香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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九の前と、その前の話

 ――ある通りを歩くと、稀に不可思議な風景が見られる。

 

 ここ最近、そんな噂が人里の中で囁かれていた。

 話を友人から聞いた者は何を馬鹿な事をと頭を横に振り、噂を知人から聞いた者は事実ならば世も末だと頭を抱えて嘆いた。

 

 今人里を一人ひたひたと歩く上白沢慧音は、前者である。女性としては長身とも言える背を伸ばし、規則正しく歩く彼女の姿は氷の様に冷たげで、厳としている。

 慧音という女はその姿同様、律格的だ。道義というものを過去から学ぶ保守的な側面を多く持つ慧音にとって、耳に入った噂と言うものは余りに絵空事である。

 

 ――まず、そんな事は無いと言っても良いだろう。

 

 確たる証拠はないが、幻想郷の歴史を見てもまずない事であったから、彼女は自身の断言を絶対の物だと信じた。慧音は、噂に上がった"風景"とやらの対象を両方知っている。

 一人は篭りがちで、まず他者と好んで接点を持ちたがる存在ではない。一人は篭らせられがちで、有名ではあるが直接会う事などほぼないといって良い存在である。

 

 慧音が良く知っているのは前者で、此方とは縁が深い。後者は話に聞いた事と、遠目に見たことがある程度だ。それでも、やはり噂には無茶があると分かるのだ。

 まず在り得ない事なのだから、そこに知己の深さは必要とされなかった。常識が必要だったというだけの事だ。

 

 ――妄言が流れる時は、歴史の節目とあるが……そんな物じゃないだろうな?

 

 なんとはなし、彼女はそう思った。そしてそれこそが妄言だと気付き、頭を抱え、口元に小さく笑みを浮かべる。馬鹿馬鹿しいと首を横に振ってから、慧音は顔を上げ常通りの人里の通りを視界におさめ。

 

「……は?」

 

 らしからぬ、間抜けな声を上げて立ち止まった。

 

「疲れたような顔をして、なんだおい、同情でも誘ってるのか霖之助?」

「憑かれているから、疲れるんだ。離してくれ」

 

 何やら疲れたような、動くのも億劫そうな青年の背を乱暴に叩くもう一人の青年の姿を見て、慧音は両の目を乱暴に擦り、今一度と眼前を、キッとねめつけた。

 

「……」

「……」

 

 そして。そんな慧音を。

 霖之助と呼ばれた男はそのままの――つまりは、疲れた顔のまま眺め。もう一人の青年は、驚いたように眺めていた。

 

「霖之助! 霖之助おい! えらい美人がこっち見てるぞ!」

「あぁ、うん、あれは睨み付けてるといった方が正しいと、僕は思うんだが」

 

 自身の耳に入ってくる二人の言葉が、文字通り右から左へと流れていく中で、慧音は茫然と噂を思い出していた。

 

 曰く "当代の稗田の賢者 阿七 雑じり物と友誼あり。里路を談々笑々と歩く姿 まるで兄弟の如くあり"

 

「想定外だろう……それは……」

 

 無意識のうちに、小さく開かれた口から零れた慧音の言葉に、霖之助は"だろうなぁ"といった顔で頷いた。

 

 

 

《九の前と、その前の話》

     続 それでも、長い話

 

 

 

   ■□⊿ 前の前の場合

 

 

 

「つまり、お前はこんな美人を俺に隠して居た訳だ?」

「君に僕の全てを曝け出す必要がある、と?」

「あるに決まってるだろう」

「なら、君も全部曝け出せ」

「よし、待ってろ」

「いや、待て」

 

 いつも通り、霖之助の家の一室で会話を始め、霖之助の言葉に応じて突如自身の着物を脱ぎだそうとした男を、霖之助は辛うじて、間一髪で止めた。

 

「何故に脱ぐ?」

「裸の付き合いという言葉を、お前は知らないのか?」

「知ってはいるが、君のそれは大分言葉を捻じ曲げている」

 

 頭を横に振る霖之助の、意外に強く留める力に辟易したのか、男は口をへの字に曲げて鼻から息を吐き、襟元を正して座りなおした。

 

「……想像以上に、面白い御仁ですね……稗田の方は」

 

 そんな男に、一応の笑みを浮かべ声を掛けたのは、霖之助の部屋まで着いてきた、未だ出された酒に手を伸ばさない慧音である。稗田の方――そう呼ばれた男、当代の人中の賢者とされる阿七は、ちらりと慧音を見て霖之助を見た。

 

 ――珍しい事もあったものだ。

 

 傍若無人と言っても過言ではない阿七の、常成らぬ大人しい態度に、霖之助は肩をすくめ小さく笑った。なるほど、自身も彼も、確かに理解仕切れていないのだろう、と。

 

 今、当たり前のように彼らは向き合っているが、これは幻想郷という世界において正しい姿ではない。 人間は人間で生きる領域を持ち、それ以外と深く関わることはまず無い。

 自身よりも強大な、それこそ恐ろしいほどの強力を持つ隣人を、好意的な目で見られるほど、人間と言う生き物は善性の者ではない。

 

 恐れる。恐れるが故に距離を置き、交わる事がない。

 同じ狭い世界に生きながら、歩みよりはほぼなかった。在ったとしても、それは個としての歩み寄りであり、契りばかりであった。この問題が一応の解決を見るには、まだ時間が必要であったのだ。

 

 向かい合って、軽口を叩き、笑いあう。

 この時代には相当に珍しい。いや、これがただの人間とただの妖怪の出来事であったならば、ただ珍しいだけで済んだだろう。

 しかしながら、この男達はただの人間でもただの妖怪でも無い。

 

「……在りなのか、それは?」

 

 だから慧音の独り言は、阿七と霖之助の耳に入った。二人は顔を見合わせてから、頷いた。

 阿七は当然だ、と言った顔で。霖之助は、苦笑いで。

 

 そんな二人の顔を見て、慧音は暫し目蓋を閉じ……ゆっくりと目を開いてから今まで手を出さなかった湯飲みを手に取った。中に入った濁った酒を一口含み、嚥下する。

 ふぅ、と息を吐いてから、慧音はここに来て初めて、本物の笑みを浮かべ

 

「まぁ、在りなんだろう――」

「結婚してください!」

「――な?」

 

 湯飲みを手から落とした。

 

 畳に広がっていく染みを、あれは誰が拭くのだろうか、などと思いながら霖之助は眺める。そして、ついと視線を動かし、突如意味不明の言葉を叫んだ物体を見つめて、ぼそっと呟いた。

 

「君は、馬鹿だな」

「人に敬われる俺を捕まえて馬鹿たぁなんだ、馬鹿たぁ」

「ああ、悪かった、言葉が足りなかったな」

 

 霖之助は大きく息を吸い込み、こう言った。

 

「大馬鹿者」

 

 未だ固まったままの慧音の前で、二人は言葉の応酬を始めた。

 

 

 

   ●

 

 

 

「つまり、惚れたと、言われるわけですか?」

「はい」

「……」

 

 上から、頬を朱に染めた慧音、きっぱりと力強く頷く阿七、無言のまま熱い茶を嚥下している霖之助、である。先程の意味不明な言は何かと言えば、つまりそんな事であったらしい。

 

 ――分からないでもない、か。

 

 無言のまま茶をもう一口と含んだ霖之助は、どこかそわそわとした慧音を見ながらぽんぽんと自身のうなじを叩いた。

 

 上白沢慧音は、美人である。どこか色素が抜けたような白い肌も、それに合うようにと用意された銀髪も、森閑とした冬の湖面を思わせる。

 上白沢慧音は、理知的である。切れ長の瞳は、ともすれば誰彼構わず睨みつけているような印象を与えがちだが、慧音のそれは知性と理性を見る者に感じさせる玲瓏な物だ。

 上白沢慧音は、艶やかである。その外見同様、黄色人種からはどこかかけ離れた容姿は、彼女の女性としての曲線にも強く現れていた。

 

 だから、上白沢慧音は美人である。

 それも、酷く非現実的な。

 

 そういった類の物が目に入った場合、拒絶するか無視するか、の二つばかりが選択肢として取られがちだが、稀に三番目、四番目の選択肢を強引に引きずり出して選び出す存在が居る。この場合、阿七がそうであった。

 

「その……いきなり求婚、されましても……どう、言えば良いのか」

 

 霖之助にしてみれば、今の慧音は珍しいどころか、まず今後見る事があるかどうかの稀有な姿である。 あるが、その理由が分かる"同類"としては、助け舟を出すという行為で邪魔して良い物か、このまま椿事を眺めて弱みを握っておくべきか、迷わせるばかりだ。

 

 ――迷惑は、してないか。

 

 霖之助は慧音の顔色を見て、そう感じた。 朱色に染まった頬は春の桜の花弁の様であり、きょろきょろと動く目は困惑にこそ細められているが、そこに嫌悪の色は見えない。

 だがしかし。

 

 ――だがしかし、だ。

 

 さて、と小さく、本当に小さく呟いて、霖之助は頭を抱える。

 阿七の、その熱心な、求愛の熱が篭った視線の先を知れば。知れば、どうなるのか。どうされるのか。彼はどこかに居るのだろう神様に、一人何事も無く終わってくれと嘆願していた。

 

 さて。慧音である。

 慧音は酷く困っていたのは、どうしようもない事実だ。彼女は霖之助の同類だ。

 半分。雑じり物。先天的なそれでこそないが、慧音は半妖だ。厳密には半人半獣。人ではない。だからこそ慧音は霖之助と縁を結び、友人として在る事となったのだが、しかし求愛される要素はそこに一切無い。

 

 それらの、どこかおかしな物を愛でる趣味でもあるのかと慧音は考えたが、彼女を見つめる阿七の目はどうにも真摯で、偏執的な欲情の熱は感じられない。つまり一個人としての、誠実な求愛であり求婚である。

 何度も、何度でも言うが、彼女は人間ではない。真っ当な恋も愛も、もうこの身を過ぎる事も留まる事も無いのだと半ば諦めていた彼女にとっては、阿七の熱気を帯びた視線は、猛毒の様にも思えた。

 

 ――あぁ、困った。

 

 今後あるか無しかも分からぬ、女としての幸福にも似た苦悩に頭を悩ませながら、意味も無く唸る慧音は。ふと、それに気付いた。

 

「……」

「……」

 

 そして無言のまま、慧音と阿七はそれぞれ視線を交差させる事も無く見つめあった。

 

「あの……もし……?」

「分かりました」

 

 慧音の困惑気味な声を無視して、阿七は自身の膝を叩き、声を大きく張った。

 

「結婚が駄目なら、まず友人からどうでしょうか!」

「いや……あの……」

「それも駄目か……」

 

 自身の言葉に、どこか身を引きながら応える慧音に、阿七は顔を俯かせる。

 

「ならッ!」

 

 やおら、くわッ、と顔をあげ、阿七は大声で叫んだ。

 

「幾ら出したらその胸揉ませてくr」

「やはりそこを注視していたのか……ッ!!」

 

 慧音の豪腕から繰り出された拳を頬に受けて、阿七は面白いほどに吹き飛んだ。襖を突き破り、廊下を滑り、柱にぶつかってからやって止まった。

 

「……」

 

 はぁはぁと息をしながら、自身の肩を抱きしめ胸を護るような姿をとる慧音と、無残に破壊された自宅の襖を眺めながら、霖之助は思った。

 

 ――誰が直すんだろうなぁ、これ。

 

「……す、すまない……つい」

 

 殴り倒した事で気が静まったのだろう。慧音が霖之助を気まずげに見ながら、口を開く。が、その姿は肩を抱いたままの、か弱げなそれだ。

 

「だがな、霖之助……言わせて貰うぞ」

「ああ、どうぞ」

 

 諦めきった、悟りを開いたような霖之助の言葉に、慧音は頷いた。

 

「友人は、選べ」

「僕だって、三文芝居をうつような友人達を、好んで欲しいとは思っちゃ居ない」

「三文芝居とはなんだ、三文芝居とは。達とはなんだ、達とは」

 

 眉を危険な角度に吊り上げて、慧音は霖之助の言葉を捕まえる。

 

「だから――」

 

 が、霖之助が何か言おうとして口を開いたところで、違う声が割り込んできた。

 

「霖之助! 今俺殴った時ぶるんって、ぶるるんって震えたぞ!」

 

 阿七の嬉しそうな声である。何が震えていたとは、断言していない。

 いないが、この状況で"何が"震えたのか理解できない者は、悲しいことに、本当に悲しい事に居なかった。

 

「よし、もう一発殴るぞ?」

「僕に聞かれても」

 

 何故か自身を見て息巻く慧音に、霖之助は肩を落として返した。

 

「というか、なんで君は殴られておいてそんな嬉しそうなんだ」

「だってお前、ぶるるん、だぞ! たゆん って程じゃないけど、ぶるるん、だぞ!?」

 

 未だ這い蹲ったまま明瞭とせぬ言葉を歓喜と叫ぶ友人に、霖之助は苦笑いを浮かべながら、心底思った。

 

「君は本当に、大馬鹿だ」

 

 こんな事が楽しいと思える自分も、きっと大馬鹿だ、と。そんな霖之助の笑みに打たれたのか。

「……まったく」

 

 慧音も同じく、苦笑いを浮かべて肩をすくめ、ゆるりと座りなおした。阿七も這いずりながら自身が座っていた場所まで戻り、どうにか座りなおしていた。

 

 誰も言葉を発しない。

 それは気まずさや距離を測るための沈黙ではなく、ただただ自然に舞い降りてきた音の間隙だった。なんとなく浮かぶ苦笑いに、言葉には出来ないくすぐったさを感じながら、ふと、慧音は喉に渇きを覚え周囲を見回した。

 が、彼女の湯飲みは転がったままで、当然中にあった酒はない。霖之助にもう一杯頼もうか、とした彼女の目の前に、湯飲みが出された。見れば、阿七である。彼が湯飲みを持って、慧音に差し出していた。

 

 片目を瞑って差し出すそれは、ちょっとした罪滅ぼし、なのだろうか。

 

 ――そう、だろう。

 

 だから慧音は、笑みを浮かべて一礼し、それを受け取り、湯飲みの中に在ったぬるい茶を飲み――

 

「それ、僕のだぞ」

 

 苦い顔をした霖之助の顔に、勢い良く吹き付けた。

 

「……何が目的で、こうも悪さをするんだろう……貴方は」

「そのけしからんおっぱいが悪い」

 

 真顔で返す阿七に、慧音が再び息巻く。

 

 ――なんだこれは。

 

 慧音が吐き出した茶を顔に残したまま、霖之助は疲れた顔で天井を見上げた。

 いつも通りの面白味のない天井だが、その下でなされる会話や行動は常のものとは程遠い。

 

 人間も、稗田も、半妖、半獣もそこには隔てが無い。誰も彼も、今ここで自由に在るだけで、縛られる価値観も無い。だから彼は、ここも一つの幻想郷なのだと一人頷いた。

 全てを受け入れる。だからこその、狭い世界。

 

 とは言え。

 

 ――自宅の損壊は、受け入れたくはないんだが。

 

 再び暴れだした慧音と、再び吹き飛ばされる阿七を視界の端に辛うじて収めながら、霖之助は着物の袖で顔を拭い始めた。

 

 

 

   ■□⊿ 前の場合

 

 

 

 ――ある通りを歩くと、稀に不可解な風景が見られる。

 

 ここ最近、そんな噂が人里の中で囁かれていた。

 話を友人から聞いた者は何をたわけた事をと頭を横に振り、噂を知人から聞いた者は事実ならば世も終わりだと頭を抱えて嘆いた。

 

 今人里を一人すたすたと歩く上白沢慧音は、前者である。

 

 ――うん、その筈だ。

 

 慧音は何か眼球の奥で疼く既視感と、ちくちくと痛む胸の奥に苛まれながら、それを無視して頭を振った。

 

 もう百年も昔、人と半妖が兄弟の様に歩く姿が見られた。しかも当事者達のうちの一人は、阿礼の転生者その人である。慧音は燦々と輝く太陽を見上げ、悲しげに笑った。

 

 ――もう、彼は居ない。

 

 転生者、と言えば、知らぬ者からすれば、故人がそのまま戻ってくるような印象を与えてしまうが、実際はもっと複雑である。

 

 阿礼が残そうとしたのは知識であり、人格ではない。人格に付随する記憶も、当然残そうとはしなかった。

 或いは、転生の際引き継がれるごく記憶――知識――の継承だけに留める事で、人間から逸脱するその身を、どうにか人間側へと残そうとしたのかもしれない。歴史的には断片となるが、同じ人格と同じ知識を持つ人間が時間の中をこびり付くように残留する事は、どうにも不気味だ。それはもう、人間ではない。妖怪でも、神でもない。

 記号だ。

 

 ――辛うじて、人間。

 

 今の、今までの稗田の賢者達は、まさに辛うじて人間だった。

 違うからこそ、彼らは意味を持つ。違う価値観を持ち、違う史観を持ち、違う知識を集める。それは最終的に見れば人間外の生誕を望む奇妙な手術の繰り返しになってしまうが、個として残って逝った人格達は、時代時代にそれぞれが違う賢者として留まるのだ。

 医学に興味を持つ者も居たであろうし、純粋な文学に気を奪われる者も居たであろう。もしかすれば、恋愛文学とやらに一生を捧げた変わり者だって、居たのかもしれない。やるべき事が幻想郷の縁起を編纂だけだとしても、どこかに特色を表わしたであろう何かを、彼ら彼女らは持っていた筈だ。

 

 ――あぁ、可能性は、ある。

 

 変わり者。

 もう居ない、慧音と霖之助の友人。半獣の彼女にふざけた求愛――いや、あれは求愛なのだろうか――をした正真正銘の変人である。

 

 眩しいばかりの太陽から逃げるように顔を俯かせ、慧音は顔を顰めた。

 

 ――変人……か。

 

 変人だっただろう。稗田阿七は誰が見ても――いいや、阿礼ではない等身大の彼を良く見た慧音と霖之助にとって、彼は変人だった。会えば「今日も良いおっぱいだな慧音」等という人間が普通のはずが無い。間違いなく、変人である。

 しかし、それ以上にどうしようもなく、愛おしい存在では、あった。

 

 短い、本当に短い生命の灯火を与えられてしまった稗田阿七という男は、男女の愛を別して慧音にそう思わせるだけの存在だった。短い路だからこそ、偽らなかった。短い路だからこそ、在りのままだった。

 わがままで、勝手で、縁起以外の何かを、自身の証明として残そうと馬鹿をやって笑い続けた青年は、もうこの世界のどこにも居ない。それは、寂しい事だ。

 悲しい事で、残酷な事だ。そんな物を残すまいと、稗田阿七は笑っていたのだから、より一層悲しくなる。それが個人の想いを汚すかも知れないという事は分かっても、慧音の感情はやはり納得しなかった。

 

 だから、彼女は一人歩く。

 阿七が消えて以来、塞ぎこんだ霖之助を見舞う事も出来ず、稗田の家からも一層遠ざかり、彼女は自身の悲しみを如何にか癒す事で立ち直る事しか出来なかった。傷の舐めあいも、思い出の共有も、必要だとは思えなかったのだから、慧音としては距離を取る以外なかったのだ。

 

 ――霖之助が聞けば強いとでも言いそうだけれど……。

 

 悲しみの海の中に浸る事も、また違った強さであると、慧音は思う。後ろ向きの努力だと人は言うだろうが、痛みと向かい合う姿勢を否定する事は、慧音には出来ない。

 そして、そんな真似も出来ない。だから彼女は、距離を取るという名目で逃げたのだ。

 それらは弱さだとか強さだとかで測れるものではない。在り方が違うだけの事だ。親しい存在が失せた時、どう行動するかという、ただただそれだけの事だ。

 

 慧音は息を吐き、自身の中に篭った長考を共に吐き出した。

 そして、また姿勢を正し常の通り歩き出す。真っ直ぐと前を見ながら、淀みなく。

 

 為に。そんな物を、彼女は目にしてしまった。

 

 自身とはまた違った色彩を放つ銀髪の青年と。そんな青年の三歩後ろを歩く、若い少女の姿を。

 

 眼球の奥で蠢く既視感が、ここぞとばかりに暴れだした。慧音はその暴れだした既視感を如何にかしようと目蓋を閉じ目を揉んだ。

 

 ――よし。

 

 軽く息を吸ってから、彼女は目蓋をゆっくりと開いた。

 

「……」

「……」

 

 そして、無言のままこちらを眺める二人と、目が合った。

 

「霖之助さん……なにやら凄い美人の方が貴方を見つめておられますが……?」

「……いや、待ってくれ、君は多分何か大きな間違いをしている」

 

 自身の耳に入ってくる二人の言葉が、文字通り右から左へと流れていく中で、慧音は茫然と噂を思い出していた。

 

 曰く "当代の稗田の賢者 阿弥 雑じり物と友誼あり。里路を談々笑々と歩く姿 まるで夫婦の如くあり"

 

「……霖之助、ちょっとこちらに来い」

 

 無意識のうちに、小さく開かれた口から零れた慧音の言葉に、霖之助は"何ゆえか"といった顔で項垂れた。

 

 

 

   ●

 

 

 

「つまり……恋仲である、と?」

「えぇ、そうです」

「……」

 

 上から、苦虫を噛んだような慧音、きっぱりと力強く頷く阿弥、無言のまま熱い茶を嚥下している霖之助、である。

 

 流石に人里の通りで話し込むのは不味かろうと、三人は近場に在った茶屋の一室を借りて話を続ける次第となった。約一名としては、話す事なく分かれたかったのだが、女性二人の有無を言わせぬ迫力に負けて頷くより他なかった訳である。

 

 ――譲っただけだ。負けたわけじゃない。

 

 どうでも良い事にこだわりながら、霖之助はちびちびと茶を飲み続けた。

 そんな霖之助を放って、慧音と阿弥は会話を続ける。

 

「これは、稗田の方が恋仲に、と求める程の者ではないと、私は思うのですが?」

「えぇ、万人向け、とは言えませんね」

 

 当人を前に、随分と酷い会話である。

 

「ならば、どうして……とお聞きしても?」

 

「構いません……そうですね。万人向きではないけれど、私向きではあった、という事でしょう」

「……」

 

 断言する阿弥に、慧音は僅かに眉を顰めた。そんな慧音の顔を見て、阿弥は袖元で顔の下半分を隠して続けた。

 

「分かりました、こう言いましょう」

「……はい?」

「早いもの勝ちでした」

 

 小さな、本当に小さな、慧音の耳に辛うじて聞き取れた言葉は、隠されていない顔半分から見える瞳は、勝ち誇った色を持っていた。

 

「……さて、聞こえぬ言葉でしたので、私にはなんとも」

「あぁ、これは失礼を。もうそっと大きな声で言いなおしましょうか?」

「結構です」

 

 憮然と返す慧音に、阿弥はそうですか、と興味無さ気に返して霖之助の世話を始めた。髪が跳ねていると言って髪を撫でたり、襟元が歪んでいるといって直したり、である。が、慧音が見る限り、髪は跳ねていいないし襟元も歪んではいない。何より、興味無さ気にそうですか、等と言った割りに、ちらりと慧音を見る視線は、どこか鋭利だ。

 

早いもの勝ちでした。

 

 なるほど、そうだったのだろう。われ知らず、慧音は頷いてしまった。

 誰も知らない事である。恐らく、この星において、一人――当人以外誰も知らぬ事であるが。

 

 慧音という女性は、霖之助を憎からず思っている。

 

 いた、ではない。いる、のだ。

 雑じり物同士、なんとなく続いた友情ではあったが、何時頃からか判然としないも、確かに女の感情が宿ったのだ。気の迷いであると思ったのは、仕方の無い事だった。

 一年もすれば消える。そう思いこんだ。だが消えなかった。

 二年もすれば、三年もすれば、四年もすれば。だが、消えなかった。

 いつか思いは蒸気となって空へとのぼり消え去るのだと慧音は信じたが、それは阿七の時、距離をとったあの時にさえ消えることは無かった。

 

 彼女は雑じり物だ。人間でもなく、妖怪でもなく、それ以外の何かでもない。一種一妖とさえ言ってしまえるような、孤立した生命だ。

 この狭いとは言え多種多様な命が咲き誇る幻想郷でも、未だ彼女の同類はいない。近い物はあっても、半分獣という変り種は、いない。故に、この身には恋も愛も関係なく、留まる事無く消えていく泡の様な物だと思い込んでいた。

 

 霖之助に出会い、彼と長年を共にするまでは。

 そこに希望を見てしまった。もしかしたらと、思ってしまった。男と女。句の平仄の様な合わさりあう生命の意味を、彼女は霖之助に見てしまった。

 それがどれほどに淡くとも、心から零れ出ぬ小さな想いだとしても、恋をしているという事実は消えてなくなりはしない。

 

 もしかしたら、それは霖之助も同じではないのだろうか。都合のいい話だろうが、慧音はそんな風に心のどこかで思っていた。距離も取らず、そのままで居れば繋がったかもしれない想いは、しかしこうして繋がる事無く、霖之助は当代の阿礼乙女と結ばれた。

 

 口惜しいと、思わないわけではない。だが、傷を癒すと言って逃げたのは慧音で、原因はそこに含まれている。

 

 ――まず、すべき事が、あった。

 

 一言一言、ゆっくりと胸中で呟き、慧音は笑みを浮かべた。その相に、阿弥は首をかしげる。

 

「おめでとう。二人のそれが良縁であると、信じよう」

 

 彼女は独立した一己だ。だから、苦しめたくないと思う。

 繋がった何かを、邪魔したいとは、思いたくない。だから笑う。

 三十年にも満たないだろう阿礼乙女の命は、多分霖之助と役目の為にすり減らされる。

 それは気高い想いだ。きっと、多分、霖之助にとって価値のある優しい時間だ。

 

 自分の恋で邪魔をして良い物ではない。

 慧音は自身の出した答えに満足し、だから微笑んだ。

 

「……強敵、でしたか?」

「さて……今後もぶり返さないとも知れない身としては、過去形にして良い物かどうか」

 

 阿弥の言葉に、慧音は含んだ言葉で返す。そのまま両者は見つめあい……阿弥もまた、笑顔を浮かべ一礼した。

 

「ありがとう御座います。私もこの身を磨き続け、側に在る事を、在った事を後悔させない様、精進いたします」

 

 良縁であった、と慧音は信じた。

 二人はどちらともなく頷き、未来を楽しむ事にした。

 

「……? なんだい、さっきの会話は?」

 

 きょとんとした顔の霖之助に、二人はころころと笑った。

 

 笑われた霖之助は顔を顰めたが、いつしか二人に混じって笑っていた。

 そこに阿七が居ない事が慧音と霖之助には悲しかったが、阿弥との繋がりは彼が運んだ縁である。そう思うと、二人はまた嬉しくなって一層笑った。

 

 

 

   ●

   

   

 

 それで終われば良かったのだろうが、話はまだ続く。あれから二年、少女然とした阿弥にも等しく年は過ぎ去り、彼女を体を少女から女性へと変じさせていった。

 いったが……

 

「絶望的です」

「……」

「絶望的です、慧音」

「いや、それを私に言われても……」

 

 困惑しきった慧音に、阿弥がずずいっと詰め寄る。

 

「どうしましょう! どうしたらいいんでしょう! どうしてこうなった!」

「阿弥、まずは落ち着こう、落ち着くべきだ」

「はー……はー……。落ち着け、と……貴方は言いますが……」

 

 目を据わらせて、阿弥は慧音の体の一部をねめつけた。

 

「持つ者の余裕ですか……こんな悩み、貴方には無縁すぎて鼻で笑える程度でしょうが……」

「いや、これはこれで悩みもあるんだが……」

 

 ねめつけられる自身の体の一部を腕で隠し、彼女は戸惑いながらも返事をする。が、それが逆効果だった。

 

「なら、寄越しなさい!」

「分けられる物じゃないだろう……」

「なら買い取ります! 幾らですか!!」

「なにか懐かしい気分だが、同時にどうしようもなく悲しい気分だ……」

 

 泣きそうな顔の慧音に、阿弥は泣きながら口を動かす。

 

「挟んだり揉み込んだり出来ない私の方が、悲しいです!」

「……」

 

 頬を朱に染め、慧音はそっぽ向いた。それ以外、彼女には何も言えなかったのだ。

 そして、阿弥が泣きながら帰った後、疲れた顔で呟いた。

 

「……あの家の人間は、私の胸に何か恨みでもあるのか……」

 

 

 

   ――了




   ■□⊿ 九の人の場合



「お嬢様、森近様と上白沢様、参られました」
「えぇ、通してください」
「はい」

 返事を返して、侍女は頭を深く垂れて一礼してから退出した。

 この部屋の――屋敷の主である阿求が、上記された二人を客人として招いたのは、実に単純なことだった。先代、及び先々代の個人的な日記に、度々その名が登場するから、である。
 記された内容から見るに、二人はそれぞれ友人として、また霖之助は阿弥の想い人として時間を共に過ごしたらしい。

 記憶を少しばかりは受け継ぐ前転生者と前々転生者といっても、それは阿求の記憶には全く無い個人的な物だった。元を正せば同一存在、とは言え、少々下世話な気がしないでも無いが、人中の賢者としては興味を持ってしまったものは、仕方ない。
 未だ歳若いとすれば許される好奇心だろう、と自身に言い聞かせて、阿求は二人が部屋へとやってくるのを静かに、しかし楽しげに待つばかりだった。

 やがて、少しばかりの時間が流れ、二人が部屋へと入ってきた。
 
「失礼します」

 ゆるりと、余裕をもって一礼し、銀髪の青年が先に入ってきた。

「……まぁまぁ、でしょうか」
「……?」

 阿求の口から零れた意識せぬ小さな一言に霖之助は首をかしげ、阿求はなんでもありませんと返した。

 ――悪いとは言いませんが……先代もまた、不可思議な趣味だこと。
 
 阿求には、阿弥の趣味がいまいち理解できなかった。その辺り、やはり当人ではないと言う証左なのだろうと阿求は得心した。

 そして、二人目。上白沢慧音が、両肩を抱いて、胸を護るような姿でしずしずと室内に入ってきた。

「……」
「……」

 ――変な人が来ました。
 
 阿求がそう思っても、仕方無い事だった。

 しかしその原因は、先代と先々代である。
 その理由を阿求が知り、頭を抱えて部屋を転がりまわるのは、この数十分後の事である。

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