巨狼の咆哮に美鈴は全身の毛が逆立つような感覚がした。次にしたのは足の震えだった。決して、武者震いではない。ならば、これは恐怖からだろう。美鈴は巨狼と化した大尉に恐れを抱いていた。
だが、だからといって敗ける訳にはいかない。
「ハッ―――！」
自分を鼓舞する為に声を張る。足の震えを無理矢理にでも止めないと大尉には勝てない。
「■■■■■■■！！」
巨狼が駆ける。その巨駆からは想像も出来ない速さに一瞬呆気に取られたが、全身に気を纒い、迎撃の構えをとる。
巨狼と美鈴の気を纏った拳がぶつかる。巨狼の顔を捉えた拳だったが、血を噴き出したのは限界を迎えた美鈴の拳だった。巨狼の勢いを殺すのも不可能なまま美鈴は撥ね飛ばされる。
「――――ガッ！」
肺の空気が全て吐き出され、地面になす術なく転げ落ちると巨狼が容赦なく追撃を開始する。
その巨駆に似合った大きな口を開けて美鈴に迫る。何とか立ち上がった美鈴は使い物にならなくなった右腕を見て、覚悟を決める。
イメージしたのは鋼鉄で出来た鞭。脱力からの力の開放。感覚のない右腕に気を集中させる。
巨狼が迫るタイミングに合わせて体を捻り、思うがままに右腕を振るう。鞭と化した右腕を振るう速度は音速を簡単に越えている。巨狼の左顔側面を綺麗に打ち抜くと巨狼は思いもしなかった反撃にバランスを崩し、体勢を整える為に離れようとする。
「――――ッ！」
確かな手応えを感じたが、それ以上に感覚のなかったはずの右腕から激痛が走る。右腕を見れば、衝撃に耐えきれなかった証拠なのか血で真っ赤に染まっている。もう二度と同じ手は使えないだろう。
だが、左腕は無事でいる。それだけではない。両足も無事だ。頭もある。使える部位を全て使ってでも巨狼にしっぺ返しをしてやろう。時間を稼いでやろう。美鈴の覚悟は既に決まっている。
大尉は尚の事、本気を出して良かったとさえ思っている。美鈴の命を賭けた本気の抵抗は素晴らしいものだ。
だからこそ、もっと戦いたい。その本気の抵抗が命尽きるまで続くのか試したかった。命尽きる前に抵抗が止めば、吸血鬼を追い掛けて殺してしまおう。命尽きるまで抵抗すれば、吸血鬼はまたのお楽しみにしよう。
片腕だけで美鈴は構えをとる。その心情は落ち着き払っている。だが、その集中力は凄まじく、巨狼の一挙一動を鋭い眼光で観察している。
巨狼が駆ける。瞬く間に美鈴との距離を詰め、鋭い爪が生えた前足で美鈴を切り裂かんとする。
切り裂かれてしまう訳にはいかない美鈴は体を捩って避けようとするが、脇腹を微かに爪が掠ってしまう。痛みに喘ぐ暇はない。巨狼の前足に渾身の蹴りを叩き込むと直ぐ様後退していく。
だが、巨狼はそれを許しはしなかった。美鈴が後退するや巨狼は追撃し、美鈴に精神を研ぎ澄ませる暇すら与えない。
避けれないと判断した美鈴は地面を深く踏み込むと無事な方の拳を振りかぶる。巨狼が実体化する瞬間を狙うが、拳の届く範囲まで来ても実体化はしない。
「まさかッ―――――！」
美鈴に当たる瞬間を狙い実体化した巨狼は勢いを殺さぬまま美鈴へと衝突する。鈍い音が体から聞こえ、次には全身から痛みが悲鳴を上げるように伝わってくる。
美鈴は縋る思いで巨狼にしがみ付こうとする。だが、瞬時に霧となった巨狼にしがみ付くは出来ずに飛ばされていく。
霧が追うように美鈴の上空を飛ぶ。見計らって実体化した姿は巨狼ではなくなっていた。人の形をしているが、その顔は狼になっている。
飛ばされた美鈴を地面に叩き付けるように大尉が上から蹴り落とす。地面と美鈴が衝突する衝撃は、地面に小さなクレーターが出来てしまう程だ。
ぴくりとも動かない美鈴を地面に降り立った大尉が見下す。このまま殺してしまっても良いのだろうが、大尉は美鈴の反撃に少し期待していた。自分に本気を出させたのだ。もう少し戦いたいではないか。
美鈴に近付くと服の襟を掴み上げる。これでも反応がない。もしかしたら、隙を狙って奇襲をするのでは、と考えたが、どうやら完全に気を失っているようだった。
大尉はほんの一瞬だったが気を抜いてしまった。強敵との連戦が終わり、EXルーミアと影狼を回収しなければならないな、などと考えていた。美鈴を降ろしてしまおうと考え―――――衝撃とともに自分が飛ばされている事に気付いた。
難なく地面に着地し、大尉は敵を探した。否、敵は分かっていた。改めて、大尉は敵を確認する。
先程まで気絶していたはずの美鈴が立っていた。白目を向き、至るところから血を流し、立つのもやっとという姿だが、美鈴は確かに立っていた。
美鈴に意識はない。意識はないが、意地や使命感、美鈴が今背負っている全てのモノを裏切らないために美鈴は立っていた。
大尉はいつの間にか口から流れていた血を拭き取ると美鈴へと近付く。だが――――。
「そこまでよ、妖怪」
大尉は歩みを止めて、声のした方へと向き返る。獣としての――――化物としての本能が告げる。声の主が危険な存在だと察している。
「随分と暴れてくれたみたいじゃない」
紅白の巫女装束を着た少女が冷たく口を動かす。感情も感じられない程、淡々としているが、大尉は少女から並々ならぬ威圧感を感じていた。
「好き勝手に殺りすぎよ。何人死んだと思っているの、妖怪？」
大尉の本能が少女が危険なまでに強者というのを報せる。だが、それは死の河と直面した時よりかは遥かに弱い信号だ。
「こうなった以上、私はあんたを退治―――否、殺すしかないわ」
少女の本気の殺意が大尉へと向けられる。大尉は少女と対峙して、自分がこの世界に来た意味を理解する。
自分はこの少女と戦う為にこの世界に来たのだと。殺し殺される為にこの世界に来たのだと。悲しいのは未だ準備が万全ではない事だ。
こちらの
今すぐにでも戦いたい衝動を堪え、大尉は霧となり駆ける。少女からしてみれば、それは逃走としか見えない。
「逃がすか！」
少女が何枚かの札を飛ばすが、霧になった大尉には全てが無意味だ。札は霧を通り抜けるだけで、大尉には当たらない。
あっという間に消えてしまった大尉を深追いすることなく、少女は美鈴へと歩み寄る。
「悪いわね、逃がしちゃったわ」
先程の殺意が嘘のように消えている。だが、美鈴は意識のない状態ででも敵を探しているようだった。
「安心しなさい。レミリアも咲夜も無事よ」
美鈴を安心させるように言った言葉は意識のない美鈴でも聴こえていたようだった。ポロポロと涙を溢すと美鈴は地面へと倒れかける。それを少女は地面に着かぬよう受け止める。その表情を見れば僅かに笑みが浮かんでいた。
少女は改めて大尉が消えていった方向を睨み付ける。
「次は、逃がさないわよ」
少女――――博麗霊夢は大尉を幻想郷にとって最悪の敵であると再認識する。自分の勘が正しいならば、また大尉と対峙するだろう。否、殺し合うのは確定事項なのだ。
逃げていった理由は何にしろ、霊夢は次の機会に大尉を殺す決意をする。生かしておくには危険すぎる存在だ。
自ら発案した弾幕ごっこだが、大尉を相手には封印するしかなさそうだ。博麗の巫女として危険因子を排除するしかないだろう。
美鈴を背負うと霊夢は浮かび上がり、永遠邸へと向かっていった。