遅めの昼食後に急にラスルに呼ばれた。
なんだろう、もうちょっとしたら日本語の授業なんだけど。
出張していたイヌワシが帰って来たという。イヌワシは今、新規事業の開拓で飛び回っている。
「何か話があるそうだぞ」
それを早く言え。走る感じで父のもとに行く。ラスルもついてくる。
「おかえりなさい、イヌワシ」
「うんただいま、イブン」
ワイシャツ姿。ちょうど着替え終わったようで、ネクタイをしめ直していた。
相変わらずの自然体だ。でもちょっと戸惑ってる風。
「あのね、イブン。帰ってきたらキャンプ全体に頭にタオルを巻くのが流行ってるようなんだけど、理由がわかるかい?」
わからなかった、下を向いた。情報収集能力が低いと思われたかもしれない。
「わかりません・・・」
搾り出すように言う。
そして流行にのった自分を恥じた。自分もタオルを巻いていた。
「じゃ質問を変えよう。イブン、キミがタオルを巻き始めたのと、流行が始まったのはどっちが先だい?」
それこそまったく意味のわからない質問だった。正直に、わからないと答えた。
「イブンがタオルを巻き始めたのが先です」
僕を睨みながらラスルが言った。
・・・え?
そのあとラスルから色々文句を言われたけど、わけのわからないことばかりだった。
イヌワシが呆れ顔で僕たちを見ている。
僕は物分りが悪いのだろうか。
ラスルは半分あきらめたようにヌワシを見る。イヌワシはため息をついて頷く。
「イブン、イヌワシを見ろ」
言われるまでもなくいつも見てるぞ、可能な限り。
「着飾ることはなく、私物を持たず、私心も持っていない」
イヌワシは腕組みをして苦笑いしている。
だんだんラスルの話がわかってきた。
兵士としての心構えが足りない・・・僕は少したるんでいたのかも。
「ごめんなさいイヌワシ、気持ちが緩んでいました。タオルを巻くのはやめます」
そう言った瞬間に思い出す。
持ってる・・・私物・・・。へんな汗が出てくる感じがした。
「私物の時計があります、どうしたらいいでしょうか」
ラスルが目をむく、
「おいイブン時計って!あの時本当に買ったのか」
「ラスルだってハサミが欲しいって、言ってたじゃないか!」
「俺は買わなかった」
そりゃそうだ、飛行機に持ち込めないからな。
「アメヨコに行ったときに買ったんです」
正直に父に言う。
「別に悪いとも思わないけど・・・なんで付けてないんだい?」
イヌワシが不思議そうに聞いてくる、腕時計だと思ったのかも。
持っている懐中時計を取り出して見せた。
「懐中時計かぁ、珍しいね。ちょっと見せてもらっていいかい?」
もちろんだ。ラスルはその様子をじっと見ている。
「ずいぶん古い物のようだね。へぇ家紋が付いてる」
カモンってなんだろう。
「日本の家ごとに付ける文様さ、何百種類とある」
説明してくれる。
「昔、時計は高価だったから、それに家紋を入れてるとなると、そこそこのお金持ちだったのかな」
それかよっぽどの事情があったのかも・・・とブツブツ言いながら考えこんでいた。
「骨董品の価値もありそうだなぁ。あの時の予算でこれを買えるとは思えないんだけど」
しばらくして、まっすぐこちらを見てくる。
「店主の父が持っていたものだそうです。何故か僕に譲ってくれました」
「ふうん、お店の名前はわかる?」
ずいぶんと興味がありそうだ。
「ADIINと書いてありました、アディーンでしょうか?」
ふんふんと頷いている。
「そうか、大事にしなさい。持っていることはなるべく内緒にね」
そう言って返してよこした。
「イヌワシはイブンに甘すぎます!」
即座にラスルが言う。
「まぁいいじゃないか、気に入ってるんだろう?イブン」
さらりとした笑顔。
「はい」
「じゃこの話はここまで。これから日本語の授業だろう?行ってOK」
父が笑顔になってくれたことが嬉しい。
「はい!ありがとうございます!」
踵をかえしてダッシュ。
日本語の授業は予約など無視して席が埋まるのはいつものことだ。
ホリーさんの授業は人気がある、席はあいているだろうか。
そして・・・サキは今日も来ているだろうか。
【ラスルの話】
「イヌワシはイブンに甘すぎます」
イブンが去ったあともう一度言う。
イヌワシはまったく気にしていない風。
「これからランソンやオマルとミーティングなんだ。移動のついでにちょっと散歩をしようか」
付き合ってくれるかい?そう言って外に向かって歩き始めた、ついて行く。
マルニアゲハチョウカ・・・
外に出るとイヌワシが話し始めた。
最初に何か言ったようだけどよく聞き取れなかった。
「あの懐中時計の家紋ね、僕のウチのと同じだったんだ」
しれっと言う。その意味を考える。
「まぁ同じ家紋の家なんていくらでもあるから、珍しくはないんだけどね」
「イブンに言ったら盛大に勘違いしてイヌワシに差し出したかもしれませんね」
「うん、だから言わなかった」
イヌワシは楽しげに微笑んでいる。
最近あまり見なかった顔だ。
そういう表情を見れると安心する。
「何故お店の名前を聞いたんです?」
疑問に思ったことを聞く。
「ラスルはよく観察し、聞いているね。それによく考えている。えらいな」
軽く肩を叩いてくる。
「子供じゃありません」
「頭じゃなくて肩にしただろう?お店の名前ね。昔の日本では文字を右から読むんだ。しかし英字の看板を作るなんてハイカラな人だったんだね」
さっきより、もうちょっと楽しそうに笑っている。
「だからADIINじゃなくてNIIDA」
「ニーダですか。どちらにしてもあまり日本風じゃありませんね」
俺も少しは日本の文化を勉強している。
父の祖国の文化を学ぶのは子として当然のことだ。
「しっかり発音するとニイダ」
父はキョロキョロと何かを探して、落ちてる木の枝を拾った。
ニーダがニイダだとなんなんだろうと考える。
「漢字で書くとこうなる」
拾った枝で地面に字を書き始める。
『新田』
ショックを受けた、予想外すぎて一瞬クラっとなる。
それは父の名と同じだ。
「まぁ僕と少なからず縁があってもおかしくはない。調べようが無いことは無いけど、調べるつもりも無い」
普通の言葉なんだけど、なんかの呪文のように聞こえる。
ちょっとおもしろいだろう?と言って、いたずらっ子のような笑みを浮かべている。
そう言いながらがりがりっと地面の字を消した。
枝を放る。
「それにしてもイブンは心配になるね」
また歩き出してそんな事を言う。これが本題かな。
時計とかの話は、今はここまでって感じだ。
「そうですね。軍事のときと平時の時とのギャップがかなりあります」
「なんであんなに大人っぽいときと子供っぽいときとがアンバランスなんだろう?自分の能力に対する自覚もあまり無いようだし。言ってもよくわかっていないようだ」
同感だった。
「それでいて教えた仕事はすぐに覚えて、何でもこなしてくれる・・・困った」
まじめな目になっている。本気で心配しているのだろう。
「それならばイヌワシに話しておきたいことがあります」
そう前置きをする。父が頷く。
「イブンは多分子供時代が無いんだと思います」
そう前置きして生まれ育った村のことを思い出して、話す。
貧しい村のなかで、イブンは更に貧しい部類だった。
そして彼の父親は粗暴だった。
イブンは作物の出来が悪いと殴られ、羊のさばき方が下手だといっては殴られ、妹をかばっては殴られ、態度が生意気だと言われては殴られていた。
学校以外のときは家の仕事を手伝わされていたが、たまに子供たちの遊び場に来ても特に何をするでもなく、つまらないやつだった。
ただ、余所者のハサンや妹をからかったり、いじめるやつがいると、相手が何人でも猛然と立ち向かっていってた気がする。
そしてあの日が来る、村から捨てられた日。
キャンプモリソンに送られ、銃を撃つことを教えられ、戦場に放り込まれた。
食事もひどかった、豚肉入りのレトルト食品。
手を出せずにいたところ、最初に食べ始めたのはイブンとハサンだったと思う。
みんなが驚愕の表情でその様子を見ていた。
豚肉だけよけて、それ以外を食べていた。
イブンは言っていた「豚肉を食べてはいけない」としか教わっていない、と。
でもそれはいいのか?と思いつつみんなマネして食べ始めた・・・俺も含めて。
ハサンのヤツはヤケになったのか豚肉自体も食べていた。
とにかく空腹だった。
実はもっと詳しくイスラムの教えを知っていたのかもしれない。でも今更聞く気は無い。
それでも食べられなくて餓死する仲間もいた。
食べないと死ぬって事を実感した瞬間だった。
死にたくなかった。
もっとも戦闘で死ぬヤツのほうが多かったが。
毎日歩いて、撃って、殺されて、殺して、殺された。
みんな死んだような目をしていたけど、イブンだけはまだ何かの希望を持ってる感じだった。
妹を護りながらハサンと色々相談していた。
俺もイブンから話し合いに加わって欲しいと頼まれた。
少しでも生き残る方法を考えることに必死だった。
この頃はもうイブンとハサンをを見直していて、俺も話す仲間に入った。
家格が違って話す機会の無かったジニや、ラマノワとも話すようになっていた。
そしてあの日、イブンの妹が死んだ。
その時のイブンは怒りの塊のように見えた。何もかもぶち壊すんじゃないかとヒヤヒヤした。
事件のあとオマルが教育係になった。
最初はみんな信用していなかった。どうせ傭兵の外国人はみんな同じだ。
イブンは違ったようだけど、騙されてはいけないと思った。
だけどその後は少しずつ待遇が改善された。神は見捨ててないのかなと思った。
ムスリム用の食事、簡易寝台、行軍ペース、再訓練、など。少しづつ良くなっていたと思う。
あとでわかったけど、イブンがオマルに色々と相談してたらしい。
そしてオマルとの信頼関係がある程度できてきたころ、父との邂逅を向かえる。
俺は神は存在すると確信することになった。
そんな話をつらつらと父に話した。父はすこしこわばった表情をしていた。
「イヌワシは俺たちを導いてくれました」
父は黙って聞いている。
「そしてイヌワシに会うまで、俺たちを導いてくれたのはイブンだと思っています」
「そうだったのか」
初めてイヌワシの指示がオマルに届いた日の事を思い出す。
イブンはトラックを運転しようとしていた。
「そういえば車両の運転手とか、危険度が高いことはいつもあいつが率先してやっていました」
「あれから、イヌワシのサポートをしながら兄弟たちの面倒をみるのが楽しかったんだと思います」
俺もそうだ。そしてそれは今でも。
「なるほど、だいたいわかった。つまりアイツは今大きい幼児なんだな」
さすがイヌワシだ、見事に表現した。
頷く。
「じゃあ、目覚めるのをゆっくり待とうか。あんまり急いで大人になられても寂しいしね」
「俺はもう大人です、寂しいですか?」
「まだまだだ。」
心外だ。
「俺はイヌワシの方針に一番近いとこにいると思います。つまり武器を捨てられます。今すぐでも散髪屋になって生計を立てることも出来ます」
そう言ってみる。
「僕がさんざん練習台になった成果だね」
「報酬は貰っていませんよ」
「出来るってのと、実行するのは違う」
「もちろんです。実際は兄弟たちが全て卒業したのを見届けて、最後に「卒業」を実行するつもりですから。それまで兄弟たちの髪を整え続けます・・・イブンの髪は特に地味に」
「なるほど、奇抜な髪型の子供があまりいないのはそのせいか。ラスル、いい仕事してるじゃないか」
そう父が言って笑う。
「よしイブンの事はわかった。ところで今日のこの後の会議だけどね、参加するかい?」
それは俺に対しては初めての提案だった。
正直嬉しい。
「兄弟たちの卒業に一役担えるかもしれないぞ」
そこに参加できるのは大人たちだけだった。ジニやイブンは別として。
「イブンを呼ばないとスネませんかね?」
たまにイブンが参加していることは知っていた。
「気を使うねぇ。でも日本語の授業をジャマしても悪いだろう?」
正確には授業じゃなくて、授業後だと思う。
そして気を使ってるのはイヌワシのほうじゃないかと思ってしまう。
本当にイヌワシの愛は広く、深い。
「では参加させてください。頑張ります」
嬉しくなって冗談半分に、敬礼して答える。
しかし・・・これも父の計算だったのだろうか。
敬礼した直後、向こうから歩いてくる人影が見えた。
見慣れた、布をかぶった、独特の雰囲気をまとった、小柄な・・・女の子。
大またで歩いてこっちに来る。
目が危険な角度になって、イヌワシをターゲットしている。
急に狼狽し始めるイヌワシ。
「ジブリールが怒ってるように見える、なんでだろう」
汗をかきながらこっちを見る。まだ距離がある、なんとかできるのだろうか。
「謝ってください」
「覚えが無い。以前よくわからないけど謝ったらもっと怒った」
・・・
「援護してくれるかい?」
そこで理解した。遅かった。
「こうなるのをわかってて巻き込んだんですね?」
会議の参加を受けた以上、逃げられない。
「いや、わかってたというか、予感があったんだ」
同じことだ、判断が甘かった。
「まだまだだって言ったろう?」
そういって苦笑いする。
あーそういうことか。
「こういとき大人はどうするんですか?」
「オマルは置物になるのが上手だ。ランソンなら笑いながら悠然とここから離れるかな。シュワさんなら楽しむかもね。ホリーがいたら・・・考えたくないな」
最後にホリーさんの名前を口に出したら遠い目になった。
無理だ、俺にはまだまったく無いスキルばかりだ。
いや。指導者オマルを見習ってみよう。
「わかりました、援護に入ります・・・多分、傍観するだけになりますが」
下手に口を出すと命に関わる。
まぁ俺がいるだけでジブリールも自重するだろう。
いきなり泣き出して父に抱きつくとかはしないと思う・・・多分。
「十分だ。ありがとう、ラスルは大人だな」
「そんな甘言にはのりませんよ。次は無いと思ってください」
「こんど散髪用のハサミをプレゼントするよ」
嬉しいけど今はそれどころじゃないだろう。
絶望的な戦いを前に思う。
父がタイに行くときのいつもの4人編成。
あのメンバーに耐えられるイブンは凄い。
空白の一年・下巻の帯を見たらシーズン2が進行中なんですね。
楽しみです。
そして猟犬の檻を読了。
イトウさんもいいけど、個人的にはサイトウさん押し。