ソードアート・オンライン 黒と紫の軌跡   作:藤崎葵

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書きあがりました。

長い長い少年の戦いがようやく終わりを迎えました。


では38話、始まります


第三十八話 戦いの果て

『久しいな、キリト君』

闇の中から声と共に、一人の白衣の男性が現れた。

『もっとも私にとっては―――あの日の事もつい昨日の事のようだがね』

「生きていたのか?」

キリトは男性に短く問う。

男性は微笑を浮かべて

『そうであると言えるし、そうでないとも言える。私は―――『茅場晶彦』という意識のエコー、残像だ』

そう答えた。

「か、茅場晶彦……この人が?」

キリトの隣にいたアスナは目を丸くして男性―――茅場晶彦を見ていた。

かつてSAOとナーヴギアを創り、1万人を閉じ込めた人物。

アスナが呆気に取られている中、キリトは苦笑いで

「相変わらず解かり難い事を言う人だな。とりあえず、礼を言っとくよ」

『礼は不要だ』

キリトの言葉に茅場はそう言って首を振る。

疑問符を浮かべるキリト。

『私と君は、無償の善意が通用する仲ではないだろう。代償は必要だよ、常にね』

「何をしろっていうんだ?」

『だが、その前に―――結城明日奈君』

茅場は視線をアスナに移し

『これを君に託そう』

そう言って差し出してきた右手には小さなカードリッジがあった。

アスナはそれを受け取り

「これは?」

『この空間での記録映像だ。須郷君が行っていた研究。そして、ユウキ君の家族の事故の真相、それら内容を記録している。今回は彼がとんでもない迷惑をかけてしまった。詫びにもならないが受け取ってほしい』

それを聞いたアスナは、まっすぐに茅場を見て

「……正直、私はあなたが許せません。貴方が創ったSAOにユウキは……大切な家族が囚われてしまったんですから―――でも」

そこで一旦区切り

「あなたがキリト君を助けてくれたから、ユウキを救えた。だから、ありがとうございます」

言いながらアスナは頭を下げる。

茅場は微笑を浮かべ、今度はキリトに視線を移した。

『では、キリト君。これを―――』

言った直後、暗闇から輝く何かがキリトのもとにゆっくりと落下してきた。

両手を差し出し、受け取ったそれは卵のような円形の結晶だった。

「なんなんだ?」

『世界の種子『ザ・シード』だ。芽吹けばどういうものか解る。その後の判断は君に任せよう。消去し、忘れるもよし――――だが、もし君があの世界に、憎しみ以外の感情を残しているのなら……』

そこで声はいったん途切れ、短い沈黙の後

『―――では、私は行くよ。また会おう、キリト君』

短く素気ない挨拶をして、茅場は闇の中に消えていった。

それを見送った後、キリトは結晶を胸ポケットに収める。

「……それじゃぁ、私もログアウトするね」

アスナが声をかけてくる。

キリトは彼女に方に視線を向けた。

「そうか。君が協力してくれてなかったら、ユウキは救えなかったかもしれない。本当にありがとう」

「ううん。私は特に何も……ユウキを救ったのは君の力だよ。ありがとう、大切な家族を助けてくれて」

そう言ってお互いに笑い合った。

「君も早くログアウトしてユウキに会いに行ってあげて。私も早く行きたいけど、今回の事を父さんに伝えないと」

「わかったよ」

キリトの返事を聞いて、アスナは笑顔を返す。

左手を振ってメニューを開き、ログアウトボタンを押した。

光と共に、彼女の身体が消える。

アスナがログアウトしたのを見届けて

「ユイ、大丈夫か! ユイ!」

キリトは辺りを見回しながら叫んだ。

途端に覆っていた闇は晴れ、辺りにオレンジ色の光が差し込み、さっと風が吹く。

そこは元居た鳥籠。

「ユイ?」

もう一度彼女の名を呼ぶと、目の前の空間に光が凝縮し、ポンっと音を立てて黒髪の少女が出現した。

「パパ!」

勢いよくキリト腕の中に飛び込んで、ユイは彼を呼ぶ。

「無事だったか。よかった」

「はい、パパのナーヴギアのローカルメモリに退避したんです。あの、ママとアスナさんは?」

「大丈夫、2人とも無事さ。先に帰ったよ、現実の世界に」

不安そうなユイに、キリトは微笑んで答える。

途端にユイの表情は明るくなり

「そうですか! よかった……本当に」

目を閉じてキリトの胸に頬を擦りつける。

その姿に微かな寂しさの影をキリトは感じ、彼女の髪をそっと撫でた。

「―――また、すぐに会いにくるよ。でも、どうなるんだろうな……この世界は」

そう呟くと、ユイは顔を上げてにっこりと笑った。

「私のコアプログラムはパパのナーヴギアにあります。いつでも一緒です!」

「そうだな。じゃぁ、俺は行くよ。ママを出迎えに」

「はい! パパ、大好きです!」

涙をうっすらと浮かべ、力いっぱいに抱きつくユイの頭を撫でながら、キリトは右手を振った。

ボタンを押す手を一旦止めて、視線を夕焼けに染まる世界に向けるキリト。

これだけの問題が起こった以上、この世界がどうなるかはわからない。

この旅で出会った、ALOを愛するプレイヤー達を考えるとキリトは胸に痛みを覚える。

が、首を振ってから、ユイの頬に軽く唇をあてて、指を動かす。

ログアウトボタンが押され、キリトの身体が光に包まれていき、視界も真っ白に染まっていった。

ゆっくりと瞼を開くと、視界が少しぼやけている。

何度か瞬きをし、完全に目を開くと視界には心配そうな表情で直葉が覗き込んでいた。

目が合うと、直葉は慌てたようにさっと体を起こし

「ご、ごめんね、勝手に部屋に入って。なかなか戻ってこないから、心配になって……」

頬を僅かに赤く染めて言う直葉に、和人はゆっくりと上体を起こして

「遅くなって、ごめんな」

言いながらナーヴギアを外して笑いかけた。

「……全部、終わったの?」

「―――ああ、終わった。何もかも……」

和人の言葉を聞いて、直葉は笑顔になる。

その表情に、仮想世界で出会ったシルフの少女が重なって

「本当に―――本当にありがとう、スグ。お前がいなかったら、俺、なにも出来なかったよ」

それを聞くと、直葉は小さく首を振り、和人の胸の中に飛び込んできた。

「ううん。私、嬉しかった。お兄ちゃんの世界で、お兄ちゃんの役に立てて」

目を閉じて呟く直葉。

彼女の背に和人はそっと手を回し、優しく微笑む。

手が離れると、直葉は和人を見上げて言った。

「取り戻したんだね。あの人―――ユウキさんを」

「ああ、ようやく―――ようやく帰ってきた……スグ、俺……」

「行ってあげて、きっとお兄ちゃんを待ってるよ」

「ごめんな。詳しい事は帰ってきてから話すからな」

言いながら和人は直葉の頭に手を置いて、立ち上がる。

素早く身支度をして、ダウンジャケットを引っ掴んで縁側に立つと、外は既に暗くなっていた。

その時、不意に和人はスマートフォンを取り出して操作する。

連絡帳の『天賀井空人』をタップし、数回コールを鳴らすと、彼は通話に出た。

『もしもし、キリト!』

慌てたような声が聞こえてきた。

『よかった、帰ってきたんだな。ユウキはどうなったんだ?』

「ああ、取り戻したよ。ソラが手伝ってくれたおかげさ。本当にありがとう」

『君の役に立てたなら、それだけで充分だよ。これからユウキの所に行くのか?』

「そのつもりさ」

『そうか。なら、はやく行ってやるといい。首を長くして待ってるぞ、きっと』

「ああ、行ってくるよ」

そう言って和人は通話を終了し、玄関へと赴いた。

戸を開けて外に出ると、冷たい風が彼を吹き付ける。

「寒っ……」

軽く身震いし、奥から引っ張りだした自転車に和人は跨った。

「あ……雪」

見送りに来ていた直葉が空を見上げて呟く。

遥か上空からは、白い小さな結晶が降ってきていた。

「気をつけてね。ユウキさんによろしく」

「ああ、今度ちゃんと紹介するよ」

そう言って和人は自転車のペダルを踏み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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兎に角無我夢中で自転車をこいで、和人は総合病院まで辿り着いた。

自転車を駐輪場に置き、病院までの道を走っていく。

大きなパーキングエリア半分ほど横切り、背の高い濃い色のバンと、白いセダンの間を通り抜けようとした―――その時だった。

バンの後ろからスッと走り出てきた人影と、和人は衝突しそうになった。

「あ……」

身を躱そうとした和人の視界に―――ギラリと光る金属が閃を描いて横切った。

「―――――!?」

直後、和人の右腕に鋭い痛みが襲ってきた。

和人はよろけるも、セダンのリア部の衝突する形でどうにか踏みとどまった。

突然の事に思考が追いつかないまま、2メートル程離れた位置にいる人影に視線を向けた。

そこには男がいた。

黒に近いスーツを身に纏い、右手には白く光る細長い何かを握っている。

それを凝視すると、オレンジ色の光を受けて、鈍く輝いていた。

ナイフだ。

男が握っているのは大ぶりのサバイバルナイフだった。

唖然として視線を向けている和人に、男はゆっくりと歩き出し口を開く。

「遅いよ、キリト君。僕が風邪ひいちゃったらどうするんだよ」

キーの高い、粘着質な声。

直後、ナトリウム灯の発する光が男の顔を照らしだす。

「お前……須郷っ……」

男―――須郷の顔を見て和人は呟く。

数日前に相対した時には丁寧に撫で付けられていた髪が、激しく乱れている。

とがった顎には髭の翳が浮き、ネクタイはほとんど解けてぶら下がった状態だ。

眼鏡の下では左目が限界まで見開かれ、瞳孔が細かく震えているが、右眼は小さく萎縮している。

「酷い事するよねぇ、キリト君」

軋るような声で須郷は言う。

「まだ痛覚が消えないよぉ。まぁ、いい薬が色々あるから、構わないけどさぁ……」

言いながら須郷は左手をスーツのポケットに突っ込み、幾つかのカプセルを掴みだして口の中に放り込んだ。

こりこりと音を立てて咀嚼しながらそれを呑みこむ。

ようやく和人は思考が回るようになり

「須郷……お前はもう終わりだ。あんな大がかりな仕掛け、隠しきれるものじゃない。それに今頃、明日奈が今回の事……ユウキの家族の死の真相も含めて彰三氏に伝えている筈だ。大人しく法の裁きを受けろ」

「終わり? 何が? 確かにレクトはもう使えないけどね。僕を欲しいって企業はいくらでもあるんだ。それに僕には今までの実験で蓄積した膨大なデータがある。アレを使って研究を完成させれば、僕は本物の王に―――この世界の神になれる」

キリトの言葉に須郷は壊れたレコードのように捲し立てた。

異常な妄執に和人は狂気すら感じる。

この男は遥か以前から壊れていたのかもしれない。

「とても逃げ切れるものじゃないぞ」

「ひひひ……それはどうかなぁ……」

小さく笑って須郷は左手を軽く上げた。

すると、バンの扉が開き、二つの人影が現れる。

一人はスーツを着た男。

もう一人は―――

「あ、明日奈!」

和人は驚きの声を上げた。

視界に入った彼女は口を粘着テープで塞がれている。

両腕も背に回されて縛られているようだ。

身を捩って逃れようとするが、少女の力ではビクともしない。

「明日奈の事だから、きっと社長に直接報告するだろうと思ってねぇ……部下に家の周りを張らせてたのさ。彼女には逃走の為の人質になってもらうよ」

「貴様っ……」

「その前に……やる事があってさぁ……君を殺さないとねぇ!」

直後、須郷はナイフを無造作に突き出してきた。

咄嗟に避けるも、足がもつれて和人は地面に倒れ込む。

ナイフは左頬を掠めていた様で、鈍い痛みが伝わってきた。

そんな彼を須郷は一瞥し

「おい、立てよ? 立ってみろよ!!」

言いながら歩み寄る。

そして、和人の腹部を蹴りつけた。

重い痛みが彼の全身に疾る。

「お前みたいなクズが……僕の、この僕の足を引っ張りやがって……その罪に対する罰は当然、死だ!死以外に有り得ない!!」

言い終えると同時に須郷は右手を振り上げる。

逆手に持ったナイフを勢いよく振り下ろした。

和人は反射的に目を閉じる。

直後、ガキンという音が耳に届き、目を開くと、眼前に鈍く輝くナイフが映った。

どうやら外したらしい。

「あれ? 右目がボケるんで狙いが狂っちゃったよ……」

言いながら須郷は再び右腕を振り上げた。

停止して、振り下ろそうとした時、須郷は震えるような声を発した。

「クズが……」

それを聞いて和人は視線を須郷に向ける。

視界に映った須郷はワナワナと震えながら

「お前なんか……お前なんか……本当の力は何も持っちゃいないんだよぉぉぉぉぉぉ!!!」

甲高い声で絶叫した。

瞬間、和人の目が見開かれる。

(須郷……それはお前も同じだろう!?)

今の須郷の目は和人が何度も見たことのある目だ。

それは、逃げる者の目。

苦痛から、困難から、死んでしまうという事実から、あらゆる現実から逃げ出そうとしている者の目だ。

彼は何度も見てきた―――――そう、あの世界、ソードアート・オンラインで

「死ねぇぇぇ!! 小僧ぉぉぉぉぉ!!!」

叫びながら振り下ろされるナイフ。

「っあぁぁぁ!!!」

和人は反射的に右手を出し、須郷の右腕を掴んで止めた。

次いで左手で彼の首を掴んで、思いきり力を込める。

「ぐっ!」

息がつまる感覚に、須郷は体を仰け反らせて背中から地面に倒れ込んだ。

その時にナイフを落としてしまう。

それを和人は右手で拾い上げ

「貧弱な武器だ……軽いし、リーチもない……けど、お前を殺すには充分だ」

須郷を睨み、低い声で和人は言う。

それを聞いて須郷は一瞬、身を竦めたが

「な、何を言ってる! こっちには人質―――」

「ぐぁ!!」

短い悲鳴と何かが倒れる音が聞こえて須郷は振り返った。

視線の先には一人の青年が、明日奈の前に立ち、部下の男を殴り倒していた。

赤みがかった髪に、空色の瞳。

「キリト! 彼女は大丈夫だ!」

和人に叫んだのは天賀井空人。

彼女の腕を縛っている縄を解きながら空人は安心させるように彼女に微笑んだ。

「もう大丈夫」

先程まで強張っていた明日奈の瞳に安堵の色が宿った。

「ば、馬鹿な……くそぉ!!」

思いがけない状況に、須郷は立ちあがって駆け出そうとした。

和人はそれを阻止すべく、須郷の髪を左手で掴み、自身の方へと引き寄せた。

直後、勢いよくセダンのドアに須郷の顔面を叩きつける。

「ぐがぁっ!」

悲鳴を上げた須郷の喉元に右手のナイフを突きつけた。

鈍く光る刃が喉元に当たり

「ヒ、ヒヒィィィィィィ!!!」

数十分前の仮想世界で上げたのと同じ悲鳴を上げている。

それに気付いた空人と明日奈は

「キリト! いけない!!」

「和人君、駄目ぇ!」

彼に向かい叫ぶ。

和人の脳裏には、目の前の男の赦しがたい所業の数々が駆け廻っていた。

 

 

 

 

―――コノオトコハシンデトウゼンダ

 

 

 

 

彼が後少しでも力を入れれば、須郷の喉元は斬り裂かれ、その命を散らすだろう。

一度歯を食いしばり、右手に力が籠る。

直後

「イギャアァァァァァァァァァ!!!!!」

甲高い悲鳴が辺りに響き渡った。

同時にカランとナイフが地に落ちる。

須郷の喉元は――――切り裂かれてはいなかった。

すんでのところで和人は思いとどまったのだ。

大きく目を見開いて、口から泡を吹きながら須郷は気絶している。

和人は掴んでいた髪を離して、数歩後ずさった。

そんな彼に、2人が駆け寄ってくる。

「よかった。踏みとどまってくれて」

「本当だよ……」

心配そうな表情で和人を見る明日奈と空人。

和人は2人に視線を向けて

「悪い……心配かけた……それより、ソラはどうしてここに?」

「電話が切れた後、妙な胸騒ぎがしてね。ユウキが収容されている病院は知ってたから、急いで来てみたら、君が殺されそうになっててびっくりしたよ」

空人は頭を掻きながら返してきた。

「あの、ありがとうございました」

明日奈はぺこりと頭を下げる。

そして、和人の方へと視線を移し

「和人君。ここは私達に任せて、木綿季の所に行ってあげて。あの子が一番に会いたいと思ってるのは君の筈だから」

そう言って笑いかけた。

和人は2人を交互に見る。

「わかった……ありがとう」

そう言って和人は病院へと駆け出した。

その姿を見送りながら

「いいのかい?」

「はい。本当は私もすぐに会いに行きたいですけど……邪魔はしたくないから」

空人の問いに明日奈は苦笑いで答えた。

病院の中に入ると、中は静寂に満ちていた。

カウンターの中は無人だったが、隣のナースステーションには明かりが灯っている。

耳を澄ませば談笑している声が聞こえてきた。

そこまで和人は歩み寄り

「あの……すみません!」

和人の声が数秒後、扉が開いて女性看護師が2人現れた。

看護師たちの顔に浮かんでいた訝しむ様子が、和人の状態を見た途端、驚きに変わった。

「―――どうしたんですか?!」

若い看護師が声を上げた。

どうやら出血の量が、和人が思っていたよりあったらしい。

和人はエントランスの方を指差して、言った。

「駐車場でナイフを持った男に襲われました。白いセダンの傍で気絶していて、友達が見張ってくれています」

それを聞いて、2人の顔に緊張が走る。

年配の看護師がカウンター内にある機械を操作し、細いマイクに顔を寄せる。

「警備員、至急一階ナースステーションに来てください」

巡回中の警備員がいたらしい。

紺色の制服を着た男が小走りでやってきた。

看護師の説明を聞くと、男は表情を険しくして小さい通信気に何かを呼び掛け、エントランスの方へと向かっていった。

若い方の看護師もその後を追う。

残った看護師は、和人の頬の傷を仔細に眺めて言った。

「あなた、最上階の紺野さんのご家族よね?」

なにやら事実に誤認があるようだ。

しかし、和人に訂正する気力はないようで、そのまま頷く。

「そう。すぐにドクターを呼んでくるから、そこで待っていてください」

そう言って看護師はパタパタと駆けていった。

和人は大きく一息吐いて、辺りに誰もいないか確認する。

カウンターに身を乗り出して、内側からゲスト用のパスカードを掴み取る。

看護師が去っていったのとは別の方向、何度も通った入院棟への通路に向かって和人は走り出した。

エレベーターに乗り、最上階へのボタンを押す。

気の遠くなりそうな数秒の後、エレベーターは最上階へと到着して扉が開いた。

無限の距離とも思えた通路を和人は歩いていき、ついに木綿季のいる病室の前に辿り着いた。

焦る気持ちを抑えて、和人はカードをメタルプレートのスリットに差し込んで、一気に滑らせた。

インジケータの色が変わって、モーター音と共に扉が開いた。

ふわりと花の香りが流れ出す。

室内の照明は落ちていて、窓から差し込む雪明りが、ほのかに白く光っていた。

病室は、中央を大きなカーテンで仕切られていて、その向こうにジェルベッドがある。

その手前で和人は動き出せずにいたが―――

『ほら―――待ってるよ』

耳元で誰かが囁く声がした。

直後に肩を押すような感覚が和人に伝わる。

意を決したように和人は一歩、また一歩と踏み出した。

カーテンに手をかけて、ゆっくりと開いていくと―――

「あぁ……」

和人から短い声が漏れた。

純白のドレスに似た薄い診察衣を身に纏った少女が、上体を起こして暗い窓を見ていた。

つややかな長い黒紫の髪に、舞い散る雪が淡い光を届けている。

細い両手は体の前に置かれ、その中に深いブルーに輝くナーヴギアを抱えている。

「ユウキ」

和人が音にならない声で呼びかけると、少女の身体が大きく震え―――花の香りに満ちた空気を揺らして振り向いた。

永い夢から覚めたばかりで、少女の瞳はまだ夢見るような光をたたえている。

それでも、真直ぐに見つめて

「キリト」

少女は微笑んで彼の名を呼んだ。

ユウキの左手がナーヴギアから離れ、差しのべられた。

それだけでかなりの力を使うのだろう。

彼女の手は僅かに震えていた。

雪の彫像に触れるように、和人はその手をそっと握る。

触れ合う手から伝わる温もりに、和人は気が抜けたのか脚の力が抜けて、ベッドの端に体を預けた。

ユウキは右手を動かすと、和人の左頬にある傷に触れて、問いかけるように首を傾げた。

「あぁ……最後の、本当に最後の戦いが、さっき終わったんだ。終わったんだ……」

言うと同時に和人の目から涙が溢れだす。

「……ごめんね、まだ音がちゃんと聞こえないんだ。でも……解る、キリトの言葉」

いたわるようにユウキは和人の頬を撫でて、囁いた。

「終わったんだね……ようやく……ようやく……君に会えたよ」

ユウキの頬にも涙が伝い、零れ落ちた。

濡れた瞳で、意識全てを伝えるように和人を見て、ユウキは言った。

「初めまして、紺野、木綿季です―――ただいま、キリト」

和人も涙を拭い、嗚咽を堪えて応えた。

「桐ヶ谷和人です―――おかえり、ユウキ」

見つめ合い、どちらともなく顔が近づいていく。

互いの唇が軽く触れ合い、離れ、もう一度強く重ね合わせる。

薄く開いた和人の視線の先、暗い窓の向こう。

そこに少年と少女がいた。

少年は背に二本の剣を背負い、黒衣の装備を身に纏う。

少女は腰に剣を下げ、紫が基調の装備を纏っている。

2人は微笑み、手を繋いで、ゆっくりと背を向けて遠ざかっていった。

 

 

 




訪れた平穏な生活。

満ち足りた日々の中、少年たちは集う。


次回「世界の種子」

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