迷いはなかった。
戦うことに抵抗はない。
これまで何人も殺し葬ってきた。
あったのは、躊躇い。
殺しの技術を、あの子に向けるというコトに対しての罪悪感。彼らにストッパーをかけていたのは、その罪悪感に他ならなかった。
今まで散々傷つけて、大切な記憶を奪ってきた自分たちが暴力を差し向けるというのか。
だが、それももう断ち切った。
全てを背負って前に進むために。
上条 当麻の憤怒を聴いた。
上終 神理の独白を聴いた。
上里 翔流の応援を聴いた。
その時。
彼らは己の魔法名を殺し名としてではなく、ただただ純粋な願いを込めて叫んだ。
「『
宣言する。
魔力を生み出す気力すら失っていた。
戦意や救う意志なんて、完全に思考から解き放たれていた。けれど、彼を支える三人のヒーローがいたから。
魔法名。
それを名付けたとき、ステイル=マグヌスという少年は想ったのだ。
せめて、あの子の前でだけはカミサマにも敗けない最強になる―――と。
「『
宣言する。
聖人の力なんて引き出せやしない。
だけど、そんな力なんて意味がなかった。たった一人の大切な友達が護れないようで、何が聖人か。
故に、今この瞬間。聖人としてではない、もうひとつの強さで以って戦いに臨む。
彼女は刀を抜き放つ。
すべてを取り戻すために。
人間としての強さで立ち向かう。
「く、は」
気づけば、五人の口角は吊り上がっていた。
黒い亀裂から絶え間なく溢れ出す野性的な獣臭は、それこそ十万三千冊の原典が無ければ理解が及ばない。
……それが、どうした?
たとえ本物の天使だって関係ない。
たとえ本物の悪魔だって上等だ。
たとえ本物の神様だって乗り越えてやる。
理解の及ばないモノ―――その程度を倒すだけで、インデックスという少女は確実に救われるのだから!!
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」
思わず笑いが溢れてくる。
その声はこの場の全員から放たれていた。
あれほど待ち望んだ結末。
コイツの先にそれがあるのだから。だから、彼らの身体の震えは恐れなんかではない。
歓喜だ。
誰もが満足できるような最高のハッピーエンドを、今まで何度もその手中から離れてきた幻想をようやく手に入れられる。
こんな分かりやすい悪役なんかに敗けはしない。
そんな意思の発露を押し潰すかのように、黒い亀裂から数えきれないほどの光の柱が飛び出す!!
右手が踊る。
理想送りが視界内の光の柱を消し飛ばし、幻想殺しと天地繋ぎは拳を叩きつけた。起きるのは光の乱舞。
強引に方向を捻じ曲げられた光の柱が、他のモノと衝突を起こして安全地帯を作り出したのだ。
そこに出来上がるのは道。
「「「行け!! ヒーロー!!!」」」
走り出す。
夢にも見た栄光の架け橋。
しあわせな未来。そんなの、誰だって望んでいたはずだった。
彼らが願ったのは小さな幸せ。
自分のためじゃない。
たった一人の女の子に捧げる小さな祈り。
ああ、と彼らの口からため息のようなモノがこぼれた。
案外、神様ってヤツは小さいのかもしれない。
ずっと、この世界は欠陥品だと信じてやまなかった。神様がもう少し本気を出して、より良い世界を創っていてくれたならこんな悲劇は起きなかったはずだ。
アダムとイヴが知恵の実を食べてから。
この世界は悲劇に包まれていた。けれど、それでも、神様を唯一褒められる点があるとするならば。
世界を創り出したこと。
これ以外に彼の功績は存在しない。
今や世界が生み出した三人の少年たちの手により、救いへの道は切り拓かれたのだ。
魔術師はルーンを燃やす。
生命力だけではなく、己の燃え上がる生命そのものを叩き込んだ最強の炎の剣。
聖人は刀を振りかざす。
使える術式をありったけ費やし、何にも敗けない強い想いを宿した最高の一刀。
彼らは真っ直ぐにインデックスを見据える。
ずっと待ち焦がれていたんだ、こんな展開を。英雄がやってくるまでの場つなぎじゃない。主人公が登場するまでの時間稼ぎじゃない。他の何者でもなく他の何物でもなく。自分のこの手でたった一人の女の子を助けてみせるって誓ったんだ!!
ステイル=マグヌスと。
神裂 火織は。
顔を見合わせてコトバを交わす。
「……ずっと、主人公になりたかったんだ。絵本みたいに映画みたいに、命を賭けてたった一人の女の子を護る、そんな魔術師になりたかった」
「……私もです。私もあの子を救えるくらいの魔術師になりたかった。だから、ここから始めましょう。ちょっとくらい長いプロローグで絶望してる暇はありません」
ふふ、と二人は笑む。
つまらない建前を捨てて、年相応の明るく快活な笑みをつくりあげる。
彼らは、救いを見た。
「
「
瞬間。
「――警告、第六章第十三節。新たな敵兵を確認。戦闘思考を変更、戦場の検索を開始……完了。現状、最も難度の高い敵兵『ステイル=マグヌス』『神裂 火織』両名の破壊を最優先します」
ゴオッ!!!と十万三千冊の叡智を詰め込んで現出した赤黒い光の柱が、二人に襲い掛かった。
「「――っ、おおおおおおおおあああああああああああああああッッッ!!!!」」
振るう。
ギィィンッ!!!という金属質の轟音が鳴り響き、二人の渾身の一撃とインデックスの破壊の一撃は拮抗していた。
塗りつぶしていく。
白銀の抜刀が燃え盛る炎剣が、絶望の光の柱をわずかだが押し返し始める。
ミリ単位の変化。視覚情報ではほんの少しの変化はしかし、人の身で竜王の攻撃を弾き返すという偉業を達成しつつあった。
『竜王の殺息』――それはかの聖ジョージの伝説にも残る神話の一撃である。
リビアのサレムという街の近くの湖に住まうドラゴン。怪物は牛と羊を生贄として要求し、街の人々は難を逃れていた。しかし、街中の牛と羊がいなくなり、次にドラゴンが指名したのは街中の娘たちだった。
いよいよ王女までを差し出すという時、サレムに訪れたのは聖ジョージ。彼はドラゴンの話を聴くやいなや、槍と剣で以ってドラゴンに戦いを挑んだ。
さて。
ここに神話の再現は確立する。
竜王の殺息に対し、少女を救うべく剣で以って受けて立つ勇者。それがどんな魔術的意味を持つのか、インデックスにわからないはずがない。
彼女の誤算は三人の少年に気取られていたこと。真の敵を違えていたことこそにある。
「――警告!! 第九章第十六節! 特定魔術の設定を変更、敵兵の術式解析を開始……完了。それに対する殲滅魔術の構築を開始……」
あの膨大な力を振るうインデックスが。
黒い亀裂から漏れ出す気配は獣臭に留まらず、もはや濃厚な殺気にまで昇華していた。
「……………完了。『創世記』第六章から第九章第十七節より引用、対生物用殲滅魔術『ノアの洪水』発動まで五秒」
竜王の殺息なんかとは比べ物にならない、計り知れない神域の力が噴出する。
先触れとして現れるのは水の噴流。
ただの水ではなく、神の暴力を再現した水はそれだけでアパートを倒壊させた。
ビギビギバギバギッッ!!と木造の建築物が、強大な圧力に耐え切れずに崩れ落ちていく。
降り注ぐ木片と瓦の破片を、上里が右腕を振るうことによって打ち消す。
「――!!」
狭いアパートがボロボロに倒壊することで、開けて周りの風景が見えてくる。
そこは外界と切り離された場所だった。
蒼く透き通る巨大な半球の壁が、アパートがあった一帯の広場をぐるりと取り囲むように配置されている。
天上より降る月光を乱反射するその結界内は、昼下がりの聖堂さながらの荘厳で静かな威容だ。
レイヴィニア=バードウェイ率いる明け色の陽射しによる儀式魔術。
上終は顔いっぱいに喜色を広げて、黄金の少女を見やった。
「君は……本当に……!!」
「別にお前のためじゃないさ。そこの『禁書目録』を救う――そう決めただろう?」
そう言ってそっぽを向くレイヴィニア。彼女は魔術を使って、アパートでの戦いを傍観していたのだ。
いよいよ『ノアの洪水』の本領が発揮される。この場に居合わせた人間どころか、学園都市すらも呑み込んでしまいそうな洪水が世界を席巻する。
ヴンッ!!と洪水の嵐が多重にブレる。
まるで画質の悪い映像のように鳴動する波は、何かを振り払うような強引さで人間たちに突っ込んだ。
だがしかし。
逸れる。
大海を割るモーゼの如く、極大の奔流が二つに分割され、生物を押し流す絶望の洪水の脅威が消滅した。
「――警告、『ノアの洪水』術式に異常を確認。原因を調査……判明。ノアの箱舟と見立てた結界による威力の減衰……術式の逆算を行います」
『ノアの洪水』の完全消滅よりも早く、インデックスによる維持が行われた。莫大な魔力を駆使した力押しだが、単純な方法だけに打ち破る方法は少ない。
彼女の背後から伸びる二つの水の奔流に力が加わっていく。
「させないよ」
背後から響く声。
インデックスは即座に振り返り、そこにいた者たちの顔を見て驚く。
ステイルと神裂が各々の武器を、彼女に向けて躊躇いなく叩き下ろす。否、背中に伸びる水の奔流に。
斬り散らされ、吹き散らされた水が辺りに飛び交う。ステイルはその中で後ろを振り返りながら言った。
「行け、上条 当麻。君の手で終わらせてみせろ」
「―――任せろ!!!」
飛び込む。
一滴一滴が突き刺すような威力を秘めた、終末の雨に突き進んでいく。
身体の至る所に傷がつけられるが、全く気にしない。痛覚という感覚が飛んでいたのか、激痛に身をよじらせることもなかった。
救える。
あの少女を救うことができる。
上条はなにもかもを手に入れようとはしなかったが、最後に手に入れたいと望んだモノがあった。
それは、インデックスの笑顔。
(この
故に、彼は右手を叩きつける。
黒い亀裂の向こう側に住まう怪物に。
(――――まずは、その幻想をぶち殺す!!)
貫く。
全てを苦しめてきた怪物があっさりと引き裂かれる。
「―――――警、こく。最終……章。第、零――……。『 首輪、』致命的な、破壊……再生、不可………消」
ブツン、とインデックスの声から音が消えた。
その後に残るのは、月光に照らされ散っていく水滴だけ。こうして、上条 当麻の長い長い一日は終わりを告げた。
七月二十日。
科学の街、学園都市でとある事件が起きた。
まずは学園都市を監視する衛星の一つが、地上からの謎の光線によって撃墜されたこと。
これにより学園都市の平和を守る『
加えて、学園都市第七学区にあるアパートの倒壊。もともと老朽化の進んでいた建物ではあったのだが、壊れ方が尋常ではなかった。
見事に粉々にされており、現場の周囲に大量の破壊痕と水が付着していたことが明らかにされている。
コンビニによくあるようなゴシップ誌には格好のエサだったのか、『超能力者の暴走!? 現場住人のEさんに徹底取材!!』みたいなアオリで書かれていた。それなりに部数は伸びたようだ。
それはそうとして。
同じく第七学区に存在する大学病院の一室に、彼らはいた。
現在は七月二十日から三日後の七月二十三日である。
「……ダメだ。なんというか落ち着く」
自己嫌悪の声を漏らす上条。
暴走したサムライガールとトンデモ水流による切り傷と貫通傷が酷かったらしく、一切の身動きが取れない状態だ。
「勝手に落ち着いてるところ悪いんだけど」
「?」
「そこ、テレビが倒れてくるぞ」
「ギャアアアア!? 不幸だーっ!!」
やはり神様は意地悪だった。むしろ、上条の右手が絶好調なだけだったのだが。
上里は引きつるような笑みを浮かべる。
どうしてこうも彼は自分と似ているんだろう、と。考えていてもわかりはしないが、上里は嬉しいような悲しいような感情を抱いた。
しかし、固定されているはずのテレビがちょうど倒れてくるなんて、どんな不幸をしているのだろう。
「……あの子は?」
何の気なしに上里は訊く。
「ああ、それはだな――」
あの戦いの一日後。
目を覚ましたインデックスはカエル顔の医者の世話になったあと、赤髪バーコード神父とサムライガールと相対していた。
といっても一触即発の空気ではなく、深夜のようにしんみりとした雰囲気が漂っている。
彼らは、全てを話した。
記憶喪失のこと。
イギリス清教のこと。
そして、記憶を失う前のインデックスと自分たちのことを。
彼女はただひたすら聴き入っていた。
二人の独白をどこまでも素直に、それこそ教会のシスターのように、包み込む優しさで。
最後の一言。
それを言い切ったとき、インデックスは言った。
「……あなたたちと関わりがあるってこと、知ってたかも」
え、と。
疑問を込めた吐息が漏れる。
薄い胸に手を当てるインデックス。彼女は聖母を思わせる微笑みで、少しずつ語っていく。
「私が記憶を失ったのは事実だけど、それは『思い出』だけだから」
人間の記憶の仕方とは複雑だ。
言葉や知識を司る意味記憶。
思い出を司るエピソード記憶。
だが、これらの記憶を語る前に、人間の記憶には大きな二つの分類分けをすることができる。
手続き記憶と陳述的記憶。
二つの違いは明確だ。
手続き記憶は身体が、陳述的記憶は脳が覚える――といった風に。もちろん、手続き記憶には脳が深く関わっている。
後頭部の下側についている小脳と呼ばれる部位が、この手続き記憶を司っているのだ。記憶喪失の人間でも、腕や脚の動かし方がわからないなんてのはありえない。
それは小脳が運動の慣れを蓄積しているがため。
人間の脳とはあまりにも複雑。古代エジプトでは鼻水を作るだけの臓器と考えられていたことからも伺えるだろう。
だから、インデックスに『あの時』の記憶があってもおかしくはない………?
「なんて言うのかな……忘れてるはずなのに、あなたたちの顔を見てると胸の奥がいっぱいになるの」
そんな都合の良い幻想は存在しない。
彼女の思い出は魔術によって、跡形もなく消し去られているのだから。
だが、残酷な現実は純粋な現実に打ち消されるべきなのだ。
カエル顔の医者は言っていた。
〝人間の記憶を完全に消去する、だって? そんなのはありえないね? どんな記憶媒体にだって必ず復旧のメドはあるだろう? 人間の脳とは言わば超高性能な有機的なコンピュータなのさ〟
人間の脳を『モノ』として扱うカエル顔の医者に、インデックスは憤慨したものだ。
その旨を伝えると、彼は孫を見守る祖父のような笑みをたたえた。
〝それなら、医学的な視線で説明してあげるよ? 人間の記憶には――――〟
インデックスは完全記憶能力者だ。
街角ですれ違う人の顔から摩天楼の風景まで、全部写真で撮ったように覚えることができる。
無論、人の言葉でさえも。
彼女はうまく伝えることができなかったから、カエル顔の医者の言葉を借りることにした。
「人間の記憶には短期記憶と長期記憶の二つがあるんだよ。どっちにも『海馬』っていう部分が関わってて、それが記憶において大切な働きをする」
短期記憶と長期記憶は文字通り、短期的な記憶と長期的な記憶だ。
アルツハイマー病ではこの二つの記憶を整理する海馬に支障をきたすことで、症状が引き起こされる。
少し難しい話をしよう。
記憶は海馬によって仕分けされ、その中で必要なモノや印象的なモノだけが『大脳皮質』という部位に溜められる。
大脳皮質とは長期記憶を保存する場所だ。
初恋の記憶がいつまでたっても色褪せずに残っているのは、大脳皮質に長期記憶されているから。
十万三千冊の原典の記憶も大脳皮質にあるといってもいいだろう。彼女が原典を憶える旅に一緒に居たのは、他でもないステイルと神裂。
それはインデックスにとって何物にも代えられない大切な大切な記憶。
〝君はその二人のことを大切に想っていたんじゃないかい? 大脳皮質へのダメージが少なかったら、ね?〟
イギリス清教には十万三千冊の知識は何よりも優先するべきモノ。だから、一概に記憶を消すといっても、その知識だけは忘れさせてはいけなかった。
―――人間の脳は複雑だ。
科学で全てを解明できていないのだから、魔術で知り得る範囲は少ない。彼女の記憶を消したとしても大脳皮質に残る十万三千冊の記憶は、ステイルと神裂との記憶は今もなお存在するのかもしれない。
インデックスはそのことを二人に伝えた。
「けど、それは忘れてるのと変わらないとおもう。だけど―――」
その可能性を否定することはできない。
たとえ脳が覚えていなくたって。
彼女という人格を形成した二人との記憶が存在しない、なんて言い切れない。
そんな優しい幻想。
その幻想を誰が殺すことができるというのか。
誰もが満足できるハッピーエンド。大人たちはさも判ったように否定するけれど、人間はそれを信じるべきではないのか。
脳が。
物質が。
何もかもに存在しない記憶。
「――だけど。私は覚えてるよ、ステイル、かおり」
それでも、優しさを忘れてしまった人はこう言うのだろう。
〝脳に記憶がないのなら、どこに記憶が残ってるというんだ?〟
こんなつまらない理屈。
少女は簡単にひっくり返すことができる。
「心に、みんなの記憶は残ってるから」
七月二十日。
上条 当麻は三人の少年少女を救った。
こんな結末があっても良い気がします。インデックスたち三人の関係にもっと救いを与えたかったので。
次回は……姫神さん、あなたはお休みです。