情を持っていないことに気付いた。
理由は分からぬまま、そのうち門閥貴族たちの不満が高まり、身辺に危険を覚えたため憲兵総監のケスラーに警護を依頼するのだが「私兵ではありませんので」との理由で断られる。
これはもう公爵夫人に取りなしてもらうしかないと考えていた頃、公爵夫人が従兄弟のキュンメル男爵ハインリッヒと面会し基金の管理人を任せたと聞かされた。
この基金、リッテンハイム基金と言う。名称通り没収されたリッテンハイム侯爵家の財産で運営されている基金で、内乱の際に盟主と袂を分かち味方を撃って逃げた
リッテンハイム侯爵家というのは、もともと公爵夫人の公爵家の一門で ―― 軽く説明すると、ウィルヘルム三世の祖父は公爵夫人の一門の出。
リッテンハイム家に婿として入り ―― その後兄が継いだ公爵家を奪うべく、あらゆる手を尽くし、兄もその息子も戦死させ、家も破産ぎりぎりまで追い込んで、兄嫁だけが邸に残されるという、あと一歩というところまで追い詰めたのだが、そこに公爵夫人の曾祖父が現れ「この家を継ぐ」と言いだし、ウィルヘルム三世の祖父のことをあまりよく思っていなかったオトフリート五世も許可を出し、手に入れることができなくなった。
このような経緯なので公爵夫人としてはこの公爵家は「血筋上」はリッテンハイム侯爵家のものだと思っているが、皇帝から賜った形になっているので自分が正統ではないともいえず、また一門の当主として生き残ったリッテンハイム侯爵家の者と向かい合わないわけにも行かず ―― 公爵夫人はリッテンハイムを名乗って居た者たち全てを処刑した。
そしてリッテンハイムの全財産が欲しいとラインハルトに頼む。公爵夫人が財産を欲しがるとはめずらしいと思ったラインハルトは、くれてやるのは構わないがなにか欲しいのかと尋ね ―― 上記の理由で負傷したり家族を失った者たちを援助するための基金を作るのだと聞かされ多少色をつけて彼女に渡した。
リッテンハイム侯爵家の財産は元々公爵夫人の家のもので、ウィルヘルム三世の祖父が詐欺まがいの手段で取り上げたものなので、この財産没収からの譲渡は、門閥貴族たちは特に問題にしなかった。
色が付いた部分に関して公爵夫人が聞くと「キルヒアイスの分だと思って受け取って欲しい」―― 副盟主を追い詰めたキルヒアイスが、ラインハルトにその時の心境を語っていたのだろうと。公爵夫人はそれ以上はなにも聞かなかった。
こうして公爵夫人は基金を作ったわけだが、自分で運営するつもりなどさらさらなく、すぐに出来る相手に預けることにした。その白羽の矢をぶっさした相手がキュンメル男爵ハインリッヒ。
ハインリッヒを選んだ理由だが、やりがいのある仕事を預ければ、承認欲求をこじらせてラインハルトの暗殺を企てたりしないのではないかということ。また彼の先天性の障害を治療をしてみたかったというのも理由の一つであった。
病弱な彼には無理だという意見は ―― 特にはなかった。なにせハインリッヒの存在など、誰にも認知されていないからだ。精々ヒルダがキュンメル家安堵の公文書をラインハルトに求めたので知っているものが数名居るが、彼の健康状態など国家にはなんら関係のないことなので、誰も気にも留めていない。
しっかりと連絡を入れてから訪問する公爵夫人が、なぜ今回に限って後見人であるヒルダを通して話を進めなかったのかというと、治療できることをあまり公にしたくなかった為である。
下男が「マリーンドルフ家は御前さまと皆様の能力は存じません。知っていたら、あの時門前払いはなさらないでしょう」と言われ ―― 知らないのであれば秘密にしておきたい公爵夫人としては、治療対象であるキュンメル男爵にだけ打ち明けることに決め、ヒルダに話を通さず、いきなり男爵邸を尋ねるという貴族にあるまじき暴挙に出た。
いきなりの大貴族の訪問に驚いたハインリッヒであったが、基金管理人と治療の申し出に興奮し「是非とも」と頭を下げ ―― ようとしたが、枕から頭を上げることはできなかった。
公爵夫人がなぜハインリッヒを治療したいと考えたのかというと、自分の能力で遺伝子治療ができるかどうかを確かめたかったためである。
外傷や疾患などは治療したことはあるが、遺伝子治療はしたことはなかったので、是非とも試してみたかったのだ。
結果は完治はできなかったが、症状はかなり軽減し、先天性の病によって引き起こされていた二次疾患などは全て快復した。
人生において初めて感じる体調の良さにハインリッヒは噎び泣いて歓喜する。
こうしてハインリッヒは賢いと言って申し分ないその頭脳を全て基金の運営に回した。
いきなりのハインリッヒの回復に使用人たちは驚いたが、
「仕事を与えていただいたのだ。それも若き支配者と民衆をつなぐ仕事をな」
当主が
体が弱く幼い頃に両親を失ったので、ヒルダの父フランツに世話になるしかなかったのだが、彼が物事を考えられるようになってもフランツは体調を気遣い、何一つ領地に関して教えてはくれなかった。あくまでも彼を当主とし、補佐する形を取ってくれていたら ――
「無理は駄目よ、ハインリッヒ」
そのように言われたハインリッヒはヒルダを拒んだ。
彼にとってこれは誰にも奪われたくはない自分だけの任務であり、責務であった。ヒルダは男爵邸の使用人たちから、ハインリッヒは今までにないほど体調が良いこと、医師も驚くほど復調していることを聞かされ、仕事が彼の生きがいになっているのだと聞かされたが、ヒルダは彼には無理をして欲しくはなく、基金の管理は自分に任せて欲しいと頼むこと、ラインハルトとの間を取り持って欲しいと依頼すること、そして自身の身の安全も図ってもらわねばならぬので、ヒルダはラインハルトの進軍に付き従うことを希望した。
ラインハルトはフェザーンでの事務仕事を任せるのに適任だとし、ヒルダの同行を許可する。
オーディンで身の危険を感じていたヒルダだが、フェザーンの地でもさほど変わりはなかった。フェザーンに亡命した門閥貴族が、上手く取り入ったヒルダを見かけて暴行しようとし ―― 公爵夫人に見つかり捕まり、ヒルダは保護された。
「あなたはもう少し自分が恨まれていることに敏感になるべきだ」
身を守る術のないヒルダが単身で出歩いていたら、こうなることは明らかである。それに気付かぬのかと問われることとなった。
「軽率でした」
「そうだな」
その後ヒルダは、助けてもらったお礼と基金管理は自分に任せて欲しい旨を公爵夫人に告げた。
公爵夫人は助けた礼は要らない、基金の管理は今のところはハインリッヒに任せておきたい ―― 公爵夫人としてはハインリッヒは変わった症例でここまで生きており、自分の状況を的確に伝えることができる存在なので、永続的に治療しデータを残したいと考えており(ハインリッヒに同意は得ている)
「御前さまが皇妃になることについて……ですか?」
オーベルシュタインは軍用ヘリやら武器の使用許可書やら、ルビンスキーの私物押収届など(ただし後出し)を持ってきた下男に、公爵夫人が皇妃に冊立されることに関してどう思っているのかを尋ねた。
「軍務尚書閣下。わたしめのような卑しい身分の者に、そのような高貴な事柄を聞くのは間違っておいでです」
「……では質問を変えるとするか。公爵夫人は皇妃の座に就くことに関して、なにか仰っているか?」
自分たちには分からないことでも、長年仕えているこの頭脳の切れの良い下男ならば、なにか別のことに気付いているのではないかとオーベルシュタインは微かに期待して質問を重ねる。
「特になにも仰いませぬが」
「皇妃は嫌だとか、そういう愚痴もないと」
「御前さまはローエングラム公を最初から”覇王”と呼ばれておりました。覇王の妻になるということは、いずれ皇妃になることは分かっておいででしょうから、愚痴などこぼす筈もございません」
公爵夫人は一度決めたら必ずやり遂げることがはっきりとし ―― オーベルシュタインとしては頭を抱えたくなった。
「最初から覇王と仰っていたのか」
「はい。”覇王ラインハルトに会いに行って来る”と、はっきりと仰いました」
「そうか……話は変わるが、公爵夫人と作戦について話し合いをしたいのだが、予定を調整してもらえるかな」
オーベルシュタインもそれ以上は聞かず。
「軍務尚書閣下からの申し出は、直ぐに承るよう命じられております。閣下の良いお時間をお教えください」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
公爵夫人はオーベルシュタインとハイネセン強襲の誤報を届けるべく作戦を練り ――
「このガラス片は?」
作戦が纏まると、公爵夫人は赤い汚れのあるガラス片をオーベルシュタインの前に広げる。
「これらは自治領主の私邸から回収したものでございます」
ミッターマイヤーの部下はルビンスキーを捕らえそびれた後、現場をそのままにしていた。公爵夫人は同盟の弁務官事務所襲撃のあと、下男に私邸からルビンスキーの遺伝子が分かるものを持ち帰るよう指示を出していた。
「ルビンスキーは脳腫瘍だと仰いますか」
「正確にはこれから脳腫瘍が発症するそうです」
遺伝子を調べた結果、まだ脳腫瘍を患っている痕跡は見られなかったが、体調が著しく悪化している痕跡は見つけられた。これだけでは、普通どの病に罹るかは分からないのだが ――
「ネオ・アンティキテイラですか」
知っているとは言えない公爵夫人だが、病の発症メカニズムなどに関してはオーベルシュタインよりも遙かに詳しく、遺伝子にすら干渉できるその能力から、オーベルシュタインは全面的に信用した。
「全宇宙の医療カルテから実在しない患者の名前を割り出せと」
公爵夫人は笑いながら「全銀河において男は女より圧倒的に少ない。ルビンスキーと同年代の男は特に少ない。簡単であろう。わたしはやれと命じられたら逃げるがな」気の遠くなる作業を申しつけた。
これにより
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ランテマリオ星域会戦後、ヤン・ウェンリーのゲリラ戦が始まったが、元々知っている公爵夫人は「ヤンの元にいる数式からもたらされた」形で進言し、迎え撃つ形を取らせることができた ―― もっとも事前に分かっていても、シュタインメッツもレンネンカンプも完勝することはできなかった。
物資に関しても進言し、被害を最小限に留めることに成功する。
「公妃殿にとって、ヤン・ウェンリーの動きは読み易いそうだ。卿は読めるか? ロイエンタール」
「まさか。場所のみならず日時まで読み切るなど、出来る筈もなかろう、ミッターマイヤー」
幕僚たちは酒を飲みながら、参謀長の予見に感嘆を上げていた。当人が聞いたら「知ってるだけだ☆未来変わってなくて良かった☆」で話を打ち切るであろう。
「ローエングラム公も驚いておられた」
「布陣していた小官が最も驚いております」
完勝はできなかったものの、それなりに損害を与えることができたシュタインメッツが、その時のことを語る。
「ファーレンハイト。公爵夫人は千里眼かなにかなのか?」
「それは聞いたことはありませんな、ロイエンタール提督。ただ太子公さまは、生まれたばかりの戦乙女を見た時”生まれた時から思考できているようだな”と呟かれたのは覚えております。生まれた直後から頭が良かったということでしょう。まあ太子公さまの血を引いておられる方は、皆賢いのですがな」
「能力が血に宿るとは思わないが……公爵夫人だけは別だったな。それにしてもまさか、ヤン・ウェンリーの思考すらトレースできるとは」
そのヤン・ウェンリーの出方を完全に予測できると思われている公爵夫人は、そろそろラインハルトに打って出てもらう必要があるので一騎打ちを提案し ―― バーミリオン星域決戦が始まることになる。
その作戦発表の前日、ラインハルトはオーベルシュタインを呼び出した。
「オーベルシュタイン」
「はい」
「卿は
「はい」
「その考えは今でも変わらないか?」
「変わっておりません」
ラインハルトの不興を買うことを恐れない男は、この段になっても、まだそうするべきだと ――
「その提案を受け入れようではないか」
「閣下?」
ラインハルトに意見を述べたが、受け入れられることはないだろうと思っていたオーベルシュタインは、動揺を隠しきれなかった。
「どうした? オーベルシュタイン」
冷徹と名高い男が動揺するさまを見て、ラインハルトは面白そうに笑う。
「提案を受け入れていただいたことは嬉しいのですが、なぜお考えを変えられたのですか?」
「髪長姫を見ているとな、あまり心配をかけないほうが良いと身にしみた……笑うな、オーベルシュタイン」
先ほどまで笑っていたラインハルトに変わり、今度はオーベルシュタインがその血の気の悪い顔に笑みを浮かべた。
「申し訳ございません」
「もちろん理由はそれだけではない」
「お聞かせいただけますでしょうか」
「ハイネセンを制圧する艦隊に髪長姫を乗せる。同盟、いいやヤン・ウェンリーは戦場でわたしを倒すことで活路を見いだそうとしている。だが、わたしを倒しただけではどうにもならないことも分かっている。髪長姫という新旧どちらのトップにも就くことができる存在。となればヤン・ウェンリーは髪長姫の排除をも考える」
ヤンにとって戦場に出てこない可能性が高い公爵夫人は、ラインハルトよりも厄介であった。もちろん戦場に居た場合は、倒すのではなく誘拐し、交渉に持ち込むしかない ―― ラインハルトの妻を殺害したら、講和を結ぶことは不可能になってしまうという扱いの難しさがある。
「閣下」
「なんだ?」
「ヤン・ウェンリーが公爵夫人のほうを狙ったらどうなさるおつもりで?」
「そうはさせぬ」
「たしかにヤン・ウェンリーは避けては通れぬ相手。ハイネセンを電撃的に落とすのも賛成にございます。公爵夫人の身の安全を図るのも……公爵夫人を誰に預けるおつもりで?」
「ロイエンタールだ」
「ロイエンタール提督ですか……」
「武功がミッターマイヤーとロイエンタールの二人に偏っていると言いたいのであろう? だからハイネセン制圧はロイエンタール艦隊を率いた髪長姫という形を取る。
謀叛の気配が漂うロイエンタールに、遠く同盟の首都を落とさせることも、人質となりえる公爵夫人を預けることもオーベルシュタインとしては反対だった。
「作戦に異存はありませぬが、ロイエンタール提督ではなく別の提督のほうがよろしいかと。ロイエンタール提督は遠くで手腕を振るわせるのは」
「髪長姫はヤン・ウェンリーに狙われる可能性がある。故に他の者たちも信頼はしているが、一艦隊でヤン・ウェンリーと対峙する可能性を考えるとロイエンタール以外には考えられない」
髪長姫の身の安全を第一に考えた時、双璧のどちらか以外に任せられないのは、オーベルシュタインとしても分かるところだが ――
「ミッターマイヤー提督ではいけませんか?」
「オーベルシュタイン。わたしは戦いたいのだ。疾風ウォルフには早々に戦場に帰還してもらわねば困る」
「既婚者のミッターマイヤー提督のほうが安心できるのではありませんか? ロイエンタール提督はそういう面では」
「それは大丈夫だ。ロイエンタールは常々髪長姫のことを妹だと思って見守っていると言っている。卿も同じであろう? オーベルシュタイン」
ロイエンタールと同じといわれたオーベルシュタインは、もの凄く不服であった。多分ロイエンタールも同じように感じるであろうが ――
「だがオーベルシュタイン。この作戦には最大の難所がある」
返事のなかったオーベルシュタインのことなど気にせず、ラインハルトは説明を続ける。
「なんでございましょう?」
「この作戦を髪長姫に説明して、ロイエンタールと共にハイネセンに向かってもらいたいと告げた場合”別れれば解決ですよ”と言われてしまう可能性が極めて高い」
「…………」
ラインハルトの妻なので人質となり得る。ならば当初の予定通り別れればいい ―― かなり明快な答えであり、そこにたどり着けない公爵夫人ではないことを、彼らも分かっている。
「わたしにとっては、別れていようが居まいが髪長姫は人質になるのだが、説明しても理解が得られないような……」
明日の軍議前に今の言葉を告げた程度で、髪長姫に気持ちが通じるくらいならば、彼らとてここまで困り果ててはいない。
「閣下」
そして身の安全を図るために離婚したら最後、二度と公爵夫人を捕まえることはできない ――
「なんだ? オーベルシュタイン」
「公爵夫人と共にハイネセンを強襲するのは、ロイエンタール提督で確定ですな?」
「そうだ」
「分かりました。これに関しては、小官が説得して参ります」
「出来るのか?」
「はい。ロイエンタール提督以外の方は駄目ですので、変更なきようにお願いいたします」
「分かった」
オーベルシュタインはラインハルトの前を辞し、その足で公爵夫人の元へと向かい、ラインハルトの作戦を説明した。事情を聞いた公爵夫人は、彼らの予想通り別れることを提案したのだが、
「公爵夫人にだけ打ち明けますが……」
オーベルシュタインは常々ロイエンタールは、ラインハルトを裏切るのではないかと考えていると告白する。
公爵夫人はオーベルシュタインが誰よりもロイエンタールの謀叛を警戒していることは知っているので、その告白は当然受け入れた。
「公爵夫人は総統の能力をお持ちでいらっしゃいます。かのロイエンタール提督でも、その能力の前には無力かと」
公爵夫人はオーベルシュタインが、ロイエンタールが何か不穏な行動を取ったら殺して欲しいと言っていることを理解し ―― 万が一ということもあるので、オーベルシュタインの頼みを受け入れることにした。もちろんロイエンタールについて行くためには、ローエングラム公妃である必要があるので離婚はしないことで合意した。
こうして軍議の際、
「というわけだ、ロイエンタール。卿を信頼し、わたしの妃を預けたい」
ラインハルトは公爵夫人の身をロイエンタールに預けた。
「身命にかえてもお守りいたします」
ロイエンタールは大役に心を震わせたが、公爵夫人の心は「ロイエンタールだよー」と残念な方向に凪いでいた。だが引き受けないという選択肢はない。
また安全策として、オーベルシュタインと考えた「誤報」も実行すべく、下男はラインハルトの元に残すことにした。こちらに関してもオーベルシュタインが尽力してくれたためすんなりと決まる。
公爵夫人は下男に機会を見て作戦を発動させることを言いつけ、事前に知っているバーミリオン星域での開戦日時を告げ ―― ロイエンタール艦隊に搭乗しハイネセンへと向かう。