蒼明記 ~廻り巡る運命の輪~   作:雷電p

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第148話





あなたに傘をあげましょう。

 

 

 

『やっていられんな……俺は降りるぞ……』

 

 

 あの日、明弘がμ’sたちの前から去って幾日かが経った。

 

 ことりの留学。穂乃果の脱退。

 度重なる事態に歯止めが利かなくなった彼女たちは、活動の停止を余儀なくされた。もう、彼女たちをまとめる者が残っていない。代理でμ’sの舵を握っていた絵里さえも、穂乃果を追い詰めたことを後悔して意気消沈。最後まで抗っていたにこの尽力もむなしく、彼女たちはバラバラに散ってしまった。

 

 彼女たちはそれぞれの場所に戻り、それぞれのなすべきことを行っていた。けれど、いつも心のどこかには、ぽっかり空いたスキマがあり、不完全燃焼で終わってしまったことを悔やみ続けている寂しい素顔があった。

 すべてを受け入れている者などどこにもいない。だが、受け入れなければ次に進めないこともわかっていた。それでも、自分自身に嘘を吐いてまで生き続けるようなことを彼女たちはできなかった。そして、彼女たちは求めた。この空いてしまったスキマを埋めてくれる者が来てくれることを………

 

 

 

 

 

――

――― 

―――― 

 

 

[ 南家・ことりの部屋 ]

 

 

 ことりが日本を発つまで、残り数日となった。

初めての海外生活を送るため、ことりは必須で且つ最低限の荷物を見繕う。向こうでは、ここと同じような生活は望めない。国が違えば、環境もまったく異なる。慣れない地では不安はつきもの。だから、せめて自身の気持ちを落ち着かせ、安らぎを得られる空間を作れるものだけを選ぶ。

 そうもしなければ、彼女は目に見えない重圧に押し潰されてしまうだろう。だが、すでに彼女はこの決断をするに至って数々の重圧を強いられている。

 

 

「――ことり」

「海未ちゃん……」

 

 ことりがキャディーバッグに衣服を詰めているところ、海未が訪問しに来た。あれ以降、海未は毎日ことりの許に顔を出していた。彼女と共に過ごせるのは、あと数日のみ……そう思うと居ても立ってもいられずいたのだ。

 ことりは、親友が訪れたことに喜ぼうとするが、元気のない声が出てしまう。それでつい、ごめんね…、と謝ってしまう。海未は気にせず、いいのですよ、と片付けるが、やはり心配になる。

 

「穂乃果とは、ちゃんと話をしましたか……?」

 

 彼女の様子を伺ってからそう聞いてみるのだが、当のことりは一瞬肩を震わせて黙りこむと、数秒後に首を横に振った。それを見て、まだ仲直りができていないことに海未は瞼を閉じて、わずかに俯く。きっと悲しい目をしてことりのことを見てしまうのでしょう、と思った彼女なりの配慮だ。でも、ことりはそれをわかっていたみたいで、無理しなくていいよ、と逆に励まされる。

 

 すみません…、海未はそう答えるしかなかった。

 

 

「随分、部屋の中が片付いてきましたね」

「うん。持っていくものはある程度決めて、残りのものはお母さんに送ってもらうつもりだよ」

「そうですか……」

 

 ことりにそう言うと、海未は部屋の中を見回した。

 やわらかな色彩の部屋模様に、やさしいアロマの香り。装飾される家具などは、すべてことりが選び揃えたものばかり。彼女が持つ天性のファッションセンスが最大限に活かされた、実にことりらしい部屋。自慢の部屋だと、以前海未にそう告げていた。

 

 その部屋がいま、閑散とした様子に変わりつつあった。

 敷かれた絨毯は取り払われ、壁の装飾品も取り外されていた。いつもベッドの上にあったぬいぐるみもなく、タンスの中も衣服がすっかり消えて風が通り抜けそうだ。代わりに、部屋の隅には何箱も積み重なった段ボール箱が置かれていて、その中に、ことりのすべてが詰まっているのだと思われた。

 想い入れのあった部屋が、こんなにも小さく収められてしまうなんて…、海未は改めてことりが居なくなってしまうことに寂しさを抱いた。ことりをこのまま行かせてもいいのだろうかと、思い悩み出すと、思わず声が出た。

 

 

「ことり、本当にいいのですか? 本当に、これでいいのですか……?」

「……うみ、ちゃん……?」

「ことりはまだ、ちゃんと穂乃果や蒼一と相談していないではないですか。それなのに、ことりは行ってしまうのですか!?」

 

 海未はめずらしく感情を高ぶらせて叫んでしまう。言い終えた後の海未は、いまにも涙しそうな目をしていた。

 ことりは海未の呼びかけに、一度は驚いた。けれど、彼女は気持ちを整え直すと、泣きそうな幼馴染を見つめて言うのだ。

 

 

「海未ちゃんは……ことりに、行ってほしくないって言わないの?」

「………ッ!? そ、それは………」

 

 思いがけない言葉をかけられ、海未は戸惑った。まさか自分に、そのような質問が来るとは思わなかったのだろう。

 一瞬、見開いたその目で大切な親友を捉えた。

 なんて悲しい顔を見せるのだろう……いまにも泣きそうなのは、むしろことりのほうではないか。いま、ことりが求めているのは、彼女。海未の答え。穂乃果でも、蒼一でもない。目の前で、ことりのことを心配して話をしてくれる海未に聞いていたのだ。

 

 

「………っ………」

 

 

 海未は、すぐに声を出せなかった。ことりがそう聞いてくることもそうだが、ここでちゃんと答えてもいいのだろうかと迷った。もし海未が、ここでことりに行かないでほしい、と言ったらどうなるだろうか。きっと、彼女はそうするだろうし、その知らせを聞いた穂乃果や仲間たちは喜んでくれるに違いない。

 けれど、それではことりの夢はどうなるのだろう。もしことりがこのチャンスを逃したりすれば、同じことは二度と巡って来ることはまずないだろう。それは同時に、ことりの夢を諦めさせてしまうことにもなりかねなかった。

 

 仲間のためか、親友の夢のためか。その2つを天秤(てんびん)に掛けられた時、海未はそれを選ぶことはできるだろうか。苦渋に満ちた表情をする彼女は、選択する。

 

 

 

「わ、私は………選べません……どちらか1つを選ぶことは、できません……」

 

 

 彼女は、選べなかった。

 慎重な彼女は、感情よりもリスクを問題視していた。彼女の一言で、ことりの人生を変えてしまうことにたじろいだ。いまの彼女には、それを負う覚悟がなかったのだ。

 

 

「……ごめんね、海未ちゃん。変なことを聞いちゃって……」

「い、いえ、そんなことは……」

 

 ことりは少し笑って誤魔化したが、その顔はとても辛そうだった。多分ことりは、海未に決めてもらいたかったのだろう。いま、ことりが相談できる相手は海未しかいない。海未なら、どうしたらいいのかを教えてくれるかもしれないと思ったに違いない。

 

 けれど、彼女は選ばなかった。

 海未ちゃんはやさしいから…、と、ことりはそう言って海未の肩を持った。でも、違うのです…違うのです……、と海未は心の中で囁いて、涙した。恐かったのだ。逃げ出したかっただけなのだ。それを“やさしい”と言えるだろうか。違う。もし、海未ならば、こう言うだろう。

 

 

 

 

―――私は、最低です―――

 

 

 

 海未には、ことりを止められる機会が何度もあった。だが、その度に駆られる恐怖に身体が(すく)んで何もできなかった。いつもはそうではないのに、どうしてか、こういう大事な時には何もできない。そんな自分に、いつもそう言ってしまうのだ。

 

 

 

『――どうしてことりちゃんを止めないの!!? 止められたよね……? 私じゃなくても止められたよね? みんなが言えば、きっとことりちゃんも気持ちを変えてくれるって思わなかったの?』

 

 

「………ッ……!!」

 

 

 先日の穂乃果のあの言葉が、ずっと突き刺さって離れなかった。穂乃果はみんなに向かって言っていたのであろうが、海未には自分に言われているものと思い、胸を痛めた。

 

 

 

―――私は、最低です―――

 

 

 ぽつり、と(かすみ)みのように消えそうな言葉がこぼれ落ちる。何もしてあげられない自分に向けられた言葉だった。

 

 

 

 

 

――

――― 

―――― 

 

 

 

 青い空を眺めていた。

 白い入道雲が澄んだ青壁に雄大に描かれている景色は、真夏の風物詩だ。この景色を目に焼き付ければ、少しは心が落ち着くでしょう――、親友の家を出たばかりの海未はそう思った。

 

 けれど、彼女の心は曇り模様。

 さらには、黒雲立ち込める曇天ときた。いまにもそこから大粒の雨を降らせて、地表を濡らすだろう。濡れるそれを拭いてくれる者は、いまここにはいなかった。

 

 ぐっ、と手に力を込めると、彼女は駆けだした。雨から逃れるみたいに早く、早く。

 走っていないとだめなのだ。彼女が親友の家にて、見て、感じた罪悪感を思い出してしまいそうだったから。それ故に、走っているいまだけは違うことを考えていられる。完全に頭から外すことはできないが、それでも彼女には十分だった。

 

 

 しばらく走ると、彼女はある家に足を止める。表札には、『宗方』の二文字。

 ここは彼女の恋人である、宗方蒼一の家。

 息を切らしながら玄関に近付くと、チャイムを鳴らして少し待つ。じんわりと身体から溢れ出た汗が、着ている服をびっしょり濡らした。

 今日の彼女は、薄い青の水玉模様のノースリーブと黒のショートパンツ。今日のように熱い日には最適なチョイスだ。ただ先程も言ったように、彼女は滂沱の汗をかいた。そのため、トップスがその繊細なボディラインにピタッとくっつき、その体型がよくわかるようになっていた。

 けれど、彼女はそれには気付かず、ただひたすらと彼のことを待ち望んでいた。

 

 十数秒の間が開いてから、玄関の扉が開きだす。すると、そこから彼女の求めていた彼、蒼一が姿を現したのだ。

 

 

「どちら様ですか……って、海未じゃないか」

 

 突然の訪問者にも関わらず、彼は彼女を見るなり微笑んだ。彼も恋人である彼女が来てくれたことを喜んでいる様子。一方、海未はと言うと、やや難しそうな表情で俯いていた。それに気付いた彼は、どうしたんだ海未、とやさしく声をかけた。

 

 すると、

 

 

 

「……蒼一っ!」

 

 海未は急に蒼一の胸の中に飛び込んだ。

 その、あまりにも急な出来事に、蒼一は戸惑いを隠せなかった。真昼間から、しかもあの海未がこんな大胆なことをするだなんて、と驚いたのだ。いくら好色気味になりつつある彼でも、良識はわきまえている。だから一刻も早く彼女を引き離そうとしたのだ。

 

 

 

 

「……うっ……うぅぅ………」

 

 だが、蒼一はその手を止める。

 海未が泣いていたのだ。滅多になく事をしないあの海未が泣いていたのだ。それも、彼の胸の中で。次々と巻き起こる出来事に、頭に疑問符を浮かばせてしまうが、彼女を見るなりやることは決まっていた。

 彼は、彼女の背中に腕を回し抱きしめ直し、もう片方でさっさと玄関の扉を閉ざした。あまり、彼女の姿を晒したくない、彼なりの配慮だ。続いて彼は、一旦海未を彼の部屋に連れて行くと、1人タオルを探しに脱衣所に向かった。海未の身体が濡れていることに気付いたので、冷やしてはいけないと判断したのだ。汗を拭くタオルと、身体を包めるほどの大きめのタオルを持って彼女の許へと向かった。

 

 

「そう言えば、海未から雨の匂いがしたな。雨なんて降ってたっけな?」

 

 ふと、彼は彼女から感じた香りに首を傾げた。今朝の天気予報では雨が降る可能性は皆無。にわか雨の心配もない晴れ模様だと、彼はハッキリ耳にしていた。服は濡れてはいたが、それが汗からなのは一目で分かる。なのにどうしてか、海未からそんな匂いがしたのか不思議だった。

 しかし、ここで立ち止まるよりも海未を優先させないと、と思い立つとさっさと駆けて行った。そして、このあとずっと、そのことを海未に聞こうともせず心に留めておいたのだった。

 

 

 

 けれど、確かに雨は、海未の身体を濡らした。曇天の空模様から、いつの間にか雨が降り出していた。そこからわずかばかりの雨粒が、瞳を通して頬をなぞった。

 

 

 

 雨は、降り続いた。

 

 

 

 

 

 

――

――― 

―――― 

 

 

 

「ほら、これでもかけとけ。風邪をひかれたら困るからな」

「はい……すみません……」

 

 蒼一は海未の肩に大きめのタオルを覆い掛けた。海未は一礼すると、それを深く着込みだし、雨合羽のように身体を包ませた。ちょうど、蒼一の部屋は冷房を利かせていたため、若干の肌寒さを抱かせる。海未は走っていた時よりも、体温を落としてはいるが、タオルに包まれているために身震いするほど冷えてはいなかった。

 もうひとつ、彼からタオルを受け取る。汗拭き用だと、羽織るこれとは別に用意してくれたのだ。ありがたく受取ったそれを、早速顔に当てて拭き始める。

 

 あっ、蒼一の匂い…、洗剤の匂いと混じって、微かに感じる彼の匂い。それが海未には心地良く、つい何度も顔に当てては深く吸い込んでしまう。さっきまで心を乱して泣いていた彼女とっての精神安定剤。もう彼なしでは生きてはいけない身体になっていることに、彼女は気付いていた。

 

 

「なにか、飲み物とか出そうか?」

「いいえ、お構いなく。体調がまだよろしくないのに無理はなさらないでください」

「そうか。なら、そのままということにしておくわ」

 

 海未からの注文がなかったため、彼はそのままベッドに腰掛ける。体調が良さそうには見えるものの、まだ完治している様子ではない。現に、寝巻代わりの甚平をこの時間まで着込んでいるのを見るに、先程まで睡眠をとっていたことを伺える。

 

「御邪魔だったでしょうか…? まだ寝ていたように見えますし」

「いいや、別に問題ないさ。風邪だって大分収まったし、熱や咳込むことも無い。ただ少し、身体がだるかったりして、そのまま休んでいただけだ」

「そうでしたか、よかったです」

 

 問題ないとする血色の良い表情を見て、ほっと気持ちが楽になった。倒れた時の顔色と比べると色鮮やかで、力がみなぎっているようにも見えた。これなら、明日にでも元の状態になってくれると彼女は思うのだ。

 

 だが、もし彼が戻ってきたとして、いまの海未たちのことを知ったらどう思うだろうか。ことりのこと、穂乃果のこと、そして、μ’sのことを知ったとしたら……。

 現状、まだ蒼一はこのことを知らないはず。もし知っていたとしたら、すぐさま行動に出て、膠着した現状を打破しているに違いない。けれど、行動を起こしていないのがすべてを物語っていた。

 

 

「今日で8人目だな、海未を入れて」

「えっ、どういうことです?」

「あ、いや、μ’sの中で俺の見舞いに来てくれた人数だよ。ちょうど、海未を入れて8人目だ」

「8人目?……ということは、誰か来ていないのですか?」

「あぁ、まだ穂乃果だけ来ていないな。まあ、病み上がりだし、こっちに来て再発したってなったら目も当てられんしな」

 

 一瞬、穂乃果だけ来ていないことを知ると、もしやと彼に迫った。

 

「ということは……ことりも来たのですか?」

「ああ、そうだ。みんなが見舞いに来てくれた日の午後にな。その前には真姫も来てくれたな」

 

 ことりが個人的に見舞いに来ていたと言うのは初耳だった。海未はあの時の通話では、ことりからそのことだけを一切聞かされていなかった。だとすれば、ことりは個人的な話をしたはず、そう思って蒼一に聞いてみる。

 

「何か、ことりは言っていましたか? 何か大事なこととかを?」

「いいや、別に。何かあったのか?」

「い、いいえ、特には…」

 

 深く聞こうとしたら、逆に聞き返されたので、慌てて会話途切らせた。これ以上、彼の詮索を受けてしまえば隠し事がバレてしまうことを恐れたのだ。

 

 

「海未、悩みごとでもあるのか?」

「えっ……と、特にありませんけど、どうしてです?」

「いやなに、やけに難しそうな顔をしているな、と思ってな。もしかしたら、海未()なのかって」

「私()?」

 

 海未は蒼一の話に疑問を持った。蒼一のその言い方では、まるで他のメンバーも同じようにしていたようにも聞こえたからだ。もちろん、海未自身も本当は悩みごとを抱えているが、無意識に顔に出てしまっていたのだと思い気持ちを引き締めた。

 

「初めは、ことりだったな。ちょうど、海未と同じような顔をしていたさ。その翌日は、凛と花陽が来て、その次の日には、にこと真姫が来た。そのまた翌日には、希と絵里が。そして、今日の海未と言うわけだ。みんな何故か暗い顔をしていたんだよなぁ。理由を聞いてもはぐらかされるし、何か隠してるみたいなんだ……」

 

 まずいです…、海未は固唾を飲んだ。止まったと思っていた詮索が、まだ続いてることに焦りが生じる。もし、彼に追求されれば、必ず口にしてしまいそうだ。そうなってしまったらどうなるのか……、息が詰まりそうになる。

 

 

「それでもう一度聞きたい。海未は何も知らないんだな……?」

 

 二度目の問いかけ。

 真っ直ぐに伸びた彼の鮮瞳(せんどう)が彼女の身体を突き通した。雑念が一切ない、本当に純粋な瞳が、海未を捉える。

 

 逃げ出したい…、彼女の率直な気持ちだ。あの瞳に照らされると、自分の嫌なところが全部見られてしまいそうで怖かった。もしかしたら、いま考えていることもわかってるのではないかとさえ気にしてしまう。

 

 

 いっそのこと、彼に全部話してしまいたい……、彼女の心は揺れる。

 そもそも、彼の許にやってきたのは見舞いのため、ではない。それは表向きの理由にすぎず、本当は、彼に慰めてもらいたかったのだ。溜まりに溜まったこの苦しみから解放して欲しいと、自然とこの足が彼の許に向かっていたのだ。けれど、それは仕方のないこと、仕方のないことなんだと言い聞かせている。

 

 だが実際、彼女は大きな悩みを抱えている。ひとりでは抱えきれないほどに。

 

 ことりのこともそうだ。

 穂乃果のこともそうだ。

 μ’sのこともそうだ。

 

 全部ひっくるめて、私に覚悟があれば…、と彼女は後悔し続ける。すでに過去のこととなってしまったいまでは、どうすることもできなかった。ただ胸中に押し込み、幾度と思い起こしては、後悔する。

 

 彼女はもう、耐えられそうになかった。どうしたら良いのか、わからなかったのだ。

 だから、彼の許に走った。彼女の心を唯一癒して、慰めてくれる最愛の人の許に。そうしてもらわないとだめなのだ―――

 

 

 

 

 

――心が壊れそうだったから――

 

 

 

 

 

 彼女は彼の前に来た。一心不乱に、彼を求めて、走ってきた。

 

 だが、海未は彼の前で口籠ってしまう。彼女はまた、躊躇った。彼のこれまでの境遇を思い起こしたからだ。

 海未の目の前にいる彼は、しっかり座った様子で真剣な眼差しを送っている。しかし、これまでにその身体は多くの痛みを負い、多くの傷を受けてきた。悲しみもまた、数多く知ったはず。

 

 それなのに、また彼を悲しませて良いのだろうか?

 こんな状態になった彼女たちを見て、彼はどう思うだろうか?

 

 そう考えてしまうと、到底言えるような内容ではなかった。

 

 

 この先に、いまよりもっと辛い結末が彼の耳に届くことになるにしても、だ………

 

 

 

 

「………っ……!」

「………ッ!? う、海未ッ?!」

 

 突然、海未が蒼一に飛び掛かった。不意の行動に、彼は思わず声をあげてしまう。すると、彼女はまた彼の胸の中に飛び込むと、両手で彼を抱きしめたのだ。強く、離れないように。

 不意を突かれたような海未の行動は、蒼一を困惑させた。1度ならず、2度も同じように飛び込んできたことに、何の意図があるのかと考え巡らせる。が、出てくる答えはどれも芯を捉えておらず、さらに混迷することに。

 

 そんな時だ―――

 

 

 

 

 

「すみません……何も言わないで、私を……抱きしめてください………」

 

 

 海未の、切なく絞られた囁きが、蒼一に届いた。

 一瞬、蒼一は目を丸くさせて彼女を見た。静かに震え、声にならないほどの嗚咽が彼の心を刺激させたのだ。

 海未の行動には、感情が伴っていた。思考では決して追い付くことのできない感情が、何かを求めているのだ。感情が求めるもの、それは糧。感情を、心を豊かにさせてくれる糧を求めているのだ。だとしたら、蒼一はどう動くべきなのか?

 すると、彼は考えるのではなく、感じることを優先させた。もちろん、心で、だ。そして、彼はひとつの結論を見出した。

 

 彼は小さく呼吸すると、抱きつく繊細な身体を包み込む。彼女を包んでいたタオルよりもやさしく、あたたかく、そっと寄り添った。無論、彼女が言うように無言のままで。

 多分、いまの海未は本当に繊細で、少しの衝撃を加えるだけで砕けてしまうだろう。なら、彼ができることはただひとつのみ。幼馴染として、親友として、恋人として、海未を迎え入れるだけだった。

 

 彼のやさしさに感化されたのか、彼女は張り詰めていた心を緩ませると、安らかな気持ちとなっていく。彼の胸を揺りかごのように身を預け、彼の心音を子守り歌のようにとし、一時の安らぎを得る。次に起こる最悪よりも、一瞬の安らぎ得ることほど罪なものは無い。だが、この一瞬だけでもしがらみから解放されると言うのであれば、十分なことなのだ。

 それこそ、彼女の思うままにさせておきたかったのだ。

 

 

 

 唯一、彼は海未の言葉に反して口にする。彼女だけにしか聞こえない、小さなちいさな約束を―――

 

 

 

「……もし、また困ったことがあったら、俺のとこに来な。いつでも、待ってるから……」

 

 

 彼女はその言葉を受け取ると、わずかに頷くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女から、雨上がりの匂いがした―――

 

 

 

(次回へ続く)




ドウモ、うp主です。

夏も終わりに近づき、この章も終わりにへと近付いております。
残りも6、7話くらいかなぁ…?
それでも、10月前後を目途にしたいところ。。。


それでは次回もよろしくお願いします。

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