――――灼熱に包まれる街を見た。
その日まであった人を、建物を、その営み何もかもを。
それら総てを、まるで無価値だったと否定するように、分け隔てなく包み込む炎。それは災害と呼ぶにはあまりにも凄惨な、まさに地獄の再現だった。
このような光景を、時臣は知らない。
いや―――知らなかった、と語るべきか。何しろ一度、この光景を作り出した世界を観測したのだから。
見覚えのある街が、猛火の中で朽ち果てていく。足元には身元が分からない真っ黒な人型が転がり、多くの人々がこの炎の中で命を失っていく。
彼にはただ……眺めていることしか、できなかった。
この空間に絶望以外の色はない。
空は暗雲に覆われ、地上は炎と死に埋め尽くされている。
汚染された聖杯の確認に行った時とは、文字通り桁が違う。英霊達の魂を捧げられたことにより溢れた怨嗟は、時臣の知るあらゆる呪詛よりも強烈だった。
炎の爆ぜる音、熱風が吹き荒れる音。あらゆる音に憎しみが宿っているように思えてしまう。ここにいるだけで死を選びたくなるような絶望のセカイを、一人の少年が懸命に歩いている。
耳を塞ぎ、目を閉じて、助けを求める声を無視し、差し出された手を振り払う。誰が彼を責められるだろうか。この状況下で、十にも足らない少年が他者を助ける余裕などない。少しでも他所に意識を割けば、瞬く間に炎と煙に巻かれて死んでしまう。
そして、少年はついに一度も歩みを止めることなく日の出を迎えた。
気がつけば焼け野原に仰向けに寝そべっていた。
炎の気配はとうに遠のき、空は重厚な雨雲に覆われているのが見える。
もうすぐ、雨が降るのだろう。それでいい。雨が降る頃には―――あの出会いが、ある筈なのだから。
周囲には、焼け焦げた人の遺体が転がっている。真っ黒になってずいぶんと縮んでしまったそれらは、もはや人としての原形を留めていない。
この人たちがこんな姿になってしまったのに、どうして自分は生きていられるのだろう。きっと、単に運がよかっただけなのだろう。
ああ、でもここまでだ。息をするだけでも苦しい。体力は限界を迎え、身体の感覚は失われている。
―――それでも、空に手を伸ばした。
何かを意識したわけではなかった。ただ、空が遠いなあ、と他人事のように思っただけ。
その行為で、なけなしの体力を使いきってしまったのか、急速に襲い掛かってくる眠気に抵抗することもできずに少年は暗闇に落ちる。
その刹那。
固い地面に投げ出されるはずの手を、力強く握る手があった。
その顔を覚えている。
目に涙を溜めて、生きている人間を見つけ出せたと、心の底から喜んでいる男の顔を。
男は、泣いていた。
ありがとう、と。
生きていてくれてよかったと。
まるで我が事のように。救われた少年自身よりも嬉しそうに。男はこの上ないほどの笑顔と涙を浮かべて、少年を抱き寄せた。
それが彼の、最初の記憶だった。
「……」
うっすらと目を見開くと、見慣れた天井が視界に映る。自室のベッドの上で上体を起こした時臣は、先程見た光景について一人思考を巡らせた。
―――あの夢。
サーヴァントと契約したマスターは、魔力供給や念話などのパスが繋がれた影響もあって夢という形で相手の記憶を見る事があるという。あれは間違いなく、己の召喚したサーヴァント―――エミヤシロウの記憶だったのだろう。
「正義の味方、か……」
娘達との関係を含め、彼に対し思う所はあるが―――状況次第で娘を含めた三人の少女をとっかえひっかえするとは何事だ―――それでもなお、その一つをただひたすらに目指した彼の意思の固さは凄まじい物があっただろう。
死後は『守護者』としての現実にどこまでも絶望したようだったが―――。
寝間着から着替え身支度を整えてリビングに向かうと、そこは既に美味しそうな匂いが漂っていた。
「あっ、お父様! おはようございます!」
「あぁ。おはよう、凛……葵も。彼の調子はどうだい?」
「えぇ、アーチャーさんには家事を手伝って貰って助かるわ。……本当、彼みたいな英霊に家事なんかさせてしまって、ばちが当たらないかしら」
「―――何、私が好きでしていることだ。君が気に病むことはないさ。―――マスター、お茶だ」
「……あぁ、ありがとう」
娘と共に食卓に着いていた妻に問いかけると、何かしらの引け目を感じてかその黒髪を揺らした葵は困ったように息を吐く。流れるような動作で淹れた紅茶を渡す己のサーヴァントの言葉には、流石の時臣も苦笑を禁じ得なかった。
召喚されたサーヴァントが宮仕えの執事と同等の家事スキルを発揮するなど、一体誰が知り得ようか。時臣だって観測した未来の情報がなければ自分の目を疑っただろう。
予定通り目当ての英霊を召喚してから早一か月。周囲の面々に対する紹介も手短に済ませ、アーチャーの姿はすっかりこの家に馴染んでいたのだが……今も美味しそうに朝食を頬張る娘が英霊の座にまで至るような男をここまで多芸にさせたことに関わっているだろうことを考えると、頭を痛める思いだった。
「……」
かぐわしい香りを漂わせる紅茶を堪能して気を落ち着かせていると―――既に彼に反旗を翻し敵対関係に移行したとされている筈の神父が、その場を訪れる。
「うげ、綺礼」
「む、どうしたのかね、凛。良くないぞ、遠坂の次期当主たる者がそのような声を出すのは、な」
「誰の所為だと思ってんのよ……」
どこかイイ笑顔を浮かべてそう告げる綺礼の言葉に物凄く嫌そうな表情を浮かべながらも、両親の手前声を潜めて毒づき―――凛は、アーチャーの持ってきた皿に盛られた料理に顔を引き攣らせた。
「あ、アーチャー、それ……!?」
「む? いや、彼たってのリクエストでな。激辛麻婆を好むとのことだったので、こうして作った訳で―――」
「何でアンタはアーチャーに、お父様のサーヴァントにあんな劇物作らせてんのよ!? あの泰山って店で食べてれば良いじゃない!!」
「いや、それは尤もな言い分だがな。この男の作る麻婆がまたあそことは違った味を出していて、これが中々―――食うか?」
「食うか!」
もしかしたら食べたことがあるのだろうか、マグマのような色彩を醸し出すマーボーを口にする神父の言葉に少女が絶叫する。その様子を見守る葵はと言うと、にぎやかな食卓の光景にくすくすと微笑んでいた。
「……」
穏やかに目を細めて紅茶を口にする時臣は、ふと傍らに立つアーチャーに視線を向ける。
「アーチャー、記憶の方はどうかな?」
「あぁ、あれだけ時間を貰えればな。摩耗している部分もかなりあるが、少なくともこの街で過ごした時期に起きた出来事……聖杯戦争に関しても、十全に思い起こすことができる。地形も把握した、今後の行動に支障を出すこともないだろう」
「そうか、それは上々だ。……さて、禅城の家にも連絡を入れなければな」
「あぁ、そうだな。そろそろ……聖杯戦争が、始まる」
「……」
その日の、午後。
オーウェン・トワイライトは、目の前の光景が信じられなかった。
衝撃に打ち震えていたと言っても良い。
数週間前に召喚したサーヴァント、キャスターとの対話を経てある程度の信頼関係を構築することに成功した彼は、キャスターの保有する高位の『道具作成』―――本来キャスターの適性を持ち得ない為『陣地作成』に関する評価はかなり低かったが、己の武装を自作したことも相まってAランクにまで至ったらしい―――に目をつけ、聖杯戦争に向けて多くの礼装の作成、強化を依頼していたのだが。
今後の行動を話し合おうと広間を訪れた彼の目の前では、地面を駆け抜ける馬達の光景を映し出す水晶玉の前で声を張り上げる少女がいた。
「いけ、そこだ! させっ! ―――いよしっ、よくぞ駆け続けた!」
余談だが。
彼は、この聖杯戦争に全てを懸けていた。
籍を置いていた魔術協会で数十年に渡る研究を続けてもなお至ることのなかった、たった一つの願い。だがしかしそれを叶える為に打ち破らなければならないのが、彼もよく知る
生半可な備えでは勝ち残ることなどできないと判断したオーウェンは、準備の段階からあらゆる手を尽くした。
花の魔術師マーリンを召喚する為の聖遺物、及び儀式に成功した後『神殿』を作成して貰う為の触媒の収集。上質な霊地を確保する為に魔術協会にもかけあったか。
そして、その結果―――大儀式に挑む為に、オーウェンは各方面にかなりの借金を抱えていた。それこそ、金銭の扱いに比較的無頓着な性格であった彼が願いを叶えた後どうしようか真剣に悩むくらいに。
そして―――遠見の魔術によって競馬場を映し出す水晶玉に熱中するキャスターのステイタスには、『皇帝特権・黄金律』とあった。
「よし、また当たったぞ奏者よ! 今度は五連単だ!」
「……キャスター」
「む?」
震える声で呼びかけると、水晶の前ではしゃいでいた少女はきょとんとした顔でこちらを見上げる。行き場のない激情に、軽く指をわなわなとさせながら―――青年は、断言した。
「君を召喚することができて、本当に良かった……!!」
「……ふはははは! そうか、いつかいつかと思っていたが、ようやく余の魅力に気付いたか! よろしい、ならば見惚れよ、そして惚れ直せ!!」
「あぁ、是非そうさせて貰うとも。……あぁくそ、気が動転していて本題を忘れかけていた。そろそろ、本格的に動き出そうと思っているんだけど」
「……む。それも良いが、余は先程奏者が作っていたケーキを―――」
「………………食べる?」
「食べる!」
「……」
吸血種にその身を堕とした彼にとって、そのキラキラした瞳は余りにも眩しかった。目を輝かせる王女からいそいそと背を向け、台所へ向かう。魔術的な保存状態を維持する冷蔵庫に保存された食材や料理は、
数日前振る舞った時も好評であったショートケーキを手間暇かけた魔術儀礼によって切り分け、丁寧に盛り付けてはキャスターの待っているであろう食堂へと向かう。
「おぉ! 待ちかねたぞ、奏者よ!」
予想に違わず赤い少女は既に待ち構えており、食卓に着いてワクワクと体を揺らしていた。
「お待たせしました、姫さ……おっと失礼、ついうっかり」
「むー。余を姫などと呼ばないでくれ」
「悪かったよ。……はい、どうぞ召し上がれ」
「うむ!」
不機嫌そうに頬を膨らませてから一転、
材料の生育、製造、加工、保存、調理工程、更には盛り付けにまで―――完成に至るその全てに魔術的要素を詰め込んだそれは、今回もまた彼に多大な恩恵を与えた。
「―――それで、奏者。動くと聞いたが、どうするのだ? 今のところ余を除いた二騎しかサーヴァントは顕現しておらぬのだろう?」
「あぁ……」
ケーキの上に乗せられた青い苺―――色彩こそ狂っているが味自体は普通に美味しい特製品だ―――を口にしては問いかけるキャスターの言葉に、目を細めた青年はあっさりと答えた。
恐らくは―――標的となったマスターに、重大な影響を及ぼすであろう一言を。
「君を召喚した時、僕がされていたら一番嫌だったことだよ」
エミヤとオーウェンの料理対決なんかやんないからな。絶対だぞ!