届物語   作:根無草

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開幕


其ノ肆

【010】

 

 

 

 右手首に巻かれた腕時計を確認してみれば、既に時刻は正午を過ぎていた。

 雲ひとつない晴空は休日を謳歌する人々としては最高の天候なのだろうけど、生憎、僕は兎も角として忍は吸血鬼なのだ。

 

 ギリギリだけど吸血鬼。

 

 ただでさえドーナツを所望のところを、おあずけに次ぐおあずけをくらってご機嫌斜めなのに、そこに追い討ちをかけるが如く快晴の空から射す陽射しは些か堪えたらしく、今は僕の影の中で待機している。

 

 影に潜る時にはご機嫌斜めどころか、ご機嫌が直角だった。

 

 全盛期ならば今この瞬間にでも奴を倒してやるのにと豪語していたし。

 もしかしたら今頃、僕の影の中で完全復活してるんじゃねえだろうな……

 

 対して僕はというと、今は北白蛇神社下の駐車スペースにて待機中。

 僕としてはパジャマ姿の八九寺をもっと堪能したかったのだけれど、着替えをするという八九寺に追い出されたのだ。

 

 最後の最後まで着替えをするならば僕が手伝ってやると粘ったが、最終的には獣化しやがった。

 

 読書の皆さんには八九寺の生着替えをリアルタイムでお伝えできない事を心からお詫びする次第である。

 

「心からお詫びするならまずわたしに対してでしょう阿良々木さん」

 

 皆さんお馴染の、いつも通りなファッションで八九寺が後部座席へと乗り込んできた。

 流石にあの大きなリュックは乗車するにあたって邪魔になるらしく、今は八九寺の隣の座席に鎮座している。

 

「なんだよ八九寺、いつからお前は僕の親切心に対して謝罪を求めるような子になっちまったんだ?僕は悲しいぜ」

 

「わたしの友人が犯罪者だったという現実の方がよほど悲しいです!というよりも阿良々木さんは少女の着替えを見たかっただけでしょう」

 

「誰が犯罪者だ!?それに誰彼構わずみたいな言い方は心外だぜ、僕が着替えを見たいと思うのは少女だからじゃない!相手がお前だからだっ!」

 

「残念ですけど阿良々木さんが思っているほどカッコいい台詞ではありませんよ、それ」

 

 バックミラー越しに八九寺が僕を睨む。

 

 少しくらいときめけよ、今の台詞に。

 

 しかしこうして車の鏡越しに会話していると、なまじ助手席に乗られるよりも僕が運転手である事を強く実感する。

 

 タクシーの運転手もこんな気持ちなのだろうか?

 

 少なくとも距離的には短いとはいえ、

 ここから暫くの間は八九寺の安全は僕の腕に託されているのだ。

 安全に安全を重ねて慎重に慎重を重ね着して運転に努めなくては。

 

 幸か不幸か、八九寺が支度を済ませるまでの間に発信準備は整っていた。

 車外車内の安全確認は勿論、十分な暖機運転、機能点検まで完璧だ。

 

 僕が安全運転に努める限り危険はないと保証されたところで、八九寺にシートベルトを着用するよう促し車を発信させた。

 

「阿良々木さんと密室で二人きりというシチュエーションが既に安全ではないのですが……というか忍さんはどうされたんですか?」

 

「残念だけど初心者ドライバーである僕に密室で二人きりになったチャンスを活かすような余裕はねーよ。そして忍はふて寝中だ、ドーナツに関してはマジで狭量な奴だからな。再三にわたるおあずけですっかり(へそ)曲がりだったぜ」

 

「女性から大好物を取り上げれば誰でもそうなりますよ。スイーツなら尚更です。阿良々木さんはその辺の女心がまるでわかっていませんね」

 

「ドーナツを目の前にした瞬間、我を忘れて鯨飲馬食の如く食に没頭するような奴に女心が備わってるのか?」

 

 満腹中枢すら搭載されていない奴に女心なんてあってたまるか。

 

 まあ確かにあれだけ好きだと明言しているドーナツを寸止め感覚でおあずけしていれば心中穏やかではないだろうけど、それでも今日の主役はあくまでも八九寺なのだ。

 

 突発的とはいえ僕が八九寺に対してしてやりたい事を閃いた以上は一連托生の忍にも付き合ってもらいたいところなんだけれど……ふて寝ってどうなんだよ。

 

 どちらにせよこの後すぐに影から飛び出してくる事は間違いないんだけれどーー

 

「言葉には気をつけろよお前様」

 

 頭の中に言葉が響いた。

 これはあれだ……多分だけど僕にしか聞こえていない声だ。

 

 影を通じての会話。

 

 確か貝木の囲い火蜂の時に火憐にボコボコにされた時もこんな事があった。

 僕からの発言はさすがに声に出さないと通じないけれど、忍からの声は頭の中にダイレクトな声で聞こえてくるやつ。

 事実、後部座席の八九寺は忍の声に反応してないない。

 

「ドーナツを目の前にして度重なる寸止め、それが儂をどれだけ傷付けておるかうぬにわかるか?」

 

 ーーわかる訳がなかった。

 

「その上で更に暴言まで吐くようではいくら寛容な儂といえども考えがあるぞ」

 

 お前のどの辺が寛容なのかとつっこみたくもあったけれどしかし、忍が僕だけに聞こえるように話している以上、八九寺の前で返答に及ぶ訳にもいかない。

 仕方なく僕は黙って忍の言葉に耳を傾ける。

 

 実際には耳を傾けるどころか頭を抱えたいところだけれど。

 

 つーか考えがあるとか言っていたけど考えってなんだ?

 いつかの家出以来になる長期の(だんま)りでも決め込むつもりだろうか?

 

「お前様とハチクジの命は儂が握っておる事を未だに理解しておらんようじゃな」

 

 そんな言葉が頭の中に聞こえた瞬間、僕の右足首に違和感がーー

 

「お、おい!」

 

「突然大声を上げてどうかしましたか阿良々木さん!?とうとう頭がおかしくなりましたか?」

 

 頭の中で声が聞こえる時点で頭はおかしいけれど、真に頭がおかしいのは僕じゃなくて忍の方だ!

 

 運転中につき進行方向から目を反らす訳にはいかないが、感覚から察するに忍のやつ僕の右足首を掴んでいやがる。

 

「おっと……車を停めようとは思うなよお前様。そんな素振りを見せれば即座にアクセルを全開に踏み込む。儂を愚弄した分、恐怖のドライブを堪能して反省するがよいわ」

 

 ひたぎなんて比べものにならねえーーマジなカージャックをされた。

 

「ちょっと待て!本当にシャレにならねえから!!頭がおかしくなったのかお前は!?」

 

「ちょっと待つのも頭がおかしくなったのも阿良々木さんです!少し落ち着いてください!わたしが乗ってるんですよ!?神様が乗っているのですよ!?」

 

「わかってるよそんな事!だからそういう事じゃないんだって!!」

 

「ならどういうことですかっ!?」

 

 駄目だ。

 

 話が全く噛み合わない。

 

 この物語が始まってから未だに八九寺に名前を噛んでもらってないのに会話が噛み合わないって理不尽すぎるだろ!

 

 じゃなくてーー本当に何を考えてんだよこの吸血鬼幼女!?

 ドーナツの仕返しで生命を弄ばれるって忍の中でドーナツの位置付けが確実に間違ってる。

 

「ほれ、余計な事を考えずに運転に集中したらどうじゃお前様よ。あまり動揺しすぎると儂にもその動揺が伝わってうっかりと手が滑りそうじゃ、かかっ」

 

 ーー良し、決めた。

 

 こいつは後でぶっ飛ばす。

 

 つーか動揺も何もないだろこの状況。

 どれだけ入念に安全確認をしていた所で肝心要の僕が安全運転をできないならば元の木阿弥だ。

 

 実際のところ忍は運転に支障をきたすようなアクションは起こしてないけれど、足の自由をいつ奪われるかわからないってだけでここまで平常心を乱されるものなのか。

 

「僕が全面的に悪かったからもう勘弁してくれっ!お願いしますっ!」

 

「ですから何を誤っているんですか!?わたしの寝込みを襲った事ですか!?」

 

 だから八九寺じゃないんだって!

 

「謝らねえよ!そんなもん生命に比べれば小さい事だっ!」

 

「小さいとは何ですか!?確かに生命に比べれば些事かもしれませんけど乙女にとっては死活問題です!というか本気で法廷までもつれこむ発言ですよ、それ!?」

 

「法廷にもつれこむとしたら別件だろうけどなっ!」

 

 器物破損に危険運転、最悪の場合は人身事故までありえる……

 よりにもよってこんな日に八九寺を乗せて人身事故なんて冗談にしても笑えねー!

 

「どうじゃお前様、少しは儂の無念が理解できたか?」

 

 ……だから理解できる訳がなかった。

 

 つーかドーナツで無念もないだろ……なんて言ったならばどうなるかわかったもんじゃないんだけど。

 

 死んでも言えないっつーか言ったら死ぬ。

 

 忘れていたけれどこいつってドーナツが絡むと割と本気で危険思想に走る傾向があるしーー

 

 せめて僕が死ぬなり逮捕されるなりすればドーナツは手に入らなくなる事くらい気付いてくれ。

 

「悪かったよ忍、お前の事を蔑ろにしていた訳じゃないんだけど八九寺の為だと思っての事だったんだ……理解の深いお前ならわかってくれると思ってたんだけどこれは僕が悪かった」

 

 足元の白くて細い手首にむかって小声で話しかける。

 車のエンジン音と風切り音も手伝ってか、後部座席の八九寺には聞こえていないようだ。

 

 これで本当に事故にまで発展しては元も子もない。

 口先だけの謝罪なんて本来は心外ではあるけれど、誰だって生命は惜しいだろ。

 

「わ、儂の理解が足りないとでも言いたいのかお前様は!?」

 

「そうじゃないって……ただ僕がお前に甘えてたってだけの話さ。心が広くて寛大で偉大な忍に甘えきっていた、外見から内面まで完璧すぎる程に完璧なお前の善意を踏みにじるような事をしてしまって僕は何て愚かな事をしたのかと今にも死んでしまいそうな思いだよ」

 

「……そ、そうかのう?儂ってそんなに完璧かのう?」

 

「ああ、そうだとも!完璧という言葉はお前の為にある言葉だろ?非の打ち所がないどころか非を打とうという発想が烏滸がましいレベルだよ。頭脳明晰、眉目秀麗、才色兼備ーー僕ごときが思い付く言葉では表現できないくらいお前は完璧だ」

 

 心にもない事を並べ立てた。

 まあ実際には頭脳明晰は嘘だとしても眉目秀麗はあながち間違いだとは思っていないんだけれど。

 

 触ってみなければわからないだろうけど忍の髪の毛ってフワフワで、肌の色だって透き通るような白さだし、顔立ちも日本人とは違う外人らしい整った造形なのだ。

 どれだけ贔屓目に見ても眉目秀麗の評価は過大評価にはなるまい。

 

 おまけに成長したら巨乳どころか魔乳になる保証までついている。

 

「……か……かか……かかかっ」

 

 突然静かに笑いはじめる忍。

 

 ドーナツの禁断症状でも出始めたのか?

 そもそもドーナツに関する中毒性なんて聞いた事がないけど。

 でもここにドーナツの中毒者がいるんだしあるのかもな、中毒性。

 

 ドーナツは用法容量を守って正しくお召し上がりください。

 

「そうじゃ……そうじゃった!儂は完璧じゃった!かかっ、よいよい!気にせずとも儂は毛程にも気にしておらんぞ我があるじ様よ。何せ儂の心は海よりも深く空よりも高い巨大な容量をしておるからのう!お前様に考えあっての行動ならば儂は何も言うまい、何せ儂は理解の深い完璧な存在なのじゃから!」

 

 容易く籠絡できたーー

 

 さすがにちょろいよ、ちょろすぎるよ忍さん……

 そもそもお前の心はお猪口の裏側くらい狭量だろう。

 

 それでも気を良くしてくれたのか、僕の右足首から小さい手の感触がなくなった。

 

 自由って素晴らしい!

 

「それではお前様よ、儂はしばらく影の中で休んでおる。お前様の言うハチクジにしてやりたい事というのが何であれ儂は知らんがドーナツを食べる時に呼ぶがよい。言うておくが……如何に寛大で寛容で完璧な儂でも次はないぞ?」

 

「わかってるよ。次はちゃんと待望のドーナツにありつけるから楽しみにしてろ」

 

 それだけ言うと忍はもう何も言わなかった。

 吸血鬼のお子様は恐らくお眠りしたようだ。考えてみればこの時間まで起きていたのが忍にとっては一番のストレスだったのかもしれない。

 吸血鬼に睡眠は必要ないとはいえ、僕に影響されている上に今は吸血鬼性も殆ど失われているのだから生活リズムだってある程度は人間に寄る部分もあるだろう。

 

 しかし理解が深いと自己評価するくらいならば僕の事をもうちょっと理解してもらいたいものだ。

 よく考えればわかることなんて言葉は僕こそがよく言われる言葉ではあるけれど、それこそよく考えればわかることだろうーー

 羽川をしてアンチアニバーサリーとまで言われるこの僕が突発的に閃くサプライズなんて、こんなところが関の山だということが。

 

 

 

【011】

 

 

 

「すいませんでした」

 

 車を降りると同時に忍へと声をかけて影から呼び出した。そして眠気まなこをこすりながらも気怠そうに現れた忍が発した第一声がこれだった。

 

 そりゃそうだろう。

 

 何せ僕が八九寺と忍を連れてやって来た場所はーー

 

「まさか一日の内に二度にわたってミスタードーナツへと来店するとは、儂とした事が想像もしとらんかった!それどころかそんな事とは露知らずお前様に不敬を働いてしまった……それでもこうして再びミスタードーナツへと連れて来てくれるとはお前様は実は儂よりも大きな器の持ち主やもしれん!いや、この世に神がおるのだとしたらそれは間違いなくお前様の事じゃろう!もしお前様以外で神の名を語る不届者がおるとしたら儂が叩っ切る!そして儂はそんなお前様を一生涯信仰してゆくとここに誓うぞ!いやマジで本当お前様ぱないの!」

 

 僕はぱないらしかったーーというか神様ならお前の目の前にいるんだけどな。ーー蝸牛の神様が。

 

 叩っ切るとか言うな。

 

 ともあれ僕達は無事に目的地へと到着した。

 

 そう、ミスタードーナツ。

 

 さすがに僕だって同日中に二度も来る予定はなかったけれど、それでも八九寺のあんな話を聞いたらこれくらいはしてやりたくなるというものだ。

 今や神様という高位の存在になった八九寺とはいえ、僕にとっては大切な友達だし、八九寺だって本質的には小学五年生なのだから神社で差し入れのドーナツを食べるくらいならば思い出の残るこの店で食べた方が記念日として相応しいだろ。

 

 忍はロケーションなんて気にしないと言っていたけれど、僕は食事の重要性は何を食べるかではなくどうやって食べるかだと思いたいのだ。

 

「あ、あの……阿良々木さん、これは……」

 

 車から降りた時点でポカンとして八九寺は、それでも自分が置かれた状況というものを理解したようで、というか理解したからこそだろう、より一層ポカンとしながらミスタードーナツの入り口を見つめていた。

 

「ほら、行くぞ八九寺。そんな所に突っ立っていてもドーナツは食べられないぜ」

 

「そうじゃぞ、我があるじ様の言う通りじゃ!折角の我があるじ様からの粋な計らいを無下にするなよ」

 

 いや、お前はドーナツに目が眩んでるだけだろう。

 

「ですがわたしは……それにここまでして頂くのも申し訳がないですし……またあの時のような事になったら……」

 

 相変わらずもじもじとしたまま車の側を離れようとしない八九寺。

 まあ過去に僕の家に宿泊した為に『くらやみ』に追い回される羽目になったこいつならその戸惑いも理解に難しくはないけれどーー

 

「気にするなよ八九寺、今のお前は迷い牛ではなく神様だろ?ならこんなもん問題にもならないさ、何せ八九寺信者である僕がそうしたいと思っての事なんだから。それとも八九寺真宵大明神は一番熱心な信者の願い事も聞けない神様なのか?それこそルール違反だろ」

 

 迷い牛ーー道に迷い道に住まう怪異。

 

 八九寺が神様へと二回級特進する前の存在。

 

 確かにあの『くらやみ』に纏わる出来事では八九寺の阿良々木家への宿泊が引き金になったのかもしれない。

 

 でも今や状況も状態も違うのだ。

 

 八九寺は蝸牛の神様にしてこの街の神様、ならばそれがどこであろうとこの街の中ならば広義の意味ではルール違反にはなるまい。街の治安維持と称してパトロールという名の散歩に従事しているくらいなのだからこれだってパトロールの一環だろ。

 

 つーかそんな事で『くらやみ』に襲われるなら昼時まで惰眠を貪る神様なんて今頃とっくに『くらやみ』に喰われてるっつーの。

 それに信者の願いを叶える事だって神様の立派な仕事の一つなのだから。

 

「それはそうですけど……いえ、そうですね。確かに信者さんの願いを叶えない訳には行きません、それでは神様の名折れです。ですから阿良々木さん、ここは謝るのではなくこう言うべきでしょう」

 

 困惑していた顔の両頬を軽くぱちんと叩いて、まるで太陽のような笑顔の八九寺は言うのだったーー

 

「ありがとうございます」

 

 

 閑話休題

 

 

 店内、もとい店員さんの対応がまずは辛かった。

 そりゃついさっき来店した奴が出戻ってきたのだから珍しくも思うだろうけど、その中でも僕と忍は周囲の注目を一身に集めた客なのだ……そんな奴が戻ってきたのだから店員さんの方こそ挨拶に困るだろう。

 

 知り合い以下の顔見知り同士が偶々鉢合わせてしまった時のような複雑にして微妙に気まずい空気がレジ前に流れていた。

 僕のメンタルがもう少し弱かったら両脇に少女と幼女を抱えて逃亡するところだったけれど、そこをグッと堪えて……何とかギリギリで堪えて……やっとこさドーナツを注文し、店員さんの立場からは予想外であろう店内でお召し上がりというミッションをコンプリートして僕達は席に着くーー

 

「儂は……うっ……儂は今ここで死んだとしても悔いはない……えぐっ……」

 

「そこまでのことですか!?というかこの場面で泣くとすればわたしこそが泣く場面でしょう!」

 

 忍の目の前には午前中に買ったドーナツが四つと、更に買い足したドーナツが三つ。合計七つのドーナツが積まれている。

 

 ドーナツが過去最高の標高を記録している。

 

 ドーナツ店にドーナツを持ち込むのもいかがなものかと思ったけれど、どちらのドーナツも同じ店で購入したのだから気にしない事にした。

 これにしたって予想外な出費ではあったけれど、泣いて喜ぶ程に嬉しがってくれるのならそれはそれで良かったとも思えるーー

 

 正直、ガチ泣きはひくけど。

 

 対して八九寺もドーナツ三つとミルクティーを目の前にして泣きはしないまでも満更ではない様子だし、僕としても記念日のお祝いは大成功といっていいだろう。

 

「突然ミスタードーナツまで連れてこられた時は驚きましたけどね。その場の勢いで行動する阿良々木さんらしいサプライズです」

 

「それは褒め言葉として受け取って良いんだよな?」

 

 八九寺の発言じゃなければこの場で崩折れてるぞ。

 目先の事しか考えないなんて散々言われてきたことだから今更といえば今更だけどな。

 

「もちろん褒め言葉ですよ、このお店に来れた事が既に最高のプレゼントですから」

 

「あ、うん……」

 

 あまりにストレートな言葉に僕の方が赤面してしまったーー照れ隠しにドーナツを頬張る。

 

 臆面も無く言われると照れるな……こういう事をちゃんと伝えられる八九寺はやっぱり僕よりも幾らか大人なのかもしれないけど。

 

 口腔内の水分をドーナツで奪われた分、一緒に頼んでおいたコーヒーで飲み下す。

 

 照れて口籠ったばつの悪い言葉ごと。

 

 ともあれ、忍はもうドーナツの虜で他の事なんかに入らない状態だけど、満足気な八九寺を見ているだけで僕の方も満たされる思いだ。

 母の日ではないし、まして記念日と呼ぶにもその当日ではないけれど、こう して自分の行為が誰かを喜ばせる事は僕みたいな奴からすれば万々歳だ。

 

 でもーー自己評価は良しとして、それとは別に気になる事はまだある。

 

 それはやっぱり八九寺の事なんだけどーーなんでこいつはドーナツを食べようとしないんだ?

 

 ひょっとして胸が一杯でドーナツすら喉を通らないとか?

 

「そういう訳ではないんですけどね。ただわたしがここでドーナツを食べると色々と面倒と言いますか……ちょっとしたホラーになりますよ?」

 

「ホラーって……そりゃ正体というか本質を語れば多少のホラーにもなり得るだろうけど」

 

 神様と吸血鬼と半人半鬼だもんな。

 そんな面子が揃いも揃ってドーナツを食べてるんだから……それでもホラーというよりコメディにしか見えねー。

 

「見える見えないの話で言えば、見えないからこそホラーなんですよ」

 

「見えないからこそ?」

 

 なんの捻りもなく反復して聞き返してしまったけれど見えないからこそホラー……?

 コメディにしか見えないものがどうしてホラーになるんだ。

 

「そういう意味ではなくて視認できるかどうかという意味ですよ阿良々木さん。わたしがまだ迷い牛だった頃は視認できるか否かの制約も明確だったのですが……」

 

 そう言うと八九寺は店内を見回す。

 カップルや家族連れなんかで賑わう店内を一通り確認するとこう続けた。

 

「現在のわたしは神様ですからね、霊感の有無であったり条件はわかりませんが誰から見えていて誰から見えていないのかがサッパリです」

 

 小首を傾げで困ったような笑みを浮かべる八九寺。

 

 視認できるかできないかーー確かに迷い牛としての八九寺ならばある程度ははっきりとした条件もあったけれど、今の八九寺ーーつまりは神様としての八九寺を視認できる条件とはなんだろうか。

 

 少なくとも僕や羽川は当たり前に見たり触ったりができるけれど、かといって誰にでもそうなのかといえばそうではない。

 神原なんかは八九寺の事をランニングついでに探しているらしいけど未だに目撃した事はないってボヤいていたし。

 まあそれに関しては八九寺の身の安全を考えれば一生見つからないままでいてもらいたいところだけどーー

 

 あの変態で百合な後輩が八九寺を視認できたかと思うと余りにぞっとしない。

 

 でもそれとホラーがどう関係してくるだ?

 個人的には神原が八九寺を見つけたことを想定した方がよほどホラーなんだけど。

 

「良く考えればわかることですよ阿良々木さん、わたしを視認できる人とそうでない人がいるという状況でわたしがドーナツを食べればどうなるか」

 

 見える人ーー

 

 見えない人ーー

 

 その差異とはーーーー

 

「……なるほどな」

 

 確かにホラーといえばホラーだった。

 

 八九寺が見えている人からすれば少女がドーナツを笑顔で食べている微笑ましい光景だろうけど、八九寺が見えない人からするとドーナツとミルクティーがひとりでに消えるという怪奇現象に他ならないのだから。

 

「それにも多少の相違がありますけどね。正確にはわたしを認知できないということは、わたしが食べているドーナツも認知できないということです」

 

 ひとりでに消えてるというよりも気付いたら無くなっているといった感想でしょうかーーと八九寺。

 

 結果としてそんなに大きな違いがあるようには思えないけど……一種の神隠しのようなものなのか?

 神隠しと聞けば嫌が応にも『くらやみ』を想起してしまうけれど、存在が認知できないということは即ち非存在という認識になるーーだとすればここで八九寺がドーナツを食べる事も『くらやみ』が怪異を呑み込む事も第三者的な視点では起きていることの内容に変わりはないのかーー

 

 ならば僕のサプライズは万々歳どころか及第点以下じゃねえか。

 

 こうして八九寺も喜んでくれている雰囲気ではあるけど、こうなってしまうと逆に気を使わせてしまったのではないのかという勘繰りが首を擡げる。

 

「そう気にしないでください、わたしはこれでとても嬉しいんですから。少なくとも二度と来れないと思っていた思い出の地にこうして来れただけでもほんの少しですがお父さんとお母さんを思い出せましたし」

 

「そんな打算的な満足をされてもさ……」

 

 実際にはドーナツを食べていないというだけの事も八九寺にとって辛いことを思い出させただけのように思えちまう。

 

 北白蛇神社の神様に使う言葉としては些か縁起が悪いけれど、これじゃ蛇の生殺しじゃねえか……

 

「良いんですよ阿良々木さん、それが怪異なのですから。神様たるもの我慢も必要なのです」

 

 ドーナツは神社に帰ってからいただきますよ、とーー八九寺は笑って言った。

 

「難しいよな、そういうの……見えるか見えないってだけの差なのにさ……」

 

 それが怪異だからなんて言い分で済ませていいなら僕の横でドーナツに心酔しているこいつはどうなんだよ。

 

 そもそも同じ怪異でありながら何で八九寺は人によって視認できなくて、忍は誰からも目撃されるんだーー

 

「せめて八九寺が誰からでも目撃されるような怪異だったらなーー」

 

 それは誰に向けた訳でもないほとんど独り言のような呟きだった。

 

 八九寺もそれ以上は何も言わず席を立って店内のポスターや装飾の観覧を始める。

 

 こんな日くらい、いくら八九寺が神様だからとはいえ楽しませてやっても良いじゃないか……それこそそんな事くらいで罰を当てるような神様がいるなら僕が叩っ切るつーの。

 

「誰からでも目撃のう……まあできなくもない話じゃろ?」

 

 いつの間にかあれだけあったドーナツが残り一つになった状態で忍は小さく言った。

 

 いや、あの物量をどこに消したんだよ!?

 

 お前の胃袋はブラックホールにでも直結してるのか?

 

 ってーー

 

「今なんて言ったんだ忍っ!?」

 

 僕の聞き間違いじゃなければ、できなくもないって言わなかったか!?

 

 肝心の八九寺は思い出にでも浸っているのか、店内をキョロキョロと観察していて僕達のやりとりは耳にも目にも入っていないようだーー

 

「じゃからできなくもないと言ったのじゃ、お前様も大概くどいのう」

 

 最後のゴールデンチョコレートにパクリと食い付くと忍はやれやれといった感じのリアクションをとる。

 

 すげえウザいリアクションだな、それ。

 

 アメリカのコメディアンかよ。

 

 しかし忍がそう言うのならーー特に怪異の事に関してそう断言するのなら本当にできることなのだろう。

 

 八九寺の視認化。

 

 この際、視認化なんて日本語が存在するのかはさて置き、それができるなら八九寺も問題なく今日という日を謳歌できるじゃないか。

 まあ話題の中心である八九寺は心ここにあらず状態でミスタードーナツご来店を楽しんでいるんだけれど……

 

「それができるなら忍、さっさとーー」

 

 気持ちごと前のめり気味に食いついた僕だったけど、それは忍の一言の前にあえなく遮られた。

 

「追加注文」

 

「……は?」

 

「じゃから儂は追加注文を所望しておる。この情報と方策は儂にとっても多少の苦痛を伴うのでな、ドーナツ三つから商談のテーブルについてやろう」

 

 さっきまで僕を神様だと崇めていた奴が脅迫してきやがったーー

 

 つーかどれだけ食べるんだよ、ドーナツ。

 

 三つの追加注文と聞けば安い買い物のように思えるけど実質これでドーナツ十個だぞ…

 今日一日で購入したドーナツの総数がとんでもない事になってるじゃねえ

 か。

 

「嫌ならば無理にとは言うまい、じゃがその方法は例え教えてやってもお前様には実行できんぞ?あくまでも儂だから可能な事じゃからな」

 

「……その方法ってやつは確かなんだろうな?」

 

「当たり前じゃ。この完璧である秘策士しのぶがそんな適当な事を言うと思うか我があるじ様よ?」

 

 適当だとしか思えねえよ。

 

 つーかそのネタまだ有効だったのか。

 

 そりゃ怪異に関する知識でいうならば六百年の歴史と忍野直伝の薀蓄がある忍だ、僕なんかよりも遥かに確かな事だろうーー

 それでもこいつの場合はドーナツに目が眩んで口からでまかせを言わないとも限らないという疑いが拭いきれない……

 

「ならドーナツ三つは成功報酬でどうだ?」

 

 成功報酬ーー

 

 これならば仮に忍が物欲から嘘を言っていたとしても僕が損をすることはない。

 本当に八九寺の視認化が成功したならばそこは素直にご馳走しても良いと思えるしーー実に最善策だろう。

 

「ほう……中々交渉が上手くなったなお前様。まあよい、結果は変わらんからのう」

 

 意外にもすんなり了承した。

 

 契約成立ーー

 

 これで僕が約束を反故にしたら本当に命を狙うと補足されたけれど、それでも忍は満足気に笑った。

 

 ドーナツがかかっている状況でこの余裕……そんなに自信があるのか?

 

「ではお前様よ、ひとまずやってもらいたい事がある。耳をかせ」

 

「なんだよ改まって、助手みたいなもんか?」

 

「そんなところじゃ、ほれ近う寄れ」

 

 そんなに大掛かりな事なのか?

 とはいえ、現状は忍の秘策とやらに頼る他ないーー僕にできる事ならば何でもやらせて貰おう。

 

 その秘策とやらを拝聴するべく忍の口元へと耳を寄せる。

 

「よいか?お前様はまずーー」

 

「ーーえっ!?」

 

 秘策というかーー本気か!?

 

 秘策っつーか本家奇策士よりも奇策じゃねえか!

 

 口元から耳を離して忍の顔を見ると、その顔は凄惨な笑みを浮かべていた。

 

「お前様にとっては造作もない簡単な仕事じゃろ?」

 

「そ、そりゃそうだけど……けど本当にここでやるのか?」

 

「嫌ならやめておけ、儂も泣く泣くではあるがドーナツを諦めるまでじゃ」

 

 こいつがドーナツを天秤にかけてここまで言い切るのだからこの策に間違いはないのだろう。

 

 しかし……本当に逮捕されたりしねえだろうなーー

 

「その段階では誰もハチクジを目撃できておらんから逮捕はされんじゃろ、で……やるのか?やらんのか?」

 

「……これが嘘だったら当分はドーナツ抜きだからな!」

 

 覚悟を決めるよ。

 

 僕はいまだに店内を物色中の八九寺を呼び付けた。

 

「どうしました阿良々木さん?もうお帰りですか?」

 

 これから自分が何をされるか全く予想もできていない八九寺が僕に歩み寄ってくる。

 そして僕はそんな八九寺の両肩を掴んでーー

 

「八九寺……許せっ!」

 

「えっ?」

 

 ーーキスをした。

 

 いや、違うんだよ?

 これは僕がしたくてしたって訳ではなくあくまでも忍がそうしろと言うからなのであって悪意は無いんだからな?

 そりゃ八九寺とのキスなんていつ如何なる時だろうと望むところではあるけど、僕だってまさかミスタードーナツの店内で事に及ぶとは思っていなかったし、率直に言うと僕だって恥ずかしいんだぞ?

 

 だからそのーー何でキスしてるんだろうか、僕。

 

「ーーーーーーーっ!?ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 八九寺が壊れた。

 

 というか発狂した。

 

「な、な、何を考えてるんですかあなたは!?とうとう欲望の枷が限界を超えて解き放たれたんですか!?」

 

「ち、違うんだっ!これには海よりも深い事情があってだな!」

 

「そんな事情は知りません!一度チューした相手なら何度しても同じだとでもお思いですか!?最低ですっ!獣以下ですっ!」

 

 半泣きで怒鳴り倒した八九寺はテーブルに置かれたままのミルクティーを一気飲みした。

 

 どれだけ嫌がられてるんだよ……さすがに落ち込んできた……

 

「二度と近寄らないでくださいっ!あなたの事は嫌いですっ!」

 

 空になったミルクティーのカップをテーブルに叩きつけると八九寺はとどめの言葉を叫んだ。

 

 それはもうマイクでも使ったかのような声量で。

 

 そしてその瞬間ーー

 

「ーーえ?」

 

 店内にいた人々の視線が八九寺に集まったのだった。

 

 

 

【012】

 

 

 

「……本当にチューする必要がありましたか?」

 

「仕方がなかろう、うぬの注意を逸らしつつすぐに飲み物を口に運ばせるにはあれが最善だったのじゃから」

 

 八九寺のテンションもとりあえずは落ち着きーーというか、自分の絶叫のせいで注目の的になった挙句、持ち前の人見知りスキルを遺憾なく発揮したところで、僕達は再びテーブルを囲んでいた。

 

 忍は追加のドーナツに上機嫌、八九寺は突然のキスにいまだ納得いかずに不機嫌なまま、僕は罪悪感と羞恥心から沈黙という、温度差の激しいテーブルではあるけれど。

 

「しかし吸血鬼の血にそんな効果があるとはな……」

 

 そう、血。

 

 血液。

 

 現在、八九寺の姿は誰の目から見ても確認できる状態になっていた。

 それについては忍の追加ドーナツの注文を八九寺に行ってもらう事で確認しているので間違いはない。

 

 問題はその現状の理由なんだけれどーー

 

「そもそも吸血鬼の血には他者に強く作用する効果があるからのう。傷を癒すのは勿論じゃが儂ほどの強い影響を及ぼす吸血鬼にもなれば効果は他にも出てくる、その中でも今回使ったのは吸血鬼性ーーというか儂の怪異としての存在力の付与じゃな」

 

 だそうだ。

 

 大まかに説明するとこういう事らしい。

 

 吸血鬼の血には再生能力とは別に、体内に取り込んだら吸血鬼性を付与する事ができるらしい。

 もっともそれは相手が吸血鬼になるとかではなく、あくまでも治癒力や動体視力ーー身体能力の向上なんかに現れるらしいのだけれど。

 

 あの春休み、吸血鬼だった僕の血で瀕死の羽川を助けたのがまさにそれ。

 

 しかし例外が存在する。

 

 その例外とは、吸血鬼の血を取り込んだ相手が怪異であった場合。

 

 吸血鬼以外の怪異が吸血鬼の血を取り込んだ場合、それはそのまま怪異性の上昇に繋がるらしいのだ。

 つまり普段は目撃すらされない存在力の弱い怪異が、吸血鬼の血によって強化されるとーー誰からも目撃される程に存在力が強まる。

 

 視認されるようになる。

 

「簡単に言うならばエナジードレインの逆という事じゃな」

 

 エナジーの注入。

 

 それによって目撃されるーーさながら吸血鬼のように。

 

「だからといって突然のチューは納得いきませんっ!遺憾の極みですっ!」

 

「ならばうぬ、儂の血を飲めと正直に言っておれば飲んだとでも?吸血鬼でもないうぬが?」

 

「そ、それは……」

 

「じゃろ?飲めんじゃろ?だから仕方なく我があるじ様に接吻をさせたのじゃ、文句どころか感謝してもらいたいくらいじゃわい」

 

 あの瞬間ーー

 

 僕が八九寺にキスをした瞬間、忍は手首に傷を付けて八九寺のミルクティーにその血を混ぜたのだった。

 それも再生と同時に蒸発して消えてしまう吸血鬼の血液を迅速に飲ませるためのキスだったのだけどーー

 

 確かに吸血鬼でもない八九寺に怪異とはいえ生き血を飲めというのは無理があるだろうーーそしてその結果、忍の秘策通り何も知らない八九寺は血液入りのミルクティーを一気飲みした。

 

 こう考えてみれば吸血鬼とはいえ幼女に自傷行為をさせてしまったのだからドーナツ三つの成功報酬はあって然るべきかーー

 

「心配せんでも効果は一時的じゃ。純粋な吸血鬼でもないうぬならば一日程で元の状態へと戻るじゃろ。我があるじ様の吸血鬼性が徐々に低下していくのと同じ原理じゃよ」

 

「今更ですけど忍さん、あなたは本当になんでもありですね……」

 

 八九寺も訳がわからないうちに事態がこうも急変したことで怒る気力も無くしたようだ。

 

「悪かったよ八九寺……ただ今日くらいは何も気にせず楽しんでほしかっただけなんだ」

 

 僕の名誉の為に明言しておくけれど、それ以外に他意はない。

 

 公衆の面前で不意打ちのキスはやりすぎたと思うけど。

 

「……はー。もう良いですよ阿良々木さん。確かに驚きはしましたけど言う程怒っている訳ではありません」

 

「え?怒ってねえの?」

 

「怒ってはいませんが次は許しませんからね、ロリカッケーにも程がありますよまったく……それにあの場面でわたしが変に恥ずかしがるようなリアクションをすれば複雑な空気になるじゃないですか。物語の趣旨が変わってしまいます」

 

 タグの追加を検討しなければいけないところでしたと八九寺は言った。プロデューサー業務は今日も健在のようだ。

 

 さすが八九寺P。

 

 空気を読んだ上であれだけ罵倒されたのであれば空気なんて読まないでもらいとも思えるが、実際に嫌われている訳ではなさそうなので良しとしよう。

 

 ……嫌われてないよな?

 

「ほれ、目的は無事に達成したのじゃからいつまでも惚けておらんでドーナツを食べよ。乾いてしまってはドーナツに失礼じゃ」

 

「お前の態度は神様に失礼だけどな!」

 

「それこそ今更ですけどね。でもこうして忍さんのおかげで弊害も無くなったことですしここは素直にご相伴にあずかるとしましょう」

 

 いただきますと、八九寺は本日はじめてドーナツを口にした。

 

 やはりその姿は神様とはいえ年相応で、どう見たって可愛らしい小学生にしか見えないーーだからこそ、こうして当たり前にやりたい事をやれる喜びみたいなものを感じて貰た事はこの上なく僕も僥倖だ。

 

 出費に関しては本当に痛いけど。

 

 激痛だけど。

 

「おいうぬ、ポンデリングはもっと敬意を込めて食せよ。ポンデライオン先生に失礼じゃろ」

 

「先生って……そんなにポンデリングがお好きなのですか?公式設定ではゴールデンチョコレートにご執心なはずでは」

 

 女子会みたいなノリでメタトークが始まった。

 

「唐突に公式設定とか言うなよ!それにしても忍、八九寺の言う通りお前はゴールデンチョコレート派だろ?つーかミスタードーナツのマスコットキャラを狙っていたお前としてはむしろポンデライオンは敵対関係じゃないのか?」

 

 こいつがどれだけ頑張ったところでポンデライオンを引き摺り下ろす事は土台無理な話だけれど。

 というかお前が狙うべきはミスタードーナツのマスコットキャラじゃなくて物語シリーズのマスコットキャラか正ヒロインの座だろうに。

 

「ふん、そんなものは後数十年も経ってあのツンデレ娘が寿命を迎えれば勝手に儂のものになるわ」

 

「とんでもねえメタネタをかますなや!」

 

 僕の彼女が死ぬ前提のメタネタなんて聞きたくねー!

 

 というか百歩譲って考えてみても、人間以外でヒロイン候補が多すぎる作品だからなーー八九寺や斧乃木ちゃんならば数十年後も健在だろう。

 

 忍がメインヒロインになる確約なんてどこにもないじゃん……ミスタードーナツのマスコットキャラよりは可能性があるけど。

 

「では忍さんはどうしてそんなにポンデライオンの肩を持つのですか?」

 

「それはのう……思い出すだけで胸が締め付けられるような話なのじゃが……」

 

 コーヒーを一口飲んでから、忍は悲痛な面持ちで語り出すーー

 

「あれは我があるじ様の影の中でいつものように過ごしておった時の事じゃった……儂はその日も寝る前の日課にしておる某動画サイトの観覧を楽しんでおった」

 

「ストップー!はっきりとストップー!!動画サイト!?お前、僕の影の中にインターネット回線をひいてるのか!?」

 

 初耳だぞ!

 

 ポータブルゲームなんかの存在は認知していたけれどインターネットってーー

 僕の影の中がどんどん漫画喫茶みたいになってるじゃねえか!

 

「儂の物質創造能力で作ったPCじゃから回線も当然ダミー回線じゃがの」

 

「おいおいマジかよ……下手したら違法行為じゃん」

 

 下手をしなくても違法行為なのだが……

 

 まさかルールを重んじる阿良々木家の長男が犯罪者を影で飼っているとは思わなかった。

 

「忍……自首しよう」

 

「じゃから怪異を法律で裁こうとするなよお前様。兎に角、その某笑顔動画で儂は見たのじゃ……」

 

 某笑顔動画って……確信犯だろ。核心に触れ過ぎだろ。

 

「見たとは一体なにを見たのですか?」

 

「うむ……兼ねてよりミスタードーナツのマスコットキャラを狙っておった儂はポンデライオンの生態と弱点を知るべく『ポンデライオン』で動画を検索しておったのじゃ、その折気になる動画を見付けてのう……タイトルは確か『ダンデライオン』じゃったか」

 

 ダンデライオンーー確か蒲公英(たんぽぽ)の英名だったかな。

 

「その動画は歌に合わせてポンデライオンが……うっ……駄目じゃ!儂の口からこれ以上は説明できん……!」

 

 何かを思い出したのか、忍は嗚咽を堪えるように啜り泣き、それ以上を語らなかった。

 

 いや、マジでなんなのこれ?

 

「阿良々木さん、携帯電話はお持ちですか?」

 

「え?あ、ああ……そりゃ携帯電話くらい持ってるけど」

 

 八九寺に促されるままポケットにしまっていたスマートフォンを取り出す。

 

「でしたらそれで忍さんの言う動画を検索してみてはどうでしょう?確かできるはずですよね」

 

 成る程。

 

 確かに今の動画サイトはスマートフォンからでも視聴できたはずだ。

 忍が説明できないまま崩折れた以上、実際にその動画を見た方が早いだろう。

 

 ろくに使いこなせていないスマートフォンを起動すると、滅多に開かないインターネットを立ち上げるーーそのまま慣れない手つきで某笑顔動画にアクセスーー

 

 えっと……『ダンデライオン』っと。

 

 この時、安易な気持ちで行動してしまった事を僕は後悔している。

 

 なぜならば僕と忍と八九寺ーー三名が揃いも揃って号泣してしまったのだから。

 

「阿良々木さん……わたしはもうポンデリングは食べれません……」

 

「僕もだぜ八九寺……どころかこれから先、蒲公英を見かけたら思い出して泣いちゃいそうだ」

 

「わたし、帰ったら神社の庭にタンポポを植えますっ!一面タンポポの花で埋め尽くします!」

 

「手伝う……いや、ぜひ僕にも手伝わせてくれ!あの悲しいポンデライオンの為にも僕にできることがあるならば!」

 

 結果から言うと、感動した。

 

 感動しすぎた。

 

「じゃろ!?そうなるじゃろ!?この動画を見た上でポンデライオンを倒すなんて言えんじゃろ!?そんな無慈悲な事をいうような奴は人間でないわ!」

 

 だからお前は人間じゃないんだって。

 

 鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼って設定はどこにいっちゃったんだよ……

 

 しかし忍がここまて言うだけあって本当に感動する動画であったことは事実だ。

 詳細を語るにはタチの悪いネタバレのようで無粋になるから控えるけれど、是非とも視聴していただきたい作品だった。

 

 非合法とはいえこの作品に出会わせてくれた忍にお礼するくらいに。

 

「しかし忍、いかに暇だったとはいえよくこんな動画を見つけたな。というか動画サイトを閲覧している時点で驚いたけど」

 

「言い方に棘を感じるのう……まあ、某笑顔動画のチェックは儂にとって当然の事じゃ」

 

 当然の事なのか?言ってる事とやってる事は完璧にフリーターやニートと呼ばれる存在のそれのように思うけどーー

 

「某笑顔動画において儂やお前様が活躍するアニメ物語シリーズの配信は相当な世話になっておるからのう」

 

「って、結局は宣伝かよ!」

 

 某笑顔動画の存在が話題になった時点でまさかとは思ったけれどーー前フリが長いわ!

 

「アニメ化物語、某笑顔動画のチャンネルで好評配信中です!」

 

「プロデューサーまで仕事をはじめやがった!?」

 

 ダンデライオンの感動が行方不明だぞ!?

 

「言ってしまえばこの二時創作というジャンル自体が既に原作の宣伝ですからね、ネット文化の発展を感じます」

 

「二時創作とか言いだしたら元も子もなくなるだろ!」

 

「今作の出演に対するギャラはどこに請求すればいいんでしょうね」

 

「ギャラ出てたの僕達っ!?」

 

 ドーナツの支払いで簡単に追い詰められている僕としては寡聞にして聞かない事実だ!

 

 まあ、あれだけの黒歴史を詳らかに語ってきた僕としてはギャラとまでは言わないまでも慰謝料くらいは貰いたいものだけど……

 

 ーー結局、この後も他愛も無い話で僕達は盛り上がった。

 主に語り部としてお伝えできないメタネタがほとんどだったけれども、終始笑顔の絶えない時間を過ごす事ができたと思うーー

 

 とはいえ、物語は始まったばかり。

 

 いや、物語は始まるばかりで終わらない。

 

 僕達の知らない所で、知る術もない物語は確かに始まっていたのだった。

 

 

 着信ーー神原駿河




【次回予告】


「やあ、届物語をご覧の皆さんこんにちわ、私は臥煙伊豆子。何でも知ってるお姉さんだ」

「以前、ソードと仕事をする機会があってね……ああ、ソードというのはエピソード、吸血鬼ハンターにしてヴァンパイヤハーフの男の子なんだけど」

「仕事ばかりで堅苦しいのも悪いと思って雑談に興じていたんだよ。私はお姉さんだからね、気遣いのひとつくらいできるのさ」

「その中でソードに質問したんだ、結婚するなら吸血鬼と人間のどちらが良いんだいってね」

「そうしたらソード、こんな事を言ったんだけどーー」

『何でも知ってるあんたが俺の歳も知らねーのかよ?この歳で結婚の事なんて考える訳がねーだろ、超ウケる。臥煙さんはそんな事ばっかり考えてんのか?』

「…………」

「彼にかけられている無害認定については考える必要がありそうだ」

「次回『するがダウト・其ノ壹』」

「いつか機会があれば神原家の湯船にでも浸からせてもらおうかな……」

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