「凛、いるか──?」
茶色の木製の扉を前にした明弘は、2、3度ノックを硬く高い音を響かせた。それは廊下にもよく響いているので当然部屋の中にも聞こえているはずだった。が、中からの反応はまったくなかった。
本当に凛はそこにいるんだろうか──? 返事が来ないことに首を傾げる明弘だが、つい先程凛の母親から、そこにいると聞かされたばかりなので間違いはないはず。だとしたら……
しばらくそこで
そして、強い鼓動を3度鳴らす頃には、彼は自らがとる行動をあらかた把握するようになる。
「なるほど、そう言うことか……」
自身に対し納得の声を漏らすと、彼は扉を叩いていた手を、今度は開く手付きへと変化させた。ドアノブをそっと捻り、グッと押し込ませると何の抵抗もなく扉が開きだす。確かに、錠がかかっておらず誰でも入室できるようだ。するのを忘れたのか、することすらできないでいるのか……どちらにせよ、凛に近付ける一歩を手にすることができた。
「凛、いるか?」
明弘はゆっくりと扉を押し開かせながら問いかける。が、これもまた返事もない。代わりに、彼が目の当たりにするのは、電気も点けずカーテンも閉まりきった薄暗く淀んだありさまだ。この異質とも呼べる空気が肌に触れると、彼は無意識に顔をしかめた。
これはひどいな……、空間そのものが重苦しく身体に差し迫るような圧を感じさせられる。普通の人ならこの空気に触れた途端に
その中を彼は進み行く。胸に込み上げてくるモノをグッと押し殺し、夜の暗闇よりも深い闇の中を進んでいく。
数歩進むと、辺りを見渡せる部屋の中心とも言える場所に立った明弘。薄暗さに大分目が慣れてきたようで、特に今立っている場所からだと四方の壁がどこにあるかわかるくらいには仕上がっていた。ここから彼は探そうとしていた。
さあ、凛はどこにいるんだ……?
辺りを見渡すようにじっくり目を凝らして観察していると、部屋の片隅に毛布のような塊が置かれていた。ただそれがあまりにも不自然で、何かがくるまれているのではないかと思われる大きさであった。まさかと思いつつ、ジッと目を凝らしていると、モゾモゾっとうごめくのを見てしまった。
ここに凛がいる。彼は確信した。
「凛?」
彼がそっと声を掛けてあげると、くるまれた毛布が再びうごめきだした。こんなにも分かりやすい反応を示すだなんて、と一息つく瞬間があったが緊迫した空気は変わらない。
「凛、そこにいるんだよな?」
彼は再び声を掛けて近付こうとした。
「来ないでっ!」
だが、彼を拒絶するかのような
「凛、どうして……?」
これが彼の口にした第一声だ。繊細さもないとても短絡的な言葉。彼女を慰めようとするために口から出たにもかかわらず、言葉の意味はまったくかけ離れたものだった。
わかっている。理解している。だが、凛の声を聞いた瞬間、彼は嘆き悲しんでいる彼女の姿を想像して言葉が詰まった。何が彼女に必要な言葉なのかを彼は突きとめられなかったのだ。
現に、彼は彼女の悲痛な嘆きを前に聞き入るだけだった。喉を締め付けられ、耳にするにはとてつもなく辛いうめかれる金切り声。この声が、底知れない深淵に突き落とされ、いびつなまでに醜くさせられた彼女の
声を掛けようにも言葉が出てこず、近寄ろうにも脚が動こうともしない。それどころか、膝が崩れ落ちてそのまま床に這い
何もできないこそばゆさが身体中をかけめぐっていると、凛の言葉が彼の身体を貫く。
「凛は、かわいくなんて無いんだ……どんなにかわいい服を着ても、どんなにかわいくなろうとしても、かわいくなんてなれなかったんだ……スクールアイドルをやって、歌っても踊っても、ちっともかわいくなれなかったんだ……変わってない……凛はずっと、あの頃と変わってない……」
全身が震え上がるような悲愴が地を這った。耳にするのも耐えがたく、尋常でない悲しみで胸が張り裂けてしまいそうになる。
明弘もまた、彼女の言葉で打ちひしがれそうになる。彼女の生の悲しみを知ってしまった今、抱えきれないこの感情をどう受け止めればよいかわからなかったからだ。哀しい……ただ、この哀しみだけが涙のように身体から零れ落として濡らしていた。
「……スクールアイドル辞める……ライブに出るのも辞める……こんなかわいくない凛がいたら、みんなに迷惑掛けちゃうもん……凛がいなくたって、いいんだよ……」
負の感情が
「凛は、かわいくなんかない……女の子になんて、なれなかったんだ………」
泣くのを堪えるような声で彼女は声に出した。絞り出すように、不成立な事実でもそれが事実なのだと思い込ませて涙と共に吐露する。この最後の一言を口にして、凛は口を閉ざし、
彼女はもう、戻ることはできない………
「──違うッ!!」
「………っ!?」
その刹那、彼女が一瞬だけ正気に戻ったのだ。何かに突き動かされるような言葉を耳にして、立ち止まりかけたのだ。自分でもよくわからない。だが、その時ほんのわずかであったが、凛の心が揺れ動いた。
凛は息をした。締め付けられるような苦しみが続いていた中で、やっとまともに息を吸い上げることができた。おかげで、彼女から光が消えることは無かった。
すると今度は、止まっていた明弘の脚が再び歩みを起こし彼女に迫った。足音が近付くのを感じた凛は、びくっと背筋を跳ねあがらせて反応する。また、身体を縮込ませて、来ないでと言いたげそうな反応も示した。
そして彼は、彼女を覆っていたモノに手を掛ける──―
「やっ……やめ、て……! とらないで……!」
毛布を掴んだ明弘は力づくで取り上げようと引っ張った。凛は咄嗟の反応でつい抵抗をしてしまうが力量差がありすぎた。それはすぐに取り払われ、ようやく凛の全身が姿を現す。
しわくちゃな服に乱れた髪。涙でくしゃれ衰弱した顔の凛がそこにあった。元気ハツラツだったいつもの凛とは真逆の姿であるのを見ると、彼女の身に起こった悲劇がどれほどのものであったかを知ることができる。だから彼女は見せたくなかった。
だがしかし、彼女をここまで弱らせる哀しみを、彼は許すことができなかった。
「凛」
彼はジッと見つめて言う。けれど、凛は彼を見上げる勇気も自信もなく、目を逸らしてしまう。
すると、彼は思い切った行動に出た。
明弘は、涙で濡れた顔を両手でとると無理に視線を合わせるよう顔を上げさせた。彼女にとっては不快でしかない行動であるが、こうでもしなければ凛は見向きもしなかっただろう。明弘と凛の顔がようやく対面しだすと彼は話しだす。
「凛! お前はかわいいんだよ! お前はかわいい女の子なんだよ……!」
強いのにやさしい言葉が凛に吸い込まれる。目を逸らせなかった。彼の言葉を耳にした時、彼女の中で何かが湧きあがろうとした。わからない……それがなんなのかは分からないが……とても、あたたかなものであったと感じ始めていた。
彼は続けて言う。
「凛がかわいくないだって!? ふざけるんじゃない! こんなに愛嬌がある子を前によくもそんなことが言えたもんだ! 俺は、凛を一目見たその時から、誰にも負けないかわいい女の子だってわかっていたんだからな! 凛はかわいい……かわいいんだよ!」
彼の怒涛の言葉がなだれ込んでくる。彼が抱いていた凛への感情が爆発したかのように言葉になってやってくる。これがあまりにもたくさんで抱えきれないほどなのだ。当然、凛は困惑してしまう。
「そ、そんなこと……ないよ……! 凛は、りんは……かわいくなんか……」
「いいや、かわいい! これだけは絶対に譲らない! 俺の今までの人生とこれからの人生すべてを賭けてもいい。凛は、俺が見てきたたくさんの女性の中でも特別に抜きん出てかわいい子なんだよ! 抱きしめたくなるほどに!!」
「──っ!?」
彼の凛に対する感情は収まりを見せない。いったいどれくらいの感情をぶつけようとしているのか自分でもわからないのではないかと考えてしまうほどに、だ。
そして、彼のこの言葉たちが彼女の心に光を宿らせた。
「ちがう……ちがうちがうちがう……凛はそんなのじゃない。凛はかわいくなんかない……」
「何度でも言ってやる! 凛はかわいい! 元気いっぱいに笑顔を振りまいている姿がかわいいじゃないか!」
「髪の毛だってこんなに短いし、運動しかできないなんて男の子っぽいよね……」
「ショートヘアのどこが悪い!? ボーイッシュで結構! 人のかわいさはそんなんで下がるわけがない。似合ってるかどうかであって、現に今の髪型の凛も運動好きなところもひっくるめてかわいいんじゃんかよ!!」
「うぅ……す、スカートが似合わないんだよ……女の子なら似合うのに、凛は……」
「似合うに決まってるじゃないか! 制服の短いスカートを着ていた時も、ライブの時に着ていた時のどちらも良く似合っていたし、女の子らしい姿だったじゃないか。スカートが似合うのは、凛がかわいい証拠でもあるんだよ。俺は、そう信じてる!」
「でも……でも………っ」
「そんなに言うんだったら、俺がしてやる! 俺が、凛を最ッッッッ高にかわいい女の子にしてやる!! 誰にも負けない、誰にも文句を言わせられない、女の子の誰もが羨むくらいとびっきりかわいい女の子に仕立て上げてやる!!」
「………ッ!!」
その瞬間、彼女の視界に光明が射した。暗い曇天の空の隙間からあたたかな光が
けれど、凛はその光を見続けた。目の前が真っ白になるくらいずっと見続けた。そして、
「凛」
再び、明弘は凛に声をかける。
「スクールアイドルを辞めるなんて俺は認めない。スクールアイドルをやっている時の凛が一番輝いてて、かわいいんだ。その瞬間を眺める俺の楽しみを奪わないでくれ」
「ひ、ろ……くん……?」
「ライブも辞めさせねェ。今度のライブは凛が主役なんだ。絶対に凛をステージに立たせるんだ。そして、凛を輝かせてやる! 俺とお前との約束を、果たさせてくれ!」
この言葉を聞いて凛は思い出す。いつか、彼女がメインステージを踏む時、盛大に輝かせてやると大言を張って約束したあの日の彼のことを。その約束の日が近いのだと言うことを彼女は気付かされたのだった。
「あ……あぁ………っ」
震えが止まらなかった。全身からたくさんの心震える感情が湧き起こりだしたのだ。止まろうにも止まらない。一度揺れ動いた心は止まることを知らなかった。凛の身体の中では感動の嵐が吹き荒れていたのだ。
そうだ……そうだった……、凛には凛のことを本当に大事に思ってくれている人がいるんだって。こんな凛のことを本当に大切に思ってくれている人がいてくれたんだってことを……。
涙が止まらなかった。こんなにも自分のことで全力になってくれている彼がいてくれたことに感謝しかなかった。いま流れるだけのすべての涙を枯らしても構わない。ただ泣かせてほしい。
凛は思わず彼に抱きつくと力の限り泣いた。これまで自分が抱えてきたこと、苦痛でしかなかった過去を涙で清算するかのように泣き続けた。自分でも制御できないくらいに。
そんな彼女を、彼はそっと抱き締めるのだった。
(次回へ続く)
どうも、うp主です。
今回はこの章の確信部分でもある凛ちゃんの心境を書きました。凛ちゃんがどんな思いを抱いていたのかを知った明弘も受け止めようとする姿を見せてうまくまとまったように感じます(?)
そろそろこの話も終わりが見えてきました。どんな最終地点に辿り着くのか見守っていてください。
次回もよろしくお願いします。
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