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ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月十二日
この世界には救えないクズが多すぎる。俺が下水道を駆け回り、ビルの谷間を飛び越えていた頃とは比較にならない程、帝都には悪が蔓延っている。
気弱な優男、えらく清純そうな女、老いた老人や無垢な子供まで……。一見しただけでは悪とは思えないような人間が、しかし裁くべきクズということもここでは少なくない。クズ共から情報を頂く時に一体何人をこの手に掛けたことか。
殺しても殺してもゴキブリのように沸いて出る新たな悪共。それでいてどれもが醜悪な欲望の塊だ。
やはりこの世界も終わりは近付いている。終末時計の針は刻一刻と迫ってきているのだ。
だが諦めてなるものか。あの地では成し得なかったことを、ここで成し得なければならない。この世界の悪を消し去るまで俺に足を止める暇など、ない。
今、俺の眼前には大きな屋敷が居を構えている。クズを尋問し得た情報によれば、帝都にやってきた新参者を言葉巧みに誘惑し、そして非道な拷問を繰り返す貴族の住処らしい。その拷問も家族全員で行っている始末…………。
許す訳にはいかない。奴らには断固とした裁きを下さねば。クズの道楽に散って行った罪無き者達の無念を晴らさねばならない。俺が、この手で…………。
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「………………」
物音一つもない、静まり返った帝都の夜。ニューヨークのそれとはまるで真逆の状況は、かえってロールシャッハに僅かな不安を抱かせる。
いつも街と人の中に身を置き、途切れることのない喧騒を駆けてきた彼にとって静寂とはあまり縁のないものだと言えるかも知れない。
だがそれも些細なこと。怖じ気付く理由はどこにも見当たらない。冷静に、焦ることなど微塵もなく、性根の腐った悪を裁く。それがロールシャッハの存在意義だ。
「…………HURM」
マスク越しに見える巨大な屋敷。そこが今回の標的たる貴族達の住処だ。私兵だろうか、広々とした中庭には武装した男が何人も辺りを警戒している。
この時点でロールシャッハにとってはクロに等しい。何もやましいことがなければわざわざこんな深夜に兵を置く必要はない筈。この厳重に見える警備はいつか誰かに報復されるという不安の裏返しに他ならない。
そして今日、その報復は成されるのだ。
屋敷から少し離れた民家の屋根、そこからフックショットを飛ばし、近くにある手頃な木に引っ掛ける。後は引き金をもう一度引けばロールシャッハの小柄な身体は一気に引き寄せられるだけだ。
屋敷のごく間近には来れた。が、問題は中の兵士。あんな雑兵など取るに足らないが、戦闘の最中標的に気付かれ逃げられるなどあっては本末転倒。
となると貴族だけ殺せばいいのだが、庭にいるのが全てとは限らない。屋敷の中にも必ず兵士はいるだろう。全員に気取られず行動するには厳しい面もある。
(……………………)
束の間の思考。どうすれば最善の方法を導き出せるか、これまでの勘と経験を総動員させる。
方法はある。それはロールシャッハの得意分野でもあるが、しかし気付かれないとも限らない。リスキーな選択だが、やってみる価値は多分にあった。
一度決めれば行動は迅速だ。兵に気付かれぬよう気配を殺し、敷地へと侵入する。そして最も屋敷から離れた場所の兵をロールシャッハは組み伏せた。
当然、突然の自体に兵は狼狽、大声を上げ仲間を呼ぼうとするが………そんなことをさせる程、アマチュアではない。
右手を掴み、即座に親指をへし折る。訪れた激痛に兵は金切り声を上げるが、ロールシャッハに塞がれた口ではその声は届かない。
「今から幾つか質問をする。五秒以内に答えない場合はもう一本指を折る。返答以外のことを喋っても指を折る。分かったか?」
「!?…………ッ!!」
兵の方がロールシャッハよりも明らかに大柄で、その気になれば抵抗することも出来たかも知れない。しかし、そんな気は全く湧き上がる様子もなかった。痛みと困惑、そして言い知れない巨大な恐怖。唐突に現れた脅威に兵は首を縦に振るしかない。
怯える兵が頷いたのを確認したロールシャッハはその口から手を離した。
「───ッハァッ!ハッ、ハッ、ハッ…………!!…………くっ…………し、質問とは何だ…………?」
「一つ。屋敷に兵は何人いる」
「……………………だ、旦那さまの部屋の前に二人。奥さまとお嬢さまは一人ずつ。あとは見回りの三人…………だ」
「HURM.合わせて七人か」
七人。思ったよりも数が多い。対処は可能だが、やはりそう簡単にはいかないだろう。
続けてロールシャッハは質問を投げ掛ける。
「二つ。ここのクズ共が捕らえた人々はどこに居る」
「………………あそこに納屋が見えるだろう。そこに居る………………だ、だが生きてるかどうかの保証はな───ッッッ!!?!?」
またしても襲う鈍い痛み。今度は人差し指が折られていた。
「余計なことは喋るな。次は殺す。………………"生きている保証はない"とはどういうことだ?」
捕らえられた人々の生きている保証はない───兵の言い掛けた言葉にロールシャッハは疑問を浮かべた。
ここの貴族が惨たらしい拷問を行っていることは周知している。無論、その末に死んでしまう者もいるだろう。だが拷問というのは対象が生きていて初めて成り立つもの、全員が死んでしまっては拷問など出来る筈もない。
…………まさか。
「うぐっ………………こ、言葉通りの意味だ!!ここの"クソッタレ貴族"共は死ぬまで拷問を繰り返す!!何度も何度もだ!!今更生きてる奴なんざいるかよッッ!!」
「…………知っていながら、お前達は黙認していたのか?」
「…………ッ…………仕方ないんだよ。この帝都で生きていくには。力のない俺達が生きていくにはこんなことするしかないんだ…………」
「……」
垣間見えた本音。心の叫びとも言えるその言葉には悪辣な行為を平然と行う貴族に対しての怨嗟、そして悪に身を落とすしかない無力への嘆きが込められていた。
なるほど。主が主なら従者も従者だと思っていたが、その見当は外れたらしい。子飼いにされた犬といえど、善悪の区別はつくようだ。
だとしても悪事は悪事、相応の報いは受けなければならない。
彼らが少しでも早く発起していれば、罪無き者達の命が奪われることはなかったかも知れない。尊い命を救い、下卑た悪を裁けたかも知れない。
その可能性を、光ある未来を、この兵士達は自ら棄てたのだ。
「戯言を。そうさせたのはお前の弱き意思だ。悲観したところで何の意味もない」
「…………殺すなら殺せよ。どうせ生きてたって…………」
「殺しはしない」
「え?」
覚悟はしていた。このマスクの男に相対したその瞬間から、自分は死ぬのだと。とうとう然るべき報いがやって来たのだと。
しかしその結果は予想を裏切るものであり。殺されるとばかり思っていた兵はロールシャッハの言葉に素っ頓狂な声を上げる。
「お前は紛うことなき悪だ。だが心は黒く染まりきってはいない。罪の意識があるのなら一生それを背負って生きていくがいい」
「…………こ、殺さないのか?」
「HEH.勘違いするな」
ロールシャッハは兵の頭に拳を振り下ろす。無論、死ぬような威力ではない。その一撃で兵の意識はすぐ様刈り取られた。
「今のお前に死ぬ資格などない」
人の心を弄ぶ悪でもなければ、手を差しのべる善でもない。途方もなく彷徨い続け、その果てに彼は選択出来なかった。
混ざりきらないどっちつかずの灰色。漠然と濁った彼が出来ることは犯した罪を背負い、その呵責に耐え生きることだ。牢屋に放り込まれるでも、自ら命を絶つでもない。罪に塗れた人生という拷問を受け続けるのが、死んでいった罪無き者達へのせめてもの贖罪と言えるだろう。
(………………HEH)
善と悪、白と黒。常に形を変え蠢くこのマスクからはその二つの光景しか見えない。決して混ざることのない絶対の意思を持つロールシャッハだが、目の前で気を失っている男は果たしてクズと言えるのか?
彼が罪を犯したのは紛れもない事実。本来ならば裁くべき対象だろう。にも関わらずロールシャッハは彼を手に掛けなかった。それはロールシャッハの中にある冷徹な正義感が、この男が根っからの悪ではないと判断したからに他ならない。
無論、何故そう判断したのか本人にも分からない。故か、判然としない感覚が彼の中に渦巻いている。それでもただ一つだけ分かるのは、この兵士が地獄に落とすべきクズではないということだ。
「…………俺も甘くなった」
月明かりが照らす中、ぽつりと呟かれた言葉。嫌悪の色を含んだその声は虚空へと消えていく。
それより今はすべきことがある。真っ黒に染まった貴族のクズ共を裁かねばならない。文句を独りごちるヒマなどないのだ。
ロールシャッハはフックショットを抜き、屋敷の壁に放つ。窓の近くに突き刺さった先端に引き寄せられた彼は懐から細長い針金を取り出し、窓の鍵穴に差し込んだ。十八番ともいえるピッキング術はこういう時にこそ役に立つ。
(狩りの始まりだ)
暗い廊下をロールシャッハは駆け抜ける。怒りに拳を握り締め、クズ共を裁くために。無念の魂の恨みを晴らすべく、その殺意は悪へと向けられていた。