香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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BonusTrack

「……あれ?」

 

 自身の部屋に在る棚の引き出しを開けて、アリスは声を上げた。

 

「……もう少しあったと思ったのに……ないわね」

 

 引き出しの中をがさごそと漁りながら底の底まで確認し、アリスは目当ての布がない事に落胆した。引き出しを力なく押して戻し、横にあった椅子に腰を掛けため息を付く。

 腕を組み、美しい眉間に少々の皺を寄せ、窓から見える星空を睨み付ける様な目で見上げ……小さく唸った。

 

 ――こんな時間に開いている店……ないわね。

 

 考える。眉間に寄った皺を無意識のうちに右手の人差し指で揉みながら、彼女は思考を続けた。

 ――明日にするべき……なのかしら。

 

 しかしそれは惜しいと頭を横に振った。

 生物には波がある。目に見えない上に、酷くあやふやで、天運等とも呼ばれているような波が、だ。何をしても上手くいかない日、普段にはない冴えを見せる日。

 そういった、不確かな、けれども確かに在る納得の行かない物。アリスにとって今はその後者が来ている日だ。このまま何もせず朝になるのを待つのは、余りに勿体無い事だと彼女は思えた。

 

 ――えっと……カーテンとか、一枚取っ払って使う? それか……要らない服を解いて……

 

 余り現実的な解決策ではない。それに、今家に在るカーテンは全てアリスのお気に入りだ。服にしても、愛着がある物しかない。

 

 ――じゃあ、店でなければどう?

 

 アリスは突如降ってわいてきた自身の考えに、おかしな話ではあるがその手があったかと感心し、ならばと交流のある面子をピックアップし始めた。一番近いのは魔理沙の家。

 だが、あの彼女の家にアリスの今求める物があるとは思えなかった。持って行かれた本や道具なら在るが、今はそれも保留していい。一時的に、ではあるが。いつかは返して貰うぞ、今度はいつもみたいに何も返してもらわないまま帰らないぞ、等と自分に言い聞かせ、アリスは候補者の選出を再開した。

 

 一人、二人と脳裏をよぎり、いやそいつは無理だろ、こいつは持ってないだろう、と一人脳内会議を30分ほど続け……

 

「……なんでよ」

 

 一人もかすらなかった事に軽い驚きと眩暈を覚えた。アリスの交友関係にある存在達は、アリス同様容姿に優れた少女達である。ならアリスの今求める物、服用の布を持っていてなんらおかしい事はない。むしろ持っていて良い筈だ。

 だのに、誰一人として当たらなかった。

 

「花嫁修業の一つでしょう……裁縫とか……」

 

 額に手をあて項垂れるアリスの背は、どうしようもなく煤けていた。

 この時代、というよりは、幻想郷に未だ残る明治――厳密には明治初期辺り――の風習ではあるが、服というのは多少の差はあれ家庭で用意するものだ。ここ数年で定着し始めた洋装等は服屋で買う事も在るが、幻想郷で多く着用される普段着の和服というのは、家庭で作られるものである。

 呉服屋で洒落た小袖や訪問着等を作って貰うというのもあるが、作業服も兼ねている普段着は各々が用意するのが基本である。ある筈なのだが……

 

「嫁に行くつもりがないのかしら、皆……」

 

 背を煤けさせたまま呟くアリスの周囲には、そういった事に無頓着な女性が多い。皆外見は兎も角、たいがい良い歳をしている筈なのに。友人の二人ほどはろくに裁縫もしない理由が分かっているので、服用の布が無いのは仕方ない事かも知れない。アリスは背を丸め、弱々しく首を横に振った。

 

 ――上げ膳下げ膳、ですものね。

 

 そんな物は花嫁修業には実に不要なものだ。むしろその上げ膳下げ膳のやり方も学ぶのが花嫁修業である。だと言うのに、だ。

 

「あの店主も、なんのかんの言って食事を用意してあげたり、服とか作ったり――」

 

 件の店主とは親しい仲ではないが、魔理沙と言う共通の友人を持つ為か、どうしても情報が入ってくる。服の事や、メンテナンスの事や、食事の事。

 アリスは、脳裏に浮かんだ眼鏡をかけた昼行灯に愚痴を零し。そのまま、全ての動きを止めた。

 

「あぁ……」

 

 額に当てていた、ひやりと冷たい右手の手のひらをゆっくりと離し、その手のひらをもう一度額に当てる。当てた、と言うよりは打った、と言った方が正しいだろうか。

 ぴしゃりと鳴ったその音が合図になったのか、アリスは腰を預けていた椅子から急に立ち上がり、テーブルに置いていたケープを乱暴に引き寄せ、それを走ったまま肩に"のせ"、ドアノブに手をかけた。ずり落ちようとするケープを左手でかき抱き、その勢いのままドアを開けて……アリスは助走をつけて飛んでいった。

 その一部始終を見ていた人形達の顔が、普段と変わらないのに、どこか苦笑いしているように見えるのは……多分、気のせいなのだ。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 幸いと言うべきだろう。

 アリスが急ぎ飛んで向かったその先、目当ての場所の窓からは、まだ明かりが細々と漏れていた。

 彼女は顔に喜色を浮かべ速度を上げる。恐らく、と言うよりはまず間違いなく、向かう先には服用の布があると彼女は確信した。いつ来るとも知れぬ霊夢の無茶な要望、つまりは編め、繕え、等と言う横暴さに対処する為には、常にある程度余裕を持って布を保管している筈なのだ。

 あの巫女服用の布なら白と赤しかなさそうだが、この際は色はどうでも良い。

 それを売ってくれと頼めば、一応相手も商売人だ。売ってくれるだろうと彼女は確信していた。ここ最近には無かった、久々に来た調子の良い日だ。色がどうだこうだ位は無視して、兎に角創作意欲のまま造るべきではないか。

 

 ――そうよ、今はまずそれよね。

 

 彼女は心の中で満足気に呟き、その姿に相応しく綺麗に着地し、目の前にある建物――古道具屋香霖堂のドアをやや乱暴に叩いた。この店の主は長考の果て思考の殻に閉じこもってしまいがちな存在であるから、夜分であっても明確に音を出さなければいけないからだ。

 

「夜分すいません、もし、もし」

 

 それでも声は荒げる事はない。この辺り、彼女の良識的な一面が良く出ていた。

 この店の店主とそう付き合いのないアリスは、魔理沙の様にいきなりドアを開けて入るなど出来ない。いや、例えある程度仲が良かろうと、彼女はそういった、どちらかと言えば非常識に分類されるような事全般が出来ない性分だった。

 

 返事を待つ事約20秒。

 今の彼女にとっては少々長い時間である。もう一度ノックし、彼女は口を開く。

 

「森近さん、アリス・マーガトロイドです。開けて貰えませんか?」

 

 返事は、やはりない。

 このまま帰るべきかとも思ったが、試しに押したドアはなんの抵抗もなく、軋みを上げて徐々に開いていく。

 

「……」

 

 眉を顰め、息を呑み、逡巡し……一つばかり頷いて。アリスは決めた。

 

「……お邪魔します……よ?」

 

 褒められた事ではないだろうが、とりあえず入ってみようと。

 

 カウベルの音が小さく鳴り響き、薄ぼんやりとした店内がアリスの目に入ってきた。特に変わりない、と言えるほど足しげく通っているわけでもないが、やはり変わりの無い店内。

 

 ――まぁ、本当は違っているとしても、私には分からないか。

 

 彼女、アリス・マーガトロイドは、この香霖堂と呼ばれる店にとっては稀に来る程度の客でしかない。理由は二つほど。

 

 一つ目。

 魔理沙に連れられて来店した回数が四回、そのうち、店主が座っていた席から離れた事1回、本を読んでいた事2回。顔を上げて挨拶する事1回。

 最悪である。接客が、最悪である。

 やる気のやの字も見えないのだ、この店の店主は。趣味でやっていると言うのは、アリスも霊夢や魔理沙から聞いている。だが、だからといって接客を、業務を疎かにして良い理由にはならない。一人の大人が店を持って開いているのだから、もう少し責任をもって真面目にやるべきだと彼女は思ったのだ。

 

 そして、二つ目。

 この店、品揃えがその時々で全く違うのだ。

 裁縫に使う道具が常にあるのなら、彼女は前記した理由などそっちのけてやって来るだろう。彼女の家からは近く、恐らく魔理沙の友人である事から、雀の涙ほどでも"勉強"もあるだろう。

 ほんの少しでも、安いに越したことは無い。が、一々顔を出さなければどんな商品が、どの様に置かれているかも分からない煩雑とした店は、彼女にとって良い店ではないのだ。値が張っても、遠くても、いつも同じ商品がきちんと整頓され並んでいる店のほうが、彼女の性には合っていた。

 

 そういった店は大抵店員の教育も行き届いているから、表面上だけでも笑顔やそれに準ずる感情で買い物が出来る。少なくとも、椅子に座ったまま無愛想に接客をする店員よりは、マシだろう。

 

 つまりは、彼女からすればそう魅力的に見える店ではない、と言う事である。

 

 値札もなく、ただ置かれているような、用途不明の古道具達。少し埃臭い、彼女の家とは比べる事自体間違っている、そんな雑な店内。それらを見回しながら、アリスは足をおずおずと進める。

 

 明かりが灯っている以上、この店の主はどこかにいる筈である。扉には鍵も掛けられておらず、明かりも灯ったまま。

 この幻想郷が昔に比べて平和になったといっても、これは無用心に過ぎる。夜に蠢く危険な生き物が消えたわけでもないのだ。だから、普通に考えれば。考えれば、店主はここに居る筈なのだ。

 

 なにがしかの防衛手段を携えて。

 なのだが、どうにもその姿が見えない。

 

 ――もしかして、軽く外出……とかかしら?

 

 在り得ない訳ではない。

 今の彼女の様に、僅かばかりの外出であれば鍵もかけず、明かりも消さず出る事もあるだろう。

 

「……あぁ、ついてない」

 

 肩を落とし、踵を返そうとしたその時。彼女はそれを視界におさめてしまった。

 

 足。青いズボンと、足。

 それが、外の世界の大きな道具の向こうに見えた。

 

「……」

 

 結論だけ言ってしまえば。彼女はこの日、そのまま朝が来るのを待って他の店に行くべきだった。そうすれば、平穏で退屈でも、平坦な、いつも通りの日常を満喫できたのだ。

 

「……え?」

 

 所詮、調子の良い日が在ろうとも。その不鮮明な運勢とやら自体が良いという訳では、ない。

 何せそれを運んでくる天というあやふやなモノは、意地が悪いのだから。

 

 

 

 

『BonusTrack:少女の見た贋物風景』

 

 

 

 

 体を包む倦怠感と、額に心地良い冷たさを感じ、霖之助は目を覚ました。自分がどこで、何をしているかを考えるよりも先に、まず体は"起きようと"したが、満足に動かない。

 

「そのままじっとしていなさい、霖之助」

「……せん……せい?」

 

 目の前にはかつて幼かった霖之助のわがままに振り回されながらも教鞭を振るった銀髪の女性、八意永琳の顔があり、その横には魔理沙の友人、アリス――

 

 ――……あぁー……なんだったか……アリス……アリス……ま、まー……まが……。

 

 アリス何某という少女の顔があった。どうやら霖之助、アリスのフルネームまでは覚えていないようである。片手で足る程度の顔合わせでは、仕方ない事かも知れない。

 

 ――この際は、彼女の名前はどうでも良い。

 

 当人が聞けば気を悪くするだろう言葉を心の中で呟き、霖之助は目下の問題に取り組む事にした。問題は、何故永琳が自分の額にその美しい手を当て、何故アリスが自分の私室に座って居るのか、何故二人は自分の顔をどこか心配げに見下ろしているのか、そして何故、店内の清掃――自己申告――をしていた自分が、今こうして布団に伏せて居るのか、という事である。

 

「その顔、随分久しぶりね。分からない、って顔でしょう?」

「……まさか」

 

 素直にそうだと言えば問題は今すぐにでも解決するのだが、霖之助の妙に高いプライドが、脊髄反射でそんな言葉を吐き出させた。諸事情により脳が役目を放棄している事も、原因の一つでは、あるが。

 

 それまで浮かんでいた表情を一変させ、自身を見下ろす永琳の顔に徐々に現れてくる、なんとも言えない、背中に妙な寒気が走る笑顔に絶妙なほどの赤い色と懐かしさを感じながら、霖之助はいまいち思考の纏まらない熱い頭を乱暴に振って、額に乗せられていた永琳の手を振り払った。

 払われた手を、見る者に感嘆のため息を吐かせるだろう見事に為された正座、その美しく閉じられた膝の上に落とし、永琳は霖之助曰くの"なんとも言えない笑顔"を尚一層深かめた。横で同じく正座していたアリスが、無言のまま2cm程引いたのは、つまりは笑顔の性質がそういう物だと言う事である。

 永琳はそんな笑顔のまま、じっと霖之助を見下ろし、楽しげに口を開いた。

 

「なら、現状を言い当てなさい」

「……」

「あら、分からない訳ではないのでしょう?」

「……」

「霖之助、早く答えなさいな、ほら」

「……く」

 

 先程自分の手を振り落とされた腹いせか、それとも単にそれが面白いのか。永琳は口惜しげに呻く霖之助の額をぺちぺちと叩きながら、早く片手落ちの、素っ頓狂で、頓珍漢な答えを言えと催促する。じゃれる様なその姿は、本来ならそれなりに微笑ましい物ではあるのだろうが、永琳の顔に浮かぶ言い知れぬ何かが、得も言われぬ恐怖をこの狭い空間に撒き散らしていた。

 しかも極めて濃厚に。

 

「……」

 

 アリスが正座のまま更に2cm程後退したのは、だから仕方のない事なのだ。

 

 さて、子供が見たら泣いて親の元に我も忘れて走っていきそうな空間で見詰め合う、と言うよりは睨み合う二人と、そんな二人から距離を取って少しばかり震える少女の耳に、大きな音が入り込んできた。続いて、普段の懈怠な音など何かの冗談ではないかと思えるほどの、馬鹿馬鹿しい位盛大に鳴るカウベルの音が鳴り響く。その大音量に紛れて、どたどたという足音が二つ。

 

「な、何? なんなのこれ?」

「……」

「……」

 

 何事かときょろきょろ辺りを見回すアリスを端に、霖之助と永琳は睨み合ったまま、無言で同時に頷いた。

 

 永琳はナースキャップらしき物から耳栓を出し、それを自分の耳に確りと詰めた後、両手で満足に動く事も出来ない霖之助の耳を強めに塞いだ。眼前で突如行われた奇行にアリスは戸惑い、永琳に目で問うた。

 何事か、と。

 アリスのその目が言わんとする事を察した永琳は、至極真面目な顔のまま、小さく呟いた。

 

「耳を塞いで置きなさい。じゃないと、暫らく耳鳴りに悩まされるわよ」

 

 しかし、その忠告は少しばかり遅かった。

 言い終わるかどうか辺りで、霖之助の私室を塞ぐ襖は勢い良く開き放たれ、人影が二つ、転がり込んできた。

 

「霖之助、無事!?」

「兄さん、大丈夫か!?」

 

 衣を裂くような悲鳴、と言うよりは、大地を割るような絶叫を伴って。

 

 正座を崩し倒れるアリスは、がんがんと木霊する耳鳴りに悩まされながらも思った。

 

 ――どうして私、こんな目にあってるんだろう……。

 

 思ったが、なんとなく答えは彼女にも分かっていた。

 

 常識的な存在が馬鹿を見てしまうのが、この幻想郷だからである。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「……風邪?」

「そうよ、ただの風邪よ」

「……そうか、このだるさは……風邪だったのか」

「いや、兄さん。それは暢気すぎるだろう」

 

 本当に暢気である。霖之助、今朝起きた時から体を包む妙な気だるさには一応気付いていた。

いたが、それがなんであるか、彼には良く分からなかったのだ。何せ最後に風邪を引いたのはもう数十年前、まだ子供だった頃である。

 しかもかかったのは僅かに一回。少なすぎる病歴では、それが風邪だと気付くことすら出来なかった。少々調子が悪いのだろう、程度にしか思えなかったらしい。病気にかかり難いと言うのも、これはこれで考え物なのだろう。

 

 彼はそんな状態の中、一週間ぶりの店内清掃――もう一度記す。自己申告――にかかり、そのまま倒れた。

 

「でも、風邪でいきなり倒れる物なの?」

「霖之助の場合は、引いていた波が一気に来たような物よ。津波みたいにね」

 

 妹紅の疑問に、永琳は温めのお茶を飲みながら答える。その隣では、慧音が霖之助の額に水を適度に絞った手ぬぐいを乗せ、甲斐甲斐しく世話をしていた。更にそこから少し離れたところでは、アリスが耳を押さえて俯いている。

 

 最初から部屋に居た筈なのだが、アリスにやっと気付いたのか。妹紅はアリスの方を見ながら、永琳にそっと耳打ちした。

 

「……えーっと……誰?」

「貴方ねぇ……彼女は、霖之助の……大げさだろうけれど、一応の命の恩人よ?」

 

 そう、永琳の言う通り大げさではあるが、今部屋の隅で耳を押さえて呻いて居るアリスは、霖之助の命の恩人である。彼女は店内で倒れている霖之助の為に、永琳の診療所まで文字通り飛んで行き事態を告げたのだ。その後、永琳は妹紅の家にてゐを、明日の授業の為の準備をしていた慧音の寺小屋に優曇華を、それぞれ走らせ連絡を入れた。

 

 本来なら感謝されて然るべきである立場のアリスが、現実には感謝の言葉など何一つ貰わず、苦痛を与えられ、今部屋の片隅で鳴り止まない耳鳴りに悩まされ呻いている。不憫だと、哀れだとさえ永琳は思い、自身もまた為すべきことを為していない事を思い出し、妹紅に小さく呟いた。

 

「ちゃんと貴方もお礼を言いなさい。貴方は霖之助の保護者でしょう」

「うん、そうする。慧音、ちょっとこっち、こっち」

「? なんだい、母さん」

 

 身動きできない事をこれ幸いと、嫌がる兄、霖之助の髪を撫で回し、甲斐甲斐しい世話――らしい――をしていた慧音は、ちょいちょいと手のひらを縦に振って自分を招いている母、妹紅の傍に名残惜しげに寄って行った。霖之助がばれないように安堵のため息を吐いたのは、言うまでも無い。そして慧音は妹紅に耳打ちされ、なるほどと、アリスの方を見つめながら一つ頷いた。

 

 三人は一糸乱れず同時にすくっと立ち上がり、ようやく耳鳴りに慣れ始めたアリスの前に、これまた一糸乱れず正座した。

 

「……へ?」

 

 それに驚くアリス。

 なるほど、驚くだろう。耳鳴りにも慣れ始め――悲しい事だが、耳鳴りがマシに為った訳ではない――ようやっと耳から手を離し、顔を上げたら正面、左から銀髪の愛らしいが刺々しい印象を受ける少女、銀髪の美しいが冷たい印象を受ける少女、銀髪の同性から見ても妖艶な美貌を持つが胡散臭い印象を受ける女性、それら三名が身長順に整列し、正座をして自分をじっと見つめているのである。

 これからよからぬ儀式でも行われるのかと内心恐れ戦くアリスの心情を全く無視して、三人はまたも乱れず同時にアリスの手を握った。両手で。

 

 左手を妹紅の両手と慧音の左手が。

 右手を永琳の両手と慧音の右手が。

 

「……え?」

 

 唖然とするアリスを無視して、三人は、もう語るまでもないだろうが、一切の乱れなく言葉を発した。

 

「「「有難う御座いました!」」」

 

 そのまま三名は、両手をぶんぶんと縦に振り回す。当然の事だが、両手を握られているアリスの両手も、それに合わせて縦に振り回される。アリスはもう両肩に来る重みに耐えられず、どっと肩を落とし、この室内で恐らくこの脱力感を共有出来るであろう唯一の存在、伏している霖之助に呟いた。

 

「……なに、これ?」

「すまない……うちの家族と先生は……ちょっと独特でね……」

 

 慧音に散々撫で回され、ぐしゃぐしゃに為った髪もそのままに、霖之助は苦笑を浮かべ答えになっていない答えを返した。そんな霖之助の苦笑につられたのか、未だ両手を握ったまま感謝の言葉を述べ続ける三名に、アリスも苦笑を浮かべ……霖之助が言う家族と先生の顔を見ながら、そっとため息を吐いて――

 

「変な家族ね……――家族!?」

 

 驚いた。

 

「あぁ、姉と妹だよ」

「母と兄だよ」

「娘と弟よ」

「いや、おかしい! 今物凄いおかしい家族構成口にしたでしょ!?」

 

 大層驚いた。

 

 そんな反応にも慣れたもので、霖之助は苦笑のまま、熱でぶれる視界の中で各々動き回る女性達を眺めていた。これが、彼女と、某一家+1の付き合いの始点である。やはり彼女は、あのまま家で朝が来るのを待っているべきだったのだ。

 もっとも。

 

 後の彼女、アリスがこの日の事を語る事があるのならば。どう応えるかは、分からないかもしれない。

 ただ、疲れた顔で語ることだけは、間違いないだろう。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 からっと晴れたある夏の日、香霖堂の草臥れたカウベルが客の来訪を告げた。

 

「霖之助さん、新しい布入荷してる?」

「お、また来たな、まー……まーが……まが?」

「あぁ、入荷しているよ。それと、外の世界の服もね」

「あ、それも見せて貰えないかしら。あとそこの姉母、いい加減名前くらい覚えなさいよ」

「横文字なんて覚え難いって。なぁ霖之助?」

 

 入ってきたのは新たな常連客、アリス。迎えたのは香霖堂店主霖之助と、その姉妹紅である。

 アリスは布を吟味しながらテーブルでぐでっと伸びている妹紅に話しかける。

 

「日本語だって横文字在るでしょう。看板とか、漢字を横に書いてたじゃない、昔」

「……そっちの名前、覚え難い」

「長く生きているなら、それくらい覚えなさいよね」

「長く生きているから覚えないんだよ。一々覚えてられないってば」

 

 悪態をつき合う二人をよそに、霖之助は奥へと向かって歩いていく。その際、霖之助はアリスに聞いた。

 

「で、今日は外、どんな物だい?」

「暑いわよ……風もないし、酷い物よね」

「じゃあ家に篭ってれば良いのに」

「気が滅入るわよ、っていうか、貴方火を使うんでしょう? なんでのびてるのよ」

「熱いの使うからって、暑いのに強いわけじゃないでしょ。あんただって、人形使うけど人形ぶつけられたら痛いでしょうが」

「誰だって痛いわよ」

 

 店内の奥から聞こえてくる霖之助の噛み殺した笑い声から察するに、この妹紅とアリスのやり取りは日常の物であるらしい。

 あの日、アリスが倒れていた霖之助を助けてから、この店の風景が変わり始めた。

 

 まず、自分の為に時間を割いて、更には姉と妹と師に、霖之助主観では弄られてしまった彼女の為に、彼は稀に外から流れ着く最高級の布を礼として出した。これにはアリスも驚いた。

 何せそうは無い上質の布であり、霖之助の保存方法が良かったのか、状態も良好だった。これを上質の布だと理解していた霖之助の目利きにも、彼女は軽く驚いた訳だが。

 そして更に。普段は表に出さない、外の世界の進んだ技術で繕われた服まで、霖之助は出した。幻想郷に流れ着くのは型落ちしたものではあるが、かつての最流行品であり、その質までが落ちているわけではない。流行遅れではあるだろうが、時代の流れの外にあるこの場所ではそんな物どうでも良い事だ。

 技術と言うのは基本的になんであれ進化する。そういった物に触れる事が出来たとき、その技術を用いる創作を趣としている存在がどう感じるか、言うまでも無いだろう。

 驚き、妬み、悔やみ、嘆き、目に静かに揺らめく蒼い炎を宿し、目指すのだ。遥か高みであっても、遠い異国の空であっても、それでも上を見るのだ。いつかこれを自分の手で、そして叶うならば、これ以上の物をこの手で、と。

 

 彼女は霖之助の持ってきた服を凝視した。その折り返し、縫い方、材質、用いられた技術を具に目にし、感嘆のため息を吐き、我に返って霖之助に聞いたのだ。

 

『こんな物、本当に貰っても?』

『お礼兼慰謝料だと思えば、そう安いものでもないだろう?』

 

 アリスの胸に抱かれる服と布を指差し僅かばかり微笑む霖之助の言葉に、なんとなくその通りかも、等と思いながらアリスは微笑んだ。

 

 それからと言うもの、アリスはちょくちょく香霖堂に顔を出すようになった。霖之助が気を利かせて、アリスに言われた訳でもないのに仕入先から入手した良質の布や糸、裁縫道具を優先的にアリスの為に置き、更には値段も良心的。

 それらの事実は、アリスにとって嬉しい事だった。そして、好意と言うのは意思の疎通が可能な生物同士の間にただあるだけで、十二分に潤滑油となる。実際、アリスはもう香霖堂とその店主を、悪い目では見ていないし、そんな目で見れない。

 自分の為に取り置きしてくれている店、というのは十分魅力的でもあるし、何より家から近い。外の世界の技術、試み、それらの散りばめられた価値のある服も手に入り、入らないにしても、見て、触れることの出来る店。入り浸るようになるのは、当然の結果だった。

 

「にしても……あんた、良く来るよなぁ」

 

 テーブルにだらしなく顎をのせ、だらしない姿のまま、妹紅はアリスを妙に座った目で観察する。

 

「弟さんの店が繁盛しているんだから、そんな目でにらみ付ける物じゃないと思うけれど?」

「たった一人で繁盛とか言うか」

「そのたった一人の客も来ない日があるんでしょう、ここ?」

「……」

 

 確かに、そうだ。

 妹紅が開店から閉店まで、だらだらと居座り続けた事が何度かあるが、その何度か、魔理沙と霊夢以外来なかった。しかも霊夢と魔理沙は客とは呼べない。

 稀にメイド服の少女が来た事があった位だが、それも本当に稀も稀、だ。たった一人でも、繁盛と言えるかもしれない。

 

「そういえば、此処に来るとき魔理沙も誘ったんだけど……」

「来ないだろ、あいつ」

「えぇ、貴方が居るからパス、って」

「さもありなん」

 

 テーブルに顎をのせたまま、したり顔で器用に頷く妹紅を見て、アリスはその理由がなんとなく分かったような気がした。

 

「貴方、何をしたのよ?」

「霊夢と組んでぶつかって来たから、慧音と一緒に追い返した」

「……まぁ、弾幕ごっこなら、それほど危険もないでしょうけど……」

「うんにゃ」

「?」

 

 妹紅の否定にアリスは首を傾げ、どういう事かと目で先を促した。

 

「弾幕で勝負した」

「……ごっこ、は?」

「ううん、だからちゃんと結界はって貰ってから、弾幕で勝負して、追っ払った」

 

 アリスは無言のまま額に手をあて、何やってるんだこいつらと首を横に振った。危険である。存在と言うか考え方と言うか、兎に角色々、余りにも危険である。

 

「ごっこなら負けるかもしれないけどね、"弾幕"ならまだまだ届かせないってのよ。なんせこっちは、輝夜で百六十五分割以上叩き出せるし、妖怪退治だって慧音と揃ってまだまだ第一線張ってるんだから」

 

 妹紅はけらけらと笑って言うが、その内容は極めて物騒である。

 

「まぁ私も偶に輝夜に百六十五分割以上されてるんだけどさ」

 

 しかも笑って言うような内容ではない。本当に物騒だった。色々と。

 

「姉さん、その手の話はやめた方が良い。アリスもほら、答えに困ってるじゃあないか」

 

 霖之助が布と服を腕に掛け、手にはお盆を持って戻ってきた。

 

「この程度で引くなんて、アリス何某は情けないな」

「なにがしとか言わないで。マーガトロイド、まー、が、と、ろ、い、ど!」

「ううん、無理」

「良い笑顔で! 良い笑顔で否定するとかもう! もー!」

 

 一見歳の近い少女達のじゃれ合いを横目に、霖之助はテーブルの上にお盆を置き、底に置かれていたコップを三つ、一つずつ手にとってぞれぞれの前に置いた。勿論、コップの下にはコースターが敷かれている。

 

「お、水か」

「あぁ、そこそこに冷えた水だよ」

 

 まさに喜色満面、といった顔で出された水を一気飲みする妹紅。

 姉のそんな姿に、霖之助はやれやれと頭を軽く横に振りながら、肩をすくめる。

 

「もう少し、しとやかに在った方が良いと思うね、僕は。姉さん、そんなじゃあ、いつまで経っても独り身だよ」

「霖之助とアリスしか居ないんだから、格好だ作法だなんて気にする必要ないじゃないの」

「作法だ格好だなんてのはね、姉さん。普段の所作から作られて行く物なんだよ」

 

 ぷくーっと頬を膨らませる妹紅に、霖之助は鼻で笑う。が、それらは一種のポーズだ。

 アリスから見れば、そんな妹紅を見る霖之助の瞳は優しい光を宿している。なんのかんのと、アリスがここに来る理由は前述した。

 

「それにね、姉さん。姉さん達のやった弾幕の結果、巫女服をボロボロにされた霊夢が、また僕に繕えと」

「ねーさんなにもきこえなーい」

「ようし、なら聞こえるようにするまでだ」

「こら! 頭を! 頭を掴むな霖之助!」

 

 だけど、とアリスは思う。

 本当は――

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 久方ぶりに、アリスは人里の店に顔を出していた。その隣には。

 

「あちぃー……暑すぎるだろ……ほんとに」

 

 自分の帽子を脱いで、それを団扇のようにぱたぱたとふって風を送っている魔理沙が居た。

 

「そうねぇ……霖之助さんの店なら、冷たい水もでるんだけど」

 

 今日行った店では、水も茶も出なかった。アリスがその店の上客でもないと言っても、この季節である。やはりその程度のサービスは欲しかった。

 不満げな顔でそう愚痴るアリスを、魔理沙がなんとも言えない顔で見ている。

 

「……なに、その顔?」

「なーんか、アリスの口から香霖の名前出るの多くないか? ここ最近」

 

 そうだろうか、と。

 彼女は首を傾げ、ここ数日分、自身の放った言葉をそこそこに思い出し。

 

「そうでもないんじゃないかしら?」

「……そっか。そうだよな」

 

 ははは、と渇いた声で笑う魔理沙に、アリスはなるほど、と頷いてにんまりと笑った。魔理沙の肩に手をぽんと置いて、

 

「大丈夫よ、貴方の心配するようなことは、無いから」

 言った。

 

「なんだよ、心配なんてしてないぜ」

 

 そうは言えども、そっぽを向いた魔理沙の横顔から察する限りでは、その言葉には何の説得力も無い。

 

「あの人は、友達よ」

 

 そう、友人だ。アリスは確かに、霖之助に好意を持っている。しかしそれは友人としての好意だ。

 

「……そんな心配なんてしてないからな? 本当だからな? 本当だからな?」

「はいはい」

 

 その言い方では、そんな心配をしていた事は丸分かりな訳だが、突く必要も無い。なんとなく、魔理沙が可愛いものだからこのまま頭でも撫でてみようかとアリスが思っていると、魔理沙が突如声を上げた。

 

「……あ、悪い、なんかセンサーに来た……ちょっと私こっちに行くぜ!」

「いや、センサーって貴方……」

 

 魔理沙はトップスピードでそのまま脇道に突っ込んでいく。

 

「……なんなのよ」

 

 余りに突然な出来事に呆然とするアリスの視界に、それはきっかり十秒後、ひょっこりと入ってきた。

 

「……センサー、恐るべし」

 

 もうあれは決して普通の魔法使いではない。そんな事を思いながら、アリスは近づいてくるその人物に会釈した。

 

「こんにちわ、永琳さん」

「こんにちわ、アリス」

 

 永遠亭の事実的トップ、当人曰く診療所の綺麗なお姉さん先生、魔理沙曰く香霖絶対防衛線三号、つまりは八意永琳女史である。

 

「魔理沙の姿もあった様に思えたけれど……彼女は?」

「逃げました」

「あら、ショックだわ」

 

 その顔にはショックのしの字も見えない。

 むしろとても楽しそうな顔に、アリスには見えた。

 

「どう接して良いのか分からないんじゃ……?」

「……なるほど、そうかも知れないわね」

 

 この永琳と言う女性、霖之助のかつての師である。魔理沙の持つ完成版のミニ八卦炉も、霖之助が永琳に師事して出来たものだ。しかも霖之助が逆らえない数少ない人物でもある。

 魔理沙としても、現在永琳との距離がどうにも掴めない為、一歩引いてしまうのだ。後、もう一つ理由があるとすれば……

 

「あの子、偶に私や妹紅や慧音を、羨ましそうに見るのよねぇ……」

「あー……」

 

 自分の知らない彼を知る女性達、となれば、魔理沙としては心穏やかでは居られない。まして妹と言う、滑り止めのような"安全圏"を自分が独占していると思っていたのに、ややこしいが"偽者の本物の妹"まで居たという事実。

 本当に穏やかでは居られない事だらけだ。魔理沙が聞けば怒るかもしれないが、存外、彼女は乙女をしている。

 

「良いわねぇ……あぁいうの」

「代わってあげたらどうですか」

「想う人なんて居ないわ。それに、面倒よ。愛なんて、もう面倒と言う言葉すら生温いわ」

 

 永琳の、その遠くを見るような目が、アリスにはなんとなく理解できた。この世で一番長く、それこそ、死んでも"長く"残る感情は愛だ。怒りは最も強いが、持続性に欠く。

 

「あれはね、全てを簡単に越えてしまうの」

 

 愛は際限が無い。

 

「守るべき一線も関係なく、本当に簡単に」

 

 愛は暴走する。

 

「しかも、場合によっては見返りさえ求めない」

 

 愛は無償ですらある。

 

「でも一番厄介なのは、求められる事よ。愛なんて見えない物を」

 

 それでも、与えろと言う。

 

「おまけに、ただの人間を鬼にも菩薩にもしてしまうわ……」

 

 規格外なのだ、愛なんて物は。時間全てを消費して、自身全てを消費して、それはどこへだって蔓延って行く。

 

「じゃあ、良いとか言わなくても」

「だから、面倒なのよ」

「?」

 

 何故、と口よりも語るアリスのその顔に、永琳は静かに歌った。

 

「それでも眩しくて、手の届きそうな場所で誕生石のリングみたいに光っているから……面倒なのよ」

 

 しかもね、そのリングは途中で捩じれているから、"私達"はくるくる回ってしまうのよ。

 静かに、静謐に、朝日にかき消されて行く星の光のような、そんな小さな声で呟く永琳。アリスがその日聞いたのは、謎掛けのような、そんな静かに過ぎる唄だった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 永琳と別れ、魔理沙を探していたアリスだったが、途中で暑さに辟易して茶屋に入った。

 と。

 

「あら、慧音……」

「あぁ、マーガトロイドさん」

 

 一人、テーブルで本を読みながらお茶を飲んでいる慧音に出会った。こうして出会ったのも何かの縁だと思い、アリスは

 

「相席、良いかしら?」

 

 そう申し込んだ。

 

「あぁ、私との相席でよければ、どうぞ」

 

 勿論慧音に断る理由など無い。二人はテーブルを挟んで向かい合い、アリスの為にと慧音が女給を呼んだ。とてとてとやって来る、歳若い、恐らく新人であろう少女に、アリスは冷茶と団子セット一つを注文した。緊張した面持ちのまま奥へと走っていく女給の背を見送り、慧音とアリスは会話を始める。

 

「ありがとう、慧音」

「いや、別に感謝されるような事はしてないよ、マーガトロイドさん」

「アリスで良いわよ、言い難いでしょ?」

 

 もう既に、何度も言っている事だ。慧音はどうもアリスを名で呼ばない。

あれ以来良く出会い、友人一歩前位まで付き合いのある関係なのだから、もっと気安くなっても良いとアリスは思うのだが……

 

「いや、母さんがあれだろう? 私くらいはせめて、そう呼ぶべきじゃないかと思って」

「心遣いが染み入るわ……」

 

 本当に。

 彼女、慧音の母に半分くらいでもそんな心遣いが在れば、アリスとしてはもっと良いのだが。

 

「で、今日はどんな用事で人里に?」

「うん、ちょっと小物と生活用品をね」

「あぁ、それは確かに、兄さんの店にはないね」

「あったらちょっと怖いわよ」

 

 アリスが求める小物は、ちょっと少女趣味的な物だ。生活用品、なども、少女特有の物を指すのだろう。ならそれは、香霖堂にはちょっと無いものだ。ある物なら、こんな暑い日に態々遠くの店にまで足を向ける筈もない。

 

「慧音は?」

「あぁ、私はこれだよ」

 

 持っていた本を店ながら、彼女は言う。

 

「……算数、初等編?」

「寺小屋で使おうと思ってね。本屋の主人に頼んでいたんだ」

 

 それが今日入ったと聞き、慧音はここまで来たらしい。

 

「寺小屋の先生、ねぇ……大変でしょう?」

「そうでもないよ、楽しいものさ」

 

 そんな口調と仕草に、アリスは彼女の兄を思い出してしまう。

 

「……なんていうか、良く似てると言うか」

「兄さんとかな?」

「そうそう。妹紅はあんまり似てないのにね」

「私もそう思うんだが、兄さんに言わせると、実は良く似ているそうだよ」

「……慧音と、妹紅が?」

「らしい」

 

 頷く慧音と、ちょっと考え込むアリス。

 

 ――似てるかしら?

 

 妹紅と慧音を並べ、知っている限りで二人の言動やら仕草を重ねてみる。

 

「……似てる?」

「兄さん曰く、だからね。私にはちょっと分からないかな」

 

 そう言って微笑む慧音の目元と仕草が、妹紅と重なった。

 

「あぁー、なるほど……腐っても兄か……良く見てる」

「?」

「ううん、なんでもないわ」

 

 慧音の性格がこう見えて活発なのか。妹紅があぁ見えて意外と落ち着いているのか。もしくは、両方か。兎に角、先程の笑顔は似ていた。

 

「それにしても、兄さんと言えば……兄さんは酷い人だよ」

「なに、喧嘩でもしたの?」

「いや、この前家に泊まったとき、家事を全部やってね。最後に風呂で背を流そうとしたら、凄い剣幕で怒られてしまった」

「……」

「昔は良く一緒に入っていたのに……」

「……」

 

 アリスは無言のまま、慧音の胸元や腰を見て、そりゃ無理だろと心の中で突っ込んだ。

 この少女、妹紅にも言える事だが……どうにも藤原家の女性陣、兄、弟の事となると、普段の毅然とした態度や、聡明さ、社会通念やら当然事やら常識的一面を簡単に捨ててしまう事がある。現状のように。

 

「まぁ、ほら、霖之助さんも慧音も、もう大人でしょう? 子供じゃないんだから」

「そうは言っても、兄さんが家を出てからと言うもの、兄さん分が不足しがちなんだ」

「聞いた事のない栄養素がさらっと出てきたわね……」

「私を構成する大事な栄養素なんだ。もう一つの母さん分は十分過ぎるほどに摂取しているんだが、兄さん分が不足していると、こう……なんだろうな。心に穴が一つぽっかりと開いたような、朝食にご飯が無いような……」

「貴方、可愛いわね……頭撫でてもいい?」

「駄目だ」

 

 少しばかり、慧音がアリスから離れた。

 

「いや、変な意味じゃなくて。ほら、魔理沙とかもそうだけど、猫とか思い出すのよ」

「あぁ、私に対してのは分からないが、魔理沙のそれはなんとなく分かる」

 

 と呟いて微笑を浮かべる慧音を見ていると、アリスはなんとなく、この家族の凄さを思い知らされたような気がする。長い時間、世界から見れば短く、それでも確かに長かっただろうその時間。偶然出来た絆のまま、当たり前に家族だとそれぞれが思う事が出来る様になるまで、どれだけの困難があったのか。本物の家族をもつアリスには、想像も出来ない。

 

 やがて、さきほどとは別の女給がアリスの頼んだ物を持ってきた。それをテーブルに並べ、女給は頭を下げ、奥へと戻っていく。アリスはお茶を飲みながら、そのまま慧音と会話を続けた。

 

「で、話をちょっと戻すけど。良い小物が見つからなくて……慧音、どこか良い店しらないかしら?」

「あぁ、それならこの先にある――」

 

 この意外と愛らしい友人と語らうに相応しい、少女らしい会話を。

 

 楽しいと彼女は思う。嬉しいと彼女は思う。

 だから――

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 里で魔理沙を探しては見たものの、とうとう見つからず、アリスは夜の帳の下、自宅へと続く道を歩いていた。すると。

 

「おや、アリスじゃないか」

「この一家と縁でもあるのかしら……」

「?」

 

 霖之助が前からやって来た。

 

「今日、人里で永琳さんと慧音にも会ってるのよ。それにほら、昨日は店で妹紅とも会ったでしょう?」

「あぁ、それは仕方ないさ」

「仕方ない?」

「僕らは友人同士なんだから、縁があって当たり前じゃないか」

「……あ、そっか」

 

 確かにそうだ。縁と言うのは、一度繋がれば強くなる。なら偶然会う事だって当然の事だ。

 

「ましてこの狭い幻想郷だよ。会うに困る事はないさ」

「偶にまったく会わない日もあるけれどね」

「それは休息日さ、縁の」

「神社の巫女と一緒で、いい加減ねぇ」

「神社は今、二つあるよ」

「紅白の方よ」

「あぁ、じゃあ、仕方ない」

「うん、仕方ない」

 

 顔を見合わせ、二人は意地悪げに笑った。友人同士の共感を、実に良く表した笑みだ。

 

「それで、霖之助さんはこんな時間に里へ何か用事?」

「先生の所へ、薬を貰いにね。すっかり忘れていたんだ」

「あら、ご愁傷様」

「あぁ、怒られてくるよ。しかし、先生も人里まで行っていたんなら、そのまま僕の所まで薬を運んできてくれても良いだろうに」

「師に運ばせるんじゃないわよ」

「それもそうだ」

 

 二人は軽く手を振ってそのまますれ違い、分かれた。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 アリス・マーガトロイドは、当たり前にその扉を開けた。聞きなれたカウベルの音を聞きながら、彼女は店内を歩いてく。

 

「おはよう、マーガトロイドさん」

「あら、おはよう」

「おはよう、アリス」

 

 声を掛けてきたのは、慧音、永琳、霖之助の三人。その三人が、店内から見える居住区の今で、大き目のちゃぶ台を真ん中に置き、円になって集まっていた。

 アリスは店内に留まったまま、皆に返事し、霖之助に目を合わせ口を開いた。

 

「おはよう……やっぱり、ちょっと早すぎた?」

「いや、構わないよ。アリスも、一緒にどうだい?」

「どうって……?」

「朝食よ。今妹紅が作ってるのよ」

 

 永琳が台所を指差し言う。

 

「でも……」

「大丈夫だよ、母さんは多めに作るから」

 

 それは悪い、と態度に出すアリスに、慧音は座布団を一枚出し、自分の隣に置いた。どうやら、一緒した方が良いらしい。アリスは靴を脱ぎ、居間へと上がりこんで置かれた座布団の上にちょこんと座った。

 

「でも、言っちゃ悪いけれど……妹紅って料理出来るの?」

「出来るよ」

「出来るよ」

「出来た筈よ」

 

 付き合いの長いこの三人が言うのだから、大丈夫なのだろうとアリスは胸を撫で下ろした。

 が。

 

「久しぶりだね……母さんの料理なんて。十年ぶりくらいかな?」

「いや、ちょっと待って、お願い、ちょっと待って」

 

 右の手のひらを前に出し、先程の発言者、つまり横でのほほんと料理を待っている慧音にアリスは詰め寄った。

 

「じゅ、十年振りって、何?」

「いや、兄さんが出てから、母さんは台所に立つの嫌がってしまって」

「なんでよ!?」

「うちの台所は、兄さんの聖域だったんだ……兄さん愛用の包丁や鍋を見ていると、母さんが……」

 

 駄目だ、この家族駄目だ。そんな事をアリスが思っても、それは多分仕方ないのだ。

 事実駄目だからだ。

 

「大丈夫だよ、人間体が覚えた事はそう忘れないだろう?」

 

 霖之助のその言葉で幾分救われたアリスは、気を取り直して料理を待つ事にした。隣の慧音や永琳、また正面の霖之助と雑談しながら待つ事5分……妹紅が台所からひょこっと出てきた。

 

「よーし、出来たよー……って、アリスなんたらじゃないか。おはよ」

「なんたら言うな。おはよう……その、飛び入りだけど、良いかしら?」

「? 良いに決まってるでしょ? ほら、ちゃぶ台の上に、これ置くから」

 

 と、ちょっと優しい笑顔で言う妹紅に、アリスは不覚にも感動した。のだが。

 どんと置かれた大きな皿の上には、

 

「「「「……」」」」

 

 生野菜がそのまま鎮座していた。

 

 誰も言葉を発しない。

 誰も言葉を紡がない。

 誰も言葉を出さない。

 

 アリスは代表して、口を開く事にした。妹紅にではなく、慧音に。

 

「貴方の家では、これが朝食なの?」

「いや、初めてだ」

 

 そう、と呟き、アリスは元凶に目を向けた。

 

「どういうことなの……?」

「こほん」

 

 アリスと、皆の視線が妹紅を貫くと同時に、妹紅は口元に握った右手を運び、咳を一つ払った。そして、続ける。

 

「後の朝食である」

「今食べられる物を頼みます」

 

 アリスにばっさり切られた。

 

「ボケが! 身を張ったボケが、こうもばっさり!!」

 

 身を折り、何やら口惜しげに畳を叩く妹紅の姿に、誰もがどうしようかと言う顔で互いを見ていた。と、慧音が立ち上がり、皿を取って台所へ歩いていく。

 

「まぁ、その……なんだ。私が作ってくるから」

「慧音……ごめんね、母さんのボケが不発でごめんね……」

「うん、次に頑張れば良いんだよ、母さん」

「頑張らせるな」

 

 アリスの突っ込み、絶好調である。

 

 慧音が台所へ行き、妹紅と永琳、アリスと霖之助が居間に残る。

 

「貴方ねぇ……朝からなんて事してるのよ」

「いや、だってねーさん霖之助に笑って欲しいかなーって」

「想定内だったよ」

「ならとめなさいよ、霖之助さんも!」

「姉さんの身を張ったボケを見るのも久しぶりだったんで、つい」

「いや、ついとか貴方……」

 

 疲れたように、というか事実疲れて肩を落すアリスに、永琳が優しく肩を叩いた。

 

「気をしっかり」

「医者の貴方が言うと洒落にならないです……」

 

 洒落ではないからだ。

 

「にしても……なんでまた、揃っているんですか?」

 

 アリスはそのまま、永琳になんとなく思っていた事を聞いてみた。

 

「そうね……そこの自己管理も出来ていない未熟者が心配で、と言うのが建前かしら」

 

 指を指された霖之助は、我関せずの顔で無視を決め込んでいた。

 

「……じゃあ、本音は?」

「集まれるなら、それだけで良いのよ」

 

 なるほど、とアリスは頷いた。確かに、家族に理由は要らない。家族だから、集まるのだ。

 当たり前に。

 

 そんなちょっとした茶番をやっていると、慧音が台所から戻ってきた。手には先程の大き目の皿が一つ。

 

 彼女は無言のままそれをちゃぶ台の上に置いた。

 皿の中身は、変わっていない。

 

「「「「……」」」」

 

 誰も言葉を発しない。

 誰も言葉を紡がない。

 誰も言葉を出さない。

 

 アリスはまたも代表して、口を開く事にした。慧音にではなく、永琳に。

 

「どういうことなの……?」

「さっき、妹紅が慧音に"そこでボケて"ってサインを送っていたわ」

「そんな高度な技術を無駄遣いしなくていいの! 貴方も律儀にボケなくて良いの!! あと、永琳さんも気付いていたなら止めるの!! もー! もー!!」

「慧音のボケに、薬師として興味があったの」

「薬師関係ないの!」

 

 本当に無い。

 

「すまない……私が未熟だったから……」

「ううん、慧音。いい天丼だったよ」

 

 駄目だ、こいつら本当に駄目だ。そんな事をアリスが思っても、それは多分仕方ないのだ。

 事実駄目だからだ。

 

「あぁもう良い、私がやる」

 

 生野菜のどんと盛られた皿を両手で掴み、彼女は立ち上がった。

 すると、妹紅が何やら複雑な指の動きをアリスに見せていた。なるほど、これがサインか、と思うが、これにこれ以上付き合うのは面倒だ。そも、アリスはそういう事に詳しくない。本当に詳しくない。無視していい筈なのだが……

 何故だろうか、その妹紅の目に宿る、なんとも言えない優しい光が、無視するのもどうかとアリスに思わせる。アリスは困って、皆を見回した。

 すると、皆同じ様に困った顔で微笑んでいた。

 

 その笑顔の一つ一つがアリスには得がたい宝物に見えて、彼女はなんとなく、そのまま意味も無いのに頷いてしまった。

 

 色々理由はあった。彼女がここに馴染んだ理由、それぞれと結んだ縁。

 だけど、とアリスは思う。

 本当は――本当は。

 強い何かで結ばれた存在達の中に、自分を置く事が、置ける事が嬉しかっただけの事だ。アリスには本当の母が居る。姉妹とも、友人とも言える女性達がいる。けれど、それを知って尚、この馬鹿で暖かくて無愛想で常識的で非常識な絆の中で息が出来る事が、彼女は嬉しかった。

 自分も優しくなれた様な気がして。

 

 妹紅はアリスの頷きに、にやっと笑って答える。慧音がそれを微笑む。永琳が口元を隠してくすくすと零す。霖之助が、いつか妹紅を見ていたあの優しい目で、アリスにやれやれといった顔を向けている。

 

 偽者の家族と、それを見守ってきた先生が、アリスに今与えようとしているモノ。

 だから、アリスは常識的に判断し。それを捨てるのは勿体無いと判断し。

 

「居るか妹紅ー! 慧音ー!! 今日こそ勝って義姉さんって呼んだり義妹って呼ばせてやるから覚悟しろー!!」

 

 どかんと扉を開け、何か色々暴露してしまっている魔理沙と、その後ろで面倒臭げに佇んでいる霊夢の、その二人の中間を指差し。

 

「……霖之助さんの、後の嫁である」

 

 そんな事を、言ってみた。いつか魔理沙と霊夢も、この輪の中で優しく微笑む日が来るだろうと思いながら。

 ちょっとばかり、頬を赤らめて。

 

 

 

 

――BonusTrack ...End

 

 

 

 

「な……なんだ、これ?」

「さぁ……知らないわよ」

 

 そりゃあ、分かるまい。

 今は。


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