香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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中篇

「うぅううう……」

 

 永遠亭にある一室で、その少女は頭を抱えて呻いていた。

 特に頭が痛いわけではないのだが、いや、彼女の前にあるテーブルの上に置かれた如何にも難解そうな本が原因であるとすれば、確かに頭が痛いのだろうが、今回彼女が頭を抱えているのは、それが理由と言う訳ではない。

 なるほど、難解な医学書ではある。が、彼女もまた高い能力を有する少女だ。

 現在その能力が花開いて居ない為、偶にはこうして呻く羽目になっているが、理解し己の物とするにそう時間は必要としないだろう。

 

 もう一度記すが、本が原因ではないのだ。

 

「あぁああああああああ、もう……もう、本当に……」

 

 それでも少女は――優曇華と永琳に呼ばれる少女は呻く。開かれた医学書など見もしないで、彼女は窓から見える鬱蒼とした竹林を眺めながら、頬を膨らませてテーブルに突っ伏した。

 顔を開かれた医学書に埋め、紙の匂いの中で息を吐く。そして意識しないまま、彼女は自身の頬に右の掌を当て、そっと撫でた。

 

『すまないが、手で失礼するよ』

 

 脳裏で数日前に、雨の中であったそれが再生され、優曇華はバネ細工の玩具の様に、曲げていた背をピンと伸ばし、テーブルを両の手のひらでばんばんと何度も叩く。

 

『君も一応女性……いや、少女か。なのだから、顔に泥をつけたまま、と言うのはどうかと思うよ』

 

「あいつ……! あいつあいつ! あいつぅ! 乙女の柔肌を、断りも無く、断りも無くッ!! あと一応ってどーゆー意味よ!?」

 

 何事か小さく叫びながら、彼女はその行為を暫らく続けた。

 しかも、そう、しかも、だ。

 

『明日にでも、借りた傘を診療所に持って来るそうです』

 

 そう優曇華から聞いた永琳が、翌朝部屋に篭り、出て来た時には女として完全武装状態だったのだ。

 

「あ、あの優眼鏡……ッ!」

 

 すっと立ち上がり、次に優曇華は畳んで置かれている布団にパンチを何度も繰り出し始める。拳の握りが甘く、手首に力が入っていない、俗に言うところの猫パンチを、ボスボスと何度も何度も。 軍人だったとは思えないほどのへなちょこ猫パンチだ。

 奇行である。どう見ても、どう取っても奇行である。だから、その優曇華の私室と廊下を区切る襖の隙間からそれを見ていたてゐと輝夜は、

 

「……やばい、鈴仙やば面白い事になってる、お姫様」

「永琳を呼ぶべきなのかしら……これ」

「あと兎なのに猫パンチ打ってる」

「お前だって今、兎なのに亀よ」

「……競争?」

「どれだけおとぎ話でこの家を塗りつぶしたいの……状況を鑑みなさいよ、お前は」

「……出歯亀?」

「えぇ」

「姫様……ないわ、それはないわ」

「五月蝿いわよ」

 

 そんな言葉を交わした。

 そしてそんな彼女達が隠れて見ている優曇華は、テーブルの上に在ったシャーペンを全部壁に投げつけ、全損している最中だった。

 

「……くしゅッ!」

「……風邪かい? 医者の不養生なんて、君らしくないと思うけれど」

「んんー……そうねぇ、霖之助、ちょっと手の平貸して貰えないかしら?」

 

 輝夜とてゐに名を呼ばれた永琳は、普段に比べ人影の少ない……殆ど無い診療所の診断室で向き合っている霖之助に、甘えたような声と仕草で言葉を掛けた。

 

「僕の手の平をどうするつもりだい?」

「ここに、優しく置いてくれないかしら?」

 

 永琳は自身の額を指差し、霖之助に応えた。少女のような笑顔で。

 だから霖之助は、溜息を吐きながら永琳の額に手の平を当てた。

 

「……あら、これ私の手の平じゃないかしら?」

 

 永琳の手首を持って、手の平が永琳の額に当たるようにして。

 

「里一番のお医者様の手の平だよ。ご満足かな?」

「全然」

 

 女性らしい化粧の施された顔に、女性を強く感じさせる笑みを浮かべ、永琳は囁いた。常も魅力的なその笑顔が、一層輝いて見えたからか、霖之助は顔を背ける。

 永遠亭で借りた傘を返しに来ただけの霖之助は、永琳にばれないように再び溜息を吐く。

 

「甘えられるのは、苦手かしら?」

「……さぁね」

 

 永琳の額に自身の手の平を当てながら、彼は深く、また深く。

 溜息を。

 

 

 

 

   《赤い糸を繰る》

 

 

 

 

 少しばかり暖かかった永琳の額の体温を手の平に残したまま、霖之助は竹林から人里へと続く道を歩いていた。帰ると言った際に見せた永琳の寂しげな顔に、後ろ髪を引かれる様な思いが無かった訳でもないが、至極健康な自分が診療所に長居するのは良くない事だと、彼は席を立った。

 しかし、そんな理由よりも、もっと深い理由があった。

 

 ――なんで確りと化粧しているんだ、彼女は。

 

 それは悪い事ではない。

 むしろ女性として当たり前の事だ。が、今の今まで薄く化粧を施す程度しかしなかった永琳が、いきなり確りと化粧をすれば、彼だって落ち着かないのだ。

 里の人間からは、枯れているだの、山に住む烏天狗の少女からは、もう尽きているだの、散々に言われるほどの彼であっても、美しすぎる顔で優しく微笑まられると勝手に鳴り出す胸の中の鐘は、如何ともし難い物である。

 彼は男である。少女達と話す事に何も思わない事が多くとも、それが女性となれば、美しく好意的な関係の輪の中で友誼を育んでいる相手となれば、全く違う事なのだ。

 永琳は、少しばかり今彼の交友範囲に中に在る女性達とは毛色が違うのだから。

 

 なるほど、霊夢や魔理沙は愛らしいだろう。紫や咲夜は美しいだろう。

 彼女達は霖之助が基準の第一に置く聡明ささえ持っているだろう。

 しかし、彼女達には欠けた物がある。未だ満ちていない物がある。

 

 それは女性らしさや温かみと言った物で、霖之助がここ最近を良く共に過ごす永琳には、それらが在るのだ。永琳が他者にどんな顔を見せてるのかまで霖之助には分からないが、少なくとも彼女は霖之助の前ではそう振舞っている。女性として、温もりを持つ存在として。

 

 里人、烏天狗言うところの枯れている霖之助でも、それが女性らしい女性となれば、自身が男である事を否が応でも思わせるのだ。

 それが、気まずかった。そして、気恥ずかしかった。だから、長居が出来ない。

 

 実に子供じみた思考である。

 が、男はそんな物だ。何事も自分に素直になれず、見栄と虚勢と伊達を通すのが男なのだ。大人に成れないから、男なのだ。

 

 例えば、良妻賢母、という女性を讃える言葉があるが、これはそう難しい事ではないらしい。賢母であれば、良妻足るからである。その意は単純な事で、"よく面倒を見れるなら、『良妻』『賢母』両方やれる"という事なのだそうだ。

 子供、夫、両方の面倒を、母親の視点で確りと見る。たったそれだけの事だ、と。

 女性が早熟だと言われる原因は、恐らく対人関係における、どちらかが大人に成れば大抵は収まる、という物と同一なのだろう。

 

 さて、森近霖之助。彼は里へと差し掛かる前で立ち止まり、頬にさす朱を、頭を振る事で追い出そうとしていた。

 勿論、それで消えるような感情ではないが、僅かほどの冷静さは戻ってきた。そして、その拙い冷静さは霖之助に言葉を零す。

 

 ――見舞いに行かなくて良いのか?

 

 と。

 

 人里の東にある呉服屋、東屋。東屋先代主人が、町の東に建てるから東屋と名付けられた、その趣きも何も無い店の二階の居住区には、霖之助の友人が一人、病に伏せている。

 

『熱っ! おい霖之助! なんだこの茶ぁ! 熱すぎんだろこれ!?』

 

 厳つい風貌の癖に、熱い茶を嫌い甘い物が好きだったかつての少年。

 

『おい、霖之助! 店ぇもったぜ俺ぁよ。これからは仲五郎なんて呼ぶんじゃあねぇぞ! 東屋さん、だ! 仲五郎なんて呼びやがったらぁ、お前その頭に三つ四つ、いや六つは瘤つくってやるから覚悟しときな!』

 

 豪快で、言葉遣いが粗いくせに誰からも好かれた人間。

 丁稚から自身の店(たな)を持つまでに至った苦労人。

 妖怪だろうが半人半妖だろうが、気に入ったら懐に入れてしまう変人。

 霖之助の、友人の一人。

 

 その男が、今は伏せ、自身の足では歩けぬほどになっている。

 霖之助は戸惑った。見舞いに行く事を躊躇った。

 すぐに怒鳴り。

 

『おいこら霖之助! やめろ、そんな話俺に聞かせるんじゃあねぇよ!』

 

 人の話を聞く時は全身で聞き。

 

『……』

 

 涙もろい。

 

『くそ! 畜生……なんだくそおい、神様ってなぁ……えぇおい、なにやってやがるんだい、まったくよぉ……!』

 

 鼻をすすりながら、真っ赤に腫らした目を手で覆って隠し、おいおいと泣く東屋仲五郎のまだまだ元気だった頃の姿が霖之助の双眸の奥に蘇る。それが、霖之助を見舞いに行かせない。

 

 病に倒れ、布団の中で一日を過ごす老いた男の姿が、果たして霖之助の中に居る仲五郎と重なり合うのか。重なったとしても、自身と彼は時の流れの無情さを恨まずに居られるのだろうか。

 それが分からないから、霖之助は見舞いに行くことが出来ない。

 

 ――いつもいつも、僕は同じ事で悩む……

 

 それが愚かな事だと分かっていても、悩む事は尽きない。消えた絆は、また違った形で生み出され、無くならないから、悩みも消えない。

 誰かと繋がっていく以上、0に成るまで消える事は出来ないのだから。

 

 

 

   ●

 

 

 

 結局、霖之助は呉服屋東屋に行く事はなかった。

 彼その足を速め、逃げるように、隠れるようにして香霖堂に戻り。そして、閉ざされた扉の前で俯く、最近馴染みの少女――

 

「あんた、どこ行ってたのよ!」

 

 優曇華に吼えられた。英国では人に向かってやってはいけない、人差し指を突きつけるという行為と共に。

 しかし、その行為はある意味では暗示的なものでもあった。時の先を思えば。

 

「今日も診療所の備品かな?」

「今日は暇だから、帰って勉強してなさいって言われたの」

「あぁ、あすこが暇な事は良い事だよ。平和だと言う証拠だ」

「あんたのとこみたく、いつも暇じゃないものね」

「今の君、まるでてゐの様な笑みだったよ」

「嘘ッ!?」

 

 含むところがある笑みから一変、まさに驚愕と言った顔で悲鳴を上げる優曇華。

 

「……で、今日は如何なる用事で?」

 

 表情豊かな少女の相に肩をすくめながら、霖之助は優曇華の隣を通り過ぎ、店の扉に手をかける。すれ違う際、なにやら優曇華が大げさな仕草で霖之助を避けたが、彼は特にそれを気にしなかった。

 嫌われている事はもう仕方無い事だと諦めているからだ。それでも、少しばかりの納得できない気持ちを胸に、彼は鍵を開け店へ入っていく。

 優曇華が遅れて入ってくる。

 

「今日は……ちょっと、探し物」

「探し物……里の店へは?」

「行ったけど、無いって言われた」

「ふむ。と、なると……この店特有の物、と言う事になるか」

「じゃなきゃ、こんな店来ないもの」

「来ておいて、随分と言ってくれるね」

 

 霖之助は備え付けのテーブルに座り、優曇華は外の世界の大型旧式テレビを軽く手ぬぐいで拭ってから座る。いつかてゐが座っていたそれに。

 

 そのテレビには妖怪兎の類を座らせるような磁場でもあるのか、等とと思いながら、霖之助は口を開く。

 

「で……何を買いにここへ?」

「……シャーペン。それから……それの、芯」

「……」

 

 霖之助は目を瞑り、優曇華の口にした道具の在庫があったかどうか思い出す。

 

 ――確か未だ、三本程はあったかな……芯も確か同じところに……

 

 記憶を手繰り寄せながら、彼は座ったばかりの椅子から離れ、仕舞っておいたと記憶しいてる場所へ歩いていく。

 

「あぁ、在ったよ」

「どれ、どんなの?」

 

 傍へより、霖之助の手の中にあるシャーペンを見、彼女は顔を顰めた。

 

「……なんて言うか、趣味悪い」

 

 黒一色、飾り気など何も無い、全く同じ意匠のシャーペン三本が気に入らないらしい。

 

「他のは無いの?」

「無いよ」

 

 間を置かず返ってきた答えに、優曇華は眉を顰め霖之助を睥睨する。

 

「私だからって、適当な事言ってるんじゃないんでしょうね?」

 

 その穏やかではない視線にも揺るがず、睨まれている当人は平然としたまま投げつけられた言葉を打ち返す。

 

「僕だって商人だ。売れる物があるなら真面目に答えるよ。君には、そう見えないかな?」

「どうかしら……あんた、私と師匠に対する態度、全然違うもの」

「それはそうだよ」

 

 霖之助は左手の人差し指と中指で、眼鏡を軽く押し上げた。

 

「君と永琳は、違うだろう?」

「……まぁ、そうだけども」

「それに、同じ様に接して欲しければ、まず君がそのつっけんどんな態度を改める事だね」

「あんただって同じでしょ! それに、私は別に……!」

 

 肩を怒らせる優曇華に、霖之助は肩を竦めてにやりと笑う。

 

「求める者が支払うのがこの世の鉄則だよ、鈴仙。払わなければ、欲しい物を得る事なんて出来やしないんだ。だろう?」

 

 確かに、その通りである。何かをして欲しいのなら、まず自分が何かをして上げなければ、誰も何も与えてはくれない。何も犠牲にせず何かを欲しいと言うのは、子供のわがままと同じだ。そう、誰も耳を貸しはしない。

 

 しかし、優曇華にそんな事が可能な訳が無い。

 彼女は彼が嫌いなのだ。自分の尊敬する女性から、特別視されている彼が。だから、彼女は困る。

 

「しかし……まぁ、この場合は僕が折れるべきなのかも知れないね……待っているといい。僕の使っているシャーペンで、君好みの物もあるかも知れない……あぁ、勿論値段は安くしておくよ。僕のお古だしね」

 

 自身の部屋へ足を向ける霖之助の背を見ながら、彼女は口をへの字にして声にならない声で呻いた。困るのだ。

 あの夜触れた冷たい手の平は、やはり嘘ではなかったと胸の奥に居座る、もやもやとした何かが

 彼女自身にちくちくと針を立てる様に囁くようで。 

 

 ――大嫌いだ。

 

 それは嘘ではない。

 

 ――だけど、あの手の平の冷たさは……

 

 それも嘘ではない。

 

「あぁあああああああ、もうッ!!」

 

 困るのだ。だから困るのだ。

 彼女は頭を大きく横に振りながら、困るのだ。

 

「鈴仙、これならどうかな? ……なんでそんなに首を横に振って……?」

「う、五月蝿い! ……そこに、置きなさいよ」

 

 自身の私物であるシャーペンを差し出す霖之助に、優曇華はテーブルを指差した。

 

「……?」

「良いから! そこに、置きなさいってば!」

 

 その理由は実に簡単な事だ。今、彼女はその手の平に触れたいけど触れるべきではないと、本能が警鐘を鳴らしている。

 どうしてそんなことで鐘が鳴り響いているのか、それは彼女にも判然としないのだが、自身が自身に警告をこれほどに分かりやすく発しているのだから、彼女としては拒む理由も無い。

 

 釈然としないまま、彼は優曇華の言うままにテーブルに手に持っているそれを置く。

 が、この男が言われるままそれをする筈が無い。余計であっても、分かっていても、霖之助という存在は言葉を弄してしまうのだ。

 

「魔理沙も偶に不可解な行動を要求するんだが……君達少女と言う存在は、実に自侭で不明瞭だね」

「あんたが未熟なのよ、この極楽トンボ」

「極楽トンボ……目利きも出来ない君に言われてもね」

「私は道具屋になるつもりなんてないから、良いのよ」

「永琳は出来たが、弟子の君は出来ない、と。いや、なんとも。弟子は師匠を超える為に存在すると言うのに、不甲斐ないね」

「あんただって、どうせ道具屋の師匠超えてないでしょ」

「……そうだ、良い茶請けがあるんだが、どうかな?」

 

 話題を逸らした霖之助の、なんとも言えぬ白々しさに優曇華は溜息を吐いた。

 

「……未熟者」

「故に、僕らは生きるのだ。と誰かが言ってたよ」

 

 二人は、同時に肩を竦める。それぞれの師匠を脳裏に思い浮かべながら。

 苦笑いを浮かべながら。

 

「……で、あんた。ちゃんと師匠の事、その……ほら、あれ」

「あれ?」

「……褒めて、あげたんでしょうね?」

「……褒める? 何を?」

 

 そっぽ向きながら、小さく呟く優曇華の言葉の意味が分からず、問い返す霖之助。それに溜息を吐いて、分からないでよかったのか、それとも良くないのかと胸中で呟きながら、優曇華は言った。

 

「本当に、未熟者」

 

 存在は皆未熟である。

 どれ程生きようと、自律し、本当の意味で自立する事など出来ない。生物として。男として。そして、乙女として。

 

 

 

   ●

 

 

 

 雨がまた降っていた。

 霖之助は、一人中空を眺める。今はもう、先程までいた優曇華も永遠亭に帰り、寂れた香霖堂に不似合いな筈の少女の声が木霊する事は無い。

 だがしかし、何故かこの店は常に少女の彩がある。主に白黒赤、偶に紫。最近では、赤青、そして紫。

 それらの色は今どこにも無い。探す必要すらない。

 

 寂れた店は、その外観と内観に相応しい静寂の中、店主一人を置くだけで、薄呆けて見えた。

 音の無い中で、霖之助はただただ中空を眺める。時計の秒針、そして分針が刻む小さな音、雨の音、それ以外何もなく、人の音が無いその静寂の中で霖之助は思考の海をゆらりふらりと揺蕩う。

『……褒めて、あげたんでしょうね?』

 

 ――あぁ、意味は分かる。

 

 恐らく、それはそういう意味だったのだろう。だが、褒めなければ成らない理由は無い。

 

 ――意味は分かるんだが……

 

 今それを成す理由が、彼には無い。だから彼はそれをしない。いずれ、また、いつか、あとで。

 長い生を持つ彼は、褒める機会などいつでもある。

 だから今、彼は褒めない。今はまだ、気恥ずかしさが先立つが、いつかはそれもなくなり、純粋に褒める事ができるだろうと信じて。

 時間は――

 

「も、森近さん!」

 

 余りあるほどにあった。筈なのに。

 

 カウベルの音と共に店へと足を踏み入れた、かつての弟弟子の言葉に、それは叩き潰された。

 

 人に指をさす。英国において残る古い逸話の中で語られる、魔女という悪の象徴。または恐怖。

 それが見せる一つの仕草。

 

 魔女が人に災いを、不幸を、呪いを掛ける際……彼女らは、その人差し指を相手に突きつけ、囁くのだ。私より不幸になれ、と。そうすれば、魔女は幸せになれる。

 呪われた誰かよりは。

 

 

 

   ●

 

 

 

 高い、高い、遥かに高い、雨の止んだ夕焼けに染まる茜の空の上で、火の花が咲き誇っていた。

「最近そっち、どうなの」

「特に何も無いわね……そっちは?」

 

 それに混じって、茜よりも尚赤い雪が降っていた。そして、それらを生み出しているのが――

 

「授業がつまんないって言われてへこんでる慧音……は毎度だし」

「えぇ、それ前にも聞いたわね」

 

 手にした刀を振るう少女達である。

 片や、黒い髪を吹く風のままに靡かせる麗しくも紅に染まった少女。

 片や、銀の髪を背から吹く火の羽に揺らめかせる美しくも紅に染まった少女。

 彼女達は、ただ刀を持って空を飛翔する。

 

「面白い事と言えば……そうね、うちの永琳が面白いことをしている……かしら」

「へー……なに、また物騒な薬でも作った?」

 

 無骨な、首切り包丁である刀を右から、左から、上から、下から、斜め、後ろ、突き、平打ちし、重ねられるたびに音を、火花を放つ、今では失伝し生産も出来ぬ古鉄の刃の、その鋭い軌跡の中で地も踏まずステップを踏む。耳鳴りするような、肌寒い空の上だと言うのに。

 

「そうねぇ……薬と言えば、薬なのかしら。ある意味では、毒でしょうけれど」

「物騒だな、ほっといていいの、それ?」

 

 一旦距離を取り、そして二人はまた間合いを詰める。その最速からの迫撃は風か、林か、火か、山か、陰か、雷か。

 いいや、そうではあるまい。

 それは命を速さにのせた、余りに苛烈な疾くに過ぎたる刃の撃ち合いである。その剣技が拙かろうと、刃に生涯を掛けたる如何な達人も、この命を糧に燃え盛る武の雅から目を離せようか。

 離せまい。

 それは拙いからこそ、輝く。それは無様であるからこそ、尚煌く泥の中の蓮が如く清冽に心を打つ。ただそこに在るだけで。ただ、そこで撃ち合うだけで。

 

「良いんじゃないかしら。永琳、楽しそうだったし……邪魔するのも悪いわ」

「楽しそう……ってあんた」

 

 肉が裂け、血が舞い、肉片が飛び、骨片が散る。

 内臓が日の赤い光で照り、皮膚の下にある美しい桃色の肉が脈打ち、滴り落ちる血は遥か高き空の上が故に風に巻かれ舞う。まるで桜のように、まるで雪のように、淡く、それでいて濃厚な血の香を振り撒いて。

 剣先の先にあるは勝利である。

 勝利の先にあるのは生である。

 生の前にあるのは――恐怖である。彼女達は今、その恐怖の中に身を晒し、剣林を走りその身を弾丸として血の雨を降らしている。片腕が千切れかけ、耳が切れ落ちかけ、片目がつぶれ、頬からは肉と骨と歯が覗き見え、足は膝から下がなかろうとも、肺に穴が開こうとも、器官が機能を終えてしまおうとも。当然の如く、に。

 

「で……そろそろ怪しいわね……死んでおきましょうか、妹紅?」

「あぁ、そっちがね、輝夜」

 

 それぞれ、構えにもならぬ構えで刀を持ち、ともすれば今にも勝手に落ちてしまいそうな切っ先を相手へと突きつける。さぁ最後だと、誰でもなく、全てが知る。最後が故に、二つの肉はこの度の合せにおいて、鋭く穿つ最々速を自然の全てに見せ付けた。

 風も追えず、林よりも静謐に、火よりも猛々しく、山よりも堅牢に、影さえも惑わし、雷をも後ろに引いて。ただの一振りが世界全てを振り払い、ただ断つ為だけにと叫び吼える。

 

「あれ……でも」

「うん? なに?」

 

 ――刹那、音が消える。

 

 放たれるは断たれるが故に鈍き音。肉を断ち切った一触の弦の奏でのみ。

 

「さっき見たとき……永琳って――」

「永琳がどうしたの、妹紅――」

 

 言葉は繋がず、乙女達の首から上は空から落ち、続き、そこから下が落ちていった。遥か下にある、竹林へと。

 

「痛い痛い死ぬ、死んじゃうー、もう痛いー」

「同感……あぁ、今日も相打ちだなんて、日が悪いにも程があるわ」

 

 自身の頭を首に乗せ、それが接着した事を確認してから、二人は頭から手を離した。

 二人は同時に腰を掛けるに適した岩へと座り、空を見上げた。

 

「で……妹紅、貴方何か言いかけてなかったかしら?」

「んー……? あぁ、永琳ね」

「そう、それ」

 

 輝夜は夕焼けから目を離し、妹紅へと視線を向けた。

 

「こっちに来る前、永琳とすれ違ったんだけど、なんというか、楽しげって感じじゃなくってさ」「なら、どんな感じだったの?」

「一言で言うなら、落ち込んでる? とか」

「二言で言うなら?」

「落ち込んで、落ち込んでた」

「貴方、慧音の寺小屋に行きなさい」

「えー」

 

 妹紅の小さな悲鳴を無視して、輝夜はスカートを払って立ち上がった。そして、そのまま背を向けて歩み去る。

 

「もう帰るの?」

「えぇ、夜に淑女が出歩くものじゃないわ。貴方も早くお帰りなさいよ」

「はいはい……次は勝つからなー」

「それはこっちの台詞よ」

 

 淑女らしからぬ、背を向けたまま手を振るといった仕草で、彼女は永遠亭に戻っていく。

 景色の変わらぬ竹林の道なき道の中で、彼女は今しがた妹紅から聞いた永琳の様子を思い浮かべる。

 

「落ち込んでいた……か」

 

 面白そうだ。当人には悪いのだろうが、輝夜はそんな事にほくそ笑みながら自身の家へと歩を進めた。

 血まみれの服で、夕焼けの赤を受けながら。真っ赤に。

 

 そして永琳に怒られた。

 服は大事に、と言う話である。多分。

 そして同時刻、妹紅が慧音に同じ様に怒られていた事は割りとどうでも良い事なのだ。

 

 

 

   ●

 

 

 

「いったい、どうして、何故、弾幕勝負ではなく、態々刀での決闘などされたのです、姫。しかも業物の刀を二振り、ここまで駄目にして」

 

 永琳がテーブルの上に置かれた刀を指差し、彼女の正面で正座している輝夜に言う。

 

「飾られているだけじゃ、それも可哀想でしょう? それに、弾幕勝負にも飽きていたのよ」

 

 輝夜の方はしれっとした物で、平然と返した。

 

「飽きたからと言って、これは酷過ぎます」

 

 テーブルの上にある二振りの刀は、鍔元が捩じれ、切っ先が曲がり、刀身全体に至っては完全に反りと鋭さを失っていた。刀と言うのは斬る事に特化した首切り包丁であり、槍や剣の様に打ち合うことを前提とした物ではない。

 殊刀はその刀身は鋭さに反して弱く、下手に打ち合えば根元から捻じ曲がると言う事すらあった。刀と言うのは江戸時代、そして後の幕末の世でその価値を露にしたが、戦国期においてはただの護身用、または前述の如く首切り包丁でしか無かった。

 これはただ、戦場の主役であった槍、または弓で討ち取った武将、足軽の首を切る為の道具でしかなかったのだ。故に、丈夫さよりも早く切れる事をそれは求めた。素早く、次の首を取る為に、である。

 これは戦う為の道具ではないのだ。そう、なかったのだ。

 

 では何故に江戸時代と幕末に刀が主体と成ったかと言うと、実に簡単な話である。

 太平の世で、槍が使われなくなった上に、お座敷剣術が幅を利かし、武士が皆剣術を前提に習ったからである。この時代、槍術――それも戦場の花形、一騎当千の大前提である馬上槍をまともに使う人間のほうが少ない。

 というか、居ない。

 

 であるから、どうしても刀が出張るしかなかったのだ。後は、武士階級の人間が刀に異常なほど執着してしまった事も原因だろうか。

 首切り道具を魂、等と呼んで重宝し、剣術を修め金銭で買える目録等を得る為に腐心し、その実戦場では鉄砲隊が要だったという時点で、江戸時代の武士の程度が知れたと、恐らく戦国侍等は草葉の陰で笑い転げた事だろう。

 

 蛇足だろうが、少しばかり。

 戦国時代の合戦で足軽が何を持っているか思い浮かべれば分かるだろうが、彼らは槍を持っている。または弓、鉄砲であって刀ではない。

 皆、殆どが槍だ。間合いを考慮すれば分かる事だが、それは相対する足軽や武将も同じである。

 槍の又左、槍の才蔵、槍の半蔵、槍の勘兵衛、槍の又兵衛、血槍九郎、槍弾正。

 槍の名を持つ有名どころだけでも、ざっと簡単にこれだけ出てくる。

 更に武将は馬上槍を重視し――実際は槍合わせの際馬から下りる事が多かったそうだが――彼らは刀の扱いなどに殆ど時間を割いては居ない。中国に遅れる事約二千年、戦術戦略技術、また才人奇人、百花繚乱の中世熟成期である、名の通りの戦国時代、戦場で刀を用いて名を轟かせた者と言えば賤ヶ岳の三振太刀だが、彼らは間もなく亡くなっている。

 皆槍傷等が原因で亡くなったと言うから、如何に戦場で太刀が不利であったか分かろうと言うものだ。剣術家などもこの時代にはいたが、彼らが刀を用い合戦で活躍したなど終ぞ聞いた事がない。

 あの宮本武蔵などは、そもそも刀を抜く前に負傷して戦線を離脱している。

 戦場に参加した際、老齢だったという事を考えても余りにお粗末だ。ただ、例外もある。

 

 戦国時代、"一応"の戦場で、刀を使って大きく名を残している人物が居るのだ。

 第十三代足利将軍、剣豪将軍の名で知られる足利義輝である。彼は塚原卜伝に剣術を習い、奥義一の太刀まで修めていた一己の剣豪であった。

 この時点で既に奇妙な人物であるが、最後またなんとも奇天烈に凄まじい。自身が集めた業物や伝来の名刀を畳に刺し、迫ってくる兵を切っては払い切っては払い、脂と刃毀れで切れぬようになると、刺してあった刀を抜き取り、握り締めまた振るった。

 その余りの気迫と剣戟に、間合いと数で遥かに勝る槍兵達が怖気づいたと言うのだから、まさに暴風、独楽のように狂い舞い回った事だろう。彼は畳で囲まれ動きを封じられ、槍で穿ち殺されるまでの間、ただただ刀で戦い続けたと言う。

 長得物が不利な屋内とは言え、槍相手に刀でここまでやった人間は稀有だ。これ程までに刀で暴れた人間は、刀主体の"乱戦――合戦に非ず――"蔓延る幕末京都でも居ない。

 まさに刀と剣術と、人の執念の極致だ。足利義輝、後に剣聖、剣豪と呼ばれるのも、なるほど、である。将軍としては正直どうなのかと思わないでもないが。

 蛇足、終了。

 

 兎に角、刀は短く弱く脆く鈍い。そんな物でお互いを削りあえば、人の脂で刃は鈍る。

 骨に当たれば刃は毀れる。更には曲がる。

 それが駄作だろうが業物だろうが、曲がるときは曲がるし、折れるときは簡単に折れるのだ。

 

 今永琳と輝夜の前に置かれている、それと同じく。

 しかし、上記された理由があろうと、死蔵される事を嫌ったという理由があろうとも、道具を駄目にしたと言う事、服をズタズタにし汚した事がひっくり返って帳消しになる訳ではない。訳が無い筈なのだが、今の永琳にはもう言葉が無かった。

 

「……はぁ、もう、良いです」

 

 常なら三倍にして返ってくるだろう小言も無く、輝夜は助かったとも思ったし、またなるほどとも思ったのだ。彼女は力なく項垂れる永琳の姿を見ながら、どこからとも無く取り出した扇子を広げ、口元を隠す。そして流し目で覇気の無い永琳の姿を見やりながら、こう零した。

 

「上手く行かなかったのかしら?」

 

 永琳が一瞬息を止めた。そしてそのまま、永琳は肩を小さく震わせた。

 どうやら、一発で心臓を射止めてしまったらしい。ちくちく弄るつもりだった輝夜は、さぁ永琳怒鳴りやるか、と、いつでも耳を塞げる様に扇子を仕舞い、手を開き肩から余分な力を抜いた。

 が、それは無駄な事だった。何故なら、その余分な力を抜いた両肩に、永琳の手が文字通り、目にも留まらぬ速さで置かれたからである。

 

「どうしたら良いんでしょう、姫……!!」

 

 何やら必死な形相で自身に縋るかつての教育係に、輝夜は胸の中に在ったからかいの気持ちが溶け失せ、変わりにやたらと重い物が胃に入り込んできた事に空しさを覚えた。

 

「いや、まぁ……分かるけれどもね?」

 

 輝夜にせよ、永琳にせよ、与えられる立場に在る者である。賞賛も名誉も愛も。

 彼女達は人から受ける者であって、受け取るだけの存在だ。愛を与えた事はない。

 永琳にはあっただろうが、しかしこの場合愛ではなく――恋である。求愛から始まった関係で、彼女はそれに応じた事はあっても、恋から始まった愛が無い。故に彼女は、今こうして狼狽している訳だ。

 

「だって姫、こんなに重装備というか頑張って久しぶりに化粧したのに、霖之助無視ですよ? 褒めてもくれないんですよ? 帰らないでって目で言っても、口で言っても帰っちゃうんですよ? 私あれですか、女としてそんなに駄目ですか? 輝夜、こういう場合どうしたら良いのかしら? ねぇ、何か案は無い?」

 

 女として以前に、今賢者として駄目である。こんな姿、優曇華がもし見ればどう思うだろうか。

 案外こんな師匠もアリとか言いそうな気がしないでも無い輝夜は、とりあえず眉間を揉みながら眼前で目を潤ませている珍しいどころか希少な永琳の目を真っ直ぐ見つめ、肩をぽんぽんと叩いた。あぁ、的確な助言でも言ってくれるのか、と瞳を輝かせる永琳に、輝夜は静かに言った。

 

「私が愛だ恋だなんて知るわけ無いでしょう」

「貴方に期待した私が馬鹿だったわ」

 

 お互いばっさりである。

 

 事実、輝夜にそんなことが助言できる訳が無い。求愛を利用して遊び倒した彼女に、真面目な話、真剣の恋愛で助言出来ようはずが無い。

 翻弄する事なら輝夜は適任だろうが、それ以外となると彼女は話にも成らない。

 何せ経験が無いのだ。永琳とてそれは分かっていた筈である。分かっていて案を求めた辺り、彼女の置かれている窮状が知れようと言う物だ。

 

「まぁ、気長にやる事ね……貴女も相手も、まだまだ余裕はあるでしょう? と言いますかね、永琳。たった一日二日でどうこうなるものでもないでしょうに」

「……そう、ですが」

 

 人ならざる者の命の長さ。悠長に在りすぎるという在り方は、こういう時には残酷だ。

 勇気をもぎ取る。明日があるから、と。

 十年、百年、在るからと。課題を先延ばしに出来る。それは人から見れば、どれ程に愚かな事だったろうか。

 

「え、永琳先生!」

 

 そして、報せを告げる声が永遠亭に響いた。最近変化を覚えた若い地上兎の少女が叫ぶ。

 

「東屋さんの容態が!!」

 

 明日がある。そう信じ、そうある者は愚かだ。

 今まさに流されようとしている今日を、切実に求める人間も居ると言うのに。

 

 

 

   ●

 

 

 

 商店が立ち並ぶ区画、方角にしてその東側に建つ大きな呉服屋、その店の二階居住区にある先代店主の臥していた寝室で、霖之助は何をするでもなくただ座っていた。

 

「……」

 

 常の服ではなく、黒一色の落ち着いた着物を纏った彼は、手に持っていた数珠を強く握り締める。

 

「……あの時、見舞いに来るべきだったのか」

 

 それとも、これで良かったのか。

 彼の遺影が飾られた部屋で馴染みある古い顔達に混じり、酒を飲みながら昔話に花を咲かせるには、今の彼は感傷的に過ぎた。永琳から容態が悪い事は聞いていたが、あの日彼は、見舞いに行く事を躊躇った。そして明日があると信じて行く事をしなかった。その結果がこれである。

 彼はもう死んでしまった。ここにはもう居ない。昔日の記憶の中に留まり、この先語り合う事の出来ない存在になってしまったのだ。

 

 会うべきだったのだろうか。それとも、これで良かったのだろうか。それが彼には分からない。不明であった自分以外、分からない。

 

 東屋仲五郎。豪快で、凡そ商売に向いた性格では無かった筈だが、成功をおさめた人間。妖怪だろうが人間だろうが、気に入ったらそれでいいと言って憚らなかった珍奇で奇矯な人間。

 ただの丁稚の仲五郎という少年だった彼。走り回り、荒っぽい口調でまくし立てる癖に皆から愛された彼。弱みを見せる事を嫌い、いつだって強気を装った男。

 それが霖之助に、見舞いに行く事を躊躇わせ……結果、こんな事になってしまった。時間は限られていたと言うのに、勝手に次があると妄信し、躊躇した愚かな彼に用意された結末が、今のこの、何も無い部屋なのだ。

 

『店の名前だけどな、東に建てたから東屋でいいや。あぁ? 趣がねぇだぁ? 知るか、そんなもん』

 

 かつてそう言いながら、豪快に笑っていた彼の姿を霖之助は思い出す。しかしその彼が、豪快な笑顔を振りまき、霖之助の背を容赦なく叩く日はもう二度と来ない。

 ぷつりと切れた糸は、もう結ばれる事はないのだ。

 

 霖之助はすっと立ち上がり、その狭い一室から立ち去る。成功をおさめ、皆から愛された男が最後を迎えた、その前半生から見れば余りに寂し過ぎる部屋から。

 

――ぉう、いつも以上に辛気くせぇつらぁしやがって。その茶ぁ飲んだら、さっさと帰ぇんな――

 

 声が聞こえた様な気がして、霖之助は振り返った。

 しかし、そこには何も無い。そう、何も無い。

 ただ畳が在るだけの部屋だ。花も、棚も、何も無い。だから、何も無い事にはしたくなかった。

 感傷だとしても、身勝手な思い込みだとしても、声は聞こえたのだ。

 

「あぁ、君好みの、実に温いお茶だったよ……不味いったらありゃあしない」

 

 彼は誰も居ない部屋で、何も出されなかった部屋で、何も無い部屋にあるだろう何かに向かって返事をし、今度こそ部屋から立ち去った。ぼやける視界も、締め付けられて痛い胸も、全て無視して。

 

 東屋仲五郎、彼と付き合いの在った者達が酒を飲みながら、故人の思い出を語り合う席を通り抜け、彼は誰もいない庭まで足を向け、そこで一人息を吐いた。

 地面を眺めていると、腹を見せて伏せている蝉の亡骸と、それに集る蟻達が視界に映る。蟻達はその顎で蝉を分解し、銜え、巣穴へと持ち帰っていく。

 

 循環。

 そこで絶え、そこから先に行く存在に還っていく。繰り返される生命の環。

 

 ふと、この蟻達を全て、一匹残らず踏み潰せば循環が壊れ、亡き故人が蘇り、またあの笑顔が見られるのではないかと、またあの図太い声が聞けるのではないかと思い、彼は苦笑にならぬ苦笑を浮かべ頭を横に振った。

 

「大馬鹿者め」

 

 霖之助は、自身に向かってそう唾を吐いた。

 拳を握り締め、奥歯を強く噛み締め、彼は空を見上げる。地に這う蝉の亡骸と蟻と、地に縛られたそれら――自身から目を逸らす為に、彼は空を睨みつける。

 

 雨模様の多かった空は、こんな時に晴天で全てを覆っていた。

 それがまるで、死んでよかったと笑っているようで、何故今雨でないのかと、お前は何故泣いていないのかと霖之助は胸を締め付けられた。空の青を黒に塗り替え、そこに鞠の様に浮かぶ太陽を月にすり替え、纏わりつく暑さを裂く様な寒さで壊す事が出来たならば。

 ならば――それはどれ程に痛み苦しみ悲しみを覆い隠す事が出来ただろうか。

 

 人と彼は、定められた寿命が違う。死別は常の儀式である。

 だが、今回のこれはもっと良い方向で別れる事の出来た別離だった。

 それが、彼を苦しめた。霖之助は視線を落とし、再び地面を見た。

 

 地に落ちていた蝉は、もう羽しか残っていなかった。

 だから彼は、その羽を拾い上げ。そっと風の中に乗せた。

 せめてそれだけでも、循環の外へ――空へ逝けと。風に乗って飛んでいく羽は、しかしまたどこかで落ちると分かっていながら。

 

 

 

   ●

 

 

 

 喪主を務める二代目と先代の内儀に頭を下げ、結局皆が集まる部屋には顔を出さず、霖之助は軒先で空を眺め続けた。と、そこに影がさす。

 見上げると、そこには

 

「……隣、いいかしら」

 

 黒に身を包んだ永琳が居た。

 普段とは違った色であったが、それも彼女には良く似合っていた。こんな場所で、こんな理由で纏われた色でなければ。

 

「……好きにすると良い、ここもまた、店だ。皆に開かれた場所なのだから、君も好きにするといい……もっとも、僕にそう語る権限は、ここには一切ありはしないが……」

 

 永琳は霖之助のらしい言葉と、そのらしからぬ苦み走った表情に一切何も返さず、霖之助の隣に腰を下ろした。次ぎ、彼と同じ様に空を見上げ、ぽつり、言葉を零す。

 

「貴方がそんな顔をしていたら、彼が安心して逝けないわ」

「……あぁ、それは魅力的だ」

 

 永琳の言葉に霖之助は自嘲の相を浮かべ、先の言葉はどういう意味だ、と目で問う永琳に、無理矢理笑ったような滑稽な姿で舌を捻り回す。常からぬ軽さで。

 

「だってそうだろう、永琳? 逝けないのなら、またどこかで会う……僕の愚かさを、帳消しにする機会がある」

「……貴方の為に、人の眠りを妨げるというの?」

「永遠に眠らない君が言った所で、詮無いことだと思わないか?」

 

 それは冷たい言葉だった。だからこそ、甘えが見えた。

 霖之助は今、確かに永琳に寄りかかろうとしている。無責任に。

 

 それもまた、良いだろう。だが、それでも決して良くは無い事だ。

 許されようとも、許されない。永琳と霖之助。

 二人が築き上げた体温を持った絆は、そんな事の為に生まれた物ではないのだ。

 

「私に頬を打たれたところで、何も得る事は無いでしょう、霖之助? 貴方が楽になってなんだと言うの? らしからぬ浅薄な言動の意味を良く知りなさい、霖之助。貴方がどんな失敗をしたのかは、私には分からない……けれど、貴方は今、繋がりのあった自身の大切な者まで汚したわ。それは、恥じなさい」

「……」

 

 霖之助は一瞬顔を険しくし、そして次に喉を鳴らし、口を開こうとして……閉ざし、そのまま俯いた。彼は右手で顔半分を覆い、溜息を吐く。深く。

 

 人と彼の寿命は違う。別れは常にあった。

 だが、それでもこんな事はなかった。友人の死の間際、彼は傍にある事ができた。

 それが出来なくとも、最後の見舞いは出来たのだ。だと言うのに、彼は自身の不明によりその機会を失い、友人を喪った。

 

 それでも、甘えるなと。甘える事で消そうとするなと、彼女は言う。

 

「軽躁な世にあって、僕らは個として重く在らなければならないか……」

「軽い貴方なんて、きっと誰も求めはしないわ。東屋さんも、そんな貴方に見送られたいとは思わないでしょうね」

「けれど、僕は見送れ無かったよ……永琳。長年の友誼に、僕は背いた。これが軽薄で無いと言うのなら、何が軽薄なんだい。僕の今居るここが、底なんだ」

「それで許されようとする態度こそが、最も軽薄だわ」

 

 甘えたい。

 しかし、隣に座る暖かい筈の体温は、甘えさせてくれない。

 自嘲するなと彼女は言う。そんな態度で濁すなと彼女は言う。そんな顔で死者を汚すなと彼女は言う。

 故に、彼は問う。

 

「僕は、何をすればいい?」

 

 彼には未だ見えぬ答えを。愚かな男の、時間の限を見誤った男のその滑稽に過ぎる後悔の念が、如何にすれば友への弔いの黙祷になるのかと。

 

「皆に混じって、語って上げなさい。貴方しか知らない東屋さんの話を。そうすれば、安心して逝けるわ。あぁ、愛されていた、と最後に見せ付けてあげなさい。早く新しい生で戻って来たいと思わせてあげなさい。あれは、その為の儀式よ」

 

 永琳の視線の先には、皆が集まる一室。皆、きっとそんな話をしているのだ。

 東屋仲五郎という男がここにいた事を、在って成した事を。愛したという証明を、舌にのせて歌っているのだ。泣きながら、または小さく笑いながら、慎ましく。

 

 霖之助は泣き笑いの表情で、立ち上がる。そして、永琳に手を伸ばした。

 

「一緒に……来てくれるかい?」

「えぇ。そんな甘えなら、大歓迎よ」

 

 重い荷物に背を潰され、それでも歩く為に助けてくれという言葉は、意味がある。

 歩きもせず座ったまま、ただ荷物が重いから助けてくれと言う言葉は意味が無い。苦しみは理解できる、だが、理解できるだけだ。

 荷物を全部持ってくれ、と言われても、人は頭を横に振るだけだ。荷物を半分持ってくれ、と言わなければ、誰も頷きはしないのだ。

 永琳は霖之助の差し出した手を、愛撫するように自身の手で包み込んだ。

 

「君の手は、冷たいな」

「貴方もね」

 

 手を取り合ったまま廊下を歩く二人の姿を、今は亡き友人が見たらどう思うだろう。

 

『仲人は俺か、それとも霧雨か?』

 

 らしい言葉が耳を打つから、彼は胸の中で返事をした。

 

 ――さっさと逝って、さっさと戻って来い。この馬鹿者。

 

 じゃあないと、君は招待しないぞ。そんな諧謔も混ぜながら。

 

 彼はその日、夜遅くまでそこに居た。

 語る為に。そんな霖之助の隣には、永琳がずっと居た。共通の友人達はそれを楽しげに眺め、席を同じくした霧雨の店主は首を傾げていた。

 

 地に落ちて、蟻に貪られ、循環の中に還った蝉が居る。風に乗って飛んでいく羽は、しかしまたどこかで落ちると分かっていた。しかし、その羽が一時、例え一瞬でも空に舞った事に意味は無いのだろうか。

 意味はある。誰かが見た。

 その羽が日の光に透かされて、輝きを放った事を誰かがきっと見て……胸に刻み込んだ。美しかった、と。その一瞬の世界を。

 

 

 

   ●

 

 

 

 月が煌々と照る夜の下、彼と彼女は歩く。お互い何を語るでもなかったが、少なくとも霖之助は隣にある影に安堵を得ていた。

 しかし歩けば全て進み、やがて別れはやって来る。そもそも、二人の向かうべき場所は逆方向だ。

 人を惑わす竹林、そして瘴気漂う森の入り口。それでも、二人は出来る限りの時間を共有したかった。十秒でも一秒でも。

 

 人里の分かれ道。彼と彼女は――霖之助と永琳は、言葉を交わした。

 

「今日は……済まなかったね。出来れば、忘れて欲しい」

「えぇ、貴方の泣きそうだった顔は忘れて上げても良いわ」

「……忘れてくれ」

「嫌よ。甘えてくれた事は、きっと一生、永遠に忘れないでしょうね」

 

 からからと微笑む彼女の横で、霖之助はとんでもない事をしたものだと頭を抱えた。

 

「それこそ、一番最初に忘れて欲しい事なんだが……」

「無理ね」

「無理と来たか……」

「何かをして欲しいのなら、貴方が私に何かをしなくてはいけないでしょう? 何もくれない以上、私は忘れないわよ?」

「真理だ。真理だから反感を覚えるね……これは」

 

 そんな反感を覚えさせるような真理を、少し前に誰かへとぶつけておきながら霖之助は呻いた。

 

「何か用意しておくよ……だから、君も忘れてくれ……今日は、ありがとう。色々と、助かったよ」

 

 霖之助はそのまま、永琳に背を見せたまま歩いていく。彼の城、香霖堂へと続く道を。

 

「えぇ、期待しておくわ」

 

 永琳はその背中をみつめたまま、静かに返す。そのまま自身も永遠亭へと続く道へ足を進めようとして……耳朶をくすぐった音の鮮やかさに足を止めた。

 

「……永琳」

 

 永琳が振り返ると、霖之助もまた同じ様に、足を止めていた。彼は背を向けたまま、言葉を続ける。

 

「あー……まぁ、なんと言うか。いきなり何を言うのかと思うだろうが……君の化粧は……その、うん、なかなかに、良いと僕は思うよ」

 

 言い終わるや、彼は足早に去っていった。

 時間は有限だ。明日があるとは、限らない。だから、彼はそれを言葉にした。

 未だ気恥ずかしさが残っていても、甘えた以上は甘えた分の代償を払わなければならない。

 

 月の下、残されたのは永琳だけ。彼女は今しがた耳の奥を揺るがした音の香を確かめようとして、それより先にすべき事がある事に気付いた。

 口元を手で押さえ、彼女は笑う。温かい笑みで、先程見せた彼のらしからぬ、それでも彼女が求めた姿を瞳の奥に映して。

 彼女はその飾り気などどこにも無い、ただただ温かい気持ちを胸に抱いて夜の道を歩いて去っていく。軽い足取りで。

 

 そして永遠亭に着くと同時に、

 

「しぃしょぉぉおおおーーーーー!!」

 

 弟子による奇襲で軽く吹っ飛んだ。

 

「う……優曇華……いきなりタックルなんて……貴方、ちょっと落ち着きなさい……」

 

 不意打ちであるが為、碌に防御もとれなかった永琳は、腹部を押さえながら必殺必中の吶喊してきた優曇華に諭した。今度同じ事をしてきたら、とりあえず確認の前に思いっきり崩拳で迎撃しようと胸に誓いながら。

 

「早く帰って来るって言ったじゃないですか! もう夜ですよ! 私、今日殆ど一人で診療所見てましたよ!? 作蔵さんとこのお爺ちゃんの愚痴とか倅の嫁にどう? とかずっと聞いてましたよ! 聞かされてましたよ!」

「あぁ、作蔵さんもう結婚して子供もいるのに、これ以上嫁を増やしてあの人は何がしたいのかしらねぇ」

「何か冷静に返された!」

「鈴仙、落ち着くべきだと思うなぁ……、私も」

 

 わたわた、わきわきと身振り手振りで叫ぶ一向に落ち着く気配の見えない優曇華の後ろで、てゐが珍しく困ったような顔で呟いた。どうにもまともに会話出来そうにない弟子を永琳は放置し、てゐに話しかけた。

 

「てゐ……他には何か連絡、あるかしら?」

「んー……特には? ま、優曇華が力みすぎてヘマ打った話なら幾らでも」

「それは後で聞くとして」

「聞くんですか!?」

 

 当然、と異口同音で返す師匠と一応の部下に、優曇華は絶望した。だがそれもまた仕方ない事である。

 落ち込んだ事でどうにか普段一歩、二歩前程度の状態に戻った優曇華は、本来真っ先にすべき筈だった事を行う。

 

「湊屋さんとこの若奥さんが、常備薬を切らしたからお願いします、と。後は注射器の針がちょっと在庫不足です。カルテ用紙も少し足りないです、それとー……各務さん、もしかしたらお腹を開く必要があるかも知れません」

「どういう事かしら?」

 

 優曇華のまともな言葉に、永琳もまた真面目に応じる。

 

「あの、一応触診したんですが、ちょっとしこりがある様な気がしたんです。

いえ、私の気のせいだと思うんですけれど……」

 

 上目遣いで弱々しく呟く優曇華に、永琳は一つ頷いた。件の患者は、永琳が睨んだ通りならそれで合っている。

 急の手術は必要ない為、まだ誰にも知らせていない事だった。それを優曇華は、独力で気付いた。

 気付ける程になっていた。良い傾向だと彼女は思う。

 

「もう少し、貴方は自信を持ちなさい……優曇華」

「あ、はい」

 

 頭の上に置かれた、永琳の冷たい優しさに彼女は素直に頷いた。目を閉じてその冷たさに癒されていく彼女は、目蓋の奥に霖之助の姿を思い出し……唇を尖らせる。

 

 ――……もう、邪魔しないでよ。

 

 しかし浮かぶ霖之助は、肩を竦めるだけで消えてはくれなかった。

 

 それは多分、彼女が消える事を本当に望まなかったから。

 或いは、と彼女は後に思った。或いは、この時気付けてさえ居れば、また違った結末もあったのだろうと。

 彼女は一人、後にそんな事を思ったのだ。

 

 無意味にも。

 

 

 

   ●

 

 

 

 時間は流れる。留まらないのだから、流れるしかない。その中で、彼らは交わりあった。

 カウベルが鳴り響き、少女が一人入ってくる。

 

「ちょっとー、居るのー?」

「ん……、鈴仙。今日は何用かな? 頼まれていた外の世界の初級医学書なら、こっちにあるよ」

 

 家庭の医学書初級編、等と銘打たれた書の束を指差しながら、霖之助は店に来た優曇華に言葉を返す。

 

「それもあるけど……また、師匠が夕食一緒にどうかって……」

「あぁ、今日は君が案内役なのか」

「何、私じゃ不満なの? 良いわよ、竹林の真ん中で置いて行って上げましょうか? ……そうよ、それが良いわ。あんたなんかに、師匠お手製の夕食なんて……」

「それをやると、君が永琳に怒られると思うけれどね、僕は」

「……うわ、どうするのよ! 今頭の中の師匠、凄い形相で怒ってたわよ!? なんか弓矢まで持ってきたわよ!?」

「頑張れ」

「また見捨てられた、私!」

「と言うか、ただの君の想像の産物だろう、それは」

「あと、弓で射られて横たわる私に、「みね打ちよ」って言ってる!!」

「矢にないだろう、みね。というか、君は永琳をどんな目で見てるんだ」

「そりゃ勿論綺麗で聡明で格好良くて優しくて偶に怖くて結構マイペースで――……割りと常識知らず……とか……」

「……」

「……」

 

 二人は同時に頷いた。ちょっと疲れた顔で。

 

 

 

   ●

 

 

 

 何も無い日常の中で、向かい合って語り合う。

 

「紅、ちょっと薄めにしたのだけれど……どうかしら?」

「……それを僕に聞くか、君は」

「ね、どう?」

 

 自身の唇を指差し、永琳は霖之助の言葉を待つ。

 

「……」

 

 無言のままでいるには、永琳から放たれる重圧は重すぎた。霖之助は読んでいた本で顔の全てを隠し、小さな声で応える。

 

「いいと……思うよ」

「こっちのほうが、貴方好みなのね?」

「あぁ、まぁ……落ち着いた色だとは」

「ふぅん……じゃあ、今日からこれにしましょうか」

 永琳は微笑み、やっと重圧から開放された霖之助は息を吐いた。

「僕の意見なんて、参考になった物じゃあないだろう……」

「いいえ、そうでもないわよ?」

 

 

 

   ●

 

 

 

「……えっと、その……いいかしら?」

「……おや、鈴仙。今日は静かに入ってきたね……どうしたんだい?」

 

 常らしからぬ、楚々とした……と言うよりは、恐々と店に入ってきた優曇華に、霖之助は何事かと問うた。その程度には、その日彼女の醸し出す雰囲気はおかしかったのだ。

 

「……その、これ……壊しちゃって……」

「ふむ……」

 

 静々、おずおずと自身に差し出された道具――懐中時計を見て、霖之助は眉を顰める。

 

「師匠に相談したら、あんたなら大丈夫だって言って……その、直らない?」

「いや、直せるよ」

「はぁー……もう、ならそんな顔しないでよ」

 

 安堵の溜息を吐きながら、優曇華は悪態をつく。

 

「ただ、安くは出来ないと思うよ」

「――……」

 

 優曇華が動きを止めた。

 

「僕の見たところ、幻想郷に余りない型だし、僕もそう見た事のない形だね。つまり……修理の為に必要な部品が、余りないんだ」

「……買いなおした方が、安くつくの?」

「んー……微妙、だねぇ……」

 

 顎に手をあて、神妙に呟く霖之助の顔を見て、優曇華は肩を落とす。

 

「私……今月、あんまり余裕が……」

「……お得意様だ、少々の勉強はさせて貰うよ」

「へ?」

「今後とも、ご贔屓に……という事さ」

 

 驚いた優曇華の瞳に映るのは、いつも通りの、冷たげな霖之助の顔だった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 カウベルが小さく奏でられ、永琳が店へと入ってくる。

 

「霖之助、注文していた物は、あるかしら?」

「……前から言っているけどね、僕は薬剤に関しての知識が余り無い。間違っていても文句は言わないでくれよ?」

 

 霖之助が無造作にテーブルの上に置いたそれらを吟味しながら、永琳は小さく頷いた。

 

「んー……まずまずね。霖之助、貴方も少しは薬学を身に着けてはどう? 悪くないと思うのだけれど?」

「君に弟子入りしろと? 君の知識は魅力的だがね、僕は薬学に魅力は感じないよ」

「私自身に魅力が無い、みたいに聞こえるわ」

「そこにある鏡を見るといい。傾国どころか、傾世の美女がお目にかかれるよ」

「なるほど、あすこに貴方を誑かす雌狐が居るのね?」

「……あぁ、それで良いんじゃあないかな。いや、良くはないが……いや、もうどうでも良いか……」

 

 面倒臭げに、霖之助は応える。

 

「それで、霖之助。今日の夕飯なのだけれど」

「いや、君……それで、って言っても何一つ接続しちゃあいないだろう」

「? 夕飯、何が食べたい?」

「いやだ、だから……あぁ、もう良い……僕には無理そうだ」

 

 その日霖之助は、気付くと夕食の約束まで取られていた。

 

 

 

   ●

 

 

 

「あんた、最近良く来るわよね?」

 

 永遠亭での夕餉の席上、霖之助は隣に座っている優曇華に小さな声を掛けられた。

 

「気付くとここに居る事が多いよ……最近は」

「……嫌なら断りなさいよ」

「嫌ではないんだ……美味だしね。ただ、主導権が自分に無いのが……いや、なんでもない」

「ふーん……」

「美味いんだが……この味噌汁は少々、雑だね」

「……」

 

 僅かばかり目を逸らした優曇華に、霖之助は察した。

 

「君か」

「五月蝿い、さっさと食べてさっさと帰りなさい」

「それも良いんだが、この後永琳に誘われてね……」

「さ、さそ……!?」

「見て欲しい道具があるそうだ」

「あ、あぁ……そう言う事……」

 

 明らかにほっとした顔で胸を撫で下ろす優曇華に、彼は首を傾げる。

 

「……?」

「あぁもう、いいからさっさと食べてしまいなさい!」

「ふむ……まぁ、なんだ。これはこれで味わい深い味だと思うよ、この味噌汁も。この後上手くなっていくと言うのなら、今だけ味わえるものだからね」

「……覚えておきなさいよ」

 

 そして一年が過ぎて。

 

「おぅい、霖之助。居るかー?」

 

 扉を開き、男が入ってくる。霖之助はその馴染みのある声に、読んでいた本をテーブルに置き顔を上げた。

 彼にはその声に、そして目に映る姿に、馴染みがある。性別も違う、声も違う、仕草も違う。

 だがその男には、この店に良く来る普通の魔法使いと良く似た"匂い"があった。

 いや、厳密には

 

「お久しぶりです、親父さん」

「あぁ、ここもお前も、相も変わらずで、嬉しいやら悲しいやらだ」

 

 あの少女がこの男に似ているのだ。

 人里一の道具屋大店、霧雨道具店の店主に。

 

「夏祭り?」

「あぁ、毎年恒例の夏祭りなんだが……ちとうちでやる出店の、手が足りなくてな」

「なるほど、僕に手伝えと」

「裏方でな」

「……不肖の弟子で申し訳ない。親父さん」

「まったくだ」

 

 常通りの薄暗い香霖堂で、霖之助は師にあたる男と、お茶を飲みながらそんな話をした。

 

「しかし……僕を呼ぶほどに人が足りませんか?」

「足りないんだよ。なんと言っても、若い従業員達は良い人と一緒に回るって言うし、他の独立した連中はお前、今回に限っては自分の店で忙しいから呼べもしない」

 

 幻想郷には、こういった祭りの際に出張ってくる的屋、つまりはその手の筋の人間が居ない。

 ヤクザな人間が幅を利かせる前に、神と妖怪が実在する土地である。自然の猛威の力が神威宿る形となって語り座す世界で、いったい彼らが土地の人間達の何を守れると言うのか。

 そんな理由で、彼らが居ない。だから祭りの際は、大店や大きな庄屋が店を出す。

 

「なるほど……で、裏方と言っても、僕は何をすれば?」

「あぁ、それなんだがな」

 

 霧雨店主は霖之助に任せたい仕事の内容を語り、その程度ならば、と霖之助は頷いた。

 本当は騒がしい世界に関わりたくない彼だが、そこは恩のある人間の頼みである。断る事など出来る筈がなかった。

 

 一年と二ヶ月ほど前、霖之助は霧雨店主との縁によって、とある女性達と関わりを持った。

 そして今回も、そうなった。

 

 時は進んでいく。

 歩く早さで。

 その中で、心を持った命達は共に進んでいく。走る早さで。

 

 

 

   ●

 

 

 

 夏祭りは盛況であった。

 霖之助自身は喧騒に身を置くことに少々の拒絶が出るが為、それが例年と比べどうなのかと言う事が分からなかったが、少なくとも彼が見て歩いた限りでは、大層な賑わいだった。普段が普段だけに、思わず彼が一歩引いてしまう程に。

 故に彼は、その喧騒の波音を打ち出す人の波の流れに逆らい、行くべき道を帰ろうとしていた。

 多少の違いはあれども、皆一方に進む波の中で、一人、しかも人の常ならざぬ色素で外観を彩られた男がそんな事をすれば、いやでも目立つ。

 だから彼は、声を掛けられた。

 

「あら、霖之助?」

「あ、森の日陰半端者」

 

 永琳と優曇華と、

 

「あー……最近良く家に夕餉をとりに来る……も、森……もりなんとかなんとか助」

「森永りゅんの助だわよ、姫様」

 

 輝夜とてゐである。今しがた耳にした聞きなれぬ名前に彼は首を横に振り、訂正を入れる。

 

「そんな珍奇な名前が在る物か。森近霖之助、もりちか、りんのすけ、だ」

「覚えたわ。森塚」

「森塚違う」

「お前、面倒臭いわ。もう森塚になさいよ。首塚でも良いから」

「なんで間違っておいて上から目線なんだい。しかも物騒だよ、後者」

 

 けらけらと笑う輝夜に、永琳が拳を落とした。涙目でうずくまる輝夜を無視して、永琳は霖之助に、にこりと笑いながら話を続けた。

 

「珍しいわね……貴方はこういう場所は苦手だと思っていたのだけれど?」

「あぁ、それは正しい。苦手だ」

「ふーん……苦手なのに、祭りに出てるの?」

 

 てゐの言葉に、永琳は目を細めて辺りを見回す。特に念入りに、彼の傍を過ぎる女性達を見定めながら、口を開く。

 

「と、言う事は……誰かに呼ばれたのかしら? 良い人?」

 

 冷たい声である。優曇華はその永琳の余りに冷たい声に、夜とは言えまだまだ夏の盛りだと言うのに身を震わせた。

 霖之助は特に何も感じず、いつも通りの様子で応じる。

 

「そんな人が居るなら永琳、僕は夕餉の誘いに応じちゃあいないよ」

 

 友人の家とは言え、女性だけの場所に行くのは不義に当たるからね。霖之助はそんな事を言って、腕を組みながら肩を竦めた。

 

「……そう」

 

 効きに過ぎたる冷房から開放されて、優曇華は息を吐いた。

 何故にそんな事で永琳が人間冷房扇風機(極強)になったのか、彼女は釈然としなかったが、開放されたことは喜ばしい。優曇華は手に持っていたりんご飴を舐めながら、そんな事を思ったのである。

 未熟である。乙女として。

 

「先程まで、親父さん……道具屋の師匠の出店の手伝いをしていてね。今はそれも終わったから、帰りの途中と言うわけさ」

「なるほど……」

 

 その言葉に頷く永琳。

 

 さて、うずくまっていた輝夜。彼女はすっと立ち上がると、優曇華とてゐに目配せをした。

 

 ――あとは若い者達に任せるわよ。

 ――いや姫、お師匠様若くない。幻想郷でぶっちぎり一番くらいに若くない。

 

 目で会話する二人の中で、優曇華は何もわからず首を傾げるだけ。

 

 ――隊長、鈴仙准尉が作戦の趣旨に気付けてません!

 ――仕方ない……殿にしてしまいなさい! 撤退よ! 金ヶ崎撤退並にざっぱり退くわよ!

 ――大将だけ真っ先に離脱って意味ですね! らじゃー!

 

 激しくなっていく目配せの中で、ますます分からない優曇華はきょとんとし、そして

 

「永琳、私達ちょっと戻って煙玉買って食べてくるわ」

「お師匠様、私もそれ買ってもぐもぐしてくる」

 

 置いていかれた。

 輝夜とてゐは、朝倉攻めの際、同盟関係にあった筈の浅井から背面を突かれた際に見せた信長並の速さで彼女達は去っていく。ちなみに、件の戦場で信長は自身を優先して逃げたのである。

 この状況、まさしくそれに該当するだろう。

 優曇華的には、てゐは自身の配下な訳だが。あと、どうでも良いことだが煙玉は食べ物ではない。決して食べ物ではない。

 

 さて……この場合、優曇華には少々の不幸があった。

 輝夜とてゐから少しばかり距離があったこと、目配せの意味が分からなかった事、永琳と霖之助のあやふやな関係に確信を抱いて……いや、抱こうとしなかった事。そして残された優曇華には、それら含めて諸々の不幸が舞い降りてしまった。

 

「……元気だね、君の所のあの子達は」

「本当にね……あんなに走ったんじゃ、はぐれてしまうでしょうに。そうそう、霖之助。良かったら少し一緒に歩いてみない? 嫌なら……別に良いのだけれど」

 

 良いのだけれど、等と言いながら、その縋りつくような目は口よりも遥かに雄弁だ。

 しかも確りとちょっと涙目で上目遣いだ。夜と言う視界の狭まる中に在っても、夜用のしっとりしたしっかり魅せる化粧でばっちりでがっちりだ。

 重武装である。女性の武器満載の重武装である。

 

 で、あるから、霖之助は悩んだ。彼自身の素直な意見としては、すぐに帰りたい。

 だが、この祭りの出店を手伝ってくれと言って来た霧雨店主同様、彼女もまた彼の恩人である。

 寄りかかり甘え、存在として落ちようとした時、彼女はそれを叱り助けた。

 そして最近では完全に餌付けされているところである。本来食事に然したる理由ももたぬ霖之助だが、それが美味な食事となれば理由は在る。美味いものは、食べたいのだ。

 彼は趣味人である。趣味の一環として、美食への欲望もあるのだ。だから彼は悩み、小さく唸り、首を大きく捻り……大きく息を吐き。

 

 ――星の巡り会わせだろうな……どうにもならない。

 

 諦めた。

 

「あぁ、僕でよければ付き合おう……けれども、良いのかな?」

 

 彼は永琳、それと永琳の横に居る優曇華の顔を見て呟いた。

 

「私から誘ったのだから、当然良いわよ?」

 

 即応答する永琳と

 

「……まぁ、別に、師匠が良いなら……別に、別に……べつにぃー……?」

 

 恨みつらつら、といった感じで応える優曇華。

 二人の温度差に苦笑を浮かべ、霖之助は、さて、と呟いた。

 

「歩くのは良いが……どこへ行くんだい?」

「祭りなんて当て所なく歩くものよ? というわけで……はい」

「……なんだい、この手は?」

 

 永琳が霖之助に差し伸べた手のひらに、彼は何事かと返す。

 

「はぐれてしまうでしょう? だから、手」

「なるほど、繋げ……と」

「却下!」

 

 笑顔で話す永琳と、疲れた顔で呟く霖之助の間に割って入り、優曇華が手を振り回す。敬愛する師匠の手を男が、霖之助が取るなど彼女には許され無い事だ。それが例え、彼の持つ――

 

 ――駄目でしょ! いやもう駄目でしょほんとに!

 

 優しい冷たさを持つ手のひらだとしても。

 彼女には許容出来かねる事だった。

 嫌だった。永琳と霖之助が、そんな風にするのは絶対に嫌だった。

 

 何やら本気で駄目だ、と目で語ってしまっている可愛い弟子の奇行に、永琳は頬に手を当ててどうしようかと考えて――

 

「じゃあ、こうしましょうか」

「……へ?」

 

 優曇華の手にあったりんご飴を取って、開いた手のひらを握った。

 

「霖之助は、そっち」

「……恨むなら、君の師匠を恨んでくれ」

 

 諦めた顔で、霖之助は永琳の言葉に従う。それが今、彼にとって一番疲れない結果だからだ。

「へ……?」

 

 茫然としたのは、優曇華だった。彼女は中央。左に永琳、右に霖之助。

 左手には優しい冷たさ。右手にも優しい冷たさ。

 

「じゃあ、行きましょうか」

「あぁもう、好きにしてくれ」

「……え、えぇえええええええええええええええええええええ!?」

 

 休日の家族、とでも言うべきそんな姿で、彼らは人波へと埋もれていった。

 

「……イナバ、南無」

「鈴仙、南無」

 

 離れたところで眺めていた輝夜とてゐは、そんな三人に手を合わせていた。一方的とは言え、甘ったるい空気のど真ん中に置かれてしまった優曇華の、この先の苦難を思って。

 

 

 

   ●

 

 

 

 ぱっと見、三人家族の子供位置に置かれてしまった優曇華は、暫らく自失の中でふわふわと漂っていたが、祭りの喧騒と熱気に当てられ徐々に自我を取り戻していった。

 

「し、師匠!? なんですかこれ!? なんか新手の呪いとか虐めですかこれ!? しゅ、羞恥プレイとかそんなですか!?」

「大人の遊びだと貴方は言うのね?」

「凄い冷静に返されてる、私!!」

「今の君達は、足して割ったら丁度良さそうだ」

「あんたを真っ二つに割って上げましょうか!」

「怖い医者の卵も居たもんだよ。先生、弟子のこの言葉、どう思うね?」

「優曇華……何か悩みでもあるの?」

「今この現状に悩みがあります師匠!」

 

 実に騒がしい連中である。だが今は夏祭り。彼ら、彼女らのこの狂態も、埋もれるて喧騒になる物でしかない。

 

「あぁ……喉、渇いた……」

 

 一人叫び続けた代償で、優曇華は項垂れる。と、頬に冷たい物を感じた。

 

「さっき、そこで買ったお茶だよ。良ければ飲むと良い」

「……何、嫌がらせ?」

 

 両手をそれぞれに取られた優曇華は、それを差し出されても手を伸ばして持つ事が出来ない。

 

「あぁ、そうだったね」

 

 霖之助は紙コップを優曇華の口元に運び、促した。

 飲め、と。

 

「……いや、まぁ……良いけど」

 

 喉の渇きからか、それとも両の手の平から伝わる冷たさが素直にさせたのか。結局彼女は、手を離すと言う簡単な事もせず、そのままそれを飲んだ。それを飲み終え、彼女はふと思う。

 

 ――あれ? おや? あのお茶はあいつが買った物で、と言う事は、これ、もしかして……

 

 頬を朱に染め、眉を顰め、次いで口をへの字に曲げて、そのまま目を見開いていく百面相実行中の優曇華の眼前に、またも何かが差し出される。

 見るとそれは、チョコバナナだった。

 

「食べる?」

 

 差し出しているのは永琳。差し出されているのは甘い物。さて、拒む理由などあるだろうか。

 

 ――ない。

 

 優曇華は瞬時に頷き。

 

「はい、あーん」

 

 何やらこれ以上も無い笑みで頬を緩める永琳のその声に、素直に、あーんした。

 完全に三人家族子供ポジションである。場所も、行動も。

 

「おぅい、霖之助。なんだお前、不貞腐れて帰ったん……じゃ…………」

 

 その三人に声を掛ける者が居た。

 霖之助が聞きなれた声に振り返ると、その声同様見慣れた、というか先程まで一緒に居た人物がそこに居た。なんともいえない、困ったような、笑いかけのような、そんな表情を浮かべて。

 

「……お邪魔……だったか?」

「いや、ある意味助かります。ある意味では見られたくも無かった訳ですが」

「そうか……いや、そうだよなぁ……」

 

 霧雨道具店店主、魔理沙の父親、霖之助の師匠、霧雨の親父さんである。彼は一年ほど前まではよく顔を見せていた二人、永琳と優曇華に会釈し、二人も会釈を返す。

 そして言葉を続けた。

 

「いや、散々弄ってやったから、もう帰ったと思ってたんだが……」

「えぇ、人が悠々と裏で蛸を捌いて、玉子と小麦粉をとかしていたのに、いきなり店番やれとか言う人に散々使われましたんで」

「人が汗水流してるのに、余裕って顔したお前が気に食わなかった」

「そういうところ、本当に魔理沙そっくりですよ、親父さん」

「そりゃ順番が逆だ」

「あぁそうでしたね。それで、今霧雨たこ焼き店は誰が見て?」

「おう、兵衛が逢引の途中で寄って来たから、無理矢理詰め込んでおいた。今頃ひーひー言ってる頃だろうなぁ……」

「頃だろうなぁ……じゃあないよ、親父さん」

「安心しろ、付き合ってる女も一緒に放り込んで置いたから、あれはあれで経験になるぞ、多分」「なんて師匠だ」

 

 ぽんぽんと応酬する言葉の殴り合いに、永琳と優曇華は目を見開いた。なるほど、二人は確かに霖之助との付き合いも、一年程度とは言え深い物になった。

 が、ここまで楽しそうな霖之助の、外見年齢相応の顔というのを見た事は、余り無い。無い筈なのに、今そこにある。

 だから二人は、驚いた。

 

「人が真面目に接客してると言うのに、後ろからじっと見ている人が居るし」

「お前の接客は、放っておくとすぐぼろが出るからなぁ……不安なんだよ、こっちも」

「免許皆伝で、僕はちゃんと独立させてもらった筈ですがね」

「ありゃあお前、お情け、おまけの皆伝だろ。弟子のお前が下手うったら、俺の監督能力不足になっちまうし」

「……」

「待て霖之助、なんだその、にたぁ、とした笑いは。なんだお前、わざとやらかすつもりか? そうなのか?」

「いいえ? まさか? そんな筈が?」

「お前もう一回店に来い。一から叩きなおしてやる」

「お断りだ」

 

 数秒ほどにらみ合い、霧雨店主と霖之助は同時に、これ見よがしに額に手をあて息を吐いた。だが、その顔は変わらず楽しげだ。

 

「まぁ……あんまり邪魔したら怖そうだから、俺は行くよ……お二人さん、霖之助をどうぞよろしく」

「えぇ、任されました」

「あの……えーっと……はぁ」

「いや、君達ね」

 

 それぞれがそれぞれに返事をし、それを聞いてから霧雨店主は去っていく。三人はそれを見送ってから、また歩き出した。

 

 そして、霧雨店主は立ち止まって振り返り、今はもう辛うじて見える霖之助と永琳の背を見た。

 優曇華はもう完全に人の波の中に埋もれてしまっている。永琳が微笑み、霖之助が困った顔で頭を振っている。

 多分見えない優曇華も、今なにがしかやっているのだろう。そんな事が、彼には容易に想像できた。彼自身、多少の違いはあれども、昔通った道だからだ。

 

「……なるほどなぁ」

 

 彼は小さく呟いた。違和感が無い。

 かつて彼が感じた、言葉に出来ない違和感が永琳には無い。

 あの不気味な違和感が。 友人の葬式で見た時より、一層、完璧に無い。

 

 そう、だから。

 

「あぁ、なるほどなぁ……」

 

 彼はもう一度、同じ言葉を呟いた。

 祭りが終わって帰ったら、この事を妻に話してやろうか、なんて思いながら。それ用の服を、新しく下ろしておくか、とも思いながら。

 

 結果として、新しく用意したそれは無駄にならなかった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 多くの吊り提灯に照らされた広場で、青年は隣に居る女性と話しをしていた。

 二人。今はただ、霖之助と永琳しか居ない。

 

「彼女は、どこまで飲み物を買いにいったんだろうな……」

「多分、良い物を探してるんじゃないかしら」

「……彼女の目利きで、かい?」

「食べ物なら、少々はマシな……筈よ?」

 

 珍しく、自信なさ気に見える顔で永琳は応える。

 

「じゃあ、その良い物を待つとするか……」

 

 霖之助は長椅子に腰を掛け、隣を軽く払う。そこへ、永琳が腰を掛ける。

 

「貴方、そんな事もするのねぇ……」

「一応の礼儀なんだろう? まぁ、僕には余り縁のない礼儀だけどね」

 

 苦笑を浮かべる霖之助に、永琳は笑顔を見せた。

 そしてそのまま、顔を上に上げる。なんとはなく、霖之助はその顔を眺め……その顔が光に照らされたのを見て、彼もまた同じ様に空を見上げる。手を腰の後ろ辺りにおいて、寛いだ姿勢で。

 

 雷が落ちたような、そんな炸裂音。続き、夜空に咲き誇る大輪の花、花、花。

 それが何度も続き、周囲に居た皆が声を上げた。歓声、そして恒例のあの声。

 大輪、大音、大声。それらが交じり合って、興奮は、感動は広がっていく。

 

「あぁ……始まったね」

「えぇ、祭りと言えば、これよね」

 

 轟音と共に産声をあげ、短く、一瞬だけを奔り、人にその美しさを刻み込んで火の粉は散り溶けていく。花火は続き、人は声を上げ、霖之助と永琳は無言のまま、光と音の中で二人静かにそれを眺めていた。

 

 やがて音は消え、夜はただの黒に戻る。

 そこにもう、花が咲く事はない。来年まで。

 先程まで居た老若男女達は広場から一人去り、二人去り……それは連鎖し多くの影はまた違う場所に喧騒をばら撒いていく。

 やがて、あれほど人の居た広場に二人だけが残った。

 人の熱気も喧騒も、もうそこには無い。二人で先程の人数分の熱を生み出せる筈も無いのだから、今広場に漂う静寂は必然の物だった。霖之助は、息を吐くように呟く。

 

「寂しいね」

「そうね」

 

 霖之助は、もう何も無い夜空を見上げたまま続ける。

 

「陳腐だろうが、祭りが続けば良いと……昔、思った事があったんだ」

「……貴方は、騒がしいのは好きじゃないんじゃなくて?」

「そんな僕でも、だ。どんな喧騒も、一度身を置けば……そうだな、愛着がわくんだろうね。

魔理沙や霊夢の騒がしさも、まぁ気にはなるけど……結局受け入れてしまったよ。君の所の、鈴仙なんかもね」

「あら、酷い」

 

 二人は笑い、そのまま、また沈黙が舞い降りる。

 無理にはしゃぐ必要の無い二人は、そこでただ無言のままあり続ける。

 

 ――このまま、夜が明けるまでこうしているのも悪くない。

 

 そんな事にはならないだろうが、霖之助はそう思った。

 だが、それは霖之助だけの想いだ。永琳は、違う。

 彼女の想いは違う。それだけでは、足りないのだ。ただ夜を共に過ごす、程度では全く足りていないのだ。

 

 夜の風が吹き、霖之助の――そして、永琳の背を押した。だから、彼女は動いた。

 折り紙で鶴を折るように、繊細な指使いで、彼女は霖之助の手の平を取った。

 

「……? 永り――」

 

 霖之助の言葉は、塞がれた。

 永琳の唇で。

 静寂。沈黙。

 瞬く星の下、森閑とした世界で二人は僅かばかり重なり合い。

 やがて、離れた。

 

「……」

 

 霖之助に、言葉は無い。

 彼は今しがた触れた唇の感触さえも理解できず、目を見開いて眼前の永琳を凝視する事しか出来なかった。

 

「ねぇ、霖之助」

 

 だというのに、永琳は明らかに冷静さを欠いた霖之助を見つめたまま、優しく微笑み、常のまま口を開くのだ。霖之助から、平静を奪った張本人だと言うのに。

 

「私は、子供が産めないわ……」

 

 なんら関係ない話を、彼女は口から紡いでいく。だから霖之助は、ますます混乱した。

 

「ま、待ってくれ、僕にはさっぱり――」

「そんな女が、貴方を欲しいなんて言ったら……貴方は、迷惑?」

 

 繋がっていた。少なくとも、その話は永琳の中では繋がっていた。

 

「――……」

 

 いきなりだ。いきなり唇を唇でふさがれ、いきなり二重の告白をされた。

 彼はこれ以上ないほどに混乱した頭で、ただ無言のままある事しか出来ない。

 

「……そう」

 

 その無言を、永琳は答えだろうと取った。

 

「ごめんなさいね」

 

 目は背けられ、その顔に浮かんでいた微笑は消えた。

 そして彼は気付く。永琳の肩の小さな揺れと、今離されようとしている手の平の震えに。

 瞳に溜まった、小さな輝きに。それが、紅く染まった頬に伝うまでに、

 

「……違う」

 

 彼は永琳の顔を微笑みの色に戻さなければならない。それは義務からではない。それは良心からではない。それは、

 

「違うんだ、永琳」

 

 彼の手の平を包む、その冷たい温もりが霖之助の胸を打つからだ。

 時は無限ではない。

 どれほど永くをいき様とも、今日が、この時がまた在ると言う訳ではない。それを彼は知った。友に教えられた。今繋がっている、その冷たい手の平に、教えられたのだ。

 離されようとした手の平を彼は強く握り締め、彼は冷たさを逃げないようにそこに留めた。二度とない、今この時を失わない為に。

 

「僕は……その、こういう事に、不慣れだ」

 

 彼は混乱したままの頭で喋る。だからこそ、その言葉には霖之助自身の素直な、偽りのない色があった。

 

「だから……まずはその、前提に……と言う訳には……いかないだろうか?」

 

 永琳は霖之助の普段ない強引な行為と、その言葉に驚き俯いた。

 

「……それは、また……友人から始めて……恋仲になるのを、前提に……と、言うこと?」

 

 弱々しい言葉に、霖之助は頭を横に振る。

 

「ここから、また始めて……結婚を……前提に、と言うのが、その……僕の希望でも、ある」

 

 返事は、無い。幾ら待っても、彼女の返事は無い。

 

 ――やはり、不満――か。

 

 自身の煮え切らない態度に、彼自身が苛立った。そして、何か言葉を掛けようとして、彼はようやっと気付いた。

 

 永琳の肩が震え、小さな声が零れている。静謐な夜の中で、清浄な音が響き、彼は知った。

 永琳が、泣いている事を。

 

「あ……貴方が……そんな人、で……良かった……私……わた、し――」

 

 貴方を好きになれて、良かった。小さな、たったそれだけの、喉を震わせた呟き。

 両者が幸せを感じた。

 

 女であっても、女になれない女が、女の幸せに触れて涙を零す。

 どれだけ強く目を瞑っても、どれだけ強く目を抑えても、頬を伝い零れ落ちる涙を流しながら。

 霖之助はそんな事に、どうしようもないほどに幸福を感じた。彼は強く握り締めていた永琳の手を、優しく包みなおす。

 

「参ったな……君が、愛おしくてしょうがない」

 

 彼女は泣いたまま、何も応えず、ただ小さく頷くだけだった。

 

 

 

   ●

   

   

  

「師匠ー! すいません、出店の店員さんに言い寄られて遅れ――」

 

 優曇華が両手にコップを二つ持って走りよって来た。だが、彼女はその途中で気付いた。

 

 ――違う。

 

 そう、違う。

 永琳の顔が、空気が、違う。

 月明かりと提灯の明かりだけでもそれは分かった。

 目元が腫れている。頬が朱に染まっている。そして、何かが決定的に違う。

 彼女は永琳に慌てて走りより、そして霖之助を睨んだ。

 

「あんた、私が居ない間に師匠に何をしたのよ!!」

 

 肩を怒らせ、怒鳴る。

 霖之助は何も応えず、如何した物かという顔で優曇華を眺めるだけだった。

 それが優曇華の癪に触る。もう一度、彼女は怒鳴ろうとして、冷たい手の平に止められた。

 肩に、永琳の手が置かれている。優曇華は振り返り、永琳を見た。

 

「違うのよ」

「で、でも……! こいつが何かしたのは、分かりきった事じゃないですか!」

 

 ――分かりきった事なのか。何かしたのは、分かりきった事なのか。

 

 悪し様に断言された霖之助は、流石に気落ちした。そこまで酷い目で見られていたのかと。

 

 永琳は首を横に振り、霖之助に目配せする。

 話しても良いか、と。霖之助はうなじ辺りを掻き、目を泳がせた。

 

 そのなんとも言えない空気の中、優曇華は憤懣に身を任せたまま事の成り行きを見守っていた。

 事と次第によっては手と足が音速で飛ぶぞ、などと胸中で叫びながら。

 時間にして約一分、長いような短いような微妙な時間をかけて、霖之助は苦虫を噛み潰したような顔をして、頷いた。好きにしてくれ、と。

 

 永琳は、そんな彼に嬉しそうに頷き返し、優曇華の目を真っ直ぐ見た。

 

 ――……

 

 嫌な予感がした。二人のそんな姿にも、また、そんな嬉しそうな笑顔にも。

 明らかに、泣いた後だと言うのに、同性でさえ見惚れてしまうそんな笑顔を浮かべる目の前の女を、優曇華は初めて嫌だと思った。敬愛する、師匠の笑顔だと言うのに。

 

「鈴仙、私達ね――」

 

 その幸せに彩られた音色を、彼女は聞いた。

 数秒。

 恐らく、先程の霖之助と同じ程度の時間を無言のまま、無表情のままで過ごし。彼女は耳に届いた音の意味を理解して、大声を上げた。

 

「け、け、結婚ー!?」

「いや、それを前提に、と言う話であって、今すぐどうこうという話じゃあ……」

「……」

「永琳、そんな無言で睨まれても……」

 

 騒がしい連中だった。

 

「ど、どどどどどどど、どうして!? なんで!? えぇ、本当に!?」

 

 混乱を極めた優曇華の姿に、まだまだ僕も混乱振りが甘いと見える、等と呟きながら霖之助は言葉を紡いだ。

 

「まぁ……何と言うか。そもそも、そうなる様な、ならない様な、なんと言うか、気配は前からあった訳でだね?」

「貴方もまだ混乱から抜け切れてないわね……」

 

 霖之助のはっきりしない言葉に、優曇華はこめかみに両手の人差し指を突き立てて記憶を再生する。

 

 完全武装の永琳、良く霖之助の店へ行く永琳、夕餉に霖之助を呼ぶ永琳、自身が作った物を美味そうに食べる霖之助を嬉しそうに眺める永琳。

 帰ろうとする霖之助を、道具の鑑定やら仕事の相談などで引き止めていた永琳。

 微笑む永琳、苦笑いの霖之助。優曇華にとって苦くも、永琳が穏やかに笑う、温かい、その日常。

 ここ一年、正確には一年と二ヶ月と少し。毎日とは言えないが、"ほぼ"毎日と言えるその繰り返し。

 

「あ、あぁ………………なる……ほど」

 

 彼女は頷いた。そうなる気配は、あったのだ。

 優曇華は一瞬だけ霖之助を睨みつけ、そして言葉にしなければならない事を口にした。

 

「……えっと、おめでとう……ございます?」

「えぇ、有難う、鈴仙」

「……いや、最後疑問符が付いていなかったかな?」

「五月蝿い……っと、えっと、じゃあ、その、私先に戻りますから……」

 

 先を霖之助に、後を永琳に。

 彼女は二人に自身の基準のうちで相応な返事を返し、二人の言葉を待たずに走っていく。

 彼女は今、ここに居るべきではないからだ。それ以上に、居たくないからだ。

 

 その居たくないという理由も分からぬまま、彼女は走り、走り、走り。

 目の前には、自身の部屋と廊下を隔てる襖があった。彼女はここまで、立ち止まることなくただ走り続けた。息を切らし、喘ぎながら、優曇華は部屋に入って襖を強く締める。

 真っ暗だ。

 この部屋も、永遠亭その物も。未だ誰も帰ってきていないのだろう。

 地上兎達はどこかに居るのだろうが、そんな事を優曇華は気にしなかった。少なくとも、今この部屋には彼女のしか居ない。それだけで、十分だった。落ち着く為には、十分だった。

 

 胸を撫で、乱れ打つ鼓動が落ち着くのを待つ。

 しかし、その鼓動は彼女同様、落ち着かない。いつまで待っても落ち着く事がない。

 分かりきった話だ。彼女が落ち着かない以上は、鼓動もその音をかき鳴らす事を止めはしないだろう。

 それでも、それが彼女には分からなかった。自身の体が思い通りにならない事に苛立った彼女は、強く拳を振り上げて壁を一つ叩いた。

 強く。

 けれども、胸は鳴り止まない。

 叩いた。

 鳴り止まない。

 叩いた。

 鳴り止まない。

 壁を、叩き、叩き、叩き、叩き叩き叩き叩き叩き叩き。

 皮が破れ、血が滲み出ても叩き続け。

 ゆっくりと、臥した。

 崩れ落ちるように。

 そのまま、優曇華は血の滲み出た拳を無視して、顔を上に向ける。そこには見慣れた天井しかない。

 

 だが、それが彼女を落ち着かせた。

 普段はなんの意味も持たない天井が、彼女の胸を平静の物へと戻したのだ。そして、彼女は呟いた。

 

「……天井、おかしい」

 

 だから彼女は、目線を下げて周囲を見回して、花瓶を眺めた。じっと眺め、見つめ、また呟く。

 

「……そっか、師匠……結婚、するんだ」

 

 永琳、そして霖之助。二人が選んでくれたという花瓶を眺めていた彼女は、音も無く立ち上がり、それに近づいていく。

 

「……壁も、天井も、布団も、箪笥も、棚も……花瓶も、おかしいよ……」

 

 小さく囁きながら、彼女は歩く。やがて花瓶の前まで来た彼女は、それに手を置いた。

 冷たい。

 陶器なのだから、冷たいのは当然だ。それでも、彼女には許容出来ない事だった。

 普段は、暇な時に撫でて冷たさを楽しむ陶器だと言うのに、それが許せなかった。優曇華は乱暴にそれを持ち上げる。水は飛び散り、活けられていた花は畳の上にうち捨てられる。

 

 そのまま、花瓶を壁に叩き付けようとして、彼女は叫んだ。

 

「なんで――ッ!」

 

 振りかぶり、それを投げ捨てようとして

 

「なんで! どうして!! なんで歪んでるのよッ!!!」

 

 叶わず、立ち尽くした。目に映る全ては歪み、目の奥が熱い。

 頬に伝う何かが熱過ぎて、胸の中で猛る何かが痛すぎて、肩に寄りかかる何かが悲しすぎて、彼女は叫ぶ。

 

「――それだけの事でしょう! 師匠とあの人が、ただ一緒になるだけでしょ!!」

 

 先は見えている。あの二人だ。

 それを前提に付き合うというのなら、そうなるだろう。

 二人は、結婚するだろう。たったそれだけの事だ。ただその事実がもう見えているだけだ。

 

 彼女は関係ない。

 師匠が人の妻になろうと、彼女と永琳の関係に大きな変化がある訳ではない。その筈なのに。

「なんで……こんなに痛いのよ……辛いのよ……ッ!!」

 

 花瓶を畳の上に投げ捨て、胸を掻き抱き、優曇華は小さく叫ぶ。悲しくて、寂しくて、胸は錆びた音を立てて優曇華を苦しめる。

 

 彼女は、悲しかった。

 だから、求める。

 安らぎをくれる冷たい手の平を。

 その持ち主を、存在を。

 けれど、今その存在は傍に居ない。

 

 "もう居ない。"

 

 だから、彼女は、せめてと思い。

 最後にその人が触れた手の平を自身の頬に当てた。

 何も考えず、ただその為にと。

 

 それが、魔女の指差した先だった。

 

 右手。

 その、頬。

 冷たい、手の平。

 銀と、青と、黒の、誰か。

 

「……なに……よ……それ」

 

 せめてと思った手は、彼女の右手。夏祭り、右に居た存在の冷たさ。

 せめてと思った場所は、彼女の頬。あの雨の日、触れた冷たさ。

 心の奥には、誰かの顔。誰かの声。

 

『求める者が支払うのがこの世の鉄則だよ、鈴仙。払わなければ、欲しい物を得る事なんて出来やしないんだ。だろう?』

 

 その通りだ。本当に、その通りだ。

 

「わたし……わた――し――」

 

 恋だった。

 それは多分、彼女の恋だった。

 時間があれば良かった。彼女に、もっと緩やかに過ぎる時間があれば良かった。

 そうすれば、その恋は何物にも邪魔されず、あるがまま芽吹く事が、咲き誇る事ができただろう。

 だが、もうその時間が無い。先は無い。どこにも。

 時間は、限られている。どんな存在にも、等しく、優しく、冷たく。

 時間はただ、進むだけなのだ。立ち止まった者を置き去りにして。

 

「そん、な……でも、だって――」

 

 俯き、目を見開いて、彼女は渇いた声で呟く。

 

「だって、だって――」

 

 うずくまり、彼女は血の滲んだ、しかし冷たい優しさのあったその手の平を抱きしめて。

 強く、強く抱きしめて。

 

「――――――――」

 

 叫んだ。

 声も無い声で、叫んだ。

 

 気付いたときには、終わっていた。

 彼女は今、心の底から生まれ出でた恋を、自身の手で消さなければならない。今ここで生れ落ちた、産声を上げた幼い恋心を、殺さなければならない。

 自身ではない、二人の幸せの為に。それは余りに残酷な間引きだった。それは余りに滑稽な幕引きだった。

 

 せめて。せめてその恋に、救いを求めるとするならば。

 

 これ以上の底が無い事だけが、救いだった。

 そんな事だけが、救いだった。

 

 

 

 

   ――続

 

 

 

 

 不幸な、絆も持たない魔女が、指をさす。

 糸を断ち切る鋏を左手に持って、右手の指で人を指す。

 幸せの数は決まっていて、魔女は不幸になるしかないから。

 だから指をさす。

 さされた誰かが不幸になれば、魔女より不幸になれば。

 

 ほら、だって。

 

 魔女はその分幸せになれるから。

 その鋏で糸を切れば。

 

 ほら、だって。

 

 魔女はその時絆と交われるから。

 狭い世界で、それは回る。   

 多分、永遠に。

 からからと。


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