香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

6 / 19
後編

 永琳が妹紅の家に顔を出すようになって、もう六日が過ぎた。

 あと一日。

 霖之助が永琳に弟子入りするため、妹紅を説得するようにと指定された期限が一週間。

 あと一日。

 六日が過ぎれば、あと一日しかありはしない。たったの24時間。

霖之助は自身の領域である、本が堆く積まれた自室の中央に座り込み、腕を組みながら悩んでいた。

 

 ――どうやってねえさんを説得するか。

 

 ここ数日、妹紅と顔を合わせれば場所も時間も関係なく、彼は懇願し続けている。その熱心な姿に、慧音が私も一緒にお願いしようか? 等と言ってくれたが、彼はその気持ちだけを受け取り断った。

 自身が成すべき事である。何より、これは彼を試す物だ。家族であっても、妹であっても、手を借りる訳には行かない。

 けれども、そう、けれども。

 

 この六日間、成果は一向に上がらず、思わしくない。霖之助がその話に触れた瞬間、妹紅は口を閉ざし距離を取ろうとする。何より、妹紅の不機嫌そうな顔は一層深く成って行き、それが霖之助は単純に怖い。何故不機嫌なのか、それが分からないから尚更霖之助は怖い。

 

 ――あぁ、ほんとうにどうしようか。

 

 子供らしくも無い深刻な顔で額に手をあて、彼は大きく息を吐き天井を仰ぎ見る。時間は余りに残り少なく、踏破すべき山は険しく高い。

 頂など地上からは望めぬほどに。しかも取り付く島も無いと言う、遭難プラス吹雪付きだ。

 厄介である。厄介ではあるが、説得しなければならない。

 霖之助にとって、その先にある知識の習得は必要な事なのだから。では何故そこまでして知識を求めるのかと問われれば、それは霖之助にも分からない。慧音の為、妹紅の為、自身の為と言う事もあるだろうが、彼はそれをよく理解しては居ない。居ないが、必要だと思っている事だけは理解している。

 

 だから彼は、それにも頭を悩ませる。

 欲しい物は壁の向こう、または山の上。しかし何故それを乗り越えようとするのか、そこに向かおうとするのか。彼はそれを確りと言葉に出来ないが故に、説得にも戸惑っているのが、現状である。

 

「あぁ……どうしようか」

 

 ぽつりと呟く彼の声にあわせて、襖が開く。この家の廊下はもうぼろぼろで、歩けばギシギシと五月蝿い筈なのだが、彼の耳には一切、襖を開けるまで音などしなかった。彼は少し驚き、このした方向――背に顔を向けた。

 

「霖之助」

 

 少しだけ開いた襖の向こうに、霖之助を覗き込む、彼の姉である少女の愛らしい顔がある。件の壁、または山である少女の顔が。感情の無い、少女の顔が。

 

「……ねぇさん? どうしたの?」

「……いいよ」

「え?」

 

 少女――妹紅がぽつりと零した言葉の意味が分からず、霖之助は無意識のうちに聞き返していた。

 妹紅はもう一度同じ言葉を口にする。

 

「いいよ、永琳の所に行っても」

 

 今度は、もう少し内容に触れて。

 そっぽを向いて、ぶっきらぼうに。霖之助が口を開き、感謝の言葉を紡ぐより先に、妹紅は襖を閉めて姿を消した。今度はギシギシと廊下を鳴らしながら。

 

「――ありがとう、ねえさん!」

 

 少し大きな声で、彼は言葉にする。

 その声が届く様にと。その言葉は、確かに廊下を歩く妹紅の耳に届いた。

 

「……」

 

 ただし、妹紅の心には届いて居なかった。

 

 

 

『はんぶんふたつ、えいえんひとつ』

 

 

 

 それから、時の流れは早かった。

 霖之助が永琳に弟子入りし、まず慧音の為にと医療関係の知識を学ぼうとしたが、その辺りで慧音が半獣の血を克服し始めた。これによって霖之助は薬学及び医学に興味を失い、永琳にそれ以外の知識を求めるようになった。

 

「つまり、この薬草の効能は」

「先生、これはなんでしょうか?」

「……霖之助」

「いや、その……こっちの方が気になるもので」

 

 威嚇するように見つめてくる永琳の、余りに物騒な眼にたじろぎながらも、霖之助は知的欲求を解消するべく、わがままに日々を過ごす。

 

『全てを欲しい』

 

 知識全てを欲しいと言ったのは、この少年である。だと言うのに、その少年は選り好みをするのだ。

 永琳でなくとも、これには少々頭に来るだろう。今日などは薬学の講義中である言うのに、彼は隣に置いてあった術具のカタログに目を奪われていた。

そんな霖之助の、おやつを前にした様な、少年らしい落ち着きの無さに、永琳は仕方ないかと諦めて苦笑をもらし、霖之助の質問に答える事にした。

 後で教えると言えばいいのだが、それではこの少年は動かない。常は受動的なのだが、霖之助は稀に驚くほど能動的になる。永琳に弟子入りを志願した時などもそうだ。

 こうなると、もう梃子でも動かない。

 

「それは術具の本よ」

「……じゅつ、ぐ? なんですか?」

 

 きょとんとした彼は、首をかしげながら永琳に再び問う。

 そこには普段の大人びた少年の姿などどこにも無く、あどけない子供の顔があった。本当に年相応な霖之助の姿に、永琳は少しだけ、今は彼の手の中に在るその本に感謝した。

 

 ――やっぱり、子供は子供らしくあるべきなのでしょうね。

 

「魔法、及び特殊な力を増幅、補佐する道具の総称よ。分類上錬金の世界に属するけれど、本当の"錬金"になるから、中世錬金術の様なまやかしの類ではないわ」

「……ふむ」

 

 霖之助少年は顎に手をあて、本を数頁捲り……

 

「……」

 

 それをパタンと閉じて机に置いた。

 

「それで、先生。少し質問があるんですが」

 

 興味が無い、と言う事だろう。その後彼が口にした質問とやらは、それに関係するような物ではなかった。永琳は移り気で、それでも貪欲に知識を貪る幼い生徒の姿に、やれやれと心の中だけでため息を吐いた。

 

 ――話題の飛び方は矯正すべきかもしれないわね、この子は。

 

 しかしその顔は、見守るような優しさの篭った物でしかない。わがままな生徒ではあるが、彼女自身は、それはそれで楽しんでいるのだろう。

 老成した女性が、未だ幼い少年の言葉に耳を傾けながら、時になるほどと頷き、時にそれは違うと首を横に振り、師弟としては少々おかしな時間は過ぎていった。

 いつものように。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 霖之助が、最近知り合ったてゐという少女の案内の下、帰りの道を歩きながら世間話や冗談を交え、もう案内も要らないという所でてゐと別れた頃だった。

 

「兄さん、おかえりなさい」

「あぁ、ただいま、慧音」

 

 そこに少女が一人、土で小さな山を作りながら待っていた。長く伏せていた為だろう。

 白い肌と、その年頃の少女にしては四肢が痩せている。しかしその表情は明るく、少し前まで常に彼女の顔を覆っていた影は全く無い。

 

 彼女は手を払い、何かを摘まんでから霖之助にとてとてと近づいていった。

 近寄ってきた慧音の頭を撫でながら、霖之助はいつも言っている事を今日も繰り返す。過保護な兄の顔を隠す事無く余すとこ無く、丸出しで。

 

「慧音、あまり一人で表に出ちゃあだめだよ」

「大丈夫だよ、母さんだっているじゃないか」

 

 慧音が指差した先には、妹紅の姿。慧音と霖之助のいる場所から、少し離れた場所にある自宅の縁側に腰掛けながら、妹紅はぼーっと空を見ていた。

 どこから見ても気の抜けた隙だらけの体だが、慧音に何事かあれば鬼神も真っ青な形相で突っ込んで来れるのだから、不思議な物である。そんな妹紅に、霖之助は歩み寄り声をかける。

 その姿は、先程の慧音の姿に良く似ていた。更にその後ろを、慧音が親鳥に続く雛鳥が如く追従する。

 二人で、とてとてと。

 

「ただいま、ねえさん」

「……ん、おかえり」

 

 自身に歩み寄ってくる二人の姿に、妹紅は少しだけ微笑みながら、軽く手を挙げ答える。

 

「母さん母さん」

「ん、何?」

「お山を作っていたら、土からこんなの出てきたよ」

 

 慧音は妹紅に報告する。

 右手にミミズを掴んだまま。

 

「……いや、慧音、戻してあげようね?」

「……かったら、だめなの?」

「それを!? ミミズを飼うの!?」

「だめなのかな?」

 

 慧音の指に尻尾らしき部分を摘ままれたミミズが、ぷらんぷらんと暴れる。若干引き気味な妹紅が、それは無理だからちゃんと元居た場所に戻しなさい、と言い聞かせる姿を、霖之助は声もなく笑いながら見つめていた。

 

 平和な世界だと、彼は思う。

 かつてあれ程半獣の血に苛まれ、一日を伏せたまま過ごす事すら在った少女。それが今はかくの如しだ。

 遊び相手が少ないためか、言葉遣いは若干少女らしからぬ物になってしまったが、霖之助も同じ様な境遇だったので余り気にならない。基準と言うべき世界に身を置いた事のない霖之助には、そも基準と言うものが分からないのだから。

 ただ、妹紅が『もうちょっと女の子らしい喋り方しようよ』と言うからには、少々違っているのだろうと想像できる程度だ。しかしそんな妹紅の言葉も、慧音に毎度毎度こう返される。

 

『兄さんと一緒がいい』

 

 妹紅母さん、へこんでしまう事七回、いじけてしまう事十回、不貞寝してしまう事十三回。

 実に散々な結果である。

 それでも事在れば健気に慧音女の子計画を邁進する妹紅の為にと、霖之助は妹紅の好きな一品を食事に出す。応援と言うよりは、慰めの為であるが。つまり妹紅がへこんでいじけて不貞寝する事は、霖之助の想定内と言う事だ。むしろ失敗するとしか信じていない。

 というか、もし慧音が女の子計画に乗った場合、霖之助がへこんでいじけて不貞寝する。あと一緒に洗濯嫌とか言われても、多分へこんでいじけて不貞寝する。もう一回くらい世界の全てを恨むかもしれない。

 

 平和な世界、平和な時間、平和な今だ。だから彼は怖いと思う。

 今が平和だからこそ、彼は怖い。楽しいから怖い。

 

 可能性という物がある。霖之助と同じ様な事態が、慧音にも起こる可能性がある。表に出るようになれば、当然人の目に付くだろう。

 この家に来た当初、家に篭りがちだった霖之助でさえ、人里の人間達は目敏く嗅ぎ出した。人里の異物への恐怖や拒否感、排除すべしと言うその姿勢は、まさに飢えた獣が如き執拗さとしか例えようがない。

 霖之助が知る限りでは、すでに数度、慧音は里の少年や大人に見られている。

 だから彼は怖いと思う。見られた以上、また彼ら人間は排除しようとするのではないかと。それこそ、今度はもっと大掛かりな、もっと暴力的な何かで。

 

 妖怪退治と言う札こそあれ、それもどこまで意味を持つか分かったものではない。元々口頭だけの約束であるし、人と言うのは騙す事に長けた存在だ。今は何もないからと言って、明日も何も無いとは言えない。

 事実、霖之助の日常は一度あっけなく瓦解している。だから怖い。

 彼は知っている。日常は壊れるものだと。良く理解している。

 

 あの恐怖が、いつか、いつか。

 幼い慧音の身の上にもう一度降り注ぐのかと思うと。

 幼い慧音が犠牲になるかも知れないと思うと。

 霖之助は恐怖に絡め取られ、身の全てを封じられる。この目の前にある、平和な三人だけの世界。それが奪われるかもしれないと思うと、そう思うと彼はもう無力に震える事しか出来ない。

 

 無力だからだ。何も無いからだ。

 力も、知恵も。何も少年は持っていないからだ。

 少女の兄では、ある。少女の弟では、ある。

 ただ、それだけだ。

 そんな言葉に、力も知恵も無い。本当に、ただそれだけの存在だ。

 

「大丈夫だって」

 

 霖之助の頭の上に、暖かい何かが置かれた。

 知らぬ間に俯いていた霖之助は、何事かと視界を正面に戻すと、そこには妹紅の顔があった。隣には、心配そうに霖之助をみつめる慧音の顔もある。

 

「私が……お姉ちゃんが、いるから」

 

 頭の上には、妹紅の手のひら。

 目の前には、妹紅の笑顔。

 それだけで、霖之助の内に巣食っていた恐怖は淡い朝霧の様に霧散して行く。恐怖が完全に消えた後、霖之助の心の空白に入って来たのは、無力な自分をなじる、彼自身への怒りだった。

 彼は再び俯いて、妹紅に撫でられるがままになる。俯いたが故に、霖之助には良く見えていなかった。そんな霖之助を見つめる妹紅の、微笑んでいる筈のその瞳が、悲しげに曇っていた事に。

 

 今彼を撫でるその手のひらの温もりが、安らぎを与える物だとしても。

 その人自身までもが安らかにあるかどうか。

 霖之助はやはり、まだ無知な子供に過ぎない。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 昼食の最中、里から人がやって来た。

 慌ててやって来たのだろう、支離滅裂な言葉をただ叫ぶだけのその若い男に、霖之助は水を出した。それを一気に飲み干し、少しは落ち着いたのか。若い男は少々居心地の悪そうな態度で、それでも下手に出て妹紅に語りだした。

 

 ――妖怪が、三匹出た。

 

 妹紅はそれを聞くと同時に腰を挙げ、慧音と霖之助に留守番を頼み出て行く。若い男に案内を頼んで。

 

 霖之助と慧音は心配であったが、これも里との約束であるので何も口にしなかった。ただ妹紅の言葉に頷くだけである。

 妹紅が居なくなった後、霖之助は夕食の仕込を始め、慧音は居間で霖之助のお下がりである本を読む。ぺたぺらと本を捲っても、その内容は頭に入ってこない。

 慧音が今読んでいる本は絵本のような物で、最近霖之助が永琳から渡される難しい物ではない。聡明な少女が、それを読めない訳などないのだが、どうしても本を読む事が出来なかった。慧音は本を閉じ、ほんやりと中空を眺める。胸の中には、先程ここにやって来た若い男の顔が一つ浮かんだ。

 

 三人――妹紅と霖之助と慧音を、一瞬気味悪そうな顔で見た姿が。

 

 霖之助が慧音に、今夜は何が食べたいか、と聞きに来るまで。その姿が脳裏から消える事はなかった。

 

 少女もまた、何かを知らねば成らない。何かと言う、沢山を。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「……」

「あー……んー……むー……」

「……おそいね、母さん」

「あぁ、そうだね……慧音、先にご飯を食べてても」

「いっしょに食べる」

 

 首を横に強く振って言う慧音に、霖之助は困った顔をした。慧音と霖之助の前には、ちゃぶ台が一つ。そこには霖之助の作った夕食が並んでいた。冷め切った夕食が。

 

 窓から見える空はもう暗く、星が瞬き月が顔を覗かせている。妹紅が里の人間に連れられ、妖怪退治に出たのが昼間。

 何時もならとっくに帰ってきて、三人一緒に夕食を食べ、慧音と妹紅がお風呂で汗を流している頃だ。なのに妹紅は戻って来ない。

 これが霖之助一人なら、人里が怖くとも降りてどうなったのかと誰かを捕まえて聞けるのだが、傍には慧音が居る。人里には勿論連れて行けないし、ここで一人にするには危なすぎる。

 永琳に助けを求めようにも、その住いである永遠亭までは、彼一人では物理的に辿り着けない。どうしようかと霖之助が悶々としていると、扉が開いた。反射的に霖之助は、慧音を自身の後ろに隠し、守るようにして扉を見た。

 

「あ、驚かせた? ごめんごめん」

 

 そこには妹紅の姿。片手を軽く上げてぺこぺこと頭を下げているのは、謝罪の意だろう。

 

「母さん、おそいよ!」

「あー……ごめんごめん」

 

 飛びつく様に――というか本当に飛びついて来た慧音を抱きとめ、妹紅はもう一度謝った。少し、笑いながら。妹紅は慧音の頭を撫でながら、霖之助を見る。先程の少しだけの笑顔を消して、すまなそうに。

 

「ごめんね、霖之助も」

「……」

 

 そんな顔を見たくはなかった。

 霖之助は、そんな顔を見たくなかった。姉のそんな顔を、見たくなかった。

 

 妖怪退治。人里との等価交換。約束。

 守ると言うこと、守られるということ。それらは、全て霖之助と慧音の為だ。

 なのに、妹紅が一番被害を受けている。本来なら、何一つ苦労など背負い込まなくて良い彼女が、だ。それなら、自分が妖怪退治をすれば良い。

 霖之助はそう思う。けれども、それは不可能だ。

 彼にはそんな腕力などなく、特別な力も無い。半分こそ妖怪ではあるが、もう半分は人間である。どうやら霖之助は人間部分の方が多くを占めているらしく、そういった外部へ出る能力は無い。永琳の下で用途不明な道具に触れだした事で判然とした彼の能力は、完全に非戦闘的な物だ。

それは自身が前に出る事のできる力ではない。

 守られてばかりで、守る事なんて何一つ出来やしない。その為に知識を得ようとしているのに、その知識さえまだ拙い。挙句――

 

 ――あぁ、そうだ。そうじゃないか。

 

 彼は自ら失点を稼いだ。朝の早くから永琳の下へ行き、彼は何かを見た筈だ。

 見た筈であるのに、このざまだ。選り好みなどをした挙句が、このざまだ。

 恩人に、家族に。こんな顔をさせている。

 全ての重荷を、一人だけに持たせている。

 

 ――僕は、僕は。

 

 力が無いなら、助けに成ればいい。助ける力さえないから、知識を求めた。その知識で、形となる何かを作れば良い。

 永琳の講義の際、興味も無く閉じた本が、霖之助の思考を支配した。

 ルーツ。原点。

 そう呼ばれる根源が、"藤原霖之助"の中に楔となって打ち込まれた。全てはただ、その為に。

 

 ――姉さん。

 

 撃鉄は完全に落された。解き放たれた弾丸は、軌跡を描いて走るのみ。

 ただ、真っ直ぐに。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 歳月は流れ、時は人の身に降り注ぐ。

 里の子供達は大人になり、大人達は老いて行く。そして当然、竹林にあるそのあばら家に住まう者達にも。正確には、二人にも。

 

 男が一人、あばら家の奥の一室で何かをしていた。

 年の頃は20前辺りだろう。我の強そうな金の瞳を細め、男は自身の右手にある何かを見つめていた。黒と青を基調とした、少々奇抜にして奇妙な服を着た、ややくすんだ銀色の髪を持つ男が。

「むぅ」

 

 ――おかしいな……理論上なら、これでどうにかなる筈なんだが。いや、まだ僕が知らない何かがあるだけなのか……理論上の耐久値なんて物は、そう信じられるものではないと先生も言ってたが、それにして余りに

 

「脆過ぎるな……」

「何がだい、兄さん?」

「あぁ、慧音か。おかえり」

「ただいま、兄さん」

 

 突如背後から掛けられた声にも、男は慌てる事無く返事を返した。

 しかも振り返る素振りさえない。男にその必要は無かったからだ。

 男にとってその声は聞き慣れたもので、それこそ四六時中聞いている声なのだから、今更振り返って確かめる必要など無い。廊下を歩く音が聞こえない事は良くあることだし、襖も同様だ。

 何より、彼は物事に夢中になると外の気配を一切感知しなくなる。完全に自身の世界に埋没してしまうのだ。

 

「それで、何が脆いのかな、兄さん」

「ん、どうにもね、これが」

 

 背後から続く声に、兄さんと呼ばれた男は右手に在るそれを少しだけ振りながら返事をする。普段は道具をぞんざいに扱う事のないそんな兄の姿に、慧音は少し驚いたが、それがなんであるか理解しまた納得した。

 

「また、失敗作に終わりそうでね。先生に笑われる。……これも、まただ」

「その前に、母さんに笑われるよ」

「あぁ、姉さんに笑われるね。それも、まただ」

 

 何度も笑われた。未完成品であるそれを妹紅はよく笑った。不恰好だと、不器用だと。

 楽しそうに笑っていた妹紅の顔を思い出し、男は悔しさよりも苦笑を浮かべた。笑われた時は必死になって反論していたと言うのに、今はもうそれが笑い話だ。

 

 ――結局、姉さんの笑顔には敵わないという事だな。

 

 男はため息を付きながら、背後に振り返る。

 

 そこには年若い少女が一人。青みがかった銀の長い髪を持つ、独特な帽子を被った、見目麗しい少女である。そんな少女――慧音の姿を見て、男は、霖之助は一人思う。

 綺麗になったものだ、と。

 

 かつての彼女を知る数少ない者として、彼は心からそう思った。

 体が回復してからと言うもの、慧音はすくすくと育ち、今ではもう母親よりも背が高い。体も女性らしくふっくらとし始め、兄である霖之助から見ても、匂い立つような女性らしい魅力を内包しつつある。それで居て清楚な、冬に咲く花のような冷たさを持っているのだから、これはもう大変な事である。

 実際、大変だった。

 成長途中だった頃でさえ、慧音が家の傍で遊んでいると若い少年達がたむろした。遠くから眺めているだけだったが、これには霖之助が神経をすり減らした。何か良からぬ事をしようとしているのではないかと邪推し、常に監視の目を光らせていたのである。

 確かにその様な少年も居ただろうが、慧音が真っ当な人間ではなく、妖怪だと親から聞いている以上、それは美しい少女を鑑賞するだけの事だった。

 

 ――まぁ、それは良い。それは。

 

 そう、それはまだそれで良かった。

 結局実害など全く無く、ただ霖之助の胃がストレスで荒れる程度で終わったのだから。

 問題はむしろその後である。慧音の身長が霖之助に続き、母親――妹紅を超えた。

 それは良い。そこは妹紅も喜んだ。

 複雑そうな顔はしていたが、子の成長を悲しむ親など居ない。ましてや、昔の慧音は病弱だったのだから、元気に育つその姿は、妹紅にとって確かな喜びとなった事だろう。もう一度記す。

 問題は、そこからだった。

 

 ある日の事である。

 食事が終わり、霖之助が食器を洗いながら、先に風呂に入った妹紅と慧音が出てくるのを待っていた時の事だ。

 

『おぉおおおおおおおおおおおおおおおおぅ!?』

『うわわわわわわわわわわわわわわわわわぅ!?』

 

 そんな大音量かつエコーのきいた絶叫が、突如静かな竹林を揺らした。震撼させたと言っても良い。兎に角静寂は劈く奇声によって切り裂かれたのだ。

 何事かと洗っていた食器を置き、背後に振り返った霖之助の視界に飛び込んできたのは、

 

『霖之助! 霖之助!!』

 

 ほぼ半裸の姿で彼の名を呼ぶ、姉だった。

 彼女は手をにぎにぎさせながら、霖之助にこう言った。大きな声で、こう言った。

 

『慧音のおっぱい、私より大きくなってる!!』

 

 あとからやって来た、タオルケット一枚羽織っただけの慧音が霖之助に抱きつきながら泣く中で、彼は慧音の背を軽くとんとんと叩きながら、ただただ思ったのだ。

 

 ――駄目だ、この姉。

 

 それから、第一次慧音VS妹紅おっぱい大戦が始まった。

 字面としては最悪だが、こうとしか記す事など出来やしない。本当に字面最悪だが。

 

 大戦等と呼ぶ以上、それは戦争である。

 互いが互いを攻撃しあう物だが、この場合中立の霖之助が最も被害を受けた。形が良いのがどうとか、大きいのがどうとか、手のひらサイズがきっと霖之助の好みだとか、背中からくっついた時にちょっとむにゅってするくらいで霖之助は良いよねとか、主に妹紅の爆撃が霖之助を執拗に焼き払い続けた。

 

 慧音は偶に、真っ赤な顔になりながら

 

『そんな事無い……無いよね、兄さん?』

 

 と呟く程度だったが、それはそれで霖之助を苦しめた。

 あい続く焼き討ちとえらくピンポイントな絨毯爆撃に満身創痍となった彼は、衛生兵を求めて永遠亭に顔を出したが、衛生兵たる彼の先生は、ただ笑いながらお大事に、としか言ってくれなかった。味方など、どこにも居なかったのである。

 

 孤立無援。

 そのまま霖之助の胃に穴があくまで続けられるかと思われたチンケな、しかし霖之助にとってはまさに生命の掛かった戦争は、思ったよりも早く終息へと向かった。いがみ合おうと噛み合おうと、それはやはり家族の事である。近しいからこそ消えない恨みもあれば、近しいからこそ消える諍いも在る。家族の絆万歳。

 ようはその一言で終わる。

 

これでようやく平穏な日々が戻ってくると思われたが、その数ヵ月後。

 

『おぉおおおおおおおおおおおおおおおおぅぅ!?』

『うわわわわわわわわわわわわわわわわわぅぅ!?』

 

 そんな大音量かつエコーのきいた絶叫が、突如静かな竹林を再び揺らした。震撼させたと言っても良い。兎に角静寂は劈く奇声によって切り裂かれたのだ。

 嫌な予感をひしひしと感じつつも、現実は変わりはしないと覚悟し、洗っていた金ダライを手にしたまま背後へ振り返った霖之助の視界に飛び込んできたのは、

 

『霖之助! 霖之助!!』

 

 ほぼ生まれたままの姿で彼の名を呼ぶ、馬鹿姉だった。

 

 普段はそうでもないのに、家族の事となると頭が途端足りなくる彼女は、手をにぎにぎさせながら、霖之助にこう言った。大きな声で、こう言った。でっかい声で、こう言った。

 

『慧音のお尻、ふっくらしてきた!!』

 

 彼は何も返事せず、そのまま妹紅の頭へと手にあった金ダライを投げつけた。

 妹紅が倒れた所へ、真っ赤な顔で涙目の慧音による波状攻撃(頭突き)が入ったのは、言うまでも無い。これが後に藤原さんちだけで脈々と語り続けられる事と成った、第二次慧音VS妹紅おっぱい大戦である。おっぱい全く関係ないけども。

 

 兎に角、慧音の成長には色々とあった。その度に霖之助の生命が風前の灯扱いになり、そのうち藤原さんとこ限定絶滅危惧種としてレッドデータブックに記載される事となったのである。

 不憫にも程がある。

 それほどに、霖之助の命と胃と種としての存在は脅かされ続けていた。中立の筈なのに。

 

 ――あぁ、よく生き残れたものだな、僕。

 

 慧音の成長以上に、自身の身がここまでそれなりに無事育てれたと言う奇跡に涙したとしても、誰も彼を薄情者と責めまい。

 

「ところで……姉さんは?」

 

 気を取り直し、霖之助は右手に在るそれを畳の上に置きながら、慧音に聞いた。姿の見えない、この家の一応の家長である姉の所在を。

 

「ん……母さんなら、今村長と話をしているよ」

「……そうか」

 

 昔なら、それが怖かった。

 幾ら力が在ろうと、人と言うのはそれを覆す術をどこかから持ってくる生き物だ。ましてや、妹紅には人に恐れられるだけの力が在る。妖怪をたった一人で退治するだけの、人の枠から超えた力が。罠を仕組み、排除しようとする可能性は常にあったのだ。が、全くと言う事はないが、昔ほど怖くは無い。

 この幻想郷に、変化の時が到来しつつあるからだ。

 

 何時頃からか、その辺りは霖之助にも定かではないのだが、人の意識の中に変化が生じ始めた。それは些細な、今だ小さな蕾の様に頼りない物では在るが、芽吹く可能性を秘めた芽である。

切欠は、様々に。妹紅が妖怪退治をそれなりに引き受けている事、それを慧音が手伝い、また子供達に優しく接している事。妹紅一人だけだった時には、恐怖や不信感を与える事が多かったが、どうやら慧音が居るとそれらが少々緩和されるらしい。

 妹紅はどちらかと言うと現在の人を嫌っており、ぶっきらぼうに接するが、慧音にはそれが無い。

 

 元々人間であり、里の人間だ。彼らに対して、攻撃的に徹する事など、慧音に出来る筈も無い。何より、彼女達は見目麗しくそれぞれが異なった魅力を持つ女性である。しかも、慧音は人当たりが良い。そんな慧音を育てたのは、妹紅なのだ。殆ど霖之助が面倒を見たとは言え、やはり妹紅が居てこそのこの家族である。

 妖怪退治が終われば自分の事よりも慧音を心配し、怪我は無いか、どこか痛くないかと、里の人間達に結果を報告している最中であっても母親丸出しの顔でわたわたおたおたする妹紅を見れば、人も少々態度を軟化せざるを得ない。最近では苦笑さえ浮かべていると言う。

 子を持つ親達や里の若い者を中心に、この一家に対する見方が良い方向に向き出すには、十分な理由だった。例え二人の見た目が、母子逆転していようとも。

 

「怪我はしなかったか、慧音?」

「大丈夫だよ、私だってそれなりに戦えるんだから」

「なら良いんだが……僕はやはり、心配だよ」

「心配性だな、兄さんは」

「もし慧音が僕の立場だったら、同じように心配するだろうさ」

「そうだね」

 

 そして、霖之助も心配する。当たり前の事だ。

 力の優劣の問題ではない。親しい者が命を懸けた戦いの場へと向かうのだから、それを心配しない筈がない。

 

 慧音が妖怪退治を手伝うと言った際、霖之助も妹紅も反対した。危ない上に、慧音は里の子供で顔が知られている。

 成長したとは言え、彼女を事を覚えている者が慧音だと気付く可能性が大いにあるからと。慧音はそれら一つ一つを、反論した。かつて自身を苦しめた血を制御して以来、力や能力は人間とは比べ物にならないほど上がっている事、里に住んでいた頃は、肌はもっと黒く髪も黒く瞳の色さえ違っていたという事。

 何より、一人で妖怪退治を請け負う母の力になりたいという事。慧音はそれらを、霖之助と妹紅に激しく、静かに、瞳に涙を溜めながら訴えた。泣かれたとて、甘い顔の出来る事ではない。

 それでも駄目だと言い続ける妹紅を最後まで説得したのは、霖之助だった。

 妹紅の為というその気持ちが、霖之助には痛いほど理解できた。自身がもし、なにがしかの力や能力を有していたのならば、霖之助も慧音と同じ事を言ったに違いない。家族のため、何かしたいと思う心は、間違いではないのだから。

 

『姉さんの力になりたいという慧音の気持ちを、姉さん。どうか分かってやって欲しい』

 

 真っ直ぐに妹紅を見つめたまま、静かに放たれたこの言葉が、結局妹紅の首を縦に振らせた。慧音は喜び、霖之助も複雑な気持ちではあったが、喜んだ。妹紅もまたそんな二人の気持ちが嬉しくもあり、霖之助と同じ様に、複雑な顔で苦笑していた。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「姉さんは村長と話し合い、か……これは少し遅くなるかな?」

 

 場所を霖之助の部屋から居間へと移して、二人は会話を続けた。二人の好きな、熱めのお茶を飲みながら。

 

「だろうね、普段は母さんに用事なんてあっても、人任せな人だし……態々直接、と言う以上は長いと思うよ」

「なら、夕食は少し遅めだな」

「そうなるね……で、結局あれは何が悪かったの、兄さん?」

 

 慧音は霖之助が脆いと酷評してた物が気になるらしく、湯飲みを片手にそう聞いた。

 

「基調とするべき金属が、僕じゃあまだ手に入られる物ではなくてね。代わりに合成した鉄で作ったんだが……使用回数は恐らく6回ほど、しかも自身の火で溶けそうだ」

「火で解ける……なるほど、兄さんはまだ母さん用の物を作っている、と」

 

 やれやれと肩をすくめている自分を、少々呆れた顔で眺める慧音に何か良くない物を感じたのだろう。

 

「初志貫徹、最初に作ろうとした物を、今も求めているだけだ」

 

 お茶を飲む振りをしながら霖之助は視線を逸らしそう言った。言い訳っぽいのはもう慧音も諦めている。正直に言えば、言わせて貰えば。

 

「私も、何か兄さんからの物が欲しいけれどね」

 

そういう事になる。

 

「別に姉さんと慧音に優劣や順番なんて設けちゃいない。けれど、これは僕の最初の目標でもあるんだ」

 

霖之助はあまりに明け透けな慧音の言葉に少々たじろぎながら返す。

 そう、それは目標だ。彼自身が彼のために掲げた目標だ。最初の道具は、まず彼女の為にと。その為だけに、彼は十年近い時を学び費やした。

 だと言うのに、今だ完成には程遠い。

 

 湯飲みに残っていた熱いお茶を一気に飲み干し、霖之助は大きく息を吐いた。それは篭った熱を逃がすようにも、不甲斐ない自身に対する失望のため息にも見えた。

 

 ――十年、十年だ。それでも、僕にはあの程度のものしか作れやしない。

 

 永琳に弟子入りしてからの十年、正確には術具を知って以来の八年。彼はそれに関する知識だけを学び、ただそれを作り上げる為だけに、文字通り寝食さえ忘れて没頭した。

 時に慧音や妹紅が無理矢理寝かせるほどに。それでも、まだ彼は納得の行く物が作れないで居た。目標は常に目の前にあり、助けたい家族が二人、常に目の前に居るのに。自分一人だけが、未だにこうして未熟なままでいる。

 

「兄さん、今日の夕食は私が作るよ」

 

 そんな霖之助を見かねたのだろう。慧音がそう提案した。

 

「いや、今日は僕の番だし……」

「良いから、兄さんは母さんの為に、早くあれを完成させて。で、次は私のを作ってよ」

 

 微笑みながらそんな事を言う慧音に、霖之助は苦笑しながら、うなじ辺りをぽりぽりと掻いて応えた。

 

「……今の僕は、まだまだ未熟だ。悔しいけれど、良い物なんて作れないぞ?」

「それでも、兄さんが作ってくれた物が良いんだよ」

 

 ――私も、母さんも。

 

 霖之助は自室へ戻り、また作業を再開する。慧音は台所へ行って、割烹着と三角巾を付けて下ごしらえを始める。

 平和な日だった。二人には平和な、常の日だった。

 二人、だけは。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「すまない……そして、ありがとう」

 

 妹紅は、目の前にいるその老人が嫌いだった。

 個人的な感情をもっと突き詰めれば、憎んでいたとさえ言って良い。

 だが、今その憎んでいた老人が、妹紅の前に膝を着き、頭を下げている。土下座だ。

 

 落ち着いた一室で、妹紅とその老人は対座していた。その老人は、かつて妹紅の家に霖之助を渡せと、若者達を連れてやってきた老人である。十年の歳月のためか、あの頃よりも老けていたが、確かにあの時の老人だった。

 

 話があると言われた際、妹紅は良い顔をしなかった。なにせ出会いが出会いである。良い顔など出来よう筈もない。

 奥の一室に案内され、毒殺でもされるのかと思ったが、特に気にはしなかった。約束が保護にされるのなら、もうあとは妹紅が暴れるだけだ。いざとなれば、永琳や輝夜の様に、完全に隠れ住む様にすれば良い。何より、毒程度でどうこうなる体ではない。確かに一度は死ぬだろうが、それだけだ。苦しみこそすれ、そのまま本当に死んでしまう事はない。

 今の慧音と霖之助なら、里の人間に襲撃されても逃げ延びる事もできるだろうし、それだけの時間があれば、生き返った自分と合流して、反撃に出る機会するあるだろうと、妹紅は冷静に考えていた。

 

 お互いが暗い一室で対座し、さぁ来いと構えた時。その老人は頭を下げた。

 

 何をされたのか、何があったのか。妹紅は頭が真っ白になった。

 なるほど、これが罠だとしたら相当優秀な罠だ。何せ思考能力の一切を一瞬で刈り取り、混乱させるに十分だったのだから。

 

 老人は、頭を下げたまま言葉を続ける。

 

「……最近、妖怪退治を手伝っているあの子は……あの子は――」

 

 それは、本当に優秀な罠だった。昔、どうにか塞いだ傷口を開かせるには。

 十分すぎる罠だった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「……あ」

 

 気付いたら、眠っていた。どうやら、妹紅の帰りを待っている内に眠ってしまったらしい。

 目をこすり、辺りを見回す。するとちゃぶ台に突っ伏して眠っている慧音の姿が見えた。

 霖之助は上着を一枚脱ぎ、それを慧音に被せる。少し肌寒かったが、そのまま霖之助は立ち上がり、玄関へと向かう。妹紅の靴は見当たらない。どうやらまだ、帰ってきていないらしい。

 

 ――遅すぎるな。

 

 心配になった霖之助は、極力音を立てないように自分の靴をはき、そのまま表へと出て――

 

 妹紅を見つけた。

 

 竹林の中にある開けた場所で、彼女はただ立っている。何もせず、星空を見上げながら。

 

「姉さん」

 

 霖之助は、その姿が今にも消えてしまいそうに見えて、声をかけた。無意識のうちに。余りにそれが恐ろしくて。

 霖之助の声が聞こえたのだろう。妹紅はゆっくりと霖之助に振り返った。

 

「……あぁ、霖之助」

 

 どこか、暗い瞳だった。

 そんな色が妹紅の瞳に宿った事など、霖之助は一緒に暮らすようになって以来、今まで一度も見た事が無い。

 

 彼は胸の底から込みあがって来る焦燥に鞭打たれ、妹紅へと駆け寄った。

 

「どうしたんだい、姉さん。遅い上に……こんなところで星なんて見て」

「ん……まぁ、ね」

 

 妹紅は再び、星空を見上げる。辺りには虫の声と風の音だけ。

 それは夜の竹林の、いつもの顔でしかない。だと言うのに、霖之助には何か足りないような気がしてならなかった。それは暖かさや温もりと言った物だったのかもしれない。

 少なくとも、彼ら三人の家族が平穏に過ごした竹林は、ただ寒いだけの物ではなかった筈だ。

 

 だから霖之助は、話しかける。足りないのは、多分目の前に居る彼女のが持つ何かだと信じて。

 

「……それで、村長との話は?」

「……ん、まぁ、問題なかったよ」

 

 返ってきた言葉に、霖之助は嘘だと思った。なら、そのまま家に入ればいい。

 なのに彼女は、今もこうして星空なんて眺めている。

 どちらかと言えば騒々しい彼女の趣味ではない。寒い夜に一人静か、どこか儚げに星を眺めるなど、彼女らしい物ではない。

 

「姉さん……何かあった?」

 

 妹紅の肩が、小さく震えた。

 

「……いつもは鈍感なのに、鋭いなぁ……霖之助」

 

 錆付いた、掠れたか細い声が夜に溶けていく。

 

「家族の事だからね」

「家族、かぁ」

「姉さん?」

 

 本当に今夜の彼女はらしくない。錆びた声で、か細い声で、儚い声で言葉を紡ぐなど、霖之助の記憶の中にあるどの彼女とも重なりはしない。

 あえて近い姿があるとしたら、永琳の弟子入りの際に見せた妹紅の不機嫌そうな顔くらいだ。それが正解に一番近いのだと、彼は気付けない。彼には分からない事なのだから、理解など出来よう筈もないのだ。

 

 妹紅は顔を上に向けたまま、ポケットに手を入れたまま、口を開く。

 まるで今から、神へ懺悔するかの用に、静かな顔で、瞳を閉じて。

 

「慧音の両親、死んだって」

「……え?」

 

 言葉の意味が、霖之助には分からない。

 

「もう何年も前に、流行り病で二人とも……だって」

「……」

 

 時間をかけて、その言葉は霖之助の胸に浸透し始めた。

 慧音の両親――家族がすでに他界している。

 

 ――けれども、もう慧音は家族は自分達で……それでも、慧音はきっと悲しむだろう……

 

「村長とこの、次男坊だったって。長男夫妻に子供いないから、慧音は自分の孫なんだって」

「……」

「あれだけ姿が変わっててさ、実際、今まで誰も気付かなかったのに、分かったって。あぁ、孫だって」

 

 凄いね、と妹紅の口から零された言葉は、弱々しい物だった。

 

「村長の息子って体面もあって、慧音を殺して自分達も死のうとしてたって。でも、私達の事聞いて、そうなったって」

 

 朗々と、静々と、言葉は奏で続けられる。星だけが瞬く夜へ献じられる詩の如く。

 

「私達は……なんなんだろうね、霖之助」

 

 家族である。ただ、血は繋がっていない。

 縁だけで紡がれた偽者の家族である。

 彼女はそれは、思い知った。再び、思い知らされた。

 あれ程嫌い、一度は排除しようとまでしてきた相手に対し、頭を下げた老人の姿を。育ててくれて有難うと、そう涙を流しながら言う老人の姿を。

 慧音を泣きながら預け、里へ帰っていった今は亡き若い夫婦を。もう会うなと言われて尚、ありがとうと泣きながら口にした若い夫妻の姿を。

 

 それらを否定する事は出来ない。

 

 なら、否定できないのならば、それは家族だ。血によって繋がれた本当の慧音の家族だ。

 

だったら、彼女は――妹紅はどこに居る?

 

 彼らの家族と言う立ち位置を否定できない以上、彼女は偽者だ。母だと名乗っても、今はどうだ。

 

 彼女は振り返った。言葉もなく、ただ黙っている霖之助の顔を見上げる。そう、見上げる。

 見上げなければ成らない。

 これがもし永琳なら、今は未だ霖之助と同じくらいだ。彼女は見上げなければならない。

 霖之助も、慧音も。

 自分の子供たちを、その幼い姿のまま。永遠に幼いその姿のまま、偽者の家族でなければならない。

 

 悲しかった、苦しかった。

 悔しくもあった。

 恥も外聞も捨てて泣けば。泣ければ。

 胸の中に巣食う薄靄も消えうせるだろうが、彼女にはそれさえ出来やしない。

 

 偽者であっても、立ち位置の判然としない存在であっても。彼女自身は慧音の母であり、霖之助の姉だからだ。自らが望んで求めたその立場が、今は彼女に鋭いナイフの切っ先を向けている。

 

 誰でもない、何でもない、しかし親と姉であるという、その永遠に成長しない躯に。

 優しくは無くとも、霖之助と慧音にとってはこれ以上ない優しい心に。

 

 相応の身であれば良かったのだろう。永琳の如く、女性として母として、姉として。そう誰彼構わず断言出来るような姿であれば良かった。

 彼女は違う。

 小さな体と、長い時を生きた心しかない。心に母性はあれど、体に母性は無い。

 いつか慧音と霖之助が老い、死を前にしても。妹紅はそのまま、ただこの幼いと言っても過言ではない姿のまま、二人を看取る事しか出来やしない。

 覚悟が無かった訳ではない。だが、それでも覚悟は足りなかった。

 

 ただ、家族と言うその場所を奪われた程度でこれほどに苦しむのだから、

 やはり覚悟は足りていなかった。

 

 振り返り、霖之助を見上げる妹紅は寒いのか。ただ震えたまま、何かを耐えるように自分の肩を抱くだけだった。

 

 真っ直ぐに悲しい瞳で見つめられる霖之助にとって、それはどうにも出来かねる状態だった。寒いだろうと言うことはわかる。悲しいのだろうと言うこともわかる。

 しかし、まっすぐに向けられた瞳の奥には、彼では理解できない悲しみ以外の何かが揺らめいてるのだ。恐らく、寒いから家に戻ろうと言っても、この状態では聞く事は無いだろう。

 言葉も無く、ただ困ったままで立ち尽くす霖之助だったが、何か今出来る事は無いかと考え――

 

 思いついたそれが、最善だと思えた。

 

 家族云々の話はなんとなく理解できるが、妹紅ははっきりと口に出していない。神ならぬその身では、足りぬ言葉だけで全てを知る事など不可能だ。不可能であるが、和らげる事は出来るのではないか。

 

「姉さん、少し待っていてくれないか」

 

 返事も聞かず、彼は家へと走ってゆく。普段は面倒くさそうに歩く彼が、だ。

 

 ――失敗作では在るが、丁度いい物が出来上がったばかりだ。

 

 と。

 

 数分後、再び空を眺めている妹紅に、霖之助はそれを差し出した。

 

「……これは?」

 

 差し出された、少し歪で、少々大きめのそれを見て、妹紅は霖之助に問うた。

 

「姉さん用の、ミニ八卦炉……かな、一応。まぁ、ミニではないかも知れないけれど」

 

 それは確かに、ミニと呼べるほど小さい物ではなかった。

 

「数回も全力で使えば、融解しかねない紛い物ではあるけれど、少し温まる程度なら問題ないよ」

 

 うなじをぽりぽりと掻きながら、そっぽを向いて霖之助は答える。

 頬を僅かに朱に染めて。

 妹紅はもう一度、差し出されたミニ八卦炉を見て……手に取った。それは少し暖かく、手のひらを通じてゆっくりと体に暖かさを伝えていく。私は寒かったのだな、と妹紅はようやっと気が付いた。

 

 よく知っている。手の中にあるそれを、彼女は知っている。

 霖之助が部屋に篭って作っている、不恰好な道具だ。それをからかった事もあった。少し馬鹿にした事もあった。

 その度霖之助は、いつもの無愛想な顔を捨て、必死に反論するのだ。それが楽しくて、何度でもからかった。

 

 そんな道具が、今自身に温もりを与えている。

 十年近くもの長い間、霖之助が作り続けた時間がある。

 

「それは火の力もね、補助する能力もあるんだ。だから作ってきたんだけど……難しいな、やっぱり」

 

 まだそっぽを向いたまま、恥ずかしそうに霖之助は言う。

 

「……火の、力?」

「ん、まぁ……うん」

 

 つまりは、そういう事だ。長い年月を、本当に長い年月を、彼はその為だけに費やした。

 

「それが、姉さんの力になればな……って、まぁ、そんなところだよ」

 

 その為だけに。ただその為だけに。

 

 確かな暖かさが彼女を包む。自身が持つ、火の力とはまた違った熱を持った何かが、優しく彼女を包み込む。

 そっぽを向いていた霖之助の顔が、歪みだした。視界全てがぼやけだした。

 だから彼女は、そこに訴える。

 

「霖之助」

「……何、姉さん」

 

 そこに自分の居場所は在るのかと。

 

「霖之助」

「……だから、なんだい姉さん」

 

 そこに居て良いのかと。

 

「霖之助」

「…………姉さん?」

 

 そこなら、いつか本当の姉に――

 

「……慧音は、私をまだ……母さんって呼んでくれるかな……」

「? 何を当たり前の事を。慧音の母さんは、姉さんじゃないか。だいたいね、姉さん。慧音はあぁ見えて結構姉さんに似てる部分が――」

 

 本当の母になれるのかと。痛みも無く、それを誇れるようになれるのかと。

 

 返ってきた答えは、的外れなもので、妹紅の今欲しい答えではなかった。それでも、その答えには霖之助らしさがあった。共に時間を過ごした、弟の温もりが在った。

 だから、妹紅は泣きながら笑う。ぼやけた視界の中で、なんで泣いているんだと慌てだした弟を見つめて。彼女は泣いて笑って、霖之助に抱きつく。それはまるで、いつかのように。

 今はもう、霖之助の背が高くなり、最初に抱きしめたあの頃とは違うとしても。

 

 そこから始まった二人は、三人に増えても変わりはしない。

 

 とても単純な世界で、単純な絆だ。

 また今日のように解れ、昔のように疑ってしまうだろう。それはどうあっても、偽者のか細い絆だからだ。

 けれどそれでも。

 過ごした時がもう戻る事が無い様に。積み重ねた絆は、決して消えやしないのだ。

 

 どれだけ弱々しく、か細くとも。

 霖之助の背に回された、妹紅の小さな手のひらにぎゅっと握り締められる、不細工で、不恰好なそれは。なくなったりはしない。

 

 

 

――姉さん――

 

 

 

 永遠に。

 

 

 

――了




此処から先、妄想的後日談です。
色々抜けてても、気にしない方向で。
そんな方向で。









今日のなにか
夏の陽が、空高くあった。
風はぬるく、地面は呆れ返るほどに熱く、ただ歩くだけで汗が額に浮かぶ。
そんなある日、森近霖之助は博霊神社へ顔を出していた。
手には少し大きめの酒樽と、つまみ少々。
それを見て、驚く者もあればあれは誰だと首を傾げる者もあった。
基本、彼はここへやってくる事が無い。
まして今日のような――
「香霖!」
「あぁ、魔理沙、君もやっぱり居たのか」
「そりゃ居るだろ……けど、珍しいよな。香霖が宴会に出るなんて」
宴会に顔を出す事は、まず無い。
彼は魔理沙と話しながら、顔をきょろきょろとさせる。
「? 香霖、誰か探してるのか?」
「まぁね。少し顔を出せと怒られたんで、態々酒まで持参して来た次第だよ」
と、言い終わると彼は歩き出した。
どうやら目当ての人物を探し当てたらしい。
それに魔理沙は当然のようについて行き、座っていた霊夢も立ち上がり追従する事となった。
となれば、当然その場にいるのんべぇ達の視線は自然霖之助に集まる。
集まるのだが、彼はただ無関心のまま歩き、そのままとある場所に座り込んだ。
「お久しぶりです、先生」
「えぇ、久しぶりね霖之助」
まずその場で静かに酒を飲んでいた、比較的まともな顔色の永琳に挨拶する。
そこでちょっと宴会場がどよめいた。
魔理沙の顔が、何それ? と言う顔になって疑問符をそこ等中にばら撒いていた。

その隣に居る慧音が、霖之助に話しかける。
「酷いな、まずは家族からだろう、兄さん」
「家族だから後なんだよ、慧音」
もう一回宴会場がどよめいた。
霊夢の顔が少々強張った。

そしてダメ押し。
霖之助の背後から、それが飛びついてきた。
「霖之助ー! お酌してー!!」
「姉さん、呼んだ張本人がもうベロベロってどうなんだ」
「母さん、飲みすぎだよ」
爆発した。
何かが、宴会場で確かに爆発した。
初期戦隊物のように、ド派手で色の付いた大爆発で。
魔理沙は混乱した。
混乱しないわけが無い。
妹紅が母で、慧音が妹で、霖之助が弟で、妹紅が姉。
挙句一人で二役やってる奴まで居たのでは、混乱しない筈が無い。

それでも当人達は我存ぜぬの顔で会話を続ける。
基本的に我が道を行く人格を有した存在ばかりが集まったからだろう。
それは滞りなく進んでゆく。

「しかしまぁ、霖之助、お前いつまで一人身なんだよ」
「さぁね、暫らくは森近なんて姓は、僕一人だけだよ」
「森近……森近かっこ悪い、藤原に戻らない? 戻らなくない? なんか最近慧音まで違う姓使い出して、姉さん悲しい」
「僕はこの姓も気に入ってるよ。藤原の次くらいに。慧音との事は慧音と相談だな。まぁ……少しくらいは説得に参加してもいいよ」
「だったら霖之助も藤原に戻ろー、戻ろうよー、ねー、ねー」

「先生、お変わりありませんか?」
「この通り、まったく」
「あぁ、そうですね」
「……やっぱり変な子ね、貴方って」
「いや、もういい歳なんですが、子とか言うのはさすがに」
「私や妹紅、姫みたいに、変わらずに居ても何も言わない。慧音もそうだけれど」
「だって、先生は先生じゃあありませんか。姉さんだって、姉さんです」
「……やっぱり、おかしな子。ほら、酌をなさい」
「ですから、子とか言うのは」

「兄さん、商売はどう? 上手くいってるかな?」
「それなりだよ」
「……聞いた話じゃ、やる気の欠片も見えない店主が座ってる店だとか?」
「誰だ、そんな根も葉もない噂を流した奴は」
「火の無い所に煙は立たないよ」
「いいや、そんな事はない」

実家から出てどこかの道具屋で住み込みの修行を始め、修行が終えたらそのまま帰ってくるのかと思ったら
独立して店を立てて出て行った霖之助に、妹紅と慧音はがんがんがつんがつんと言葉をぶつけた。
謝れ、謝罪しろ、爪切って、ご飯作りに来て、風呂洗いに来て、洗濯物手伝って、あーんってご飯たべさせて、
等等、様々な言葉をぶつけられた。

そんな会話が、それぞれの間でなされてゆく。
ある者は興味深そうに、砂糖を吐きつつそれを眺め、ある者はそれを羨ましそうに見つめていた。
そして、魔理沙は後者であった。
どうやら、ここにもまた自分の知らない過去の霖之助が居ると分かった魔理沙は、なんとも言えない気持ちになっていた。
霊夢ははぶられている事が我慢できず、である。
少々悔しい二人は無理矢理三人の輪の中に入ろうとした。
入ろうとしたが、

「妹紅、貴方霖之助に早く嫁を貰えなんて言うけれど、本当に貰ったらどうするの?」

三人の知己であり、すぐ傍に居た第四の存在――。
永琳のその質問が、二人の動きを――宴会場全ての動きを止めた。
実に興味深い話である。
妖怪と言えども少女。
歳はあれでも姿は少女乃至妙齢。
実年齢が例えあれでも、外見は少女なんですー。
人様のそういった、下世話な話に耳が大きくのなるのは当たり前だ。
特にどこぞの烏天狗とかなどは、もうメモを片手にわくわくした顔で続きを待っていた。

しーんとした場にも気付かないのか、妹紅は質問された事に素直に答える。
「その前にまず紹介されるよね」
「あぁ、だろうね。兄さんはそんな、一人だけで相手を選ぶような薄情者じゃないよ」
それに慧音も便乗してきた。

「じゃあ、霖之助が相手を連れてきたら、その娘さんにどう挨拶するの?」
よしきた、永琳ナイスと様々な少女達がサムズアップする異様な会場の中で二人は当たり前に言葉を紡いだ。
「まず、私が吹き飛ばす」
「その後、私が燃やす」
「「「「「「「「「「「「なんでッ!?」」」」」」」」」」」」
「「で、そのまま埋める」」
「「「「「「「「「「「「何それッ!?」」」」」」」」」」」」

宴会特有の一体感に包まれたその空気の中、霖之助はため息をついて首を横に振っていた。
余談では在るが、その際魔理沙がかなり真面目な顔で霊夢に何事か打診していた。
どっちがどっちを受け持つかやら、コンビを組んだ際、後の報酬はどうなるか、などなど。



日が暮れて、夜になった。
宴会は終わり、後は皆それぞれ好きにするだけである。
その場で寝るもよし、そのまま帰るもよし、掃除を手伝うのもよし。
三番目が最も選ばれることの無い選択肢だとしても、霊夢的にはそれを信じて。

その中で、三人。
月に照らされた、竹林までの道を歩く者達が居た。

「あぁ、飲んだ飲んだ。あと一週間は酒なくても行ける」
「母さん、あれだけ飲んで一週間か」
「慧音、何も言うな。姉さんはまぁ……あぁだから」
「霖之助、今姉さんのこと馬鹿にしたでしょ?」
「いいや、褒めてるんだよ」
「ばれる嘘をつくな、霖之助。罰として、今夜はうちで寝ていく事」
「……実家に戻るのが罰とは、またどうして」
呆れた顔で霖之助は妹紅に言った。
それは罰ではないと。
確かにそうなのだろうが……

「姉さんと慧音の添い寝付き故に」
「それは確かに罰だ」
「慧音、確かに罰だって」
「母さん、確かに罰だそうだ」
二人はそれぞれ、そっちが罰だと擦り付け合ったが、どう見てもそれは醜い喧嘩でしかなかった。
醜いが故に、確かに家族の物でもあった。
隠すことなく、余すことなく、感情のままに。
その絆は、今も続いている。

「こんな暑い夜にくっつかれたんじゃあ、眠れないだろう。そういう意味で、罰なんじゃあないのかい?」
「「そこは気合で」」
「二人の無茶振りは、どこまで行くんだ」
「どこまでも?」
「月まで届くよ?」

彼らが向かう竹林の中。
そこに一つの家がある。
かつては一人が住み、やがて二人が住み、そして三人が住まう事になった家が。
少しがたついたその家は、大きくもなければ立派でもないが、人が過ごした温もりを持っている。

そんな家であっても。
やがていつか、その家は潰れてしまうだろう。
やがていつか、今歩く三人の人影は、二つ消えてしまうだろう。
やがていつか、偽者の家族は無くなってしまうだろう。

時間と言う瀑布に、全て流されてしまうのだ。

それでも、三人が一緒に書き記した、思い出と言う日記は消えないだろう。
妹紅の首に紐で掛けられた、少し大きめの絆が、形となって残るように。
完成品が出来上がっても、これで良いと、これが良いと首を横に振った、その彼女の姿が。
その絆が。
消える筈も無いのだから。

えいえんは、はんぶんをふたつ持って、どこまでも歩むのだ。

きっときっと、いつまでも。
どこまでだって。

それは、月に届くくらい――

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。