香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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『黒 白 赤 青』 メイン:霖之助 輝夜
黒 白 赤 青


 ふと、それは彼女の視界に入ってきた。

 久しぶりに此方から妹紅の所に行ってやろうと、空を優雅に飛ぶ彼女の瞳に、その二つの影はするりと入ってきた。不吉な羽根を持つ幼い少女と、それに従う少女の姿。

空も飛べる筈だと言うのに、地を這う二つの影に笑ってやろうと思ったが、それが彼女には出来ない。

 原因は、胸の奥に。何かが軋んだ、胸の奥に。

 

――足りない足りない、私にはあれが無い。

 

 とても近いどこかから、そんな音がした。

 

 

 

 

『黒 白 赤 青』

 

 

 

 

「とりあえず、メイドが欲しいわ」

「……」

 

 永遠亭の朝は、いつも通りに……は始まらなかった。

 幾ら従者と言えども、寝起きの顔など見られたくないと言う彼女の為に、長い、本当に長い付き合いのある永琳が、彼女――輝夜を起こしに行く。寝ぼけた顔で何事か呟く輝夜に適当に相槌を打ちながら、目が覚めるのを待つのが常のことだった筈なのだが。

 

「永琳。メイドよ、メイドなのよ」

 

 どうやら今朝は違うらしい。

 寝室に入ったときから、輝夜は既に起きていた。もう見慣れたどころか、忘れる事も一生出来ない様な寝ぼけた、だらしない顔ではなく。永遠亭の主として知られる、凛とした顔で彼女は永琳を迎えた。

 

 永琳は驚いた。大層驚いた。それはもう驚いた。

 マヨネーズかけご飯が意外といける事に驚いた時位驚いた。

 長く生きていると、そんな物を食べる機会にまで恵まれてしまったらしい。兎にも角にも、永琳は驚き、驚いたが故に、その輝夜が今日一番に放った言葉に何も返す事が出来なかった。

 

 だから。

 朝一番から妙に調子の良い輝夜の啖呵に永琳は、

 

「永遠亭に足りないのは。いいえ、私に足りないのは、メイドなのよ!」

「……」

 

 この様に、ただただ無言で居る事しか出来なかったのである。月の頭脳とて、驚きの余りフリーズすると言う生物らしさを残しているのだ。

 ぎりぎり、なんとか。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「えぇー……つまり、直属の、部下が欲しいと?」

「そうね」

 

 朝に起きた椿事に語られた内容は、それだけの事であるらしい。

 

「いえ、でしたら私や優曇華が居るでしょう?」

「……はッ」

 

 永琳の言葉に、輝夜は鼻で笑って返した。

 

「あれは貴方の弟子である事がまず第一に立ってるでしょう。直立に、不動に、ピサの斜塔みたく」

「斜めです、あれは斜めです姫」

「それに、永琳は結局対等みたいな物でしょう。こう、上から目線で指導してくるような」

「対等じゃないです、それは対等じゃないです姫」

「五月蝿いわよ」

「突っ込みどころが多いんです、姫」

「本当に五月蝿い」

 

 二人は永遠亭の廊下を歩きながら話を続ける。

 そこには他の影など無く、いつもは連れて歩いている従者達の姿も無い。

 

「しかし、それで何故メイドなんです?」

「……あの吸血鬼よ」

「はぁ?」

「あの、城の吸血鬼よ」

「……あぁ」

 

 永琳の脳裏に、五百年生きた程度で踏ん反り返る幼い吸血鬼の姿が鮮明に再生される。

 そして、同時に理解した。その吸血鬼の傍には――

 

「そうよ、メイドよ」

「……そう、ですね」

 

 複雑そうな顔で永琳は頷き、なるほどと思った。

 

 ここ――幻想郷での立場は、違うと言えどもやや近い二人である。

 "姫"と"主"。

 

 人をかしずかせる気品と知性と高すぎる能力を有する、二人の少女。でありながら、輝夜には彼女に及ばない部分がある。それが、自身にのみ絶対の忠誠を誓う者の存在だ。

 ある意味ではそれ以上の者が傍にいるのだが、先程二人の会話に在った様に、またその為された言葉の交換でも垣間見れた様に、永琳という存在は師であり、その役目を終えた今も対等に近い立場でしかない。優曇華も、どちらかと言えば永琳を尊ぶ心のほうが強く、もし輝夜と永琳を主として選べと言えば。言えば恐らく悩む格好だけして永琳を選ぶだろう。

 

 てゐに関してはもう語るまでも無い。そもそも彼女は縦構造の中に入っておらず、外側に足場を持つ協力者でしかない。有象無象の従者は、これはもう本当に語る必要が無い。

 

「あれにそれが在って、私にそれが無い、なんてね、永琳。私は、ちょっと我慢出来ないのよ」

 

 美しい眉間に寄った皺の深さを見れば、それはちょっと、等という優しい物ではないだろう。今日になって何故いきなりメイドを欲するのか永琳には分からなかったが、一応――そういう思考が輝夜にも透けて見えるから、メイドが欲しいと言うおかしな事態になっている訳だが――上司だ。

 立場が近い者に負けるのは嫌だと言う気持ちは理解できる。出来るし、その程度の若々しさはこのお姫様にとって必要な事だ。老成した思考は守りに入ることが多い。守りと言うのは受けに回ると言うことであり、誰かが動いた後にやっと腰を上げると言うことだ。

 

 言ってしまえば、鈍い、のである。勝利の女神は、若々しい者にだけ微笑かける。

迅速に、何物をも振り切って突き進み尚輝き続ける一握りの英雄だけに、その女神はその御手を預ける。ならば異変が終わった後であろうと、彼女は前に向くという姿勢であるべきだ。

 少なくとも、自身の主である以上その程度の気概がなくてはならない。それに――その程度の若さと間違いは、彼女にはまだまだ必要だ。永琳はそう結論付け、次に問題の解決にその頭脳を回転させた。

 

 さて、ではどこからメイドを調達すれば良いのだろうか。一番てっとり早いのは、既にメイドである者を連れて来る事だ。

 つまりは……幻想郷におけるメイドの産地、紅魔館からの引き抜きが最も現実的ではあるのだが、正直これは選択肢にも入らない。何せ幼い吸血鬼の傍に立つメイド長以外のメイドは、らしき格好をした最低限働ける居候みたいな物であって、引き抜いてきたとても、ただの置物か案山子にしかならない。

 

 そんなメイドに絶対の忠誠を誓われたところで、輝夜に何が益するだろうか。優れた者に永遠の忠誠を誓わせ、それをかしずかせるからこそ、主であるという事に意味と価値があるのだ。

 凡百を跪かせるだけで満足できるのであれば、現状で十分満足している筈ではないか。現状にあって、まだメイドが欲しいと言う以上、やはり優秀な者を呼ばなければ輝夜は満足すまい。

 

 永琳は声をかけるべき存在を数人ピックアップし、ふむ、と頷き、隣を歩く輝夜と

 

「では、暫らく時間を下さい。なんとかしてみましょう」

「三日よ。それ以上は無いと思いなさい」

「……分かりました」

 

 静かに言葉を交わした。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

「……さて」

 

 時間の流れと言うのは、穏やかなようで早くもある。暇な――平穏である時は過ぎていく時の余りの緩やかさに苛立ちもするものだが、何事か為している時は驚くほど早く過ぎ去ってしまう。

 さて、そんな当たり前の事が何かと言うと。

 

「……どうしましょう」

 

 永琳が輝夜から貰った猶予である三日が、もう過ぎたのだ。人通りの少ない人里から迷いの竹林へと続く道を、永琳はどうにもならない事態に頭を抱えながら歩いていた。

 

 ――本当に、どうしましょうか。

 

 自身が頂となって営む診療所に来る人里の若く有能な娘達に声を掛けたが、

 

『すいません、今家業が忙しくて……』

『急に言われましても……』

『あの……ちょっと時間の余裕が』

 

 等等、全員から断りを入れられたのである。

 

 有能であると言うことは、その能力を開花させた場所が――つまりは、既に働いている所があるという事。それでも一人くらいは失業中の娘や、義理人情でこちらに来てくれるだろうと思ったのだが、そんな物好きは居なかった。それはもう、綺麗なくらい誰も居なかった。

 

 金銭もそうは要求せず、時には無料で治療に当たっているのだから、誰か一人くらい来てくれるとも永琳は思っていたのだが、それが逆に人里の人間達を薄気味悪くさせているなど、この女性は気付いていない。

 タダより怖い物などそうはないのだ。その対価として法外な労働を強いられるのではないかと、里の娘達が慄いてしまうのは無理もないことだった。

 

 駄目元で幻想郷では貴重な常識的かつ暇を持て余している妖怪少女達にも声を掛けたが、答えは聞くまでも無かった。

 もっとも、もし彼女達が快諾したとしても、メイドとしては手に余る存在であるので、断られて良かったとも永琳は思うわけだが。

 

 しかし、そうなるともう後がない。

 本当に後が無い。

 真っ白なほど、後も前も無い。

 いっそ自分がメイド服を着て永琳17歳です、とかやろうかと真面目に考え出すほど、永琳にはもう余裕が無かった。しかも自身の中ではメイド姿の自分に違和感など無かった。

 当然自己申告した年齢にも違和感など微塵も感じられなかった。

 どこかの誰か――明記は避ける――とキャラクターが被ったような気もしたが、そんな事はなかったぜ。八意先生の次回作にご期待ください。

 

 月の頭脳、かなり迷走中である。

 

 だが、古くからこんな言葉がある。

 

「おや、八意女史……こんな所でどうしたんだい?」

「……あぁ、なるほど」

「……なるほど?」

 

 捨てる神あれば――拾う神あり。多分その神様厄病神。

 

 そしてその厄病神は、永琳に声を掛けた不運なる男――霖之助だけに災いと厄を与えた。

 

 混乱。

 その言葉が、まさにこの時混乱した霖之助の頭の中で延々と踊り狂い、全ての情報を遮断し、全ての情報を蹂躙している。彼は、これまでの人生でこれほどに混乱した事は無いだろうという程に混乱していた。

 人里にある霧雨道具店で一緒に修行していた弟弟子の店に顔を出したその帰り道、自身の城である香霖堂のお得意様であり、最近では個人的な付き合いもある永琳を見つけ、声を掛けた。

 掛けたのは良いが、いや、良くはなかったが、掛けた瞬間いきなり両肩をがっしりと掴まれ、拉致されたのである。しかもそのまま引き摺られて、気付けばそこは永遠亭の薄暗い一室。

 混乱しない方がおかしいだろう。

 霖之助は、目の前で自分を値踏みするような目で上から下まで何度も何度も視線を往復させている永琳に、こうなってから数度目の同じ質問をした。極力、自身の弱み――混乱を見せないよう、慎重に。

 

「これは、なんなんだい」

「……」

 

 これも同じく、返事が無い。やはり彼女は無言のまま、視線を往復させて居るだけだ。

霖之助はただ日々をそれなりに過ごしているだけで、いきなり拉致されるような恨みを買った憶えは無い。

 全く無いとは言えないだろうが、少なくとも目の前の女性から問答無用で薄暗い一室に無理矢理閉じ込められるような、強烈を通り越した奇天烈な恨みを売った記憶はない。とんと無い、筈ではある。

 

 何がいけなかったのかと後悔し、馴染みの常連客であるこの女性に声を掛けた事、それ以前に外に出たからこんな事態に巻き込まれたのではなかろうか、今以上店へ引き篭もるべきかと力なく項垂れ思案中の霖之助に、永琳は此処へ来て以来ずっと閉じていた口をようやく開いた。

 

「……霖之助」

「なんだい」

 

 彼の名を口にする永琳の顔に、いつも浮かべている微笑はない。その面影すらどこにもない。

それでも、ようやっと成された会話に混乱は静まり、ゆっくりと消えて行く。

 あとはただ、この状況は如何なる物なのか……それ理解するための情報を、永琳から聞き出す事だけが、霖之助の今出来る限られた行動の中で、最も優先順位の高いオプションだった。

 

「永琳、これはいったいぜんたい何事――」

「貴方、礼儀作法は出来て?」

「……修行時代に、一応一通り教えてもらっているよ」

 

 冷たい、まるで氷で出来た能面の様なその顔に、霖之助は胸に小さな穴が開いたような気がしてならなかった。彼の知っている永琳など、この世のどこにも居ないのだと、永琳自身がそう霖之助に囁いているかの様に、霖之助は思えた。

 自身が親しくなった存在は、朝の露より儚い、大海の水面へ帰す小さな雫の一滴でしかでしかなかったのだと。親しい者の変貌――乃至本性以上に、そんな思いに囚われた自身の精神が未熟に過ぎると、霖之助自身が霖之助を甚振り苛める。

 日常の中で積み重ねられた人格同士の交わりを信じたのが自身であるなら、それに裏切られたと言う感情も自身にのみ帰れば良い筈だ。が、それでもその感情は対象に――永琳に牙を向けようとする。

 

それが霖之助には、気に入らなかった。そして、悲しかった。未熟だと、悲しかった。

 

「永琳……」

「貴方、人の面倒は見るのは得意?」

「……不本意だが、良く面倒を見る羽目になっているよ」

 

 その言葉を聴いて、永琳は何かを取り出し……笑った。

 霖之助の視界が、ぼやける。尊敬していた。目の前の女性が持つ、狂気に彩られて尚、煌々と輝く瞳に宿した知性の眩さを。狂笑に歪められて尚、美しい曲線と艶やかな紅を保つ唇から奏でられる幾億の言霊が宿った玲瓏な歌の響きを。

 なのに、何故だろう。

 

「……じゃあ、これを着なさい」

 

 ――あぁ……何故彼女は執事服を片手に、こんな腐った冷たい目をしているのだろう。

 

「こんな事もあろうかと、キャップの中に常備しておいて良かったわ」

 

 一体どんな事態を彼女は想定しているのだろうか。そしてそれはナースキャップもどきの中に入るものなのだろうか。

 

「君のことが、僕には分からないよ……」

「……きっと、それはまだ貴方が若いからよ」

 

 自身の声とは思えぬ渇いた声で彼は言葉を搾り出し、視界は涙ですべて見えなくなった。

 心から、思った。本当に、心から、彼は思った。

 

 ――これを尊敬してたのか、僕は。

 

 彼は本当に、自身の精神の未熟さに絶望した。この日、森近霖之助は大人にまた一歩近づいた。 すでにいい大人では、あるのだけれども。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 三日目である。

 

「……」

 

 輝夜が永琳に指定した三日目の、既に夕刻である。

 輝夜は大きすぎる自室で無言のまま座り、頬杖をついたまま気だるげに永琳の報告だけを待っていた。経緯はどうあれ、二人の間に交わされた約束であるのだから、それが破られる筈が無い。

 輝夜は永琳を信じていたし、永琳もまたそれに応えるべくこの三日、時間さえあればメイド探しを行っている。輝夜はぼうっとしたまま、そう遠くないうちに開けられで在ろう襖を眺め――そしてぴくりと僅かに動いた。

 

 彼女の耳に入ってくる足音がある。その足音は彼女の部屋の襖の前で止み。

 

「宜しいでしょうか?」

「えぇ、お入りなさい」

 

 待っていた声を聞き、それを受け入れた。

 の、だが。

 

「……永琳」

「大丈夫です。何も問題ありません」

 

 待っていた分だけ、落胆は大きい。

 襖を開け、部屋に入ってきた永琳は開口一番こう言った。

 

『メイドは無理でした』

 と。

 "は"と言ってるのだから、代案は用意したのだろうが、それでも落胆は大きい。輝夜は失意を隠そうともせず、ただ肩を落としてため息を吐いた。しかし、彼女をして問題ないと言うのなら、その代案は価値ある物なのだろう。輝夜は気を取り直して背を伸ばし、皺の寄ったスカートの裾を一払いして、永琳に続きを促した。

 

「侍女は無理でしたが、執事は用意出来そうです」

「……」

 

 伸ばされた輝夜の背が、再び丸められる。

 男と来た。

 男と、確かに自身の耳は聞いた。男と言う生き物に、輝夜は良い思い出が少ない。皆彼女の美貌を見れば、へりくだるか踏ん反り返るかしかしない。しかもその二つの態度は結局一つの欲望の発露でしかない。

 

 ――この女が欲しい――

 

 そんな獣欲染みた物だ。

 稀に彼女を育てた男や、時の帝の様にそれ以外の態度で接する男も居たが、それは本当に稀、少数だ。彼女が欲したのは、そんな稀に期待する必要もない、同性同士だからこそ単純に為るだろう忠誠である。異性では色々とややこしい。

 

「永琳、私は……」

「大丈夫です、大丈夫なんです姫。あれはもう、驚くほど枯れてますから」

 

 枯れてますとか言われても、それはそれでどうなんだとしか輝夜には思えない。とりあえず現物を見て下さいと永琳に言われ、輝夜は一切期待せず惰性で頷いた。永琳が後ろ――入ってきた襖へと振り返り、声を掛けた。

 

「霖之助、入ってきなさい」

 

 同時に、襖が開く。

 

 優曇華とてゐに両脇を固められ、逃がすまいと目を光らせている、その二人の真ん中に。男が一人、憮然と立っていた。特には見覚えの無い顔だ。

 

 服装、黒の執事服。

 銀髪、アホ毛つきオールバック。

 眼鏡、まぁ似合ってる。

 顔、なんとか合格。

 身長、許容範囲。

 瞳、なんでか半泣き。

 

「……なる、ほど」

 

 輝夜の中で、永琳が言っていた意味が理解されていく。同時に、彼女は少し驚いた。

 プリンに醤油をかけたらウニの味になった時位驚いた。

 長く生きていると、そういった物を食べる機会に結構恵まれてしまうらしい。

 

 永琳が推薦するほど、そう上質な男でもない。だが、その瞳が気に入った。

 輝夜を正面から視界に入れて尚、どうでもいいという色を隠さないその瞳は貴重であり、輝夜の失望を払拭するには十分だった。なによりも、そうなによりも。

 

 その受けっぽい容姿が、女の子なら誰でも持っていると言われている腐った心を掴んで握ってきゅっとしてドカーンして離さなかった。意訳すると、きゅっとしてドカーンだったのだ。

 

「永琳」

「はい」

「よくやったわ。褒美に今日は永琳が眠った頃に枕元でえーりんえーりんって朝が来るまでやってあげる」

「なんの嫌がらせですか。なんの怪奇現象ですか」

「よし、今からしろって事ね?」

「いいえ、全く違います馬鹿姫」

 

 すでに腕をぶんぶんと振っている輝夜と、それを疲れた目で見る永琳。そんな二人を更に疲れた目で眺める霖之助に、脇を固める永遠亭の月と地上の兎コンビ。

 

 逃げられない、そして逃がしてもくれない。世界は優しくない氷と、硬い鉄だけで編まれた完全な冷たい檻だ。そんな事は、とうの昔に分かっていた。

 だがしかし、これほどに優しくないのは流石にどうだろうかと、霖之助は慣れない洋装に窮屈な思いをしながら一人心の中で泣いた。が、それでも優しさを求めてしまう。

 こんな、やる気の欠片もない情けないなんちゃって執事を見れば、永琳の主とやらも雇う気など無くすだろうと思っていたが。いたのだが……今のやり取りを見るに、

 

「じゃあ、そこのお前。今日からしっかりとなさいよ」

 

 雇う気満々ではないか。瞳も爛々ではないか。腕もまだブンブンではないか。

 むしろお前がしっかりしろと言いたく為ったとしても、誰も彼を責めないだろう。

 

 ――冷たいにも程がある。

 世も、そこに住まう存在も。霖之助は、ただただ恨む事しかできなかった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 薄暗い、恐らく物置であろうその一室で、項垂れて涙する霖之助に永琳は全てを語った。霖之助の衣服を喜色満面でひん剥きながら、永琳とおぼしき生物は語った。語られる内容の余りに余りな酷さに永遠亭もう駄目だと心の中で小さく呟いた彼は、永琳だった物にされるがまま、魔改造を施された。

 服を剥かれ、眼鏡を奪われ、プライドさえも踏みにじられ――そして。

 それならせめて常識的な範疇で、こちらにも利益が与えられるようにしてくれと懇願した。かつで永琳であったろうその生命体は、ぶむ゙り゙と一つ声らしき物を上げて頷き、こう言った。

 

『すぐ飽きるだろうから、それまでの間姫の相手をしてくれれば良い。その間、私の持つ知識と、永遠亭にある書物を好きに閲覧しても構わないわ。当然、給金も出しますよ?』

 

 と。

 某城の図書館ほどではないが、ここにもそれなりの書物があると誇らしげに語る歪ななまものに、霖之助はもうそれで良いと頭を縦に振った。振るしかなかった。異論は認めないと、その怪奇物体の眼が語っていたからだ。

 もう無事に生きて帰ることしか、彼には望みなど無い。書物の閲覧や、永琳の知識に興味が無い訳でもないが、そんな物結局命あっての事だ。

 

『まだ……何か必要かしら?』

 

 死んだら――元も子もない。

 そこまで物騒な事かと首を傾げられるかもしれないが、霖之助にとってはそこまで物騒な事だった。なにせそれを語る物体が、すでにもう怖い。怖いと言う言葉では足りないほどに、怖い。

 恐怖という感情を理解している生物は、本来未知であるが故に未知のそれを恐れるが、正体を見て尚怖いという感情が出てくるなら、それはもう段違いでも桁違いでもなく、次元違いで怖いのだ。分かりやすく記すと、妙な寒気 振り返る 窓の外 アウターゴッズ SANチェック 発狂 PCリタイア。

 

 そして、すぐ飽きるだろうと永琳が言っていたこの執事ごっこは、

 

「霖之助、お茶」

「……はい」

 

 今日で一週間目を迎えていた。

 

 いつか機会を見て逃げ出そうと思っていたのだが、後々の報復が恐ろしく、結局霖之助は飽きるのを待つという受動的な解決を待つ事にしたのだが……一週間は長い。

 

「暇ねぇ……霖之助、何か芸でもなさいな」

「……」

 

 本当に、長い。

 

「お前、霖之助」

「はい、なんでしょうか、輝夜様」

「暇なのよ、何かなさい」

 

 一週間と言う時の長さと、無常な世の流れに思いを馳せていた霖之助に、輝夜は霖之助の瞳をじっと見つめ、もう一度命令をする。霖之助はその命令に何も返さず、芸をするような素振りも見せず、ただ輝夜の瞳を見つめ返す。勝気な、清楚なその容姿には似合わない――ある意味ではこれ以上無く似合っている――猫の様な瞳。

 

 始め、永琳からこんな馬鹿げた話を聞いたとき、主である姫とやらは少々足りない存在ではないかと思ったものだが、こうして傍で語り合い、その目を見ているとそれは違うと分かる。

 永琳同様、長い生を生きたらしく、そういった存在が良く見せる、気だるげな目こそするが、輝夜が持つ品格や知性の色は間違いなく幻想郷でも稀有に等しい物だろう。永くを過ごし理知的にある妖怪の多いここでは無二とまで言えないが、そう多くお目にかかれる物では決してない。だと言うのに。

 

「霖之助、早くなさいよ」

「断ります」

 

 彼女はどうにもちぐはぐだ。

 

「主に逆らうなんて、なんて可哀想な執事」

「僕は仮初の執事でしかないので」

「あら、ここでくびり殺してしまいましょうか」

 

言っている事は物騒だが、その目に宿っているのは喜色だけで、反抗的な霖之助を面白がっているようにしか見えない。

 

 メイドを欲しいと、彼女は言ったと言う。絶対の忠誠を誓う者が欲しいと、彼女は言ったと言う。なら現状は輝夜にとって満足のいく物ではない筈だ。

けれども彼女は、霖之助を手放さない。斯様に、霖之助で遊ぶ。

 

「それにしても、霖之助。貴方の入れるお茶は、いつも熱いわねぇ」

「お茶はこれ位が良いんです」

「それはお前の好みでしょう? 私の好みじゃないわ」

「でしたら、ご自分でどうぞ」

「可愛げのない奴だこと」

「なら、どうぞ首にして下さい」

「それはお前にとって褒美になってしまうじゃない。やぁよ、そんな喜ばせるような事」

 

 こんな意に従わない存在を、彼女は傍に、近くに置こうとする。

 彼女が欲した物の、紛い物でしかない存在を。

 

 この一週間、彼女はどこへ行くにも霖之助を連れて歩いた。 霖之助にとって幸いな事に、このお姫様はそう外に出るタイプではなく、永遠亭に篭りがちである。歩くと言っても殆ど屋敷内の事。出会う存在は既知の存在だけで、彼女達は霖之助が被害者だと理解しているのでちょっかいなどそうは出さない。地上兎の親分以外は。

 兎に角、余り外に出ない。

 それが今の霖之助にとって、どれだけ有難い事か。

 

 ――間違っても、こんな姿を知り合いに見られる訳には……見られる訳には……。

 

 そういう事である。

 店には、地上兎が『暫らく休みます』と霖之助が書いた紙をこっそりと貼ってくれたらしいので、まぁよしとする。良くはないが。

 不審に思う者もいるだろうが、貼られた紙に書かれた文字は間違いなく霖之助の文字。首をかしげながらも、一応の納得はする筈だ。

 

 が、店はそれでいいとしても、当人の問題はある。余り外に出ないとは言っても、それは"余り"でしかない。つまりは、極々稀に表へ出るのだ、このお姫様は。

 しかも霖之助を連れて。霖之助がどれ程嫌だと言っても、そんなもの通じやしない。

 

 この姿を見知った誰かに見られる事だけは、霖之助の矜持が許さなかった。許さなかったと言うよりは、見られたら間違いなく弄られるからだ。

 巫女とか普通の魔法使いとかフラワーマスターとか天狗の新聞屋さんとか隙間妖怪とか。同情してくれるのはきっと一握りで、後はもうからかって弄って遊ぶだけだ。

 だから彼は、慣れない洋服も文句も言わずに着用し、何時もとはちがった眼鏡も装着し、普段は適当な髪に櫛を確りといれ、外出時だけはと違和感を感じながらもオールバックにしている。少なくとも、外出時には。つまりこれらは、霖之助にとって変装になり身を守る為の盾となるのだ。

 

 実際、輝夜に無理矢理連れて行かれた人里の甘味処に顔を出した際、少々付き合いのある人間達ともすれ違った筈なのだが、誰も霖之助を霖之助として認識しなかった。

 服飾の効果と言うものは絶大であるが、物事全てがそうであるように、絶対と言う事はない。いつばれないとも知れないのだから、輝夜が飽きて霖之助を手放すその時まで、彼は矜持を守る為にばれないまま通すしかない。どうしようもなく危ない綱渡りである。

 

 ――どこの神でも良いから、僕を守ってくれ……。

 

 そんな心構えでは、多分ご利益は無いだろう。

 

 事実、無かった。

 

 執事服、そして常の通りの下ろした髪型。眼鏡は自前の少々野暮ったい物。

 靴は、一応の革靴。それらを身につけ、霖之助は今書斎に居た。

 

 つまり――……二週間目に突入。

 なんでも良いから、誰でもいいから、等という頼み方ではやはり駄目らしい。

 

「……世界は優しくない」

 

 霖之助は自分の肩を軽く揉みながら、自分の前にあるテーブルに座り、本を読んでいる永琳に疲れた顔でそう言った。

 

「……」

 

 が、永琳は無言のまま何も言わない。

 

「永琳」

「……」

 

 返事がない。

 休憩時間、こうやって永遠亭にある書斎で顔をあわす事の多い二人である。付き合いをそれなりに重ねれば、少なからず仲違いもしてしまうものだろうが、二人は冷戦中と言う事もない。

そもそも、喧嘩なんてしちゃいない。ただ、少しばかり永琳がハードルを高くしただけの事だ。霖之助にとっては決して、少し、ではないが。

 

「……永琳、またなのか。また、なのか」

「……」

 

 永琳は何も言わない。

 ただ、俯いて本を読んでいた顔を上げ、霖之助に目で訴えるだけ。それだけだ。

 

「……」

 

 その無情な訴えに、霖之助は弱々しく首を横に振ってから、口を開いた。

 

「お嬢様」

「なぁに、霖之助?」

 

 手にしていた本を、彼と彼女の間にある机にぽんとおいて、永琳は太陽も恥らうであろう可憐な笑顔で霖之助に応えた。

 その間僅か0.03秒。世界を狙える好タイムである。

 

「……世界は、本当に優しくないな」

「うちの姫が、ごめんなさいね」

「君もだよ、君込みでだよ。君2、鈴仙2、てゐ2、輝夜5だよ。……いや待て、1どこから沸いてきた」

「?」

「なんでそんな不思議そうな顔をするんだ」

「?」

「もういい……もういい……」

 

 子犬のように首を傾げ、本当に不思議だと言わんばかりの永琳に、霖之助は全てを諦めた。

 肩を落とし、座っている椅子の背凭れにだらしなく背を預ける霖之助。その様子を見ていた永琳が、霖之助に声を掛けた。

 

「薬でも、用意しましょうか?」

「薬でどうこう出来る物じゃあ……いや、君なら出来そうだな」

「お望みなら、悩みも何もかも吹き飛ぶ薬を調合してあげますけれど?」

「ここに居る限り、悩みがなくなったりする物か」

「それは、貴方が生真面目だからよ」

「……不真面目な店主だと散々言われてきた僕に対する、皮肉かい?」

「いいえ、事実でしょう?」

 

 永琳にとって、霖之助が生真面目だと言う事はもう事実だ。

 

「だってそうでしょう? 貴方は、口で何を言っても、結局ここから去らないし、仕事もしているのだもの」

「……給金を貰っている以上、相応の事はする。当然だ」

「それを当然だと思えるから、貴方は生真面目なのよ」

 

 拉致され脅され、突如好まざる仕事を押し付けられれば、名高い聖人君子とて文句の一つも言うだろう。それが凡人なら尚更だ。与えられた仕事をボイコット、位は当然する。

 が、霖之助は文句を山ほど言いながらも与えられた仕事をする。仮初とは言えども、金銭を与えられ、待遇もそう悪くはない執事と言う職務。

 

 輝夜の世話もすれば、永琳の手伝いも優曇華の手伝いもてゐの面倒も見る。道具屋であると言う事を見込み、頼んだ倉庫になる道具の鑑定まで彼は確りとこなしている。永琳はそれを一つ一つ、霖之助に優しく語り、微笑みかけた。

 

「ね?」

「……ふん、この程度、霧雨道具店の修行時代とそう大差もないさ」

 

 顔をそっぽ向けて、霖之助はぶっきらぼうに応えた。とは言え、その顔にさす朱の色は永琳にもはっきりと見えている。この愛らしさもまた、永琳には好ましい物だった。

 

 ――それは、あの姫も同じでしょうね。

 

 永琳は微笑みの色を濃くして、霖之助入れたお茶を一口、ゆっくりと嚥下した。

 

「……やっぱり熱いわね、これ」

「お茶は熱いのが一番だよ、永琳。君達は、茶葉を無駄にしている。改善すべきだ」

「……」

「……」

「……」

「お嬢様」

「なぁに?」

「……世界は、真っ黒だ」

「うちの姫が、ごめんなさいね」

「君もだよ。全く、君達はなんで僕をこうも手放してくれないんだ……」

 

 ――早く自由になりたいのなら、そんな顔こそすべきではないのだけれどね。

 

 永琳は熱いお茶を口に含み、不機嫌な霖之助を眺めながらそう思った。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 休憩を終え、書斎から出て廊下を歩く霖之助に、声を掛ける者が在った。

 

「おいーっす」

「……あぁ、てゐ」

「てゐお嬢様」

「……あぁ、てゐお嬢様」

「好(ハオ)、実に好」

 

 一人うんうんと頷くてゐ。

 

「私はここじゃああんたの先輩なんだから、ちゃんと服装に見合った呼び方しないとね」

「あぁ、そうかいそうかい。なら君達こそそう呼ばれる努力をすべきだ」

「でね、霖之助、ちょっと助けて欲しいのよ」

 

 霖之助のやさぐれた態度も言葉も無視して、てゐは自らの要求だけを口にする。永遠亭、どうにも性格のふとましい連中ばかりらしい。

 

「……僕の都合は無視なのか、てゐお嬢様?」

「なぁに。何かこの後予定でもあるの?」

「……いいや、別に」

「じゃあ、少し調理場手伝って上げてくれない? ちょっと手が足りないらしくて」

「……」

 

 暇さえあれば顔を出せと輝夜には命令されているが、暇でないのなら顔を出す必要はない。霖之助は輝夜に弄られて過ごす時間と、調理場で過ごす時間を天秤にかけ――

 

「あぁ、手伝うよ」

 

 ほんの数秒で調理場で行く事に決めた。

 弄られるよりは、動いていた方がまだマシであるらしい。霖之助は袖をまくり、台所へと歩いていった。その後姿を、てゐは少しだけ気の毒そうな顔で眺めていた。

 

「あの巫女と魔法使いのせいなのかなぁ……」

 

 どうにも彼は、誰かの面倒を見ている場面が多すぎる。使っておきながら、てゐはそんな事を思った。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 夕餉の席、輝夜は並べられた食事に手を合わせ、箸を取った。夕餉の席とは言っても、傍には永琳以外居ない。

 彼女は一日二食、全て自室でとる事が多い。気が向けば皆が食事を取る部屋まで足を運ぶ事もあるが、基本的にはこうだ。一日二食と言うのも、彼女がこちらで過ごした頃の名残である。後に――鎌倉、室町時代辺り――には今の一日三食制になったのだから、別段ここでは三食でも構わない筈なのだが、今更生活リズムを崩すのも面倒であるらしい。

 

 特に代わり映えのしない、常の通りの食事に口をつけ――

 

「……」

 

 彼女は動きを止めた。

 

「お気に召しませんか、姫?」

「……少し味が濃いわね」

「下げますか?」

「良いわよ、嫌な味じゃあ、ないわ」

 

 彼女は、薄味を好む。

 好むと言うよりは、薄味の料理を多く食したから舌がそれに馴染んでしまった。

 貴族や公家、僧の食事と言うのは塩を余り使わない。味噌、塩、にんにくと言った物は、武家が食事に使う量の半分程しか使わなかった。諸説様々な理由はあるが、濃い物は無駄な血気を肝に溜め込む物であるので、優雅に、また禁欲的にあらんとする階級の者達からは嫌われたそうである。もしくは、武者は坂東、公家は関西――味の濃い赤味噌、味の薄い白味噌を料理に使う地域の境界線が、関東、関西の境界線であるとも言われている――といった風に、ただ単なる地域的な味の差が出ただけかも知れない。

 

 その点、武家は多少の暴力も美徳であり、血気がなければ成り立たない。

 塩分は長旅にも必要な物であり、戦場で長くを過ごす事もある武士達にとって、それらは必要な物でもあった。織田信長が京で食事を取った際、余りの味の薄さに怒り、それを作った高名な料理人を怒鳴りつけた話は有名だ。

 有名です。有名な筈です。

 

 兎に角、そういった事情で彼女の舌は薄味を好んだ。

 が、

 

「……まぁ、悪くないわね」

 

 別段こういった味が嫌いだと言う訳でもない。長く生きれば時代時代の変化に巻き込まれ、膳に並べられる食料も多彩になっていった。輝夜は、それを否定するつもりもない。

 食べられるのだから、食べれば良い。それだけだ。

 

 輝夜は膳に並べられた料理を全て食べ終え、ゆったりと箸を置いて一礼した。

 膳を下げようとする永琳に、少し躊躇った後声を掛けた。

 

「それで……これは、誰が?」

「姫の、お気に入りですよ」

「……」

 

 お気に入りと言われれば、彼女には一人しか思い浮かばない。最近は何をするにも傍においている、あの半端者だ。

 

「作る料理まで、半端ねぇ……あれは」

「食べる分には、十分かと」

「そうね」

 

 言うや、彼女は腰を上げる。

 

「姫、どこへ?」

「分かって聞いてるでしょう、永琳?」

「さぁ……どうでしょうか?」

 

 口元を隠して優雅に微笑む永琳に、輝夜はそれ以上何も口にせず襖を開けた。

 

「褒めて上げるのですか? それとも、なっていないと詰るのですか?」

 

 背に掛けられた言葉に、輝夜はゆっくりと振り返って

 

「決まっているじゃない。両方よ」

 

 霖之助が居るであろう、食事用の大部屋へと向かっていった。

 

 風が一陣、ふわりと過ぎる。

 昼は暖かいが、夜ともなれば少々寒い。風も冷たければ、それに晒された廊下の板は更に冷たい。靴下越しに伝わる冷たさに僅かばかり眉を顰めながら、輝夜は歩いた。

 

 少しばかり歩くと、どこかからがちゃがちゃと耳障りな音が聞こえてくる。その音がそう遠くからではないと感じた輝夜は、立ち止まり周囲を見回し――

 

「……あそこね」

 

 それを見つけた。

 

 廊下からも見える、永琳が薬草の類を育っている中庭。そこにぽつんと置かれた、プレハブ倉庫。純和風の佇まいを持つ永遠亭では少々場違いだが、立派な物置である。

 夜の遅くに何をガタガタさせているのか、輝夜は音の主に小言の一つでも言ってやろうと傍へ行き

 

「……あら、霖之助」

「おや、いらっしゃい」

 

 目当ての男が一人、そこに居た。

 いらっしゃいも何も、この屋敷は輝夜の物であって、招かれた者が受ける言葉など輝夜に向けられた物ではない。が、物置部屋で道具を片手に佇む霖之助には、そこが彼の領域だと主張している何かがあった。少なくとも、輝夜にはそう思えた。

 

「えぇ、で……お前は、ここで何を?」

「道具の鑑定をね。食事の用意も手伝ったのだし、後はこれをやって寝ようかと思って……で、どうでした、輝夜様?」

「何が、どうでした、なのかは分からないけれど、料理の事だったら……及第点ね。もっと精進なさい」

「お気に召さなかった……か」

「当たり前でしょう。濃いのよ、濃いのよあれ。まるで妹紅の殺気くらい濃いのよ」

「もっと平穏な喩えを頼む」

「永琳の外面如菩薩内心如夜叉より濃いのよ」

「多分それは君が悪い」

「そんな事ないもん。お前だって永琳の眩しい笑顔で怒髪、天を衝く、な姿見たら引くわよ。引くよ? 引くしかないわよ?」

「あの彼女をそこまで怒らせる君だから、悪いんだ」

 

 霖之助は道具を手に取り眺め、それを箱にしまい、また別の道具を手に取る。随分と慣れた姿だ。道具を扱う姿も、こうして少女――輝夜と言葉を交わす姿も。

 だから輝夜は、思ったままを口にした。

 

「貴方、道具を?」

「まぁ、道具屋だよ。君からすれば随分と埃臭い場所だろうけれど、僕には心地良いね。まるで僕の店みたいだ」

 

 常には見た事もない、少年のような屈託の無い笑顔を浮かべる霖之助。

 自身の店、またそこに置いてある道具が恋しく、そんな顔が出てしまうほどには彼も寂しさを募らせているのだろう。

 

「道具……ねぇ」

 

 傍にあった道具を無造作に一つ手にとって、輝夜は撫でてみた。

 が、やはり今目の前の霖之助が浮かべているような歓喜の感情は何一つ沸いてこない。

 

「分からないわね……どうせこんな所に在るのだから、どれもガラクタでしょう? 意味の無い物だわ」

「君にはガラクタでも、僕には意味がある」

「理解できないわね。必要な物は、意味の在る物だけでしょう? ……まぁ、貴方の事なんだから、私にはどうでも良いのだけれど」

 

 その若々しい顔に、世に醒めた老女の様な色を宿し、聞く者を酷く狼狽させる艶やかな佳しんだ声でそう言った。

 

「明日もそれなりに早いのでしょう? 早く眠りなさい」

 

 返事も聞かず彼女はくるりと回り、霖之助に背を向けそのままプレハブ小屋から出て行った。結局、彼女は霖之助に労いの言葉など掛けなかった。

 

「……」

 

 霖之助は、輝夜の出て行った後姿が見えなくなるまで無言で見送り――窓から差し込む、儚い光のその先を見上げる。細められた霖之助の目の先には、黒い空と、"赤い"星と、尚"赤い"月が一つ。それを見上げたまま、霖之助は思考を始めた。

 

 ――執事と言うのは……

 

 執事と言うのは、本来貴族の子弟にしか許されない貴い職業だ。

 メイドのような村娘でも教育を受ければなれる、そんな受け口の広い物ではない。それは職業と言うよりは、生き方と言っても良いだろう。彼らには志が在り、なければ執事として大成出来ない。志とは士に通じ、彼らは一人の烈士として忠誠へ殉じる為に生きる。

 

 家政を司り、一人だけの主を補い、自身の手柄と忠誠と命、全てを主人に奉じる。

 それらは無償だ。名誉は無い。

 日本戦国時代の小姓に近いが、小姓は後に独立する。

 が、執事は一生だ。彼らは長い任期を終えた後、ただ隠居するだけ。独立する事はない。

 

 ――僕をそんな物にするというのは、まぁ名誉な事ではあるけれど。

 

 あるが、霖之助が仮とは言え仕える彼女が、ああもちぐはぐでは意味が無い。霖之助は見上げたまま手にある道具を撫で、自身の持つ店を思い出す。そろそろ、潮時だ。

 こんな生活も悪くは無いだろうが、ここに森近霖之助という士の生きる志はない。士は自らの歩む道の烈士でなければならないのだから。けれども、現状が続く限り輝夜は霖之助を手放さないだろう。霖之助自身には理由も分からないが、輝夜は霖之助を気に入っている。

 であるならば、まずは彼女の歪さを如何にかするしかない。

 

――必要な物は、意味の在る物だけでしょう――

 

 それは矛盾だ。

 今彼女の傍には、その意味の無い物が在るのだから。

 

 ――あぁ、面倒だ。

 

「四つでは足りないから、人は億に届きかねないそれらを作った……なら、なぁ君。君の名を冠する彼女は、どれだけのそれらから探そうとしていると思う? いや……彼女が欲しいのは、果たして今あるそれらなのか?」

 

 霖之助は月に小さく話し掛け……そっとカーテンを閉じそこから出た。

 彼の朝は、明日も確かに早いのだ。極めて、不本意ながらも。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「……よぉ、グータラ」

「……なぁに、暇人」

 

 人里の小さな店が集まった通りで、それとそれは対峙していた。

 それぞれ、銀髪の付き人を従えて。

 

 事の始まりは、単なる輝夜の暇つぶしだった。人里に行って甘い物でも食べたいと言い出した彼女に、霖之助がつけられた。

 

『いや、僕は余り人里には』

『一人で行かせるなんて、危ないわ。危ないのよ、人里の人達が』

『そっちの心配なのかい』

『幸い、今は貴方と言う得がたい暇人、いえ、玩具、いえ、生贄、いえ、お目付け役も居ることだし、頼みたいのよ』

『幾ら僕がいい年をした男でも、流石に泣いてしまいそうだよ』

『大丈夫よ、貴方なら大丈夫。弄られる事にも面倒を見る事にも定評のある貴方だもの。ねぇ、貴方泣きそうな顔が一番似合ってるって言われたこと無ぁい?』

『人の話を確りと聞け』

『懐かしいわ……昔通知簿にもそんな事を書かれたわね』

 

 その通知簿とやらがどれほどの遥か昔の物であるかは兎も角として、こうして生贄は悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す天上天下唯我独尊気味なかぐや姫に捧げられるに至ったのである。

 

 霖之助自身、なにか永遠亭から逃げ出す為の切欠を探していたので、外に出る事自体に抵抗は無い。無いが、一人で出るなら私服でも出られるだろうが、輝夜が一緒となれば……恐らく、そうなるのだろう。事実、そうなった。

 

 人里に、見た目だけ清楚な和風っぽい大和撫子風味洋装お姫様と、銀髪モノクロオールバックアホ毛似非執事降臨。

 目立った。途轍もなく目立った。

 前に二人で里に降りた際も、様々な視線に晒されたのだが、今回も同等かそれ以上の好悪入り混じった瞳達が、霖之助と輝夜を不躾に眺めていた。

 輝夜はそれらの視線を無視し、泰然自若として優雅に歩みを続けるだけ。その背後に控える霖之助は、誰にもばれない様にと何かに祈りながら、背を這う不愉快な冷たい汗に苛立ちを募らせて歩いていた。

 

 と、そんな霖之助の視界に一つの草が目に入った。

 彼は立ち止まり、それに見入る。小さな、特に個性など感じられない花屋。文字通り、華やいだ色彩の咲き誇る一画に、"青"だけの場所がある。草の名を持ちながら、自生も殆ど出来ないか弱く細い"青"。

 

 ――あぁ、この一色だけが、今の……

 

 天啓か、それとも単なる見落としを今更見つけたのか。

 普段であれば通り過ぎるだけだが、今の彼には自由を取り戻す為に必要な札の一つに思えた。

 

 何事かに震える霖之助を、輝夜は数歩一人で歩いてから気付いた。彼女は口を開き、主を置いて立ち止まった霖之助を叱責しようとして――

 

「……よぉ、グータラ」

 

 驚いた顔をしながらも、しっかりと喧嘩を売る妹紅と、その後ろで頭を抱えている慧音に出会った。

 

 まさかこんな場所で会うとは思っていなかった、と妹紅は驚いた。

 きゅうりに蜂蜜をかけたらメロンの味になった時位驚いた。長く生きていると、そういった物を食べる機会にかなり恵まれてしまうらしい。

 というか食べすぎ。

 なんでも食べすぎ。

 

 兎に角、輝夜に出会った以上ジャブを放つのが妹紅であり

 

「……なぁに、暇人」

 

 いつ何時であれ、妹紅に出会えば死合う事しか基本的に考えない輝夜である。

 

 人里の、普通の通路。

 場所を考えれば荒事をすべき場所ではないのだが、そんなことは関係ない。例え今居る場所が神々の住まう豪華絢爛なる大廈であろうとも、その御前であろうとも関係はない。

 やる時はやるし、やらなくていい時でもやるのが輝夜であり、妹紅だ。

 流石千年に及ぶ殺し合いの歴史。常識なぞまさに豚の餌だった。

 

 さて、花屋の前で立ち止まっていた霖之助だったが、周囲の異様などよめきや、剣呑な空気に当てられては、流石の彼も長考癖からの帰還と成った。その異質な黒い熱気と剣呑な渦の中心が、視界の先に居る輝夜である事に世の無情がどっと彼の双肩に寄りかかって来たが、無視する訳にも行かない。

 霖之助は輝夜に、目立たぬように歩み寄り声を掛けようとして――彼女と、彼女に対峙する少女と。その少女の後ろに居る、銀髪の少女の姿を見た。

 

 何か言葉を発しようとした口は、開いたまま塞がらず、見る者に失笑させる様な間抜けな顔になった。為った筈なのだが、どうした事だろうか。霖之助の視線に気付き、瞳に執事姿の霖之助を映すその少女の顔には失笑の相など欠片も無く。

 

 ただただ、驚き一色だけが鮮明に浮かんでいた。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

「は、まだ10杯目か輝夜……今日は私の勝ちだな。おかわり、持って来い!」

「く……おかわり! 早く持って来なさい!」

「……」

「……」

「うぷッ……ほら、お前ももう限界だろ……輝夜。早くうぷッ……降参しろって」

「ウプッ……それは、こっちの台詞よ、妹紅……どうせ逆転負けが決まってるんだから、さっさと降参しなさいよ……ウプッ……」

「……」

「……」

 

 人里にある甘味処の一幕である。

 店には客が四人、従業人たちが数名。

 それだけしか人影は見えない。当然だか、これはこの店の日常風景の一つではない。決して無い。

 その辺りは、店の奥でガタガタ震えながらお汁粉を作り続ける元従業員達、現お汁粉製造機械と、テーブルの傍で半泣きになって待機している女給を見れば分かって貰えるだろう。

 

 あの後、何処からか鉈を取り出した少女二人による死とグロと欝の演舞は、慧音の説得によりどうにか中断された。人里の通りの真ん中でスプラッター映画監督もトラウマを負って泣いて逃げ出すような、爽やかな汗と眩しい笑顔と白球を追いかける代わりに真っ赤な何かを追いかける血の雨と肉片が飛び散り降り注ぐ美少女二人の鉈の応酬IN青春群像劇など、良識人の慧音としては心底勘弁して欲しかった。

 

 勝負に水をさされた彼女達は、お互い頬を膨らませて睨み合っていた。愛らしい姿ではあるが、それが殺し合いを邪魔されたから、などと知れば愛らしい等と言っていられるかどうか。

 一度火の付いた闘争本能が収まらない二人、そして輝夜の背後に無言で佇む執事姿の青年。どう見ても厄介事である。背を向けて今すぐ家に帰るのが、上策だ。

 しかし、それでも慧音は提案をした。

 

『平和的な勝負をしたらどうか』

 

 と。

 

「……これで、22……」

「まだよ……私は、まだ……いけるわ!」

「……」

「……」

 

 その結果が、この甘味処でのお汁粉バトルとなった訳である。

 言うまでもないだろうが、どちらが多くお汁粉を食べられるかを競うバトルである。少なくとも、脳漿や内臓がばら撒かれる心配はこれで無くなった。ちなみに、負けた方が全額負担。

 

 いつもならどんな勝負事であれ、頭を抱えて、またはハラハラしながら見ているだけの慧音であるのだが……

 

「……」

「……」

 

今日はかなり違った。

 

「もし」

「……」

 

 話しかけても答え一つも返さない、執事服の青年が居るからだ。輝夜の傍にそんな姿でいるのだから、見た目通り事実執事なのだろう。だが、問題は執事であるというよりも、その中の人だ。厳密には人でもない訳だが、その辺りは割愛する。

 

「もし、どこかで会った事は、ありませんか?」

「……」

 

 やはり青年は無言だった。

 会った事も何も、彼女が良く知っている存在である。あるが、彼女はまだ確信を抱いていない。彼女の中に居る彼は、こんな姿をして表を歩くような男ではないし、執事と言う仕事をする様な男でもない。出来ない、とまでは思わないが、まずやらないだろうと彼女は思っていた。

 その思い込みに、今の所花屋で買った物を抱える執事姿の青年――霖之助は助けられていた。

 

 助けられていたとは言えども、油断は許されない。

 いつばれるとも分からないこの状況、声を出すなど以ての外だ。

 なにせ今霖之助の前に座り、怪訝そうな顔を見せている少女――上白沢慧音は、霖之助にとって自身を語る上で必ず出てきてしまう様な、縁の深い少女なのだ。

 そう、二人の関係は

 

「すいません……どうも私の幼馴染に、貴方が良く似ているもので……」

 

 物心着く前から、今まで続く物だ。

 

 出会いなど、霖之助はもう覚えていない。そしてそれは慧音も同じだった。

 気付けば、二人は傍にあった。まるで鶺鴒の番のように。

 そんな二人であるから、永琳による魔改造の入った変装も見破られる一歩二歩前であり、今でもかなり怪しまれている。その上声まで出そうものなら、間違いなく慧音に気付かれてしまうだろう。慧音ならばれた所で特に何もしないだろうが、それでも霖之助の矜持は黙っていないのだ。

こんな姿を幼馴染に見られ、あまつさえ見破られよう物なら、暫らくはまともに息をする事も出来ないだろう。

 過度な表現であるが、その位に霖之助のプライドは高かった。プライドだけは。

 

 霖之助はもう、全てを神に委ね、時が過ぎるのを待つ事しか出来ない哀れな子羊となっていた。もうどっちの勝ちでも良いから早く終わってくれと、彼は天上の神々へ乞うた。

 願いを叶えてくれるなら、どんな神でも、邪神でも良かった。

 

 霖之助が必死に何かへ祈りを捧げていると、突如軽い揺れが起きた。何事かと霖之助が見ると、そこにはテーブルに伏せた妹紅の姿があった。どうやら、受身も取らずそのままテーブルに倒れたらしい。

 

「……おぇ」

 

 外見上の年頃な女性らしからぬ声を出して、妹紅はぴくりとも動かなくなった。

 

「ふ、ふふふ……どうやら……私の……勝ちね」

 

 口元を手で隠しながら、輝夜が青い顔で微笑む。慧音がやれやれと言う顔で妹紅の介抱をしている姿を、苦しそうな、羨ましそうな顔で一睨みし……輝夜は弱々しく首を横に振ってから、霖之助に声を掛けた。

 

――そして神様は、霖之助ににっこりと微笑んだのだ――

 

「……帰るわよ、霖之助」

 

 多分その神様疫病神とか貧乏神。

 

 そして、輝夜はそれだけを口にして、妹紅と同じ様にテーブルに突っ伏した。

 残ったのは、呆然とした慧音と……同じく、呆然とした霖之助。

 

「……」

「……」

「……りん、の……すけ?」

「……」

「そ、そ――」

「これは、なんというか、その、いや、違うんだ、まず話を聞いてくれ慧音」

「そのアホ毛、やっぱり霖之助だったんだな!」

「まずそこで判断していたのか、君は」

 

 とりあえず。

 どうでも良いから早く帰ってくれと、店員達は思った。心から。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 人里から竹林へと向かう、小さな道がある。かつては竹を必要とする職人達だけが使用していたような荒れた道だったのだが、ここ最近では、人里の人間達が竹林の中にある診療所に向かうため頻繁に使われ、それなりに整備された道になっていた。

 

 その道に、四人と二人の影があった。

 

「そうか……それで店を閉めていたのか」

「極めて不本意ながらね」

「……ふむ、そういう顔だな、霖之助」

「それ以外の顔なぞ、出来よう物か」

「軽口がきけるなら、そう酷い待遇でもないんだろう?」

「……まぁ、あぁ、うん、それなりだ」

 

 慧音がお汁粉の食べ過ぎで気絶した妹紅を、霖之助が同じくお汁粉でダウンした輝夜を負ぶって、ゆっくりと歩く。お汁粉で気絶する不老不死とか、正直どうなんだろうと慧音と霖之助は思ったりもしたが、適当にさっさと担いで帰ろうと言うことになった。

 案外と冷たい二人である。見捨てないだけマシかも知れないが。

 

 お汁粉の猛攻に胃をやられた二人を背負って帰るその道で、慧音から事の経緯を説明してくれと頼まれ、霖之助は渋々と語ったのだ。

 

「……なんだ、結構楽しそうじゃないか」

「君の耳は大丈夫か」

「至って健康だ。ん? そうだ、丁度いい。永遠亭に居るのなら、八意女史に診てもらえ、どうも健康から程遠い存在に見える、お前は」

「至って健康だ。君こそ診てもらえ。耳と目、両方だ。確りと診てもらえ」

「体を心配する幼馴染になんて言い草だ。昔のお前は、それはもう素直で素直で……」

「思い出なんてものはね、慧音。大抵美化されているんだよ。そんなのは君の中だけにある幻だ」「じゃあ、私もお前の中じゃ美化されているのか?」

「……さぁね」

「まぁ、いいさ。にしても……水臭いな、霖之助。今まで黙っているなんて。近くに居た筈だろうに」

「嫌だったんだよ、こんな、僕じゃあない僕を見られるのは」

 

 拗ねた様な――というよりは、完璧に拗ねた顔で霖之助を睨めつける慧音に、霖之助は自身の姿を指してそう言った。

 

「これは、僕じゃあない。僕は、香霖堂店主だ。こんな姿で、偽りでも人に傅くなんてのは、断じて僕じゃあ、ない」

「そして、巫女や魔法使いに弱みを握られたくなかった、と」

「君は、そうやって奥まで勝手に覗くから、嫌だったんだ」

「素直に言わないお前が悪い。なんだ、私が彼女達に漏らすとでも思っていたのか?」

「慧音……口をどう閉じたって、どれだけ塞いだって、一度知られた情報は決して一所には落ち着かないんだよ。それが隠したい事に限って、だ。しかもそれは、何故か一番知られたく様な連中にこそ、いの一番に伝わるんだ」

「人の世は、誰ぞの不幸ばかりが口に上る、か」

「ましてここには、人より性質の悪い存在が多すぎる」

 

 霖之助の脳裏には、一種一妖にして何処からでも出てくる胡散臭い妖怪とか胡散臭い隙間妖怪とか胡散臭い賢妖が浮かんでいた。あと烏天狗とか。

 とりあえず、これらにばれたらもうアウトである。

 霖之助的に軽く死ねる環境が一時間も掛からず造られる事だろう。永遠亭に一応在住している地上兎の総括にもばれているので、十分痛い現状ではあるのだが、彼女場合、自分達だけが知っていると言う優位性で霖之助を甚振る事に愉悦を感じているので、外へと広がる痛みは無い。

 無いが、結構痛い。この上、前述した二人にまでこれがばれよう物なら――

 

 真っ青な顔でぶるりと震える霖之助に、慧音は苦笑を零した。

 

「退屈とは縁遠いみたいで、羨ましい」

「当事者になったら、そんな事が言えるものか」

「あぁ、蚊帳の外だからな」

 

 胸を張って応える慧音のその顔は、少し口惜しげに歪められていた。寂しげにも見えるその慧音の表情に、霖之助は何かを言おうとしたが

 

「さて、私達はこっちだ。お前達は真っ直ぐだろう?」

「……あぁ、そうだね」

「じゃ、またな」

「……うん」

 

 声を遮り、慧音は妹紅を負ぶったまま背を向けて歩いていく。

 その背中に、もう一度声を掛けようと口を開き……霖之助はゆっくりと口を噤んだ。霖之助の瞳にうつる慧音の後姿が、霖之助に語っている。

 

 ――何も言うな。

 

 と。

 

「……本当に、君はいつだって男前だ」

「そうね、お前よりは男らしいわ」

 

 霖之助の独り言に、背から帰ってくる言葉があった。

 ぎょっとして、霖之助は自分の背負って居る少女を見ようとし……頭を叩かれた。

 

「もう十分よ、離しなさい。これ以上お前に背負われていたら、庶民の臭いが付いてしまうわ」

「酷い言葉だ……ここまで背負ってやったというのに」

「ここに居るお前は本当のお前じゃないのだから、礼を言う必要も感謝する必要も無いでしょう」「無茶な理論だ……いや、気付いていたのかい?」

「私が気絶なんてするわけ無いでしょう」

「いや、思いっきりしていたが」

「気のせいよ」

 

 霖之助の背から降りてパタパタと服を払う輝夜は、不機嫌そうに霖之助を見上げた。

 その顔に良くない物を見た様な気がしたが、霖之助は叩かれた頭を擦りながら、そのまま目を合わせ続ける。何か言いたい事があるならどうぞ、と目で訴えて。

 

 一分ほどそれは続いただろうか。輝夜は眉間に皺を寄せ、視線を外した。そしてそのまま、無言で背を向けて歩き出した。

 永遠亭の方向へ。

 霖之助の無言のまま、その輝夜の後を歩く。そのまま何一つ口にせず歩く仮初の主従達。ふと、霖之助が口を開いた。

 

「竹が、青いね」

「緑でしょう?」

「君ならば、何故青いと呼ばれるか分かるんだろう」

「……この国は、四つから始まった」

「そう、最初は四つしかなかった」

 

 黒、白、赤、青。

 

 たったそれだけしか、色を表す言葉は無かった。

 生い茂った生命力の溢れる葉は青葉であり、天に煌く黄金色の太陽も赤であり、小波に濡れる浜は白であり、夜に咲く薄紫の帳も黒だった。

 

「けれども、足りなくなったんだ」

「足りる訳がないのよ。四つでは、この世の全てを表現し切れない」

「そして、寂しすぎた」

「……感傷ね」

「寂しかったんだ、四つは。足りないという以上に、足りない事が足りない者達は寂しかったんだよ」

 

億にも届くそれらが、無いと言う事にされる世が。

四つだけにそれら全てを塗りつぶして、全てに代わり存在しろと言う人の世が。

そして、それを見る者が。

 

「多分、どうしようもなく寂しかったんだ」

 

「在って無く」

「無くて在る」

 

「そもそも、おかしかったのよ。黒は全てを塗り合わせてやっと出来る一色よ。なのに、白と赤と青を混ぜたくらいじゃ、黒にはならないわ」

「だから、後に他の色を作って黒になる様にしたんだろうさ。……少し違うが、ヘンペルのカラスだね。全ての色を並べて、黒ではないから黒以外の何かだと定義して、定義され排除された物を省きただ黒を探す……必要なものだけ見つけるようで、いや、なんと遠い道か」

「……」

 

 輝夜は、もう何も応えずただ歩き続けた。

 永遠亭が見えるまで、彼らは何も口をきかなかった。

 

「惜しいわよね」

「……うん?」

「惜しいのよ。お前、霖之助」

 

 玄関に入った際に成されたその会話が、その日最後の会話となった。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 赤い太陽。

 赤い空の中で、それは空に開いた穴の様にあった。空とは……神の住まう場所である。

空は全てを与える。水、光、生、死。そしてそれら全てを含む神。

 

 降臨という言葉を見れば、空がどれほど多くの豊穣と破壊を齎すものか分かるだろう。

 降りて臨む。

 上からだ。

 人が住まうのが地上である以上、降りてくるというのなら、降りる者達が発つ場所は空――天だ。太陽は光と生を司る。

 光が、温もりがなければ生物は生物として存在できない。なら、あの紅く燃える太陽が沈んだ後出てくる月は、なんであろうか。

 簡単だ。

 

「かつて、在った場所」

 

 そう、永遠亭の空を望める廊下で一人夜空を見上げる彼女の、かつて在った場所。

 そこはただ故郷でしかない。

 

 そして、闇と死を司る物。

 死とは光と温もりから離れ、冷たさと闇の中に落ちていく物。月が潮を引き寄せるように、死後の魂もまた月へ引き寄せられる物だと、かつて人は考えた。

 

 けれども、彼女にとっては故郷でしかない。知っているからこそ、彼女はそれ以上なにも思うことが無い。そこに幻想を抱く事も、夢想を思う事も出来ない。あそこは、ただこことは違う遠い土地であるとしか彼女には認識出来ない。

 

 首を横に振って、彼女はそっと息を吐いた。

 そろそろ暗くなってきた空の下、白く吐かれたそれに彼女はまだまだ寒いものかと思い、向かうべき場所へと歩いていった。足の向かう先は、中庭。そこにある、物置小屋と……そこに居るだろう彼女の従者。

 

 果たして、そこに霖之助は居た。

 彼女が前に見た時と同じ様に、子供のような顔で道具を片手に眺めている。

 ふと、道具を見る為に俯きがちだった霖之助が顔を上げた。輝夜の足音でも聞こえたのだろう。

 彼は輝夜の姿を見て、軽く手を上げた。

 

「まず立ち上がって一礼なさい、なによその軽い挨拶」

「すまないね、どうもここに居ると、自分の店に居るような気がして」

「なら、そこに住んでしまいなさい」

「なるほど、それも中々良さそうだ」

「……」

 

 ぽん、と自身の膝を打つ霖之助に、輝夜は頭を抱えて唸った。

 霖之助に用意した部屋は、そう悪い物ではなかった筈だ。

 なのに、この男はこんな埃っぽい上に狭い物置小屋の方が良いと思うらしい。感性が破綻しているとしか、輝夜には思えなかった。

 

「しかし、君は中々良い時間に来てくれる」

「?」

 

 怪訝な顔をする輝夜に、霖之助は応えずただ後ろから何かを取り出した。

 鉢。

 そして、そこのある"青い"草。

 

「身窄らしい草ね……」

「まぁ、弱い草ではあるかな」

「で、それが?」

 

 霖之助の手の中に在る草を興味なさげに、鼻を鳴らして見下す輝夜に

 

「この身窄らしい草が、今君が一番欲しがっている物、だろうと僕は思っている」

 

 霖之助はにやりと笑ってそう言った。

 今自分が一番欲しい物、と言われては輝夜も無視は出来ない。出来ないが、しかしどう見ても目の前にある貧相な草に思う事は無い。

 少なくとも、好い感情は沸いてこない。

 

「……この程度がお似合いだと?」

「まぁ、いま少しばかり見つめておくと良い。この草は、君のためだけに花の香を運ぶ事だろうさ」

「……ふーん」

 

 霖之助は手に持っていた鉢を床に置き、再び道具の鑑定に戻った。となれば、輝夜は一人でその草を見るしかない。

 見なくても良い筈だが、彼女にはここに来た理由がある。なら、少し程度は彼の遊びに付き合ってもいい筈だ。その程度の暇、彼女は嫌と言うほど持ち合わせているのだから。

 

 徐々に黒の色を深くしていく夜空の下、輝夜はずっとそれを眺め……そして、理解した。

 

「……月見、草」

「ご名答」

 

 青く身窄らしい草は、徐々に花を震わせ、そして白の大輪を咲かせた。

 

「夜に咲く、等と言えばそれだけの陳腐な花でしかないけどね。この花は、夜にだけ咲くから、陳腐ではないんだ」

「……」

 

 輝夜は、そう珍しくも無い筈のその花をじっと見つめ、ただ霖之助の言葉に耳を傾けた。

 

「名称は月見草、弱い草で自生は殆ど出来ない草だ。まぁ、その辺りはどうでもいいが……この草は、花の名を与えられていない」

 

 そう、月見草は草と呼ばれ、花を冠してはいない。

 

「夜にしか咲かないのだから、これが花であると誰も知らなかったのさ。彼らはこれを、草だと思った」

 

 遠い昔、人の生活は陽によって全て支配された。日が昇れば仕事を始め、日が沈めば家に帰ってやがて寝る。そんな単調な時間の流れの中で、当時の人間達は稀に道端に在るその草が、花であると知る事が出来なかった。彼らはそれもただの草であると信じ、疑わなかったのだ。

 

 では、何故夜に咲くのだろう。

 

「簡単な事だ。それは、名の通りでしかない」

 

 この草は、ただ月の為だけに花を咲かせた。

 貞淑な妻のように、誰かの為だけに在る誰かの様に、自身を殺してその為だけに在る花。それ以外の存在には、ただ草であると見向きもされず、馬鹿にされても良かったのだ。

 この花と……月は。

 

「この花の為だけに、月が昇るとお前は言うの?」

「花が月の為に咲くのなら、月が花の為に昇る事になんの矛盾がある? 結局、真実を知るのは月とこの花だけだ。僕らは彼らを汚さないのなら、どんな考えを持って良い。だろう?」

「……」

 

 輝夜は、黙って花と……月を見上げた。

 欲しかった物。

 欲しい物。

 今一番、欲しい物。

 

「君が欲しいのは、それだ。自分の為に在るもの、誰かの為に在る自分。一対の……相互」

 

 輝夜の脳裏には、少し前に見たメイドと主がぼやけて見えた。けれども、その二人の表情は鮮明に思い出せる。

 二人は、笑顔だった。とても綺麗な、不純物等一切ない、何物にも冒されない白一色の笑顔だった。

 

 妹紅は、退屈な世を繋ぎ止めるための楔のようなもの。

 永琳は、かつての師で、気の置けない友人のようなもの。そして彼女達には、彼女以外の何かを持っている。

 

 妹紅を心配する慧音。

 永琳に心酔し師事する優曇華。

 絆、楔と呼ばれるそれら。

 重く、疎ましく、それでも暖かく在るその枷。

 

 それは輝夜も一緒だ。輝夜にも沢山の楔と絆がある。

 けれども、輝夜はそれでも自分の、自分だけの物が欲しかった。欲しいのならば、対価を払わなければならない。

 

「なるほど……でも、誰かの為に在る私なんて――」

「そう、それはもう君じゃあ、ない」

 

 ぴしゃりと言い放って、霖之助は肩をすくめた。

 

「君がほしいのは、何処にも無い君だけの色と、この月見草と月の関係だ。分かっただろう? 無理だと」

「……そうね。自分の心の中なんて、分からない物だわ……霖之助、これの褒美をあげましょう」「僕が欲しい物かな?」

「えぇ、諸手を上げて喜ぶ事でしょうとも。有り難く頂戴なさい」

 

 輝夜は月と月見草から目を離し、霖之助をじっと、真っ直ぐ見つめた。小さな、艶やかに過ぎる穢れない唇が、小さく震え……零された音は夜に響いた。

 

「お役御免よ」

「恐悦至極にございます」

 

 苦笑したまま、霖之助は優雅に一礼した。

 月見草を手に去っていく、月の光できらきら光る輝夜の背に。

 

 霖之助の永遠亭での日々は、こうして静かに幕を閉じた。

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 さてさて、時は流れ日は過ぎて。

 霖之助は古道具屋へと帰ってきた。服装は勿論常の物であり、永遠亭で着用を強制されてきた執事服ではない。おかしな物で、窮屈だった筈のあの服が今では少し懐かしいとも悪くなかったとも、霖之助には思えていた。

 が、やはり彼の居場所は此処であり、彼の服は常のこれで無ければならない。

 霖之助はいつも通り、誰にも命令されない、させない退屈な日々を満喫しようと椅子に座っているのだが――

 

「で、どこに行っていたの? 旅行か何か? お土産は?」

「香霖、ほら、じっとしてってば」

「……」

 

 久方ぶりの香霖堂は、彼に安息など与えはしなかった。

 

「霊夢、そんなにお茶菓子とお茶を急いで口にしなくても、逃げやしない。魔理沙、退いてくれ。足が痺れてきた」

 

 どういったわけか、店を再開したその日から今日まで、自称常連客の少女二名が駐屯する次第となった。駐屯と言うほど物々しい事ではないが、この少女達の場合あながち間違いでもないから恐ろしい。どうにも、自分は不幸の星の下にしか居ないらしいと世を諦めかけた彼の耳に、カウベルの音が届いた。

 

「いらっしゃ――……なんだ、君か」

「あら、こんな所に四つ、全部あるじゃない」

「……なるほど、言われて見ればそうか」

 

 ――黒、白、紅、青。

 

 それは確かに、この店にいる三人が持つ色だった。

 霖之助は口元を手で覆い隠しくすくすと笑い、今しがた来店した少女――輝夜は鼻で小さく笑った。親しげな二人の様子に霊夢と魔理沙は顔を見合わせ、無意識のうちに霖之助との距離を縮めた。その程度に、二人の醸し出す空気は良くない物を持っていた。

 

「魔理沙、痛い、腰が痛い」

 

 魔理沙が膝の上から霖之助の腰をぎゅっと抱きしめていた。

 

「中々、愉快な状況ね」

「何が愉快な物か。輝夜、助けてくれないか」

「あら、嫌よ。楽しそうじゃない」

「何が楽しいも――痛い、痛い、力込めすぎだろう、魔理沙」

 

 更に込められた少女の両手の力にギリギリと絞られながら、霖之助は悲鳴に近い声を上げた。

 が、そんな物で離される少女の手ではない。

 

「ここは、私の日常の証みたいなものなの。輝夜、さっさと出て行ってくれない?」

「ここにお前の欲しがる様な物はないぜ。あっても私が貰うしな」

 

 霖之助の隣で、威嚇するように細められた目で輝夜を射抜く霊夢は兎も角、魔理沙の弁は酷かった。酷かったが、どうあっても改善できない悪癖なので、もうどうしようもない。痛みで歪んだ霖之助の顔が、どうにもならない諦めで更に歪む。それを見て、輝夜はけらけらと笑った。

 

「……で、何の御用ですか? お姫様」

「そうね……寂しいでしょう?」

「……?」

 

 きょとんとする三人に、輝夜は――

 

「色がたったの四つじゃ、寂しいでしょう? ここに私が混じれば……いつか私の欲しい私だけの色が出来るのよ、きっと」

 

 とても綺麗な、不純物等一切ない、何物にも冒されない月見草の花のような、白一色の笑顔で。

 

「今は無理でも……ねぇ?」

 

 そう彼に歌った。

 

 

 

 

――了

 

 

 

 

 足りない足りない、お姫様にはそれが無い。

 けれどいつかは、きっと在る。


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