それでも、長い話
からり、ころり
ころり、からり
心がどこにあるか。
等と言う事は、もう随分と前から知識人達や暇人、趣味人達の間で論議されてきた事だ。
胸を打つ。誰も駈けた事の無い風が凪ぐ静謐な広い草原、終わりを前に生まれた意味さえ知らぬまま一人痩せ細っていく子供、色彩を変えて地平線の向こうへと沈み行く太陽、きらきらと光る埃舞う廃墟で揺れる首吊り死体。それらは、好悪の差はあれど人の胸を打つ。
ならば心は胸にあるのだろうか。
――いや、違う。
そう、彼は違うと信じている。
胸は感性に動悸する器官であり、それは臓器の機能に過ぎない。では心はどこにあるのか。
――頭だ。
そう、彼はそうだと信じている。思考する場所は脳であり、命令を下すのは脳である。胸を打つのは脳が命令を出した結果であり、感動も恐怖も歓喜も絶望も脳がタクトを振り、胸がその弦をかき鳴らす音に過ぎない。ならば心と言う器官は頭にあるのだと、心は命令を発し律する場所でこそあるべきだと彼は信じた。思考は心の上位存在だと信じた。
故にその夏、茹だるほどに暑い熱気の中、まるで遥か高い空に上がった際の脳機能の低下――六割ほどの稼動――が彼に起こったとすれば。心の鈍化があったとすれば、それは全て説明のつく事だった。
からり、ころり
そうでなければ、繋がりなど生まれなかったのだから。
ころり、からり
風に揺れる風鈴の音は涼やかで、まとわりつく熱さを僅かばかりとは言え忘れさせた。空を見上げれば、馬鹿みたいに青く、高かった。
――あぁ、良い天気だ。
里の外れに在るなんの変哲も無い家の軒先に座り、霖之助は湯飲みを片手にそう思った。
そして、彼は出会った。
「す、すまん! ちょっと隠れさせてくれ!!」
「は?」
返事も聞かず、霖之助の家に上がり込み、その背後に隠れた見た目同じ年頃辺りの男に。
だからこれは、そんな遠い昔の夏のお話。
からり、ころり
ころり、からり
古ぼけた風鈴が見た、ひと夏の短い話。
それでも。
『それでも、長い話』
「すまん、お邪魔するぞ」
「……」
数日後、その男は霖之助の住む小さな家の、夏だというのにどこか寒々しい居間に霖之助の返事も聞かず上がり込み、包みを自分の脇に置いて両手を合わせてぺこりぺこりと頭を下げていた。
「あの時はすまんかった。ほんと助かった。もうなんつーか、言葉も無いね俺」
「いや、かなり言葉出てるだろう君」
「んで、これ感謝の気持ちつーか、お礼つーか、献上品というか、酒の肴つーか、酒くれねぇ?」「人の話を聴かない上に図々しいな君は」
「ははは、よく言われるけどもう慣れた」
「慣れちゃ駄目だろう。改善する為の努力くらいしたらどうなんだい。人間の美徳なんだろう、努力?」
「めんどくせ。しらね。努力、何それ強いの?」
「君には強敵そうだね」
霖之助は一つ息を吐いて立ち上がり、台所へと向かっていった。
――不思議な事もある物だ。
霖之助は出す酒を吟味しながら思った。彼は"人"付き合いのし易い様な男ではない。
その性格がややとっつき難いと言う事もあるが、それ以上に、散見される特徴的過ぎる特徴が人間と容易に交じり合える存在にはしなかった。明らかに人では在り得ない色素で構成された彼の髪と瞳は、見る者に不安を抱かせるに十分であったし、彼自身特に理由が無ければ誰とも繋がりを持とうともしなかった。
ただ偏屈な程趣味に重きを置いているので、その辺りの事で人里にふらりと現れては探索し思考し検分し、満足したら閑散とした茶屋で熱いお茶を一服して家路につくと言う、少々生活面に問題のある存在でしかない。人が身勝手に思うほど危険な存在では決して無いが、だからと言って社会と言う場所で真っ当な付き合いが成立する者でもない。筈なのだが。
「ほら、これで良いかな?」
とん、と居間に在る小さなちゃぶ台に酒と湯のみ二つを置いて、霖之助は無防備に酒を待っていた男にぶっきらぼうにそう言った。居間に捨てるように置かれていた団扇をぱたぱたと振りながら、男は霖之助が持ってきた酒を見て嬉しそうに笑った。
「お、安い酒も好きだぜ、俺。酔いが早く回って楽しいよな、これも」
扇いでいた団扇を離し、自分の横に置いていた包みをちゃぶ台の上に乗せ、男はけらけらと、けたけたと笑った。
「開けないのかい?」
「なんで? これはあんたのだろ? 俺、これあんたに上げたんだぜ? なら……」
「なるほど、開けるのは僕、か」
「そそそそ」
霖之助はその言葉に、苦笑を浮かべた。どうにも変な男と知己を得てしまった、と、思いながら。
それがどうにも嫌ではないのが、霖之助は不思議だったが、今は包みが気になるらしく、彼は包みに手を掛けた。男はにんまりと笑ったまま、霖之助が包みを開ける姿を、楽しそうに見ていた。待つ事ほんの一拍程で、包みはとかれ中からやたらと品の良い木箱が出てきた。霖之助は少しだけ驚き、その顔を見て男は一層笑みを強くする。それにむっとしながら、もう何が出てきても驚くまいと心に決め、霖之助は箱を開けた。
すると中には。
「……饅頭、かい」
「そ、饅頭」
「……これは、確か」
「おうよ、里で一番の饅頭屋の饅頭。高いんだぜ? 買うの大変なんだぜ? 暑い中だってのに行列長いのなんのってもう」
男は肩をすくめ、首を横に振りながら、箱の中に均一の大きさで均一に並ぶ白い饅頭を指差しながら笑った。
「……良く笑うね、君は」
「苦いもん口にしたような顔してるより、笑ってる方が自分も回りも幸せだろう?」
「それは僕に対する皮肉かい?」
「なんだ、あんたいつもそんな顔なのか? 勿体ねぇなぁおい。人生……いや、人生? まぁいいや。そーゆーの? 損してると俺は思うねぇ」
男は良く笑い、良く喋る。そして表情も良く変わる。
――自分とは正反対だ。
霖之助はそう心の中で呟きながら、饅頭に手を伸ばし
「おっと、先にこっちだろ」
男の差し出した湯飲みに邪魔された。差し出された湯飲みを受け取り、中を見るとやや濁った透明の液体で満たされていた。
「……呆れたね。何時の間に酒をあけたんだい」
「あんたの目の前で、普通に空けただけだがねぇ」
自分の手の中にある湯飲みを霖之助のほうに向け、男は笑いながら続ける。
「お近づきに、まずは名乗ろうか?」
「……あぁ、僕は霖之助だ」
「霖之助、な。おし、覚えた。俺は――」
名乗りを上げて、二人はゆっくりと湯飲みを合わせ――
なんとなく。本当になんとなく。
少しだけ、長い付き合いになりそうだと思いながら。霖之助はゆっくりと酒を飲み干した。
からり、ころり
ころり、からり
■ ■ ■
湿った風が、風鈴を揺らす。
仄暗い空が、全てを濡らす。
「すまん、待たせたか?」
「君は何を言っているんだ?」
ある雨の日、軒先でしとしとと降り続ける雨を眺めているだけの霖之助に、声が掛かった。
「いや、待たせたかと思ってな? で、待ったか? 待ち焦がれたか?」
「いいや、待っていないし、そも約束だってしちゃあいないだろう?」
「お前、そこは、ううん、今来たところ、だろ。常識だろ考えろよほんとに」
「ここは僕の家だろうが。君こそ常識ってものを考えろ」
「もういやこんな人! 実家に帰らせていただきます!」
「あぁ、さっさと帰ると良い」
「雨降ってるんだから引き止めろよ」
「断るよ」
男はこちらを見ようとしない霖之助の隣にどかりと無遠慮に座り込み、濡れた髪と体を拭くものは無いかと辺りを見回した。霖之助は苦笑を浮かべ、少し大きめの手ぬぐいを差し出し、男はそれをひったくるように取ってがしがしと頭を乱暴に拭う。
「出て行くって言ってるんだから、せめて傘くらい差し出せよ。風邪引くぞ俺」
「大丈夫だ、君はきっと風邪なんて人間らしい病気にはかからない」
「繊細な俺になんて言い草だ。お前が風邪ひいちまえ」
「生憎と僕は病気に嫌われていてね。もう何年も病気にかかった事が無い」
「知ってるか? そういう奴が病気に掛かると、大抵でっかいのが来るんだぞ? こう、嵐の前の静けさとか、引きのあとの津波みたいな」
「へぇ」
「……っと、助かった」
「あぁ、そうかい」
投げ返された手ぬぐいを横に置き、霖之助と男は二人で雨を眺め続けた。
「……で、その手ぬぐい。来ると思ってたのか?」
「なんとなく、ね。この雨もついさっき急に降ってきたから、多分こうなるだろうと思って用意しておいたよ」
「お前良い嫁になれるぞ」
「なんだい、ここから蹴落とされてまた濡れたいのか? 物好きだね、君も」
「んなこたぁ言ってねぇ!」
男は器用に笑いながら怒鳴り、一つ息を吐いてまた笑った。
「あぁ、畜生なんだなおい、あれだ、霖之助。あれだぞ」
「あれ、これ、それ、で言葉が通じると思ったら大間違いだ」
「俺とお前の仲じゃないか」
「出会ったらどちらかが死ぬまで殴りあうのが僕らだからな」
「そんな物騒な関係があるか!!」
どこか遠くでくしゃみが二つ響いた。
「で、なにが、あれ、これ、それ、なんだい?」
霖之助は怒鳴りすぎて、それでも笑顔のまま息を整えている男に続きを促した。
男は頭を乱暴に掻き毟って
「ん、やっぱな。ここは――お前の居る場所は、どうにも落ち着く……ってな」
やはり笑顔でそう言った。
霖之助は何も応えず、ただ鉛色の重そうな雲眺めているだけだった。
しとしと、しとしと
からり、ころり
■ ■ ■
暑さに気だるさをおされながら、小さく鳴る風鈴の音を聞きながら、霖之助は本を読んでいた。ふと、本から目を離し、隣を見ると。
「よぅ」
「あぁ、居たのかい」
男が暇そうな顔で、それでも笑顔であぐらをかいてた。
「で、何を読んでるんだ? 俺を無視するほど面白いのか?」
「君とこの本では、面白さの方向が違うだろけれど……まぁ、なかなかに面白いよ」
「ほー……で、なんだ? 抱腹絶倒か? お涙頂戴か? 冒険活劇か?」
「伊勢の露、だ。……お涙頂戴、になるのかな、これは?」
「微妙だよな……あれ」
「思うこと、感じることは多々あるけどね」
男は霖之助を顔を眺め、浮かんでいた笑みを一層強くした。
「なんだい?」
「いや、なにもねぇよ? 別に本を読んで鳴いたり笑ったりしてるお前を想像して楽しんでるわけじゃ、ない。あぁ、うん」
「ちょっと待っていると良い。そこの棚の上に丁度良い本があってね」
「へー……っておい、なんかその本やたら分厚いな」
「あぁ、丁度良いだろう? 君の頭頂部を叩くには、実に御誂え向きだ」
「それは本の用途じゃねぇだろ」
「利便性こそが領域を拡張していくんだ。一つの進化だろう?」
「鈍器扱いは退化だろ」
「知識とは、暴力さ」
霖之助はにこやかに、本当ににこやかに微笑み、知識の書き記された鈍器を振り上げた。
からり、ころり
どごす、ばたん
■ ■ ■
茹だるほどに暑い日差しと、温い風の中で風鈴がゆらりゆらりと泳ぎ、からりころりと音を響かせる。
「うあー……あちぃー……水、水くれ」
「あぁ、奥に井戸から汲んだばかりの冷えた水があるよ」
「おー、ありがてー」
「一滴だけな」
「お前死ね! 箪笥の角に小指ぶつけた後転がった先にあったちゃぶ台の足に鼻の下強打して死ね!!」
「かなり難しいと思うね、それ」
じーじーと鳴く蝉の声を聞きながら、霖之助は団扇を片手に軒先で生い茂った雑草を見たまま、男に応えた。
「あー……生き返った」
確りと湯飲み三杯分の冷たい水を飲み、男は額に浮かぶ汗を袖で乱暴に拭った。
「それは良いけどね、君、大丈夫なのかい?」
「大丈夫大丈夫。ちゃんとまいて来たし、大丈夫だって」
「……まぁ、程々にね」
「おう、程々に遊んで程々に食って程々に寝てるから大丈夫だ」
「仕事も程々にしろ。そんなだから、君は家の人間に追われるんだ」
「大丈夫大丈夫」
「根拠はどこにあるんだ」
「あいつらが俺を大事に思ってるのは、知ってるからな。蝶よ、花よ、ってなもんさ。あぁ、籠と鉢の中だけで生きろたって、俺には足も頭もあるってのに、自由を奪われちゃ敵わんぜ」
常に浮かんでいる笑顔を消して、男は忌々しそうに空を眺めながらそう呟いた。
「……友人から良い素麺を貰ってね。量が多いんだ、これが。君さえよければ用意するが……どうする?」
「お、じゃあ俺も手伝おうか」
「素麺は、食うのは涼しいけど作るのは熱いが?」
「任せた。俺ここで待ってる、頑張れ、応援してる」
「……君ねぇ」
霖之助は、笑顔戻った男を軽くにらんでから立ち上がって台所へ向かい、素麺を茹でる為の火を用意した。自分一人だけ熱いのは嫌だったが、
――あぁ、あいつはあれで良い。
そう思った。
――笑顔であれば良い。
そう思えた。暑い日は思考を鈍らせる。
けれども、心は確かに何かを浸透させていた。
ぐつぐつ、ぐつぐつ
ころり、からり
■ ■ ■
降るとも降らぬともとれる曇り空の下、僅かに揺れる風鈴の懈怠な音を耳に、霖之助は生い茂った雑草をそろそろ刈るべきかと思いながら口を開いた。
「君は、他者との距離の取り方が、実に下手だ」
「お前に言われると重症みたいで嫌だ」
「確かに、僕もそう距離を測ることが上手いと言う訳でもない。けれどね、君。あぁ、そこで不貞腐れてる良い大人の君。そう、そこで今畳の上に指でのの字を大量に書いている君だ。畳が傷むから程々にしておいてくれ。君だ。不思議そうな顔をするな。僕は君ほどじゃあないんだ。いきなり出会った僕の友人に求愛した君ほどでは、決してないんだ」
「普通するだろう、あんな美人」
「美人ではあるだろうけれどね、普通は初対面で求愛なぞしないだろうし、君は大事な事を忘れている」
「んー?」
「彼女は、僕の"古くからの友人"だ。意味が分かるだろう」
「……いいや?」
きょとん、とした顔で首を傾げる男に、霖之助は困った顔になった。
「僕が言えた事ではないんだろうが、言わせて貰うよ。君はもっと危機感を持つべきだ。
君は、人間で……僕らは、外側の存在だ」
「霖之助、それはおかしい」
背を伸ばし、子を叱るような態度で向かい合う霖之助に、男はあぐらをかいたまま口の動くまま思うまま言葉を返した。
「お前の友人相手に、なんで俺が危機感なんてもん持たなくちゃいかんの?」
自然体で。さらりと。
霖之助は一瞬全てを忘れ、数秒ほど何もかもを遮断して空白の中に身を置いた。
そして、肩を震わせ顔を俯かせ――
「……これは……参ったな」
痙攣する表情筋を覆い隠すように、右手で顔の全てを覆って――
「……く、くくく」
笑った。
「? なんだ、いきなり。壊れたか? 医者呼ぶか?」
「くく……実に失敬だよ、君って奴は」
「よく言われる、家の外で」
「あぁ、君はこの僕の……君の家以外の僕の家に勝手上がり込んできた時も、たいがい失礼だったよな。くくく……」
「だって、さっさと仕上げろって追って来るんだぜ? あれも大事だって事は理解してるけどよぅ。俺もっと遊びてーしー。まさか他人の家に上がりこむとは、お釈迦様でも思うまい、ってな」
二人は顔を見合わせ、意味も無く笑った。
けたけた、くすくす
からり、ころり
■ ■ ■
珍しく涼しい風の吹く夕刻、赤い色に染まったまま凪ぐ風鈴の音を聞きながら、霖之助は我等こそが庭の主と主張する雑草を眺めたまま、熱いお茶をゆっくりと嚥下していた。
「……行ったか?」
「あぁ、帰ったね」
その霖之助の背後から、男が辺りを見回しながら出てきた。
「あぁもう、しつこい。五月蝿い。しんどい。煩わしい。あとちょっとだからって、強制されたら敵わんぜよ」
「君が悪い」
「気味が悪い」
「あぁ、大の大人が男の背後に隠れるなんて、実にきみが悪い」
「いや、あすこの箪笥の陰に隠れてたけど?」
「そういう事じゃあないよ。分かって言っているだろう、君」
息を吐いて首を軽く横に振る霖之助の肩をぽんぽんと叩きながら、男は笑う。
「頼りにされてるんだ、誇れって。よ、大将。幻想郷一! 色男! 憎いね! 霖之助!」
「狐矢だ。しかも一発たりとて当たりはしない」
「狐矢とも言えねぇじゃねぇか、それ」
「あぁ、君の放つ矢なんて、そんな物だよ。まぐれでも、当たらない。君はなんて業が深いんだ」「どんだけ出るんだ、言葉」
「君が相手なら、僕は何を言っても言いのだよ」
「じゃあ優しく囁いてくれ」
「ほぅ、そんな事を所望するのかい?」
「……気味が悪い」
「僕もだよ」
二人は同時に肩をすくめて、苦笑を浮かべた。
湯飲みの中はもう空っぽだった。代わりに、何かは満たされていた。
からり、からり
■ ■ ■
落ちて、昇って、過ぎて、流れて。緩やかに、穏やかに、嫋やかに、健やかに。
すれ違い、行き違い、生き違い、それでも全ては巡り廻って恵まれて。
やがて時は枯れて行く。或いは、水を遣り過ぎた花の様に、腐っていく。
「書き終わった」
終わり。
「……そうかい」
終わり。
「もう、儀式の用意をしてる」
終わり。
「……そうかい」
終わり。
「……霖之助」
「……なんだい?」
「じゃ、またな」
「……」
終わり。
風鈴は、何も語らなかった
空白が続く。霖之助にとって、空白が続く。
故に記す事は無く、歯車の廻る世界は、その音だけで何も無い。
感情も、時間も。
交わりも、絆も。
空白が、続く。
雑草が風に揺れているのに、風鈴は何も語らなかった
その雑草も、いつしか枯れて失せていた。
歯車の回る世界で。歯車だけが回る世界で。ただの螺子でしかない霖之助は、歯車だけの世界では誰とも噛み合えず、一人在り続けた。
真っ白に。
■ ■ ■
――
――
心がどこにあるか。
等と言う事は、もう随分と前から知識人達や暇人、趣味人達の間で論議されてきた事だ。
胸を打つ。都合の良い物だけを集めた雑音の無い箱庭、産声も上げないまま溶けて消え行く命、黒一色で塗りつぶされた夜、凪いで尚音を鳴らさない風鈴。それらは、好悪の差はあれど人の胸を打つ。
ならば心は胸にあるのだろうか。
――いいや、心は。
霖之助自身の中では、とうの昔に答えの出ている事だ。
彼は住まう小さな何も無いあばら屋の軒先で、何も無い庭をただ眺め続けた。
「……もし」
そこに、影がさした。
霖之助は視線を横へと移し、その影と声の主を見る。
「……」
女が一人。
上質の着物を着た、物憂げな、儚い空気を纏った女が居た。
『ちょっと隠れさせてくれ!!』
――違う。
霖之助の脳裏に、かつての友人――親友の顔が鮮明に思い出された。
「もし」
女が再度、声を出した。顔には、夏の日の日陰を思わせる内向的な笑みが浮かんでいる。
『任せた。俺ここで待ってる、頑張れ、応援してる』
――違う。
その笑顔と、違う。
霖之助は、なるほどと思い腰を上げ、女の居る方へと歩いていく。
一歩、二歩、三歩。徐々に二人の距離は近づき、女の足元にある伸びた影が霖之助の足に踏まれ――
「……え?」
霖之助は、そのまま横を通り過ぎた。
呆然とする女をそのままに、彼はそのまま歩み去ろうとし。ふと、何か思い出したかのように立ち止まり振り返った。
「……風鈴」
「え?」
「あすこにある風鈴、もし要るなら持って行くと良い」
「あ…………え?」
そのまま、また歩き。
去った。
――違う。
『じゃ、またな』
その声とは、違いすぎる。
違う、違い、違って。
誓う、誓い、誓って。
――別の人物だ。
もう、再会を誓った親友は、何処にも居ない。
だからそう、彼はそのまま歩み去る。例え背後から何か声が聞こえても。例え背後から何か音が聞こえても。その音が、何かを振りかぶり――
「……」
霖之助は、後ろに振り返った。彼の足元には、あの家の軒先に吊るしていた風鈴が転がっている。そして、後頭部には僅かな痛みがあった。
見れば女が一人、少し向こうで肩で息をしながら彼を睨んでいた。どうやら、これを投げたらしい。
「……風鈴の使い方、間違っていやしないかい?」
「利便性こそが領域を拡張していくんです。一つの進化じゃないですか」
「道具に対する冒涜だ」
「貴方にだけは言われたくないような気がします」
「……そうかい」
霖之助は足元に転がる風鈴を手に取り、指で弾いた。
からり
音が確かに響いた。どうやら、風鈴は再び自身の役割を思い出したらしい。
くすりと一つ笑いを零し、霖之助は女と向き合った。
「僕の事を、覚えていたのかな?」
「……いいえ」
女は頭を横に振って、小さな声で呟いた。
「……先代の日記に、貴方の事が書かれていました。もしこれを見たら、出来るなら……可能ならば」
「ならば?」
「おちょくって来い、と」
「君達は、生き急いでいるようにも、暇人にも思えるね」
「見つけたの最近です。ですから、そう暇人でもありませんよ」
女は霖之助に歩み寄り、目の前で立ち止まり手の平を彼に向けた。
「……?」
「返して下さい。それはもう、私が貰ったものですよ」
「……おちょくりに来たんだね」
「まさか。私、暇人じゃないですよ」
からりころりと音を奏でる風鈴を、霖之助は女の手の平に置いた。女はそれを満足そうに微笑み、霖之助を見上げた。日陰のような匂いがする癖に、良く見れば瞳にだけは好奇心が詰まった笑みだった。
「暇人と言うのは、多分貴方の様な人の事です」
「どうしてかな?」
「待っていたのでしょう?」
「……あぁ、待っていた」
「とても、暇人です」
「あぁ、待っていたんだ。君以外を」
「……そう、ですね。私は、先代ではありませんから」
笑みが消え、女が持つ独特な日陰の空気が強くなる。
霖之助は一つ咳を払い、口を開いて言葉を紡いだ。
「あぁ、あいつは嘘つきで薄情者だ。どうやら、もう会えないらしい。だから君、暇人の相手をしてくれないか?」
「……え?」
目を大きく開いて、女は霖之助を見上げる。女が見た霖之助の顔には、薄く笑みが浮かんでいた。
「暇人でね。友人を募集中なんだ。こんな形でも寂しい時も、まぁあってね。僕は霖之助だ。君の名前を教えてくれないか?」
まずはそこから。
「わ、私は……阿――」
そして、そこから。
風鈴は二人の間でゆらゆらと揺れ、その音色を奏でる。
からり、ころり
「私、頑張って霖之助さんの事おちょくりますから!」
「それは必要ない」
ころり、からり
その友人関係がいつまで続いたかは、誰も知らない。知る必要など、無いことだ。
当人達、以外は。
――了
☆後日談もどき
「で……ここに入るまでどれだけ懊悩されたんでしょうか?」
「……」
ある日、大きなお屋敷で男と女が向かい合って言葉を交わしていた。
「蝉の事が聞きたい。なるほど、先代と先々代の日記から知った、実に貴方らしい行動だと思いますが。さて、ここに来るまでどれだけ懊悩されました?」
「……」
「喋らないと、教えませんよ。今後も何か邪魔しますよ。色々とこねを使って色々しますよ?」
「あぁ、忌々しい」
「いきなりなんですか、失礼な」
「忌々しい、実に忌々しい。君の言っていることがただの絵空事や性質の悪い妄想なら僕も鼻で笑えた物を。それが事実だから尚の事忌々しい、本当に忌々しい」
「貴方を玩具にする事も、我が家の決まりですので」
「そんな決まりはない」
「いえ、先代と先々代がちゃんと決まりとしましたので」
「こんな家潰れてしまえ」
「あぁ、先代、貴方の思い人はなんと薄情な人でしょうか。こんな人を我が背、等と書きしたためたなんて、なんて可哀想な先代」
「いや、待て」
「なんでしょう?」
「……君は、どこまで?」
「……さぁ?」
「……」
「恋文は、ちゃんと処分しておくべきでしたね。それと、処分もさせておくべきでしたね」
「あぁ、忌々しい、忌々しい!!」
そんな日があっても、多分良い。