晴天、そう呼ぶしかない。そんな天気の下、薄い紫の煙が、一筋の柱となって潮風に揺らめいていた。
「で、どうするがな?」
「動くさ」
紫煙の柱が二筋に増え、吹いてきた潮風に揺らいでは、頼り無さげに消えていく。
ゆっくりとした時間が流れる中で、どうにも気怠い雰囲気で、頭にタオルを巻いた若草色の作業着が、片方の袖を空にしたスーツに問うた。
「もう今日で八日目やが」
「潮目が悪い」
「昨日は風が悪かったにゃあ」
「もう外に出て、次の港の筈だったんだがなぁ……」
五十嵐と北上、二人が揃って溜め息代わりの紫煙を吐き出す。晴天の空に煙が踊って消えていく。
船はいまだに出港出来ず、ただ時間だけが過ぎていく。
「んで、あれらは何がしたいがな?」
「知らんよ。
五十嵐が残り少なくなった煙草を握り潰し、傍にあった灰皿に放り捨てる。まだ僅かに火種が燻っていたが、それもすぐに消えた。
甲板から見える景色は、争乱の気配を感じさせない。だが、そこには確かに火種というには、あまりに大きすぎるものが燻っていた。
「艦娘保護団体のう」
「〝夜明けの水平線〟、よくあるイカれ共さ」
艦娘の解放と権利を主張し、我らの隣人を軍の奴隷から解放せよと、そう息巻き、その為には保護対象である艦娘の、武力行使による犠牲すら厭わない、傍迷惑で本末転倒な集団。
つい先日、五十嵐水運も彼奴らの被害に遭っていた。
「アタシらみたいな連中が、艦娘を雇ってるのは、公然の秘密ってやつだからね」
「しょう迷惑な話やにゃ」
まったくだと、短くなった煙草を揉み消し、三本目の煙草に火を点ける。吸い過ぎだと、自制しようとも思ったが、船も出せず、やれる事は書類を確認し、判を押すだけ。一応、他の同業者と集まり、話を聞いたりして、現状の打開案を考えてはいるが、現状では妙案は出てこない。
「兎に角、連中が居なくならん事には、軍も警戒を解かん」
「何がしたいがな?」
「それなんだよ……」
空になった煙草の箱を逆さにして、そこから零れ落ちる塵を眺める北上に、五十嵐は自分の煙草を指で弾いて、箱から差し出す。
「すまんにゃあ」
「そりゃ、こっちの台詞だ。アタシらが、もう少し気を回せば、あんたらを町に出させてやれるんだがね……」
「気にしなや。アシも大和も、あんな気味の悪い連中が彷徨きゆう町、歩きとうないわにゃ」
先日、大和を連れて入野達と町に出た所、件の〝夜明けの水平線〟と出会してしまった。体格の大きい入野と、もう一人の船員の背後に隠されて、その時は事なきを得たが、あの時見た連中の気味の悪さは忘れない。
「艦娘を解放せよち、アシらは何処に捕まっちゅうがな」
「アタシらにかねぇ」
「出て行こう思うたら、何時やち行けるにか?」
「そうだね。あんた達は行こうと思えば、何処にだって行けるんだ」
潮風に揺れる紫煙が、頼りなくに風に巻かれていく。
「アタシらは、こうして船でしか生きられない。陸での息の仕方なんて、昔に忘れちまったよ」
「迷いゆうがかや?」
北上が紫煙と共に吐いた言葉に、五十嵐は溜め息で答えた。五十嵐水運の現状は、正直逼迫している。
限りある在庫を食い潰し、柳瀬が遣り繰りして積み立てた貯金を切り崩して、どうにか今の状況を保っている。
猶予は無い。進むか降りるか、それを決める限界が今だ。
そして、五十嵐はそれを迷っている。
「……キタ、アタシらは自慢じゃないが、脛に傷のある連中ばかりだ」
「そうじゃろな」
「この宗谷を降りたら、真っ当に生きられないのが大半だ。……柳瀬や入野達は違うがな」
「幸蔵爺もじゃろ」
「まあ、そうだね。だけど、解るだろ?」
「まあの」
真っ当に生きられるだろう入野や柳瀬達でも、根掘り葉掘りと調べられれば、下手をすればお縄を頂戴する事だって有り得る。
それが他の連中なら、ほぼ間違いなく捕まるか、野垂れ死ぬかだ。
「キタ、こんな事をあんたに聞くのは間違ってる。だけど、教えてくれ。アタシはどうしたらいい」
「んなもん、アシは知らんちや。船長、おまんの好きにしたらえいが」
「好きに、か」
「ほうよ。この船はおまんの船ながやき、おまんの好いた様にしたらえいがよ」
北上が煙草を握り潰し、五十嵐に向き直る。
「アシらはどうするか知らんが、他はついて来らあよ」
「……そうかい。なら、あんたらにもついて来てもらうよ」
「しゃんとしよったら、ついて行っちゃらあ」
五十嵐の空になった袖が、風に揺れる。
どうにも弱っていた様だ。まったくもって、らしくない。
五十嵐は一度大きく息を吐くと、口に力強い笑みを浮かべた。
「じゃあ、渡りをつけて、さっさと仕事といこうか」
「やる気やにゃ」
「ああ、そうさ。アタシ、五十嵐勇奈は止まらない。あんたら、全員を連れて、誰も見たことの無い場所へ行ってやる」
「そら、どんなとこぜ?」
「それを見に行くのさ」
あるのかどうかすら、それすら定かではない。だがそれでも、五十嵐は見たい。
「そして、そこであんた達と酒呑んで、馬鹿話でもして笑いたい」
「えいにゃあ、それ」
北上も笑みを浮かべ、五十嵐も笑みを深くする。
人間と艦娘、似ているが違う。まったく違う生き物だが、この二人にはそんな事は関係無かった。
「アシも見たいにゃあ」
「当然、あんたも嬢ちゃんも饅頭共もさ……!」
さて、仕事だ。五十嵐が立ち上がり、空の袖をはためかせる。船も俄に騒がしさが出てきた。
北上も船室に予備の煙草を取りに行くかと、腰を上げた時、扉から大和が何やら急いだ様子で顔を出した。
「母さん! 船長!」
「んあ? どういたよ」
「町が変だって!」
「変?」
大和の言葉に、二人が顔を見合せた。
その瞬間、轟音が鳴り響き、衝撃が船を揺らした。
「何だ……!?」
五十嵐がよろめき、北上に支えられながら見たものは、内側から爆ぜた様に捲れ上がり、煌々と燃え上がる町の船渠から、ゆっくりと鎌首をもたげた黒の巨体だった。