愛しい時の中で   作:シャンティ・ナガル

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後編

 

           ☆

 

「ねぇ、どれみちゃん。『クロノス』と『カイロス』って言葉知ってる?」

 

「なにそれ?」

 

「ギリシャの古い哲学でね。クロノスって言うのが時計で刻まれる普通の時間のこと。カイロスって言うのが主観的な時間……楽しいことはあっという間に過ぎちゃうとか。時間の流れは一定じゃないって考え方があるの」

 

「ふ~ん……」

 

 あたしはソファの上で、おんぷちゃんの話を静かに聴いていた。

 

 別に話の内容に興味がなかったってわけじゃなくて、気持ちが段々とぼんやりしてたんだ。

 

 毛布の中が暖まる。

 あたしの体温がおんぷちゃんに奪われていくのを感じる。

 おんぷちゃんの体温があたしに与えられてくのを感じる。

 

 お互いに、与えて与えられて。

 胸一杯に温もりが広がって、言葉がなくても想いが伝わり合ってる気がした。

 

 

 幸せだった。

 ノーベル賞を取るだとか、宝くじに当たるだとか、そういうのじゃない。

 

 

 体を寄せあって暖め合う。

 

 誰かが、隣にいてくれる。

 

 たったそれだけのことで。

 

 

 喜びが、このまま永遠に続くんじゃないかってくらい溢れてきて、あたしの中を循環していく。

 

 小さなソファには完璧な世界が築かれて、必要なものが全て揃ってる。

 

 あたしはその途方もない、でも、ほんの些細なことを目の前にして、茫然としていた。

 

「……もう五年生なのね」

 

「うん?」

 

 おんぷちゃんがぽつりと呟く。

 

「四年生、ハナちゃんの子育てであっという間だったよね。五年生も、ももちゃんが転校してきて、お菓子屋さんを手伝って、ハナちゃんがまた帰ってきて……きっと五年生もすぐに終わっちゃうの。六年生になって、その後、わたし達は……」

 

 息をつきながら、ゆっくりと喋る。

 切れ切れに、重く、深く、刻みつけるように。

 

 おんぷちゃんはじっと天井を見つめていた。

 

 その横顔は余りにも切なげで。

 苦しくて、胸が張り裂けそうになった。

 

 おんぷちゃんに、そんな顔をしてほしくない。

 心から、そう思った。

 

 衝動が走る。

 あたしは毛布を払い除けて起き上がった。

 

「でもさ! あたし達は一生大親友だよね! 六年生になっても! 中学とか高校とか、正直ぜんぜん想像できないけど……それでもそれだけは変わらないよ! そうでしょ!?」

 

「どれみちゃん、シーッだって」

 

「あっ、ごめん……」

 

「ふふ、どれみちゃんったら」

 

 あたしがモゴモゴと口を押さえてたら、おんぷちゃんがそっと微笑んだ。

 

「ありがとう、どれみちゃん。そう言ってくれて嬉しいわ。でもね……時間の流れが早いのはあなたのせいなのよ」

 

「えっ? どういうこと? あたしなんか悪いことしちゃった?」

 

 急な指摘に慌てるあたし。

 

 それを見て、おんぷちゃんは悪戯っぽく笑う。

 

「ふふ、違うわ。わたしにとってね、どれみちゃん……あなたとの時間は『カイロス』なの」

 

「……『カイロス』?」

 

「そう」

 

 おんぷちゃんが体を起こす。

 

「三年生の時、ここに転校して色んな人に出会ったわ。魔女見習いになって……MAHO堂の皆やクラスメイト、魔女界の人達。そして、ハナちゃん……今まで関わってきた皆に元気や勇気をたくさん分けてもらって、ずっと支えてもらってた」

 

 あたしは曖昧に頷く。

 おんぷちゃんの言いたいことが分からなくて、顔を窺いながら次の言葉を待つ。

 

「辛いことも悲しいこともあった……でも、挫けそうな時に傍にいてくれた。楽しい時はもっと楽しくて……わたしの思い出の中心には、いつもどれみちゃんがいるの」

 

「あたしが?」

 

 きょとんとしてしまう。

 

 おんぷちゃんはにっこりと笑って、あたしの手を取った。

 

「禁断の魔法を使って好き勝手してた時、どれみちゃんが言い聞かせてくれたわ。心に囲いを作って閉じ籠っていたわたしを連れ出してくれた。呪いの森にも一人じゃ絶対に入れなかった。どれみちゃんが勇気をくれたから。楽しい思い出も、どれみちゃんがいたから。どれみちゃんと一緒にいるから楽しかったの」

 

 おんぷちゃんがあたしの手を大切そうに包みながら、熱を込めて言う。

 

 あたしはおんぷちゃんに握られた手をじっと見つめていた。

 真正面からそんなことを言われて嬉しかったけど、とんでもなく恥ずかしかった。

 おんぷちゃんは女優さんだから堂々と言えるんだろうな。

 

 でも、あたしは顔が真っ赤になって目を合わすこともできない。

 直視する勇気なんてなかった。

 声を震わせて、戯けて言うのが精一杯。

 

「へへっ、ありがとう、おんぷちゃん。あたしだっておんぷちゃんがいたから辛いことも乗り越えられたし楽しいことがたくさんあったよ。いや~、それにしてもおんぷちゃんにそこまで言われるなんて世のオトコのコが羨ましがるだろうね。まるで愛の告白じゃん」

 

「……ふふ、そうかもしれないわね」

 

 胸が詰まる。

 その一言に、はっとして顔を上げてしまう。

 

 目の前には、絶世の美少女。

 ゆらゆらと光る瞳、艶やかな唇。

 

 おんぷちゃんが、しだれかかってくる。

 

「夜になると、堪らなく寂しくなるの。どれみちゃんといる時間が日に日に短くなってる気がして……楽しすぎて、不安になるの。今日だって居ても立ってもいられなくて会いに来ちゃったわ」

 

 甘い囁きが耳をくすぐる。

 心臓が痛いくらい高鳴る。

 

 気持ちがもどかしくなって落ち着かないけど、体は固まったように動かない。

 

 瞳はおんぷちゃんを捉えて離せなくなる。

 

 おんぷちゃんが一言一言、想いを込めるように語りかけてくる。

 

「わたしね、どれみちゃん。夜になるといつもあなたのことばかり考えてるのよ? 離れたくなくて、傍にいたくて、少しでも、どんなに短くても、目を閉じても、あなたを探し続けてる」

 

 暴れる心臓を服の上から手で押さえつけた。

 

 おんぷちゃんの声が優しく強く迫ってくる。

 

「でもね、ふふっ……気付いちゃったの。時間が短くなるんならその分一緒にいればいいんだわ。ずっと目を離さなければいいの。そう思わない?」

 

 楽しげに、おんぷちゃんが笑った。

 

 あたしはうんともすんとも言えなかった。

 身勝手な言い方だなと頭の片隅では思うんけど、それも心臓の鼓動が押し流してしまう。

 

 

 ただ、心から溢れ出す感情に身を任せる。

 

 恥ずかしさと、もうひとつ――

 

 

「不思議ね……なんでわたし、どれみちゃんのことばっかりなんだろ。頭から全然消えてなくならない。でも、それが幸せなの。とっても幸せで、自分でも分からなくなるの……ねぇ、あなたはなんなの? わたしにとってあなたはどういう存在? あなたにとってわたしは? それが知りたいの。ねぇ、おねがい……答えて」

 

 まるで自分に言い聞かせるように、おんぷちゃんがあたしに問う。

 

 

 あたしにだって、そんなこと分からない。

 

 何か答えを出そうにも言葉が出なかった。

 

 見つめ合う時間だけが過ぎて。

 

 やがて、時計の針は止まる。

 

 

 心臓が軋む。

 でも、鼓動はいつしか消えていた。

 

 名付けようのない気持ち。

 渦巻く。蠢く。芽生える。

 

 躊躇が、戸惑いもある。

 それなのに、体だけが勝手に動いた。

 

 

 

 頬に手を添える。

 

 顔がだんだんと近づいて。

 

 吸い込まれるように、その唇を啄む。

 

 柔らかい。

 

 生まれて初めての、キス。

 

 

 

 少しだけ体を離して、おんぷちゃんを見る。

 

「ごめん……」

 

「なんで謝るの? 嬉しいわ、どれみちゃん。ほんとに、ほんとに……」

 

「わわっ、なんで泣いちゃうのさっ!?」

 

 おんぷちゃんの頬を伝わる涙。

 

 あたしは咄嗟におんぷちゃんを抱き締めた。

 

 頭や背中を優しく撫でた。

 艶やかな髪、白いうなじ、柔らかな肢体。

 

 声はないけど、おんぷちゃんの涙は止めどなく溢れて、あたしの胸の中で小さくなりながら、すんすんと泣いていた。

 

 さっきまで感じなかったドキドキが今になってぶり返してくる。

 

 

 あたし、キスしたんだ。

 

 この子と、キスしちゃったんだ。

 

 この後、どうしよう。

 

 

 内心、大慌てだった。

 

「ねぇ」

 

「ひゃいっ」

 

「なにその声。ねぇ、どれみちゃん。もう一度、キスして。そしたらわたし泣き止んであげる」

 

 涙で顔をグショグショにしながら、おんぷちゃんが茶目っ気たっぷりでウィンクしてくる。

 

 そんなことを言われたら、こっちは堪らない。

 抗う術がなくなってしまう。

 拒む理由が、そもそも無いんだけど。

 

 あたしは再び顔を寄せて目を閉じながら、おんぷちゃんに口付ける。

 

 

 一度目のキスよりも。

 

 もっと長く、もっと深く。

 

 想いを伝え合う。

 

 

 どうしようもないほど、喜びが溢れかえって。

 

 途方もない幸福感。

 永遠に思える時間。

 

 ひとつだけ。

 泡のようにぽっかりと言葉が浮かんで弾けた。

 

 

 

 ――好き。

 

           ☆

 

 信じたい。祈りたい。

 

 そしてなにより、強く望むこと。

 

           ☆

 

「ねぇ、どれみちゃん」

 

「……なに?」

 

「さっきの時間の話なんだけど、実はカイロスの説明にはまだ続きがあってね」

 

 憑き物が落ちたような、おんぷちゃんのすっきりとした笑顔。

 

 あたしの胸にすっと溶け込んでいく。

 

「カイロスは楽しい時は早く過ぎるとか、苦しい時は長く感じるとか、そういう時間の捉え方なんだけど……カイロスにはね、そもそも時間が存在しないとか、時間には終わりも始まりもない。時間は永遠で無限だって、そう考えることもできるんだって」

 

「それじゃなんでもありになっちゃわない?」

 

「わたしもそう思うけど、要は気持ちの問題ってことね。10年20年、時計の針が進んだとしても想いは色褪せることはない……」

 

 おんぷちゃんは深い溜め息をつく。

 体をソファに沈ませて、寂しそうに笑った。

 

 

 幸せそうに笑ってたんだ。

 

 

 その横顔を眺めていたら、あたしは背中がジーンと熱くなった。

 

 美しいと思った。

 チャイドルとか女優とか、そんなの関係ない。

 

 

 人として、美しかった。

 

 

「……そうだよね。もし、あたしがおばあちゃんになっても小学校の思い出は絶対に忘れないよ。もしかしたら自分の孫に『あたしゃ昔、魔女見習いをやっててねぇ~』なんて話してるかも」

 

「じゃあ、わたしは今夜のどれみちゃんのキスについて語り継がないといけないわね」

 

「ぶっ! おっ! おんぷちゃん。変なこと言わないでよ!?」

 

 おんぷちゃんの爆弾発言に、思わず吹き出す。

 

『あれ』は一夜の過ちというか、兎に角、心の奥に仕舞っておきたいものだった。

 

 じゃないと、思い出す度に頭が風船みたいに熱で膨れ上がってしまう。

 

「ふふ、変なことって? と~っても凄かったわ。口を舐めとるように――」

 

「わーっ! わーっ! ストップストップ!」

 

「蕩けるほど気持ちよくてね。首に痕が――」

 

「もう勘弁してって~!」

 

「あははっ……もしかしてわたしとキスするの嫌だった?」

 

「えっ、それはその、っ!!……んっ」

 

 強引に口を塞がれる。

 

 おんぷちゃんの顔がいつの間にか近づいて。

 近すぎて見えない距離にまで。

 

 おんぷちゃんの舌が口の中に入り込む。

 舌と舌を擦り合わせて、唾を吸い取られた。

 

 

 陶酔に溺れながら、罪悪感が重くのし掛かる。

 やってはいけないことをしている、という意識はあった。

 

 けれど、その罪すら、甘い。

 

「……嫌?」

 

 口付けをしながら、おんぷちゃんが問う。

 

「……ヤじゃないけど」

 

 あたしの答えを見越したかのように、また唇を寄せてくる。

 

「またしたい?」

 

 水音が響く。

 

「したい」

 

 唇を何度も重ねた。

 

「嬉しい?」

 

 頬や首にも。

 

「……嬉しかった」

 

 おんぷちゃんは顔を上げて、にっこりと笑う。

 

「なら、いいじゃない。嬉しいことは何度でもすれば」

 

「そりゃそうだけど……うわ~ん、なんか誘導されてる気がする~!」

 

「ふふふ、これでどれみちゃんは一生わたしのものね」

 

「ちょっ! なにさらっととんでもないこと言ってるのさ!?」

 

 毛布や見習い服をくしゃくしゃにしながら、ソファの上でじゃれ合う。

 

 脇をくすぐったり、背中を撫でたり。

 キスも、おでこや腕とお構い無しだ。

 

 流れる汗、髪の毛一本すら愛おしいと思った。

 

 傍目から見れば、あたし達のしていることはバカで情けなくて滑稽かもしれない。

 

 でも、それでいいと思った。

 

 ささやかに、激しく。

 あたし達は互いに想いが一つだと実感する。

 

 触れ合うたびに、満たされるんだから。

 

 二人でいられるなら、あたし達は――

 

 

 

 ――もうなにも、神様すら、いらない。

 

 

 

「おぬしらはほんっっっとうに仲が良いの~」

 

 

 

 ――……え?

 

 

 

 ピタッと体が止まる。

 

 おんぷちゃんと顔を見合せ、ふと頭上に視線を向けると緑ガエル――もといMAHO堂店主マジョリカがちり取りに乗ってプカプカ浮いていた。

 

 頭は理解が追いついてないけど、『あっ、ヤバい』と本能が背筋を凍らせる。

 

「ホッホッホ、見てて微笑ましいわい。どれみ達との付き合いも長くなって、ワシも情が移ってきての。おぬしらが睦まじく過ごしてくれるのが嬉しくて仕方ないんじゃ。だがな……この神聖なMAHO堂で! 朝っぱらから何をイチャついとるんじゃあ~!! いっちょまえに盛りおって! 乳繰り合いは他所でやらんかあ~!!」

 

「ちょっとマジョリカ! どこから見てたのさ!?」

 

「うるさ~い!! 今日という今日はその性根を叩き直してくれる! そこに正座せんかあ~!!」

 

「ふふ、どれみちゃんと二人ならそれもありかしら?」

 

「今そんなこと言ってる場合じゃないよ!? おんぷちゃん!」

 

 マジョリカ特大の雷が落ちて、甘い空気は一気に霧散する。

 

 あたし達は逃げ惑うしかなかった。

 

「ゥウウウエエエアアアェェェ~~~ンッッッ」

 

「も~う、マジョリカ~。朝からなに大きな音立ててるのよ。ハナちゃん起きちゃったじゃない……って、どれみにおんぷ? なんでここにいるの?」

 

 ハナちゃんが泣き出し、眠り目を擦るララが飛び出してくる。

 

 もうてんやわんやだ。

 

 

 マジョリカが箒を振り上げながら追いかけてきて、あたしは冷や汗を流して逃げる。

 

 ララは目を点にしてポカンとしてる。

 

 ハナちゃんの泣き声はさらに大きくなり、終いには魔法が発現し、のし棒やらホイッパーやらが浮き上がって所構わず飛び回った。

 

 頭を押さえて飛来物を避けるおんぷちゃんは声を上げて笑っていた。

 

 

 

 窓から日が射し、小鳥の囀りが聞こえる。

 そんな中、MAHO堂は上へ下への大騒ぎで、早朝の静けさとは無縁だった。

 

 後ろには鬼の形相のマジョリカ。

 いつの間にか標的はあたし一人になっていた。

 

 頭に玉子や小麦粉を被りながら、あたしはのびやかに叫ぶ。

 

「あたしって、世界一不幸な美少女~!」

 

           ☆

 

 騒がしい日々は時間を忘れるほど、忙しく過ぎていく。

 

 おんぷちゃんが言うように、確かに時は待ってはくれなくて、楽しいから悲しくなって、振り返りたくなって、寂しさが降り積もってしまう。

 

 だけど、思うんだ。

 

 辛い記憶も、楽しい記憶も。

 それは全て大切な思い出になる。

 

 どんなに寂しさや悲しみが付きまとっても、纏めて抱き締めて、あたし達は生きていく。

 

 

 朝日に照らされたおんぷちゃんが、天使みたいに笑う。

 

 おんぷちゃんが笑ってくれると、あたしも嬉しいんだ。

 

 そんな想いも、いつか忘れるかもしれない。

 悲しみに移り変わってしまうかもしれない。

 

 それでも、ふとした瞬間に思い出す時が来るかもしれない。

 悲しみにそっと触れて、力をもらう時が来るかもしれない。

 

 そうして、生きていく日々の中に――

 

 

 

 あたしたちは愛しさ(カイロス)を得る。

 

 

 

 それはきっと――

 

          ☆★


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