香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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後編

 ――何度も何度も、何時も何時も。

 ――それは繰り返される。

 

   たった一つの、赤い糸を巡って。

 

 繰り返される。

 朝が去るから、昼は訪れる。昼が在るから、夜は現れる。夜が散るから、朝は溢れる。

 空に眩い光の大輪が咲き、朧の光の虚が浮かぶ。それを繰り返して、時は回って、廻って、朝は来る。

 

 永琳の朝は早い。

 名残惜しい布団とすぐ側の温もりを、強靭な意志で渋々と引き離し、彼女は起き上がる。

 まだのんびりと寝ている隣の存在、森近霖之助の寝顔を数分眺め、顎や頬を思う存分撫で、少しばかり払われた冬布団を霖之助に掛けなおし、彼女は一つ頷いて床を離れた。寝起きの霖之助分補給完了と言うわけである。

 先日、正確には先日"深夜"から今日"早朝"まで霖之助分をたっぷりと注いで貰った上に、寝ている間も抱きつき、抱きしめられていたのだが、それはそれ、これはこれ、なのだ。彼女は寝巻きのまま風呂場まで歩き、軽く湯浴みしてから普段着に着替えた。

 一応用意してもらった、殆ど朝にしか使う事がない自室の、その端に置かれた化粧台の前で髪を梳かし、軽く化粧を施し、箪笥から割烹着を取り出し、それを着ける。

 

 霖之助より遅く起きるなど言語道断である。更に言えば霖之助より先に寝る事など以ての外である。如何に先日遅くまで起きていようと、先に床を離れるのがまず最初の仕事なのだ。

 少なくとも、彼女はそう在るべきだと思っているし、愛する存在の為なのだからそうしたいと思っていた。義務ではない。規則でもない。

 ただ、したい。やりたいのだ。

 

 かつてには無く、今に在る"先へと続く温もり"は、永琳にそれを自然とさせるだけの物が在った。

 

「さて……今日の朝食は何にしましょうか……」

 

 だからそれは、苦ではない。むしろその真逆にある感情で、彼女は動いている。

 

 歩けばギシギシとなる廊下を出来るだけ音を立てないようにゆっくりと歩き、彼女は顎に指を当て台所へと向かっていく。早朝と言えば、夏でも無い限り寒さがそこかしこに漂っている物で、板張りの廊下もそうだが、たった数時間だけでも存在の温もりから放置された台所は、嫌と言うほどに冷たい物だった。

 永琳は台所用の西洋床履きを履いて、主婦の戦場へと足を踏み入れる。何を作るにしても味噌汁と米は当然出るのだから、彼女は土鍋と西洋鍋に水を張り、それを火にかけて、隣に置かれている冷蔵庫に目を移す。明治時代には良く見られた氷嚢室付きの冷蔵庫を開け、中を見て……ぽつりと呟いた。

 

「よし」

 

 中に在った物を素早く数個掴み取り、彼女はそれらをまな板の上に置く。一見、気ままな、乱暴とも言える所作に見えるが、永琳の頭の中では恐るべき速さで料理が決定されている。月のオモイカネの高速思考、未だ健在と言う訳だ。

 

 そして一時間後、永琳が居間にちゃぶ台を置こうとしていた時、霖之助が寝巻きのまま顔を見せた。

 

「……おはよう」

「おはよう。着替えは」

「いつもの場所だろう? 顔を洗って着替えてくるよ」

 

 永琳は歩いていく霖之助の背を少しばかり眺めて、再び準備に戻る。皿を取り、それに今しがた作り終えた料理を盛り付け、満足気に頷く。

 それが終わると、今度は米びつ、味噌汁の鍋、それらを居間に運ぶ。朝食の用意が終わる頃には、霖之助がいつもの服に着替え、居間に戻ってきた。

 

「いや、この季節ともなると、もう水が冷たいね」

「変わり目ですもの。でも、寒さにも感謝、かしら?」

「……」

 

 その意するところは、簡単な事だ。寒ければ、寝具の中で抱き合える。夏には少々酷な事も、寒さがあれば心置きなく出来る。

 それはもう、たっぷりと。霖之助は何も答えず、無言のまま自身の指定位置に腰を下ろした。頬を僅かばかり朱に染めてそっぽ向く目の前の青年を、永琳はくすくすと小さく笑う。

 

 知識はある。知恵もある。

 だが、結局はそれだけだ。何でも出来る訳ではない。何でも卒なくこなせる訳ではない。

 だから、良いのだ。

 不器用な愛で、無愛想な愛だから、彼女には心地良い。未熟であるから、成長する。

 人も、命も、永琳と霖之助の間にある、男女の愛も、その愛さえも超えた所にある愛以上の何かも。明日が在る。それはなんと幸せな事だろうか。

 

 自身の眼前で、幸せそうに微笑む永琳の顔をなんとなく見つめながら、霖之助は朝食はまだだろうかと溜息を吐いた。

 が、その顔に浮かぶのが苦笑では、彼もかなり毒されてしまっているのだろう。二人が朝食に箸をつけるまで、まだ少しばかり時間が必要だった。

 

 ただ、この――妙に甘ったるい空気を撒き散らす二人を、他者が見ればなんと思っただろうか。

 

 少なくとも。そう、少なくとも。

 結婚してもう十年、等と誰も信じはしないだろう。

 こんな新婚家庭そのものな空間を見せられては。

 

 

 

 

   《赤い糸を繰る》

 

 

 

 

 少しばかり騒がしく、少しばかり静かに、竹林にある診療所は、いつも通りほどほどの忙しさで回っていた。当然、その一室である診療室も同様に。

 

「なるほど……では、腕のほうは?」

「えぇ、ちょっとばかし鈍くなってるくらいで……特には」

「分かりました。打ち身に効く軟膏を出しておきます。窓口で受け取って下さい」

「あ、はい。ありがとうございます、先生」

「……いえ、お大事に」

 

 頭を下げる男に、白衣を纏った女はいつも通り笑顔で答えた。その間にも、手は止まる事無くカルテとメモに様々な事を記している。状態、今後の予想、私見、効果が見込めるだろう塗り薬、消耗の激しい備品、等々を。

 それを側で見ながら、十年ほど前から診療所で助手を務めている少女は、歳もそう変わらぬ外見をもった女性――少女の顔を誇らしげに眺めていた。患者である男性が去ってから、少女は口を開いた。

 

「これを窓口に回しておいて。あと……そうね、ここから暇そうだから、少し備品の補充に行って貰える?」

「は、はい!」

 

 差し出されたメモを受け取り、十年ほど前から働き出した、大親分に良く似た垂れ下がった耳を持つ地上兎の妖怪少女は、笑顔で自分を見つめるその少女――優曇華に微笑み返した。

 

「行ってきます、先生!」

 

 受け取ったメモを片手に、慌しく退室していく少女の背が見えなくなってから、優曇華は息を吐いた。

 深く。

 

「……先生、か」

 

 その口元を、自嘲に歪める。果たして、そんな名で呼ばれるに相応しいものか、と。

 他人から見れば立派に仕事をしているのだろう。だが、優曇華にはそれを誇る事ができない。

 胸を張って、診療所の長であると語る事が出来ない。今はもうここに居ない、先代の長が優秀すぎたと言う事も原因では在る。しかしそれ以上に。

 

 ――道具の仕入先である店にも、怖くていけない馬鹿な女なのに。

 

 胸の中で呟いたその言葉は、自身が思ったよりも鋭く。先程向けられた地上兎の少女の笑顔は、目を背けたくなるほど眩く。

 

「……本当、馬鹿な女」

 

 呟きと共に吐き出された溜息は、長く。何もかもが重かった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 まだ満足に飛ぶ事も出来ないその少女が駆け足でやって来た場所は、人里を挟んで正反対の場所にある瘴気の森、その入り口に佇む奇妙不可思議な店だった。

 中華風でもあり、和風でも在る。東洋の息吹を色濃く現す幻想郷において、そう珍しい建物でも無い筈なのだが、その側に置かれたモノ達が場違いだった。狸の置物、道路標識、錆びたポスト……粗大ゴミとも言えるそれらに囲まれた建物は奇怪、異様である。

 なまじ幻想郷にあってもおかしくない東洋風の建造物である為、外に置かれたその馴染み薄い異物の存在は、ここへ足を運ぶ存在に奇妙な圧迫感を与えた。

 もっとも、それは外観だけを見た場合である。

 では内観を見れば馴染めるのかと言えば決してそうではないが、少なくともこの建物――店の店主はどうにか許容出来る存在だ。どうにか、ではあるのだが。

 故に、ここに来る存在は限られる。外を見て引き返す者多々在れど、これを見て尚中に入る存在が居るのもまた、幻想郷という檻の中に生きた者達の強かさなのだ。

 そしてこの店、香霖堂にやって来た少女もまた、そんな強かさを僅かばかりでも持った存在だった。

 

 少女は一歩、二歩と足を進め、視界全てを占領する扉を親の仇のような目で見つめ、手を伸ばして口を開いた。

 

「森近さーん、お邪魔しますよー……?」

 

 店である。であるから、態々入る事を先に断る必要は無い。

 それでも少女はそれを行い、そっと扉をあける。恐る恐る、といった姿で。

 申し訳程度に鳴り響くカウベルを聞きながら、少女は今日も"また"それを見た。

 

「……あぁ、いらっしゃい」

「あら、今日も優曇華のお遣い? 偉いわね」

 

 椅子に座り、本を読む香霖堂店主――森近霖之助と。その店主を後ろから抱きしめ、店主のうなじ辺りに鼻を埋めている自称看板娘兼新妻兼若妻兼美人妻、旧姓八意、現森近永琳を。

「……」

 

 少女は顔を真っ赤にして、無言のまま、そっと扉を閉めて退出した。

 

「……いつもだけれど、面白い子よねぇ」

「君には負けると思うよ」

 

 笑顔で呟きながら、うなじへと甘えるように鼻先をくっ付ける永琳に、霖之助が溜息混じりに返事をする。結局少女は、霖之助が声を掛けるまでの間、律儀に外で待っていた。

 それも、常の通りである。

 

 

 

   ●

 

 

 

「なるほど……これを、ね」

 

 少女から渡されたメモを眺め、霖之助は目を細めた。それから一つ咳を払い、彼は続ける。

 

「少し時間が掛かるから、そこに座って待つといい。永琳、お茶とお菓子を頼むよ」

「えぇ、分かったわ」

 

 そして霖之助は奥にある倉庫へ、永琳は少女に頭を軽く一撫でしてから台所へ向かっていく。

 残されたのは少女である。彼女は言われた通り、指定された席に腰を下ろし、足をぶらぶらとさせながら二人が戻ってくるのを待った。

 特にやる事も無い彼女は、周囲を見回す。この店は、そういう時には便利だ。何せ雑多である。見る角度を少し変えたり、日を改めてやって来ると、大抵知らない物が一つ二つは見つかる。

 少女が見て、楽しい、等と思える物などそう多くは無い――というか全く無い店内であるが、それでも変化が無い事よりはマシだ。果たして、意味も無く彷徨う少女の視線は今日も意味不明の何かを見つける事が出来た。なんとなく、見えたそれに興味を覚えた少女は、立ち上がりそれの側へと歩いていく。そしてしゃがみこみ、それをじっと見つめた。

 

 少女から見て、黒い、大きな、重そうな、良く分からない、箱。である。

 前面には硝子がはめ込まれており、背面は突き出ていてしかもそこに穴が幾つも開いている。しかも良く見れば、尻尾らしきものが巻かれて背に貼り付けられていた。

 それが何であるかを知らない存在から見れば、実に奇妙な物だった。だから彼女は、無意識に言葉を零してしまう。

 

「なんだろう、これ?」

「霖之助曰く、妖怪兎の類を引きつける箱だそうよ」

 

 背後から掛かった声に、少女は慌てて立ち上がり背を伸ばした。目が少し潤んでいる。驚きの余り涙が少しばかり出てしまったらしい。

 

「あらあら、脅かすつもりはなかったのだけれど……ごめんなさいね」

 

 そんな少女に、永琳はスカートから手ぬぐいを取り出し、彼女の目じりを優しく拭う。涙を拭き終わると、永琳は店に置かれている長椅子に座り、その隣をぽんぽんと叩いた。

 

 ――ここにどうぞ。

 

 という意味である。拒む理由も無く、拒む理由がもしあっても"先生の師匠"という地位を占め、しかも一年程とは言え診療所で僅かばかりでも教えを受けた女性の言葉に首を横に振れる訳も無く、少女は大人しく、身を硬くして隣に座る。そのまま、差し出されたお茶を受け取り、飲みながら日常的な会話を交わした。

 

「そう……優曇華は大過なく過ごしいるのね」

「は、はい!」

 

 最初に見た二人の睦合いと先刻の恥ずかしさで火照った頬の熱を分散させる為か、少女は自身の頬をぺちぺちと何度も叩き、それでも真面目な顔で隣に座る永琳の言葉に元気良く返事をした。

 今少女が行っている事は、頬から赤みをけすどころか更に色を濃くしてしまうような、まったく意味の無い行為だが、少なくとも永琳の胸に温かみを宿らせるには十二分に意味のあることだった。永琳は穏やかに微笑みながら、その少女を眺める。

 

 彼女が永遠亭に居た頃、やっと変化を覚えた妖怪兎。

 特に高い能力も知能も持たない、幻想郷の種族としては二流以下の有象無象。実際、永琳は彼女に何を期待した事も無かった。

 今現在能力が開花していない、では無く、この少女は開花する種が無いのだ。優曇華のように、後々花開く才能など、欠片もなかった。少なくとも、永琳はそう見ているし、今も紙面上に記せる能力をその程度だと思っている。

 

 ただの凡庸な、今後また生まれるだろうただの地上兎の変化でしかない。以前の永琳なら、表面上は兎も角、胸の内では冷めた目でこの少女を見ていただろう。

 しかし、

 

「貴方も、頑張っているのね……優曇華を、助けてあげて頂戴ね?」

「そ、そんな! 私が先生を助けるなんて、そんなのないです! 助けて貰ってばかりです!」

 

 命は尊い物だ。殊、それを生み出せない彼女にとって、そこに生きて在る命は、きらきらと輝く春の太陽のようなものだ。

 

「優曇華は、貴方にとって良い先生なのね……嬉しいわ」

「……えっと……はい」

 

 永琳は微笑の色を尚一層濃くして少女の頭を撫でる。

 少女はただただ、困惑したような、嬉しいような、そんな顔で目を細めてなすがままにされていた。妻にはなれても、母には成れないと痛感する永琳にとっては、この少女は今好ましくて好ましくて仕方ないらしい。

 

 ――甘くなったのかしら。

 

 確かに、それもある。

 甘ったるい新婚家庭を十年も続ければ、骨が溶け失せてしまい、しゃんと立つ気概も何処かに消えたかもしれない。が、永琳はそれを不快とも堕落とも思わなかった。

 胸に宿る安息感と充実感は、今はもう鳴りを潜めた怜悧に過ぎる永琳の老獪さを補うに余りある物だったらしい。そのまま、永琳は笑顔のまま少女を撫で続けた。

 霖之助が戻ってくるまで。

 

 だから、少女は霖之助が来るまで、困った顔で笑うしかなかったのだ。でもちょっと嬉しいから、少女は何も言わなかった。

 

 

 

   ●

 

 

 

「すまない。君にはいつも、苦労をかける」

 

 少しばかり頭頂部の髪を乱した少女に、霖之助は謝罪した。

 

「あの、いえ……そんな、別に」

「それと、これもいつもだが……」

 

 霖之助は少し間を置いて、永琳を横目で眺めてから――その眺められた当人はニコニコと笑っていたが――眉間に皺を寄せ、言った。

 

「……最初に見た物は、忘れてくれ」

「……はい」

 

 変化してからこの十年ほどの、長くは無い妖怪少女見習い人生で長く聞き続けている、

そして長く見続けている諦めとも悲壮とも取れる霖之助の声と相に、少女は苦笑いを浮かべて頷いた。

 

「あの……頑張ってください」

「ありがとう……これも毎回だね」

 

 霖之助から受け取った道具を胸に抱き、少女は頭を下げた。そのまま、くるりと身を翻し、扉を開けて去っていく。

 去っていく前にもう一度頭を下げたのは、少女の善性か、それとも優曇華の仕込が良いのか。扉のガラス越しに、小さくなっていく少女の背を見ていた霖之助へ、永琳は言葉を掛けた。

 その霖之助の顔に浮かぶ些細な疑問への回答を。

 

「私の孫弟子だもの。良い子に決まっているでしょう?」

「結局、いいとこ取りというわけかい?」

「当然じゃない」

「しかし……鈴仙が、ねぇ」

「意外かしら?」

「良い先生、という言葉と、彼女が結びつかない程度には、意外だよ」

「私はそれが意外だわ。貴方は、その目で答えと過程を見ている筈なのに」

 

 永琳の言葉に、霖之助は首をかしげた。優曇華は、彼と彼女が結婚して以来ここには殆ど来ていない。

 病気にもかからず、永琳の監視下の元、厄介事にも巻き込まれない霖之助は怪我を負う事も無く、一切の大過なく十年を過ごした。つまり、彼は結婚式場で優曇華にあって以来、まともに彼女と会話を交わしていないのだから、過程だの答えだのと言われても、諾と易々頷く事が出来ない。

 

 そんな風に、難しい顔をし始めた霖之助を真っ直ぐ見つめたまま、永琳は自身を指差し――口を開く。

 

「あなたの可愛いお嫁さんは、最初からこんな女だったかしら?」

 

 少女の様でもあり、女の様でもあり、愛らしくもあり、白々しくもあった。そしてそれら全てをひっくるめて、色あせさせるほどに艶やかだった。

 

 霖之助は視線を横へずらし、棚に並ぶ商品たちを睥睨しながらなるほどと一つ頷く。

 時の流れの中で、永琳は八意永琳から森近永琳になった。それだけでは変わったと言えないだろう。

 だが、彼女は変わって行った。一つ変え、二つ変え、三つ変え。化粧が変わり、仕草が変わり、温度と匂いが変わった。

 それを堕ちた、などと霖之助は思わない。永琳の顔には堕ちた者特有の翳りなどなく、温かい笑顔が浮かぶばかりなのだから、それは彼女にとっても好ましい変化だったのだろう。

 

 変わる。十年もあれば、生物は変わる。

 一日一歩の緩やかな前進でも、徐々に、確かに。皆が皆。

 永琳も、霊夢も、魔理沙も、そして――優曇華も。

 

 だから、なるほどともう一つ頷く霖之助の両の頬に手をあて、無理矢理自身の方向へと顔と視線の向かう先を移動させた永琳のそんな仕草も、変化のもたらした形なのだと、彼は妙な心地で得心した。

 

「今は私が隣に居るのだから、他に気をやらないで欲しいわ……寂しいもの、そんなの」

「……」

 

 それも、得心した。

 

「だから、抱擁、接吻、舌吸いを三本立てでしましょう。うん、これなら寂しくないわ」

「いや、それは無理だ」

 得心しがたい事だった。

 

「君の変化は受け入れる。あぁ、好ましいのだろう。けれども、僕だってそれ全てを受け入れられる訳じゃあ、ない」

「つまり、この件は顔なじみの烏天狗に相談しろ……と、そう言うのね?」

「言っていないよ。あと無駄な位大事になるから、やめてくれないか」

「じゃあ、今あなたは私に何をすれば良いのかしら? 言葉ではなく、態度で答えを示してね?」

 

 変わった者が居る。変わった物が在る。

 赤い糸に絡まれて。変わった者が居る。

 変わってしまった者が居る。

 

 永琳も、霖之助も。そして、ここに居ない少女も。

 誰も彼も、変わっていく。そう、当然だ。

 

 優曇華の名と顔を思い浮かべた時、背筋に僅かばかりの寒さを覚えた霖之助は、確かにもう、あの頃から変わっているのだ。

 

「もう一度言うわよ……私が居るのに、他の誰かを思うのは不躾じゃなくて?」

 

 そんな薄暗い思考に囚われた霖之助に、寄りかかる温かさがあった。

 言うまでも無く、永琳である。ついでに、首筋には永琳の爪が立てられていた。

 

「……この添えられた爪を退かす為に、僕は何をしたら良いんだい?」

「抱擁、接吻、舌吸い」

「……最初だけで勘弁してくれないか」

 

 冗談を交わしながら、霖之助は見ない振りをする。永琳が無意識にしている仕草の、そのたった一つだけを。

 

 

 

   ●

 

 

 

 無音。

 音の無い、涼に過ぎる寒さに背を撫でられながら、優曇華は身を丸めるでもなく、抱くでもなく、身を包む秋物の服と、羽織った白衣だけの防壁で、寒さを物ともせず座っていた。

 

「……」

 

 無音。つまり、一人。

 だから彼女は、無言のまま窓から見える景色を気だるげな、どこか攻撃色の灯った瞳で睥睨した。

 

 変わり映えしない竹林を視界におさめたまま、優曇華はテーブルに置いてある未記入のカルテを一枚手に取り、碌に確かめもしないまま、右手に握られたボールペンで何かを書き込んでいく。

 それはただの模倣。かつて、このテーブルにつき、椅子に座っていた誰かが、こんな時にやっていた事の、模倣。

 やがて彼女は景色から目を離し、カルテへと静かに視線を移す。視界に映し出されたカルテには、文字の体を辛うじて整えた、らしきものが幾重にも重なりあい、のた打ち回っているだけだった。一種暗号の様な、インクの染みの様な、得体の知れない物にそれは見えた。

 

 ――ロールシャッハ・テスト。

 

 人格解析・分析法の一つである、現在では疑問視されているような、それ。

 

 優曇華の脳に、その単語が淡く明滅する。万華鏡のように広がり、狭まり、色彩を変えて模様を変えて、脳内を走り回る。

 だから彼女は首を振り、脳髄をチロチロと舐める、不気味な蛇の舌じみた不気味な不快感を追い出した。彼女は、大雑把な分別ではあるが、それを行う者であってそれを受ける者では無い。

 手の中に在るカルテをもう一度眺めて、彼女は呟いた。

 

「……読めない」

 

 そう、それだけの事だ。

 一つ一つは文字であっても、重なり合い潰しあったそれはもう文字ではなく、ただの模様だ。優曇華は苛立ちも不快感も口惜しげな色も見せず、出さず、平坦な表情でカルテを丸めゴミ箱へと放り投げた。そのまま、机上に重ね置かれたカルテに再び手を伸ばし、一枚手に取って見つめた。

 それは滔滔とした物で、完全に一つの動作として成っていた。彼女が日常的にこんな事を繰り返しているのだと、他者に理解させるに十分な物である。

 だが、見る者が居ない以上、これは誰も知らない。

 

「ただいま戻りました」

 

 もう往診客も急患も居ない、たった一人だけが篭る寂とした診療所に、張りの在る、幼い声が木霊する。その声を耳に受けてから数秒、手に取ったカルテをなんとはなく、見るとはなしに見ていた優曇華は、ぼんやりとしていた瞳に輝きを戻し、羽織っている白衣の襟を正して背筋を伸ばす。

 カルテをテーブルの上に戻し、彼女は喉を二度、三度人差し指で叩いてから……声を鳴らした。

 

「お帰りなさい。備品はあった?」

「は、はい、ちゃんと揃いました」

 

 袋を抱え、とてとてと自身に近づいて来る少女を眺め、優曇華は小さく口を歪めた。自身も、昔はあんな風だったのか。等と思いながら。

 差し出された袋を受け取り、机の上に置いて中を見る。それらを取り出し、軽く調べ、優曇華は頷いた。

 

「……確かに。ご苦労様」

「は、はい!」

 

 常なら、これで終わりである。これ以上会話は必要も無いし、遣いをした少女にはまだまだすべき事がある。簡単な医学書の復習であったり、備品の殺菌であったり、やる事は諸々ある。

 だが、少女は優曇華の前から立ち去る事はなかった。

 

 ――あぁ、そうか……また言われたんだ。

 

 優曇華には、思い当たる事がある。

 偶に、そう言う日が在るのだ。少女が、香霖堂に行きたがらない優曇華の代わりに遣いをした日には、偶にこんな事が在るのだ。

 

「あの……先生、大先生が、今度暇な時にでも顔を見せなさい……と」

 

 少女が口にした大先生とは、つまり優曇華の師、永琳をさした言葉だ。だから優曇華は、

 

「えぇ、暇なときがあったら、そうするから」

 

 間も置かず、考えもせず、柔らかな拒絶を口にした。

 

 ――嘘だ。

 

 自分で紡いだ言葉でありながら、優曇華は内心で嘲笑を零す。暇な時に顔を出していたなら、永琳がこんな事を言う筈がない。

 

 顔を会わしていない訳ではない。永琳が永遠亭に顔を出した時は、言葉を交わしているし、お互い近況を話し合ったりもする。けれども、優曇華から永琳に会いに行くことは、仕事を別とすれば無かった。

 永琳が永遠亭に来ない時等は、半年もの間互いの顔を見ない事もあった。

 

 優曇華は、香霖堂に行かない。

 遠慮、と言う物もある。師弟、或いはそれ以上の絆で結ばれた仲とは言え、新婚"然"とした家庭に割り込めるほど、優曇華の顔の皮は厚くない。

 しかし。それ以上に、行けない。それ以上に、行きたくない。

 彼女はそこを拒絶し、忌避した。

 

 かつて、十年以上も前のあの日、あの夏の祭りの夜に自身の胸で熾ったあの炎が、再び灯る事を恐れた。殺す事も出来ず、今辛うじて埋火となっているそれが、猛り狂う事に恐怖した。

 その炎が、愛する存在全てを燃やし尽くしてしまうのは、文字通り火を見るより明らかであるから、忌避した。

 

 だから行きたくない。

 優曇華は少女に悟られぬよう、笑みを装い嘘をついた。まだまだ精神の幼い少女は、それを見抜く事が出来ない。少女は一礼してから出て行く。自身の仕事を、または自室で自習でもするのだろう。

 

 室内から自分以外の気配が失せた事に満足し、優曇華は大きく息を吐いた。

 椅子の背にもたれかけ、天井を仰ぎ見る。そしてまた、息を吐いた。

 今度は小さく。

 

 ――何をしているんだろう、私は。

 

 胸の中で淡く呟き、腹の中で苦く唸り、頭の中で辛く囀り、心の中で酷く零した。何をしているのか、と。

 

「……昔は、こんなじゃ、なかったのにね」

 

 すでに居ない少女を脳裏に浮かべ、彼女は昔日の自身と重ねる。言いたい事を隠す事も余り無かった。そう多くは無かった。少なくとも、一人で居るほうが気楽だと言うことは無かった筈だ。

 単純で、未熟で。それ故に懊悩も苦悩も未成熟で、迷う事はなかった。

 

「……昔の私……どこに行ったんだろう」

 

 無意識のうちに白紙のカルテを手に取り、彼女はそう呟いていた。

 

「戻りたい……」

 

 カルテを握りつぶし、胸に手をあて零す。叶うなら、昔に戻りたいと思いながら。

 

「戻りたいよ……」

 

 俯いて囁く。叶わないから、強く願った。

 

 愛がこれほど苦しい物だと知らなかったあの頃に。愛がもっと綺麗だと信じていたあの頃に。

 

「戻りたいのに……」

 

 震える体をかき抱き、泣く。

 戻れない。戻れないから、尚一層強く願い、尚一層絶望する。大量の感情を受け入れられない優曇華の未熟な心は、十年の時を経て尚、滂沱の涙を流させた。

 

 

 

   ●

 

 

 

 人里から森の入り口まで続く細い道を、その少女――てゐは歩いていた。

 てくてくと歩くその様は愛らしい物であるが、その内面まで知れば誰もそう思わない。そんな妖怪少女である。普段は、どちらかと言えば茶目っ気のある顔を見せて過ごす事が多いてゐが、どこかぼうっとしながら道を歩いている。

 

 思考中。と言う事だ。考えている事は、思っている事は一つ。

 一応、名目上の"師匠"、事実上の協力者、永琳の事である。

 

 てゐは永琳と出会った頃、助力を求められた際にこう言った。

 

 『地上兎達に知恵を与えて欲しい』

 

 なるほど、確かに地上に居る妖怪兎達は知恵を持った。だが、それはまだ幼稚なもので、妖怪兎達はまだまだ稚気に在りすぎている。

 だと言うのに、その約束も半ばと言ったところで永琳は永遠亭――竹林から去った。勿論、竹林に居なければ約束が果たせないと言う訳ではないが、大きく遅れる事は確かだ。

 

 尤も、全てを永琳に任せ、知恵の全てを授けろとまで言うつもりは、てゐには無い。所詮は自己成長以外に道など無い。子供や、幼い妖怪少女に成り立ての子分達を見れば、そんな事は分かりきった事だ。

 これは駄目、あれは駄目、やるな、するな。どれほど言ってみても聞く者は少なく、一度手ひどい傷を負う以外で物事を覚える事など不可能なのだ。

 

 熱い鍋に触っては駄目だとどれほど言ってみても、触ろうとする者は触る。それが"熱い"と知らないからだ。

 だが、触れば分かる。分かってその幅を広げ、熱い物は熱いのだと、それらは危険なのだと覚える。

 

 そうやって知恵を蓄えて行く事が、結局は必要なのだ。だから、それは仕方ない。

 

 学習する為には、自身が傷を負って繰り返すしかないのだ。

 

 だから。そう、だから。今はもう目の前にある香霖堂の古ぼけた扉を見つめながら、彼女は呟いた。

 

「仕方ないけど……そうなんだろうけどさぁ……」

 

 そして扉を開けて、

 

「そうなんだろうけどさぁ……」

 

 重く、そして長く、

 

「あら、いらっしゃい、てゐ」

「……やぁ、久しぶりだね」

「うん、そうねー……」

 

 溜息を吐いた。こんな昼間から店内で抱き合っている二人を視界におさめながら。

 こんな物は学習したくないと思いながら。

 

 

 

   ●

 

 

 

 抱き合っている、などと言えば語弊がある。

 実際は永琳が霖之助のぴったり隣に椅子を置き、それに座ってがっちり抱きついているだけの話だ。霖之助が抱き返している訳ではない。抱き合っているわけでは決して無い。

 のだが。

 

「それを諌めない時点で、何言っても同じだと思うのよ、私。他者から見た場合っての言うのは、当人達の事情なんて無視じゃない」

「何度言っても聞いてくれないから、諦めただけだ」

 

 なんとも言えないてゐの冷たい視線に晒されながらも、霖之助は口を尖らして反論する。するが、永琳に抱きつかれた姿でそんな事を言っても、その姿は滑稽で、それ以上に間抜けなだけだ。

 反論した彼自身が、もうそれに気付いているし諦めても居る。諦めて尚口が動くのは、彼の性分に過ぎない。

 

「なんて言うかなぁ……仮にも師匠って呼んでた存在が、こうなってるのを毎回毎回毎回毎回見るのは、私でもちょっときつい」

 

 そして、こんな風に挑発してしまうのも、てゐの性分だった。

 毎回毎回、扉を開けるたびに永琳は霖之助に甘えているし、霖之助は憮然とした顔で椅子に座っているのである。捨て鉢な、煤けた挑発の一つも出ようと言うものだ。

 ただ、そんなやさぐれた挑発も、

 

「ねぇ霖之助、今日の夕食は久しぶりにお鍋にしようと思っているんだけど、良いかしら?」

「そうだね、少し肌寒いし、鍋も良いだろうね」

 

 しっかり無視された。

 

「なにこの敗北感」

「良かったわね、てゐ。貴方その手の感情中々手に入れられないでしょう?」

「うわーい、嬉しくないなーちくしょー」

 

 永琳の音だけ優しげな言葉に、てゐは真っ白な、白々しい笑顔と棒読みでそう返した。

 特に必要ない感情だから、要らないのだ。何やら危なげな気配を察知し、霖之助はてゐに声を掛ける。女同士の会話と言うのは、それがただの世間話で在っても、男が傍で聞いていて心地良い物ではないのだ。いつ、何事で爆発するか、まったく分かったものではないのだから。

 

「それでてゐ、今日は何をお求めかな? 日用品なら、いつもの棚だよ」

「うん、適当に見とく。あぁ、それと」

 

 てゐは扉の前から移動し、棚を見ながら言葉を続ける。

 

「お姫様が、顔を見せなさいって」

「んー……そうね、もう二ヶ月くらい顔を見せて居ないかしら?」

「うん、ちょっと……むくれ……ふてくさ……怒ってたかな」

「いや、てゐ。全部同じ様な意味だよ」

 

 てゐの言葉に、永琳は頬に指をあて考え込み、霖之助は突っ込みを入れる。

 てゐは笑顔を浮かべるだけで、その言葉に返事をしなかった。彼女は棚を眺め、必要な品物を探す作業へと移る。

 

 女二人は思考と探索、残された男一人――霖之助は、永遠亭と聞いて一人の少女の姿を思い浮かべた。数日前、永遠亭の見習い助手の少女が来た際話題に上がり、また霖之助がふと思い出した少女。

 優曇華。彼はもう、長く彼女に会って居ない。

 永琳は偶に会うようだが、霖之助は永琳と連れ立って永遠亭に顔を出しても、会う機会が無かった。彼が彼女の姿を最後に見たのは結婚式の式場で、それ以外は忙しいときに限って遠目に見た程度であり、落ち着いた時や比較的余裕がある時などに会ったためしがない。

 それはつまり、十年もの間、長くを別にしていると言う事だ。

 

 噂では、聞いている。

 診療所の二代目女医兼所長。先代に薬剤・診療技術は及ばぬまでも、面倒見のよさと親しみ易さは先代をも越えると噂される、月の玉兎の少女。

 

 その噂は、霖之助の思い出の中にある優曇華とは、遠く離れた全くの別物だった。何せ彼の中に住まう優曇華は、どこか危なげのある未熟者で、人伝に聞く姿とは重なり合わない。

 だが、それでも納得はしている。

 

 十年。その歳月は長い時間だ。

 妖怪からすれば長短判断のつかないところではあるが、人間からすれば長い時間だ。

 その長い時間を有意義に、それこそ身を切るような思いで修練に捧げれば、なるほど、そう噂される存在になる事も可能だろう。直に姿を見た事はないが、その辺りは永琳から聞いたことはある。

 

『吃驚したわ……あの子、化ける可能性はあったけど、ここまでだなんて』

 

 もう八年も前の永琳の言葉である。

 優曇華は永琳が香霖堂に嫁ぎ、永遠亭から去ったあとも、稀に顔を出して患者の難しい判断や、治療方法を相談に来る事もあったらしい。今となっては、もうその相談にも来ないと言うのだから、彼女は一己の存在として確立しているのだろう。

 ただ、優曇華が来たと言う時に必ず自身が"店に居ない"と言う事は、さすがに彼も首を傾げた。

 一度や二度は偶然で済むが、三度四度とそれが重なれば既に偶然ではない。

 

 彼は覚えている。最後に見た、あの花やかな、輝夜達が用意した式場で目にした、優曇華の顔を。

 

「あれ……? ねぇ霖之助ー、石鹸って棚変えたのー?」

 

 てゐの声が霖之助の耳を打ち、彼は意識を戻した。隣に居る永琳の訝しげな視線に囚われながらも、それを意に介していない振りをして席を立ち、彼は歩いていく。

 

「あぁ、済まないね。石鹸は確かこっちだよ」

 

 問われた物が置いてある場所にまで足を進め、彼はてゐを呼んだ。とてとてと走り寄ってくるてゐは、棚を見ながら口を膨らませる。

 

「……ないじゃない」

「下だよ」

 

 霖之助はしゃがみ込み、指を差した。

 

「あ、ほんとだ」

「……で、君は何を?」

「ん? 指差したところを、見てるの」

 

 首を傾げて、愛らしいその姿に相応しい、無邪気な顔でてゐは微笑んだ。

 霖之助の首に手を回し、霖之助の背に身を乗せて、霖之助の顔の、すぐ隣で。稚気さえ宿した、幼芽が如き無垢な香りが霖之助の鼻腔を強くくすぐった。が、てゐの細められた瞳の奥に見える光は、老獪で狡猾な色を身震いさせるほどに放っていた。

 

「……重いよ」

「女に言うべき言葉じゃないと思う」

「はッ」

「何その鼻で笑ったみたいなの」

「鼻で笑ったんだよ」

「私、優しい店主さん好きだなー」

「そう言えば全ての男が自分に都合よく動くだなんて思わない事だよ、てゐ」

「……ちッ」

「なんだい、その舌打ちしたような音は」

「舌打ちしたのよ」

 

 数秒、二人は睨みあう。静かに火花を散らし、やがててゐは溜息を吐きながら霖之助の背から離れた。

 彼女は霖之助の前に在る石鹸を数個手に取り、それを持って永琳に金銭を渡し、扉へと向かっていく。

 

「おや、今日はそれだけかい?」

「うん、まぁ、今日は伝言が本題で、買い物はついで、だから。じゃ」

 

 しゅたっと手を上げて、てゐはカウベルの音に見送られながら香霖堂を後にした。霖之助は石鹸があった棚の前で、しゃがんだまま溜息を吐く。

 

「なんとも……たったこれだけの事で、台風一過みたいだよ」

「よいっしょ……っと」

 

 その背後からの声と同時に、霖之助の背と肩に、何かが載せられた。

 

「……」

 

 ぐっ、と前へ押された体勢のまま振り返る事も無く、霖之助は至極冷静な音で言葉を返す。

 

「……永琳」

「なぁに?」

「なんだい、これは?」

「さぁ、なにかしら?」

 

 霖之助の背に、先程のてゐそのままに、永琳が負ぶさっていた。

 

「悪くないわね……これ」

「いや、重いよ」

「罰が必要ね。今日はこれで一日過ごしましょう」

「有史以来、これほどの拷問があっただろうか……」

 

 

 

   ●

 

 

 

 人は変わる。生き物は変わる。

 存在は変わる。何度も言うが、変わる。

 不変のまま生きていく事は出来ない。ある事は出来ない。

 例えば思い出が徐々に改竄されていく様に、例えば無垢な少女が狡猾な女に変わって行く様に、生まれ出でた朝日が絶えるが如く朱に染まり沈んでいく様に、全ては当然と変わっていく。

 

 故に、

 

 ――それはどうしようもない事なのだ。

 

 人里を歩きながら、森近霖之助は自分に言い聞かせるようにそう胸中で繰り返し呟いていた。 

 

「酷いわ、霖之助。今日はあのまま一日過ごそうって言ったのに」

「酷いのは君の頭だ、永琳。外であんな真似が出来るわけがない。今のこれが、精一杯の譲歩だ」

「なら、屋内でなら良いのね?」

「いや、待ってくれ。なんで君は茶屋を見ながらそんな事を言うんだ? いや、待ってくれ、引っ張るんじゃない」

 

 人里の一画、商店通りと呼ぶには少々規模の小さな売店通りを、腕を組んで歩く男女が居た。男女は双方共に身長が高く、すらりとしている。

 男はそれなりに整った顔であるが、女は恐ろしいまでに整った顔をしていた。そんな男女が二人、腕を組み、指を絡めて握り合い――所謂恋人つなぎ――道を歩けば、何事かと皆目を見張るだろう。

 が、それがない。

 

 皆道を行き、それぞれの店で商品を眺め、また店主や客同士で他愛も無い会話をしている。

 日常である。その場所の、日常である。であるから、男女のそれは日常の物であった。

 見慣れているからだ。

 

 むしろこの二人が離れて歩いて居た方が、皆目をむいて見入っただろう。そしてそんな男女二人が――

 

「輝夜が寂しがっているから、永遠亭に顔を出すと言ったのは君だろう? あのお姫様の性分だ。

早くに行った方が良い、なんて事は、今更僕が言うまでも無い事だと思うんだけどね」

「私より輝夜を優先するの?」

 

 森近霖之助と、その妻永琳なのである。

 

 声音にこそ険があれ、霖之助と腕を組み隣を歩く永琳の顔は、常の通りである。

 が、彼女を良く知る者が一見すれば、その顔に浮かぶ常ならぬ物が見えただろう。そして当然、霖之助にはそれが見えていた。

 嫌と言うほどに。

 

「僕を虐めて、楽しいものかい?」

「えぇ、それは、もう」

 

 間を置かぬ永琳の返事に、霖之助は何も言えず、ただ溜息で応えた。

 

「幸せ、逃げてしまうわよ?」

「元凶に言われてもね……」

「えぇ、えぇ。そうなんでしょうとも。あなたが私を不幸の元凶としてしまうのなら、そうなんでしょうとも」

「そこで目を伏せられてもね……」

「あなたの為を想って、私なりに頑張っているのに……届かないなんて……」

「そこで肩を小さく震わされてもね……」

「こんなに想っているのに……」

「永琳」

「霖之助」

 

 二人は立ち止まり、見つめあう。そしてきっかり三十秒後、霖之助は口を開いた。

 

「僕で遊んで、楽しいものかい?」

「貴方と遊ぶのは、とても楽しいわよ?」

「君の場合、と、ではなく、で、だろう? あぁもう、なんだろうね。目的地に着く前から、僕は疲れてしまったよ。どういう事だい、これは」

「運動不足ね」

「医者が、平然と嘘をつく」

「医者の嘘は、薬みたいなものよ? まぁ……元医者、なのだけれど」

 

 穏やかに微笑む永琳の顔に当てられ、霖之助も微笑み返す。返してしまう。

 

 永琳のその外へと向かう温度が変わったように、霖之助の温度もまた変わった。二人を繋ぐ絡み合った手の平は冷たくとも、組まれた腕は温かく、憎らしいほどに心は穏やかで。まるで春の日に草原を撫でる風の様な、今の二人。

 

 ――それはどうしようもない事だ。

 

 再び歩を進め、しっかりと永琳の手を握ったまま、森近霖之助は自分に言い聞かせるようにそう胸中で呟いた。

 

 かつての自身が見たら、まず受け入れないだろう現状の姿。そういった在り方まで否定はしないだろうが、それが霖之助自身の事となればまず肯定しなかっただろう。

 

 それでも。

 そんな自分が、永琳が。優しく微笑む彼女と、その隣に居る自身が嫌いではないのだから、どうしようもないのだ。

 

「君は、麻薬みたいだ」

「それもまた、薬よ」

 

 馬鹿みたいに穏やかだから、二人は稚児の様に無邪気に笑いあった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 永遠亭に住まう輝夜には、現状不満がある。

 退屈なのだ。永遠に在ると言うことは、退屈と向き合う事を余儀なくされる事ではあるから、

それを上手く誤魔化す術もやり過ごす術も知ってはいるのだが、根本に退屈があるまま解決を見ず一時的な回避を行っているだけでは、どうしても限界が在る。せめてそれを"どうにか"するのが近習の仕事なのだろうが……

 

「今のイナバにそれは無理だし」

「よし来たお姫様、どんと来い」

 

 永琳去りし今、一番彼女に近しい存在は、すぐ側で薄い胸をどんと叩く少女――てゐなのである。さて、言うまでも無いだろうが……

 

「お前だと、疲れるのよねぇ」

「わたし、こんなにお姫様の事考えて愛して想ってるのにッ」

「疲れるのよねぇ……」

 

 てゐという存在は、ただ従うだけの存在ではない。

 薬で言えば鎮静剤としてあるべき近習にあって、彼女は対となる興奮剤の様な存在である。四六時中を共にする近習としては、これほど不似合いな存在もそうはないだろう。為に、輝夜は肩を落とし、息を吐くのだ。

 

「そんな重い上に長い溜息と一緒に言われても」

「言わせてるのはお前でしょう」

 

 肩に掛かる濡れた烏の羽根の様な、長く美しい黒髪を手の甲で払い、輝夜は半眼で中空をねめつけながら呟く。

 

「永琳があの首塚だか宝塚だかの家にとついでから、イナバは仕事一筋になって詰まらないわ、

お前は変わらず面倒だわで、私はもう息が詰まって死んでしまいそうよ」

「その程度で死ねるなら、お姫様の場合はそれはそれで幸せなんじゃ?」

「嫌よ、そんな死に方。不幸も不幸、この世で一番美しい私の死に方じゃないわ、そんな物」

「ほほう……じゃあ、どんな"死に方"がお姫様には相応しいと?」

「……」

 

 輝夜は自身の顎に白魚のような人差し指をあて、俯いた。そっと目を閉じて、思考の海へと身を投じ、一分程も考え込み、顔を上げて口を開いた。

 

「死ねたら、それは、たったそれだけで相応しいのかもしれないわね」

「お姫様、それは相応しいじゃなくて、願望とか、幸せ探しだと思う」

 

 いつも通りの顔のままで、さらりと返すてゐのその言葉に、輝夜は

 

「岡目八目、ね」

 

 笑顔でそう零し、続けた。

 

「まぁ、その辺りは幸せ探しに成功した永琳に聴くとしましょう」

「夜は皆で猥談と言う事ですね」

「猥談言うな」

 

 霖之助と永琳が来る、一時間ほども前の話。

 

 

 

   ●

 

 

 

 通された一室の用意された座布団に座り、永琳と霖之助は室内を見回す。掃除の行き届いた和室で、飾られた掛け軸や壷は、侘び寂びを感じさせる見事なものだった。

 

 が、永琳は息を吐く。そこに見慣れた顔が無い事に、またか、と思ったからだ。

 顔にこそ出さないが、それは霖之助も同様である。

 少しばかり残念そうな、納得がいきかねると言った顔の二人を無視して、輝夜は口を開く。

 

「と言うわけで、艶のある話の一つでもして貰えるかしらそこの馬鹿……馬鹿……なんだったかしら?」

「バカップルです、お姫様」

「そう、ばかっぷる」

「誰が馬鹿だ」

 

 永遠亭について早々、身内用の居間――と言うか、身内以外ほぼこない永遠亭なのだが――で、霖之助は目の前に座る二人の少女に一応の反論をした。一応、なのである。

 

「あら、てゐ。この一里塚とか言うの、この様であんな事を言ってるわよ」

「香霖堂の店主さんは見え張りだから致し方なしなのですよ」

「五月蝿い。あと森近だ。森近。誰が街道に置かれた標か」

 

 返って来た言葉に応酬するも、その音には常の硬さや鋭さは無い。霖之助自身、輝夜曰くの"この様"なのだから、仕方ないのだ。

 そして"この様"の原因である女性は

 

「あら、そうねぇ……どの話が良いかしら?」

 

 艶然と微笑み、霖之助に肩に頭を乗せて寄りかかりながら確り腕を組みつつ余裕綽々泰然自若と答えなさったのである。

 

「イナバ、お前のお師匠様、末期よ」

「うん、お姫様の元教育係、末期ですね」

 

 二人とも在りし日の永琳を綺麗なまま残したいので、お互いに放り投げる事にした。そんな二人へと、永琳は無邪気に次の言葉を掛けた。

 

「冗談よ。霖之助との大事な日々だもの。誰にも言わないわ」

「そっちが冗談なんだ」

 

 てゐは一応突っ込みを入れたが、輝夜に至ってはもう額に手を当てて肩を落とすより他すべき事がなかった。毎度、である。

 永遠亭に夫婦二人で来れば、こうなると輝夜は理解しているのだが、だからと言ってそれが全て受け入れられると言う訳でもない。

 

 輝夜は少しばかり目を鋭くして、永琳を流し見た。その視線に気付いても、永琳はその表情――無邪気とも、艶然ともとれる不可思議な笑み――を崩さない。

 

 輝夜自身は、永琳の昔日、夫の隣に立つ彼女の姿を見ている。幸福感に彩られた顔が、徐々に翳って行く様を、輝夜は無力なまま見ていたのだ。

 愛だ、恋だ。そんな物、輝夜には分からない。

 だから彼女は、窮屈そうな服と退屈そうな家と偏屈そうな掟に縛られる彼女を、ただ見ている事しかできなかった。

 永琳が自身の意志でそこに居る以上、良しも悪しも、いつかそれは時間が解決するからだ。

 人間ならば20年ほど。妖怪ならば200年ほど。

 その程度しか永琳を迎えた家庭とやらはもたないし、その程度なら永遠を生きる存在にとってそう長い時間でもない。時が解決する以上、永琳が自らの意志でそこに留まる以上、輝夜は動く必要などどこにもなかった。ただ、やり場のない怒りのような物が日々胸の底に沈殿していくのは、流石の彼女も堪えた。

 

 だからそう、今はまだ良い。

 

 ――そんな顔がずっと続くなら、良い。

 

 輝夜は胸中で呟き、冷たい視線を伏せて肩を落とす。再び目を開いた時には、瞳にはもう先程の冷厳とした色はどこにも無かった。

 

 そして、それが失せたと同時に、彼女が持つ強すぎる悪戯心がチロチロと舌を出しながら鎌首をもたげる。久方ぶりの永琳と霖之助の来訪であり、どこか灯が消えてしまったような永遠亭の現状。為に、基本的に退屈を嫌う彼女にとって、それを御するのは無理な話だった。

 

「ねぇ、永琳」

「なんですか、姫」

 

 輝夜の極上の笑顔と、永琳の無垢な笑みが交差する。

 

「私、久しぶりに貴方の淹れたお茶が飲みたいのだけれど……良いかしら?」

 

 希望である。

 が、それがどうしてか命令に聞こえてしまうのだから、輝夜という存在は骨の髄までお姫様だった。永琳は少しだけ考える素振りを見せて、

 

「えぇ、分かりました。お茶の場所は、変わっていませんか?」

 

 良しとした。我侭に付き合ってあげる事も、友情の形である。偶になら問題はない。

 

 彼女は霖之助の腕から自身の腕を解き、肩に乗せていた頭を放す。

 たったそれだけで寂しさが胸に到来するのだから、おかしな物だと少し笑い、ゆっくりと部屋を後にした。そして、それが大きな間違いだった。

 付き合いが長いが故に、油断する。長年の友誼があるからこそ、見誤る。

 永遠を生き、完璧に近い永琳という一己の存在もまた、間違いを犯す生き物だったのだ。

 

 永琳が部屋から去って僅かに三十秒、輝夜はすっと立ち上がり、霖之助の隣、つい先程まで永琳が座っていた場所まで歩を進め、そこで立ち止まりスカートを一つ、優雅に払った。

 そして、座る。

 

「……?」

 

 訳の分からない事態に、霖之助は首を傾げる。

 

「じゃあ、勉強会でも始めましょうか?」

 

 輝夜の言葉が居間に響いた。

 

 そして。次いで輝夜によって為された事に、霖之助は石化した。

 

「確か、こうして……こうよね? どう、イナバ?」

「お姫様、あと肩に」

「あぁ、そうだったわね。ほら、少し肩を下げなさいよお前」

 

 そんな彼を無視して、少女二人は勝手に話を進めていく。現状の異常を無情に放り投げて。

 

「いや、君……いったい、何を?」

「勉強会よ。私が貴方程度で我慢するのだから、有り難く思いなさい」

「いや、てゐ、これはなんだい?」

「勉強会」

 

 勉強会。であるらしい。

 が、霖之助の頭の中にある勉強会とは、教科書を開いてお互いがお互いに分からない部分を聞きあう様な物で、決してこんな物ではない。そう、決して"こんな"物ではない筈なのだ。

 

 脳に突然と湧いて出てきた悩みの重さに耐えられず、霖之助は頭を項垂れた。

 同時に肩も落ちたものだから、輝夜ご希望の体勢になってしまう。故に、輝夜はそれを見逃す筈も無く。当然、運命の神とやらがそれらを見逃す筈も無く。

 

「姫、戻りまし――」

 

 居間へと戻ってきた永琳の眼は、その勉強会を確りと見てしまった訳である。

 

「お早いお帰りで」

 

 にまにまと笑うてゐと。

 

「あら、お帰りなさい」

 

 平然と霖之助の隣に座り、霖之助の腕に自身の腕を絡め、霖之助の手を指を絡ませて握っている輝夜の姿と。

 

「永琳、これは勉強会だそうだ」

 

 疲れた顔で何か戯言を口にしている霖之助を。

 

 永琳が手に持っていたお盆を投げ捨てナースキャップから愛用の弓矢を取り出したのは、霖之助の言葉が発せられてからきっかり十秒後の事だった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 下は黒。上も黒。

 ただそこに違う色が在るとすれば、空にぽっかりと空いた穴から降り注ぐ、淡い光だけが違う彩だった。

 

「……あれ?」

 

 優曇華はゆっくりと体を起こし、周囲を見回した。箪笥、布団、机、襖、そして――何もいけられていない花瓶。

 人口の灯りなど一つも無い暗い部屋ではあるが、ここは彼女が住まう場所であることは間違いない。

 

「……」

 

 無言のまま、頭を横に振ってから彼女は長い息を吐いた。

 

 ――こんなのばっかり……

 

 一人、机の前に座り読みもしない本を置いてこの暗闇の中で虚ろに漂っていた時、誰かが部屋に入ってきて呼んだ様な気もしたが、その辺りは定かではない。

 机に突っ伏して寝ていたような気もするし、寝ていなかった様な気もする。その辺りもあやふやだ。

 

 彼女は思う。あの頃から、こんな時間ばかりが過ぎている。

 診療所で患者を相手にし、永遠亭で輝夜とてゐ、それから弟子に当たる少女と会話し、自分の部屋に戻ると、もう時間が溶けて失せている。無味乾燥とした、なんの価値も意味も持たないただ流れてしまうだけの時間の中で、彼女は白痴の如き様で呆けて過ごすだけ。

 

 これがまだ数年、そう、永琳が出て行ったあの頃ならば、彼女はこの部屋で一心不乱に医学書を読み解いていた。けれど今はもう、彼女にあの日に、あの時に在った言葉に出来ない後ろ向きの情熱は無い。そうしていれば、全てを忘れる事が出来るのだという事実は、今は読み込まれた幾多の医学書と共に奥へと仕舞い込まれた、日を見ない本棚の中にある置物でしかないのだ。

 本を読むたび、知識を溜め込むが為に書を紐解く青年の姿が脳裏を過ぎったが、それさえ泣きながら無視して、ぼやける視界で滲んだ文字を読み漁った日々は、彼女にとっては過去の事である。

 胸に宿る埋火以外、もう何も無い。大事な物を一瞬で二つも失った心は瀕死の体で、軋み上げる悲鳴は最早耳を凝らしても聞こえるものではないのだから。

 当人以外には。

 

 だから、彼女は思う。だから、彼女は呟く。

 

「つまらない生き物……」

 

 そこに在るだけ、そこに居るだけ、底で在るだけ、底で居るだけ。自身はもう価値も無い路傍の石か何かなのだと、彼女は思った。ただ寝るだけの、そんな場所になってしまった自身の部屋で、灯りも付けず彼女は零した。

 

 呟いたまま、もう何も零すつもりも無い彼女は、このまま静寂が朝まで続くのだと思っていた。 が、それは裏切られる。

 

 ――……?

 

 きしきしと音を立てる二つの足音。そして、足音は優曇華の部屋の側で止み、彼女の耳を聞きなれた二つの声が打つ。

 

「あら、今晩は」

「あ、こんばんわです、大先生」

 

 かつての師匠。弟子のような少女。

 そんな二人の、声。親しげな永琳の声で、嬉しげな少女の声で、僅か十年前の自身と永琳の、何気ない一幕。

 

 ――聞きたくないッ!

 

 どうして聞きたくないのか。そんな事を考えるほどの余裕も優曇華には無く、彼女は咄嗟に手の平で両の耳を強く強く押さえて塞ぐ。

 そこでやっておいて、頭蓋に痛みが来るほどに強く押さえておいてそれでも尚、二人の声は耳へと入り込んで来る。嫌嫌と横に頭を振っても、声は無情に優曇華の耳を蹂躙する。静寂を望めば望むほどに、鼓膜は確かに音を聞き入れた。

 

「あら……その本」

「あ、はい。先生から貰った本なんです」

「そう……偉いわね、こんな時間まで勉強?」

「早く先生みたいになりたいですから」

 

 ――駄目ッ!

 

 自分のようになってはいけない。もう何も無い自分のようになって絶対にいけない。

 そう叫ぼうと思っても、優曇華の喉は砂漠を彷徨う愚者の様にからからに渇き、うめき声一つ零せはしない。そして、聞こえてくる声と同じく、優曇華には今の二人の姿が鮮明に思い浮かべる事ができた。それが、更に彼女を苦しめる。

 

 灯りの頼りない廊下で。

 二人向かい合って。永琳は優しい笑顔を浮かべて。

 少女ははにかんで。多分。

 いいや、きっと。少女の頭の上には、永琳の手のひらがあって。

 

 優しく、本当に優しく……撫でているのだ、と。

 それは幻視であるが、幻視であるからこそどうにも出来ない。目蓋の裏に強く濃く酷く焼き付いた幻は、現実だと主張する。ならそれは――彼女にとって現実なのだ。

 

 もう戻れない。

 彼女はそんな事、とうの昔に理解していた。それでも、それが確固とした存在となって胸を貫いた事はない。

 無かったのだ。

 

 ――……もう……無いんだ……

 

 それが今、こうして現実に。鋭い刃となって心に突き刺された。

 

 やがて声は遠ざかり、静寂がまた彼女を包む。つい先ほどまで望みに望んだその静寂に、優曇華が耐えられる筈も無く。

 体から零れ出ようとする悲しみを抑える事等出来る筈も無く。何かに憑かれた様に、彼女は部屋から飛び出した。

 

 視界は、いつかの様にぼやけている。心は、いつかの様にくるっている。

 当ても無くただ廊下を走り、行き先など一つも無い彼女は――偶然にも。

 そう、偶然にも。

 

 捨てようとして捨てられなかった彼と再会した。

 

 

 

   ●

 

 

 

 誰も居ない庭で、霖之助は空に浮かぶ月を眺めながら自身の肩を揉んだ。

 そして、一つ溜息。

 

「あぁ、まったく……」

 

 疲労困憊、といった顔で彼は呟き、つい先ほど逃げ出してきた居間の惨状を脳裏から追い出す為に頭を振る。

 

 阿鼻叫喚の地獄絵図。

 等と一言で言えば、あぁそうか、で済むものだが、現実にそれを体験した者にとってそれは実に重い物である。特に普段の静けさを知っている彼にしてみれば、妻の狂乱の姿はどの様な角度で見ても心地良い物ではない。

 

「まったく……とんだ実家帰りもあったものだよ」

 

 再び溜息。

 次いで、庭にある小さな岩に腰を下ろす。夜の風に吹かれた岩はひやりと冷たく、霖之助の体をぶるりと一つ震わせた。

 が、それでも彼は岩から腰を上げようとはしない。今はその冷たさが、彼には必要だったからだ。

 

「あぁもう……まったく」

 

 三度溜息。三度まったく、と彼は続ける。

 

 永琳が席をはずした際に行われた輝夜の悪ふざけは、その後この世に大量の血の雨を降らした。 ナースキャップから取り出された弓が放つ矢は正確無比で、坂東武者の手本ともなりそうな物だった。

 それが、輝夜を打ち抜いていく。ついでにてゐにもかすって行く。

 霖之助はあたる事も、かする事もなかったが、それでも永琳の冷たい目で一瞥された時などは、流石にこれは死んだと思えたものだ。特に永琳が息も絶え絶えな二人に掛けた言葉など、今思い出しても寒気がする。

 

 しかしそれ以上に、頬が緩むのを彼は抑えられない。

 そして、溜息、まったく――

 

「あぁ、まったく……なんでだろうなぁ」

 

 四度目。

 苦笑を浮かべ、風が凪ぐ夜空を見上げ、胸中で呟く。

 

 ――これが楽しいなんて、どうかしている。

 

 風の吹く音、笹の揺れる音、それから、遠くで聞こえる小さな悲鳴が二つ彼の耳へと飛び込んでくる。

 その声の哀れさに肩を竦め同情するが……これも自業自得である。

 しかし、一応霖之助にも分かっている。明日か、それともあの悲鳴が途絶えた後か、今度は霖之助があの哀れな声を出す羽目になるだろうということ程度は。

 先程まであった苦笑を消し、霖之助は、さてどうすれば被害が皆無に、或いは軽微になるものかと没頭した。為に――外の世界全ての音を遮断して自身の深遠へと埋没し、木石の如く自然と一体したが為に……彼は再び出会った。

 

 十年近い時を経て、もう一つの赤い糸と。

 

 

 

   ●

 

 

 

 大きな雲が月を隠し、頼りない明かりが遮られる。

 沈黙、そして少しばかりの風。二人は寒い暗い夜の下、きょとんと向かい合う。

 

 十年。人から見れば長く、それ以外から見れば短いとも言える時間。

 だが、交友の在った者同士が離れるには、人だろうとそれ以外だろうと、十分に長い時間だ。

 特にこの二人には、因縁染みた物がある。霖之助から見れば、今目の前に居る少女――優曇華から最愛の師匠を奪ったようなもので、優曇華から見れば、その想いを殺さなければならなかった初恋の相手だ。優曇華に至っては、会う事を拒み、遠ざけもした。

 双方、決して容易に向かい合える関係ではない。

 

「やぁ、久しぶりだね……こうして近くで顔を見るのは」

「え、えぇ……そう、ね」

 

 だと言うのに、お互い顔をきょとんと見合わせてから、最初に交わした事はそんな事だった。

 霖之助は戸惑いを遠くへと払い、気負いも無く言葉を続ける。未だに目を点にして突っ立っている優曇華へと、かつてのままに。

 

「なんだろうね……人伝に聞いていたほど、君が成長したようには、僕には見えないな」

「……いきなり喧嘩売ってくるとか、あんたも変わりないようね」

 

 双方、特に霖之助の相に浮かぶのは常の物で、突如前置きもなく出会ったという驚きこそあれそれ以外は無い。優曇華はやはり少々の堅さと、今も胸に残る悲しさや先程の涙の跡も在るが、それは夜の闇に紛れて瞭とする物ではなかった。

 ただ、彼女にとって意外な事と言えば、考えるより先に口が勝手に動く事だ。

 どうにも、御せ無い。

 

「しかし、なんだね……鈴仙。君の師匠像は、極めて正確だったと思い知らされたよ」

「何よ……いきなり」

 

 霖之助が口にした事の意味が分からず、優曇華は首を傾げて目で続きを促す。

 

「あぁ、ほら、いつか君が言っただろう? みね打ちだ、と」

「……?」

「覚えていないかい?」

 

 霖之助の、昔と変わらない皮肉気な表情で見返されて、優曇華は傾げていた首の角度を深め昔日の事を思い出し――あぁ、と手を叩き言葉を零した。

 

『あと、弓で射られて横たわる私に、「みね打ちよ」って言ってる!!』

 

 何事かで永琳を評した際に、優曇華自身が脳裏に描いた永琳像の行動である。

 が、それが今霖之助の口にしている内容に何か関係あるのか、まだ優曇華にはさっぱり分からない。為、目を細め、霖之助を睨みつけてさっさと答えを言えと彼女は催促する。

 果たして、その視線の冷たさに良くない物でも感じたのか、霖之助は特に言葉も弄さず要求された物を出した。

 答え――

 

「お姫様に矢を十本ほど刺して、永琳が全く同じ事を言った」

「なにそれこわい」

 

 優曇華、再度涙目である。

 ただ、今の涙目は恐怖からのもので、そこに悲しさは欠片も無い。

 

「ただ違う点が在るとすれば、凄く良い笑顔だった事くらいだろうか」

「なにそれほんとこわい」

 

 優曇華、肩を抱いて超微振動。悲しさは欠片も無かった筈だが、そこに一つまみ分の悲しさが感じられるのは、優曇華が大人に近づいた証拠なのかどうか……。

 

 二人は同時に首を横に振り、溜息を吐く。そして互いの顔を見て、小さく笑った。

 

「あぁ……安心したよ」

 

 そのまま、霖之助が言葉を零す。

 

「安心?」

 

 出会ってから、こればかりだと思いながらも、優曇華はまた首を傾げる。

 

 医療に関わる者として大成しつつあると聞いていた優曇華の、何度も見せる幼いそんな仕草に、霖之助は伝聞なんていい加減な物だと思った。思いながら、口は胸中にある物とは違うモノを外へと出していく。

 

「君は……まぁ、怒っていると思っていたんだ」

 

 最後。

 今を別とすれば、二人が顔を意識してはっきり見た最後の場所を脳裏に浮かべながら、霖之助は優曇華を静かに見る。向けられた静かな視線に、優曇華は、うッ、と呻いて俯いた。

 

 優曇華と霖之助が約十年前、最後に会ったのは祝言の席だった。

 角隠しを被り、白無垢に包まれた永琳の隣に座る紋付羽織袴姿の霖之助を、優曇華はずっと暗い目で見つめていたのだ。祝いの席にあって良い作法では決して無いが、霖之助や優曇華と親しい存在達はある程度の理解を示していた。

 

 ――師匠を取られたのが、やはり口惜しいのだろう。

 

 と。

 

 確かに、取られたと言う意味では間違いではない。

 だが他者が思うほどそれは簡単な事ではなかった。初恋が終わった、尊敬する師匠が人の妻になった、そんな、たったそれだけの言葉で尽きるような思いではない。

 その時の彼女の――優曇華の心境など、それこそ同じ時間を過ごし、同じ出会いをし、同じ恋をし、同じ過ちを犯したもう一人の優曇華が居たとして、辛うじて理解出来ただろうと言う複雑奇妙な物だ。他者には決して分かる物ではない。

 

 兎角、終始優曇華はそんな顔だった。ともなれば、霖之助としてはそれほどに不愉快だったのかと、怒ったのかと思うより他無い。

 永琳の告白を受けるまで結局好意に気付けなかった男に、初心な少女の中で無理矢理枯らされようとしている幼芽など気付ける筈も無いのだ。多分、どちらも愚かで未熟だった。

 恋と言う、一生を突き動かす行動理念にもなる癖に、どうしようもなくあやふやな物に対して。

 

 それでも、今分かっている事はある。優曇華は顔を上げて、自然、にこりと微笑む。

 

「別に、あんたが悪いわけじゃないし……私の方が悪かったのよ。祝言の席で見せるような顔じゃ……なかったわよね」

 

 式での無作法と、

 

「だから……ごめんなさい」

 

 今の喜び。

 

 もう何もかも変わっていた。少なくとも、つい先程までそう思っていた。

 けれども、どうだろう。変わっていない存在が在った。

 それも、彼女の大切な一つである男が、変わっていなかった。あれほど会う事を怖がって置いて……会ってみれば癒された。

 その隣にいる自身は、あの頃に戻れていた。悪態をついて、軽口を叩いて、自然に笑っている。居場所がある。そこは前の通り彼女が居ついて良い場所ではないだろうが、確かに立ち止まって良い場所なのだ。

 

 ――身勝手にも程がある。

 

 彼女に自身、そう思った。それでも、心はもう納得してしまっている。

 

 風が強く吹き、月から雲が払われる。

 弱々しく、それでもどこか神秘的な蛍火の様な月明かりが優曇華の姿を照らす。泣いて弱ったその顔に浮かぶ笑顔は、月が恥らうほどに愛らしく、それでいて何処か大人びた美しさをきらきらと放っていた。

 

 ――あぁ。

 

 霖之助は声も出さず息を吐く。

 

 ――あぁ、だから女は分からない。

 

 と。

 

 愛らしく、美しい。

 

 それは矛盾だが、そんな物彼の妻の笑顔によく散見される物で、不可思議だと言うのに腑に落ちてしまう。おかしいだなんて思っていられない事は、見聞した事を思考し吟味する事を趣とする霖之助にとっては不本意な事だ。

 それでも、もう上手くかちりと嵌って収まってしまったからには、どうしようもない。

 分からないものは分からない。考えても分からない事は考えても仕方ない。

 

 霖之助は左手の人差し指と中指で眼鏡を押し上げてから、強がりの皮肉を言う。

 

「なんだ、君だって少しは大人になっていたんだな」

「あんたは子供のままよね」

 

 返された優曇華の言葉に霖之助は、むっとして、次はどんな言葉で甚振ってやろうかと考える。そんな彼の姿が、"変わらない"仕草が、優曇華の中を清涼の風となって悲しみも苦しみも凪ぎ払ったなどと、彼は知らない。その風が、悲しみや苦しみや暗さの瓦礫の下に埋もれていた火種に、再び猛る為の命を与えたなど。

 

「それにしたってなんだい、化粧の一つも覚えたものかと思ったけれど、まだ女童みたいな顔だね、君は」

「化粧なんてまだ必要ないのよ。まだまだ水を弾く珠肌だもの。良い、化粧って肌に悪いのよ? あんたそんな事も知らないの?」

「知っているさ。僕が言いたいのは、女性としての嗜みという事であってだ」

「そういうあんたこそ、男としての嗜み位覚えなさいよ。久しぶりにこうしてまともに話すんだから、言うべきこととかあるでしょう」

「……何を言えば良い?」

「……それ、真面目にいってるのよね?」

 

 彼は知らない。分からない。

 

「あぁ、良かった……」

「……ん?」

 

 二人の関係が変わらないと言う事が、今、彼女にどれほどの意味を与えたかなど。

 

「居場所……一つだけで良かったのよね……」

「……鈴仙?」

 

 穏やかな愛に溺れ、愛と言うものが如何に厄介かと考える事も出来なかった霖之助には、分からない。

 

 彼女にとっての盲亀の浮木……或いは。

 優曇華の華。

 

 故に、彼女はそれだけを信じる事にした。たったこれだけの事が、泣き続けた彼女の救いだったから。

 

 

 

   ●

 

 

 

『先生なら、もう寝ていましたよ』

 

 お茶を淹れに行った際、件の少女の部屋の前で永琳は優曇華の弟子である少女に出会い、少しばかりの会話の後、優曇華はどうして居間に居ないのかと聞くとそう返された。

 残念だと思いながら居間に戻ると、にやけ面のてゐと困った顔の霖之助とすまし顔の輝夜の"勉強会"とやらを目にする羽目となり、永琳は久方ぶりに一方的肉体言語及び肉体的説教を行う事となったのである。

 

 彼女の熱意が届いたのか、最後の辺りではてゐも輝夜も土下座して許しを肯定たが乞うていたが、とりあえず泣いても許さないと決め込んでいた永琳は矢を次々と番え放ち続けた。

 途中自分の声にも似たくぐもった低い笑い声が聞こえたような気もしたが、そんな事は無かった。気のせいだと思うから、気のせいだ。

 

 夜の寒い廊下を一人歩きながら、永琳はほう、っと息を吐く。吐き出された息は白く染まり、季節の運ぶ寒い風を永琳に教える。

 彼女は自身の肩を撫で、あぁ、寒いわけだと思った。居間を出たのは数分前。

 弟子一名と元教え子をのしてから、永琳は室内に霖之助が居ない事にやっと気付いた。久しぶりの狩りは彼女から普段の冷静さを多大に奪ったようで、

そう広くは無い室内から最愛の人が消えたと言う事すら感じさせなかったらしい。

 

 ――妻失格ね。

 

 のろけでしかない事を心で呟きながら彼女は冷たい廊下の上を足音も無く歩いていく。

 二ヶ月ぶりの永遠亭ではあるが、彼女には歩き慣れた家屋である。目を瞑っても目的地を違える事無く歩けるような、彼女の元居場所――実家だ。

 

 しかし、どうだろうか。

 

 ――えぇ、どうなんでしょうね。

 

 苦笑を浮かべる。

 そんな家だと言うのに、彼女にはここに対して愛着が前ほどには無い。自身の居場所、居るべき場所、そう言われて思い浮かべるのは、あの森の入り口にある混沌とした香霖堂。

 更に言うなら、そこに座す男の隣だ。その隣にさえ居られるなら、それで良い。

 

 のろけでもなく、冗談でもなく、ただの真実として永琳はそう思う。な、ものだから、同時にこうも思う。

 

 ――病気だ。

 

 それも、深刻な。もう摘出も治癒も見込めない、末期の病気だ、と。

 

 長い生の、本当に馬鹿みたいに長い生の中で幾度恋をして幾度愛に浸っただろう。

 その最後が不本意な終わりばかりでも、彼女は確かに恋をして愛を育んだ。それでも、ここまで極端な、在る意味価値観を上書きされてしまうような恋を彼女は知らない。知る筈も無い。

 

 求愛に応じるばかりで、自身から動いて求愛した事の無い彼女は、誰かから与えられた愛と、

自身から求めた愛の違いがよく分かっていないのだ。為に、彼女はたった十年ほどの時間で霖之助に依存する事となった。

 

 そもそも、おかしな話だ。

 医者、薬師、それらの立場を捨ててまで嫁に行く必要があっただろうか。

 家を出て行く必要は、本当にあっただろうか。どれもこれも、どこか妥協点のあった事だと言うのに、永琳は霖之助の側に居る事を望み、望んだ時の流れの中でより一層霖之助に依存してしまった。

 馬鹿馬鹿しい話である。

 

 ただ、これの救いは。それを幸せのためなら、と誰も責めなかった事と。

「取りあえず……明日は性のつく物を沢山食べて、頑張って貰いましょうか」

 彼女の相に浮かぶ、その明るさだろうか。相は幸により色を変えると言うから、その病気は彼女にとって必要なものという事だ。

 一生の付き合い……になるかは、彼女の頑張り次第であり、霖之助の妥協次第だが、暗くないのはただそれだけで良い。

 

 何を食べさせようかと、用意しようかと考えつつ、さて先程の不義を、どうやって布団の中で返してもらおうかと悶々と考え、あぁ、早く夜が明けて明日になってしまえと思いながら永琳は足を進めて……導かれるようにそこに着いたのである。

 

 夜空の下、佇む二人の後姿。

 月明かりの下、美しく微笑む優曇華。苦笑を浮かべる霖之助。

 後姿からも容易に察せられる二人の姿を目にして……永琳の身は小さく震えた。

 

 彼女の耳に届くのは、ただの雑談。彼女の目に映るのは、ただの談笑。

 

 永琳が長く見なかった、優曇華と霖之助の組み合わせで、それは昔にも在った日常の一コマだ。

 なのに、彼女は震えた。何かに、震えた。

 

 我知らず、永琳は一歩後ずさる。

 その音が耳に入ったのだろうか。霖之助が振り返り、次いで、優曇華が振り返る。

 

 震えた。大きく。

 その優曇華の想像したとおりの笑顔と……大切なものが何か欠けた様な優曇華の瞳の暗さに。

 

 永琳は、恐怖した。

 いつか。そう、いつか必ず。

 あの暗い瞳が自分から大切なものを奪うのだと、なんら確証も無いまま確信し――

 

 恐怖した。

 

 十年は長いだろうか。

 それは分からない。

 しかし優曇華と言う一人の少女に関して言えば――長かった。

 大切なものを二つ、一瞬で失い、孤独の中で唯一つの想いと言う消えかけの火種だけが温もりだった少女には、長かった。

 

 だから。

 

 女であっても、母になれない女は。女であって、母になれる少女に。

 恐怖した。

 

 月が雲に再び隠れ、やがて時が経てば月は消え朝日が昇るだろう。

 そんな当たり前の事が、永琳には……酷い事だと思えた。

 

 

 

 

 

   ――了

 

 

 

 

 

 赤い糸が繰られ、絡まりあい。

 魔女は笑いながら糸の全てを断ち切る。

 それが彼女の――幸せだから。

 そんな事が、幸せだから。




ちんちんかゆい

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