香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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『紅い糸を繰る』 メイン:霖之助 永琳 優曇華
前編


「……ない、と?」

「えぇ、申し訳ありません。これ以上の物は、うちでも……」

 

 人里一番の道具屋、霧雨道具店の店主はそう言いながら、壊れた顕微鏡を持った目の前の女に頭を下げていた。

 女は底を見せないぼんやりとした目で、少し困った顔を浮かべ、自身の頬に人差し指を当て首を傾げる。

 霧雨道具店店主、霧雨何某は眼前に佇む、ここ最近よく顔を見せるようになった美しい女性の、妙齢らしからぬ幼い仕草に一切の違和感が無い事に奇妙さを覚えた。と、同時に、もう一つの妙な違和感にも囚われた。

 目の前の女性は、女である。当たり前の事だが、言うまでも、確認するまでも無い事なのだが、どうにもそれが噛み合わない。今まで何度も顔を合わせているし、会話とて何度も交わしている。

 それでも今日、突如そんな不透明な不安に体を取られた。何故か、何故今なのか、と聞かれても彼には応えられない。燦々と降り注ぐ太陽の光の下に在りながら、どこにも影が無いような、或いは、影が幾百も重なり在って、影であって影ではない黒い何かを足元に置いているような、そんな妙な違和感が目の前の女性には纏わり着いている。

 

 勿論彼は里一番の道具屋の主、一廉の人物である。顔には出さない。

 

「ここにも無いとなると、もう絶望的……と言うことなのかしら」

「界隈の人間には悪いでしょうが、そうであるか……と……」

 

 その仕草、その困った顔のまま呟く女性に、店主は言葉を舌にのせたが、それは途中で途絶えた。それまで、どこを見ているのか判然とさせなかったぼんやりとしていた目に、少しばかりの煌めきを宿し、女は視線で続きを促す。

 

「あぁ、いえ……随分前に独立した自分の弟子の一人に、少し変わった者がおりまして。もしかしたら、あいつなら……」

「あいつなら?」

「直すか、同じ位の物なら持っているかも知れません。持っていたとしても、蔵から出すかどうかは、分かりませんが」

 

 それまでの接客用の顔を崩し、地の見えるしかめっ面で、けれでもどこか楽しげに口を動かす店主を見ながら、女は頬から指を離し笑みを浮かべた。

 

「手のかかるお弟子さんでしたか?」

「えぇ、そりゃあもう。あいつと来たら――」

 

 店主は、一つ語れば二つ語り、三つ語れば四つほども語り、ぽんぽんと淀みなく舌を回した。やがて六つも語った頃か、店主は慌てて頭を下げる。

 

「あぁいや、こりゃあ、すいません。どうにもあいつって男は、ここに居なくても私を崩してしまう」

「いえ、楽しい話でしたよ」

 

 内心ではそれほど楽しい話だとは思わなかったが、女はぺこぺこと頭を下げる店主に、社交辞令としてそう返した。そして、今一番必要とする情報を女――八意永琳は求める。

 

「それで……その困ったお弟子さんの道具屋は、どこに?」

 

 霧雨道具店店主は、後にその困った弟子とこんな会話をしている。

 

「俺はお前の世話をしてばかりだなぁ。おっと、世話してばかり、だった、が正しいか?」

「僕は別に、今も昔も、それほど世話されちゃあいませんよ、親父さん」

 

 憮然としたかつての弟子に、霧雨何某は呵々と笑った。

 

 

 

 

   《赤い糸を繰る》

 

 

 

 

「ふむ……こんな物かな」

 

 薄暗い室内で、男が呟いた。

 右手には精密ドライバー、左手には少しばかり汚れた布。そして机には工具が一通り置かれている。

 ここは男の城、森の入り口に建てられた古道具屋、香霖堂である。ただし、今男――店主森近霖之助が篭っている部屋は、一日の殆どを過ごしている店内スペースではなく、道具を調整、製作する際に使用する、工房を兼ねた私室だった。

 

 霖之助は右手の精密ドライバーを机に置き、次いで眼鏡も外し同じ様に机に置く。

 それから拳を作って、肩を二度、三度叩いた。

 

「終わりましたか?」

 

 一仕事終え、肩から力を抜いた霖之助の背後に、声が掛かる。突如掛けられた声に彼は驚き、驚いたが何事も無い様を装って、ゆっくりと振り返った。

 

「……」

 

 そのまま喋れば、どうにも落ち着かない言葉が勝手に転がり出ると感じた霖之助は、少しばかりの唾液を嚥下してから口を開く。

 

 霖之助の尖り過ぎた、攻性に過ぎる視線の先に居たのは、美しい銀髪と、見る者を不安にさせる、底の見えない笑みを浮かべた女性が一人。

 

「八意さん……いつからそこに?」

 

 誰かの入店を知らせるカウベルは鳴っておらず、気配も無く、気付けば女が背後に居る。となれば、誰であれそう聞きたくなるだろう。

 

「つい先程です」

 

 霖之助はなるほど、と一つ頷いた。目の前の女性が正解を口にするつもりが全く無い事に対して、彼は理解したのだ。勿論、口にした事が正解と言う可能性もあるが、それを正解だと思わせないだけの胡散臭さがこの八意永琳には在る。

 

 ――こんな女性との縁は、一つだけで十分なんだが……

 

 彼の脳裏に、胡散臭い隙間妖怪の姿が過ぎる。胡散臭い笑みで、胡散臭い姿で、胡散臭い匂いで、胡散臭すぎる胡散臭さで。

 

「女性を前に、違う女性を思い出すのは失礼だとは思いませんか、森近さん?」

 

 いつの間に用意された物か。永琳は来客用の湯飲みでお茶を飲みながら、笑顔のまま霖之助を軽く詰る。

 知った事かと霖之助が永琳から視線を外すと、霖之助の膝の傍に湯飲みが一つあった。湯気を燻らせるそれは先程置かれたばかりだと言う事を主張しており、霖之助はもう何事も驚くまいと決めて頭を横に振った。

 

「失礼だというのなら、八意さん、貴方はどうなんですか? 家主に断らず部屋まで上がり、かつ、勝手にお茶まで入れている。僕を礼に欠くと言うのなら、それらをやった貴方は、今どれほどに失礼なのでしょうね?」

「店と言うのは開かれたものですよ、森近さん。客が店に入る事に、許可が必要ですか? それに、お茶は善意でしょう? 私は、貴方の為に熱いお茶を入れ、そのついでに自分のお茶を用意しただけですもの。貴方が上位、私が下位、ですよ」

 

 それで終わり、とばかりに永琳は再び湯飲みへ、その艶やかな唇をつけた。なんとはなく、その仕草を見届けてから霖之助は自身に用意されたと一応言われている湯飲みを手に取り、口をつける。

 口惜しい事に、そのお茶は霖之助好みの熱さと僅かばかりの苦さだった。これで不味ければ難癖もつけられる物を、などと思いながら霖之助は目を瞑る。

 

 一方的にではあるが親しげに見える森近霖之助と八意永琳は、そうも長い時間を共有していない。出会いは、霖之助の師匠からの紹介だった。

 

 永琳が愛用する道具が壊れ、それに代わる物を彼女は探した。薬学、医学、更には専門外、多岐にわたる彼女の知識ならば道具の一つや二つ難なく直せそうな物だが、何もかもが自身だけで事足る、と言うのは生物として他者を必要としない寂しさに繋がってしまう。

 だから彼女は、過去の傷と経験則から、直す事が可能であっても、それだけの事が出来る素養が在ってもそれをしなかった。今は出来ないとしても、少しばかりの時間でそれらの技術を修める事は可能だ。悲しいことだが、彼女は寂しい生き物への片鱗を確かに有してしまっているのだから。

 

 しかし、それを自身が為す事に彼女は必要性を感じなかった。

 修理に割く時間あるならば、それを学ぶ時間があるならば、もっと有益な時間を過ごす。例えば弟子にあたる少女への指導であり、患者達への診療であり、輝夜との何気ない日常であり、てゐとの遊びであり、研究である。それらを押しのけてまで、彼女は自身の手で修理する意味を見出せなかった。故に合理的に、心情的に、餅は餅屋と言う事になったのである。

 

 紹介された香霖堂でも無理となれば、在る意味で彼女の同類である隙間妖怪に頼もうかとも思っていたのだ。

 言葉は悪いが、所詮隔離された小さな世界、その道具屋風情である。代用品などほぼ皆無だろうし、修理出来るとは余り思っていなかった。

 のだが。が、である。

 霧雨道具店店主の紹介状と、壊れた顕微鏡を見た、人間外の色素を多く持つ偏屈そうな青年は、こうのたまわった。

 

『五日ほど貰えますか、八意さん』

 

 永琳は愛用する道具を五日も手渡して大丈夫なものかと思ったが、続く言葉に納得した。

 

『これの代わりになるものを、用意しますので……幾分、型落ちはしますが』

 

 これは自身の仕事に誇りを持つ男だと永琳は感じ入った。少なくとも、道具を直し、または製作する存在として、目の前の青年は足る者だと永琳は評価した。

 思えば、里一番道具屋、その霧雨が紹介する男である。下手はないだろうと、彼女は一つ頷いた。

 

 そして、実はそれ以来今まで、二人には何も関係が無かった。修理を頼んだ客と、任された店主、という以外の関係は。

 

 で、あるから。今のこの、霖之助の私室兼工房で二人してお茶を飲む、という距離はおかしい。金銭を払う者、払われる者という事を考慮しても、霖之助には今のこの距離が適距離だとは思えない。

 けれども、永琳は特におかしいとは思わず、悠々とお茶を飲んでいる。その様が常の通りなのかどうなのか、霖之助には分かり得ない事ではあるが、少なくとも、理解は出来た。

 

「……なにか?」

「いいえ、何も」

 

 霖之助に胡乱げな目で見られているこの女性は、

 

――少々奇矯な所があるのだろう。

 と言うこと程度が。

 

 

 

   ●

 

 

 

 陶器の類が割れる音が、永遠亭の一室から響いた。

 音源になる部屋の襖には鈴仙の部屋と書かれた札が貼られている。 その部屋の主、件の鈴仙、永琳からは優曇華と呼ばれる少女は、割れたて散らばった陶器片を、

 

「……」

 

 ただ呆然と見つめていた。そして数秒、自失の状態から立ち直り、彼女は慌てて陶器片に手を伸ばした。

 

「痛……ッ!」

 

 そんな慌てふためいて鋭利に尖った陶器片に手を出せば、指先を切ってしまうと分かりそうな物だが、彼女は実際に身を刻まれるまで、その程度の事さえも一切気付けなかった。

 故に未熟と言われるのである。

 

 少女は顔を歪ませて、自身の血を吸った赤い陶器片を見つめる。

 痛いから、ではない。その陶器片、その原型たる花瓶が、自身の師匠から譲られた物だから、彼女は顔を歪めてしまう。

 ただの花瓶ではある。だが、ただの花瓶ではない。それは彼女がこの幻想郷に来て、永琳から部屋が寂しいのは花が無いからだと言われ手渡されたその日から、割れてしまった今日までの思い出が詰まった、世でたった一つだけの花瓶だった。だから彼女は、それが悲しかった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 少しばかりの雑談の後、永琳は報酬を手渡し帰路に着いた。

 戻ってきた永琳に言葉をかけてくるてゐと輝夜に返事をしながら、彼女は自身の持つ研究室へと歩いていく。鍵を開け、扉を開き、壁に掛かっていた白衣に袖を通し、手に持っていた包みを机の上に置いた。

 昨日まで霖之助に借りていた型落ちの顕微鏡で見ていた新薬を取り出し、それを顕微鏡の隣に置き椅子に座った。自分の研究室に戻ってきた顕微鏡の包みを解き、永琳は未だ記録も碌に取れていない薬を砕いて顕微鏡にセットする。

 そして、少しばかり驚いた。

 

「……」

 

 声も無く、そのままいつも通りレンズを拡大させていく。

 違和感が無い。勿論、無くて当たり前だ。

 だが、それが修理から返ってきたばかりと言う事を考えれば……どうだろうか。一旦を目を離し、顕微鏡を睨みつけるように眺め……再び目を当てる。

 同じ様に、レンズを徐々に拡大させ、今見ている薬物の分裂、劣化過程を見つめ続けた。長くを使い続け、それでも残っていた拡大時の時間差が少なく、それを成す為に指で回さなければならないつまみの硬さもない。前までは実現出来なかった、ほんの僅かばかりの馬鹿げた拡大が、笑い話ではあるだろうが可能になっているのだ。

 

 永琳はまたも顕微鏡から目を離し、その白魚のような美しい指先で叡智の詰まった額をとんとんと軽く叩く。

 信賞必罰、と言う言葉ある。

 余計な事をして機能を落としたのであれば、その言葉の下二句が実行されるのだろうが、功績は讃えなければならない。音も無く立ち上がり、研究室では常に着用している白衣を脱ぎ、それを今まで座っていた椅子の背もたれにかける。

 そして扉を開けて――、一人の少女を見つけた。

 

 月から来た玉兎、彼女を師匠と呼ぶ未熟者、永琳にだけそう呼ばれることを喜ぶ少女――優曇華。

 その少女が、今無言のまま手に布で包んだ何かを両手で持ち、立っている。まるで永琳を待っていたかのように。

 だから彼女は、声を掛けた。

 

「どうしたの、優曇華?」

「……あの」

 

 永琳自身は出来るだけ優しげに言葉をかけたつもりだったが、問い掛けられた優曇華はびくりと肩を震わせて大きくは無いその体を、更に小さくしてしまった。

 

 「どうしたの、優曇華?」

 

 彼女は再度言葉を掛ける。言葉を持つ動物は、言葉以外で確りと意思の疎通が出来る事が無い。

 だから彼女は、応えてくれるまで声を掛けるしかない。

 

「あの……花瓶を……」

 

 両手に持っていた、その布に包まれたそれをおずおずと差し出しながら、優曇華は俯いたまま言葉を零す。

 

「師匠からもらった花瓶を……割って……しまって……」

 

 永琳は、自身に差し出されたそれに視線を落とし、割れたと言う花瓶持つ少女の右手、その中指に赤い彩がある事に少しばかり驚いた。永琳が、手を伸ばす。

 それを察知した優曇華は、永琳がこの程度の事で癇を立てる訳が無いと分かっていながらもびくりと肩を震わせ――……

 

「仕方ない事だわ……それは、完全な物ではないから、いつか壊れるのが当たり前なのよ」

 

 優しく響く声と、自身の頭の上にある重さに気をやられた。

 茫然としたまま、優曇華は顔を上げる。俯いた状態から、常の視界へと戻った目の先にあったのは、その声同様、優しげな永琳の笑顔。頭に乗せられた重さは、彼女の手の平。

 

「さて……まずはその指の治療かしら」

 

 その手の平の心地良い冷たさに、優曇華は千々に乱れて纏まらぬ思考のまま、ふと、かつてどこかで聞いた迷信を思い出した。

 

『手の平が冷たい人は、心が温かい人』

 

 その日から、その迷信は優曇華にとって真実になった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 余りそう多くは無い永琳の外出、それから戻ってきたと思ったら、さほどの間を置かずまたの外出。てゐや輝夜は大層驚いたが、一番驚いたのは霖之助である。

 カウベルが鳴り、眺めていた小道具から目を離して扉を見れば、そこに先程まで居た女性が一人。何がしかの感情を抱くなと言う方が無理だ。

 

 ――何か不備でもあっただろうか?

 

 彼の思うことは、先刻返した顕微鏡の事である。

 久方ぶりの、折角懐に入ってきたまとまった金銭を返金しなければならないかも知れない。

 その憶測は彼の肩を重くするに十分だった。霖之助は金銭に執着がある訳でもないが、だからと言って必要ないと言う物でもない。生きていけば必要になる。先を見越せば、無いよりはあった方が絶対に良い物なのだ、金銭は。まして世の俗事は金、金、金で回っている。世を捨て霞を食らって生きるつもりもまだ無い、趣味人の彼には辛いことだった。

 

 それと、もう一つ。なんとなく、彼女はもう来ないだろうと霖之助は思っていた。根拠などどこにもない勘の様なものだが、多分そうなるだろうと彼は考えていたのだ。

 だと言うのに、彼女は再び、そう間を置かずやって来た。香霖堂に。

 

 何やら暗い顔で俯く店主の前まで永琳は歩を進め、頭を一つ下げた。突然に、予備動作も無く、である。きょとんとしたまま、何も言葉に出来ない霖之助を前にしたまま、永琳は口を開いた。

 

「申し訳ありません、修理料金が足りていなかったと思いまして」

 

 すでに十分報酬は貰っている。それでも目の前の、頭を下げている女性は足りていないと言った。

 言う必要などない事だ。それで足ると言えば、それで終わっていたのだ、これは。こういった、個として向き合った謝罪行為に永琳という女性が慣れていない事は一目瞭然である。

 そもそも失敗する事が少なく、失敗しても被害を抑える事に長けているせいだろう。それでも、永琳は不慣れでも霖之助に謝罪し、報酬の上乗せを申し出た。金銭の現物を持って。

 

 ちょっとばかし頬を赤らめ、困ったように囁いた永琳に、霖之助は初めて好意を抱いた。

 奇矯ではあるが誠実なその在り方と、自身を高く評価してくれた、と言う事実に。生物として、苦手意識も先に立たず、胡散臭さに寒気を感じる事も無く、真っ当に向き合える存在だと霖之助に思わせた。

 

「それと……頼みたいことが在るのですが、宜しいでしょうか?」

「頼みたい事……? さて、僕に出来る事ならばお聞きしますが?」

「えぇ、実は花瓶を一つ、そう、若い娘向きの、花やかな花瓶を探しているのですが――」

 

 そしてその縁は、その日確かに繋がった。

 一つの糸と共に、もう一つの糸を絡めて。

 

 

 

   ●

 

 

 

 優曇華と呼ばれる少女は、言葉に出来ないほどの満足感と、日に日に大きくなってゆく不満感の間でゆらゆらと揺られていた。

 

「……はー」

 

 永琳から貰った、部屋に置いてある彼女好みの花瓶を思い出しながら、彼女は恍惚とため息を吐く。 そしてそのまま、顔を更に蕩けさせた。だらしなく。

 脳裏で、その花瓶を貰った少し後、二ヶ月程前に永琳が彼女に言った言葉を思い出しながら。

 

『貴方にもう少し仕事を任せましょうか』

 

 彼女の師である八意永琳が、診療所の仕事をある程度優曇華に任せるようになった事だ。認められたという事なのだから、嬉しくない筈が無い。

 だが、

 

「……ぅうう」

 

 だらしなく惚けた顔を一変させ、少し俯き彼女はこめかみ辺りを揉みながら呻いた。どうにもその仕事を任された理由に、彼女は納得できないで居た。

 確かに、彼女の努力は認められたのだろう。それは間違いない。

 

 ただ、優曇華に回された仕事、その時間がぽっかりと空いた永琳が、よく外出する事が不満だった。

 

「……うー」

 

 これが日に日に大きくなっていく不満感。認めて貰ったから仕事を与えられたのは勿論彼女も理解しているが、それと同時に永琳が楽しげな顔で診療所から抜け出すのは、どうにもそちらの為に仕事を回されたのではないかと思えて不満だった。

 しかもその外出の理由が――

 

「あれ、今日も行くの、お師匠様?」

「えぇ、前に頼んでいたフラスコと薬草一式を受け取りにね」

「はいはい、いってらいってら。お土産よろしくー」

「あの店に置いてある物で、貴方が欲しい物ってあるかしら?」

「うん、無い。ごめんなさい」

「うううううううぅ……」

 

 てゐと永琳の会話に在る、あの店、だから始末が悪い。優曇華としては、歓迎出来ない事態である。

 優曇華が地上兎を如何にか宥め、すかし、独自に調べた情報では。野蛮な地上の民、その中でも特に半端な、半人半妖の店主が開いている奇妙な店である。

 

 そんな場所に、誰かを遣う事もなく、用事の大小関係なく、敬愛する自身の師匠が入り浸るようになれば、彼女はもう自らの内からふつふつと絶え間無く湧き続ける心配と悋気に、良い様に弄ばれるしかないのだ。だから優曇華は釘を刺しておく。

 出来るならば、その釘を、特注の五寸釘を、某店主の両目に刺したい等と思いながら、釘を刺す。出来るならば、こんな理由で胃炎になる前に全て終わって欲しいと思いながら、釘を刺す。

 

「師匠、早く帰ってきて下さいよ。私一人じゃ限度があるんですから」

 

 腰に手をあて、頬を膨らませて、私ちょっと怒ってますよ、といった顔で優曇華は自身の師匠に言う。 永琳はここ最近反抗期に入ってしまった、自身を師匠と呼ぶ玉兎の頭に手を置き、そっと撫でた。

 普段に見せる曖昧な、接客用の笑みではなく、親愛を感じさせる暖かな笑顔で。

 

「貴方も、もう立派なものよ……自分を卑下するなんて、良くないことだわ」

「わ、分かりました! 私頑張ります!」

 

 だから優曇華は、ころりと参った。

 そして彼女は、楽しげに飛んでいく永琳の姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。

 幸せそうな蕩けた笑顔で、ぶんぶんと。今日はあの花瓶にどんな花を生けようか、等と思いながら。

 

 そして、その場に二人だけが残る。地上兎のてゐと、月兎の優曇華の二人だけが。

 

「……」

「……なによ、てゐ。言いたい事があるなら――」

「言って良いの? 言って良いの? ねぇ?」

「……やめて」

「鈴仙、弱ッ」

「やめてって言ったでしょー!?」

 

 しかし事実だった。

 

 

 

   ●

 

 

 

「あぁ、フラスコと薬草のついでに、前に頼まれておいた道具の絞込みもやって置いたよ」

「あら、ありがとう」

 

 店に入った際出された熱いお茶に唇を寄せながら、永琳は礼を言う。彼女の前に薬草が三束程と、フラスコ二つ、そして書類が十枚ほどを置かれる。

 湯飲みをテーブルの上に戻し、永琳はそれらを手に取った。特に念入りに見るのは、十枚ほどの書類。

 香霖堂にある医療関係の、外の世界の道具の状態等が書き記された物である。外の世界から落ちてくる道具を扱う、ただ一つだけの道具屋。それだけが香霖堂という店が他店に対して持っている優位性である。それ以外は何も無い。マイナス方面ならば幾らでもあるが、優位性となると驚くほど少ないのがこの店の凄さである。

 

 ただ、この店主、その優位性を表にあまり出さない。気に入った道具や使い方が判別した道具、自分好みのそれらを、彼は秘匿して倉庫に隠してしまう悪癖がある。

 用途は兎も角、使い方が全く分からなくとも、なんとなく奥へ奥へと隠してしまう様な子供じみたところまで、彼には在った。まさに趣味人である。

 

 永琳は、その香霖堂の蔵で死蔵されている道具達の買取を申し出たのだ。

 霖之助としては表に出すつもりも無いただの趣向品としてしか成り立たないそれも、八意永琳を頂とする診療所で扱えば、人を救う為の道具となる。

 過ぎた技術を有した物は、恐らく隙間妖怪の横槍が入るだろうが、逆に言えば横槍さえ入らなければ幻想郷でも使っていいのだ。

 

 ――道具は、使ってこそ道具ではありませんか? 貴方の倉庫に、命を救う物があって、私にも恐らくそれの使い方が分かるのです。どうか、お願いします。

 

 真摯に、彼女は真摯に命を説き、頭まで下げた。人の命に携わる現場にいる者としての永琳の言葉は、霖之助が無視するには鋭すぎた。

 用意するといった金銭も大層な額ではあったし、霖之助は素直に頷く事にしたのである。それ以上に、現場で使われる道具達を生でじっくりと見たかったと言うのが、彼の本音であるが。

 

 そして現在、それらの紙媒体への情報化が行われている訳である。

 もっとも、それらに用途は書かれていても、使い方までは書かれていない。それを不審に思った永琳が、霖之助に問うた。

 

「用途や現在の状況は記されているのに、どうしてここには使用方法が書かれていないのかしら?」

「僕の能力では、用途までしか分からないんだ。それに、使い方は……君なら全部分かるんだろう?」

「まぁ、そうだけど……あら、何かしら、この要河童相談と言うのは?」

 

 今度は、数箇所に書かれたその文字が気になったらしい。

 

「口惜しいことに、僕では手に負えない状況に陥っている道具もあるんだ。こうなるともう、神頼みかお山の河童頼みになる」

「なるほど……その辺りは、買い取って使うつもりなら、此方でやれと言う事かしら?」

「僕が優れた交渉人に見えるなら、そこまで頼んでみるといい。勿論、そんなものは別料金だ」

「じゃあ、この辺りは自分とてゐで行きましょうか」

 

 自分で言っておきながら、永琳の返事に霖之助はむくれた。自身の能力をあっさりと否定されたのは、やはり悔しいらしい。

 そんな反応を横目に見ながら、永琳は微笑む。 

 

 ――だからここは、楽しい。

 

 ここは、永琳がそのまま笑える。永琳は、だからここが好きだった。

 永琳は女である。

 女である以上は、若い、それなりの容姿を持つ男と語り合って楽しくない筈が無い。会話も淀みなく、時には高い知識を必要とする言葉の交換さえ可能で、霖之助は会話を楽しむだけなら、なんら問題ない存在であったのだ。知識、知恵という点では遥か高みに座す永琳に、噛みつかんばかりに挑みかかってくる青年の姿は、永琳に陶酔にも似た喜びさえ感じさせた。

 特に色のある、艶のある会話など無いが、永琳は楽しいと心から思った。

 

 異性と言葉を交わし、何も感じられないと言うのなら、それは性別の死である。男でも女でもない、何かになってしまっているのだ。

 だが、永琳は女でありたかった。その性別で世に生まれ出でた以上は、女である事を恥じるも誇るも無く、平然と女でありたかった。例え自身の女に、欠陥があろうとも。

 いや、あるからこそ。誰に断るでもなく、誰に宣誓する必要も無く、ただ普通に女で居られる。

 それは――

 

 カウベルが鳴り響き、小さな地上兎が店内に入り込んでくる。

 

「お師匠様ー、鈴仙が怪我した上に気絶までしてるんで、治療お願いしまーす」

「あら、てゐ……どういう事?」

「いや、いきなり鈴仙が襲い掛かってきたんで、ついこう、打ち返したらいいとこに当たって……うん、そんな感じですよ?」

「はいはい……じゃあ、霖之助、また来るわ」

「あぁ、ここは店だからね。客の許可なんて必要ないさ。勝手に来るといい。お茶も勝手に入れるといい」

 

 常の通り、あるがまま、偽るでもなく、霖之助は偏屈な古道具屋店主のまま、永琳に応える。永琳はてゐに背を押されながら、そんな霖之助に笑みを零して去っていく。てゐの方は、にやにやとした笑顔を霖之助に向けて。

 診療所まで、てゐと永琳はそれなりの速度で飛びながら言葉を交わした。

 

「お師匠様」

「なに、てゐ?」

「私、もしかして馬に蹴り殺される?」

「そんな関係じゃないわよ、私と彼は。女と男では、あるけれどね」

 

 それは――だから嬉しいのだ。女のままで居て、在っていいと言う、たったそれだけの事が。何もかもが自身だけで事足る、と言うのは生物として他者を必要としない寂しさに繋がってしまう。

 殊、女であれば尚更に。

 

 

 

   ●

 

 

 

 ――珍しいものが手に入った。

 

 兄弟子のそんな言葉に、霖之助は里まで出て、兄弟子の構える店まで来ていた。

 香霖堂のような、閉ざされた店ではなく、通行人からも商品が見えるようにと考慮された開かれた店内の、その店先にある長椅子に座り、霖之助は兄弟子が大事そうに持ってきたそれを、じっと見ていた。

 

「どうだ、霖之助。年代物の横笛だぞ」

「……」

 

 箱の中に赤い布に包まれて置かれている横笛の余りの余りさに、霖之助は額に手を当てる事しか出来ない。

 

「なんだ、目をやられたのか?」

「いえ、今額に手を当てているでしょう、僕は」

「お前ならそこにも目が在りそうだ」 

「あってたまるか」

 

 勿論、彼の兄弟子が言うような理由で霖之助が額に手を当てている訳ではない。

 

「この横笛はな、なんとあの信玄公が使っていたと言う特注造りの――」

 

 兄弟子は霖之助の顔に浮かぶ表情に気付くことなく、得意げに長広舌を打とうとして

 

「あら、数打ちの横笛がどうしてこんな大事そうに仕舞われているのかしら?」

 

 美しく鳴る音の介入に、言葉を失った。

 

「……え?」

 

 そのまま、彼は横笛を数秒見やり……先程奏でられた美しいの音の主、偶然通りかかったのだろう診療所の女主人、八意永琳の顔を見つめた。

 

「幾らで購入されたのかは知りませんが……ご愁傷様です、ご主人」

 

 永琳の無慈悲な斬撃に商人としての止めを刺され、音も無く倒れる兄弟子を見届けてから、霖之助はため息をついた。

 

「一応、彼の名誉の為にも言っておくが、彼が商人として無能だと言うわけじゃあないんだ」

「あら、そうなの?」

「そうさ。彼の接客能力や交渉の粘り強さは霧雨の親父さんだって認めた、立派な物さ。……ただ、どういう訳か鑑定眼が、少々、あれだが」

 

 霖之助は兄弟子を思ってか、何がどうあれなのかははっきりと言葉にしない。

 ちなみに、霖之助への評は『鑑定眼と審美眼は太鼓判。ただし接客態度が最悪』である。あの兄弟子と霖之助を足して割ったら真っ当な商売人になるだろう、と同期の弟子達と霧雨道具店の店主は良く酒の席で言っていた。

 

 兄弟子の介抱を丁稚の少年に頼んで、気を確りと持つようにと伝言してから霖之助は店を出た。

 なんとも言えない顔のまま店を出る霖之助に、永琳達は極々自然とついて行った。少なくとも、永琳自身は。

 

「そんな物よね……全てを出来る人間なんて居ないわ」

「……そうかな? 君なら出来るんじゃあないかな? さっきだって、確りと門外の事をやってのけたじゃあないか」

「あらあら……なぁに、お駄賃でも欲しいの?」

「僕は君の茶坊主か。いや、世辞やおべっかではなく、ただ僕は事実を」

「そうなると、いつも熱いお茶しか出ないのかしら……ねぇ霖之助、それは困るわ」

「僕だって現在進行形で困っているよ。噛み合わない、この頓珍漢な会話に……それにね」

 

 三人は人里の大通りを歩いていく。そう、彼ら、彼女らは三人であり、霖之助は永琳達と伴だって歩いている。

 だから霖之助は、永琳にこう言った。

 

「そろそろ、そちらの彼女を紹介してもらえないものかな。この場合、僕とその少女、どちらとも交友のある君の役割だと思うのだけれどね」

「あぁ、この子は――」

「鈴仙……です」

 

 ちらりと、自身に投げかけられた二つの視線に、優曇華は冷たく、ばっさりと応えた。

 最低限を名乗るつもりだったが、そこは敬愛する師匠の顔を立てたのである。それでも、仏頂面を正さないのは、彼女の限度が近いからだ。

 師匠であり、姉とも母とも言える憧れの対象を独り占めしつつある地上の民、それも半端な存在相手に冷静に向き合えるほどの余裕は無い。そんな優曇華を見て、永琳はなんとなく微笑を浮かべる。霖之助は、特に表情を変えない。

 

 ――まぁ、どうにも嫌われているんだろうなぁ。

 

 そんな事はとっくに分かっていた事である。どちら着かずの半人半妖の霖之助は、悪感情で見られる事に慣れている。

 自ら紹介をせず、今の今まで不機嫌な顔で、無言のまま永琳の隣を歩き、時折威嚇するかのように目を細めて自身を睨む少女が、好意的な、或いは凡庸な感情を抱いているとは思えなかった。

 一応の確認を込めて永琳越しに会話を申し込んでみただけの事だ。

 ただ、だからと言って嫌われて悲しくない訳ではない。何故嫌われているのか分からないから、尚の事それは霖之助の中で疑問となって残った。

 

 歩いたまま腕を組み、何事か考え込み始めた霖之助を優曇華はしてやったりとほくそ笑む。何に悩んでいるかは分からないが、先程までの極楽トンボが一転、悩み呻く様は優曇華の溜飲を下げるに十分だった。だったのだが、次の会話で十分に十二分過ぎた満足感は吹き飛んだ。

 

「ごめんなさいね、霖之助。この子、最近反抗期に入ってしまったみたいで」

「ん……あぁ、そう言えば魔理沙もあの頃はこんな感じだったなぁ……なるほど、君も大変だね」

「違います! 私そんなのじゃないです! 反抗期とかもう終わってます! そこのも! 納得した顔で頷かないでよ!!」

 

 永琳と霖之助は立ち止まり、同じく立ち止まって手をわたわたと勢い良く降って全力で否定する優曇華を無言のまま眺め、お互いの顔を見……ゆっくりと頷いた。

 

「あぁ、少しばかり違うが、魔理沙もこんなだった……僕が何を言っても首を横に振るばかりでね……懐かしいなぁ」

「えぇ、姫にもこんな頃があったわ……機嫌を直そうとして玩具とか手渡すと、怒って投げつけてくるのよねぇ。あの時の積み木、痛かったわ……」

 

 完全に保護者の顔で、懐かしそうにそんな事を言う。

 

「反抗期とかもうとっくに過ぎてますってば!! しかもなんか第一次反抗期っぽいし! もう、そんなじゃないんだから!!」

 

 里の人間たちが、往来の真ん中で騒ぐ三人を遠目に見ながら、避けて歩いていく。

 因みに、第一次反抗期とは二歳から三歳辺りの幼児が、何をやってもイヤイヤと首を振るあれである。

 

「で、君達はどうして里へ?」

 

 霖之助達は歩みを再開し、道をゆっくりと進む。優曇華だけが肩で息をしていたが、永琳と霖之助は我関せずと会話を続けた。

 

「東屋のご隠居さまを定期診察しに……ね」

「……そうか、もう、歩けないほどなのか……彼は」

 

 霖之助の脳裏に、昔日の、闊達で腰の軽い彼の姿が蘇る。里一番の呉服屋になると息巻き、どんな時でも笑顔を絶やさなかった人間。そんな人間が、今はもう……

 

 人は、早い。妖怪から見れば早すぎる速度で歩み、走り、死んでしまう。 

 それゆえに、人は危機感を抱き、それを背に置くからこそ成長する。それは長寿の存在には無い強みでもあった。短いからこそ、鮮烈に彼らは、彼女らはその軌跡を刻み込む。

 時間の中に、残される存在の記憶の中に。

 霖之助は空を遊弋する大きな雲をぼんやりと見ながら、軽く息を吐いた。

 

「寂しいね……また、置いてけぼりだ」

 

 ぽつりと霖之助は呟く。

 隣を歩く永琳には、当然聞こえているだろう。だが、別に彼はそれを気にしなかった。

 弱さを見せるを好まない彼でも、他者の生死から生まれる自身の感情の如何は、どうにもしがたい。

 優曇華は何も応えず、自らの歩む道をただ進む。永琳は、霖之助を一瞥してから、同じ様に空を見上げた。くじらのように空を遊弋していた大きな雲は、徐々に千切れ始め、小さくなっていく。

 

「寂しいと言うのはね、霖之助。貴方がそこに生きて、誰かを愛している証拠でしょう」

 

 里から離れ、独り森に店を構える青年。それでも、彼は人の中にいるその証拠なのだと永琳は言う。

 絆がある。それが消えようとしているから、寂しいのだ。

 

「……愛している、か。里一番の医者先生に言われたんじゃ、きっとそうなんだろうさ」

 

 一つから二つ、三つ、四つ……それぞれに独立し、孤独をばらまいていく雲から目を離し、霖之助は肩をすくめ小さく笑う。あの雲のように、独りである事は出来ない。

 人も妖怪も神も、何もかもが。一つで生きて行くことの出来る強さなど持ち合わせては居ないのだから。

 対、または反。それらがあって、生き物は初めて自身を知り、思いやりを知り、愛を知り、憎しみを知る。笑顔の意味を、愛すると言う貴さを、生きる苦しみを、死んでしまう悲しみを、頬を伝う涙の意味も。

 相して、愛して、逆して、探して。

 存在は存在の価値を知る。

 

 幾多の、誰かと共に繰り作り上げた、人の体温を持った赤い糸――絆達に絡まれて、そこに生まれ、そこで死ぬ理由を知る。

 

 争いも無ければ平和も無く、何も無ければ何も起こらない。そんな中で生き続ければ、ただ信号で生きるだけのブリキ人形になってしまう。

 だから向き合うのだ。時に牙を剥き合ってでも、判然としない、このどこかに在るだろう温かくも冷たい心を殺さない為に。

 霖之助が、ふと歩みを止める。

 

「……寂しい、か」

 

 ぽつり、意識もせず口から零した。

 そして、永琳を見る。永琳は、静かに笑顔で佇むだけ。

 

 ――一番寂しい置いてけぼりは、誰だろう。

 

 霖之助の瞳に映る永遠に生きる女は、ただ笑顔。

 そのただの笑顔が、一瞬寂しげ揺らめいたのは、霖之助の錯覚だったのだろうか。

 

 

 

   ●

 

 

 

 朝からどこかどんよりとした雲が空を覆っている為か、いつもより大分暗い診療所の中で、優曇華は備品を確認していく。彼女の努力の結実か、仕事に張り合いでもあるのか、優曇華はてきぱきと備品を見て、触れて、それぞれの状態を見定めていく。

 そんな彼女を見ながら、一緒に備品の点検をしていた永琳は、満足気に微笑んだ。

 そして自分の点検すべき箇所を見て……

 

「……あら」

 

 ころりと言葉を落とした。

 

「……? 師匠? 何か何か不備でもありましたか?」

 

 優曇華が自身の持ち場を離れ、心配げな顔で永琳の傍へと寄ってくる。

 自分の仕事に穴があったと思い込み、顔を歪める優曇華に、だから彼女は優しく言葉を掛ける。

「いいえ、私のミスよ」

「師匠のミス……ですか?」

 

 ほっとしたのも束の間、釈然としないと言った表情で優曇華は永琳を見る。

 

「私だって失敗するわよ? おかしいかしら?」

「あ、いえ、そういう訳じゃないんですけど……」

 

 顔を俯かせ言いよどむ彼女の、くるくる変わる百面相を前に、永琳は自然と優曇華の頭に手を置いた。

 

 冷たい掌。その涼やかな掌に撫でられ、優曇華は目を細める。

 まるで喉を撫でられる猫のように。だが、その幸せも長続きはしない。

 

「じゃあ、診療所を開く前に霖之助の店に行って買って来るわ」

「ちょ、ちょっと待ってください師匠!!」

 

 とりあえず、備品が壊れたり足りないとすぐあの店に行こうとする永琳に、優曇華は勢いで反対した。

 そして、そうなった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 とうとう降り出した空を窓から見つめたまま、霖之助は手に持っていたタオルケットを先程店内に乱入してきた少女に差し出した。

 

「こんな時に災難だったね、鈴仙」

「う、五月蝿いわよ!」

 

 そして、こうなった訳である。

 めそめそと泣きながら、ぐしぐしと鼻を鳴らしながら、彼女は自身の長い髪を拭っていく。

 

「本当に、もう! この店、やっぱり鬼門なんだわ……」

「そうかい? それほど悪い方向じゃあなかった筈だけどね」

「五月蝿い疫病神」

 

 歯に衣を着せぬ優曇華の言葉にも、霖之助は笑ったまま返す。

 

「厄病とは言え神か……うん、悪くは無いな」

「……」

 

 鈴仙は無言のまま、手にしていたタオルケットを霖之助の顔目掛けて投げつけた。

 湿ったそれを顔に受け、霖之助は軽く鈴仙を睨む。優曇華の目の既に据わっており、二人は互いに睨み合った。

 

 「……くしゅん!」

 

 が、それも優曇華の可愛らしいくしゃみによって終わる。霖之助は肩をすくめ、投げつけられたタオルケットをテーブルの上に置き、私室へと足を向けた。

 そして、僅かばかりの時間で霖之助は香霖堂に戻ってくる。手にはお盆を持っており、その盆の上には湯気を燻らせる湯飲みと茶請けの菓子があった。

 

「……何それ?」 

 

 優曇華はくしゃみをする前から続く、据わった目のまま言葉を紡ぐ。

 

「いらないかい?」

「私は、師匠の遣いで来たんだから、そんなの――くしゅん!!」

 

 またも愛らしいくしゃみが一つ出る。しかもくしゃみをする際には、態々霖之助から顔を逸らす。

 

 些細な事だが、人間性の発露である。この少女は、霖之助を見ると余り良い顔もしなければ、時に隠すことなく攻撃的な感情をぶつけてくる。

 だが、この通り悪い者ではないのだ。本当に些細な事ではあるが。

 それに文句や攻撃的感情を向けてくる事はあっても、優曇華は霖之助の店で無法を行わない。

 彼女はあの出会いとも言えぬ出会いから、既に何度かこの店に来ているが、問題のある行為を行ってはいないのだから。

 具体的な例で言えば、勝手に商品を持っていかないし、食事をたからないし、何も買わないまま帰る事も無い。永琳の遣いで来ている以上は、商品を買って帰るのは当たり前だが、その当たり前と言うのが霖之助にとって既に貴重で希少だ。

 

 我の強い少女達を見る事が多くなってしまった霖之助には、優曇華程度なら特に問題なく付き合うことが出来た。

 とうの優曇華は、霖之助を決して付き合い易い存在などとは思っていないが。むしろ敵である。仇である。悪であって怨敵である。共に天――永琳――を抱く事など出来ない不具戴天の敵なのだ。

 

 故に、彼女は現在のこの境遇に納得していない。彼女の前に置かれた熱いお茶も、茶請けに用意されたグミも、敵からの施しなのだ。

 何故に日本茶にグミだと突っ込むほどの余裕さえ、彼女にはなかった。どうでも良い話だろうが、茶請けになりそうな菓子は全て巫女と魔法使いに食い散らかされただけの事である。

 

 このままやられっぱなしで良いだろうか? いや、良くない。

 

 何をやられた訳でもない優曇華は、それでもそう結論し、何か反撃への口実はないかとなんとなく店内を見回し――それを見つけた。

 雑多な店内の、その棚に置かれた――

 

「……不細工な花瓶」

「ふん、不細工か」

 

 花瓶で反撃を開始した。

 

「こんな花瓶をこれ見よがしにあんな目立つ場所に置くなんて、道具屋としてどうかと思うわ」

「ほうほう、なるほど」

 

 しかし霖之助は平然とそれを聞いているだけ。良く見れば、その顔にはうっすらと笑みさえ浮かんでいる。

 のだが、優曇華はそれに気付かず、自分に攻撃の番が回っているのだと得意げに喋るだけだった。

 

「私の部屋に師匠から貰った花瓶があるけれど、あれの倍は……いいえ、天と地ほどの差があるわ」

「ほほーう、それはそれは」

 

 そして時間は流れていく。

 

 足りていなかった薬の包装紙も買い取って、優曇華は乾いた髪を手の甲で軽く弾いてから香霖堂の扉を開けた。鳴り響くカウベルと、雨足。

 

「……」

 

 無言のまま、彼女はその来た時より激しい雨足に一歩後ずさった。

 と、背に何かが当たる。

 

「……何よ」

「いや、何も」

 

 後ろを見ると、そこには霖之助が居た。優曇華は慌てて彼から離れ、また扉に近づく。

 しかし雨足はそのままで、一切の容赦なく降り注いでいるだけだ。

 

 ――折角髪も乾いたのに……

 

 髪を一房つまみ、そんな事を考えていると、横から何かが差し出された。

 傘である。傘を、霖之助が差し抱いているのである。

 

「……何よ?」

「いや、何も」

 

 睨み付ける優曇華に、霖之助は常の表情のまま返す。優曇華は霖之助の瞳から目を離し、その差し出されている傘に目を落す。

 

「買えって事かしら?」

「あぁ、それも良いだろう」

 

 彼女は唇を噛んだ。

 買いたくとも、永琳から手渡された備品購入分きっちりの金銭だけを持って店まで来た身だ。

 愛用の財布は自室の机の棚の中で休憩中である。買いたくとも、買えない。

 

 ――借りるのは貸しを作るようで嫌だし……あぁでも、あぁもう!

 

 悶々とし、とうとう頭まで掻き乱し始めた優曇華に、霖之助は語りだした。

 

「この店は、実に不躾な客が多くてね」

「……は?」

 

 現状において、何ら関係なさそうな話を。

 

「勝手に商品を持って行っては、死ぬまで借りておくとか、あとで払うからツケて置いてくれと言う客が多いんだ。だのに、彼女達にはどうも返却の意志が無い。少なくとも、僕には見えない。どう思う?」

「……?」

 

 優曇華は意味が分からず首を傾げた。突如振られた会話に意味も分からず、彼女はきょとんと、険の無い瞳で霖之助を見る。子犬の様な仕草と、目で。

 自身の言わんとしている事を一割も理解していない彼女に、霖之助は常の顔、常の声でゆっくりと続ける。

 

「だから、君がそうでない事を、僕は祈るばかりだ」

 

 無遠慮に、彼は左手を伸ばし、その手で優曇華の右手を取った。

 一瞬びくりとした彼女は、その以外と硬い霖之助の手を払おうとしたが、何故か払う事が出来なかった。動かぬ優曇華をそのままに、霖之助はその少女らしい柔らかい掌の上に、持っていた傘を手渡す。

 そして、無言のまま背を向けて、自身の座すべき場所に戻っていった。テーブルにつき、霖之助は本を読み始める。

 

 終わり、と言う事なのだろう。なのだろうが……

 

「……」

 

 優曇華には、良く分からなかった。

 いや、分かってはいるのだ。つまり、今自身の掌に握られている傘を、ツケで売ってくれたと言う事は。

 

 優曇華は霖之助を倣った訳ではないが、なんとなく無言のまま店を出て、傘に当たる雨の音を聞きながらあぜ道を歩いていく。釈然としない顔で、歩いていく。

 

 ――なんで、手を払えなかったんだろう?

 

 女性の手を断りも無く取ったのだから、払う程度許された行為だろう。

 まして、彼女の中で霖之助が置かれている位置は極めて低い。それを為すことに優曇華が抵抗を覚える理由は一切無い。

 だのに、何故。

 

 ――……なんで? どうして?

 

 何故、と、どうして、がぐるぐる、くるくる頭の中で回り、彼女は静かに混乱したまま診療所へと続くあぜ道を歩くしかなかった。だから気付かない。

 

「優曇華?」

「え? あ……師匠……」

 

 彼女の目の前に、彼女の師匠、永琳がいた事に。

 右手に傘、左手にも傘を持って彼女は優曇華の前に立っていた。勿論、突如そこに現れた訳ではない。

 傘を差して、ただ普通に道を歩いてきたのだ。考え事をしていた優曇華が気づけなかっただけの事である。

 

「どうして……ここに?」

 

 彼女は驚いた顔で、永琳を見上げる。

 

「貴方が出て行った後、この雨でしょう? 難儀してないかと思って、傘を持ってきたのだけれど……」

 

 要らなかったわね、と永琳は呟き笑った。

 今の優曇華には、霖之助からツケで買った傘がある。必要の無い行為だった。

 けれど、その行為は無意味ではない。生き物と生き物の間で為される絆は、こんな些細な事の積み重ねで作られていく。だから、そうではないのだ。

 それが分からなくとも、優曇華は首を横に振って永琳の言葉を否定する。

 頭はそれを知っていなくとも、心は触れ合いに敏感な羽毛の様な何かで、優しさにも冷たさにも繊細に反応する。優曇華は永琳の左手から傘を取って、今まで差していた傘を閉じ、永琳の持ってきた傘を取って差す。

 

「師匠、早く帰りましょうか」

「……えぇ、そうね」

 

 優曇華の左手に握られている傘を見つめ、彼女は少し困ったように苦笑を浮かべてそう応えた。

 

 彼女は――優曇華は、優しさを知っている。

 それは冷たい掌を持つ存在が、彼女に与えてくれる安らぎや幸せだと知っている。

 けれど、気付けない。未熟な彼女は、気付けない。

 閉ざされ、役割を終えてしまった傘を手渡した誰かもまた、同じだと言う事実に。

 

 

 

   ●

 

 

 

 香霖堂の奥にある私室の雨戸を開け、霖之助は空を見上げる。

 昨日の、一夜も続いた雨は嘘のように引け、空は晴れ渡る常の夏景色を取り戻していた。

 寝巻きから普段着に着替え、彼は肩を叩きながら店へと足を向ける。薄暗い店内を抜け、扉を開けて営業中の看板を立て、雨戸とカーテンを開けた事により日の光が射し込まれ、先程までの薄暗さが払われた店内に踵を返し、永琳に頼まれている道具の鑑定でもしようかと考えていると……ふと、見えた。

 外の世界から落ちてきた道具、旧式の大型テレビに腰掛けながら、足をぶらぶらと揺らしている少女の姿が。

 

「遅いわねぇ、もう昼じゃあないのよ」

「……勝手に入っておいて何を言うかと思えば、それかい……で、何用かな?」

「お師匠様から伝言があって来たの」

「あぁ、じゃあ早く伝言だけ伝えて早く帰ってくれないか。出口は、ここだ」

 

 霖之助は無表情に、今自身の立つ場所を指差して少女にそう返した。愛想一切無し、で。

 そんな霖之助を、テーブルに座ったまま少女はしげしげと観察する。

 

「んー……やっぱり、お師匠様がお熱を上げるほどの男には見えないんだけどなぁー……」

 

 無遠慮に。

 

「不躾に眺めるのはやめてくれないかな、てゐ」

「なになに? 気恥ずかしいの? やだもう、霖之助ったら。お堅いお堅い」

「君に見られていると寒気がするんだ」

「なにそれ、私幸せ白兎様よ?」

「生憎と、僕はその恩恵を受けた事がないからね。むしろ皺寄せ白兎だ」

「それで上手い事言ったつもり、貴方?」

「ただの事実だよ」

 

 眉間に皺を寄せながら溜息を吐く霖之助と、それを見て笑みを一層深くするてゐ。

 遊ばれている。間違いなく、霖之助はてゐに遊ばれている。

 その構図が気に食わない霖之助は、本題を求めた。彼女が勝手に店内に進入していたその本題を。

 

「で……もう良いだろう? 君だって伝言に来たのなら、その役目を全うすべきだ」

「はいはい。じゃ、言うわよ?」

 

 そしててゐは、さらっと永琳に頼まれた言葉を伝えた。たったの10秒で終わったその言葉に、霖之助は呆れとも驚きとも言えぬ感情を覚えた。

 

「……永琳が?」

「そ、うちのお師匠様が、是非って」

 

 霖之助は一度眼鏡を外し、眉間を揉んでから再び眼鏡を掛けなおす。

 そして、今はテーブルから離れ、彼の前に立つ少女を見やった。シンプルな服を着た、小柄で愛らしい少女である。その垂れた耳も、少女の甘い外見を強調するなかなかの物であると言えただろう。そう、言えただろう。何も知らなければ。

 

「……なぁに? あらやだ貴方、もしかしなくても私に欲情した?」

「青い果実は食べない主義だよ」

「酸っぱいのも偶には良いんじゃない?」

「君が酸っぱい程度で済む者か」

「えぇ、下すどころか、昇る羽目になるものねー」

 

 にやにやと笑い、霖之助の反応の楽しむてゐは、甘ったるい外見に反してぴりりと辛(から)い、びりりと辛(つら)い妖怪兎である。

 この幻想郷に、有史以来の古参は多けれども、彼女に並ぶ者は少ない。

 決して多くは無い。彼女自身が自分を語る事はないので、その噂される彼女の経歴がどこまで正しい物かは分からないが、霖之助が睨むところ、名の通りの兎なのだ、彼女は。

 であれば、霖之助はもっと彼女に敬意を持って接するべきかもしれないが、そこは幻想郷の空気と言うべきか。どうにもこの狭い世界、古参になればなるほど厄介な存在が多い。

 海千山千は兎も角として、皆一癖二癖が強すぎるのだ。

 

 殊この妖怪兎の少女は、その筆頭のような存在である。

 悪戯好きで嘘つきで狡猾で自由気ままで、その癖幸運の運び手。面倒臭い相手である。

 どう言い繕っても面倒臭い相手なのである。

 だから霖之助は、永琳との知己を得て以来、偶に遣いと言う事で店に顔を出しては、今のように霖之助"で"遊ぶ彼女に敬意を払う事が出来ないで居た。

 もっとも、出会いや関係が真っ当でも、彼が彼女に敬意を払う事はなかっただろう。彼も十分すぎるほどに面倒な男だった。

 

「で、君が甘いか酸っぱいかは兎も角だ」

「おや、確かめないの?」

「ご免だよ。確かめたが最後、僕は死んでしまうよ。どうせ毒があるんだろう? ……後でじわじわ来る、毒が」

 

 てゐは何も応えず、にやっと笑った。それが答えだ。

 霖之助は溜息を付き、話の筋を戻す。

 

「で、だ。で、なんだよ、てゐ。永琳が、本当にそう言ったのか?」

「うん、間違いなく、ばっちり、嘘なんてないよ?」

 

 霖之助の言葉を受け、てゐは容姿相応、眩しい笑顔を見せる。それがまた嘘くさいのだが、多分事実なのだろうと霖之助は思う事にした。

 

「それじゃ、永遠亭まで案内するから、さっさと準備しなさいよ」

 

 霖之助が、永琳に呼ばれた。

 そういう事らしい。

 

 

 

   ●

 

 

 

「師匠……やっぱりおかしくないですか?」

「なにが?」

「いえ、この状況が」

「……そうかしら?」

 

 優曇華と永琳は、永遠亭の広い台所でそれぞれに何事か為していた。

 優曇華は包丁でニンジンの皮むきを。永琳はおたまで大きな鍋をかき回して。

 律儀に家事の正装、三角巾と割烹着を身に着け。

 

「いや、だってこんなのしてどうするんですか?」

「どうもなにも……世話になったのは貴方もでしょう?」

 

 優曇華は、玄関に無造作に置いている傘を思い出し、首を振る。

 

「あれはツケで買ったものだから、世話とかそんなのじゃ……」

「まぁ良いじゃない。姫も良いって言っているのだし」

「……」

 

 彼女は脳内に姫様を思い浮かべ、その首を絞めた。実際にやったら大変な事だが、想像上なら何をしても良い。

 もっとも、彼女にあの姫をどうこうする事など不可能だ。永琳と同じく、姫と呼ばれる少女もまた一種の頂上者だ。間違いではなく、一つの頂点を極めている存在である。

 

 猛者揃いの幻想郷でも上から数えて十に悠々と入る存在相手に、彼女が首を絞めるなどと出来たものではない。もっと何かを言おうとした優曇華だったが、永琳の楽しげな顔を見て喉元まで出かけていた言葉を飲み込んだ。

 笑顔で居て貰えるなら、その方が良い。しかし、その原因が彼女には、優曇華には気に食わない。

 

 皮をむき終わったニンジンをまな板に置いて、それを一気に叩き斬る。脳裏に、その元凶を思い浮かべながら、叩き斬る。

 

「私も彼には世話になっているから、良い機会だったのよ……巻き込んでしまったのは、申し訳ないけれど」

「そんな、師匠は何も悪くないですよ!」

 

 悪いのは全てあの男である。

 彼女はそう信じて、包丁を全力で振るい続けた。

 

 永琳は、霖之助に世話になっていると言った。

 永遠亭の倉庫から出てくる用途不明の道具の鑑定、帳簿化。依頼される道具の修理、偶の息抜き。

 だから永琳は、霖之助に世話になったと言い、その礼を返す方法を考えて、こうなった。永遠亭で軽く宴会。

 

 喧騒を好まない霖之助だと永琳は理解してたが、それが少数での宴会なら問題ないだろうと思い、その思い付きを実行に移した。ただ、永琳自身はある程度自身の中にある、不確かな物に気づいてしまっている。

 

 ――だとしても、暫らくは様子見……でしょうね。

 

 礼、恩返し。そんな言葉を並べてみても、彼女の内にある不明瞭な灯火は納得しない。

 色々口にして、様々な理由で隠してみても、隠された火はただ不安げに揺れるだけだ。

 

 胸に宿るその灯火は弱々しい物で。だから彼女は、見極めなければならない。

 宿したそれが、いつか知らぬ間に消える埋み火なのか、それとも――猛り狂う炎になる物なのか。

 彼女はその不確かな、遠い昔にどこかに置いてきたそれと、向き合わなければならない。

 

 

 

   ●

 

 

 

 てゐと世間話をしながら竹林を歩く霖之助の目の前に、その屋敷はあった。

 純日本家屋、どこか懐かしくも、怖くもあるその屋敷を前にして、霖之助は我知らず喉を鳴らした。

 

「おーい、置いてくわよー?」

「……あぁ、すまない」

 

 立ち止まった霖之助にてゐは声を掛け、彼は少女の後ろについて歩いていく。

 そして、そんな二人を出迎えたのが。玄関で無造作に置かれている、優曇華にツケで売られた傘と――

 

「……てゐ、それが永琳の客なの?」

「あ、お姫様、おはよう。うん、これがお師匠様のあれ」

 

 あれだのそれのこれだのと言われた霖之助は、一瞬むっとしながらもお姫様と呼ばれた少女を見る事にした。

 美しい少女だった。霊夢や魔理沙も美しい少女ではあるが、これに敵う事がないだろう。そう思わせるほどに美しい少女だった。

 ただ、その顔は能面のようで、威圧感はあっても生きている存在が持つ重さを持っていなかった。

 

 ――まるで人形だ。

 

 美しすぎる事、そして生を感じさせない事から、霖之助はそう思った。

 と、その少女がそれまでの表情を一変させ、底意地の悪そうな笑顔を見せる。霖之助の隣にいる、てゐと通じる物のある笑顔だ。

 

「私を見ても惚けなかった事を考慮しても……そうね、52点……かしらね」

「お姫様は高望みし過ぎだと思うなぁ、私」

「じゃあてゐ、お前は何点つけたの?」

「54点」

「変わらないじゃない」

「いやぁお姫様、2点の差は大きいと思うわけよ、私」

「当人を前にした採点は、もう終わったかな?」

 

 自身を前に、何やら良く分からない点数付けをしている少女達に、霖之助は割って話しかけることにした。こういった事は、経験則から余り良い結果に繋がる事は無いと分かっていたが、題材が自分となれば放置する訳にもいかない。

 が、結果は予想通り。

 

「人の話の最中に割ってはいる……減点ね。-5点」

「しかもそこから減点か……」

「分かりやすいでしょう? 昇るも下がるも、お前次第……努力が形になるわけね、これ」

「特に下がっても上がっても、僕にはどうでも良さそうな気がするんだが」

「向上心が人を豊かにするんでしょう? 知らないけれど」

「知らない事を口にするか、君は」

「知らないから口にするんじゃない」

「あぁ、そうか」

「えぇ、そうよ」

 

 濡れた様に淑やかに輝く長い黒髪を持つ美しい少女は、そこで初めて険のない笑顔を見せた。

 

「まぁ、良いわ。全くの不良物件と言う訳でも無いようだし……私はこの永遠亭の主、輝夜よ。お姫様でもお嬢様でも麗しの君でも天上の至宝でも、この世全ての綺羅とでも、好きなようにお呼びなさいな」

 

 腕を組み、その少々薄い胸を張って輝夜はそう歌った。

 どこか疲れた顔で、霖之助は呟く。

 

「そう呼べと?」

「その耳は飾りなのかしら? 好きになさいと言ったでしょう? ほら、私は自己紹介したわよ? 早くお前もなさいよ」

「……あぁ、本日はお招き有難う御座います、"お嬢さん"。初めまして。僕は香霖堂店主、森近霖之助だ」

 

 耳を打った霖之助の言葉に、輝夜は一瞬きょとんとしてから――どこからか取り出した扇子を広げ口元を隠した。

 そして、にたぁと笑った。口元が見えない以上、それは霖之助の想像でしかないのだが、事実その様に彼女は口元を歪めていた。

 

「+5点……良かったわね、また52点に戻ったわよ?」

「嬉しくないのは、どうしてなんだろうね?」

「高くも低くも無いからじゃないかなぁー」

 

 点数、及び会話の内容が、である。

 三人はそんな会話を続けたまま、てゐの案内で宴会場へと向かっていった。

 

 宴会場、と今回呼ばれている広い居間で、霖之助は先程まであった気持ちが消えていくのを感じた。恐らく、永琳が自分に気を遣ってこの席を用意してくれただろうと言う事は彼も理解している。だから申し訳ないともありがたいとも思っていた。

 のだが、今の現状を思えば、彼はここに来るべきではなかったのだ。

 

 客、という事で上座に座る事になった霖之助と、その右隣に彼を呼んだ永琳、反対の左隣には永遠亭の主、輝夜。そして三人と向かい形で、優曇華、てゐが座っている。

 優曇華は永琳の前に、てゐは輝夜に前に、である。

 両手に花、それも高嶺の花だ。気分の悪いものではない。

 用意された酒も良いもので、料理に関してはもう言葉も無いほどに上質な物だった。舌鼓を打つ霖之助を見て嬉しそうに微笑むのが永琳である以上、これを作ったのは永琳なのだろう。

 席も特に騒がしいものではなく、静かで、それでも稀に笑い声が響く程度には賑やかなものだった。霖之助にとっては、至れり尽くせりの一席である。

 

 筈だ。

 しかし、世の全てが円満ではないように、世界の小さな縮図たるこの居間にも、黒い澱みがあった。

 永琳の前で箸を食い千切らんばかりの勢いで噛み続けている優曇華である。

 この少女、霖之助に隙あらば目で殺しに掛かってきている。勿論、霖之助もやられてばかりではない。故に、彼と彼女は、こんな暖かい席上でありながら目だけで下記される様な会話をしていた。

 

 ――いい気にならないでよ、この半端者。

 ――ほう、君には僕がいい気になっているように見える、と?

 ――そうじゃないの。何よ、鼻の下なんて伸ばして、だらしない馬鹿面。

 ――そういう君はまるで般若面のようだ。若い女性としてどうなんだろうな、それは?

 ――なんですって……! あんたねぇ! 本当もうねぇ! プチ殺すわよ!? 指とか反対に曲がるようにしてやりましょうか!?

 ――便利だね……その調子で膝が反対に曲がるようにならないかい、君が。

 ――なにその気持ち悪い私! ……ちょっと、想像しちゃったじゃないの!!

 ――あぁ、想像力豊かな事は良い事だよ。

 ――良くないわよ! 何これ夢に出そうなんだけど!?

 ――僕から言えることは一つだけだ。……頑張れ。

 ――あんたが原因でしょ!?

 ――気をつけろ……それは、見たものを呪い殺すらしいよ?

 ――私なのに私を呪い殺すの!?

 ――通称、枕返しだ。

 ――枕関係ないのに!?

 ――あと、特技は袖引きだと聞いた事がある。

 ――枕全然関係ないの!?

 ――……君、実は面白いな。

 ――遊ばれてる、私!?

 

 もう一度記しておくが、目、だけで、である。

 何故にここまで目で会話できるかは兎も角、概ねこんな話をしてた。

 しかも態々永琳と輝夜とてゐの目を掻い潜って。

 無駄である。本当に無駄な労力である。

 

 

 

   ●

 

 

 

 楽しければ楽しいだけ、時間の流れは速くなる。宴会は、恙無く終わり、あとは霖之助がここから帰るだけである。

 少々の諍いもあったが、それはそれで霖之助にとって有意義、とまでは言えずとも、十分暇つぶしになる物ではあった。そして、それに関して霖之助は思う事があった。

 

 ――彼女は、あぁ見えて律儀……なのだろうな。

 

 件の優曇華嬢、彼女は霖之助と永琳が話している最中は決して、生まれたての雀程度ならなんとか驚かす事も出来るかも知れない程の殺気をもった瞳で邪魔をしてこなかった。

 意外に無害だという意味であって、本当にそうだという訳ではない。輝夜、てゐ、彼女達と霖之助が話している最中も、優曇華は同様だった。理由あって霖之助を嫌っているのだろうが、彼女は悪い者ではない。

 霖之助当人は、そうだろうと思っていたが、今回の件でそれに間違いないと確信を抱いた。

 そんなどうでもいい確信を抱いた彼は、何故か現在――……

 

「いい、絶対入ってこないでよ!」

「……あぁ、言われても絶対入らないよ。聞いた話だけれども、最近じゃあ部屋を片付けられない若い女性が多いらしいじゃあないか。うん、違うんだ。別に君がそうだと言っているわけじゃあないんだよ、流してくれて結構さ。あぁ、是非流してくれ」

「こ、このぉ……!」

 

 優曇華の部屋の前で、立って居た。

 

「それで、僕はいつまでここにこうやって立っていれば良いんだい? いい加減、君の部屋の襖も見飽きていたところなんだがね?」

「じゃあ廊下の床でも眺めてなさいよ」

 

 襖の向こうから、優曇華の不機嫌な声が響く。霖之助は襖から目を逸らし、天井を見上げる事にした。

 言われた事に反して上を向く霖之助の耳朶に、小さな笑い声が入り込んできた。

 

「貴方も優曇華も、可愛いわねぇ……本当、素直じゃないんだから」

「男に、可愛い、はどうなんだろうか……」

 

 小さな笑い声の主は、口元を手で隠す永琳だった。霖之助が永琳の評に苦い顔をしていると、襖が開いて優曇華が飛び出してきた。

 その勢いのまま、彼女は霖之助の掌をとって無理矢理小銭をねじ込むように置く。勢いとは言え、男性の、しかも嫌っている筈の霖之助の手を取った優曇華の顔には不思議と不快感は無く、

ただただ憤怒の相だけが見て取れた。

 

「傘の代金、これで良いでしょ! もう借り貸し無し! 良いわね!」

 

 霖之助は渡された小銭を見て、数え、それを一枚摘まんで優曇華に差し出す。

 

「……何よ?」

「多いよ」

「あ……うん、そう?」

 

 少しばかし呆気に取られとし、優曇華はその差し出された小銭を受け取ってポケットに仕舞った。

 

「あぁ、多いね。君は物の相場を知るべきだ」

「う、五月蝿いわよ……」

 

 口惜しさからそっぽ向く彼女に、永琳は先程の笑みを浮かべたまま声を紡ぐ。

 

「本当に可愛いわね……貴方達」

 

 だから優曇華は驚いた。

 

「い、居たんですか師匠!?」

「さっきからずっと」

「あぁ、さっきからずっと居たよ」

「……き、気付いてたなら言ってよ!」

「気付くだろう、普通」

 

 優曇華の小さな非難の声に、霖之助は律儀に付き合って小さな声で返す。

 身を屈めた為か、優曇華に近づいた為か……彼の目は、開かれた襖の向こう、優曇華の部屋の棚の上にある、彼の良く知った花瓶を見つけた。

 

 霖之助は背を伸ばし、優曇華を見て……永琳を見た。彼の一連の動作に優曇華は怪訝な顔を見せ、永琳は笑顔のまま続きを待つ。

 

「あぁ、あれが永琳から貰ったという花瓶かな?」

 

 霖之助は、優曇華にそう語りかけた。

 何事かと訝しむも、前に自身が主導権の得る事が出来たと思っている話題の無いように気をよくし、舌を回す。

 

「え、えぇそうよ。良い花瓶でしょう、貴方の店に在ったあんな――」

「良い花瓶だね。流石永琳と僕で選んだ花瓶だ」

 

 優曇華はその言葉に、ぴしりと動きを止める。

 

「……え?」

 

 鼓膜に響いたその音の内容が判然としなかったのか、意識として聞きたい物ではなかったのか。

 彼女は良く分からないと言った顔で、霖之助と永琳を茫然とした顔で見る。

 

「えぇ、あれは確かに霖之助の店で選んだ物だけれど」

「……えぇええええええ――……」

 

 だが、そこで話は終わりではない。彼女の目は、確かに見たのだ。

 この時、まるで捕食者のような瞳で彼女――優曇華を見ていた、霖之助の物騒な双眸を。

 それは彼女が良く知った瞳だった。彼女のここに来て以来の日常において、一応部下に当たる地上兎の統括者が、優曇華に"何か"する時、良く見せる目。

 

「あの花瓶を買うとき、永琳が最後までどっちにするか迷っていた花瓶があったね。今それを良く見える場所に置いてあるんだが、悲しいかな、先日ちょっとした寂しいお言葉を貰ってしまってね……片してしまう事になってしまいそうなんだ」

 

 その語られる内容に、優曇華は大粒の涙を浮かべ、大きく開かれた口から意味も無く、あわわと零していた。

 がたがた震えながら。

 

「あら……あれも良い意匠の花瓶だったのに……残念だわ」

 

 それまで浮かべていた笑顔を崩し、心底残念だという顔を見せる永琳に、優曇華は、はわわと零しながらわたわたおろおろし始める。

 

「で、その原因を作った存在なんだが、永琳、何と言ったと思う、これがまた酷いもので――」

「あー! 私森近さん送って行きますねー! さぁ森近さん、さっさと行きますよー!!」

 

 霖之助を無理矢理掴んで、彼女は廊下をどたどたと走っていく。

 後に一人残された永琳は、ただただそんな二人を眺めている事しか出来なかった。ぽっかりと空いた、自身の胸の空白を意識しながら。

 

 優曇華に無理矢理引っ張られて行く霖之助は、だからこう言った。

 

「もう一度言っておくよ。君は物の相場を知るべきだ」

「う、五月蝿い!」

 

 涙目で、優曇華は走っていく。

 

 

 

   ●

 

 

 

 玄関の扉を開けると、また雨が降っていた。

 ざぁざぁと振るその雨の勢いは酷いもので、これほどの降水量ともなれば五月蝿い物だと思うのだが、先程まで奥まった部屋に集まり、杯を傾け舌鼓を打って喧騒の中にあった彼らは、それに気付けなかった。

 

「君と僕、さてどっちに雨が憑いているのかな」

「勿論そっち」

「かも知れない、僕は五行だと水に当たるからね」

「どうでもいい」

 

 常人ならば間違いなく躊躇する豪雨の中を、二人は歩いていく。

 

「しかし、今月は良く降る……梅雨もあけたというのに」

 

 一人は饒舌に。

 

「あぁ、もう、貴方……ううん、あんた五月蝿い!」

 

 一人は無愛想に。かつ怒声を放って。

 

「霊夢や魔理沙にも偶にそんな事を言われるね」

 

 永遠亭にあった傘を借り受け、霖之助は先を歩く少女を見ながらそう言った。香霖堂で買った傘を差して、肩を怒らせて歩く少女を見ながら。

 

「んんもう……あんたもてゐも、私を怒らせて楽しいのかしら……?」

「さて、どうだろうか」

 

 掴めぬ霖之助の返答に、彼女は息を吸って気負い口を開く。一つ、はっきりと形にしてしまおうと。

 

「私は、あんたが嫌いだわ」

「だろうね」

 

 だと言うのに、霖之助はあっさりと受け止めてしまう。

 なものだから、優曇華は口を大きく開き、間抜け面を見せてしまう。嫌っている、そんな霖之助相手に。

 

 霖之助は、そんな歳相当とも言うべき愛嬌のある顔を見たまま、

 

「君が僕を嫌っている事なんて、とうに分かっていた事だし、君だってそのつもりだったんだろう?」

 

 問うた。今までは間違いではないのだろう、と。

 

「……え、えぇ……そうだけど、そこまで普通に返されると……何と言うか」

 

 霖之助は優曇華の言葉に、肩をすくめ口元を歪めた。これが彼のささやかな笑顔だと知らない優曇華は、思わず警戒してしまう。

 立ち止まり、身を固め、次に備える優曇華を無視して、彼は歩きながら喋る。自然、二人の距離が狭まっていく。

 

「嫌われて好い気はしない。けれどね、鈴仙。それはまだマシだと、僕は思うわけだ。僕は道具を作るんだがね、そういう時、一番困る事がある」

「?」

 

 少々方向の怪しくなっている言葉に、優曇華は首を傾げた。

 

「評価を得られない事だ」

「……?」

 

 益々彼が何を言わんとしているのか分からず、優曇華の頭は混迷を深めた。

 

「褒められたのならば、次を作る意欲になる。怒られたのなら、それは次への宿題となる。だろう? 作った以上、次はそれ以上でなければならない。意見は貴重なものだ」

 

 聴いた言葉をなんとなく、なんとなく意味を理解し始めた優曇華は、小さく頷いた。

 

「一番辛いのは、意見を貰えない事だ。次に如何するべきか、問題点はどうだったのか、自分の作品はどうだったのか、分からないのは辛いよ。君の事に当てはめて言えば、そうだな……薬草を煎じて薬を作ったとして、永琳から言葉をもらえなかったら、どうだい?」

 

 彼に言われたことを、彼女は想像してみた。

 

 ――……あれ、それって困るんじゃない?

 

「ほら、困るだろう?」

 

 優曇華の表情から言いたい事を読み取り、霖之助は続ける。

 

「褒められたら、次も頑張れる。怒られたのなら、どこがおかしかったのか聞き出して改善する事もできる。存在同士の関係も、これだよ鈴仙。無視されていたら、もう次はただただ困るしかないんだ」

 

 彼女は頷いた。この関係は確かに良好な物ではないが、改善される可能性のある、まだどこかに歩み寄りの余地がある関係だ。

 双方、どちらかが無視をしている限り、可能性は限りなく低く、改善は無いと言っても過言ではない。そして優曇華は、霖之助をきつい双眸でねめつけた。

 

「……これ、釘を刺したって事じゃないの?」

「なんだ、そこそこに頭が回るんじゃあないか、君も」

「私は……」

「これから先、君が無視しない事を僕は祈るだけだ」

「あんた、祈ってばっかり」

「神ならぬ半端者だから、慈悲に縋って世を渡るしかないんだ」

 

 そう言う霖之助の瞳には、しかし挑発的な光が見て取れる。

 優曇華は、何か返してやろうと特に考えないまま言葉を紡ぎ上げようとして――

 

 突如奔った雷鳴の鋭さに、傘を放り投げて小さく悲鳴を上げながら、傍まで来ていた霖之助に飛びついた。

 全く、意識せぬまま。

 

 少女一人と言えど、一切の容赦なく全力で飛びつけば、大の大人でも無事ではいられない。

 現に、霖之助はその衝撃から体を揺らし、手からは永遠亭で借りた傘を零れ落ちていた。

 

 ざぁざぁと、時にごろごろと鳴り響く空の下、尋常ならぬ雨の衣の中で二人は何をするでもなくそのまま佇む。

 震える体から力を抜き、優曇華は今誰にしがみ付いているのかに思い至り、飛びついた時同様に声もなく、たたらを踏んで離れる。ぬかるんだ地面は連続で踏まれた事で粘着的な音を立てて、それを飛ばし少女の顔に付着させた。

 それでも、少女はそれに気付かない。

 

 一方の霖之助は、濡れた頭と首筋を持っていた手ぬぐいで拭い、落ちた傘を拾い上げていた。

 別段、挙動に常と異なるところはなく、ただ霖之助と言う存在そのままに動いている。そのまま、同じく足元に落ちていた優曇華の傘を拾い上げ、目の前で何やら悔しげな顔をしている優曇華に、いつかの様に傘を手渡した。

 

「そそっかしいな、君は」

「う、五月蝿い! 良い、今のは無し! 今日はこんな事無かった! そうよね! そうでしょ!?」

 

 必死に言い募る優曇華に、霖之助は何も応えず、呆れた顔しか浮かべる事しかできなかった。

 が、その顔が少しばかり曇る。

 

「……な、何よ?」

 

 無言のまま自身の顔を見つめる霖之助に、優曇華は狼狽した。

 そんな彼女を無視して、霖之助はズボンのポケットから手ぬぐいを取り出す。

 が、溜息を吐いた。目の前の男が何をしているのか優曇華は分からず、彼女は思ったまま口を開く。

 

「な、何をしているの?」

「いや、手ぬぐいがこの通り濡れて使い物にならなくてね……服の袖――……あぁ、傘を落とした時に濡れたな、ここも」

「……? ねぇ、あんた本当に何を――」

 

 霖之助が濡れていないズボンで軽く手を拭い、それを伸ばす。

 

「すまないが、手で失礼するよ」

 

 優曇華の頬に触れた指先は、掌は――

 

「――……」

 

 誰かのように冷たかった。

 

 

 

   ●

 

 

 

 雨雲の帳の向こうで淡く光を放つ月を窓から見ながら、永琳は化粧台を前に座っていた。

 化粧台に掛けられた布は人の手に触れられたという温かみにかけた物で、見る者が見れば長く使われていない物だと分かる物だった。

 実際、彼女は長くこの化粧台を使う事が無かった。常の化粧は薄く簡素な物で、態々化粧台を使う必要も無かったからだ。

 今彼女は、そんな使う事無かった女としての道具を前にして、ただ月を見上げている。はっきりとは見えない、そんな雨の向こうの月を。

 

 独りきり。雨の音以外、何も音が無い筈のその空間に、声が響いた。

 

「面白い男だったわね、永琳」

「……姫」

 

 永琳の部屋の入り口、無造作に開け放たれた襖の向こうに、輝夜が立っていた。

 

「姫、作法がなっていません」

「今日は教育係と生徒だった事を忘れて、女同士、腹を割って話がしたいのよ。良いでしょう?」

 

 永琳の鋭い非難にも一切顔色を変えず、輝夜は平然と部屋に入り襖を閉めた。

 たったそれだけの挙動だと言うのに、それは見る者に清流の様な涼やかさと静かな世界の美しさを感じさせる。だが、永琳は何も感じない。

 当然だ。そう出来る様に、そう在る様に教えたのは、他ならぬ彼女なのだから。

 

 輝夜は一つスカートを払い、永琳の前に座った。

 

「今まで見てきた、貴方の夫だった男達とは、また随分と違った者だったわね……あれは」

 

 永琳は、何も言わず、輝夜を見ようともせず、ただ窓から覗く小さな空を見上げている。 

 会話する、対話するという中にあって在っていい作法ではない。だが、それを咎める者がいない以上、それは今許された事なのだ。少なくとも、二人の間では。

 

「今までの貴方の背と言えば、落ち着いた大人の男達、それも高位の公達や文官だったのに、随分と変り種を持ってきたじゃない? 最初、本当にあれが貴方のお気に入りなのか、疑ったわよ?」

「……そうですね」

 

 永琳は応えながら、かつての男達を脳裏に思い浮かべた。

 皆高い地位につき、野心的な男、知識を求める男、求道者、或いは、枠の中で有能であった男達。

 

「私は、知識や知恵の中でしか、男を選んで……いえ、選ばれていませんでしたから……」

「えぇ、それを奪おうとして、利用しようとする男にしか、縁が無かった」

 

 棘のある言葉で、輝夜は言う。

 

「……初めは、皆そうじゃなかったんですよ……姫」

「結果が全てだわ」

 

 輝夜は吐き捨てる。

 汚らわしいと言わんばかりの顔で。

 

 男達は、愛を囁く。

 美しく、気高く、聡明な華を自身が手折ろうと、愛で永琳を求めた。真摯な男達の求愛は永琳の胸を打ち、その幾度か彼女は応じる。

 

 そして、真摯な愛は時の流れの中で泥に濁り、手折った華へ水をやる事を忘れた。

 

 最初に愛があろうとも、いや、愛があるからこそ、それは重荷になっていく。

 

 男と言うのは面倒な生き物で、ただ美しいだけの女性を望む傾向がある。

 知識や知恵は無い方が、厳密に言えば、自分より低い方がいいのだ。自身以上に優れるのは容姿だけでいいと、男達は言外、またははっきりと言葉の中に含めて社会を築いてきた。

 事実、過去の歴史と社会を見ればそれは如実に、探す必要も無く散見される。権力の為の道具であれば良い、賢しい言葉を持って家を乱す様な者は必要ない。

 

 美人で、少々足りない程度を可愛く思えるのが男であって、すべてが自身を凌駕する女性の傍では、男は自身を否定されているような気が先に立ってしまう。

 言ってしまえば、彼女は余りに完璧すぎたのだ。男にとっては、忌避の感情が強く濃く出てしまうほどには。

 

 彼女とて女性だ。異性との語らいに楽しみが無い訳ではない。

 異性と言葉を交わし、何も感じられないと言うのなら、それは性別の死である。

 男でも女でもない、何かになってしまっているのだ。だが、永琳は女でありたかった。その性別で世に生まれ出でた以上は、女である事を恥じるも誇るも無く、平然と女でありたかった。

 

 しかし、男は彼女を拒む。愛を囁いて、その高い知識と教養を求めておきながら、家庭を築いておきながら、いつしか。いつしか、お前は可愛くないと、お前は面倒だと、お前は俺を馬鹿にしていると。

 そんなつもりは無くとも、男は被害妄想からそんな言葉を叩きつけ永琳から去っていく。永琳から知識と知恵だけを借り出し、持ち出し、去っていく。

 

 老いる事も無く、美しいままある彼女を最初だけ喜んで、自身が老いに蝕まれだすと在りもしない邪推に簡単に足を取られる。

 そして、容易に転ぶのだ。

 

 "こんな老いた俺に満足しているはずが無い、あいつはツバメを囲っているんだ"

 "俺の知らない間に、逃げてしまうんだ"

 "微笑んでいたって心の中じゃ、馬鹿な俺を、賢いあいつはほくそ笑んでいるんだ"

 

 愛人、仕事、新しい家庭。

 男達は空想の中にある自身が築き上げた邪な永琳に裏切られる前に、自分が先んじて裏切る事で痛みなく、どこかへと消えていく。痛みを与えられるのは、愛という不確かな物を信じたまま残される永琳だけだった。

 

 傷口は痛み、膿を出し、長い時間の中でようやっと癒されていく。

 それでも、繰り返しそれは襲ってくる。信じれば信じただけ、彼女は裏切られて捨てられる。

 女として完璧でありながら、女として在る事の出来ない永琳は、愛という怜悧な刃物に幾度も殺され、それでも今、愛をまた信じようとしている。

 

「酷い物だわ……それだけ。たったそれだけの事で――子供が産めないと言うだけで、貴女は呪いに自分からかかっている。これ程に聡明な貴女が」

 

 残せないから、せめてそれだけでも残そうと、永琳は愛を信じる。

 

「……所詮、理性や知性で御せるものではないのですよ……心は。そこに在るか分からないから、薬で消す事もできない……開いて、取り除く事もできない」

 

 永琳の体は、心は女だ。その身の総て、その心の総て、彼女の血も肉も、思いも願いも、生も性も女だ。

 だと言うのに、彼女の子宮は退化器官のように中にあるだけで意味を持たない。女でありながら、彼女は女として意味がない。

 

 何度夢に見ただろう。永琳は雲に包み込まれた月を見ながら淡く息を吐いた。

 何度も夢に見た。

 

 愛した、愛する男の赤子をこの手に抱き、赤子に頬ずりをし、囁く。貴方の母だ、と。お母さんだと。

 

 その当たり前が彼女には用意されなかった。

 蓬莱人。

 ただそれだけで、それが用意されなかった。月は神秘を女に与えながら、しかし月に住まう存在に恩恵を与えなかったのだ。

 それはどれ程の皮肉だろうか。それはどれ程の呪いだろうか。

 

 女としての生に見切りをつけた輝夜とは違い、永琳はそれを夢見る。女として完成体に近い彼女が、そんな女の当たり前の能力に夢を見る。

 

 だから彼女は見上げる。

 死を前にした痩せ衰えた老犬の様に、寒い夜空を見上げる。月と言う届かぬ光を。

 眩い、向こう側の世界を。愛の先にあるだろう、淡い命の輪郭を。

 掌の上にのせる事は出来ないと分かっているからこそ、手を伸ばす。

 

 人が見れば滑稽だと笑うその思いの先を、輝夜は目を閉じて哀れに想った。だから永琳は、首を横に振る。

 

「いいえ、輝夜……哀れだと想ってもらう事は、ないわ」

「でも、貴女は哀れだわ、永琳。愛なんて、私達には無くても良い物なのに、貴女はそんな物を欲しがってしまっている。哀れだわ」

 

 輝夜は断言する。

 

 故に、

 

「いいえ、輝夜。それでも私は、貴女より幸せだもの」

 

 永琳もまた断言する。

 

「あの人が私の用意した食事を食べて、笑ってくれた時……私はこの上もなく嬉しかったのだもの」

 

 自身のどこかに在る心が宿した火種は、今はもう炎となって愛の形を照らし出したと。

 

「貴女は、こんなにも熱い感情を知らないでしょう?」

 

 輝夜は緩やかに首を振り、永琳と同じ様に、窓から見える空を見上げる。

 

「……ねぇ、永琳」

「なぁに、輝夜?」

 

 二人、見えない月の下で言葉を交わす。

 

「貴女が今度こそ、幸せになって、傷つけられないで……愛なんて物を全う出来たのなら」

「出来たのなら?」

「……私も、それをしてみようかしら?」

「……えぇ、その時は、また一から教えて差し上げますよ、姫」

「じゃあ、楽しみに待っておくわ……貴女の幸せと、笑顔を」

 

 雨に濡れる空の下、彼女達は晴れやかに笑った。

 

 

 

   ●

 

 

 

 降りしきる雨の中、女達は笑い、男と少女は繋がりを持つ。

 未だ形の分からない繋がり――絆を。

 

 

 

 

   ――続

 

 

 

 

 からからと、それは回り出す。

 男と、女二人を乗せて。

 狭い世界でからからと回り出す。

 その狭い世界、檻、その中で。

 この世でも最も美しく、最も醜い。

 愛と呼ばれる物の中で、回り出す。

 からから、と。


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