ファッションショーが始まった。
煌びやかなステージの上を美しいモデルたちが堂々と歩く。一般人とは抜きんでた美貌と滑らかな肢体を手中に収めるモデルと呼ばれる女性たち。老若男女が憧れを抱く身体に今季の新ファッションスタイルを身にまとい、新たなトレンドを発信させていた。
ここにはプロもアマも関係ない。ステージに立つ時はみな同じ、女性。大勢の観衆の視線を一気に集めてしまうモデルたちだ。
それが彼女たちの仕事であり、誇りであるのだ。
そのステージを
「きれい……!」
「美しいわ……!」
思わず感嘆の声を漏らしてしまう花陽とにこは、まるでアイドルを目の当たりにしているような心地で眺めていた。それほど、今出ている人たちから魅力を感じていたのだ。
「すごいよね。ここに出ている人たち、みんな綺麗だから自分の存在が小さく感じちゃうよぉ……」
「落ち着きなさいよ、花陽。こういった観衆の前に出るのは初めてじゃないのよ?」
「わ、わかってるけど……でも、緊張しちゃうよぉ……」
身体を震わせておびえた様子の花陽に真姫は突いた。ステージに立つことは慣れているはずなのに、今日はどうしてか落ち着かない。ステージに立っている人たちがみな大人だからなのだろうか? それとも、スクールアイドルとして登場するのが自分たちのみだからかしこまってしまうのだろうか?
いずれにせよ、花陽の緊張は今になって増大していく。
「大丈夫だよっ!」
弾む声に胸が揺れて、ハッとした。うつむいてた顔を上げた時、緊張で冷たくなっていた両手を優しいぬくもりが包み込んでいた。花陽は目を丸くしながら前を向くと、キラキラと顔を輝かせる凛がいた。自信たっぷりの笑顔が彼女に臨んでて思わず目をぱちくりさせてしまう。
凛、ちゃん……?
手探るような不安の声で凛を呼ぶと、彼女はまた、大丈夫! とハツラツとした声を重ねた。
「凛たちならできるよ! だってだって、今日のためにいっぱい練習してきたんだからうまくいくって決まってるよ!」
自信がみなぎってくる。凛の声がとても頼もしく聞こえてくるのだ。
「穂乃果ちゃんや海未ちゃん、ことりちゃんがいなくて残念だけど、凛たちだけでもやれるってところを見せつけようよ! 凛たちμ‘sのすごいんだぞってところをみんなに教えてあげようよ!」
「……! うん……!」
輝く彼女の姿に当てられて花陽は頷いた。絶対できるという確証なんてない。だが、何故だか知らないが不確定の自信が花陽を勇気づけた。それは他のメンバーたちにも伝わっていた。みんなどこかで不安を感じていたのだろう。凛の言葉を聞いて安心した様子をうかがわせていた。
それはまるで、穂乃果を見ているような気分だった。
「凛もね、正直不安だった。ここに立つことも、この衣装を着ることも、みんなから、かわいい、って言われることも不安でいっぱいだった。でもね、凛はここにいる。凛がここにいられるのは、かよちんやみんなが応援してくれたから勇気を出してここまでこれたの。だからね、今度は凛がみんなに元気をあげるからね!」
「凛ちゃん……っ!」
ほほえましく笑う凛の姿に花陽は涙をこぼしそうになる。目まぐるしい成長を目の当たりにして凛の姿が霞んで見えて目をこすった。いつも花陽に勇気と元気をくれていた凛が見たことがないほど大きく成長したことについ感動を覚えるのだ。それが嬉しくてつい涙ぐんでしまうのだ。
真姫たち他のメンバーたちも凛の姿に胸を震わせ、涙腺を熱くさせるのだった。
「さあ、凛たちの姿をみんなに見せに行こうよ!」
嬉々する笑顔の灯を絶やすことなく凛は歩き出す。小さな太陽が先導となり、みんなを運んでいく。今の彼女は誰しもが認める立派なリーダーとしてμ’sのために動き始めたのだった。
―
――
―――
————
脚光が注がれる煌めくステージ。
観衆の目の前にまで伸びるセンターラインには、先程まで華々しい多くのモデルたちが行き来しており、とりまきたちの表情は自然と豊かになっていた。
観衆は企業関係者も含むが一般参観者も含めて構成されている。そのため、次々と現れるファッションモデルらを仰ぎ見ては生の反応を示してくれる。この反応が良ければ現段階での大衆が求めているものは何かと企画側は認知できる実験にもなっている。そして、ここから新しい商品の開発される手掛かりとなるのだ。
ゆえに、一般からの反応は重宝される。
そんな観衆たちがひしめく会場に、ようやく彼女たちμ‘sが登場する。
『次は、音ノ木坂学院のスクールアイドル、μ’sの皆さんです———!』
アナウンスがかかると同時に、ステージに現れだすμ’s。
絵里、希、にこ、真姫とタキシードを着た彼女たち4人が先に立ち、中央から両翼に2人ずつ広がった。そして、その後を追うように登場したのが、可憐に輝くウェディングドレスの凛と付き添うタキシードの花陽。左腕を差し出す花陽に凛はその腕に手を添えて静々と踏みしめるように一歩一歩を進みだす。その光景はまるで、結婚式を迎える新婦の姿に思えるのだった。
2人が先に並んだ4人の間に立つと、凛は花陽に小さく微笑んでから腕から手を離した。
頑張ってほしいと願う花陽も微笑み返すが、手を離された時に訪れた寂しさに胸をざわめかせるも、ぐっとこらえた。今日は凛の門出なのだから悲しい気持ちは一切見せない、とステージに立った彼女は強い決意を固めるのだった。
並ぶ5人の前に立った凛。左右首を振っても見えるのは自分に注目する観衆の顔ばかり。みんな凛のことだけを見ている——緊張から胸が高鳴りだす。落ち着いてと自分に言い聞かせながら息を整えると、手にしていた花のブーケに包まれたマイクを口元に寄せた。
「はじめまして、私たちは音ノ木坂学院スクールアイドル、μ‘sです——!」
みんなの代表として話始めた凛。初めてのリーダーで、それもセンターとしてステージに立つのはこれが初めてのこと。緊張して言葉を詰まらせてしまうのでは、と案じていたが、不思議なことに凛はしっかりしていた。言葉ハッキリと元気がありつつも落ち着いた口調で始まった。
この第一声が凛の姿をさらに美しく際立たせた。それが、綺麗…、かわいい…といった声が湧いてくるきっかけとなった。これを聞いた凛はちょっぴり照れくさそうに赤く膨れた頬をかいた。
「あっ、ありがとうございます。普段から、かわいいって言われ慣れてなかったので照れちゃいますね。でも、そう言っていただけてうれしいです!」
嬉しそうに伝えると、またどこからか彼女の容姿を称賛する声が上がった。観衆からの声があたたかかった。それがとても嬉しくて、たまらず満面の笑みで手を小さく振った。凛なりの感謝の気持ちだった。
「本来ならメンバー9人で活動しているのですが、今日は都合により6人でステージに立たせていただくことになりました。凛……私も、こうして前に立って話すのも初めてのことで緊張しているところもありますが、この6人で残りのメンバー分の思いも込めて精いっぱい歌います!」
この場に穂乃果たちはいない。けど、凛に与えられた歌はμ‘s全員で作り上げたもの、μ’s全員の思いが詰まっている。たとえ、遠くに離れていても私たちは繋がっている…そう心に思い描きながら凛は言葉を紡いだ。
「それでは——
Love wing bell——これは、生まれ変わる凛に贈られる賛歌。凛のための歌。
祝福の鐘が鳴る。
―
――
―――
――――
曲が流れ始めると、凛たちはおしとやかな声で歌いだす。優しく、あたたかみがあって、包み込まれるような音色が観衆の感性に突き刺さる。
それまでのモデルたちが見せた美しさや艶やかな姿に見惚れる心地よさに浸っていたのが、全身を震わせるような感覚に引き込まれる。心が揺れ動く。彼らの抱く心の何かが反応しているのだ。それが何なのかまだ分からない。ただ、その答えを見つけようとステージを仰ぎ見、耳の穴を大きく開いて彼女たちの歌に浸った。
——誰でも可愛くなれる? きっとなれるよ。こんな私でさえも…変身!——
ステージ上に立つ凛が観衆に向けて手を差し伸べた。誰かに向けてのメッセージだと思われる。それの誰かとは誰でもない、ここにいるすべての観衆に当てはまっていた。
誰にでもチャンスがある。夢を叶えるチャンスがあるのだ。
けれど、誰もができるわけじゃない。大きな壁にぶつかってできなくなってしまうことも少なくなく、挫折してしまうことだってある。だが、最大の壁というのが——勇気が出ないこと。やりたくとも踏み止まってしまう自分の弱さがあった。それを克服できず諦めてしまう人は少なくない……。
凛も同じだった。
自分はかわいい女の子になれるはずがない——そう言い聞かせて諦めていた。トラウマも彼女の足枷になっていたため、夢を抱くことをあきらめてしまっていたのだ。
しかし、そんな彼女を救ったのがμ‘s。凛のすべてを受け止めてくれ、凛のしたいことができるようにと、たくさん支えてくれた。凛がこのステージに、この衣装で立てたのもみんなのおかげだった。
そして、凛をここまで変えてくれたのは、彼の存在———
今回の出演者たちの中でも最年少のグループとして参加した彼女たちだったが、ステージに立った彼女たち6人は凛としていた。無数の光が彼女たちを包み込み、煌びやかに臨む中、彼女たちは華々しく輝いていた。
中でも、センターとしてみんなより前に出た凛の姿は別格。満開の花を咲かせた白無垢の乙女。女の子のあこがれの衣装を身にまとい、観衆の視線を集めた。今の凛を見て、かわいくないなどと言える人など誰もいなかった。身も心もその姿も、全部が純潔な乙女であってこれを否定するものなど何もなかった。
もう凛は、昔の悲しみを背負う傷ついた少女ではない。
誰もが羨む可憐な乙女となれたのだ。
凛はようやく夢を叶えた。かわいい女の子になる、という夢を……。そして今度は、誰かの夢が叶えられるよう応援する側になる。後ろの5人が凛の背中を押すように歌っているように、凛も誰かの背中をそっと押すような勇気を与えようと歌った。
夢を諦めてほしくない——心優しい凛の思いが込められた歌が広がっていく。
―
――
―――
――――
煌めくステージを立つ凛を熱い眼差しで見守る人がいる。
凛の母親、星空結と凛の姉、星空茜と愛の3人だ。
3人は事前に蒼一から招待状を手渡されて駆けつけた。自分の家族がステージに立つ——、今まで見る機会を逸していた彼女たちにとってはありがたいことだった。何より、あの出来事があった後のことであったので、心配を抱いてやってきたのだ。
そして今、ステージに立った凛の姿を見た彼女たちは驚きの表情で仰いだ。そこにいたのは、今まで見たことのないほど美しく、かわいらしい姿の凛。自分たちの知らない凛の表情、姿に息が止まった。
「あ、あれが……凛……!」
「凛が……あんな姿に……!」
2人の姉も生まれ変わった我が妹の姿に言葉を見失いそうになった。それほどまでに、凛の姿は魅力的だったのだ。
「…………ッッッ!!!」
「「お母さん——!?」」
突然、結が顔を押えて嗚咽した。結は目から涙を雨のように流して泣いていた。顔を真っ赤にさせて泣いていたのだ。この異変に2人の娘は心配そうに声をかけた。
すると、結は顔を押えたまま、感情が揺れ動いたまま話す。
「凛が……あんな、あんなにもかわいい姿になってくれて……わたしっ、嬉しいのに……なのに、とっても泣きたい気持ちになっちゃって……」
涙も止まらず肩を揺らしむせび泣いた。
「わたしっ、凛に何もしてあげられなかった……凛の願いを叶えてあげられないなんて、母親失格ね……」
ずっとそばにいたのに何もできなかったことの後悔に苛まれる。してあげられなかった自分の無力さに、ただただ涙を流すばかり。
そんな時だ———、
「なに言ってるのよ、お母さん。お母さんはずっと凛のことを心配してあげてたじゃない。お母さんがしてたことは全部、今日この日のためにあったのよ」
「っ………! 愛……!」
泣き崩れそうな肩に手を添えて、娘の愛が言う。
「そうよ。それにこれからだってあるんだし、後悔するんなら次に向けての反省をしなさいよって」
「……茜……!」
茜もまた気落ちしている彼女を励まそうとした。自分の母親が数えきれないほどの苦労を掛けてきたのかを知っているから出た言葉なのだろう。2人の言葉に、結は落ち着きを取り戻そうとしていた。
「……そう、ね……まだ私には、凛にしてあげなくちゃいけないことがたくさんあるわよね……」
「そうよ、お母さん。あたしたちも手伝ってあげるんだから一人で抱え込まないの」
「今は凛の晴れ姿を見ようじゃん? 一生に一度しか見れない姿かもしれないからな」
えぇ、と涙をぬぐった彼女は再びステージを仰いだ。燦々と光り輝く娘の姿がまぶしかった。けれど、こんなにも娘の輝かしい姿を見ることができて自然と朗らかな気持ちになっていく。どこへ出しても恥ずかしくない自慢の愛娘の姿を揺れる眼に焼き付けるのだった。
「私の……かわいいかわいい凛……」
―
――
―――
――――
歌も終盤に差し掛かろうとしていた。2番のサビも終えて長い間奏に入る頃には凛の心情に余裕が出てきた。
この広い会場でセンターを務めるとしっかりしててもさすがに緊張はあった。他のグループがいないアウェーな存在だった自分たちが、歌を通じて観衆の心を掴み注目を一身に受けていた。もう平気だと会場を見回し、振り向いて花陽たちの様子を見てほほ笑んだ。花陽たちも凛の嬉しそうな様子に頬を緩ませた。
あとはもう、この最後のところを歌い切れば……! 凛が歌うことになっている最後のフレーズが近付く。もうすぐだと、深く息を吸って歌おうとした————その瞬間だった。
「…………ぇっ?」
急にステージ上が暗転した。曲も止まった。
こんな演出があるとは事前に聞かされてなかった凛からすると困惑でしかない。暗闇の中をきょろきょろと見回してしまう。
すると突然、凛の立っているところに光が当たった。
だが、もう一つ光が照らされているところがあるように感じた。後ろだ。背中からじりじりと焦がす熱量を感じ出していた。なんなの? 凛の困惑は収まらない。曲も止まり、静寂が包み込み、観衆の視線だけは相変わらず自分に……いや、その視線がそのもう一つの光の方にも向けられていることを凛は知る。
ドクン、ドクン…、と胸の音が大きく聞こえる。また焦燥感のような落ち着かない気持ちも出てくる。
なに? 何なの、この気持ち……? 胸がくすぐられるような感じは……?
胸をざわつかせるこの感じ……知っている……凛は知っている。前にも同じようなざわつきをどこかで感じ取っていた。それもついさっき……。
数秒間の困惑がとりまく中、後ろから音が聞こえた。軽く、地面を蹴り飛ばすような乾いた音。その音を聞いた瞬間、凛の心がときめいた。鼓動が急に早くなった。
迫る。何かが? ううん、知っている。でも……いや、そんなの聞いてない……。で、でも、この感じは……!
胸を激しくざわめかせ、様々な憶測が流れだす脳内。ただ、どれだけ考えても答えはたった1つしかなかった。
足音が近くなってきた。
凛は、その答えを知るべく、後ろを振り向いた。
するとそこには————!
―
――
―――
――――
前日———
最後の確認として集められたμ’sの面々であったが、そこには凛の姿はなかった。いるのは、穂乃果たち2年生も除いた5人のメンバーと2人の指導者。
「演出を変えようと思う」
開口一番に声を上げたのは、蒼一。本番前日にそんな無茶なことを言う時は、決まってとても大事なこと。メンバーからすると少し難しく考えるが、彼のことをわかっている彼女たちはそれを快く聞いた。
「で、どうするつもりなのよ? きっと、またおもしろいことでも考えたんじゃないの?」
当然のような口ぶりで真姫は尋ねた。そしたら、蒼一は口角を少し引き上げてみんなに向けて願い出た。
「最後の凛がソロをやるところを変えたい。凛がここにいない時に話すことじゃないんだが、これは凛に話したら意味がなくなってしまう。だからお前たちには事前に心構えをって気持ちで聞いてもらいたいんだ」
メンバーたちは承諾の会釈をする。
「具体的にはどうするの? 凛が歌わないってなると、そこは誰が……?」
「そこはもう決まっている。だから、お前たち
「
その言葉にみな、ハッと気づかされた。そして、なるほどと深く納得するのだ。
「へぇ~なるほどなぁ~。それはおもしろくなると思うわ!」
「最高の演出ね。たぶん、凛は混乱するでしょうけどね」
「いいわねぇ~……というか、公衆面前でそんなこと……後がどうなっても知らないわよ?」
「いいのよ、それが凛の幸せになるのならどんなことが起きようが受け止めてあげる」
「そうだよ。ドンとこいだよ! 凛ちゃんの幸せは私の幸せ。その幸せのためなら、花陽は頑張りますっ!」
それぞれ見解は異なるが、凛の幸せを願う気持ちは一致していた。彼女たちはずっと、凛の幸せを願っていたのだから、この提案は全員が受け入れた。
「すでに、開催側にもOKをもらってるし、穂乃果たちにも聞いて了承を受けている。やるなら全力でやれってさ」
「ふふっ、穂乃果ちゃんらしいなぁ~♪」
蒼一が提案した内容を誰も止めることはしなかった。この先、どんなことが起きようがすべて受け入れようと覚悟を決めていた。凛もμ‘sの一員なのだから、これ以上の理由なんて必要なかったのだ。
「———というわけだ。あとは、お前の気持ちに任せるぞ? お前は、凛をどうしたい?」
蒼一の質問が彼に向けられた。
「俺は……俺は……っ! 凛のことを————!!」
―
――
―――
――――
カツッ、カツッ、と地面を鳴らす靴。
動いてなびく服の裾にしわが寄るジャケット。
整えられた髪。
シュッと伸びた肢体。
全身を漂白されたかのような純白で包み込まれ、頭から足の先に至るまですべてが引き締まっていた。
思わぬ登場をした彼に、観衆の視線は嫌でも注がれてしまう。女性しか出てこなかったこのステージに男性が……それも、タキシードを身にまとった男性が立っていることの驚きでいっぱいだった。
振り返った凛も彼の姿を見つけた途端、驚きのあまり手に持っていたマイクを落としてしまいそうなほど強烈だった。夢にも思うまい。まさか、凛の愛している彼——明弘が同じステージで、それもおそろいの衣装で立っているだなんて……!
明弘は凛に近付こうとゆっくり進むと、止まっていたメロディが再び流れ出した。そして明弘は、右手を差し出すと口を開いた———
歌った。彼は凛に向けて歌ったのだ。凛が歌うはずだったところを明弘が歌いあげたのだ。
彼のやさしい歌声は会場中に響き渡り、凛にも届いた。
まぶしいほどに華麗な服装。
差し伸ばされる彼の手。
あたたかな彼の声。
やさしくほほえむ顔。
どれをとっても凛にはありあまる喜びと感動でしかない。いま、彼に名前を呼ばれたら胸の中にある思いが滝のように流れ落ちてしまう。自分を保っていられなくなる。それくらい凛の心は今限界にあった。
そして、彼が歌いあげるとまたメロディが止まると凛の前に立った。
前を見れば、まだ彼の右手は凛に指し伸ばされたまま。仰ぎ見れば愛おしい彼の顔を臨めた。
「……あっ………あ……っ」
何か言いたそうに口を開くが舌がうまく回らず言葉にできない。たどたどしい様子になっている凛の姿に、明弘は言葉を紡いだ。
「迎えに、きた」
あたたかな笑顔が凛に降り注がれた。彼のやさしい眼差しが当てられると胸いっぱいに詰まったものが流れ出てきてしまいそうだ。自分を保っていることが難しくなる、そんな心境だった。
「凛———」
彼女の瞳が煌めく。
「—————だ」
「…………ッッッ!!!!」
2人だけの静寂の中、誰にも聞こえないような声で明弘は凛に言葉が贈られた。それを耳にした凛は押し留めていた感情が抑えきれなくなり、大粒の涙をこぼれだした。決して叶うことはないだろうと諦めていた願いがもう一つ叶った瞬間だった。
「凛———」
明弘はまた彼女を呼んだ。凛は涙をぬぐい、また出てこようとするのを強くこらえた。そして、彼が差し出してくれた手を握った。私を救ってくれた手、この差し伸べられた手が凛を変えたと言っても過言ではなかった。
「行こうか」
「———うん!」
2人が手を取り合ったのと同時に、再びメロディが鳴りだした。
見計らった明弘は手を離すと今度は右腕を凛に差し出す。明弘から相槌を受けて凛はその腕に手を添えた。花陽とともに入場した時とは逆の向き。それを意味するものは、言わなくても理解できた。
2人はゆっくり歩き出す。そんな2人を祝福するかのように観衆から拍手が沸き起こり、μ‘sの5人は歌った。
ステージの出口となる中心に立った2人は振り返り、観衆の方を向いた。沸き起こる拍手を目にすると、凛はまた泣いてしまいそうになる。自分たちにこんなにもあたたかく見送ってくれることがたまらなく嬉しかった。2人は、ありがとうの気持ちを込めて、最後のフレーズを歌った。
——Love wing…Love bell——
Love wing bellの鐘が鳴り響いた—————
―
――
―――
――――
数日後———
「蒼君そうくんっ! 見てみて~~~! この前のファッションショーのことがこんなに大きく取り上げられてるよ!!」
割れんばかりの声量で聞いてくる穂乃果が見開いた雑誌を持って大はじゃぎしている。この間のイベントのことが書かれているそうなんだが、そういった内容のものはこの数日間何度も目にしている。
というのも、あれが終わって以降、SNS上では明弘と凛のことであふれかえっていた。『ファッションショー中にプロポーズ!?』、『学生同士の愛の告白か?!』とかなんとも有象無象が喜びそうなものばかりの内容がわんさかと出てくる。μ‘sの公式サイト内でもたくさんのメッセージを受け取ってるが、コメントも追いつかないくらいの反響が出ているのは確かだ。
会場にあったように祝福を言うものもあれば、面白半分なのかいわれのないこともチラホラ見かける。まあ、そこんとこは覚悟の上だったし、対処もしやすいものばかりだ。洋子の協力もあって悪い方向には向かないようにはできているが、今後の行動がし辛くなったことだけは確かだった。
「ねぇねぇ! 穂乃果の話を聞いてるの!?」
「わーったよ! 聞いてるから少し離れろよ……!」
「やだよぉ~~~! このほぼ一週間、ずっと沖縄で離ればなれだったから寂しかったんだよ! そんな穂乃果の乙女心に共感してよ!」
「お前に乙女心があったとか初めて聞いた気がする……」
「むっ、ちょっと失礼なんじゃないかなぁ? 穂乃果もちゃんと乙女な部分があるんだから!」
とは言ってもな、相変わらずなおてんば娘で、乙女と言うにはいろいろと欠けていることが多いのが現状だ。
穂乃果もそうだが、ことりも海未も最近の絡みが激しい。修学旅行で離れていた反動が相当強かったみたいで、帰ってきて早々、3人そろって夜中に俺のベッドに侵入してくるという犯罪まがいのことをしでかす有様だ。手綱を引いても引きずられてしまうじゃじゃ馬たちだ。
「穂乃果ちゃんたちも相変わらずやなぁ~。前よりもレベルアップしたんとちゃうか?」
「だって仕方ないもん! 希ちゃんだって、一週間蒼君に会えないって言われたらどうなると思う?」
「そらぁ………一週間分のわしわししなくちゃ……ね?」
「ね? じゃねぇよ。希のわしわしって限度を知らんから耐えられんわ」
「大丈夫やって、ちゃんとご褒美も付けたるで♪」
「ご褒美……嫌な予感しかしないんだが……」
結論からすると、こいつらを一週間も放置するなって話だ。したらしたでその分の反動が襲い掛かってくるんだと考えたら頭が痛くなる……
「それはそうとして。蒼一、ちゃんと寝とるん? 顔、めっちゃ疲れとるで?」
「疲れ、か……ここ数日は徹夜することもあるから何とも言えないな」
「もしかして、凛ちゃんたちのことで?」
「……そういうことだ」
「ダメやで、そんなに根詰めんと。身体はちゃんと休めんと毒やで!」
「休めるときにはちゃんと休むさ。ただ、せっかくアイツらがつかみ取った幸せを他人の横やりで邪魔されるのが嫌なだけさ」
「蒼一……でも、だ~め。今日はゆっくり休もうなぁ~♪」
「うむっ!!? のぞっ! むぐぐっ?!」
希は俺の頭を無理やり掴むとそのまま豊満な胸の中に押し込まされる! 顔いっぱいに胸の感触が広がって一見心地よく思えるが、希の桁違いなバストは俺が息する隙間さえ与えてくれないのだ! からくも息を吸うことはできたが、コイツの胸の中で窒息死とかマジで洒落にならんわ。
「もぉ~暴れん坊さんやなぁ~♪」
「……急に何するんだよ、まったく……希がこんな大胆なことをするとは思わなかったぞ」
「うふふ、そうやなぁ~。でもな、これでも蒼一のことを心配しとるんやで? ウチらμ‘sのことで必死に頑張ってくれることはとってもありがたいよ。でも、それで蒼一がダメになったら本末転倒や。もし、蒼一が倒れたらウチは……」
「希……わかったよ、今日はゆっくりするよ」
「ホンマ?!」
「ホントだとも。これ以上の作業はしないでおくよ……だから、放してくれ」
「ダメに決まってるやん♪」
「何故!?」
「今日はウチの胸の中でおねんねや。極上の胸枕で蒼一も夢心地になること間違いなしや!」
「夢どころか、窒息して走馬灯を見てしまいそうなのが怖いんだが……」
こう言っても聞く耳持たないのが希だ。さっきからずっと俺の頭を掴んでは放さないし、頭は胸の中に埋もれたままだ。これじゃあ、もう何もできやしない。完全にお手上げ状態だ。
「むぅ! 希ちゃんばっかりでずるいよ! 穂乃果も蒼君の枕になるぅ~!」
「その言い方だと誤解を生むからやめてくれ!」
己の疲れを癒すことのできるのは、やはり自分の家しかないと思う今日この頃であった———
―
――
―――
――――
某所———
絶好のお天気日和になったこの日、とある公園の時計台の前に立つ一人の少女がいた。白のワンピースにその上に寒くならないようにとコートなどの羽織り物を着ていた。
覚えたての化粧でおめかしして、教えられたファッションで着飾った彼女は今日もかわいかった。以前に増して、女の子らしい姿となった彼女は、少しずつ勇気を出して自分を変えていった。子供の頃に履くことをやめていたスカートも履くようになった。もう、何にも恐れることなく自分のしたいことをするのだった。
そして今日は、
「待たせたな———」
背後から聞こえたやさしい声に彼女の身体が反応した。振り返ると、彼女の待ち焦がれていた彼が申し訳なさそうに苦笑いを決めていた。
「もぉ~遅いよぉ~」
「わりぃ、ちょっと道に迷っちまってな……」
彼は遅れたことをすぐさま謝ると、彼女はしょうがないなぁ~とちょっと嬉しそうにしていた。
「……今日のご飯、おごってくれたら許してあげる」
「お、おう! 任せとけ! 遅れちまったのは俺のせいだし、おごるのは当然のこと。なんだって払ってやるさ!」
「ふふっ、頼もしいにゃぁ~♪」
少し意地悪そうに言ってみたら真に受けた様子で言うのでつい笑ってしまう。そんなバカ真っすぐなところも愛おしく感じてしまうのは恋の病に侵された結果なのだろう。こんな些細なことでも幸せに感じてしまうのだ、もはや病の虜になってしまったのかもしれなかった。
「それじゃあ、行こ! ちゃんと凛のことをエスコートしてよね、弘くん!」
「おうよ! 好きな女を導くことこそ男の生き甲斐ってやつよ! 手を放すんじゃないぞ、凛!」
元気のいい2人は手をつなぐと、お互いの顔を見た。まだちょっぴり照れ臭いのか顔を赤らめるところもあり、初心な様子が見て取れる。それでも、2人してはにかんで握った手を放さずにいた。
この手を絶対に放したくない———2人の思いは同じだった。
「弘くん———」
「なんだい、凛———?」
2人はお互いのことを見つめあうと、ときめく心に純粋に従って言葉を紡いだ。
「好き———大好きだよ、弘くん!」
「あぁ、俺も大好きだ。凛」
長くすれ違っていた2人がようやく起点に立つ。これから先、何が起こるのかまだ知らない。けれど、2人は思う。
1人では無理でも2人なら、乗り越えられる。大好きなこの人と一緒なら、きっと……!
駆けだす2人を止める者はいない。時間の許す限り2人のこれからの人生は続いていくのだった————
(次回へ続く)
どうも、うp主です。
この回でようやく『Sweet My Angel~その鐘を鳴らすのは…~』が終わりました。
今回はちょっと時間をかけすぎましたね。早めに終わらせたかったのですが、こちらも事情があって早め早めとはいきませんでした。ですが、今月中に終えることができてホッとしております。
このいわゆるラブリン回ですが、以前書いた小説のリメイクも含ませたところもあって試行錯誤の連続でした。これまで書いてきた伏線や凛の感情とかも総結集させて、ここで吐き出させるようにするというのは思ってた以上に難しいところでした。今まで、凛だけが恋人いない状態にしていたこと自体も難しかったところがありました…。
それも次回からはいろいろできるようになると、こちらの考えに広がりが生まれてくるわけで楽しくなってきます。
そうしたわけで、生まれ変わった凛のことを今後ともよろしくお願いいたします。
次回もよろしくお願いいたします。
今回の曲は
相良心/『星空のいま』
更新速度は早い方が助かりますか?
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ちょうどいい
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もっと早くっ!
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遅くても問題ない