香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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『嘘つき兎はそこで笑う』 メイン:霖之助 てゐ
嘘つき兎はそこで笑う


 その日、魚を貰った。

 

「……これはまた、良いんですか?」

「えぇ、道具を買うにも、わたしは銭なんて持っちゃいないもんで」

 

 人里から少々離れたところにある、瘴気漂う森の入り口に佇む香霖堂と呼ばれる店内で、店主と客が向き合っている。

 店主の方は見た目が華奢で若く、特徴的な黒と青の服がよく似合っていた。客の方はがっしりとした巨躯であり、顔は年を重ねた分だけの皺が刻まれている。眉も顎も頬も目も厳つく、一見しただけでは堅気に見えないのだが、その顔に浮かぶ表情はとても柔和で、彼の持つ雰囲気は気のいいお百姓と言った言葉が良く似合う、総じて言えば実に無害そうな中年の男だった。

 その様な男から魚を受け取った店主――森近霖之助は、珍しく笑顔で感謝の言葉を述べた。

 

「有難う御座います」

「いやいや、店主さん。そんなマシなモンじゃあないさ。たまたま、それなりのが釣れたってだけのモンだよ。いつもは坊主で、女房に馬鹿にされるのが当たり前なんだから」

 

 霖之助の態度に照れたのか、中年の男は言い訳のような事を口にして、胸の前辺りで手をぱたぱたと振っていた。普段憮然とした顔で居ることが多い霖之助の笑顔と、素直な感謝の言葉が面映ゆかったらしい。

 男はそのまま買い取った道具を手に取り、一度会釈して店から出て行った。その顔に浮かぶ表情通りと言うか、実に気のいい男である。

 霖之助は自身の客の、しかも多くは無い人間の客の一人にそんな者が居ることを嬉しく思いながら、道具を売った際に代価として渡された魚を眺める事にした。どうやら釣ったばかりであるらしく、まだ鮮度は落ちていない。

 

 冷蔵庫――恐らくは明治時代辺りのそれ――に入れれば、長持ちはするだろうが、傷む物はどうやっても痛む。生物なら尚更である。刺身として食べるのであれば今の内だろうし、焼くにして旨味が生きているうちに焼いたほうが美味いに決まっている。

 どうやって食べようか考え込み、数秒後。霖之助は結論に至った。

 

 煮るも焼くも捌くも、いいだろう。が、こういった事は案外と単純な事で決まる物だ。

 

 ――そうだ、天麩羅にしよう。

 

 その日の気分により、そうなった。

 そして霖之助は魚を片手に、普段余り用事の無い台所へ向かい――

 

 

 

「全治一週間です」

 

 

 

 両手に火傷を負った。

 ただそれだけの事だった。

 

「しかし、随分とまた派手にやりましたね、森近さん」

「……返す言葉も在りません」

 

 とある診療所の中にある一室で、霖之助は白衣の下に青と赤で彩られた奇妙な服を着る女性――永琳と向き合っていた。自身の手を、永琳のたおやかな手に預けて。

 普段ならまともに日に当たらないが故に、男性としては白すぎるその手が、真っ赤に爛れていた。

 

「それで、痛みは?」

「やはり無いですね」

「……」

 

 自身の手に預けられた霖之助の手のひらを突きながら、永琳はため息を吐いた。これほどの火傷を負い、更に痛みが無いとなれば重症だ。本来は一週間などで治る物ではないのだが、そこは八意永琳の頂とする診療所。純粋な治療技術から非科学的な治療までどんと来いな幻想郷一のとんでも医療機関である。

 逆に言えば、そんな場所でも全治に一週間掛かると言う辺り、霖之助の負った火傷の深刻さが伺える。永琳は預けられていた霖之助の手のひらから手を離し、机の上にあったカルテを取る。

 

「確か……天麩羅を揚げようとして、鍋をひっくり返してしまった……でしたか?」

「はい、その通りです」

 

 カルテにペンを走らせながら、永琳は霖之助と言葉を交わす。その言葉は硬く、親しさなど一切感じさせない。それもその筈。

 二人はさして親しくない。

 霖之助の営む店はある程度扱う商品に幅があるため、永遠亭の存在達も利用するが、その際買出しに来るのは優曇華やてゐだ。永琳は殆どそれを命令する立場に在るだけで、ごく稀にしか直接香霖堂に顔を出す事はない。今でこそ逆の立場ではあるが、客と店主でしかない二人なのだ。その為かどうしても言葉が硬く、外向きの対応しか出来ない。

 

その硬質な空気の中、霖之助は自身の情報が記されていくカルテをなんとはなしに眺めたまま、口を開いた。

 

「そろそろ良いでしょうか? 僕も店があるので」

「――」

 

 その何気なく出された言葉には、さしもの永琳も驚いた。今、彼女の目の前で椅子に座る男は、何を言ったのだろうか。永琳はカルテに走らせてペンを机の上に置き、真っ直ぐに霖之助の見つめ――いや、睨みつけた。

 

「手に感覚はなく、突かれても痛くも無い。そんな重症で、日常の動作が行えるつもりですか、森近さん?」

「……」

 

 霖之助は眼を瞬きさせて、そしてゆっくりと自分の手のひらを見た。真っ赤で、焼け爛れている、常とは全く違う自身の手のひら。

 

 彼の行為は良くある事だ。長い道を歩いた存在に多い――かつては永琳や輝夜にもあった事だ。 妖怪と人間は近い。差異など殆どなく、交配が可能な種も在るほどに。精神構造、肉体の器官の配置、それらは確かに近い。しかし、近いと言うのは同じではない。

 

 妖怪は人間とは違う。

 その最も足るものが、有した時間である。彼ら、または彼女らの生は長く、その身体能力も人とは比べ物に成らない。傷を負えどもすぐ治り、病に伏せる事など個体差もあれほぼ皆無だ。故に、自身の体が現在如何なる状態に置かれているのか、無関心になってしまう事がある。永琳や輝夜や妹紅の様に、文字通り不老不死であればそれもさしたる問題ではない。

 が、霖之助は違う。

 ただ人より多少は頑丈と言う程度の存在でしかない。間違いは、早めに正すべきだ。

 永琳は息を小さく吸い込こんでから、言葉を放った。

 

「良くある事です。長い生を歩み、怪我もすぐに治る妖怪やそれに近い存在は、ごく稀に負う重度の傷に中々気付けず、また余りに無頓着になります。幾ら命が長かろうと、それは自ら生を縮める愚かな事ではありませんか? そうは思いませんか、森近さん」

 

 ――その通りだ。

 

 霖之助は素直に思った。

 長い事物騒事から距離を置き、傷らしい傷を負わなかったからだろうか。どうにもそういった事に対して自身は無関心になってしまっているらしいと、霖之助は自分の迂闊さを恥じた。人よりは治りも早いだろうし、いつか治る物だ。けれども、それは今すぐ治るような物ではない。

 今不安が無いからと言って、今この時、長い時間から見ればほんの僅かな数日、問題が無いわけではないのだから。

 

 ゆっくりと頭を振り、霖之助は頭を下げた。普段の負けん気も、流石にこういった際にはなりを潜めるらしい。ましてこれは年長者、しかも医師からの忠告でもある。特に葛藤も無いまま、彼は頭を下げると言う行為を為せた。

 

「医療に携わる方の前で、なんとも愚かな事をしてしまいました……申し訳ない」

「いえ、理解さえして頂けるのなら構いません。それで、森近さん」

「はい」

「流石にその両手ではお困りになるでしょうから、こちらに入院という事になりますが……」

 

 なるほど、そうなるだろうと霖之助は思った。実際両手がこうもなれば、今まで通り動かす事もできない。

 であるなら、入院と言うのは当然出てくる選択肢であり、それを拒む理由も彼には無い。全く無いわけではないが、この両手では店など開けた物ではないし、むしろやって来た客に迷惑をかけかねない。それ以上にそんな弱みを見せるのは、霖之助にとって嫌な事だった。

 勿論、よく来店しては何も買わず帰って行く魔理沙や霊夢に弱みを見せるのが最も嫌だったわけだが。

 しかし、入院となれば――

 

「その程度の持ち合わせなら、なんとか」

「いえ、そうではなく」

「はぁ?」

 

それなりの金銭が必要なのだろうと彼は思ったのだが、複雑そうな顔の永琳を見る限り、どうやら違うらしい。

 

「その……申し訳ないのですが、他の患者さんも居ますから、森近さんだけを確りと診れないのです」

「それは、そうでしょう」

 

 この診療所はそれなりに繁盛しているのだから、それはそうだ。

 永琳はその言葉に少しだけ救われたという表情で、言葉を続けた。

 

「それで……その、何時もなら助手をしている優曇華も、少し前から体調を崩しがちで、やはり同じ様に確りとは診れません」

「なるほど」

 

 霖之助が察するに、どうやら片手間でしか診れない事を恥じているらしい。しかしそれは仕方の無い事だ。

 

「いえ、構いません。少しでも助けて頂けるのなら、それ以上は望みません」

 

 我を通すつもりはない。

 己の職分の中にある事を行えないと恥じる永琳に、霖之助は辛く当たる理由も無かった。

 

「いえ……四六時中でも貴方を助ける事が出来る者が居るんです。居るんですが……」

「……はぁ?」

 

 分からない。彼女が何を言いたいのか、さっぱり霖之助には分からない。

 永琳は申し訳なさそうな、それでいて若干苦しそうな顔をして――

 

「恨まないで下さいね?」

 

 そう言った。

 

 

 

 

『嘘つき兎はそこで笑う』

 

 

 

 

 何もせず、霖之助は天井を眺めていた。

 入院が決まってから、宛てがえられた一室に敷かれた布団に伏せったまま、彼はただ天井を眺めていた。その部屋は広く、一見質素なのだが良く見れば手が込んでいる。襖は上質の紙と檜で組まれており、活けられた花も実に芳醇な香りを漂わせている。

 他にも散見される柱に掘られた彫刻や、品の良い箪笥等がその一室の質の高さを物語っていた。その様な部屋で、両手が不自由とは言え上げ膳下げ膳、一時だけとは言え俗世の事も忘れて何もせず生活できると言うのだから、さぞ楽な事だろうと思うのだが、

 

「……」

 

 布団に伏せたまま天井を眺める霖之助の顔には、それらに対する有り難味など一切無かった。

 本当に一切無かった。

 

「……はぁ」

 

 そこに在る表情は、どう見ても諦めとしか呼べないそれだった。そんな表情を浮かべたまま、天井を眺める霖之助の耳に異音が入り込んできた。するとその浮かんでいた感情は一層深く濃い物となり、見る者を不安にさせる絶望としか呼べない物になってしまった。

 異音――足音は徐々に大きくなり、それがぱたりと止まった。丁度――そう、丁度霖之助の今居る、この部屋の前辺りでその音は途絶えたのだ。

 霖之助は何もせず、何も言葉にせず、一切の全てを捨ててそのまま布団に伏せる。

 

 一拍。

 

 足音が途絶えてから僅か一拍の後、からりと襖が開き、それは質素でありながら隠しきれない豪華さを醸し出すその一室に転がり入り込んできた。大きな箱を持って。

 

「貴方の幸せ白兎、因幡てゐただいま参上」

「出口は、今君の居るそこだよ」

 

 二人の温度差は、如何ともし難い物だった。

 

 

 

   ■ ■ ■

   

   

 

 案内された一室を見たとき、霖之助は何かの間違いではないかと、横に居た永琳に言った。これから降りかかるだろう災難を思えばこれでもまだ足りない、と永琳が零したのが、霖之助にはこの時はまだ不可解だった。

 兎にも角にも、通常料金でこれほどの部屋に一週間寝泊り、しかも今は不自由な自分の面倒まで診てくれると言うのだから、霖之助にはこの部屋を断る理由など一分も無かった。

 

 無かった。無かったのだが――……

 

 今となってはこの部屋でも勘弁して欲しいと、彼は思っている。

 

「という訳で、ここにお金をポンとお願いします」

「断るよ」

「ここにお金を入れるだけで、幸せになれるのよ?」

「入れた時点で、僕の不幸は確定だ」

「それさえも塗りつぶす国士無双の幸せが訪れるわよ?」

「それこそ、まさに詐欺だ」

 

 国士無双と言うのは、漢の高祖劉邦の部下、後に斉の国王となってしまった韓信を表した言葉である。つまりは人物に対する言葉であって、その様な使い方は正しくない。

 霖之助は布団に伏せたまま、てゐは自分で押入れから出してきた座布団に正座して。持って入ってきた大きな箱――募金箱か賽銭箱か、いまいち判別出来かねる物を霖之助に突きつけて、二人は言葉を交わしていた。

 

「いや、それ以前にだ。怪我人に金銭を要求するというのは、どうなんだろうか?」

「あら、幸せになるためよ? 必要経費じゃあなくて?」

「どんな事にでも何がしかの犠牲が必要だと言う意見には賛成するがね、僕は今、特に幸せが欲しい訳ではないよ。あぁいや、この拷問から逃げられるものなら、その国士無双の幸せとやらも欲しい気がするけどね」

 

 げんなりとした顔で霖之助は言った。つまりは、目の前の少女が霖之助をこうも気落ちさせる原因であるらしい。

 

 因幡てゐ。

 永遠亭の地上兎達の総括――親玉であり、一応優曇華の部下と言う事になっている存在である。あるが、余り優曇華の命令を聞かない。聞かないどころか、まず耳に入っていない。

 どちらかと言うと永遠亭の住人と言うよりは、永琳の協力者であって、永遠亭の縦構造の中から外れた存在であるらしい。もともと地上兎のてゐである。

 月の住人や月兎に対する尊敬の念も、格別な思いも在りはしない。

 そういった、自身に素直で気ままな少女である為か。それとも霖之助が気に入ったのか、はたまた生来の悪戯癖が騒ぐのか。もっと単純に、弄る者は弄られる者を見分けられるという迷信か。霖之助が入院し、専属の看護士として着けられて以来、毎日毎日ちょっかいを出すのがここ最近の彼女の日課だった。なんとも迷惑な日課である。

 

「まぁ、それは置いといて」

 

 てゐは手に持っていた箱を横へと無造作に置き、その中からミトンを取り出しそれを付けてから、再び箱の中に手を突っ込み……小さな鍋を取り出した。

 

「……便利な箱だね」

「募金箱兼お盆よ。凄いでしょう?」

「その発想が凄いね」

「多分世界初ね」

 

 兼ねるというのは、利便性を追求した上で機能を合わせるということである。この場合――つまりは、お盆と募金箱は共存しない。出来ない。

 そんな物、誰も必要としないし作ろうと思わない。それを必要とする事態はまず訪れないだろう。むしろ訪れたら怖い。

 

 ――いや、本当に在り得ないだろう、それは。

 

 霖之助はてゐの横に置かれた箱を見つめながら、心の中で突っ込んだ。そんな疲れ気味な霖之助の口元に、レンゲが差し出された。

 

「はい、あーん」

「あぁ、どうも」

 

 箱の中から取り出された小さな鍋の中身は粥だったらしい。

 自身の口元に突きつけられたレンゲに小さく息を二、三度かけてから、霖之助はそれをゆっくりと口に含んだ。

 

「冷まさなくても、私がもう冷ましておいたわよ?」

「……それを僕が信じるとでも?」

 

 何やら悲しそうな顔を『見せて』いるてゐに、粥を嚥下してから霖之助は反論した。

 

「あれはそう、もう忘れる事も無いだろう。ここに来て三日目だ。君は粥を持ってきてくれたね」「うん、愛情たっぷりの粥を持って来たわねぇ」

「君は僕の口にそれを運ぶ前に、冷ますような素振りを見せていた」

「ふー、ふーってしてあげたのよね」

「そしてそれを口に含むと、とても熱かった。あぁ、とても熱かったさ」

「あら、不思議」

「何が不思議なものか。そこ、本当に不思議そうな顔をするんじゃあ、ない」

「世の中、不思議な事が多いって言うものねぇ」

「君がやった事だろう。何が不思議なものか。だいたいね、君は初日以外、僕にこんな事ばかりして――」

「はい、あーん」

 

 霖之助の説教から逃げる為か、それともただ単に困った顔が見たいのか。てゐは再びレンゲで粥をかちゃかちゃとかき混ぜ、それを冷ましてから霖之助の口元に突きつける。

 

「……」

 

 霖之助はまだ言い足りないと言った顔ではあったが、無駄かと諦め、素直に口を噤んだ。

 そもそも、口で勝てる相手でもない。霖之助の前で、それはもう楽しそうな顔で佇む少女は、曲者揃いの幻想郷でもかなり口達者な存在であるし、男と女の言葉遊びなぞ古来より男が負けるのだと決められてきた事だ。男が女に勝ちを譲ってきた訳ではない。どうあっても、男が女に口で勝てないだけの事だ。

 今となっては口だけ、という訳でもないが。

 

 霖之助は再び口元に差し出されたレンゲに、ふーふーと息を吹きかけてから、ゆっくりと口に含んだ。

 

「だから、冷ましてるってば」

「……それを僕が信じるとでも?」

 

 粥を飲み込み、喉元を過ぎていく暖かさを感じながら、霖之助は思った。

 

 ――随分とまぁ、薄味な粥じゃあないか。

 

 そっと仰ぎ見た天井には、しみも汚れも、何一つ在りはしなかった。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 どこからか聞こえてくる雀の声に、霖之助は目を覚ました。何をするでもなく、そのまま数分布団の中でぼうっとし、もそもそと動き出す。両手に巻かれた包帯に悪戦苦闘しながら、彼は寝る前に外し、枕からに少し離れた所に置いた眼鏡をかける。まだ季節は寒さを残した頃で、この朝もやはり寒いものだった。

 

 霖之助は朝の寒気に当てられ、背をぶるりと一度震わせた。

 となれば、妖怪も人間も半妖も大差ない。生理現象である。

 包帯に巻かれた両手は不自由だが、流石にこういった事で少女の姿をした存在に世話になるのは嫌であるらしい。厠に行こうと立ち上がり、襖をあけ廊下に出た霖之助は

 

「――ッ!?」

 

 盛大に転んだ。

 両手が使えない為、頭から転び、これは不味いかと思ったが――そこには座布団が敷かれていた。ぽすんと座布団に頭を落とし、鼻腔をくすぐる幽かな。本当に幽かな優しさを感じさせる香りに驚き、これは何だと彼は混乱した。

 

 が、今はそれより気になることがあった。足の裏。自身の足の裏に、異様な感触がある。

 霖之助は何を踏んだのかと確かめようとし――それを見た。

 

「……バナナの、皮?」

「あらあら、まぁまぁ、霖之助さんったら、こんな所で転んじゃうなんて。なんて鈍臭い方なんざましょう」

 

 背後から、もう楽しくて楽しくて仕方ないと彩ってしょうがない声が響いた。霖之助は後ろに振り返り、声の主を確かめた。恐らくは――と言うより、十中十、間違いなく当たりを付けて。

 

「……君だ。これは、君だ」

 

 断定した。彼は断定した。やったのはお前しかいないと。

 

「ううん、わたしわかんないなぁ」

 

 垂れ下がった兎耳を持つ少女、てゐは知らぬ者であればころっと騙されてしまうような笑顔でそう歌う。が、その音色は余りに平坦に過ぎた。つまりは、棒読みである。

 それではやったのは自分だと言っているような物だ。

 

「君は……なんで僕にこうも悪戯をするんだろうか」

 

 ゆっくりと、両手に負担が掛からないように霖之助は起き上がり、どうしても刺々しくなってしまう言葉を零した。ここに来て五日。そのうち飽きて辞めるだろうと思われた、てゐからの悪戯やちょっかいは未だ無くならない。意外な事に確りと霖之助の面倒を見るてゐだ。

 怪我人相手にすべき事でないと言うことは、理解している筈である。あるが、無くならない。

 それはとても不思議な事だった。諦めより先に不思議だと思えるほどに、それは不思議な事だった。

 

「こんな事、君に一体なんの益があると言うんだい。僕にはさっぱりだ」

「楽しいでしょう?」

「君がね。僕は全く楽しくない」

 

 兎だと言うのに、どこか猫の様な素振りで自身に近づいてくる少女に、霖之助は感情のない言葉で返す。てゐは敷かれていた大き目の座布団を両手に抱き、霖之助を見上げた。にんまりと、楽しそうに。

 

「そうね、私は楽しいわよ? ここの皆には、そろそろ飽きてきた頃だったし」

「迷惑な話だ」

 

 本当に迷惑な話だ。

 霖之助はそう思う。

 

「けれどね、あんたも悪いと思うのよ?」

「なんでだい」

「だって霖之助、ずっとムスーっとしてるじゃない」

 

 それでは相手は面白がって続けてしまうだけだ、とてゐは笑顔のまま言う。

 

「だからと言って、限度がある」

「でも、まだ霖之助の限度まで届いていないでしょ? あんたはまだ、余裕を持ってるもの」

「……君は、実に厄介だ」

「あら、褒められちゃった」

「何一つ褒めちゃあいないよ」

 

 褒められたと嬉しそうな顔をしているてゐに、霖之助は無駄だと分かっていても突っ込みを入れる。それがてゐを――紅白や白黒も――喜ばしている等と、彼には気付けない。

 

「君は、一度人里の寺小屋に行って清規を学んでくるべきだ。いや、女今川のさわりだけでもいい」

「懐かしい言葉を聴いたなぁ……そんな言葉、今時通じるものじゃないわよ?」

「通じているじゃないか」

「世間一般の話としてよ。どっちにせよ、嫌なこった、ね。寺小屋の先生って、あの白沢でしょ? あぁ面倒面倒」

 

 規則を重んじ調和を尊ぶ慧音と、悪戯を好み食言を重ねるてゐの相性は良いものではないらしい。当然の事ではあるが。

 

「……はぁ。僕はこのまま厠に行くよ。……分かっていると思うけどね」

「はいはい、流石にそんな事にまでちょっかいは出しませんよーってば。あぁ、あと、はい」

「……?」

小さな手ぬぐいが一つ、てゐの手のひらにあった。

「足の裏、気持ち悪いでしょ? だからはい。足上げて」

「……」

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 彼女は、悪戯も世話も確りする。

 前者は辞めて欲しいが、後者は現在の霖之助には必要な物だ。ただの悪戯好きなら、どちらかと言えば少女達の暴挙に寛容な霖之助でも雷の一つや二つ、そろそろ落すところなのだが、先程の通り、悪戯を帳消しにする事も忘れていない。嘘もつくが、それも後で実害が出ないうちに自分から嘘だと言う。

 

 厠から出て、長い廊下をゆっくりと歩きながら彼は思考を続けた。

 何故彼女は悪戯を続けるのか。それも態々あそこまで準備しておいて、だ。

 彼女は霖之助が転んだ際、どの辺りに倒れるのかまで予測してあれを為した。その予測能力と労力は、方向さえマイナスに向かう物だが、大した物である。ただ、褒められた物ではない。

 それでも彼女は――てゐはそれを為す。

 何がそうさせるのか。霖之助は考え続けた。

 

 いたずらとは、悪い戯と書く。そのまま簡単に読めば、わるいぎ、だ。

そこから最初の一文字、わと言う文字を抜けばどうなるか。答えは、るいぎ、つまり類義となる。この言葉の意味は、形は違えど近い物、である。そこへ最初に外した、わを和と成して戻すと、和類義となる。そう、これは和を以って類義と成すという意味を持つ言葉になるのだ。親しい者や親しくなりたいと願う者へと行われる戯れであるのだから、これはもう間違いない。遠い存在へ、近くになろうとする為のアプローチ。

 それが霖之助自身てゐと付き合いだした事で意味を知った――悪戯だ。

 であれば、あぁ、あぁなんと言うことだろうか――

 

「なんて事だ……彼女は、僕と友誼を紡ぎたかったのか……」

 

 そんな在り得ない理論を展開し、一人勝手な結論へと至った彼に、すぐ後ろから声をかける者があった。

 

「森近さん? 戻って来られましたか?」

「……あぁ、八意女史、どうされました?」

「いえ、貴方がどうされたのかと……いえ、良いです」

 

 振り返り、何事かと首を傾げる霖之助のあどけない顔に、永琳はどこか疲れたで返した。どうやら思考中の霖之助に、いままで声をかけていたらしい。付き合いの長い者なら、思考中の霖之助に声をかける者は殆ど居ない。そんな事をしても無駄だと分かっているからだ。

 永琳にはまだまだ霖之助を理解する為の時間が足りない様である。理解したがる物かどうかは別として。

 

「こんな所でどうされました?」

「いえ、まぁ……少し」

「……てゐ、ですか?」

「それも、ありますが」

 

 ありますがも何にも、霖之助がこうも悩む理由はそれしかない。与えられた部屋に文句など在ろう筈もない。定期的な診断も、こうして稀に出会い交わされる会話も、霖之助にとっては大変有意義なものだ。

 流石というべきか、月の頭脳の知識は深く広い。偶に見せる永琳の日常生活面における常識欠如な一面には驚きこそすれ、特に不快な物でもないのだから。

 

「すいません、今はてゐしか居ない物ですから……」

「いえ、まぁ……十分です」

 

 誠実に見える永琳の態度に、霖之助は明確な返事を返すことが出来ない。正直に霖之助の心情を表に出せば、恐らく何がしかの行動に出るだろう。

 例えば、バールのような物が道端に落ちており、例えば、両手が自由に動くならば。

 例えば、それこそが現状を打破する道だと誰かに諭されたならば。

 彼は数秒迷った後それを手に取り、何事かするだろう。何事かの明記は避けておく。その程度に、霖之助は己の腹に据えかねる物を積もらせてしまっている。

 だが、結局はどうにも出来ないだろう。

 

 てゐはそれを見越した上でか、それとも天然か。悪戯をしながらも、ガス抜きもしている。

 計算だと言うのなら、もうどうしようもないほどにこれは悪どい。彼女は復讐しようとする意思さえも、それが確固たる形となって外へと出る前に、摘んでしまっているのだから。

 しかも悪どくはあれど悪意はない。霖之助は自分との交友を深める為の行動だなどと思っているが、一般的に見れば実に面倒な存在である。

 

「よく言って聞かせておきますので……」

 

 霖之助の思考が透けて見えたのか、永琳は身を小さくしてそう呟いた。ただ、呟いた当人にも分かっていた。当然、聞いていた霖之助にも分かっていた。それが良き事であっても、悪い事であっても。

 因幡てゐという存在はきっと。

 そう、きっと――

 

 永琳と別れ、宛がえられた部屋に入ろうと襖をあけた霖之助の頭へ、何故かゆっくりと落ちてくるタライを、どこか冷めた目で見ながら。霖之助は思った。

 

 ――それを辞める筈がないのだ。

 

 と。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 それが楽しい事であったとしても、対象が変わらず、ただ繰り返される日常に組み込まれていくのなら。それは日常と言う退屈を厭う者にとって、苦痛でしかない。

 

 てゐにとって、久方ぶりの新しい玩具が来てからの日々は、空になった杯が満たされていく様な日々だった。少し前迄はただの客と店主でしかなかった関係は、もう忘却の彼方である。

 あの頃、永琳のお使いとして稀に香霖堂へと顔を出し、永遠亭の日用品を買っていた時に見た霖之助の顔は、もう彼女には思い出せない。恐らくは客商売に有るまじき無愛想な顔だったのだろうが、そんな顔はもう最近知った表情に塗りつぶされている。霖之助の世話をしろと永琳に言われた際には、少々ムッとした物だが、今となっては断らなくて良かったとてゐは本心から思っている。

 霖之助はある意味で悪戯の的にするには問題のある存在だった。脅かせども嘘を吐けども、彼はそのまま受け入れる事が多々在る。しかし。

 そう、しかし。

 千の中にある凡百のクローバーの中から、風に揺れる一つの四葉のクローバーが見つかるように。幸運を探す為のそれこそが、小さな幸運である様に。

 普段はやや憮然とした顔が、稀に驚きに染まり口をへの字にする様は、実に可愛げ――価値の在る物だった。人里の人間達ほど純朴でも従順でもなく、優曇華の様に身を硬くして悪戯に備えるでもなく、永琳の様に看破し反撃に出る訳でもなく。

 

 霖之助という存在は、てゐにとって余りに遊び甲斐のある者だった。まるで神様とやらがてゐの為に設えたかのごとく。彼女はだから、なるほどと思った。

 当初、珍しい物こそ在れ特に面白味のない店にそこそこ入り浸っているという霊夢や魔理沙をおかしな人間だと思っていたが、何が目的であったかを理解すればそれも同意できる。

 

 あの少女に負けて成る物かと躍起になる姿だけでも、てゐにはもう堪らない物だ。実に面白い。

 であるから、彼女は今もお盆を両手に廊下を歩いている。鼻歌を交えて、それはもう楽しそうな顔で。

 

 が為に。

 霖之助にとって如何ともし難い日々は続いていた。緩急織り交ぜて。

 てゐの、霖之助を巻き込んだ――いや、霖之助で遊ぶその戯れ。友好的なモノであるかも知れないが、痛みは無いかもしれないが。笑顔があるかも知れないが、そこに霖之助の我慢少々、苦痛少々、諦め多々にある以上褒められた物ではない。

 

 昼食は何の変哲も無いうどんだと思えば、夕食はやたらと辛い粥であったり。洗濯から戻ってきた霖之助の衣服と一緒に、優曇華の下着を混ぜて置いて行ったり。永琳に懸想し、告白一歩前だと言う事にされていたり。

 

 兎に角、霖之助はてゐの玩具にされ続けた。霖之助視点による解釈により生まれた、てゐの重すぎる思いを無視して無関心を決め込もうにも、余りに被害が大きすぎる。これでは無視も出来ない。

 今を過ごす場所にまで遊びの嘘が蔓延するなら、それを払拭しなければ彼に安息は訪れない。平穏と静寂こそが薬であり癒しだ。その癒しの場所である筈の療養所で、この様である。霖之助は本当に勘弁して欲しかった。反撃に転じようにも、力に自信があるほうではないし、そもそも両の手は火傷で使い物にならない。

 おまけに、口で勝てる相手でもない。流石は永遠亭が幻想郷に誇る詐欺兎。

 

 悪戯を咎め、最初は口論らしき物になろうとも、最後の方は霖之助が悔しそうな顔で閉口するのが常だ。毎日毎日悪戯されては悟りもするだろうと思うが、諦めて悟って尚、口を閉ざさないのが霖之助の霖之助たる由縁である。知識を糧とし、己という肉と知恵を(よすが)とする彼に、それが負ける物だとしても一方的な舌戦など在り得ない。

 

 言葉を聴けば言葉で返す。

 

 それが彼の流儀だ。ただ聞く等と言う選択肢はどこにも在りはしないのだから。

 そして負け戦と言えども、花が要る。花を求めなければ、世と言う世は詰まらないものでしかない。花とはなんで在るかといえば、これは伊達や酔狂と言った揮発性の高い、実体のない物になる。それでも確かに見える。

 

 霖之助がてゐに屈した、と言う事も目に見える物であれば、霖之助がそれでもてゐに屈しなかった、という事も目に見える物だ。もしこれでいい様に遊ばれた等と噂が立てば、霖之助の店へと無銭でやって来る少女二名の暴挙が更に一歩進みかねない。それが兄やそれに準ずる者への親しさから為されるわがままだとしても、流石にこれ以上は霖之助はお断りだった。彼としては、ここを出た後くらいは、もう少し平穏に暮らしたい。

 無駄ではあるだろうが。

 

 が、如何に奮戦しようとも、伊達と花を求めようとも、世は敗者に優しく出来ていない。結局、負けても悔しい思いをするのだから、この辺り彼も難儀な性格の持ち主である。そして、そんな霖之助を見てはケラケラと笑うてゐは、更に上を行く難儀な性格の持ち主である。

 

 つまりは――これを一方からだけで見る事が許されるのならば。

 

「霖之助ー、ご飯持って来たわよー」

「今日は無事に食べられる物なんだろうね?」

「……さぁ?」

「さぁって……君」

 

 てゐの足によって行儀悪く開けられた襖を挟んで、笑顔と苦い顔で対峙するこの二人は。

 そう相性の悪い二人ではないと言う事なのだろう。げっそりとした霖之助を顔を見て、尚もそう思える者が居るかどうかは、別として。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 少女は歩く。

 少女はてくてくと歩く。

 鼻歌を歌いながら、楽しそうに。

 

 お気に入りの玩具だと思った。遊び友達だと思った。おもしろい奴だと思った。楽しい奴だと思った。ドンくさい奴だと思った。結構鋭い奴だと思った。

 嫌な奴と少なからず思っただろうし、いい奴だと多く思った事もあるのだろう。

 そして、それらをひっくるめて。

 仲間だと思った。それが、あの日見せたてゐの顔に浮かんでいた色の答えだった。

 

 少女は歩く。

 少女はてくてくと歩く。

 鼻歌を歌いながら、楽しそうに。視界の先に見える建物を、瞳に映して。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

「あー……」

 

 十日を必要とした。

 

「んー……」

 

 十日もの時間を要した。

 

「はー……」

 

 七日で済む筈が、十日を消費する事態に至った。

 

「あぁ、落ち着く」

 

 霖之助は今、懐かしの我が家になる慣れ親しんだ椅子に背を預け、大きく伸びていた。十日ぶりの我が家は、久しく見なかった主を包み込むようにして迎え入れ、今彼を大いに癒している。

 本来ならその十日もの間店を見てくれていた少女に礼を言いに行かねばならないのだが、それも彼には億劫だった。少なくとも、今少し癒されたいと彼は懐かしい――

 とは言え、余り埃の臭いがしなくなった空気の中でぬるま湯に浸かるが如く全身の力を抜いていた。

 

 結局、十日を費やして彼は退院する運びとなった。

 病は気からと言うが、傷も同様であるらしい。治癒能力は身体が持つ活性機能であり、その機能を生かすのは心の在り方だ。今となっては、てゐとの日々に何事か思わぬ事が無いでもないのだが、やはり玩具にされて安らかに在る事が出来るほど彼は出来た存在でもない。

 

 ――まぁ……偶にならあぁいった物も良いかも知れないが、頻繁は嫌だね。

 

 脳裏に浮かぶ、別れ際に見せた彼女の顔に、霖之助は苦笑しながら思った。

 最後の日、永琳とてゐに見送られながら帰る霖之助に、てゐはなんとも言えない顔で、何一つ言葉を漏らさなかった。神妙な、らしからぬ態度である。

 霖之助にはそんなてゐの顔が、まるで玩具を取り上げられた子供の様な顔にも見えたし、友人との別れに戸惑う少女の様にも見えた。多分前者が正解だろうと彼は当たりを付けたが、本当の正解はどちらでもない。それらを混ぜ込んだ物が、正解だった。

 

 霖之助からすれば兎も角、てゐからすれば霖之助は相性の悪い者ではなかった。悪戯もすれば、面倒も見た。十日もの間だ。もの、と言えども、短いと言えば短い。

 が、その時間が当人達にとって濃密であれば、十日はそう短い時間でもないだろう。暇さえあればてゐは霖之助をからかい、暇が無ければ仕事としててゐは霖之助を助けた。彼と彼女は、同じ時間と同じ空間を多く共有したのだ。

 

 その時間が軽い筈も無い。その過ぎ去った日々は蜜月とさえ言って良かっただろう。

 同じ時間を共有した者達は、時に価値観こそ違えど相手を分け身の様に思う事が在る。てゐとて長いときを生きた存在。そう簡単に他者に心を預ける事も見せる事も無いだろうが、人の面倒などそう見た事もない嘘つき兎だ。そんな時間は、多くなかったのかも知れない。

 ならば、それは彼女にとって新鮮に思えた事だろう。ましてそれが一方的だったとしても、相性の良い相手だ。様々な感情を知らぬ間に抱いていたとしても、おかしな話ではない。

 

 だから彼女は。

 

「おーい、お客よー」

 

 カウベルを盛大に鳴らした。厳かな教会で鳴らされる祝福の音色を、こんな草臥れたカウベルに求めて。

 

「……」

「……霖之助?」

「……短い」

「……ん?」

「短い、平穏だった……」

「あら、平穏って言うのは退屈って事でしょう? 刺激分が来たんだから、あんたはもっと喜ばなきゃよ?」

「もう刺激なんて暫らく要らないよ。君から十分過ぎるほどに貰ったさ」

 

 霖之助の、らしいしかめっ面を求めて。

 

「私は、渡し足りないと思うのよねぇ」

「出口は、今君の居るそこだよ」

 

 或いは、彼女自身の持った感情の行き先を示す標を求めて。

 

 香霖堂の日常に、また一人少女が加えられた。それだけの事である。ただ、それだけの事と言えるほど優しい物ではない事だけが霖之助には分かっていた。それ以外は、もう頭が動かない。

 回らない。

 

 平穏とは、破られるから平穏なのだ。

 

 

 

 

   ■ ■ ■

 

 

 

 

 研究に没頭する余り、魔理沙は一ヶ月もの長い間全ての交友を断っていた。実際には時折表に出ては消耗品等を補給していたのだが、何せ元最速。びゅんと来てびゅんと帰る。勿論人やそれ以外の者達と口をきく暇さえ無かった。これでは殆ど篭っていたに等しい。

 

 しかも消耗品を求めた店は全て人里の店であり、彼女は香霖堂に一切顔を出さなかった。

 それには理由がある。彼女は研究の結果を霖之助に見せて驚かせようと思っていた。為に、研究していると言うことを匂わせる買い物は出来ない。買い物に向かった店でも、一応霖之助にこの事は伝えるなと言っておきたがったが、そもそもあの動かない古道具屋である。

 一ヶ月でも二ヶ月でも、彼の知的好奇心を掴んで離さない物があれば、動く事はないだろう。そうでなくても、彼は店から出る事がことが少ない。精々補充と称しては無縁塚に向かう程度だ。

 

 なものだから、彼女はそれを今朝アリスから聞いて驚いた。

 

 ――なんだよ、入院してたって!

 

 愛用の箒に跨り、自身の持つ最高速度で森の上を飛んでいく。

 

 ――しかも店番アリスに頼むってどうなんだよ!

 

 何故自分ではないのかと魔理沙は思ったが、それが普段の行動を危惧して選ばれなかったのだと彼女は気付けなかった。道具を持っていく人間に、道具屋の店番を頼む者等居ない。

 悶々としながら、最高速度で飛ばなければ成らないほど遠くも無い――むしろ近い馴染みの店へと行く彼女の目に、ふとそれは入り込んできた。

 小さな荷車を引く、青と黒の服を着た、銀髪の若い男だ。彼女はブレーキをかけ、方向を修正し、その男の傍へと降りていった。

 

「香霖!」

「あぁ、魔理沙。久しぶりだね……」

 

 何やら疲れ気味の顔で霖之助は目の前に降りて来た魔理沙に言葉をかけた。

 

「なんだ、その……えっと!」

 

 言いたい事は山ほどあった筈だ。

 一ヶ月の研究結果を聞いて欲しかった。そして驚いて欲しかった。どうして自分に店番を任せなかったのか、問い質したかった。何より、入院とは何事かと問い詰めたかった。

 しかし、一ヶ月の長くを離れすぎた事が、魔理沙の口をそう素直に動かしてはくれない。故に、魔理沙は帽子を深く被りながら、もごもごと言葉を零した。

 

「その……なんだ、えっと……入院したって……聞いたけど……大丈夫か?」

「あぁ、もう一ヶ月も前だよ。治ったさ」

 

 ほら、っと霖之助は両手を見せた。

 その素振りから、魔理沙は霖之助が両手を怪我したのだと分かった。そしてまた、その時期も分かった。

 

「……丁度、同じ頃だったのかよ……そりゃ迂闊だったぜ……」

「うん?」

「あぁいや、なんでもない」

 

 霖之助はそのまま荷車を引いて香霖堂へと歩いていく。

 魔理沙はそれに無言のまま追従し、調子を戻しながら話しかけていた。

 

「でさ、香霖。なんでアリスに店番頼んだんだよ?」

「あぁ、丁度入院の為の荷物を取りに戻ったときに、彼女が店に来たんでね」

「それだけか?」

「あぁ、それだけだ」

 

 魔理沙は霖之助の前に回りこみ、目を正面から見据えた。そこに嘘の色は無い。

 

「……そっか」

 

 まずは、これで二つ心配事は解決だ。入院後もこうして霖之助は常の通りであるし、アリスに店番を頼んだのも偶然に近いだけの事。彼女が危惧するような事はないらしい。

ほっと胸をなでおろし、今度は霖之助の隣に移動して彼女は今までの分を取り戻すように話しかけ続けた。

 

「にしたって、酷いぜ。誰も教えてくれないなんて。……霊夢も知らなかったのか? 入院の事」

「いや、どこかで聞いたらしく、6日目辺りに見舞いに来たよ……まぁ、見舞いと言うよりは……」

 

 ただのたかりだった。お茶を飲んだり、永琳から善意と謝罪で貰った果物等と堂々と食べていった。それでも、安堵した顔でそれらを口にしていた事を思えば、やはり彼女も心配はしたのだろう。

 

 言葉は交わされ、返せば響き、響けばまた零される。二人の声は消える事無く続き、気がつけばもう香霖堂の前に来ていた。

 

「魔理沙、扉を開けてくれないか。僕はこのままこれを引くから」

「おう、分かったぜ」

 

 どうやらその小さな荷車ごと店内に入るつもりらしい。

 魔理沙は嬉しそうに霖之助の言葉に応じ、扉に手をかけ勢い良く扉を開いた。草臥れたカウベルが鳴り響き、どこか暗い店内に懐古的な音色を木霊させる。懐かしい音色に耳をくすぐられた魔理沙は、小さく微笑んで後ろに振り返ろうとして――

 

「あら、お帰りなさい」

 

 その音を聞いた。

 

 動きを数秒ほど止めて、魔理沙は再び店内に顔を戻した。

 正面。

 扉を開けて真っ直ぐ、正面。いつも霖之助が座っている椅子に、小さな影がある。椅子に座っている事を考慮しても、魔理沙と同じ程度かそれ以下であろう身長の――少女だ。

 

「遅かったのね、あなた。お昼ごはんもう出来てるわよ?」

 

 何かが、何かの音が、魔理沙の鼓膜を振るわせた。その音は魔理沙にとって余り心地の良い音ではなく、どうにも耳の奥が痛む。

 正確には、その音が宿した色が――親愛を思わせる、あなたという歌詞が。

 お昼ごはんと言う言葉が、その歌がどうしようもなく彼女にとって不快で、どうしようもなく不安にさせた。

 

 椅子に座っていた小さな影は、その頭にある白く垂れ下がった耳をぴょこぴょこと動かし、正面から魔理沙と――その奥に居る霖之助を見つめ、

 

「さて、本当かしら?」

 

 首をかしげながら目を細め、

 

「それとも、嘘かしら?」

 

 楽しそうに、嬉しそうにてゐは微笑んだ。

 先程までの魔理沙と同じ彩を持つ、恋色の華やかな笑顔で。

 

 

 

「あなたは、どう思う?」

 

 

 

 さて。

 その言葉は、魔理沙と霖之助、どちらに向けられた物なのだろうか。

 

 

 

――了


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