第153話
日は陰り、街が茜色に染め上がる。
行き交う街の人々に告げ知らせるかのような夕焼けが街を包み出した。誰もが一日の勤労を終えて、各員帰路に向かえば、立ち止まり一息吐く者も少なくない。そんないつもと変わらない一日の終わりを過ごそうとする街の風景。
そんな中、その流れから逆らうかのように立ち止まり、たそがれる男がひとり。観覧車は回り、ジェットコースターからは絶叫が飛び交う。そんなビルが立ち並ぶ間に築かれた人々の遊楽地にその男は立っていた。彼は待っていた、ここに来るひとりの少女を。そして告げなければならない、それが彼に架せられた使命であり、果たさなければならない盟約でもあった。
駆け抜ける少女たちの思惑。
すれ違う感情のぶつかり合い。
かけ離れて行く友情。
すべては、ひと夏に起きた出来事。急速に加速し、もう元には戻らないだろうと、誰しもが望みを捨ててしまいそうになる状況に、男がひとり抗う。故に、彼はそこに立っている。定められた運命から救い出すために。
「―――そろそろだな」
腕時計に注視しながら、彼は訪れるモノをいまか今かと待ち望んだ。それこそ、彼が打つ運命の逆転劇――序章の始まりでもあった。
小さな足音が彼の耳に触れ始める。人々の雑踏とは違った特別な歩調。一足踏むたびに胸が急かされるように鼓動を刻む。高鳴る。その音色は彼を喜ばせてくれる。すっ、と目を瞑り、思わずその人の表情を想い浮かべる。朗らかにやさしく微笑みかける姿がいつもそこにはあった。彼の前で見せてくれるのはいつもそう。太陽のような顔を持つその姿に幾度となく助けられ、支えられてきたのだ。忘れることなどできるはずもない。
そして今度は、その太陽を助ける番。恩返しをするその日が訪れたのだ。
「―――――っ!」
息切れと驚愕する息遣いが彼に向けられた。それを聞いて、やっと来たな、と思わず口角を引き上げる。間違いない、彼女だと確信した瞬間だ。
瞑った瞼を引き上げて、ゆっくり瞳に焼き付け始める。それが彼の愛する少女、愛しい恋人との再会の時だった。
「そう……くん……?」
彼女は言葉探すように彼を呼ぶ。すると、彼はいつもと変わらないやさしい表情で―――
「穂乃果、待ってたぞ」
そう囁くのだ。
およそ一週間ぶりの再会だった。
―
――
―――
――――
「そう……くん……そうくん……蒼君、蒼君蒼君蒼君っ!!!」
「おっと。まったく、どうしたんだよ?」
彼を見つけた穂乃果は久しぶりの再会に感極まり、走って彼に抱き付いた。突然のことにも関わらず、彼は彼女を強く受け止めた。いつも彼女はこうして嬉しく抱き付いてくるので自然と慣れてしまっていたのだ。
だが、いつもとは違った雰囲気を抱えていることを察すると、普段以上にやさしく包み込んであげるのだ。それが心地良いのか、穂乃果は蒼一の身体から離れようとはせず、じっくりと気持ちを鎮めていくのだった。
「穂乃果」
彼女を呼ぶ声に耳を傾けると、
「ここでは話し辛いな、他の場所に行こう」
そう告げた。
と言うのも、2人が立つこの場所は、公衆が行き通う道の上。それも遊園地であるここの入り口付近なため、嫌というほど人目がつく。いまでは人気スクールアイドルとなった彼女が、こうしたことを公然とやっていることを知られると困る。そう判断した彼は、彼女の手をとって遊園地の中に入っていく。
穂乃果は、頬を染めつつ、手を取られて付いて行くのだった。
人目から遠退いた2人は、ここ遊園地の中を歩き回る。ちょうど目に飛び込んできた観覧車を捉えると、あそこにしようと歩き進め、業務員にお金を払って搭乗した。
2人だけの密室。誰にも邪魔されない2人だけの空間。そんな中で、互いに座り、向かい合い視線を交らせた。だが、彼女はどうしても長く見ようとはせず、しばしば視線を外してしまう。何故か。それは彼女の抱える心のモヤがチラついて、後ろめたく感じてしまうのだ。
視線を交らわせにくい……。
蒼一が不在の中、穂乃果が起こしてしまったことを思い起こせば尚更だ。彼女は、μ’sを辞めてしまった。ラブライブでの責任、ことりを止められなかったことが責めかかってきて、耐えきれなくなった末にそうしてしまった。逃避である。どうすることもできなくなった彼女はもう、逃げるという選択肢の他何もなかったのだ。だから、すべてを投げ捨ててしまったのだ。
だが、その代償は大きく、彼女の心をより深く抉ってしまった。悲観的になった彼女はあることすべてから意味を失ってしまった。すべては無味で徒労に終わるものとして、倦怠感さえ抱いてしまった。どうしようもなく、ただ無駄に時間を浪費する日常が回るだけ。呆然としたまま過ぎていく時間の中で、彼女は活力を失っていた。
だがしかし、そんな彼女はどうしてここにいるのだろう。それまでの彼女ならば、彼からの誘いがあったとしても断っていたはず。加えれば、彼からの連絡さえも遮断してもおかしくなかった。
だが、彼女は連絡に応じた。そして、ここに来て蒼一と逢っている。明らかに彼女の中で変わったものがあったのだ。塞ぎ込んでいた穂乃果ではなく、もう一歩を踏み出した穂乃果がそこに……
「穂乃果」
彼女の名前。その一言を語りかけると、彼女は顔を彼に向き直した。彼は彼女に伝えなければならないことがあった。同じく、穂乃果もまた、彼に伝えなければならないことがあったのだ。どちらが先に口火を切るのか、しばらくの間が置かれて、ついに―――
「そ、蒼君っ!」
穂乃果が口火を切った。
「ごめんなさい! 蒼君、あのね! 穂乃果ね、ずっと謝らなきゃって思ってた。蒼君がいなかったこの一週間にいろいろあって、それが急にぶつかってきたみたいに強くって、もう……何が何なのか分からなくなって……辞めちゃったの……私、μ’sを抜けちゃったの……」
強く、訴えた。手に拳をつくって、それをぎゅっと力いっぱい握りしめて勇気を振り絞って自分に鼓舞した。こうもしておかなければ気持ちが揺らいでハッキリと言えなくなっちゃう……不安定な気持ちはすぐに崩れてしまいそうだ。
それでも、彼女は見かけだけでも堅くあり続けて言葉を紡いだ。
なれど、その身体は震えていた……
「蒼君……聞いて……。この前ね、ことりちゃんが急に留学するって言ったの……それも、明後日に出るって……。私は嫌だったよ! でも……ことりちゃんはずっとずっと悩んでて、穂乃果にも相談しようとしていたんだ。なのに、私は何にもわからなかった。気付いてあげようともしなかった。もっと早く気付いてあげたら、ことりちゃんは考え直してくれたかもしれない……! けど、もう遅いの……行くって決めちゃったことりちゃんを穂乃果は引き留められないよ……私のわがままでことりちゃんの夢を壊すことなんて出来ないよ……。蒼君の夢を……壊したのに、これ以上、みんなから奪うようなことをしたくなかったの……! そう考えたら、こんなわがままな自分が嫌になってきて……ライブも、学校のことも、μ’sのことも……みんな嫌になっちゃって……それで……それでわたし………っ!!」
全身を震わせ、ぐっと涙を堪えてきた彼女の限界が訪れる。話をするたびに胸が締め付けられるような痛みに苛まれ、息苦しそうに拙い言葉になる。目元がじんわりと湿り始め、涙腺が大きく膨らんでいく。堪えようとすればするほど目元は赤くなり、視界も濡れ、滲んで見える。
いつか、彼女は泣いていた。
ぽろぽろと零れる小さな涙が、ひとつ、またひとつと下に落ち床を濡らした。我慢することができなくなった彼女は、鼻を大きく啜り、感極まって顔を手で覆いながら泣きだした。
ずっと、耐えてきた。誰にも話せず、ひとりでずっと抱え込んできて、それが苦しかった。悲しいことが度重なり、それらすべてを自分のせいだと背負いこんだこの小さな身体にはあまりにも辛すぎた。
泣けるだけ泣き続けたい……、涙を流す彼女は悲嘆に暮れるのだった。
そんな時だ――――
「――――――!」
あたたかく、大きな手が彼女を触れる。彼女の左耳から後頭部に手が触れ、そこから流れるように下に伸び、ゆっくりと左の肩をなぞる。そして、その手はまたゆっくりと下に伸び、腕を流れて顔を覆う手の甲に触れるのだった。
彼女は触れられたことに気付いていたが、そのままにしたまま泣き続けていた。すると、もう片方の手にもその手が触れられていることに気が付くと、一瞬泣きやんだ。と、その時、やさしく囁かれる声が聞こえてくるのだ。
「穂乃果」
また、彼女の名前だけを呼んだ。でも、この時だけはとてもやさしい声で、まるでそよ風に当てられているかのようで穏やかな心地がするのだった。少し、心に余裕が生まれた。彼女は指の隙間から、そっと覗き見ると向かい側に座っていた彼の顔が目の前に表れた。
「―――――っ!!」
息が止まりかけそうになった。何せ、彼が本当に近くいて、それも鼻の先がくっ付いてしまいそうなほどだったから余計に焦ってしまった。泣いて赤くなっていた表情が、一変した意味で紅潮しだす。この顔、見せられないよ……、といまは隠すために手で覆うのだった。
一方、彼はと言うと、やさしそうに目を細めていた。頬も少し引き上がっているみたいで、にこやかな雰囲気を感じる。それが余計に彼女を恥じらわせるのだった。
今度は、彼が言葉を紡ぎ出す。
「穂乃果。お前はいま、何がしたい?」
「えっ――――?」
抜けた声が思わず出た。まさか、彼の口から聞いた言葉がそれとは考えても見なかったからだ。てっきり、前みたいに怒られるだろうと思ってしまっていたから余計にだ。それに、その言葉は以前問いかけられたのと同じモノだったから――――
「お前にモノを聞く時は、まずこう聞かないといけないよな」
彼は微笑むように話しだした。
「いつだって穂乃果は、何がしたい、こうしたいと言ってから行動していた。どんな些細なことから重大なことまでだって、いつもそうしてきた。だからこうして今回聞いてみたのさ」
「私の……いま、したいこと……」
改めて自分に問いかけてみた。蒼一から言われたこの意味を、今度は落ち着いて捉え始め出した。
―――私のしたいこと――、とっても単純で、とっても難しい問い。でも、その答えはもうわかってるよ。教えてくれたんだ、ツバサさんが、私に……!
ゆっくりと、覆っていた手を広げ始めた。それを察した蒼一は触れていた手を放そうとした。が、その手は彼女によって握られ放してくれそうにない。一旦驚いたものの彼女の真剣になった表情を見て、そう言うことか、と理解してその返答を待った。
穂乃果はツバサの時と同じように大きく深呼吸してから、彼に真剣な眼差しを送って言った。
「私……わたしっ! ライブがしたい!! もう一度、ステージに立ちたい! ライブはどうでもいいとか、μ’sを辞めるだとかしちゃったけど、でもっ! それでも私は、もう一度μ’s9人でライブがしたいし、μ’sであり続けたいの!!」
真っ正面からぶつかっていく
「―――ふっ、言えるじゃないか、ちゃんと」
彼女のそれを聞いて、蒼一は思わず喜びの笑みを浮かばせた。
「実はな、もし穂乃果が意地でもライブをしない、って言ったらその時は無理矢理にでもやってもらおうかと思ったところだ」
「ええっ!? な、何を突然言い出すの?! というか、怖いよ!!」
「まあ、いいじゃないか。結果的にそうならずに済んだことだし。けど、まさか穂乃果がこんなにも真っ直ぐな答えを持って来てくれるとはな。どんな心境の変化があったのやら……」
「うん、それはね……ツバサさんのおかげなんだ」
「ツバサが?」
ふと、彼女の口から意外な人の名を耳にしたので、小さく驚いた。
穂乃果は眼を細めて、その時のことを語りだす。
「今日の昼間にね、穂乃果アキバに行ってたの。自分でもどうしたらいいのか収まりがつかなくって、勢いで出てきちゃったの。それで、何も考えずにふらふら歩いてたらツバサさんに逢ったんだ。その時、聞かれたの―――『どうしてラブライブに出ようと思ったのか』って―――」
「ラブライブに……、それで穂乃果はなんて?」
「うん……スクールアイドルをすることが楽しかった、って……」
「へぇ~、確かに穂乃果らしい答えだ」
「えへへっ。それでね、ツバサさんはこうも言ってたの―――『もう一度、私たちμ’sと真剣勝負がしたい』って―――」
「えっ、ホントか?!」
「うん。それで言ったの……私も同じ気持ちです、って。ツバサさんたちとライブがしたい、って……」
「そう……なのか……そう、だったのか……」
穂乃果の話を聞いて、小さく納得する蒼一。彼女、綺羅ツバサの登場は意外なもので、また穂乃果に助言を与えることも予想だにしなかった。気まぐれなのだろうか。だが、そんな彼女の気まぐれが、こうして穂乃果を前進させるきっかけを与えてくれた。いまはそれを喜んであげるほかなかった。
「ツバサが、か……。でも、まあいいや。そのおかげでこうしてうまくいくことができたんだし、結果オーライだな」
「ん、どういうこと?」
「特にないさ」
首を傾げて聞いてくる彼女に、真意を隠すように頭を撫でた。
「それじゃあ、穂乃果。早速始めようか」
「始めるって……何を?」
「そりゃあ決まってるだろ、みんなを連れ戻しに行くんだよ」
「えっ、みんなを!?」
彼の提案に彼女は驚きだした。
「なんだよ、みんなでライブした言っていったのはどこのどいつだよ?」
「あうぅ……で、でも……穂乃果、みんなに悪いことしちゃったし、ことりちゃんと海未ちゃんにもいっぱい迷惑かけちゃってるし……」
自分でそう言ったことは確かにそうだ。でも、この手で一度壊してしまったモノを取り戻そうだなんておこがましいと思い控え目になる。
そんな彼女の姿を見たからだろう、蒼一は撫でるその手を頬に伸ばして触れた。すでに薄紅に染まっていたが、触れられた瞬間、一気に紅潮しだした。
蒼一は平然としながらも、恥じらう穂乃果を捉えて微笑んだ。
「迷惑かけて何が悪いのさ。穂乃果のそれに迷惑かけられているのはいつものことだし、大体、穂乃果が遠慮なんてらしくないじゃん」
「むぅ~ひどいなぁ……これでも穂乃果なりに考えたんだよぉ~」
「ふっ、わかってるさ、そんなの。でも、お前はいつも無茶ばっかりで、人を巻き込んではいろんなことを仕出かしてくれる。海未やことりも明弘も困ってただろうよ、まるで嵐のようなヤツだって」
「うっ……」
その言葉を聞いて、身に覚えのあった。いままでのことを思い返してみれば、確かにそうだったかもしれないと感じて、たじろいでしまう。
「でもさ、そんなお前の無茶振りのおかげで俺はここにいる。お前がスクールアイドルを始めようと言わなかったら、ラブライブに出ようと言わなかったら、俺のためにライブをしようと言ってくれなかったら……。たくさんの日々を廻ってわかったんだよ。そんな穂乃果でないとダメなんだって」
「蒼君……」
「好きなんだよ、お前のことが。何かをやろうと輝いて見える穂乃果のことが大好きなんだ」
「っ……! そ、蒼君……!!」
その言葉が、彼女の気持ちを一変させる。悔やみ、沈んでいたその表情にようやく明りがとり戻ろうとしていたのだ。
「穂乃果、覚えてるか? 初めてあの講堂で歌った曲を」
「うん、よく覚えてるよ。『START:DASH!!』。私たちの、みんなでつくった初めての曲……!」
「その中に、『悲しみに閉ざされて、泣くだけの君じゃない』ってね。その後は?」
「え、えっと、『熱い胸、きっと未来を切り開くはずさ』?」
「そうだ。それでいい……お前は十分に泣いた……。ラブライブのことも、学校のことも、ことりのことも全部背負いこんで、散々泣いて、こんなにやつれて……。けど、もう泣くことも、悲しむ必要もない。今度は、穂乃果のしたいことをやるんだ。それが穂乃果の未来、俺の未来、そしてμ’sみんなの未来になっていくんだ」
「……っ……!! そう、くん……!!」
その言葉は穂乃果の心を透き通った。ずっと溜めこんでいたモノ、ずっと詰まって取れなかったモノがいっしょに取り去られたかのような感じだ。心が軽くなった、ようやく重荷となっていた枷が取り去られたかのようだ。
穂乃果の瞳が煌めき、潤いを溜めていた。
「それと穂乃果。俺の夢は、まだ続いてるんだ」
「えっ……だ、だって、蒼君の夢はもう……」
「いいや、そうじゃない。あの一回のことで全部が終わるわけじゃない。まだ可能性は残っている。ラブライブは次回もあるだろうし、何より、俺には穂乃果がいる」
「わ、わたし……?」
「そうだ。穂乃果がいる限り、穂乃果がずっと俺と一緒にいる限り、絶対に夢は終わらない。俺は、穂乃果と一緒に夢を叶える。お前がここで約束してくれたことだ」
そう言われて、彼女は振り返った。するとそこには、夕日が沈み、暗くなり始めたところに照明が照らし始め出したアキバドームの姿が見えた。そして彼女は思い出したのだ――あの日、彼女が彼に約束したあの夢のことを―――
―――あの日の、胸の高鳴りが蘇る
ハッとした彼女は、すばやく彼の方に向き直った。瞳に映るその表情は、彼女がそれに気付いたことを嬉しく思う姿だった。
「蒼君……もしかして、その夢って……私たちの……!」
「あぁ、そうだよ。お前たちμ’sが優勝すれば、あそこでライブができるかもしれない。その時は、俺たちも一緒にライブをするんだ……それが、いまの俺の夢。穂乃果が俺にくれた、大切な夢さ」
「~~~~~~っ!!」
胸に、ぐっと込み上がるものがあった。全身が震え、すべての感情が一気に流れ出た。
もう取り返すことができないと、諦め悔やんでいた彼の夢が、まだ終わっていなかった。それどころか、その夢には彼女がいなくちゃいけないと、彼の口から直接言われたのだ。
こんなに嬉しいことがあるだろうか……。普通ならば嫌われ、怨まれても仕方のないことをしてしまったのに、赦すばかりか必要としてくれていたのだ。涙が流れないわけがない。こんなにも彼女のことを想ってくれる彼には、感謝しきれないほどの喜びしか感じられなかった。
何度間違えても、その度に彼は赦し、慰めてくれる。こんな素敵な人に出会えてよかったと、心からそう思うのだった。
「まったく、泣かなくてもいいって言ったのに、こんなに泣いちゃって」
「だって……蒼君がそんなことをいうんだもん……うれしくって……うれしくって………」
「……ったく、本当に泣き虫なんだから……。ほら、―――」
すると、蒼一は穂乃果の向かい側の椅子に座ると、太ももを一度叩いて両腕を大きく広げた。
「ほら、来な―――」
それが合図なのだと、瞬時に悟った。感情が揺さぶられ、身体は勝手に動いていた。考える余裕どころか、そうする必要もない。何故なら、彼女が本当に求めていたモノ――それが目の前にあるのだから―――
どんっ、と勢いよく身体がぶつかった。その衝撃で少しだが自分たちが乗るカゴが揺れるのだが、お構いなしだ。彼女の身体は吸い込まれるように蒼一の中に飛び込み、その胸の中に深く顔を埋めた。彼のシャツをギュッと掴んで絶対に離れないようにとしていた。まるで、そこが彼女の定位置だと言わんがばかりだ。
だが蒼一は、そんな彼女の行動を少しも嫌がることなく、むしろ歓迎するかのようにこの腕で彼女の身体を包んだ。ゆっくりと、やさしく触れ、包む。胸の中で彼女は涙を流すけれど、蒼一は変わらぬ頬笑みでそんな彼女のことを見守っていた。
観覧車が一周する―――
当然、終わりなのだと思い、従業員が2人のいるカゴの扉を開けた。ご利用ありがとうございました、とセオリー通りの行動をとろうとする。が、抱きあう2人の姿――それも彼女は泣いている様子を目の当たりにして、一瞬凍ってしまう。
戸惑う従業員に対し、蒼一はポケットから折り畳んだお札を取り出し、手渡した。そして、
「釣りはいらない。すみませんが、もう一周させてもらいます」
何事もないかのように対応する彼を見て、ああそうだ、と無理矢理自分に理解させて扉をそっと閉じた。2人を乗せたカゴは、またゆっくりと上を目指して昇って行った。
その様子をただ呆然と眺めるしかなかった従業員は、手渡されたお札をポケットの中に突っ込んだ。何とも言えない出来事だった――――
ゆっくりとカゴが昇りだし、地上がまた遠く見える頃。胸の中にいる穂乃果は泣き止みつつあった。そんな彼女を見て、彼は小さく囁いた。
「穂乃果」
四度目の呼びかけ。
それを聞いてしまうと、彼女は無意識に顔をあげてしまう。
「さて、もう一周することになっちゃったが……この残りの時間、どうする?」
穂乃果の胸が弾んだ。
2人だけの密室。誰にも邪魔されない2人だけの空間。それもいまは、こんなにも近くで彼と見つめ合っている。触れ合っている。吐息さえも聞こえてしまうほどに……。
艶めかしい声―――。その声が、穂乃果の心を擽り、誘っているかのように聞こえるのだ。ほぼ一週間ぶりに感じている蒼一の温もりに、彼女の神経は鋭くなる。
誘惑が彼女の心を支配しようとしていた。
ごくり、と唾を呑み込むと、萎れた口調となって彼に懇願する。
「ねぇ――キス、して。お願い―――」
すると、彼の顔が近付き、穂乃果に覆い被さる。ゆっくりと唇同士を触れ合わせ、やわらかいキスをする。焦らず、じっくりと、唇の端から端まですべてを使った濃厚なキス。熱い吐息を漏らし、みるみる蕩けた表情を見せる。
「こんな時でも、変わらないんだな……」
「だって……ずっと、我慢してたから……逢えなかったから、寂しくって……」
「……わかった。時間のある限り、たくさん愛してあげるからな……」
「うん……♪」
そう言い終えると、今度は穂乃果からキスをする。強く押さえつけ、いままでできなかった分をそのまま当てているかのよう。無我夢中に彼の唇を頬張り、ますます好色に乱れていく。抑えを無くした彼女は止まろうとしない。これが、穂乃果のしたいことなのだから、誰にも止められないのだ。
ただ、そんな彼女の姿は、とても輝いて見えるのだった。
「ここから先は―――ね―――?」
リンゴのように紅潮させた穂乃果は、唇を離すと人差し指を口元で立てて言った。面妖な表情で囁くその姿は、小悪魔のような妖気に包まれているかのようだ。
するとその時、カゴの中の電気が消えた。
ビルが立ち並ぶこんな都会でさえも、明りがなければ夜の闇に屈してしまう。同じくこのカゴの中もその闇に屈したばかりだ。
蒼一の視界も狭まる。わかるのは、抱きしめる穂乃果の感触と体温のみ。だが、穂乃果だけは違った………
「ふふっ、これで誰の目にも気にしないでできるよ……♪」
しっとりと湿った声が彼の耳を擽った。そして気付いたのだ、彼女がここの明りを消したことを……
しゅるりと布が擦れ、外れていく音。カチャカチャと鳴る金属音。
それが彼の手によるものではないことは承知のこと。だが彼は、すべてを理解したうえで笑っていた。
「まったく、イケナイ子だ……」
そう口から零すと、彼は暗闇と同化した。
―
――
―――
――――
月夜の綺麗な日だった。
2人が帰路に立った時には、時間はかなり進んでいた。日の入りが遅い夏場では、よく時間感覚がずれることがしばしば。だが、そんなことさえお構いなしだった2人は、時間が許されるまで寄りそっていた。
いまは手と手を繋いでゆっくりと歩んでいた。確実な一歩を踏みしめながら。
「もう……平気だよ……」
ぽつり、小さく口にする。
彼は聞き返すみたいに顔を向けると、続けて言った。
「私、もう迷わないから……」
それを聞いて安心したのか、蒼一の肩から力が抜けた。そして、彼女にこう告げた。
「やり直そう……壊してしまったモノは元には戻らない。だが、元よりももっといいものにすることができる。穂乃果、できるか?」
穂乃果は小さく頷いた。
「よし。それじゃあ、まずアイツから呼び戻さないとな……」
そう言うと、蒼一はスマホを取り出して、誰かに電話をかけた。その様子を穂乃果は見守っていて、誰にかけているのだろうと首を傾げた。
コールが何回か続くと、相手の声が聞こえてきた。つかさず彼は話しかけて、
「もしもし、俺だ―――」
(次回へ続く)
ドウモ、うp主です。
先週、風邪をこじらせてバタンキューしてしまったというアカンことをしてしまいました。現在は、8割りよくなってる感じですが何とも言えません。
早く治しておきたいものです。
あと、先月中に終わらせられませんでしたねぇ……
それに、あと3話くらいは……欲しいです………
私用などで忙しくなる今月ですが、何とか今章を終わらせたい。
更新速度は早い方が助かりますか?
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ちょうどいい
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もっと早くっ!
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遅くても問題ない