香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

2 / 19
後編

 ――ねぇ、遊ぼうよ。

 

 ――嫌だよ、本を読みたいよ。

 

 ――そんなだから、真っ白なんだお前は。

 

 ――いいじゃないか、別に。

 

 ――良くないよ、遊ぼうよ。

 

 ――それに、僕は……

 

 ――関係ないよ、遊ぼうよ。

 

 ――……う、うん。

 

 

 

 

 数日前まであれ程に暇だった永遠亭の診療所は、病人と怪我人で溢れ返っていた。

 人間妖怪のわけ隔てなく。別段どこかで人災が在った訳でもないし、病魔が猛威を振るったと言う訳でもない。ただその様に、振られた世の賽の目が、偶々悪く出ただけの事である。

 異変でも事故でも人災でもなく、たった一言で言うなら。それは偶然だった。

 

 手の中にあるカルテに、独逸語で診断結果及び患者の情報を書いて行く。淀み無く、躊躇無く。

「ただの風邪ですね」

「あれまぁ……風邪なんて何年振りか……」

「帰りに薬を出しますので、受け取ってください」

「あぁ、どうも、ありがとう先生」

「お大事に……」

 

 純朴そうな男――患者がその診察室から立ち去り、女二人だけが残される。二人のうち、白衣の下に赤と青の服を着た銀髪の女――永琳は、やや乱暴にカルテを机の上に置き、眉間を軽く揉みながらため息をついた。

 

「……ウドンゲ」

「なんですか、師匠」

 

カーテンの向こうで忙しそうに注射針等を並べ、消毒している助手の彼女――永琳は本日数度目の、同じ質問をした。

 

「あと何人かしら?」

「沢山です」

 

 帰ってくる答えも同じだった。

 

「沢山、なのね」

「沢山、です」

 

 これも同じだった。

 何時もならただ事務的に、営業用の笑顔で苦も無くこなせる仕事だと言うのに、今は違う。

 

 時間が惜しい。

 時間が欲しい。

 時間が――……。

 

 だから彼女は、いつもに比べ若干張りの無い顔に鞭打ち、いつも通りの頼れて理知的で女神だって嫉妬する美貌――自己申告――の八意永琳先生の顔に戻り、新しいカルテをファイルから取り出して口を開いた。

 

「――さん、どうぞ」

 

 早く終わらせる為に。あの日々を取り戻す為に。営業用の笑顔ではなく、本当に笑えた、あの時間を取り戻す為に。

 

「すいません……なんか、足の骨……軽く折っちゃったみたいで……」

「……」

 

 テーブル横のゴミ箱に、折れたペンが沢山入っている事は、今のところ永琳以外誰も知らない。今のところ、は。

 

    ■ ■ ■

 

 少しばかり曇った空を、一人行く者がいた。

 

 女が一人、人里から離れた場所にある森へと向かって飛んでいた。道の先にある森は、様々な理由があって余り人が立ち入る場所ではないのだが、その女は、力強く迷いも無く自身が持つ最高速度で飛び続けていた。

 独特のデザインを持つ帽子をかぶった、そんな女が。

 

    ■ ■ ■

 

 暇だった。

 

「……」

 

 暇で暇で暇で暇だった。

 男は思う。つい数日前までの時間の、なんと濃厚であった事か、と。

 

「……」

 

 その濃厚な時間に比べたら余りに味気ない、と思う。男は思う。

 

「つまらないな」

 

 男――森近霖之助は手の中にある、殆ど流し読む程度にしか読めなかった本を閉じ、天井を仰ぎ見ながら大きくため息をついた。

 自身の城、人も寄らぬ森の入り口に建てられた香霖堂の、最早霖之助の体の一部とさえ噂される椅子の背もたれにだらしなく背を預けて。

 

 栞を挟む事もなく閉じられ、机へ無造作に置かれたその本が詰まらない訳では無い。ただそれ以上に。高みにある知識への憧憬が鉗子となって、長く霖之助の脳袋を掴んでいるだけの事だ。

 永遠亭でのあの日々は、今彼の手元にはない。

 幻想郷でも間違いなく片手に入るだろう賢者、八意永琳との舌戦が諸事情により一時休戦中なのだ。

 

「あぁ、つまらない」

 

 声に出す必要などないと分かっていても、声は出る。数日前までは、話題も尽きず話し相手にも困らなかったからだろう。静寂を好ましいと思っていた筈の彼が、店内の静けさにどうも馴染めない。

 

 店を開いて約十年。

 その十年もの間ずっと霖之助の傍に在った静けさが、今の霖之助にはどこか釈然としない。

 

 ――まるで完成しないクロスワードだ。妙な焦燥感に駆られる。

 

 稀に無縁塚で拾うまっさらなそれを、彼は同じく無縁塚で拾ったボールペンで一つ一つ埋めてく事がある。勿論問題の中には外の世界特有の物が数多く、自然空白に書き記す単語はチグハグな物となり、それを八雲紫に見られて笑われる事多数。からかわれる事大多数。

 

 ――じゃあ答えはなんなんだい。

 

 憮然としながら霖之助がそう聞くと、八雲紫は手にした扇で口元を隠し、こう答えるのだ。

 

 ――さぁ、なんでしょう?

 

 楽しそうに、それはもう楽しくて楽しくてしょうがないと胡散臭く笑いながら。

 

「扇で口元を隠したとしても、あんな声で、あんな目をしたら笑っていると分かるに決まっているじゃあないか」

 

 愉悦の色を隠し切れていない――恐らくは隠す気も無い――彼女の目と声を思い出しながら、独り言がまた彼の口から零れ出る。

 霖之助は力無く首を横に振って、椅子から立ち上がった。

 

――気分転換が必要だ。

 

 今度は口に出さずに、彼は仕入れも兼ねて無縁塚へ行こうと扉へ向かって歩き出して、

 

「霖之助! 今日こそ居る「――づぅお!?」…………か?」

 

 突然勢い良く開いた扉に顔面を強打され、受身も取れず転倒した。ついでに意識も吹っ飛んだ。

 来客を報せるカウベルが、半瞬遅れて鳴り響く。いつもよりは若干元気な音で。

 

 もっとも。

 

「り、霖之助、すまない! 大丈夫か!? 生きているか!? 人工呼吸は必要か!?」

 

 特徴的な帽子をかぶった女の周章狼狽振りに掻き消されてしまったが。

 

    ■ ■ ■

 

「いや、その、本当にすまない」

「まぁ、構わないが……」

 

 香霖堂の奥の一室、霖之助が香霖堂店主としてではなく、森近霖之助個人として過ごす部屋で、二人は向き合っていた。

 片や布団の上に胡坐をかき、片や座布団の上に正座で。

 

「霖之助、勝手に入れさせて貰ったが、お前の好きな熱めのお茶だ。飲んでくれ」

「あぁ、ありがとう慧音」

 

 差し出されたそれを両手で確りと受け取り、愛用の湯飲みから手のひらに伝わってくる心地よい熱さに苦笑いし、霖之助は一口だけ含みゆっくり嚥下する。

 

 ――あぁ、これくらいが丁度良い。

 

 熱さも、味も。

 ただ苦いよりは、断然此方の方が良い。最近ずっと出先で飲んでいた薬膳茶らしき物を思い出しながら、霖之助は思った。

 そうすると舌にあのなんとも言えない苦味が蘇るものだから、霖之助は自然と顔を顰めてしまった。

 

「すこし苦かったか?」

 

 失敗したか? そんな顔で問うて来る慧音に、霖之助は手を振って違うと応じる。

 

「前に飲んでいた苦い物を思い出しただけで、慧音の入れたお茶が苦い訳じゃあない」

 

 まだ疑う様な目を向ける慧音を納得させる為、霖之助はもう一度お茶を口にする。今度はただ、常の顔で。それに満足したのか、慧音は一緒に用意しておいた自分のお茶をゆっくりと飲んだ。

 

「しかし、如何したんだい慧音? 君があんな風に、乱暴に扉を開けるだなんて、穏やかじゃあないな」

 

 ――それとも何かい、君は今じゃあそんな風に清規を寺小屋の子供達に教えているのかい? 反面教師として。

 

 そう続けようとした霖之助だったが、それは慧音の言葉に遮られた。

 

「如何したんだい、だって、霖之助? お前はそれを本気で言っているのか?」

 

 それまでどこか満足げだった慧音の顔に、何か良からぬ物が宿るのを見て、霖之助は何か不味い事を言ったかと、自分の発言やそれ以前の行動会話を思い出す事にした。

 

 慧音。上白沢慧音。

 人里の守護者であり、半獣であり、半人であり、寺小屋の先生であり、香霖堂の売り上げに貢献する上客でありながら、良く値切る厄介な客。

 彼女のそう多くはない収入の内訳で、文房具や教材を多く揃える為には値切るという行為もまぁ仕方ない事なのだろうが、それほど教育と言う物に熱意を向ける暇があるなら、その熱意を一つ色恋沙汰にも向けては良いのではないかと思える位にはもういい歳を独りで過ごす

 

「何か不穏な視線を感じる」

「…………気のせいだよ」

「いいや、私の避雷針に、今何かがびりっと落ちた」

 

 君のあの角はそんな機能まであるのか、それとも僕の知らない別の物か、と心底でため息をつきつつ、霖之助は思考を再開する。

 

 厳密には独りではないのだが、見た目年若い女性が伴侶も持たずにもう百年以上。里の世話好きが過ぎるどこそこのご母堂達からは、良く良縁だと見合いやら一席やらを持ち来られているらしいが、結局それらが慧音の身の上に形となって留まった事は皆無であり、すべては無駄に終わったらしいと霖之助は誰かから聞いた事があった。

 

 ――あれは、あの烏天狗だったか。

 

 烏天狗といえば、その女烏天狗、何か邪推した言葉を一つ残して、山に帰っていった。

 

『そういえば、店主は彼女の幼馴染でしたか?』

 

 ――あの烏天狗は、どうでもいい事ばかりよく見ているな……本当に。

 

 確かに二人はそういった関係である。

 遠い昔、まだ幼く、外の世界など不要で、この幻想郷が大きく広く見えた子供の頃、偶然縁を結び、森近霖之助と上白沢慧音は長い長い時間を共有してきた。互いの弱みを知り、互いの強みを知り、互いの在り方を知り。

 時に笑い、時に泣き、時に喧嘩し、時に手をつなぎ、誰も綴らぬ歴史を二人だけで築き今へと。今この瞬間、霖之助が自身の在る世界から離れ、

 

 ――いやいや、今は慧音の事だ。

 

 と長考の深い海に沈み何も語らず何も目に入れなくとも、慧音は傍でただお茶を飲んでいる。その表情には不満も満足も無い。霖之助がただ霖之助として在るだけだと、彼女は理解しているからだ。それこそが、二人が共に歩んだ道程の中で作られた絆の一つなのだろう。

 

 とは言え、少々長い。

 慧音は何か暇つぶしはないかと周囲を見回し、畳の上に無造作に置かれている本を見て、躊躇わず手に取った。

 

 ――読んだ事がない本だな。

 

 表紙を見た限りでは、彼女の記憶にない本だったので、ページをめくる事にした。そしてそのまま1頁2頁とゆっくりと読み、50頁目に差し掛かる前に、

 

「慧音」

「なんだ?」

 

 霖之助が長考から戻ってきた。慧音は本を閉じ、霖之助の瞳を見つめながら、次の言葉を待つ。

 

「僕は、君に何をしたんだ?」

 

 とりあえず慧音は、手に持っていた本を霖之助の鼻の下に角が当たる様に投げ付けた。鍛錬不可能な急所の一つである。

 

 布団の上で無言のまま転げまわる霖之助を眺めながら、慧音は不満も満足も無いといった顔でため息をつき、投げ付けた本を拾い上げ、読み直す事にした。

 霖之助が無言で転がりまわるのを止めるまで。

 これもまた、二人が共に歩んだ道程の中で作られた絆の一つなのだろう。

 

    ■ ■ ■

 

「だったら、その様に紙か何かに書いて貼っておくべきだろう」

「いや、申し訳ない」

 

 怒りを隠そうとしない慧音に、霖之助は素直に謝る。

 

 ――これは分が悪い。

 

 そう思ったからだ。

 慧音が何に感情を乱し、何故乱暴に扉を開けたかと言うと、それは簡単な事だった。

 彼女は香霖堂の客であり、

 

 ――霖之助、鉛筆を二十本頼みたいんだが……なんだ、居ないのか? 無用心だな……鍵も掛けずに外出なんて。

 

 常連でもあり、

 

 ――霖之助、ノートを在るだけで構わないから……また居ないのか。

 

 幼馴染である。

 

 ――これで一週間連続の不在、か。

 

 多忙が多忙を呼び、気付けば彼女は一ヶ月も霖之助の顔を見ていなかった。忙しいからと近場の道具屋で全てまかない、香霖堂にも行けなかったらしい。此処最近、やっと時間に余裕が出来、さぁ久々に会いに行くかと意気込めば――……

 一週間、そしてそれ以降もすれ違い。

 

 原因は永遠亭への出張鑑定なのだが、霖之助はそれを誰にも語ってはいなかった。霊夢にも、魔理沙にも、他の親しい人間にも妖怪にも妖精にも、当然、幼馴染にも。偶に霊夢や魔理沙に出会えば、仕事で出掛けているとは伝えたが、出先までは伝えて居なかった。

 知っているのは永遠亭の者達だけで、他は誰も霖之助の所在を知らない。おまけに慧音は、運悪く仕事で外出していると言う事を知っている霊夢や魔理沙とも会えなかった。

 

 本当に運が悪い。それが二週間近くだ。一日二日のすれ違いならこれまでも二人にはあったが、これはかつてなかった。

 

 ――あいつ、何かに巻き込まれたんじゃないだろうな……

 

 在りもしない不安にも駆られる。

 

 ――いや、もしかしたらもう何処かで……

 

 馬鹿な妄想も止まらなくなる。来た事だけでも伝え様とメモを残しても、それに対する返事も無い。その点は霖之助も反論しておいた。

 

 ――そんなメモは見た事が無い。

 

と。

 

 すると慧音は、狸の置物の下に挟んでおいたと答えた。

 当然だと言わんばかりの顔で。

 疲れた顔で霖之助が狸の置物の下を覗き込むと、其処には百枚以上のメモ、メモ、メモ。霖之助の背筋に寒気やら怖気が走ったのは、なんというか仕方のない事だろう。

 

『無茶を言う……普通、帰ってきてそんな所は見ないだろう、慧音?』

『子供の頃は、お互いの家の植木鉢の下とかにメモを置いていたじゃないか』

『いや、君なぁ……』

 

 子供の頃は大人達の目を気にしていたし、慧音の家人達とも良好な関係ではなかったから、そういう連絡手段も使っていた。が、今はもう大人で、お互い独立した一己の存在だ。

 

 家、店、寺小屋、そこへ行けばだいたい会えるので連絡手段等忘れていたが、幾らなんでも、そんな昔の事をピンポイントにその時思い出して実行しろと言うのは無茶だ。無茶な筈なのだが。

 

『次からはそうしろ、するんだ、霖之助』

 

 昔は並んでも同じくらいだった慧音が、頭一つ二つ高い所にある霖之助の両の目を、ちょっと涙目で上目遣いに睨め付ける物だから、彼はうなじの辺りをぽりぽりと掻きながら

 

『分かったよ……』

 

 と答えてしまった。

 力関係の分かりやすい幼馴染である。

 

「兎に角、分かったな? 次からは、出かけるなら出かけると書いておく事と、ちゃんと狸の置物の下を見ろ」

「……あぁ、それも分かったよ、了解した、了承だ」

 

 大の男が古ぼけた狸の置物の下を漁る。

 

 ――どうなんだ、それは。

 

 試しに彼は自己の中にある知己の人間妖怪妖精神等々を出来るだけ忠実に再現し、脳内でシミュレーションしてみる事にした。

 

 何かお困りかと純粋に聞いてくれる者が一割……関わり合いになるのを嫌がって無言で立ち去る者が二割。

 加虐的な笑みを浮かべてからかって来るだろう者が四割……いきなり背中を蹴ってくる者が四割。

 

 ――いや、一割もそんな、お困りですか? なんて常識的な反応を示す者が居るだろうか……?

それ以前に余計な一割はどこから湧いてきた?

 霖之助は自身の交友関係の歪さに泣きたくなった。あと合計で十一割になる自身の脳内の不条理さに本当に泣きたくなった。

 

「しかし……八意女史からの仕事か。聞いても?」

「まぁ、隠すような事でもないからね、構わないさ」

 

 霖之助は気持ちを切り替えるため、鼻に掛かった眼鏡を右手の中指で軽く押し上げた。

 

「なんでもない、ただの小道具や置物の鑑定依頼だ」

「……その為に、態々永遠亭にお前が?」

「あぁ、依頼だったからね」

 

 慧音は腕を組み、あごに手を当て、むー、と息を吐き霖之助を見た。見た、と言うよりは、睨んだ。

 

「本当に、それだけか?」

 

 ――怪しむか。いや、妖しいか、確かに。

 

 霖之助自身も思った事だ、おかしな依頼だと。

 人間の、それも非力な女性でも片手で軽々と持ち運べるような小物や置物を、鑑定依頼に来るのではなく、来いという話。そして鑑定を依頼する人物は八意永琳。

 月の重鎮にして、幻想郷の肉体医学精神医学の頂点であるオモイカネ。その知識がどこまで多岐に渡るかは判然としないが、それでも在る程度の鑑定眼はある筈だ。それを霖之助は、他者からの違った視点を求めた為だろう、と思った。それを慧音は、おかしい、と思った。

 

 慧音は永琳と特に親しい付き合いがある訳ではないが、同居人と永琳の上司に当たる姫との関係上、お互い知らない仲ではない。そして慧音と霖之助との関係は、最早言うまでもない。

 其処から、何かに気づいたのだろう。彼女は胡乱げな目で霖之助を凝視した。

 

「八意女史に呼ばれたから行ったのではなく、お前の意思で行ったんじゃないのか?」

「……何か悪意を感じるが、その通りだよ、慧音。僕は、永琳こそが目的だった」

「……霖之助、いや、ちょっと待て、お前、いや、お前それはおおおおお前」

 

 先程までの探る様な、疑う様な目はどこへやら。

 慧音は珍しく――霖之助の前ではそうでもない――狼狽し、水槽の中で空気を求める金魚の如く、口をぱくぱくさせた。

 

「永琳の話は、いや、さすがに面白いよ。薬草学や医療系に偏りがちだが、全く苦にならなかった」

「……あー、うん? ……そうか、そうだな。お前だものな」

「慧音? どうしたんだい? やけに……煤けているじゃあないか?」

「店主、ここの鉛筆とノート、全部貰って良いか。ただで」

「やめてくれ、君まで。それに犯罪だ、それは」

「正当な慰謝料だ。しかも私は、十二分に妥協し、譲歩すらしている」

「君は……なんと言うか、偶に分からなくなる。未だ対処に困るよ」

「誰が原因だ」

 

 霖之助愛用の机を挟んで、二人は言葉を交わす。口が動くなら動くまま、表情も隠さず偽らず、その感情の色が表に出る事を任せ、極々自然に。

 

「分かった……無料には出来ないけれど、サービスくらいはする。良く分からないが、それで許しては貰えないものかな?」

 

 整った慧音の顔が、延々と自身を睨み続けるのは心臓に悪い。

 

 ――慣れていようが慣れていまいが、どうにも良くないな。

「良し、五割引きから始めるぞ」

「いや、待ってくれ、せめて三割引きくらいから」

「九割引き」

「攻撃的にも程が在る」

 

 打てば響き、響けば返し、返せば打ち返し、また響く。

 結局、

 

「では、四割引きだな」

「……あぁ、もう好きにしてくれ。もう、なんだい、巫女も君も、僕にとっちゃあ疫病神だ」

「ふん、山にでも行くんだな。厄を払ってくれと」

「至極面倒だよ」

「だから厄が溜まるんだ、お前は」

「その厄に、そんな事を言われたくはないね」

「まったく、あぁ言えばこう言う」

「それは僕の台詞だ」

 

 戦利品を袋につめて持つ慧音を、恨めしげに睨む霖之助。慧音は、店内の壁に取り付けてある古い時計を見て、そんな視線を無視する。

 

「あぁ、もうこんな時間か」

「そろそろ日が暮れるね。さぁ家にお帰り。同居人もお待ちだろう? それに、今日の天気は怪しい物だよ」

「降る前に帰るか……しかし、少し買い過ぎたな」

「強奪みたいな物だがね」

「同意の上だろう、店主?」

「君の好きなように思うと良い。僕も僕の好きなように思うさ」

「よし、では好きなように思うとしよう」

「……?」

 

 不機嫌そうだった顔を一転させ、きょとんとする霖之助に、慧音は言葉を続けた。

 

「家まで運ぶのを、手伝ってくれ」

「……君、なぁ」

「なんだ。好きなように思って良いのだろう? まだサービスが付く、くらいには」

 

 肩を落として、霖之助は首を横に振った。

 

「なに、この天気だ。念の為に傘くらいは定価で買ってやるから、そう落ち込むな」

 

 割に合わない。霖之助は、素直にそう思った。

 

    ■ ■ ■

 

 窓から見える天気の怪しさに、女は思う。

 あと少し、あと少し。もう少し、もう少し。ゴールは見えてきた。

 

 だから頑張ろう、だから頑張ろう。

 窓から見える天気の怪しさなど、どうでも良かった。目の前にいる患者など、どうでも良かった。彼女が彼に成した事など、どうでも良かった。ただ、彼女は。

 

 ――会いたい。

 

 少しでも、早く。

 

    ■ ■ ■

 

 いつもならもう少し赤い頃だが、その日は空の怪しさの為か、少し暗かった。

 いつ降り出してもおかしくないその空は、息苦しささえ感じさせる。霖之助は、鈍色の空がそのまま落ちてくるような錯覚に囚われて、空から目を離す事が出来なかった。

 

「霖之助、上を見ながら歩いていると、またこけるぞ」

「……また、随分と昔の話を」

 

 子供の頃の話じゃないか、と霖之助は少し前を歩く慧音に返した。

 

「お前は何かに興味を抱くと、その何かしか目に入らなくなる。今も、昔も。だから、誰かが余計であっても、言うべきなんだ」

「余計であっても、かい?」

「あぁ、余計なお世話であっても、だ。お前は……なかなかに危ないからな」

 

 一人で無縁塚に行ったり、その辺をうろちょろしたり、その癖いきなり考え込みだすから、始末が悪い。慧音の小言は続く。二人が歩くあぜ道は少々狭く、大人二人が並ぶには苦しい。

 

 ――おかしな物だ。

 

 霖之助がまだ子供だった頃は、このあぜ道が大きく見えた。今は前を行く慧音と二人で並んで、時にもっと大人数で、走って、歩いた。今のように静かに歩くのではなく、もっと騒いで、無邪気に笑って、怒って、泣いて。感情のままに。

 

 今なら視界の先にうつる人里も、昔は見えなかった。もっともっと先に行かなければ、そんな物は見えなかった。大きくなった、大人になった。

 あの頃の、二人だけが今ここを歩いている。

 

 慧音以外の友人達が、霖之助の脳裏で鮮明に過ぎる。里の人間、狩人だった者、農民だった者、医者の卵だった者、店を開いた者、病気をこじらせて若く死んでしまった者。

 皆、子供だった。

 二人より先に老人になり、孫や子供達に囲まれ、または一人孤独に死んでいった、古い友人達。慧音と共に縁を結んだ、人間達。慧音が居なければ、縁も結べなかっただろう人間達。

 

 今は、残された二人だけが、またこのあぜ道を歩いている。

 

 ――あぁ、おかしな物だ。

 

 気付いたら、霖之助は立ち止まっていた。なんの理由も無く、自然に。

 それに気付いた慧音も、立ち止まった。言葉も無く、ただ二人はお互いの顔を見合う。意味も無く、理由もなく。

 今にも雨が降り出しそうな、薄暗い空の下で、じっと、ずっと。

 

 ――……

 

 そこに、声が入ってきた。

 後ろからだ。霖之助は振り返り、慧音は霖之助の背後を覗き込むように、後ろを見る。

 

 見ればそこには子供が二人。里の子供達だろう。

 まだ幼さの隠せない少年が、純朴そうな、頬の赤い少女の手を引いて歩いている。小さく、二人一緒に歌を歌いながら。拙い、ちぐはぐな歌声だというのに、霖之助は聞き入った。聞き逃すまいと、己の器官全てを使って。

 

 やがて少年と少女は霖之助と慧音を追い越し、人里へ消えていく。

 ここに霖之助と慧音など居ないかのように、二人で。

 

 霖之助は、それをじっと見つめ続けた。先程慧音と見合ったように、意味も無く、理由も無く。姿が見えなくなるまで、ただずっと。そして、慧音が小さく呟いた。

 

「……思い出すな」

「何をだい?」

 

 分かっていても、霖之助は問うた。慧音が何を思ったのか。それを。

 

「私達も、あんな風だった」

「僕達の場合は、逆だったよ」

 

 手を引く少年は慧音で、手を引かれる少女が霖之助。そんな関係だった。

 部屋で一人静かに全てから隠れるように本を読みたがる霖之助を、慧音が無理矢理引っ張り出して駆け回る。先に音を上げるのはいつも霖之助で、慧音はそんな霖之助をだらしないと怒っていた。他の子と遊べと言えば、思いっきり拳骨を食らったことも在る。

 

『お前と遊びたいんじゃないか』

 

 怒ったような、泣いたような、そんな顔の慧音に、霖之助はよく怒られた。

 

「僕は、君に随分振り回されたよ。今の君しか知らない者達が当時の僕らを見たら、さぞ驚く事だろうね」

「案外、知っている連中も居るんじゃないか?」

 

 妖怪の寿命は個体差こそあれ長い。それこそ、千を生きてまだ若々しい者も居るほどに。ならば当時を知っている存在も、確かに居るだろう。

 けれど、霖之助はそう思えなかった。

 霖之助と慧音の関係を知っている烏天狗等も居るには居るが、彼女の場合どこかで又聞きした可能性のほうが高い。実際彼女は、肝心の部分を語る事は無かった。無論、ただの情報の出し惜しみという理由も在り得るが、この場合は出し惜しみする理由が無い。

 

 知っているなら、この札を切らない訳がない。昔の慧音を知る者なら、必ず語るべき事を。

 

「きっと君の事は分からないだろう。今の君と昔の君じゃあ、違い過ぎる」

 

 そう、違いすぎる。

 霖之助の目の前に佇むのは、凛とした白百合の様な涼やかさをもった女性だ。記憶の中にある少女は、生命力にあふれた、野に咲く名もない花のような子供だ。

 余りに違いすぎる。

 

少女が女性に、徐々に成長して行く過程を知らなければ、結びつかないほどに。知っている者、気付いている者が居れば、確実に餌食となる。宴会やら酒の席やら、諸々で。

 それくらい、彼女は変わった。対して自分は、と霖之助は思う。

 

 ――そのままだ。あのまま、大人になったような物だ。

 

と。

 

「蛹を見て、それがいずれ蝶になると分かる子供は居ない。誰かにそれを教えられなければ」

「今の私が、蝶か」

「あぁ、あの少女がこれほど美しくなるとは、正直思っていなかったね」

「……」

 

 慧音はそっぽ向き、歩き出す。

 

「知ってたかい、慧音」

 

 そんな慧音の後ろを歩きながら、霖之助は言葉を続ける。一緒に遊んだ少年を、一人思い出しながら。

 

「何をだ?」

「重蔵……あの頃一緒に遊んだ農家の重蔵は、君の事が好きだったんだ」

「あぁ、告白されたよ、随分昔だ」

「へぇー」

「断った次の日、あいつは後で娶る事になったお菊ともう出来ていたがな」

「流石は重蔵」

「そんな事だったらな、霖之助。花屋の橘はお前が――」

「っと!」

 

 慧音が何か言おうとしたところで、霖之助がころんとこけた。

 

「まったく……少しは動く事を習慣付けろ、霖之助。ほら」

「いや……申し訳ない」

 

 慧音の差し出した手をとり、霖之助は、よっと一声出して起き上がる。何に足をとられたのかと足元を見ると、そこには大きめの尖った石があった。

 

「随分と凶悪な石が埋まってるじゃあないか」

「そうだな……っと、霖之助、お前、手……」

「ん?」

 

 手、と言われて左手を見るが、そこには砂が着いているだけだ。

 

「違う、こっちだ」

 

 どうやら慧音に預けた右手の方らしい。どれ、と手を見やれば、手のひらには綺麗な斜めの傷と、少しばかりにじみ出ている血。

 

「あぁ、こける時、尖った小石にでもやられたか……まぁ、これくらいなら大丈夫だよ」

 

 実際、痛みなど殆どない。それでも慧音は、心配そうに霖之助の顔と手のひらの傷を見ながら言う。

 

「一応、私の家で消毒くらいは」

「いや、降り出しそうだから、邪魔するのも悪い。家に帰ってから、消毒しておくさ」

「そうか……で」

「で?」

 

 心配そうだった顔から、昔よく見た彼女の顔に変わる。部屋に居る霖之助を、無理矢理表に引き摺り出す時に見せた顔で。

 

「どうする、このまま手を繋いだまま歩いてみるか? 昔のように」

「前言撤回……君は変わっちゃあいないな」

 

 歩いていく。

かつて共に歩み、先に息絶えた人間達の名を一つ一つ呼び、彼ら彼女らの出来事を語り、二人は歩いていく。子供の頃、無邪気に走ったその場所で、笑いながら。

 

 そして、楽しい時間という物はすぐに過ぎる。目の前には、慧音の家があった。

 

「着いたな」

「あぁ、着いたね」

「ご苦労様、霖之助」

「香霖堂のご利用、ありがとうございました」

 

 慧音に持っていた袋を渡し、霖之助は笑いながらそう言った。もうこれでサービスは終わりだ。降り出す前に戻ろう、と背を向けた霖之助に、慧音が言葉を掛けた。

 

「私が重蔵の……今も、皆の告白を断っているのはな――」

「え?」

 

 そんな話は確かにしたが、今話す必要は感じられなかった。

 霖之助は不思議そうに振り返り、そして見た。

 

 真っ直ぐ、真っ直ぐに。

 在る姿は凛とした白百合の様に美しく。

 

「先に死なれるのは……嫌だった。残して逝く者に囚われるのも、残される者に囚われてしまうのも、私は嫌なんだ」

 

半分人で、半分獣の彼女は。

 

「        」

 

真っ直ぐ霖之助を見据えたまま、家の中に消えていった。

 

「……」

 

 霖之助は無言のまま、慧音の家に背を向けて歩き出す。振り返る事も無く。

 

 ――幻聴だ。彼女――慧音が。そんな事を言う筈がない。彼女は、そんなのじゃあない。

 

 ――だからお前が良い――

 

 ――幻聴だ。

 

とうとう降り出した雨にうたれながら、霖之助は走った。竹林まで来て置いて、その先にある場所には一切気が行かなかった。

 彼はただ、走った。

 

    ■ ■ ■

 

 降り出した雨の空を、一人行く者がいた。

 

 女が一人、人里から離れた場所にある森へと向かって飛んでいた。道の先にある森は、様々な理由があって余り人が立ち入る場所ではないのだが、その女は、力強く迷いも無く自身が持つ最高速度で飛び続けていた。

 手に、小さなブローチを持った女が。

 

    ■ ■ ■

 

 草臥れたカウベルの音を聞きながら、ずぶ濡れのまま店内に転がり込み、霖之助は乱れた息を整えた。

 

「あぁ、ほんと、に……ぼくは、なに、を……」

 

 手には出る前に持った傘が一つ。それが在りながら、彼は傘もささず雨の中を走った。

 

 ――はたから見たら、なんと滑稽な姿だろう。

 

道具屋の主人が道具を使わず、雨の中息を乱して走る姿。その姿は、どう贔屓目に見ても。

 

 ――馬鹿丸出しだ……

 

 使われる事の無かった傘を舌打ちしながら扉の横に置き、張り付いてくる気持ち悪い上着を脱ぐ。何か拭う物を探し、棚に置いてあった売り物のタオルケットを手に取る。売り物だが、この際はしょうがない。

 

 ――また洗い直せば、売り物に戻るさ。

 

 タオルケットで髪を乱暴に拭い、次は顔、その次は首を拭う。そこでぶるっと寒気が全身を走り、霖之助は風呂も沸かすかと風呂場へ急いだ。薄暗い廊下を明かりもつけぬままに歩き、ふと思い出した。

 

 慧音の、あの言葉を。

 

「幻聴だ、幻聴だろう、……彼女は、そんなのじゃあ、ない」

 

 寒気も忘れ立ち止まり、強く首を横に振る。

 未だ髪に残っていた水が飛び散り、壁や廊下を濡らした。足を拭かないまま廊下を渡ったせいだろう、足元にはもう大きな染みが出来ていた。寒いはずなのに、胸が熱い。顔も熱いし、頭も熱い。

 

 目を閉じれば、彼女の、慧音の姿がはっきりと瞼の奥で蘇る。

 長いまつげも、綺麗なうなじも、すらりとした腕も、足も、指も、声さえも。付き合いが長い分、それは一部の差異も無く、正確に鮮明に再生される。

 

 熱い。

 霖之助は零す。やはり、どうにも熱いと。

 

 ――風邪だ、風邪のひきかけなんだ。

 

 右の手のひらで顔を覆い、自身にそう言い聞かせた。この熱は、そういった熱でしかないんだと、あれは聞き間違いだと。必死に言い聞かせた。

 

 自分一人だけが浮かれているとしたら、余りに悲しいから、そう思う事にした。そして数秒後、顔から手のひらを離し、違和感を覚えた。

 

 ――……

 

 それまで帯びていた熱が、どこかへ消えていく。

 彼は何がおかしいか分からず、理解も出来ず、もう一度同じ行動を取る。右の手のひらを顔にあて、もう一度、数秒後に離す。

 

 ――……

 

 離した右の手のひらを、じっと見つめる。

 目を見開いて、じっと、じっと、じっと、じっと見つめ。

 

 ――……

 

 狂ったように走り出し、霖之助は戻っていく。

 香霖堂に備え付けられた愛用のテーブルに向かい、引き出しを壊すように引っ張り出した。中からペーパーナイフを掴み取り、その鞘を外しそのまま左手の人差し指に当てると、一気に引いた。

 迷い無く、深く、指を切り落とすような勢いで。

 

 霖之助は痛みに顔をしかめながら、血の流れる指先を食い入るように見つめて――……

 

「は、ははははは」

 

 笑い出した。

 引きつった顔で、笑い出した。

 

 目の前で、それは起きた。

 だらだらと流れていた血がやがて止まり、じんじんと来る痛みは潮が引くように消えていく。そして――

 

「はははは、ははははははは」

 

 ――嘘だ。

 

 それがまず頭に浮かんだ。在り得ないから、嘘だと思った。

 あぁ、そうだ、自身は確かに半妖だ。

 霖之助は喘ぎながら、走りながら千々に乱れて纏まらない思考を続ける。

 

 怪我も治りが早く、病気にも為り難い。ただ、それだけだ。彼の体は、それだけだ。

 別段他に優れた所等無く、精々が食事を必要としない事くらいで、メリットを探し出しそれを誇れるほどに、彼の身体は恵まれた物ではない。

 その筈なのに。

 

 ――なのに、なんで……

 

 目当ての場所に、たどり着く。そこは食事を必要としない霖之助から縁遠い、使われる事など殆ど無い台所だった。息も整えず、彼は目当ての物を探す。

普段の彼からは想像も出来ないほど、そこにある全てを薙ぎ倒しながら。

 

食器が割れる。湯飲みが割れる。棚が倒れる。

 

 ――嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。

 

 理解できない、理解できない、理解なんて彼には出来ない。だからそう叫ぶ事しか出来ない。

 

 魔理沙が置いていった皿が割れた。

 

 ――嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 

 それに憧れが無い訳ではない。だが、それ以上に嫌だった。

 かつての人間の友人達。慧音の話にも出てきた彼ら彼女らの最後が、胸を締め付ける。孫や子供に囲まれて幸せそうに逝った者、孤独のまま逝った者。長い列の葬式、短い列の葬式。周囲から向けられる、胡乱げな視線や、攻撃的な視線。

 

 辛いと思う。この程度の生であっても。彼は辛いと思う。親しい者の死と、別れ。

 

 霊夢のお気に入りのお椀が割れた。

 

 ――嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 

 何より、その先が嫌だった。先に逝った者達が残した子や孫には、彼ら彼女らと瓜二つの者達もいる。その人間達には悪いが、それが嫌だった。

 目の前にまだ生きて在る様で、かつての友人達を汚された様な気がして。そんな風に思う彼自身が――嫌だった。

 

 慧音は言った。

 

『先に死なれるのは……嫌だった。残して逝く者に囚われるのも、残される者に囚われてしまうのも、私は嫌なんだ』

 

 親しい彼女達が居る。

 親しい彼らが居る。

 霊夢、魔理沙、咲夜、魔理沙の父親、母親、兄弟子、弟弟子。かつての友人達、知人達。人間の、彼の人間の知り合い達。

 

 彼女達の死だって、受け入れがたい物だろうと、彼は思う。更に、彼は場合によっては、その彼女達の子供や孫達の死まで見なければならない可能性まで在る。看取らなければならない。悲しいのに、それだけでも悲しいのに、ずっと、ずっと。

 もしかしたら、彼の予感が当たっているのなら――永遠に。

 

 ――あぁ、あぁ。そんなのは、慧音。僕だって

 

「嫌だッ!!!」

 

 先ほど慧音と霖之助が使った湯飲みが割れた。

 

 砕かれ散らばった食器や棚や道具達。それらの下に、冷たいきらめきを放つそれを、彼は見つけた。見つけて、求めていながら、目の前にして躊躇し。

 やがてゆっくりと……左手でそれを掴み見入った。

 

 それに映りこむ自らの顔を眺めながら、彼は考える。

 もし、想像通りだとしたら、いつそれを摂取した。目を瞑り、思い出す。脳内全ての記憶を掘り返し、全てを見逃さず思い出す。

 答えは簡単に見つかった。記憶を深く掘り返す必要さえ無かった。何せそれは、彼の日常の一コマだったのだから。

 

 じっと、彼を見つめる、あの瞳を。飲む際に、じっと見つめていた、あの目を。嚥下するまで、ただ見つめていた、あの双眸を。

 

 ――僕は、僕は、僕は……

 

凶暴さはもう鳴りを潜め、そこには静かな常の彼が戻っていた。ただ、金の瞳には知性の色が見えなかった。

 

 ――尊敬、していたんだ。尊敬、しているんだ。

 

 その答えに辿り着くのが、嫌だった。それでも、全てはそこに辿り着こうとしていた。

 

――本当に……愛してさえ、いたんだ。

 

 自分の様などうでもいい半端者ではなく、そこに在るだけで存在をはっきりと感じさせる彼女に。高い知性と、鋭い智慧に。会話を楽しもうと、自分に合わせてくれる彼女に。

 

 母親を慕う子供の様な感情さえ、あった。姉を慕う弟の様な感情も、あった。純粋な敬愛の念が、あった。

 彼女の長い命から見れば、本当に短い時間でも、自分のような半端物から見ても、短い時間でも。その交わった日々の中で、それらは確かに芽吹いたのだ。

 

 知識と言う沃野と、繋がりと言う糧で。

 

 けれども。

 

『じゃあ、また明日』

 

 彼は裏切られた。

 

 そして。

 

『だからお前が良い』

 

 彼は裏切ってしまう。

 

 ――怖い怖い怖い。

 何が?

 

 ――怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 何を?

 

 ――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 

 手にある鈍く光るそれや、今からやろうとしている事が。

 証明の為には、これしかない。それしかない。

 証明するには、それこそが最も効率的で実践的だ。けれど、もし――……

 

 二度と目覚めない事が怖い。それよりも。

 そんな事よりも、それ以上に怖い。どうしようもなく、それが怖い。

 彼は、怖い。

 

「なぁ、慧音……もしこれで僕がどうにも為らなかったら……君は、どうする?」

 

 居ない彼女に問いかけて、彼はそれを自分の喉に突き立てた。

 

 包丁が喉を貫通し、うなじから鈍い光を放つ、赤に彩られた刃をぬらりと覗かせていた。

 

 口から血をこぼし、見開かれた目から、徐々に光が失われていく。どさりと倒れこむ彼のその両手には、傷など一つも無かった。

 

    ■ ■ ■

 

 雨の中。

 目の前にそびえ立つ和風なのか中華風なのかはっきりしない古道具店――香霖堂――を前に、永琳は少しだけ物怖じしていた。降りしきる雨に打たれるがまま、立っていた。

 入って良い物かと。良いも悪いも無く、店なのだから誰もが入る権利を持っているのだが、今の彼女には此処まで来て――いや、店を前にしたからこそ、彼女には物怖じするだけの理由があった。

 

 右手の中にある小さなブローチを見つめながら、永琳は笑う。

 泣きそうな顔で。

 

 彼女は霖之助の能力――道具の名前と用途が判る程度の能力――が、どの程度の範囲から発揮される物か知らない。

 薬剤に直接触れなければ分からない物なのか、薬瓶越しでも分かる物なのか。薬剤を瓶から取り出し何かと――お茶と混ぜた場合、それは湯飲み越しでも分かる物なのか。それらが判然しない以上、彼女は慎重に為らざるを得なかった。

 

 そしてその為に、彼女は芝居をうった。この茶葉が味だけで分かるか? と。

 

 霖之助が湯飲みを持ち、口をつけた後で、だ。

 博打ではあるが、こうすれば能力の範囲も特定出来る上に、あの負けず嫌いの霖之助だ。舌だけで茶葉を断定しようと躍起になるだろうと考え、結果その通りになった。

 

 永琳はそこまで準備してから、それでも慎重に事を進めた。一気に服用させ急激な変化に副作用が出ないよう細心の注意を払い、ゆっくりと彼の体に浸透させて行く為に一滴、一滴、徐々に徐々に熱いお茶に含むそれは増やしていった。

 まるで永琳の中に在る粘着的な黒いそれの様に。

 

 そんな彼女が、今更怖いと思う。悲しいと思う。

 手の中に在るブローチは、此処に来る為の口実だ。此処に至ってまだ、彼女は理由も無く来るという事に戸惑いと恐怖を感じている。もう引き返せない所まで渡って、渡らせておきながら。

 

 雨に濡れた髪は重く、服も肌に張りつき、気持ち悪い。永琳は髪を一房弾き、扉に手をかけた。

 

 ――大丈夫、まだばれる筈なんて無い。

 

 一年、二年、十年、百年、もっと、もっと。

 きっとばれないばれない。

 

 そんな楽観的な事を考えながら、彼女は胸で未だ燻ぶる恐怖を押さえ込み、香霖堂へ入っていった。

 

 毎度の如く、もう聞きなれたカウベルが草臥れた音を奏でる。

 

「霖之助……? 居ないの?」

 

 灯りの点っていない暗い店内を見回す。

 

「……あら?」

 

 そこでおかしさに気付いた。

 彼が良く座っている椅子が倒れている。そして肘をかけ、いつも本を読んでいるテーブルの上が荒らされていた。

 

「……」

 

 近づき、更にその異常さに目を見張る。

 引き出しはこじ開けられ、引っ張り出されたそれは、そのまま床に打ち捨てられていた。そこからちょっと覗けば見えてくる、居住区に続く廊下には、黒い染みが転々と、また奥へ続いていた。

 どう見ても、良くない事だ。何かあったとしか思えない。そう考えた永琳は、

 

「……上がるわよ、霖之助?」

 

 万が一のため、靴を履いたまま上がり込む事にした。

 

 ギシギシと鳴る廊下は暗く、ぼんやりと奥が見えるだけだ。注意し、警戒し、彼女はゆっくりと歩を進める。香霖堂の壁に備え付けられた時計の秒針と、降り止まぬ雨の音と、廊下の軋む音だけが鳴り響く。

 

 ふと、物音を聞いた。

 奥からだと当たりをつけた彼女は、其処へ向かおうとして――

 

 それを見た。

 

 割れた食器と、道具の散らばった暗い暗い部屋で。ひざを突いて、力なく項垂れている霖之助を。駆け寄ろうとする永琳に、霖之助も気づいたのだろう。

 彼は緩慢に顔を上げて、彼女を見上げた。

 

「りんの――……」

 

 見た、じっと、見ていた。

 光などどこにも無い、濡れた瞳で、霖之助は、永琳を、見上げていた。

 

「……あぁ」

 

 黒と青で彩られた服と、どこかくすんだ銀色の髪。

 光の無い瞳に、男性にしては華奢な体と、白い肌。

 その白い肌を冒す――真っ赤な首と真っ赤な胸元。

 力なく垂れ下がった右手には、血に濡れた包丁。

 

「あぁ、そう……霖之助……そう、貴方――……」

 

 泣きそうな、悲しそうな、笑い出しそうな、壊れてしまいそうな、綯い交ぜになった判別し難い顔で、喘ぐ様に言葉を紡ぐ永琳を遮って。

 濡れた瞳から、涙を零しながら――霖之助は口を開いた。

 

 

 

――『  』

 

 

 

 こつん、と。

 永琳の手に握られていた小さなブローチが、床へ落ちた。

 

 

 

 

 

  ――了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも女は涙を流さなかった。

 或いは、そんな物とうに尽きていたのかも知れない。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。