パラケルスス。
歴史上に名を残す彼の功績は輝かしい。
賢者の石の錬成、四大精霊論の構築、ホムンクルスの創成、錬金術三原質の再発見。各地を放浪し、その先々で助かる見込みのない病人を治した。
錬金術は科学を招来した。パラケルススは現代社会において欠かせない、とある偉業を成し遂げている。
錬金術師の最終目的は卑金属を黄金に換えること、不老不死を実現する賢者の石を創成することだ。
しかし、パラケルススは錬金術に異なった可能性を見出していた。
それこそは、錬金術によって鉱石などから病気の治療に役立つ医薬品を創り出すことである。ルネサンス初期において彼は、『医療化学』の概念を創始したのだ。
欠点があるとすれば、彼の発言と行動はあまりにも傲岸不遜だった。名前である『ボンバストゥス』に誇大妄想狂の意味が付け加えられるほど、敵も多かった。
故に天涯孤独。
貪欲に知識を追い求めて各地を遍歴したがために、友人も愛する者もいない。ただ、彼には一人だけ自分の血を、生命を、遺伝子を分けた存在がいた。
第一号のホムンクルス。
ヒトの精液を蒸留器に入れ、40日間密閉し腐敗させる。すると、人間のカタチをした透明なモノが現れる。
ソレに人間の血液を毎日与え、馬の子宮と同じ温度でさらに40週間保存するとホムンクルスの完成。
パラケルススはこれを自身の精液を用いて行った。
結果、彼は世界最初のホムンクルスに賢者の石で創った強靭な身体を与え、己の後を継ぐ弟子としたのである。
名はオプリヌス。
史実では通常の人間とされているオプリヌスだが、歴史には往々にして裏がある。
〝私には他人を愛することができない。頭では分かっていても魂がそれを拒んでしまう。私には……私には、『愛』を理解することができないのだ〟
パラケルススは自分と同質の存在であるオプリヌスに、たった一人の弟子だけに独白した。
数々の偉業を成し遂げた錬金術師は、その頭脳と功績と能力に吊り合わないほど、精神が不熟だった。まるでホムンクルスのように。
彼は愛を知らない。
自己愛すらも気の迷いだと断ち切ってしまう。
そこに起きるのは自我の分裂に似た現象だ。自分のことが愛おしくない人間なんて、どこにもいない。
もし心の底から『他人のために全てを投げ出せる』と言えるようなヤツは、盲目的な偽善者か異常者か嘘つきだけだ。
パラケルススが血を分けた存在であるオプリヌスを愛せなかったのは、とことん何もかもを信用していなかったからだろう。
オプリヌスは後にこう記した。
『学者としては天才だが、人間としては三流』―――言い得て妙であるこの言葉は、パラケルススの本質を浮き彫りにしている。
愛を理解できない彼はこの世に絶望していた。
だからだろうか。
彼の終わりは実に呆気無く訪れた。
肝臓病。ヨーロッパの風土病でもあるこの病気に身体を侵され、稀代の錬金術師は彼岸に旅立つ。
やろうと思えばいくらでも手の打ちようはあったはずだ。
賢者の石に医療知識。医療化学を創始した彼に肝臓病を治せないわけがない。
パラケルススの心情を理解できたのは、やはり同じ精神を持つオプリヌスだけであった。
目に映るモノ全てが無機質に見えてしまう世界に。
敬虔なカトリック教徒であるはずの自分が『愛』を理解できないことに、彼は絶望していたのだ。
きっと、パラケルススが歩んだ世界には、誰も到達することはできないだろう。
「師匠……」
夜空に輝く無限の星を眺め、世界最高の錬金術師の遺産は一人呟いた。
わかっていた。
あんなヤツを殺しても、行き間違えた道は何も変わらないことくらい。
わかっていた。
人間としては三流のパラケルススでも、こんなことは望んでいないことくらい。
わかっていた。
あれほどに上終を憎んでいたのは、安っぽいプライドを壊されたからじゃない。
似すぎていた。
ホムンクルスとしての境遇。
どうすることもできない周囲の状況。
そして『誰かを救いたい』―――パラケルススが、オプリヌスが捨ててしまった幻想を追い掛ける姿が。
本当は知っていた。
パラケルススが自分という存在を創り出したのは、なにも人類のためだとか研究成果の誇示だとかじゃない。
自分自身から産まれた、限りなく近い存在なら愛することができるかもしれない。そんな淡い幻想のために産まれたことを。
パラケルススの一番の不幸は才能に見合わない心を持ってしまったことだ。
苦悩して。
苦悩して苦悩して。
苦悩して苦悩して苦悩して。
それでも届かなかった愛の極地。
「……それがどうした」
オプリヌスは切り捨てる。
親であり師匠であったパラケルススが死んだ瞬間から、彼はその人の名前を名乗ることにした。
今はもうパラケルススの顔すら忘れてしまったけれど、それを哀しいとは思わない。
賢者の石を使ってまで生きながらえ、現代にいる。果たして、そのことに意味はあったのか――?
……カツン、と硬質の足音が背後から鳴る。
聴いた耳を疑った。
見た目を疑った。
信じた自分を疑った。
途端に圧縮された速度の思考へと切り替わる。手に入れた五感の情報を一瞬にして肯定し、必殺の剣を紡ぎ上げる。
ゴォッ!!!という轟音が激震を引き起こし、虹色の大剣が曲者を襲う!!
―――ソイツは笑っていた。
今にも死にそうな笑顔で。
今にも消えそうな身体で。
ただただ何よりも力強く、拳を振り上げる。
『止まる』。
以前は圧倒していた四大元素の剣の一撃が、いとも容易く停止させられた。
渾身の力で虹色の刃を叩きつけようとするが、呼応するように止める力も強くなり、完全な均衡が作り出される。
ちょうど額の前で止まっている刃に、右の五指がガラスを割るような音を立てて食い込んでいく。
バキバキバキ……と静かに崩壊していく四大元素の剣。最強の剣が砕けていく様に、オプリヌスは思考を硬直させた。
「パラケルスス、お前は――――」
吹けば飛んでしまいそうな弱々しい声。
そのはずが、今まで見てきたどんな場面の彼よりも『強さ』を秘めている。
彼は。
上終 神理は。
揺るがぬ意志で断言する。
「―――
バギン!!と虹色の粒子が散った。
爆発四散した虹色の珠が廊下を埋め尽くし、幻想的かつ儚げに世界に彩りを加える。
そんな中で二人は互いを見据えた。
オプリヌスは倒すべき敵を。
上終は救うべき人間を。
偽りのヒーローは口を開く。
「オレたちは同じ存在だ。今ならどうしてお前が『上終 神理』を嫌っていたか理解できる。……オレも
理解が追いつかない。
どうして生きているのか。どうして四大元素の剣を打ち破れたのか。どうして、どうして、どうしてここまで成長しているのか。
実力の話ではない。
成長しているのは精神だ。
これまでの不熟だった彼の精神が、飛び降りる前とここにいる現在とでは別物と言って良いほどに飛躍している。
しかし、宿ったのは歪んだ信念。
人間からはかけ離れてしまった思考に理念。
「だが、オレは死ぬわけにはいかない」
彼には使命がある。
歪めてしまった人々の罰を受けるという使命が。全ての贖罪を終えたその後、世界のために死ぬ。
だから、いまは死ねない。
死ぬために死ねない。
「……ナメてるのか。ふざけんじゃねえ、あの時死ぬって決めたんなら死んどけよ。その結果がコレか? テメェの独り善がりでボクを語ってんじゃねえぞォォォッッ!!!!!」
オプリヌスの周囲を飛び回る四色の精霊のうち、『火』を司るサラマンダーが炎の壁を放つ。
四方八方を呑み込む炎の津波。
上終が右手で止めればそこからの行動は制限され、止めなければ炭の塊と化すだろう。
回避は不可能。どちらの選択肢を取っても悪手となる悪魔の問い掛け。
轟!!と唸る極炎は激情した錬金術師の意識に空白を生じさせるほど、あっさりと上終を呑み込んだ。
死んだ。……こんなに簡単に?
(ありえない! アイツは『死ぬわけにはいかない』――そう言っていた!!)
炎が途切れる。
黒く焼け焦げた廊下。ところどころに残った炎が踊り、火の粉をまき散らしていた。そんな地獄絵図の中央にありながら、立ち尽くす人影があった。
ばさり、と布が風に揺られてはためく。
「これが『絶対非干渉』」
上終は右手で盾のように広げていた上着を羽織り直す。彼には火傷ひとつ付いている様子はない。
明らかにおかしい反応だ。
『
全体が同時に停止する分、力を発動したという証拠もつかみやすい。だったはずが、今のは『止めなかった』反応。
炎の津波が指定された向きをただ過ぎ去ったのだから、上終が力を発動したはずがない。
(……!?)
オプリヌスは魔力の流れから察知する。
上終の右手の力は手首から先しかないことは変わらないが、周りに放出している力もあったはずだ。
それが『触れずに止める』方の力であり、精々が移動速度をほんの少し遅らせるだけの取るに足らない力だった。
(無い。アイツには放出していた力が無い!!)
果たして、それは退化なのか。
否だ。
放出していた力は失われたのではなく、元の器に還っただけ。
つまり、『触れずに止める』のは上終が未熟だったゆえに、右手に力を留めておけなかったということ。
「いくぞ、パラケルスス」
告げる。
右の拳を握り締め突貫する。そこにはかつてないほどの力が込められていた。
単純な筋力ではない。
失われていた自分の一部分が戻ったような、言葉には出せないながらも確実とした奇妙な感覚。
これが『天地繋ぎ』。
以前までの力は劣化した姿だった。事ここに至り、上終はようやく右手に宿った力のことを理解できた。
〝神理〟
「ああ」
絶対干渉の剣が振り下ろされる。
この世の全てを切断する一撃必殺の斬撃に対し、上終は迷わず硬く結んだ拳を叩きつけた。
耳をつんざくような轟音。引き起こされる結果は、剣の崩壊というカタチで表現される。
「なんだ、その右手は……!?」
「さあな。オレが理解できたのはこの力の性質だけだ。正体は見当もつかない」
――届く。
オプリヌスに肉薄する。
間合いに入った上終は、彼の顔面めがけて拳を力の限り振り抜く。
「くっ…『
顕現するは『絶対非干渉』の絶対防御。
天井と床についてしまうほど巨大な円盾は、もはや堅固な城壁と言い換えても良い。
その防御力は城壁とは比べ物にならない。ただ自己完結しているために、如何なる干渉も攻撃も通用しない『絶対非干渉』の体現だからだ。
世界の法則を再現した楯は事実、核ミサイルを持ち出しても貫くことは叶わないだろう。
ソレがこの世界に存在するモノならば、この防壁を貫通する道理は存在しなかった。
そう。
まるで薄氷を砕くように、絶対非干渉の楯は呆気無く砕け散った。
「ごっばっ……!!!??」
オプリヌスの顔面に拳が突き刺さる。
予期せぬ不意打ちは見事に彼の脳まで衝撃を伝わらせ、意識を一瞬ながらも剥奪した。
揺らめく視界で繰り出される上終の追撃を認めたオプリヌスは、強化した脚力で以って後方へ飛び跳ねた。
「テメェ、それはまさか――ッッ!!」
錬金術師は獰猛に上終を睨みつける。
同時に差し向けられる押し殺すような殺気。その只中にあって、上終は静かにただただ静かに言った。
「これが『絶対干渉』」
確かめるような一言。
右手を閉じたり開いたりして、彼は自嘲気味に微笑む。
「だから言っただろう、オレたちは似ているって」
その時。
オプリヌスのなかで決定的な何かが盛大に弾けた。
起きるのは無数の光の乱舞。粉砕されていく絶対干渉の剣をその瞬間から再生させ、両者の間に数えきれないほどの火花が散る。
賢者の石の魔力精製を限界まで稼動させた荒業が許した所業だった。
全身の血が沸騰し、一歩破綻すればそれこそ全身の血管から鮮血が吹き出してしまいそうな望み薄の綱渡り。
それでもほんの少しだけ残されていた冷静な部分は、あの右手の考察を進めていた。
(
だが違和感。
ヤツの右手は何を由来としているのか。
ただ止めるだけだった右手が、絶対干渉の性質を獲得した。それだけなら許容できる。
『絶対干渉』と『絶対非干渉』。
その有り様はまさに『世界』のようではないか。
有り得ない、認めない、受け入れない。
なぜなら、世界が世界に干渉することなど、あってはならないことだからだ。
世界全体の性質は絶対非干渉。この世界が歪んだのは、上終がその悠久の流れを破壊したから。
「そうか、アイツの正体は『ソレ』だ」
答えに至る。
それと同時に湧き上がる新たな疑問が解かれることはなかった。
目と鼻の先に迫ってきていた上終。振りかざされる右手に対して、オプリヌスは氷の障壁を作り上げる。
炎の壁が通用しなかったのなら、単なるエネルギーではなく物質的な壁なら通じるはずだ。
(力を使うのなら使ってみせろ!! その瞬間に爆発させてやる!!)
バン!!と右手が氷の障壁を叩いた。
サラマンダーの温度操作を駆使した氷の昇華爆発――氷柱とは比べ物にならない質量のそれを解き放てば、上終は跡形も無く吹き飛ぶ。
というのは、あくまで仮定の話だ。
温度操作で氷を水蒸気へと昇華させる。そのはずが、障壁は相変わらずの冷たさと硬度を保っていた。
干渉できない――!?
氷に隔てられた向こう側で、上終の口が動く。
「今までこの力のことを勘違いしていた。……オレの絶対非干渉はただ止めるだけじゃない」
オプリヌスは瞠目する。
上終は不敵に笑う。
「『
右手が氷の障壁に突き込まれる。
止めたモノに干渉する力。
それが上終の絶対干渉だった。
縦に破断していく障壁の隙間に身体を滑り込ませ、上終とオプリヌスの視線が交錯する。
「今更ボクを救えると思うなよ」
「ああ、そうだろうな。だったら、お前を倒してからだ。この戦いが終わった後で救ってみせるさ」
やはり、相容れない。
彼らの関係の着地点はそこにしかない。
『納得』を手に入れるためには、この二人は戦うしかないのだ。
正真正銘、最後の戦いだった。
「「―――!!」」
駆け出す。
オプリヌスはアゾット剣を投げ捨て、両の拳を力強く握り締めた。
四大元素の剣も楯も通じないことが分かっているからこその行動。上終は一瞬目を見開くと、両腕に力を込める。
ドゴォッ!!!!と粘ついた衝撃音が鳴り響く。
両者の拳が同時に突き刺さった音だった。
上終はあえて右手の攻撃をエサとして、左の一撃を叩き込んだ。オプリヌスはそれを受けながらも右ストレートを差し込む。
嗚咽する暇も悶絶する時間もない。
身体の芯に蓄えられた鈍痛をそのままに、一心不乱に腕を振るい拳を打ち付ける。
右手で触れられれば決着がつくオプリヌスが、上終と互角以上の戦いを繰り広げられているのは魔術による身体強化の恩恵だ。
型も構えも何もない泥沼のような殴り合い。
人に造られた人間。
神に造られた人間。
彼らに明確な差は存在しない。
人も神も結局は私利私欲で動くだけの生き物だ。当然、それが自我を持つ者の宿命であるのだから責めることはできない。
だというのなら、彼らは何を懸けて戦うというのか。
錬金術師を救う。
天地繋ぎを殺す。
とどのつまりはそこに尽きる。
故に、この戦いは自己を懸けた戦い――!!
「おおおおおおおォォォッ!!!」
ゴドン!!と重苦しい打撃が鳩尾に吸い込まれる。
強化の乗った拳撃はそれだけで上終を後退させ、その隙を突いてオプリヌスの膝が飛んだ。
戦況は錬金術師の優勢。
殺意の乗った打撃は着実に確実に上終の命を削り取っていく。
手も足も出ないというのに、彼は膝をつくことも倒れることもしなかった。既に死に体と化していながらも、瞳だけは死んでいない。
肉体と意識が剥離したような感覚。
脳の指令に手先が追いつかない。徐々に肉体と隔絶されていく感覚は、先程実感した『死』を思い知らせてくる。
彼をこの世に繋ぎ止めているのは、これまでの人生で出会ってきた人たちの姿だった。
彼女たちのためにも死ねない――そのことをもう一度思い知ったその時、上終の拳に神経が通う。
オプリヌスの放った一撃が脳を揺さぶった瞬間、上終の渾身の左拳が顔面正中線を叩き潰した。
「ごぶっ…!?」
血に溺れる。
繰り出した回し蹴りを右腕で防がれ、上終の頭が目前まで接近する。
叩き落とすような頭突き。まともに受けたオプリヌスの態勢が崩され、視界の端で上終の五指が畳まれるのを眺めていた。
「……パラケルスス。お前がオレに救いを望むなら――――」
「あ」
錬金術師の口から声が漏れる。
眼前に迫り来る拳がスローモーションのように近付く。おそらく、これをくらえば敗北は確定するのだろう。
到達するまでの一瞬の刹那。
彼は親の横顔を見た。
深いしわが折り畳まれた痩せた顔。長く大量の白い髭が胸の辺りまで伸びている。
その瞳はまさに、上終のソレと良く似ていた。
パラケルススのコピーがオプリヌスであり、彼と上終が似ているのならパラケルススと上終に共通点があってもおかしくはない。
(ああ、ああ……そうか)
目を伏せる。
これで良い。
あの人の顔を思い出せた――それだけで。
「その幻想を護り抜いてみせる!!!」
オプリヌスは意識を手放した。
必死に意識を手繰り寄せ、壁にもたれかかって姿勢を維持する。
まだ止まってはいけない。
ここで戦う二人の仲間のためにも。
圧倒的に上条さん成分が足りないですね。流石に今回に差し込む余裕はありませんでした。
それでは、次回もお会いしましょう!