【007】
天真爛漫
それはまさに八九寺真宵という少女を表す為にある言葉であり、逆説的言うならば元気と笑顔とツインテールがトレードマークみたいな少女こそが八九寺真宵だと言っても過言ではない。
実際に自分の持ち歌でもその笑顔が目印だと言ってたくらいだし。
それこそ八九寺に纏わる暗い過去から始まる様々な出来事を知る僕としては、あの天真爛漫さは奇跡の体現者なんじゃないかと思う域に達している。
僕が八九寺と同じ立場だったと考えると余りにぞっとしないけれど、とてもあんな快活さは発揮できないだろう。
どころか確実に非行に走るとさえ断言できる。
実際に羽川から不良のレッテルを張られていた僕が何を言うのかという話なんだけれどーーいや、今は僕の話なんてどうだっていい。
今は八九寺の話だ。
今の八九寺の話だ。
さっき聞こえた声は間違いなく八九寺の声だった。
それこそ間違いであって欲しいと思う程に微かで小さくて消えそうな声だったけれど、間違いなく八九寺の声だったのだ。
そしてそんな八九寺の声を聞いた僕は、僕の心臓は、早鐘のように鼓動していた。
誰よりも八九寺を知る僕だからこそわかるーーあいつはあんな弱々しい声をあげたりしない。
いや、そんな八九寺の声を聞いた事が無いわけではないけれど……それはいつも八九寺が人生の岐路に立たされた時だった。
既に死んでいる彼女に対して人生の岐路というのも違うかもしれないが、つまりは八九寺にとって良くも悪くも重大な事実に直面した時ーー
辿り着けなかった母親の家の跡地に辿り着いた時。
『くらやみ』に呑まれる前に成仏を選択した時。
地獄において蘇る僕を見送ろうとした時(この時は連れ帰ってしまったけれど)。
そんな時にこそ八九寺は、いつもの快活さを感じさせない声をあげていた。
それらをどんな時でも一番近くで見てきた僕なのだ。
微かに聞こえた八九寺の弱々しい声ーーそれだけの事が僕の心を揺さぶるには十分過ぎる程に十分な理由だった。
一度は離した襖に再び手を掛けて、さながら討ち入りでもするような勢いで開け放つ。
勢いよくとは言っても体感的には永遠に感じられるような心境で。
どうせいつもの悪ふざけなんだろ?
焦った僕が襖を開けば
「騙されましたね阿良々木さん」
だなんて言いながら大笑いするお前がそこにいるんだろ?
そこからいつもの名前を噛む一連の流れをやってバカな話に花を咲かせてーー
「八九寺!」
ふざけんなよ畜生!
せっかくの記念日に神様が事件に巻き込まれるなんて冗談にもならねえよ。
これでお前に何かあったら僕は今後一生、アニバーサリーというアニバーサリーを引き篭もって過ごすぞ!
だからーー無事でいてくれ!
およそそんな願いを込めながら襖は完全に開かれた。
しかし……襖の先に見た光景は僕の願いなんて遥かに裏切るものだった。
あの天真爛漫な八九寺の姿はどこにもなく、トレードマークの笑顔だって見て取れない。
大きな眼は固く閉じられて、特徴的なツインテールすら解かれ、いつも背負っているリュックサックすら傍に放置されたまま、八九寺は静かに横たわっていたのだから。
「おいお前様、これは……」
僕の後ろに控えていた忍から声がかかる。
顔こそ見ていないけれど、忍の声色からも自分が見ているものが信じられないという感情が伺えた。
それもそうだろう。
この僕ですら襖が開かれた瞬間、目の前の少女を八九寺だと同定できなかったのだから。
「マジかよ……」
僕の第一声は自分でも笑ってしまうくらい気の抜けた声だった。いや、人なんて予想外の現実に直面した時はおよそこんな感じなのかもしれない。
予想外。
そう、僕は予想できていなかったのだ。
なぜなら八九寺はーー
「寝てんじゃん」
すやすやと眠っていたのだから。
いや、眠っていたのだから、じゃねえよ。ふざけんな。
「なんだよこれ!どんなオチだよ!つーかさっきの声は寝言かよ!!」
昼時だぞ?
昨今の神様業界はこんな時間まで寝ていても許される程に緩いのか?
阿良々木家で昼時まで寝ようものならそれだけでファイヤーなシスター達にぶっ殺されてるぞ。
そしてこれだけ騒いでるのに一向に起床する気配が見えないんだけどこいつどれだけ心臓が強いんだよ。ストロングハートすぎだよ。
「吸血鬼の儂でさえ起きとるっちゅうに天晴れな熟睡っぷりじゃな。この新人神様は本気で信仰される志があるのかのう?」
「やめてくれ忍……このタイミングで本気のダメ出しをされたら僕が心を折られそうだ」
昼まで寝てても信仰される神様って何の神様だよ。
むしろ何様だよ。
ニートの神様にでもなるつもりなのか?
「してお前様よ、どうするんじゃこれ?起こすならさっさと起こしてドーナツを食したいんじゃが」
「いや、どうするって言われても……」
相手は八九寺とはいえども神様だし……寝ている神様を起こすってどことなく祟られそうだよなあ。
それに確かに時間を考えると少々寝過ぎな感は否めないけれど、こいつだって慣れない神様業務に身を窶して疲労困憊なのかもしれないし。
何よりも毎日のように『とけいもうと』に起こされている僕としては、睡眠を無理矢理に妨害される憤りを深く察してしまう。
せっかくの睡眠を妨害されるストレスは他人が思うよりも深刻だったりするのだ。
けれど八九寺の事を真に想うならばここは心を鬼にして起こしてやる方が良いのか?
今はまだ新人で慣れない仕事をこなす疲労が免罪符にもなるけれど、今後もずっとこんな生活を送る訳にいくまい。
ならば今のうちからせめて人々の信仰を集められるだけの振る舞いを指導するのも必要じゃなかろうか。
つーか良く良く考えてみれば神様がこの時間に寝てるって事は世の中の神にも縋りたい気持ちで参拝しに来る人々の願いや助けを寝過ごして聞き過ごしてるって事だよな。
そう考えると腹が立ってきた。
僕は神頼みなんてしなかったけれど、世の中の受験生達がどんな気持ちで手を合わせてると思ってるんだこいつは。
そんな気持ちで寝顔を拝んでみるとさっきまで可愛く見えていた八九寺の寝顔すら小憎たらしく見えてくる。つーかちょっと涎が垂れてんじゃん。
少女が寝ながら涎を垂らすのは二次元で見るから可愛いのであって現実で見ちゃうと僕ですら挨拶に困る。
大体こいつ、僕にはいつも厳しい事を言うくせに自分には甘すぎやしないか?
いくら精神的にも肉体的にも小学五年生とはいえ限度ってものがあるだろう。
いっそこいつの将来の為とか考えていた自分が恥ずかしくなるレベルだぜ。
もはやこんな怠惰な神様に親切にしてやる必要があるのだろうかと疑問を抱いちゃうよ本当。
このまま知らぬ存ぜぬで好きなだけ寝かせといて僕と忍はさっさと帰って自宅でドーナツを食べてた方が有意義かもしれない。
でもな……八九寺の分のドーナツまで食べるとなると量が多過ぎるし、かと言って妹達の分までは買ってないし困ったぞ。
というか本題は八九寺と出会った記念日だった筈だよな。ならばこのドーナツも八九寺にプレゼントしない事には意味を成さないのか……
甘やかすのは良くないとはいえドーナツには罪はない。
ここでドーナツを無下にする事は心を込めてこのドーナツを作ってくれたミスタードーナツの店員さんの心を無下にすると同義だ。
となるとやっぱりここは八九寺を起こさなきゃならないのか。
だがしかし、どうしたものだろう。
如何に僕といえども少女相手に妹達のような起こし方をする訳にいかないけれど、僕の内心だってこんな時間まで寝ている神様に対して何も思わないではないのだ。
むしろ業腹だ。
できることなら眠る八九寺の足を掴んでジャイアントスイングから始まるスペシャルコンボをお見舞いしてやりたいくらいに。
斧乃木ちゃんをして鬼いちゃんと言わしめるまでの鬼っぷりを発揮したい。
でもそんな事をやった日には、やらかした日には、都条例やら教育委員会やら関係者各位からの叱咤叱責を受けるのが関の山だろうし、僕のやってる事があの馬鹿な妹達と変わらないというレッテルを張られてしまう。それは避けたいところ。
ならば。ならばだよ(お待たせしました)。
ここは昼まで寝ている呑気な神様に対する諸々の感情を殺して、堪えて、大人になってーー優しく起こしてやるのが模範的な対応というものではないだろうか?
あの馬鹿な妹達が毎朝僕に対してやっているようにではなく、まるで幼馴染の優しいお兄さんが起こしにきたかのような紳士な対応こそが求められているのではないのか?
そして起きた八九寺に諭すように早寝早起きを促すーーこれこそができる男、阿良々木暦の使命だろう。
本来ならば怠惰なんて七つの大罪に数えられるくらい罪な行いだけれど、人は過ちからこそ初めて学ぶのだから。
全く、つくづく僕も甘い。
では未だ起きる気配のない子猫ちゃんを起こすとしよう。あくまでも紳士的にーーーー
「はちくじいいいいいいいいいっ!」
「きゃー!?」
ダイブした。石川五右衛門のような男にはなれなくてもルパン三世のように八九寺が眠る布団へとダイブした。
「起きろよ八九寺この野郎ー!いつも可愛いのに寝顔まで可愛いだなんて反則だぞ!どこまで僕を虜にすれば気が済むんだお前は!ギガぱないどころかテラぱないぜ!あ、涎が垂れてるじゃねえか!僕が舐めて綺麗にしてやる!安心しろ!ここは既に布団の中だ!僕達が物理的に結ばれる為のフィールドは既に用意されているぞ!後は僕に任せろ!痛くしないから!じっとしていればすぐに終わる!今日が僕と八九寺の新しい記念日だ!」
「ぎゃー!ぎゃー!ぎゃー!」
夢の世界から強制的に引き戻された八九寺が布団の中で暴れ狂う。
「こら!暴れるんじゃない!うまく合体できないだろうが!」
「ぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああかあああ!!!!!!」
「がうっ!」
「がうっ!」
右手に八九寺が、左手に忍が噛みついた。
つーか二人とも全く手加減してねえ。骨まで歯が達してるんじゃねえのかこれ。
「痛い痛い痛いっ!何すんだこのガキ!!」
本当に毎度の事だけれど。
痛いのも、何すんだも、やっぱり毎度お馴染みの僕だった。
【008】
秘技・章変えリセット
「さてと、本題に入ろうか八九寺。実はな……」
「ちょっと待って下さい阿良々木さん!異議ありです!異議が有り余ってます!」
ぴんと伸ばした腕を真上に上げた八九寺は叫んだ。
それも結構な形相で。
「なんだよ八九寺、僕はまだ何も言ってないぜ?話を聞く前からの異議申し立ては認められないな」
「いよいよ本気で馬鹿なんですかあなたは!?先程の凶行について言及する間もなく話題を切り替えないでください!」
「そうじゃぞお前様!こればっかりはこの迷子娘の言う通りじゃ!きちんと弁明せい!」
忍までご立腹かよ……しかし先程の凶行とはこれ如何に?
僕は先程どころか今までの人生において凶行に及んだ覚えはないんだけれど……あったとしてもそれは凶行ではなく愚行だ。
春休みから始まる数々の愚行くらい。
「待ってください忍さん。わたしはもう迷子じゃありません、神様です」
「なんじゃ?それがどうした。儂が呼びやすいのじゃから文句を言うでないわ」
「いえ文句ではなく訂正ですよ忍さん。今も迷い牛であるかのような呼び方をされてそれを否定しなければ例の『くらやみ』が来るかもしれないじゃないですか!なので迷子娘はやめてください。呼ばれる度に訂正するのも手間ですし」
「ああ……『くらやみ』か……確かに儂ら怪異にとって呼び名は人間のそれとは意味も違ってくるしのう。そのせいでこの場に『くらやみ』が顕現したら厄介じゃ。うむ、迷子娘はやめておこう」
「わかれば良いのです、わかれば。これからはハッチーと呼んで下さい!」
「なんで上から目線じゃ。なんで副音声ネタじゃ。渾名で呼び合う程に儂とうぬの距離は近くはないじゃろ、うぬなんて変わらずカタカナ表記でハチクジでよいわ!」
あれ?
聞きたくないフレーズと出しちゃいけないフレーズが幾つか聞こえた気がしたけれど、それは兎も角こいつらってこんなに仲良かったっけ?
少女と幼女で通じるものがあるのかもしれないけれど、確か夏休みに初対面した時はもっと殺伐としていた気がするけど……
あ、そういえば扇ちゃんと決着を付けるにあたって一度ペアリングが切れた時にもこの二人は会ってるんだった。しかも仲良く公園でクリケットに興じてたし。
とは言ってもその時の忍は完全体で少女と幼女ではなく、どころか少女と女王みたいな図だったけれど。
でも気が合う事は良いことだ。
うん。良きかな良きかな。
「良きかなではないわお前様!儂という生涯のパートナーがおりながらさっきのあれはなんじゃ!?やるなら儂が寝ている時にしろと言うたじゃろう!」
「冗談じゃないですよ忍さん!寝ている時なら許すって浮気に関して寛大すぎます!というか忍さんが寝ている時でもお断りです!次にあんな真似をしたらわたしは最高裁まで戦いますからね!」
「うぬも怪異でありながら裁判を起こす口か!?それでは我があるじ様と発想が同じじゃぞ?というかうぬは仮にも神様なのじゃから神罰なり天罰なりを自分でくだせよ」
「新米神様であるわたしにそんな神通力じみたことはできません。というかこの手の変態は然るべき公的機関で断罪された方が世のため人のためでしょう」
うわー。言ってる事は酷いけどこの二人すげえ面白い。
このロリコンビなら一日中見ていても飽きないかも。
妹達ともヴァルハラコンビとも違う味がある。
「何を他人事のように傍観しているのですか阿良々木さん。あなたは当事者でしょう。当事者にして容疑者でしょう」
容疑をかけられた。
「つーかさっきから二人とも何の話をしてるんだ?聞けば凶行とか最高裁とか天罰とか、挙げ句の果てに容疑者だって?何かあったのか?」
「本気で言っているなら正気の発言ではありませんねそれ」
「自分が何をしたのか忘れとるのか?」
何をしたって言われてもな……告訴されるような事をした覚えはないんだけど。
「小学生の眠る布団に飛び込んで強姦紛いな事をしたらそれは立派な犯罪でしょう」
「とても立派とは言えん行いじゃがの」
「おいおい、章が変わったら前の章の話は持ち出さないルールだろ?ちゃんとしようぜみんな」
「ちゃんとするのは阿良々木さんです。ちゃんと罪を償ってきてください」
ちゃんと覚えてやがった。
くそ。どうしてこいつらは章変えリセットが適応しないんだ。
正当すぎる意見は時に凶器になるんだぞ。
「あれは昼時まで寝ているグータラ神様を優しく起こしてやった結果だ。いつ参拝客が来るかもわからない立場で寝ている八九寺が悪い」
「弁明しろとは言うたがひどく不細工な言い分じゃな……章変えリセット云々の前に少女の寝込みを襲う為に一章節使うのも考えものじゃが」
「まったくです。それにこのシチュエーションは非常によろしくありませんよ阿良々木さん。ここに斧乃木さんまでいたらあの日のトラウマが鮮明に蘇ってきます」
「そういえばあの時も眠っておったうぬに我があるじ様が飛びついていったのじゃったな」
あの日というのは初めて『くらやみ』に遭遇したあの日だろう。
確かに『くらやみ』の事件ではそんな事もあったな。
あの時は少女と幼女と童女に噛みつかれたんだっけーー
「とはいえ今となっては『くらやみ』の現れる心配はないんですけどね。ときに
「待てよ貴様、いくら儂が富士山見たさに日本へとやってきた設定があったとはいえ儂の名前を山梨県にある市町村の地名のように呼ぶでないわ。儂の名前は忍じゃ」
「失礼、噛みました」
「違うな、わざとじゃろ」
「噛みまみた」
「わざとじゃないじゃと!?」
「鼻かみますか?」
「季節柄ではあるが儂は花粉症ではない……ちゅうか吸血鬼が花粉症なんかになるわけなかろう!」
あれ?あれあれ?
僕の気のせいかもしれないけれど妙に疎外感を感じるぞ……
というかそのネタって僕と八九寺でこそ成り立つやりとりじゃなかったのか?
心なしか八九寺が頑なに僕と目を合わしてくれない気もするしーー
「あのー、八九寺さん?」
「はい、なんでしょうか阿良々木さん」
「いや噛めよ!僕の名前も噛んでくれよっ!!」
「あれ?良く見たら全然知らない人でした。どちら様でしょうか?」
「噛まなくていいから忘れないでっ!!」
消えて下さいって言われるくらい心にくるわ!
かれんビー以来のダメージだわ!
しかし八九寺と忍ってここまで仲が良かったのか…少なくとも噛みネタが通用するくらいには。
まあ初対面ではないしな。忍にしても僕と八九寺のやりとりはいつも影の中から見ているだろうし当たり前といえば当たり前か。
でも僕も八九寺とのネタやりたかったなー。
「いや、そこまで本気で不貞腐れないで下さい阿良々木さん。ここまで成長した男性が拗ねる姿こそ心にきます」
「数少ない楽しみのひとつを奪われた僕の心の傷がわかるか?このダメージは普段見る事ができないお前のパジャマ姿を拝めたってだけじゃ癒しきれないぜ」
髪の毛だってツインテールじゃないから新鮮さはだいぶ割り増しされてる。
そういえば蝸牛から貝殻と触角をとったら何になるんだろう……
うわー、すげえ嫌だ。
同じ血を吸う生き物として考えても吸血鬼より嫌だ。
「誰が蛭ですか!それに普段どころか普通は見れちゃ駄目な姿なんですけどね」
女性の寝込みを襲うとは紳士の風上にも置けません、と八九寺。
言うほどに女性的な寝方はしてなかったという僕の意見は伏せておいた。
「それはそうと阿良々木さん、今日はどういったご用件だったのですか?室内まで侵入するなんてよっぽどの有事だとお見受けしますがーー」
すっかり眠気もさめてぱっちりと開いた眼でちらりと忍を見ながら八九寺は続けた。
「忍さんまで姿を現しているという事は……怪異絡みの話でしょうか?」
どうやら昼時まで寝てはいても、しかし立派に神様の自覚があるようで八九寺は神妙な面持ちで聞くのだった。
【009】
「記念日?」
とは言っても八九寺の心配は杞憂な訳で、僕と忍が北白蛇神社を訪れた理由はひとまず怪異が絡む話でもなければ怪異に絡まれる話でもない。
もっとも、この場において人間は一人しかおらず、残す二人は怪異なのだから怪異は絡んでいる話なんだけれどもーー
危険性を孕んだ話ではない事は確かだ。
つまるところ記念日。
事の詳細を説明するにあたって羽川に言われたから思い出しましたという部分は割愛したけれど、八九寺に対して何かしてやりたいと思った気持ちは正真正銘僕の本心なのだから問題ないだろう。
むしろそれを馬鹿正直に話したところで誰も幸せにはなるまい。
決して僕が格好付けて出来る男アピールをしたかったわけじゃないからね。
「成る程、わたしと阿良々木さんが出会ってから一年ですか。月日が経つのは早いものですね。で、なぜ忍さんまで?」
「ふん、儂はそんな記念日なんぞどうだって良いのじゃが我があるじ様がどうしてもと言うから仕方なく来てやったのじゃ」
「嘘をつくな忍!ミスタードーナツから先の行動は全てお前の自由意志だろうが!全自動で勝手に現れてここぞとばかりに恐喝しやがったろうが!!」
もしかしたら直江津市で一番ミスタードーナツの売り上げに貢献しているのは僕なんじゃねえのか?
「過ぎた事をいつまでも言うのは感心せんぞお前様。それにこうして目的も果たせたのじゃからよいじゃろう」
「章変えリセットを断罪した奴の台詞じゃねー!」
章変えリセットどころか前回投稿分の話でも僕は忘れないからな!
ショーケース前で散々駄々をこねた分の代償は後で鎖骨を味わう事で償ってもらう。
「では阿良々木さんと忍さんはわたしのために態々お土産まで持って来てくださったと?これはこれは……そうとは知らず失礼いたしました」
「うむ、苦しゅうない。面を上げよ」
「いえ、上げる必要がある程に下げてはいませんが……」
ともあれ一通りの説明も終え、事の次第を理解した八九寺はぺこりと頭を下げた。
「そういう訳だからさ八九寺、つまらない物だけど出会って一年の記念日を祝う僕からのプレゼントだ。遠慮せずに食べてくれ」
小箱に収められたドーナツを差し出す。
ここに至るまでに忍という飢えた猛獣から守り抜いた僕からのプレゼントを。
「ドーナツをつまらない物とはどういう了見じゃお前様よ!事と次第によっては只ではおかんぞ!それとうぬっ!その小箱の中身には儂の分のドーナツも含まれとるんじゃからな!全て食えると思うなよ?」
「建前とか謙遜とか考えろよ!ドーナツに心酔しすぎだお前は!」
僕も人の事をとやかく言える程に立派な人間じゃないけれどお前は別格だよ。
学んで欲しいあれこれが多すぎてどこから手を付けたら良いやら見当もつかねえ。
六百年もの年月で身に付けといてくれよ。
逆に六百年もの年月で身から離れてしまったのか?
「ああ……なんというか、ありがとうございます」
ドーナツに対する愛情が深すぎて阿保なやりとりをする僕達を他所に小箱を受け取った八九寺が礼を言うーー
礼を言うには言ったんだけれど……
なんだろう?
なんか元気がないように見えるけど……どうしたんだ?
てっきりドーナツなんて見た日には忍程ではなくても
「きゃっほー!あっりがとうございます阿良々木さん!!今日はこのままパーリナイですっ!!」
ってくらいには喜んでくれると思っていたんだけれど……
「ひょっとして八九寺、ドーナツは嫌いだったのか?」
横ではドーナツ信者の幼女がドーナツ嫌いとは何事だと喚いていたけれど無視。断固として無視。
それよりも笑顔ではあるけれどどこか浮かない様子の八九寺が気になってしょうがなかった。
「えっ?ああ……いえ、ドーナツが嫌いとかそんなじゃなくてですね……まあ時期も時期ですし色々と思い出すところがありまして」
快活ではっきりと物を言う八九寺にして珍しく煮え切らない物言いだった。
時期も時期?
思い出すところ?
まいったな、この手の含みがある言い方は僕が最も苦手とする分野なんだよな……全然見当もつかねえ。
「……本当にどうしようもない奴じゃのうお前様は、察せよそれくらい。お前様にとって記念日だったとしても相手にとって記念日とは限らんじゃろうが」
さっきまでのテンションとは打って変わって真剣味と呆れを混在させた表情の忍が小声でそう言った。
どうやら八九寺には聞こえないように話ているみたいなので僕も小声で返す。
「僕にとっての記念日がって言われても……どういう事だよ忍」
「うぬは真性の阿保か、言い方も渡し方も配慮に欠けすぎじゃ。明日はあれじゃろ?お前様達の言う母の日というやつじゃろ?という事はじゃーー」
理解した。
忍の言わんとする事も、僕という人間のどうしようもない愚かさも。
母の日ーーそれは確かに僕にとっては八九寺と出会った記念日たけど、それは同時に八九寺の命日。
ただ母親に会いたくて家を出た少女がその短い生涯を終えた日だ。
そんな日を前日とはいえ祝おうとしていたなんて僕は八九寺に対してどれだけ酷な事を要求したいのだという話だ。
つーか忍も忍で気付いていたなら止めてくれよ。
いや、忍だって僕がこんなにストレートな言い方、渡し方をするとは思ってなかったのだろう。
止めてくれよだなんてそれは自分の愚かしさを責任転嫁してる言い訳に過ぎないーー突き詰めた話、僕が悪いのだから。
忍は何も悪くない。
だからそれは隙もなく、容赦もなく、余地もない程にーー僕が悪い。
「ごめん八九寺っ!僕の気遣いがなさすぎた!悪気はなかったんだけど……本当にごめんっ!!」
土下座した。
というか気付いた時には土下座していた。
普段から簡単に土下座を披露する僕だけれど、今回ばかりは誠心誠意、本気で頭を下げた。
それこそ卒業式の土下座なんて比にもならないくらいに必死で謝った。
「や、やめてください阿良々木さん!別にそういう意味の思い出すではないですし!」
「いや、こればっかりは僕が自分を許せねえよ。こんな日を祝うだなんてどうかしてた」
そう。
どうかしていた。
自分が死んだ日を祝われて喜ぶ奴なんている訳ないのに。
「……面を上げて下さい阿良々木さん。わたしが前に言った事をお忘れですか?」
依然として土下座中の僕の肩に小さな手が置かれる。
「幽霊になったことは不幸せです。でも、阿良々木さんに会えたことは幸せですね、と言ったはずです。ですから阿良々木さん、こうしてわたしと出会った日を覚えていてくれてプレゼントまで頂いた事は全く不快じゃないんですよ」
むしろ本当に嬉しいです、と八九寺は笑った。
「それに命日はお墓にお供物をする事もあるでしょう?そう考えればノープロブレムです!……だから思い出したのはどちらかと言えばドーナツですね」
「ドーナツ……?」
八九寺に促されるまま、僕も土下座の体制を崩して八九寺の話に耳を傾ける。
さすがの忍もここは空気を読んでか目の前のドーナツに手を付ける事もなく、腕を組んで聴受の体制をとっていた。
「はい、ドーナツです。湿っぽい話ですが聞きますか?」
この問いには普通ならば即答しかねるところだけれど、生憎なことに僕は知っている。
なんたって僕は八九寺の親友なのだから知っていて当然だ。
こういう時の八九寺は選択肢こそ与えてくれるけれど、本音は話を聞いてもらいたいのだと。
だから僕の答えは決まっていた。
「聞くまでもないだろ八九寺?お前の話なら僕はなんだって聞くんだから」
くだらない雑談から地獄を巡るような真剣な話までーー八九寺の話ならなんだって聞くに決まってる。
そして八九寺は、そうでしたね、と笑ってから話し始めた。
「生前の話なんですけどね、それもわたしのお母さんとお父さんがまだ離婚する前の仲が良かった頃のお話です。
「お母さんは家にいる方でしたけどお父さんは仕事がありましたので週末くらいしか家にいませんでした。とは言っても夜には帰ってくるんですけど、わたしも小学生ですのでその頃には寝ています。なのでまともに顔を合わせるのはやはり週末だけでした。
「それでもですね、お父さんも一人娘との時間を取れない事が寂しかったのでしょう。たまにですけど仕事が早く終わった日にはお土産を買って帰ってきてくれました。
「それが決まっていつもドーナツだったんですよ。
「最初わたしが大喜びしたからなんでしょうけど、それからというもの毎回毎回ドーナツをいっぱい買ってきてくれるお父さんは子供ながらにどこか可愛かったものです。
「週末には一緒にミスタードーナツにも連れて行ってもらいましたよ。本当にどれだけドーナツ好きだと思われていたんでしょうかね、わたし。
「いえ……やっぱり実際のところは本当に大好きだったんですよ、ドーナツ。
「正確には家族で楽しく食べるドーナツが大好きだったんです。
「最終的にはお母さんとお父さんは喧嘩ばかりの間柄になってしまいましたがその頃は家族三人で仲良く笑いながらドーナツの取り合いをしたりして……それがどうしようもなく楽しくて。
「ですから今でもドーナツを見るとあの頃を思い出してしまうんですよね。
「あの頃の楽しくみんなで食べたドーナツは美味しかったなーって……」
どこか懐かしむように八九寺は話を終えた。
八九寺の家族に対する思い出。
それはなんとなく触れる事がタブーのように思えて、というかデリケートすぎて僕から聞く事が憚られるような話題で今の今まで知らなかった話だった。
そして聞けば聞く程に納得してしまう話だった。
結果にばかり目が行きがちで、つい不仲な夫婦を想像してしまうけれど最初から仲が悪い二人が結婚なんてする筈がない。
八九寺の両親だってその例に漏れず最初は仲睦まじい二人だったに決まっている。それ故に二人の間に八九寺真宵という愛娘が産まれたのだから。
結果として離れて生きる事を選択してしまったけれど、八九寺の家族にだって団欒な時は確かにあったのだ。
それにミスタードーナツ。
既に言ったことだけど、僕の街にはミスタードーナツの支店は一つしかない。
六月十四日のあの日ーー
忍と僕がまだ和解する前、忍があの廃塾から家出したあの日。
家出した忍を最初に見つけたのは八九寺だ。
そしてその場所はやはりミスタードーナツだった。
アニメ版では大袈裟な程に孤立した店舗のような表現をされているけれど、あそこまでじゃないにしろミスタードーナツはそれなりに離れた場所にある。
なのに何故あの日、八九寺はあの場所にいたのかーー
答えは簡単だ。
八九寺はただ思い出の場所へと足を運んでいただけだった。
両親に連れてきてもらったという店がミスタードーナツだったならば、必然的にその店舗は他でもない僕と忍が芦毛なく通うあのミスタードーナツに他ならない。
いつか両親と訪れたミスタードーナツに思い出の中に今も残る家族の姿を見ていただけなのだ。
たかがドーナツ、されどドーナツ。
合縁奇縁、それぞれの縁がドーナツのように丸く輪になって繋がったようなそんな気がした。
「家族というものは儂にはわからんがしかし、あの廃墟で食べたドーナツより我があるじ様と食べるドーナツの方が好きだという点では共感できなくもないのう」
「結局のところドーナツの話かよ」
それでもどこで食べるかは気にしないと公言した忍が誰と食べるかについては違いを認めてくれるのはありがたいんだけどさ。
「はい!湿っぽいのはここまでにしましょう!」
ぱんっと両手を叩いて八九寺が明るい声で場の空気を変えようと振る舞う。
「折角こうして来てくれたのですから暗い雰囲気はなしにしてドーナツをいただきましょう。大したおもてなしはできませんけどお茶くらい入れますよ」
着替えもしたいですしね、と八九寺は立ち上がった。
怪異……つーか神様がお茶を入れるってのもどうなんだよ。
神様にお茶を入れさせる僕達もどうなんだという話だけど。
さて置き、そんな事はどうだっていい。
そんな事よりもーー
「待て八九寺、着替えは必要だけどお茶は必要ない。ドーナツはしばしお預けだ」
横の忍がこの世の終わりみたいな顔をしているけれど無視。断固として無視。
「今から出かけるぞ」
男の子なんだから頑張って喜ばせてあげてという羽川の言葉が思い返される。
全くもってごもっとも。
他でもない僕自身が記念日だと言ったのだ。
少しくらい大好きな親友の為に頑張っても良いだろう。
記念とは祝いの言葉なのだから。
【次回予告】
「きゃっほー!全国億兆人のロリカッケー皆さんコンバトラー!あなたの心に住まいを構える永遠の小学五年生!ゴッドオブロリ!八九寺真宵でーっす!」
「さて、よく聞く『思いやり』という言葉ですがどうでしょう」
「『思いやり』をもって接する側の人は『思い』を『やって』るわけですから良いでしょうけど『思い』を『やられて』る側の人はたまったもんじゃありません!ひとたまりもありません!」
「『思い』を『やられて』る人はすなわち『おもいやられる』人ということではないですか!」
「親切心が一周して悪口です」
「そこで不肖わたし、『思いやり』という言葉の改変を提案します」
「世間に投じる一石、いやさ世間に仇なす乾坤一擲!親切と自己満足の境界線!善と偽善の不協和音!」
「次回、『こよみアニバーサリー 其ノ肆』」
「阿良々木さんには思いやりをもって接します」