香霖堂始末譚   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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こがさがひどいめにあってるはなし

「あぁ……馬鹿馬鹿しい」

 

 そう言って、女は大きな溜息をついた。

 

「あぁ、そうかい」

 

 居たのか。そんな顔をして、女は周囲を見回した。

 薄暗い屋内の、一室だ。狭く、暗く、そこら中に物が散乱した雑然とした部屋である。その部屋に置かれた机の前に、男が一人居た。手には女、風見幽香が常日頃愛用する日傘が在った。

 

「嘘つきの傘は、これまた嘘つきで困る」

 

 日傘を睨み付けながら口を開く男に、幽香は腰を預けていた椅子から立ち上がり、すぐ側まで歩み寄る。

 

「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花……ほら、全部嘘だ」

 

 幽香をちらりと見てから、男は鼻で笑った。座っていた時の彼女の姿は、格子の向こうで懺悔を繰り返す死刑囚を眺めるワーカーホリックにはとんと縁の無い看守その物であったし、立ち上がった姿は、得物を片手に戦場へと向かう一方的蹂躙を確信した重武装の歩兵の様であった。

 そして男へ歩み寄る姿は大型の肉食獣然としていた。総合すれば、物騒だ。

 

「花の妖怪を捕まえて、喧嘩を売るわけ?」

「君に角があれば、誰も勘違いしないですんだだろうにね」

 

 男は手に持っていた日傘を軽く振ってからうなずき、幽香に手渡した。

 

「君も日傘も、嘘つきだ」

「どこら辺が?」

 

 頬に手を当て、幽香は首を傾げた。ただし、細められた目の奥は一切の光が無く、泥中を連想させた。蓮の花の無い泥であるから、風情も優しさも彼方の果てである。

 

「君は君で、そんな姿で実に凶暴だし、君の日傘は日傘で、どこが悪いのかはっきり言わない」

 

 ばねが悪いのか、螺子が緩んでいるのか、骨子自体が捻じ曲がったのか。解体するまではっきりと見せることが無い日傘と。

 ふわりとした緑の柔らかそうな髪と、きらきらと輝く瞳の美しさと、緩やかに女性らしい曲線を描く香る程優美な幽香の、その桁外れの剛力と。

 それらを嘘つきと言って許されるなら、それは間違いなくそれその物だ。男は鼻から小さく息を吐くと、机の引き出しから煙管を取り出し加え、無造作に煙草を詰め込み火をつけた。

 

「聞きなさいよ。いきなり吸うのはマナー違反でしょ。調子に乗ってるなら、つぶすわよ?」

 

 眉をひそめて抗議する幽香に、男は灰皿を膝元に寄せながら

 

「で、今日はどんな風に潰したんで?」

 

 机の上に置かれた、日傘の修理の際に交換された布の、赤茶色の染みを指差して、男はにやりと笑う。

 

「……あれよ、ほら、いつも通りね」

 

 幽香は自身の前髪をかき上げ、どうしたものか、といった貌で返す。

 

「いきなり見たことも無いどでかい妖怪に喧嘩売られたから、殴り倒して引きちぎって肛門から日傘突っ込んで脳天まで貫通させただけよ」

「そりゃあ、ばねも狂うし螺子も緩むし骨子も歪むし布も洗浄不能なほど汚れるわけだ……ところで、この赤茶色……脳漿とかそういった物だろうね?」

「そうじゃない?」

「今度からは、まずどうやったか言ってから修理を頼んでほしい」

「えぇ、今度からね」

 

 どうでもいい、と貌で語る幽香に、男は。

 森近霖之助は、煙管の中の煙草をとん、と灰皿に叩きつけ取り出し、息を吸った。

 

「さぁ、修理も終わった。さっさと帰ってくれないか?」

「嫌よ?」

 

 だから吸った息を吐き出した。当然、とばかりに自身の側に佇む佳人を半眼で眺め、霖之助はもう一度息を吸った。

 溜息をつく為に。

 

 ――どうしてこんな物騒な妖怪と私室で向かい合わなけりゃいけない。

 

 深くなっていく眉間の皺を意識しながら、霖之助は天井を仰ぎ見た。

 相当に暇なのだろう。隣に幽香も、それを真似ていた。それほどに暇でも、幽香は部屋から出て行く気配は無い。

 かけらも、なかった。

 

 

 

   ○   ○   ○

 

 

 

 後の世、某書物において日光回避の専門家とされてしまった霖之助ではあるが、稀に、極々稀に陽の下に身を晒すこともある。人里を適当に歩くこともあれば、未知なる道具を求めて無縁塚までリアカーを引いて汗を流すことも少なくは無い。

 気になった事を人伝に聞いて納得する行動の鈍さはあるが、逆に言えば気になった事があるのに誰も家に来なければ自身の足で情報を拾いに行く事もあるのだ。その日は、最近あった異変の顛末を人里の守護者に聞きにいった帰りであった。

 新緑の匂いが深まり、鼻腔をくすぐる生命の匂いに若干の居心地の悪さを感じをながら、未だ高くにある陽を忌々しげに睨んでいる、まさにその時だった。

 霖之助の耳に、水の跳ねる音が聞こえた。気にするような事でもないだろう。

 偶の外出で、道を歩くような者でもなければ、道の側を流れる川で、小魚が跳ねた程度だと思ったに違いない。が、霖之助はその、偶の外出だ。興味をそそられた彼は道から外れ、特に草も刈られていない、音源たる小川を目指した。

 ふらりふらりと歩き、さしたる時間も消費せず音源は見つかった。倒れた一人の少女と、舌をびろんとだした傘が一つ。その側で、女性が持っている日傘を川に突っ込みかき回していた。

 

「あぁ、もう……これは想定外だわ……やってくれるわね、この小物」

 

 ちらり、と忌々しげに倒れている少女を睨んだ女性は、その視界の端に移った人影を異に思い、振り返った。

 

「あら、こんにちわ」

「……あぁ、こんにちわ」

 

 挨拶。ただそれだけだ。

 そのくせ、その日常的なそれが、何かひずんで見えたのは霖之助の気のせいであったのかどうか。

 

「最近は物騒よね」

「あぁ、そうみたいだね」

 

 困った、といった貌で話を続ける女性から目を離し、霖之助は川原に伏せた少女を見た。胸は上下している。生きている事は間違いない。目に見える怪我らしい怪我は、顔を覆う紅い殴打の痕くらいだ。命に別状はないらしい、と霖之助は貌を上げ、女性を見た。

 美しい女性である。柔らかげで、目の端には慧敏の験が見えた。ただ、慧敏には様々な質がある。刃物染みた恐ろしさを感じさせる物もあれば、対となる愚鈍の後ろに隠れる物もある。

 そして女は、明らかに前者だった。対すれば舌であろうと腕であろうと切って捨てる抜き身の輝きが見える。

 

 ――危ない。

 

 霖之助自身、智慧の徒であるという自覚がある。天風威風、人知を超えた力が確固と存在する事は理解できていても、精神を得た存在が最後に宿し振るう事が出来るのは智であると信じた。

 強力を振るって。そんな事を許されなかった彼は、自らの脳袋に沈み溜まっていくそれに縋る事で無力を嘆く事を忘れた非力な生物だ。

 認めようと認めまいと、力の有無は人でない者にとって絶対に等しい。故に、知識を求めた。そんな霖之助が、目の前の女の慧敏を恐れた。

 

 ――触れてはいけない。

 

 我知らず。まさに我知らず一歩下がろうとした霖之助は、その行いを許されなかった。

 

「少し手伝ってくれないかしら?」

 

 声だった。助力を求める声であったが、向けられた女の目には反対を許さないとはっきりと語っていた。

 好奇心が僕を殺したのだ。霖之助はそんな事を胸中でつぶやき、一歩前に出て恭順を示した。

 

「そう、賢い男は嫌いじゃないわよ?」

「でも、こいつは弱いと馬鹿にはしているんだろう?」

「歯牙にかけていないだけでしょ? これみたいに腕も頭も弱ければ叩く程度でやめるけど、小賢しいのなら引っこ抜くわよ」

 

 未だ伏せたまま、うらめしやー、などとうめき出した少女を一瞥し、女は鼻で笑った。

 攻撃的感情の見える笑みだった。その笑みが、霖之助の背を押す。

 

 ――聞いた事のある風貌だ。

 

 里か、山か、川か。どこかで誰かが噂していた、"大妖怪"の話。

 

 嫌でも勝手に進む自身の足を冷たげに眺め、明日は家から出るものか、と霖之助は誓った。女は動かず、男は動く。やがて距離は縮まり、もう触れる事も殺す事もできる、といった間合いに入ったとき、女は無造作に腕を突き出した。

 霖之助の頬に水滴が幾つもぶつかり、今日の暑さと水の冷たさを思い出させた。自身の胸あたりに突きつけられた、先ほどまで小川に浸されていた日傘を見てから、霖之助は視線を女の目に移し首をかしげた。

 

「で?」

「これ、洗って頂戴」

「……」

「……」

 

 互いに無言のまま佇んだ。

 ぬるい風が一陣凪ぎ、木々から小さなざわめきが起こる。

 先ほどの風で少しばかり乱れたのか、女は髪を撫で付け

 

「これ、洗って頂戴」

 

 全く同じ事を口にした。

 

「……どういう事だい?」

 

 この疑問は当然の事だ。

 いきなり洗えと、見知らぬ女性に言われて、はい洗います、とはいかない。命欲しさに恭順を示した身とはいえ、ここまで奇矯な願いなら戸惑いや躊躇は許可されてしかるべきである。

 

「なるほど、説明をしろと言うのね、この賢げに見えるだけの小者は」

「ここまで意味不明なら、仕方ないと僕は思うんだが」

 

 口答えする霖之助を軽く睨んでから、女は腕を組んだ。

 

「そう……よく聞きなさい」

 

 不満はあるが、説明はするらしい。霖之助はとりあえずうなずいて、彼女の言葉の続きを促した。

 

「今日の暑さは、酷い物よね」

「まぁ、そうだね」

「で、家で陽を避けていたんだけれど、我慢できなくなったわけ」

「ふむ」

「小川に行って少し涼もうかと歩いてここまで来たら……どうなったと思う?」

「さぁ」

「この酔っ払いみたいな小娘がね」

 

 つん、と倒れたままの少女をつま先で軽く蹴ってから、女は前髪をかき上げた。

 

「うらめしやー」

「……」

「……」

「は?」

「うらめしやー」

 

 霖之助は天を仰ぎ陽の高さを確かめてから、地に伏せた少女を驚愕の瞳で見つめた。

 

「……こんな、真昼間に、うら、めしや?」

「そう、こんな真昼間に、うらめしやーって言っていきなり目の前に躍り出てきたの」

 

 女は溜息をついてそっぽ向いた。

 

「で、私が呆然としていると、なにか成功だとかこれでもう幻想郷貰った私の――じゃ、じゃなくてわちきの伝説がここからマッハ! とかはしゃぎ出したから」

「はしゃぎだしたから?」

「日傘で殴ったのよ」

「あぁ……」

 

 なるほど、と霖之助は頷いた。

 仰向けに倒れた少女の貌を走る横一文字の赤い殴打の痕は、つまり女の日傘が火を噴いた痕なのである。

 

「顔の真ん中を突きで貫通させて穴を開けてやってもよかったんだけど、余りに無邪気に喜ぶ姿で哀れでね……仏心を出したわけよ」

「……仏心」

 

 うんうんと呻きだした地に這う少女に、霖之助は軽い同情を覚えた。

 

「私も、初めて刃向かってきた妖怪を潰したときは、あぁ、こんな風だったって思ったのよ」

「次元が違うと思うんだ」

「で」

 

 霖之助を無視して、女は続ける。

 

「それはまぁ、良いんだけれど。良くはないけど、良いんだけれど……殴った際に鼻の辺りをやったから、ここにこいつの鼻水とか鼻血がついたのよ」

「……」

 

 伏せているとはいえ、それなりに可憐……一歩前と言ってもいい容姿の少女だ。鼻水だの鼻血だのというのは、何か酷である。

 

「で、君はそれを洗っていたと?」

「そう。触りたくないから、川に日傘を浸して混ぜていたんだけれど、落ちないのよね……」

「なるほど」

「だから、はいお願い」

 

 渡された日傘の重さを確かめて、霖之助は目を伏せた。

 

 ――誰を恨めばいいのだろう。

 

 少なくとも、ここで倒れている少女を軽く日傘で小突いても非難の声が上がる事はないだろう。 そんな事を思ったが、結局行動に移す事は無かった。

 

「被害者同士、だからなぁ」

 

 懐に仕舞っていた懐紙を取り出し、霖之助は今日の不幸を呪った。

 

 

 

   ○   ○   ○

 

 

 

 後の世、某書物において日光回避の専門家とされてしまった霖之助ではあるが、まさにその通りであった。過日に起きた喜劇的な悲運に嫌気が差し、彼は陽の下で歩む事に強い拒否感を持つに至ったのである。

 元々が厭世的とでも言うか、世捨て人的存在である。その癖どうにも俗物的存在ではあったが、家に篭って過ごす分には、森近霖之助という男は適していた。

 種族的な特徴で食料を必要としない身は買出しを必要とさせず、某所から拾ってきた書物等は倉庫の積み上げられるほどあるのだ。それらを読み、一文を捉えては意味を深淵に解するために思考の渦に身を任せる。それだけで陽と月は彼の上を知らぬ間に何度も巡った。であるから、その日もそうなるのだと彼は信じて疑わなかった。

 疑う余地などどこにも無かった。その筈であったのに。

 

「カビだらけね……ちゃんと掃除してるの、この家」

 

 ここ数日、誰も開かなかった自宅の扉のその向こうに。

 

「さて……お願いできるかしら?」

 

 少しばかり汚れた日傘を持つ女が立っていた。

 霖之助は読もうとしていた本をテーブルに置いて、頭を抱えた。

 

「……誰にここを?」

「里で優しく聞きまわって居たら、丁寧に教えてくれたわよ」

「あぁ、そうかい」

 

 霖之助は仙人ではない。俗世と交わりを絶って生きている分けではないのだから、自ずと所在はばれている。

 特に隠しても居ないのだから、それは仕方の無い事ではあった。が、こうも物騒な者が住処を特定してきたとなれば、どうして昔日の自分は隠すという事を怠ったのだと自戒の念に囚われないでもなかった。

 

 こつこつ、と自身の額を人差し指で叩く霖之助を珍しげに眺めていた女は、一切の遠慮なく家屋に入り扉を閉めた。

 

「……薄暗いわね、ここ」

「陽の下は嫌いなんだ……今しがた、屋内も嫌いになったけどね」

「じゃあ水中にでも住めばいいんじゃないかしら?」

「あいにくと、僕はそういう生き物じゃない」

「不便ね」

「そういう君は、水中で生活できるのかい?」

「出来るわけないでしょう? 貴方頭大丈夫なの?」

「……」

 

 霖之助は軽く呻いた。

 そんな彼に、日傘が差し出される。

 

「……なんだい?」

 

 反射的に道具を見ていた。

 全体的に汚れた日傘だ。よく見れば歪んでおり、これを日傘として使うには少々の無理があるように、霖之助には見えた。過日見た際には、もっと綺麗だった筈である。

 

「馬鹿が襲ってきたから、殴ったのよ。するとどうでしょう、なんと曲がってしまったのよね」

「当たり前だ」

「貴方が拭くあの日まで、こんな事はなかったわ」

「僕のせいだと言いたいのかい?」

「そう聞こえないの?」

 

 テーブルに肘を着き、手の甲に頬を預けたリラックスした姿。そんな姿で、女はにやりと笑う。

 

「私はね、子分には優しい女よ」

「僕がいつ子分になった」

「あの日」

「……」

 

 厄日であったのだ。

 あれはまさに、呪われた日であったのだ。

 

「で、優しい親分の私は、子分が暇しないように仕事を持ってきたわけね」

「優しさで涙腺が崩壊しそうだ」

「えぇ、えぇ、ないて喜びなさい小物くさい子分」

「親分、僕はもう貴方の優しさで胸が一杯だ。今から一人うれし泣きをしたいから、出て行ってくれないか」

「大丈夫よ、親分は優しいから、ないてる貴方の頭を静かに撫でていてあげる」

 

 視線がぶつかった。勘弁してくれ、と語る霖之助の視線と、弄り倒そう、と語る女の視線が。

 先に目を逸らしたのは、霖之助だった。無力な身としては、よくやった方であろう。

 せめて、と女の視線が本物の不快を宿す二歩ほど前で引いた手並みは、むしろ褒められてもいい。一歩前まで踏み込めないのが、霖之助の限界ではあったが。

 

「で、親分」

「あら、そのまま親分子分を続けるの?」

「……で、あー……」

 

 霖之助は女を見たまま、少し俯いた。

 知らぬわけではない。ただ、それは噂の領分で耳にした情報だ。

 確かな情報を――女の姓名を得ているわけではない。

 言いよどむ霖之助の、その悩みを察したのか。女は槍の透けて見える笑貌で名乗った。

 

「風見幽香。貴方は?」

 

 決闘前の名乗り上げに見えたのは、きっと幽香がそんな場面でばかり名のっているからだろう。 不憫な女性であるのかも知れない、と霖之助は思い、名乗りを返した。

 

「森近霖之助」

「変な名前ね」

「君の名前だって――」

「何?」

 

 ぎらりとした、どろりとした眼だった。

 

「いい名前だと思うよ、あぁ、心底思うさ」

 

 肩を落とし、投げやりに答える霖之助を鼻で笑い、幽香は自身の髪を弄りながら日傘を指差した。

 

「で、仕事の話ね。直せる?」

「僕の仕事は、道具の修繕ではないんだけどね……まぁ、直せる。忌々しい事に」

 

 眼鏡の置くにある眼を強く閉じて、霖之助は小さな声で応じた。霖之助は、無力だ。

 いや、人からすれば彼もまた力ある者なのかもしれない。しかし、彼は人ではない。半分だけではあるが、妖怪である。

 

 半人半妖。そんな半端な存在だ。

 だが、そんな半端な存在が非力であるかというと、そうではないという事例も多い。人と神の間に生まれたものは、時に神さえ手を焼くような怪物を殺している。

 吸血鬼にしても、人と彼らの間に生まれた者は長所の掛け合いが起こり優秀な者が多い。水に弱い、などという所まで似る場合もあるが、それでも強力である事に違いは無い。

 混じり者というのは、あぁ、なんと英雄の多いことであろうか。神話、伝承、口伝、土地を選ばず、人種を問わず、彼らは賞賛の賦で歌われるではないか。

 だというのに、霖之助は非力であった。種族的な力は特に無く、個人的な力も特に無く、先天的にも後天的にも、特に芽吹く才能は無い。そんな非力な彼に唯一与えられた、確固たる力こそが、道具に関わる物である。

 

 とにもかくにも、彼は道具と交わらずに生きていく事が出来なかった。自らの非力を晒したのはその能力であると理解はしても、憎む事が出来ない。これが個の力なのだとしたら、それは進むべき道への導にも思えたからだ。

 力を求めず、知恵を求めよ。そんな風に。

 

 結局、彼はそう生きる事にした。

 生来好戦的な性格からは程遠い自身であったし、それでいいだろうと諦めがついたのは、意外に早い時期だったと彼は覚えている。だから、道具と言えば彼にはどうにも他人事ではなかった。

 里の道具屋をながめては、主人や弟子達の修繕を見て覚え、自身の血肉としていた。道具屋の看板を見るたび、店の奥で道具に触れている店員を見るたび、胸の奥でうねる何かを漠然と感じながらも、彼はそうやって過ごしたのだ。

 

「まあ、じゃあお願いできるわけね?」

「そのつもりだろうに」

 

 どこぞの令嬢を装う幽香に苦笑を浮かべ、霖之助はやれやれと首を横に振った。

 

「ただし、僕のは趣味でやっている範疇だ。正確に直らなくても、怒らないでくれよ?」

「大丈夫よ、そのときは新しい日傘作らせるから」

「……難易度が上がっているんだが?」

「親分優しいから、その程度で許してくれるって事よ」

 

 ――どうせすぐ切れる縁だ。

 

 霖之助からすれば、接点の多い女性だとは思わなかった。

 力の強い妖怪。力の弱い半妖。

 半妖を探しに里まで聞きに行く上に、日ごろから決闘過多な行動的な女性。知的興味以外無視で家から出ない日陰専門家の男性。接点などあるはずも無く、どうせすぐに解れて失せる縁だと霖之助は溜息をついた。

 

 が、である。

 友人、知人、というカテゴリーを一度整頓すると誰もが、おや、と思う事があるだろう。確かに、自身に似た存在が多いのは事実だ。事実だが、どうにも、似ていない、接点の少ない友人知人というのは、確実に存在する。その癖、付き合いも付かず離れずで、気づけば長くを共にしている事は良くある。

 そう、そんな物なのである。

 

 

 

   ○   ○   ○

   

   

 

 ――どうしてこんな物騒な妖怪と私室で向かい合わなけりゃいけない。

 

 深くなっていく眉間の皺を意識しながら、霖之助は天井を仰ぎ見た。

 相当に暇なのだろう。隣に幽香も、それを真似ていた。それほどに暇でも、幽香は部屋から出て行く気配は無い。

 かけらも、なかった。

 

 あれからどれだけの月日が流れただろうか。

 それを考えるのも、もう霖之助は億劫だ。相当に長い時間である事だけは、確かである。

 

 ある時などは、幽香の大乱闘紛いの喧嘩に巻き込まれた事もある。

 ある時などは、幽香に貰った向日葵を病気にさせて怒られた事もある。

 ある時などは、丸々二日一方的に愚痴を聞かされた事もある。

 酒につき合わされ、散歩につき合わされ、最近の子分は親分に冷たいと詰られ、日傘の修理が遅いと怒られ、勝手に部屋の一室を別荘に改造され……

 

 いい思い出ではない。

 それでも縁は切れず、今もこうして霖之助は、その物騒な妖怪と向かいあっているわけである。

 日々は平坦で在って良い。そんな生き方の霖之助からすれば、息苦しい筈のその日々も、どうした事か悪くないのだ。良い思い出ではないが、悪い思い出でもない。

 風見幽香という女性と過ごした日々は、彼の中に在って形容しがたい色と意味を持ってしまっている。

 

 眼を閉じ、そっと眼を開き。仰ぎ見ていた天井から眼を離し、隣にいる幽香に視線を移した。

 いつの間にか隣に座っている幽香は直った日傘を見て常の貌で居た。

 長いまつげも、女性らしく柔らかげな頬の輪郭も、攻撃的な言葉をつむぎ易い小さな唇も、夏の新緑を思わせる深い緑の髪も、全部幽香だ。天から授かった、と言うよりは、彼女が彼女のために打ち直した力強さが其処にある。

 

 霖之助の視線に気づいたのか、幽香は日傘から眼を離して真っ直ぐと正面を見た。彼と彼女の視線がぶつかる。

 

 小物だといいながら、そこに侮蔑の色が完全に消えたのは、何時頃だったか。稀に、太陽みたいに輝く瞳を向けてくるようになったのは、何時頃だったか。

 陽を嫌う自身では、いつかその瞳に焼き殺されると信じて、すぐに目を逸らすようになったのは、何時頃だったか。

 全ては、良くも悪くも無い思い出の中だ。それを思い返すには、やはり霖之助は億劫だった。

 だからいつも通り、霖之助が先に目を逸らす。

 

「はい、貴方の負け」

「……何時の間にやら睨めっこ、と?」

「違うの?」

「いや、その通りだ」

 

 最近、ともすれば頻繁に見つめ合う事が多くなった霖之助と幽香だ。

 暇すぎてやる事が無いからこその現象だろうが、一応は男女である。薄暗い一室でふと目が合った、というのが頻繁であっては、まるで恋人同士だ。

 そうではない二人からすれば、そこに遊びでも理由があれば良い。知らぬ間の遊びでもあっても、そういう物だと定義すれば、後腐れも今後も起きるだろう睨めっこを肯定しやすい。

 

「あぁ、それにしても……本当に馬鹿馬鹿しい」

 

 幽香はそうつぶやいてテーブルに突っ伏した。なんともらしかぬ姿だと思えたのは、もう霖之助からすれば相当昔の話になる。

 うじうじと髪をゆっくりとかき乱して、幽香は息を吐いた。

 

「喧嘩売るのはいいわよ、えぇ、腕自慢が多いことはいい事だわ。むしろ大歓迎でもあるわよ、けれどね」

 

 がばり、とテーブルから顔を離し、幽香は攻撃的双眸で中空を眺めて拳を握り締めた。

 

「弱いって何。ねぇ、傘の一発でダウンって何。何、今のここってあれなの、あの日川原で叩き倒したうらめしやの酩酊小娘より駄目なのばっかりなの?」

「あぁ、彼女最近人里で歩いているのを見たよ。うらめしやーって言って驚かしたはずのお爺さんに、おーおー、めんこいなぁ、って水あめを貰っていたな」

「駄目じゃない」

「うん。物凄い喜んでいたしね、彼女。勘違いしないでよね! 別に水あめなんて欲しくないんだからね! ……水あめうめぇ! まじうめぇ! って」

「完全に駄目じゃない」

「うん、というか相変わらず真昼間にあれやってるしね」

「……すごいわね」

「うん、すごいね」

 

 すでに妖怪だとか幽霊だとかそんな物を超越した何かに、少女はなろうとしていた。それが少女の目指す場所ではないとしても、偉業は偉業である。

 ただし、

 

「尊敬できないわ」

「うん、無理だね」

 

 望むと、望むまいと、人や妖怪、挙句の果ては神でさえ、自身の思い通りには人生という航路を進めない。

 

「というか、あの子はどこに行こうとしているのよ……」

「たぶん僕らの知らない遠い遥か向こうだよ……」

 

 何もせず、ただ二人黄昏た。

 

 夜になると忙しなく鳴く虫も眠り、静かに鳴く虫が活動を始める。

 まだまだ季節は夏で、陽が落ちようとぬるりとした空気が消える事も無く、じとりとうなじを湿らせた。霖之助は自身のうなじを手拭で拭い、手にした灯りのついた提灯を眺めた。

 

「大丈夫よ、いつも持ってきて返しているでしょう?」

「あぁ、君の美点は物を返すと言う所だ。誇ってもいい、胸を張って大きな声で叫んでいい」

「……大変ね、保護者も」

「僕は彼女の保護者じゃない」

 

 香霖堂の客としての年季は、幽香の方が長いのだから、白黒のやらかした事など全て耳に入ってしまう。個人的な付き合いもあるのだから、情報が漏れるのは当たり前だとも言える。

 

「しかし、君も暇だな」

「……そう?」

「そうじゃないか」

 

 周囲はもう暗く、明かりは香霖堂から漏れる光と、霖之助の手にある提灯だけだ。そんな時間まで幽香はここに居たのだから、暇だと言われたのである。しかも、こんな時間まで居る事は珍しい事でもない。

 

「……まぁ、そうなのかもね」

 

 幽香は肩をすくめて応じただけで、霖之助の手のひらを向ける。その手のひらに、霖之助は何を言うでもなく提灯を渡し、

 

「いつも言うけれど……気をつけて」

「いつも言うけれど……気をつけなきゃいけないの?」

「社交辞令だよ」

「で、しょうね」

 

 この幻想郷で風見幽香をどうこうできる存在などかなり限られている。まさに一握り、という奴だ。

 夜道だから気をつけて、などと言ってみても、襲われる相手が狼どころではないのだから、霖之助の言葉は何の意味も持てない。ただ、その想いは大切なものだ。

 

「貴方の言葉でもあるし、それなりに気をつけて帰るけれど……じゃあ、また明日」

「あぁ、また明日……だね」

 

 また明日も来る。そんな幽香の宣言に溜息を返し、霖之助は苦笑を浮かべた。

 幽香は踵を返し、歩み去っていった。小さくなっていく背を眺めながら、霖之助はもう一度うなじの辺りを手拭で拭いた。ほぼ毎日の儀式であるのに、何かさびしさを感じるのは、夏の夜の幻なのだと信じて、彼は香霖堂へと戻り扉を閉めた。

 

 

 

   ○   ○   ○

   

   

 

 夜道をゆっくりと歩けば、月の明るさが良くわかる。

 煌々と冴える月は欠けた円で、いやと言う程幽香には大きく見えた。

 

 ――そろそろ満月だ。

 

 だからどうした。自身の胸中の呟きに同じく胸中で呟き返した。手にある提灯を眺め、自嘲を浮かべる。

 

「この位の明かりの方が良いなんて思えるのは、あれかしら、年をとった証拠なのかしら」

 

 昔は、月でよかったし、太陽なら尚良かった。

 輝きというのは巨大で無比で在れば良いと彼女は思っていた。なのに今は、手にある提灯程度でも良いと思えた。

 

「どうなのかしらねぇ?」

 

 おそらく答えの無い問題である。疼く物が胸の奥にあろうが、子宮の奥にあろうが、取り出せない物の正体を知るには、落ちるか、燃え尽きた後しかない。あぁ、そうだったのか、と理解するのは、いつだってそんな時だ。

 焦がれ、落ちて、唐突に。

 それでも口にするのは、つまり

 

「どういうことだと思う?」

 

 立ち止まり、日傘を握る。いつも通り、何の抵抗も無く答えるグリップの硬さは信頼にたる力強さを感じさせた。

 

 ――道具に関しては、なるほど、大した物ね。

 

 修理を終えた後でもいつも通り、というのは頼もしい事である。幽香は自然体でそのままどこかに居るのだろう誰か――襲撃者の行動を待ち……

 刹那、振り返った。

 

「なんか夜道で独り言言ってやばげなおねーさんだけどうらめし――」

「殴るわよ」

「――たわばっ!?」

 

 突如出てきた妖怪少女――水あめを口にしたまま出てきた傘もち娘――を日傘で殴った。

 殴るわよ、の言葉と同時に殴った。

 風見幽香は、そんな女なのである。大きく息を吐き、幽香は殴り倒した少女に提灯を近づけた。

「……あぁ」

 

 ぐにょーん、とばかりに倒れていたのは、いつぞや川原で叩き伏せた妖怪少女であったし、件の水あめうめーの妖怪少女でもあった。とりあえず、額にわちきばかです、と油性マジックで三重に書いた後、幽香は手にある日傘を見つめた。

 じっと、じぃっと見つめ、彼女は肩をすくめる。笑貌を零し、くつくつと喉を鳴らし、ぽんぽんと日傘を叩く。

 

「直ったと思ったら、また曲がった。……戻らないと、ね?」

 

 やれやれ、と首を横に振り、幽香は来た道を少しばかり急いて戻り始めた。

 月に照らされた日傘は、傷一つ無い真っ直ぐな物であったのに、彼女は壊れた壊れた、と呟き"帰っていった"。

 

 ――了

 

 

 後日。

 額にわちきばかですと書いたまま歩く妖怪少女に、そんな事はわかっている、と返す里人が複数居た事をここに記す。


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