続くから、続く
――森近さん! 森近さん!
――……頂けないね、君ももう霧雨の親父さんから独立して、一店主だろう? 屋号で呼ぶ位は……
――今は、そんな場合じゃないんですよ、森近さん!
――……なにか、あったのかい?
――じ、実は――……
少しばかり、前の話。
少しばかり。
少し、ばかり。
■ ■ ■
「ごめんください」
カウベルの音と共に、鈴のように鳴る少女の声が香霖堂に小さく響いた。だが、それに応える者は無い。
煩雑に、乱暴に並べられた道具達は勿論の事、店主すらその声には応じなかった。店内に入ってきた少女、メイド服の美しい彼女――十六夜咲夜の声に応じたのは、ただちくたくと鳴る古時計だけだった。
『続くから、続く』
いつも通り店内に置かれた椅子に座り、暗い面差しで鋭く中空を見つめる霖之助のその視界に、
「ごめんください」
「……やぁ」
視界一杯に、その少女の整った顔が突如現れた。
内心では酷く驚いた霖之助だったが、それを悟られるのを厭い、彼は平静を装って軽く手を上げて彼女に応える。
「まぁ、めいいっぱい驚いて頂けたようなので、挨拶無しの件は不問としましょう。感謝するように」
「僕が驚いた? 君の目はなんて節穴なんだろうね。メイド長、聞いて呆れるよ」
咲夜は満足気に頷いて、数歩ほど下がる。
そんな姿が気に入らないのか、霖之助は自身の顎辺りを撫でながらせせら笑った。無論、ただの強がりである。
霖之助のそんな姿が面白いのか、咲夜はにこりと笑うだけで何も言わない。この場合、何も言わない事が一番効くと理解しているからだ。
「……で、今日は何用で?」
意味も無く、本当に意味も無く。霖之助は襟を軽く合せ直し、咳を一つ払って向かい合う少女を若干睨み付けながらそう問うた。
先程と言い、今と言い、接客業に就く者としては致命的な所作ではあるが、彼の場合は皆、誰しもが諦めている。そんな男なのだ、と。
今霖之助の前に佇む少女も、それを理解している一人である。今更そんなことで目くじらを立てる筈もない。
むしろ、涼やかな笑顔で佇む彼女には、霖之助のそんな様を楽しんでいる様な、大人びた余裕さえ見えた。
「貴方はお嬢様と同じ様な行動を取る時があるので、なんとも、見ていて飽きが来ません。もっと弄って良いかしら?」
「僕は、ここに来た用件は何かと、聞いたんだがね」
咲夜の発した不穏当な言葉をかき消す様に、霖之助は語気を荒めた。
切実に方向修正を求める霖之助の、その顔に咲夜は一つ浅く頷いた。
どうやら一応、満足したらしい。そして彼女は、先程とは打って変わった真面目な顔で霖之助の双眸を見つめ、言葉を紡いだ。
「暇なんです」
「出て行ってくれ」
にべも無い。
「暇なんです」
「だから、出て行ってくれ」
相手にしない。
「暇なんです」
「あぁ、そうかい」
適当に相槌を打つ。
「暇なんです」
「……」
無視する。
「そういえば、先ほどは何故、あんな目で何も無い場所を睨んでいたのかしら?」
目の前に居た筈の少女の姿は消え、霖之助は一瞬何が起こったのか分からなかった。
しかも、声が近い。先程聞こえた声は、近かった。
まるでそう。霖之助の隣から発せられたほどに近かった。
「……」
無言のまま、彼はゆっくりと自身の右隣へと視線を移していく。
テーブル、台帳、読みかけの本、仕入れてきた外の道具、それらが順番に視界におさまって行き……
「あら、このお茶薄い……」
すぐ隣に、少女は座っていた。椅子と、お茶と、受け菓子まで用意して。
霖之助は顔を右の手のひらで覆い、深いため息と共に言葉を吐き出した。
「ここは、君達の暇つぶしの場所ではないよ……ここは、僕の店なんだ」
「魔理沙と霊夢だけの特権だ、と」
「人の言葉は良く聞くべきだよ、メイド長殿。僕は"達"と言った」
「あぁ、なら私もここに居て良いと。ありがとう」
霖之助は何も応えず、自身が用意し置いてあった湯飲みを掴み、それを一気に飲み干した。
それを乱暴にテーブルの上に戻し、彼は体ごと咲夜に向き直って口を開いた。開いたのだが、開きこそしたのだが。
「そういえば、先ほどは何故、あんな目で何も無い場所を睨んでいたのかしら?」
見惚れる様な、おぞましい様な、美しいから気持ち悪い、そんな蛇の目にも似た少女の瞳に、言葉を全て奪われた。
小さく首を横に振って、霖之助は肩を落とした。
「君達は、あぁ君"達"は、いつもそうだ。結局、最後は僕をひん剥く」
「まぁ、夜這いされたの?」
「一回小突いてもいいかな、その君の額」
「私も傷物にされるんですね」
「あぁ、責任をとって消毒してあげるから、帰ってくれ」
「まるで行き場の無い子供みたいな目でしたよ、先程の貴方」
そんな咲夜の言葉に、霖之助は小さく震えた。
霖之助は無言のまま数秒、咲夜の瞳をまじろぎもせず睨めた。
彼の普段にはない暴力的な視線を、彼女は同じくまじろぎもせず見つめ返す。静かに、波もない水面のような瞳で。
古ぼけた時計の秒針が一周した頃だろうか。
霖之助はくるりと身を返し、再び香霖堂の扉を正面に置き、急須を手に取った。
湯飲みにそれを注ぎ、目を閉じ、湯のみを手にとって、ゆっくりと嚥下する。一連の動作が終わった後、霖之助が目を開けると、咲夜は来た時と同じ場所に佇んでいた。
つまりは、正面に。
「そういえば、先ほどは何故、あんな目で何も無い場所を睨んでいたのかしら?」
正面に、隣に、また正面にと目まぐるしく移動しても、言葉にする内容に変化は無い。
「……言うまで、続くのかい?」
「はい」
当たり前だ、と言わんばかりの笑顔に、霖之助はおっかないと心から思った。
「単純な事だよ、とても、どうでも良い事だ」
「暇なので、それで良いです」
「酷い理由だよ……君はそれを駄賃に、僕の口を動かそうとしている」
「大丈夫でしょう。放っておいても口を動かす存在です」
確かに、そこに人が居て、この男が無言のままで居られる筈もない。
「昔、人里の道具屋で共に修行時代を送った兄弟子がね、亡くなったんだ」
「……お悔やみ申し上げます」
頭を下げる咲夜に、霖之助は何も応えなかった。
「人間は、いつもそうだ。置いていかれる。道具の鑑定も、選定も、彼の方が上だった」
「……妖怪と人間の寿命が違うのは、どうしようもない事でしょう」
彼女は仕える主人を思い出しながら、言葉を呟いた。
「あぁ、仕方の無い事さ。だから、いつも取り残されるのも仕方無い事さ」
口ではそういいながらも、その顔には納得などどこにも浮かんでいない。
「あの人は、道具のことなんて余り知らなかった僕に、色々教えてくれたよ。世話も、良くしてくれた。今僕が道具屋家業にあれるのは、間違いなくあの人と親父さんのお陰だ。ここに店を構える時だって世話をしてくれた。自分の店の客に、僕の店を宣伝してくれていた。兄弟弟子なんて言ったって、独立すれば商売敵だ。それをあの人は、そんな事までしてくれてね。子供が生まれたとき、お前も子供の顔を見に来いと言ってくれたよ。その子供に、僕みたいになるなと言ったと思ったら、こいつみたいになれ、なんて言っていた」
一つ言葉が転がり出れば、彼はそれを止めようともせずそのまま舌に任せた。
「まだ40と少しだ。早すぎるんだ、早すぎるんだよ、人間は。いつも、皆、早すぎるんだ……」
咲夜は何も言わず、霖之助の言葉を聴き続けた。
「いっそ……あぁいっそ、庭の桜に大事な人間達を全て、並べて埋めてしまおうか。大きな、硬い塀を作って桜と僕をここの全てから隠すんだ。扉なんて作らないさ。鍵がもしあったら、僕が飲み込んで隠すよ。僕を殺して、刃物で胃を開いて取り出さないと扉は開かないんだ。けど、僕は殺せないんだ。だって四方全て壁だから、誰も入れないよ。鍵だって、本当はどこにも無いんだ。壁だからね、高い、壁だよ。全部覆うんだ、ここの全てを。そうすれば、僕は残される事もないだろうな」
嘲笑を浮かべ、世を捨てた老人のような面を貼り付け霖之助は言い捨てる。霖之助の中で朝霧のように不確かにあったそれが、確固たる形を伴って外へ出ようとする。
それを、彼は抑えられない。それがまた、彼の心を苛立たせた。
「それで皆が笑って別れられるなら、今すぐ親しい人間達を殺しまわれば良いでしょう? その後、汗だくになりながら桜の下に穴を掘ればいいでしょう? 泣きながらでも、何か言いながらでも、死体に話しかけて埋めて行けばいいでしょう? 寂しいのなら、それは多分仕方ない事でしょうから」
目の前で、彼女は霖之助の気が違った言葉に否定も顔を背ける事もせず、ただ答えた。
幻想郷は、全てを受け入れる。寂しさも、そこから生まれる歪んだ悲しさも。
受け入れて、やがて霖之助を殺すだろう。
隙間から零れ落ちた刃が、霖之助の首を切り落とすのだ。全てを受け入れて尚、異物を排除し、幻想郷は冷たく続くのだ。
怜悧に。
霖之助は力なく微笑み、弱々しく首を横に振る。
「桜が、人が、そんな理由で綺麗に在れるものか……あれはね、桜はね、君。人間の君」
どこか疲れたその視線の先に、庭で春を待つ桜の木を置いて、霖之助は舌をふるう。
「ただの桜だから、美しいんだ。霊夢や、魔理沙みたく、ただ霊夢で、ただ魔理沙だから――」
「美しい、と。その言でいくと、私も美しい、と。なるほど」
ふむふむと頷いて、咲夜は呟いた。
「……発情期?」
呟きの割には、どうも語調が強かったが、霖之助は無視した。後の言葉も当然無視した。
「失言だ。忘れてくれ。消してくれ。忘却してくれ」
「では、交換条件」
楽しげに、彼女は言う。
「あぁ、なんだい。言っておくが、無茶を言われても困るよ?」
「無茶では在りませんよ、まぁ、その無茶に関わる話ですが」
「?」
怪訝そうな顔をする霖之助に、咲夜はこう言った。
「茶葉、交換しましょう」
急須を指さして。
「あぁ、なるほど……無茶に関わる話だね」
「待ってますんで、急いで交換して下さい」
「メイドの仕事と言うのを、一つ見てみたい訳だが」
「あら、給金が出まして?」
「……行って来る」
「はい、お早めにお願いします」
霖之助は急須を片手に、台所へと向かっていった。
兄弟子が死んだという事は、頭から消えていない。胸にあいた穴も塞がっては居ない。
けれども、寂しさを埋める為にじっと考え続けた仄暗い何かは、もう消えていた。
「あぁ、覆らない」
ぽつりと呟く。
他に誰もいない、台所で。
「あぁ、僕は置いていかれる」
脳裏によぎるのは、香霖堂に屯する少女達、遠き日の兄弟子、弟弟子、そして道具屋の師匠。友人、知人、その子供や孫達。
「寂しいからなんて、僻む理由にはならないな」
だから暗い思いに囚われる。
しかし、それは理由にしてはいけない。自身の暗い何かの為に理由にしたら、その思いの根底にある人間達まで、汚れた物になってしまう。
「美しくあって、悪いわけじゃあ、ないんだものな」
美しすぎて困ることは、ありそうだ。
そんな事を考えながら、霖之助は茶葉を交換した。
戻ってきた霖之助に咲夜は、
「遅い」
そう言って迎えた。
受け菓子を食べながら、霖之助がテーブルの上に置いていた読みかけの本を読みながら。
「……君は、なんというか凄いな」
「えぇ、私、瀟洒なメイドですから」
誇らしげに返事をする咲夜に、霖之助は笑う。
「そこまで他人の居場所で寛げるのは、霊夢と魔理沙だけだと思っていたよ。人間は凄いな」
「えぇ、凄いでしょう。何せ自分が先に死ぬと分かっていても、人間は妖怪と付き合います」
「……あぁ、そうだね」
笑顔から一変。複雑な顔で、霖之助は急須をテーブルの上に置いた。
「まだ、桜の下に埋めてしまおうなんて馬鹿な事を考えていますか?」
「まさか……まぁ、実行するとしても、僕はそれを他人に理由を譲ってやりはしないよ。自分の意志でなら、いつかやってしまうかも知れないね」
例えば、この先娶るかもしれない女性が、妻が人間で。先に死んでしまえば。
「――僕は埋めてしまうかも、知れない」
「なら、奥様は幸せ者ですね」
「そう思ってくれる伴侶を探すのは、難しそうだ」
「当たり前です」
「はは、違いない」
全てをいきなり消す事はできない。どこか暗く微笑む彼に、彼女は言葉を零す。
「全てを払える爆弾でもあれば、そんな笑顔を見ないですむのかしら」
「弾幕ごっこはご遠慮願うよ」
「瀟洒な弾幕を否定するなんて、酷い」
「弾幕ごっこは場所を遵守してやって欲しいね。それに、僕は弾幕やらなにやらの美しさには、然程興味が無いよ」
「では、今の暗い思いを払う爆弾には、興味おあり?」
「……」
珍しく、にんまりと少女らしく笑う咲夜に、そんな笑顔でも瀟洒にある彼女を凄いものだと思いながら、霖之助は軽く頷いた。
「そんな物があるなら、見たいものさ」
「では、見せましょう」
「……」
目で、正気かと問う霖之助に、咲夜は失礼な、と言ってから立ち上がった。
「さて、目を瞑って貰えますか?」
「……目を、かい?」
「えぇ。それから十秒後、目を開けて下さい。悩みも悲しみも、全て消し飛ばしましょう。それが一時でも」
「一時か……十分だよ。それが良い。ずっと忘れては、生きていけそうにないからね」
そう言って、霖之助は、ここまで来たら騙されるのもまぁ良いだろうと思い目を瞑った。
そして待つ事十秒。
彼はゆっくりと目を開け、
「……何も無い、か」
それまで居た咲夜の姿も無い、寂しい正面をただぼんやりと眺めた。
首を振り、それ、やっぱりそんな物はないのだと愚痴ろうかと思った時。
それが見えた。
テーブルの上。台帳。湯のみ。急須。読みかけの本。
そして、その本の上にある、檸檬。
霖之助は、笑った。
一時。
全てを忘れて笑った。
――了
翌日、彼は兄弟子の葬式に参列した。
涙をこらえて、じっと、じっと。
人と妖怪と、それ以外の何か。それは続いていく。
続いていくから――全てを受け入れる世界は、続いていく。