第66話 遺の街【ハルモニア】
目の前に広がる、恐ろしい程の白色。
風の音一つしない、しんと静まり返った純白の世界で、神童拓人は一人立ち竦んでいた。
――ここは、どこなんだろう。
ほんの数分前。神童は仲間達と共に神殿の奥地にあるという扉を目指し歩いていた。
シエルの言った『導く存在』というのが何なのかはよく分からなかったが、それでも他に行く宛ても無いし、今は彼の言葉に従うしかないのだろうと自分を納得させて。
しばらく歩みを進めると彼の教え通り、その扉は存在した。皆の顔をぐるりと見渡した円堂が石で出来た両開きのソレに手をかける。重く引きずるような音をたてながらゆっくりと開いていく扉の先の光景に、自然と皆の視線が集中する。
扉の隙間から差し込む白い光が眩しくて反射的に目を閉じる。そうして次に瞼を開けた時には、神童は既にこの場所で立ち竦んでいた。
前も後ろも上も下も右も左も、見渡す限り白、白、白。
壁も床も天井も存在しない。分かるのは自分の体と足元から伸びる灰色の影だけだ。
先程まで自分は薄暗い神殿の中にいたはずなのに。仲間と一緒にいたはずなのに。まるでそれが全て嘘のように、辺りは一変していた。
「一体、なんなんだ……」
この世界に来てから色々とおかしな体験はしてきたが、やはりそう慣れる物でも無く神童は深いため息を吐いた。
兎にも角にもまずは仲間と合流しなくてはとメンバーの名前を呼んでみるが反応は無い。
そもそも自分のいる空間のどこかに他の皆はいるのだろうか。また一つ大きなため息を吐いて、神童は天を仰いだ。
天井が無いと、ここが室内なのか屋外なのか判断する事が出来ない。
壁だって無いとなると、自分が今一体どちらを向いて立っているのかすら知る事が出来ない。
ここがもしあの扉の先だと言うのであれば、シエルの言う『導く存在』というものがいるはずだが。
現状を把握する為にも辺りを調べてみるか。
不安で重くなる体を奮い立たせて、辺りを調べてみようと歩きだす。
この世界は自分達が暮らしていた世界とは違って、奇妙で不思議な事ばかり起きる。
そんな不思議な世界なんだ。こんな見るからに何もなさそうな空間でも、何か一つくらい今の状況を打破出来る物があるかもしれない。
……いや、むしろあってくれなければ困るのだが。
「っ!?」
そんな事を考えながら歩いていると不意に額に衝撃が走って、神童は顔を歪ませた。
どうやら見えない何かにぶつかったようだ。痛む額を片手で抑えながら、ぶつかった空間に手を伸ばす。
伸ばした手の平に触れたのはツルツルとした凹凸の無い何か。
「壁、か……?」
そこで神童はハッとした。
どうやらこの空間は自分の目には見えないだけで、壁も床も普通に存在しているのだと。
「ぶつかるまでよく気付かなかったものだ」と自嘲気味に心で唱えてから、神童は再び歩き始めた。
右手を壁につき、左手で周囲に障害物が無いかを探りながら一歩一歩慎重に進んで行く。
この空間では目と言う物は役に立たない。他の皆も、自分と同じ状況なのだろうか。
少しずつ前へ進みながら仲間の名前を呼び、返答が無いか耳をすませてみる。
何も聞こえない。そのたびにまた一つため息を吐いて、神童は歩みを続けた。
白い空間を歩き始めて数分。
何の変化も無い光景にいい加減嫌気がさしてきた頃、神童は何かに気付いたかのようにおもむろに顔を上げた。
「なんだ……」
聞こえてきたのは、音だ。
それも、人の話し声や風などの環境音では無い。
「ピアノの、音……?」
静かな室内に響く、透き通った鍵盤の音。
こんな場所で一体誰が、と疑問を抱くのと同時に神童はそのピアノが奏でる曲にやけに聞き覚えがあった。
これは、この曲は、昔から自分がよく弾いていた曲だ。
そのメロディーを作りあげる一つ一つの音の強弱も、合間合間に聞こえる癖も、間のとり方、その全てが自分が奏でるものと酷く似ていた。
瞼を閉じ、耳を澄ませる。そうして聞こえる音の方向へと、神童は足を早めた。
こんな何も無い空間で、一体誰がこの曲を弾いているのか。
逸る気持ちを抑えながら、目に見えぬ障害物にぶつからないように慎重に、それでいて速足で進んで行く。
ピアノの音色がよりハッキリと聞こえる方へと歩みを進めていると、突如として周囲を探っていた左手に堅い物が触れた。
行き止まりか。進行方向を遮る壁を手に神童はそう考えたが、今も聞こえるピアノの音色は確かにこの壁の向こう側から聞こえてくる。
(もしかして……)
行く手を阻む壁を注意深く探ってみる。すると、壁の右隅に棒のような突起物がある事に気付いた。
やはり。今の今まで壁だと思っていた目の前のコレはどうやら扉だったようだ。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し込む。ギィ…と言う金具が軋む音と共に扉は開き、神童はその先の光景へと目をやった。
今まで歩いて来た場所と変わらない白い空間。
そんな空間で一際異彩を放つのは、部屋の中心に置かれた黒いグランドピアノとそれを弾く一人の人間。
……いや、姿形が人に見えるだけでアレもイレギュラーの一種なのだろう。ピアノの陰に隠れていて顔までは確認出来ないが、長い黒灰色の髪を一つに束ね、スーツを身に纏うソレには確かに色が無かった。
体を左右に動かしながら鍵盤を弾いていたソレは不意に演奏の手を止めると、遠巻きに眺めていた神童の方へとその顔を向けた。
刹那、神童は与えられた衝撃に目を丸くして驚いた。
「…………俺」
小さく、掠れたような声で呟く。
目の前でこちらを見詰めるモノクロの異形。その姿は、神童の十数年と言う短い人生において誰よりも見知り、馴染んだ、自分そのものだった。
まさか、自分そっくりのイレギュラーがいるとは思わなかった。つい先日、空の街で天馬と瓜二つの顔を持つシエルを見た時と同じ、いやそれ以上に、神童を襲った衝撃は大きいものだった。
「驚いたか」
「……ああ」
神妙な面持のまま返された神童の言葉に、異形は「まあ、そうだよな」と当たり前のような台詞を吐くと、椅子の上から静かに腰を上げた。
「俺は『エレジー』。ここは遺の街【ハルモニア】」
「街……?」
エレジーと名乗る男の言葉に、自然と辺りの景色へと視線を移す神童。
こんな何も無い空間が、"街"……?
今まで見てきた場所とは大分違う、建物も草木も何もない殺風景な空間を街と形容され神童は怪訝そうに眉を顰めた。
「ハルモニアは二つの地区に分かれていてな。その中でもここは盲の地区と言って、視覚的情報が一切存在しない場所なんだ」
盲の地区。だからこの街には目には見えない壁や扉が存在したのか。
であれば、他の仲間達も同様に目に見えない街の仕組みに戸惑い、迷っているかもしれない。
突然現れた自分を見ても驚いた様子も無いあたり、シエルが言っていた自分達を導く存在と言うのは、このエレジーの事で間違い無いようだ。彼ならば皆の行方も知っているかも知れない。
「天馬達は今どこにいるんだ。俺と一緒にこの街に来ているはずだ」
「それなら大丈夫」
直後、エレジーの背後から物音が聞こえたかと思うと見慣れた茶髪の少年が姿を現した。
「あ、神童先輩!」
「天馬、信助!」
神童を見つけるなり嬉しそうな声を上げたのは天馬だった。視線を少し下に下げれば信助の姿もあって、二人が同じ場所に飛ばされていた事が見て取れる。
それを境に部屋のいたる所から扉の開閉音が聞こえては、続々と仲間達が集まってきた。
どうやら皆、神童と同様に手探りでこの場所まで辿り着いた様だ。
部屋につくなり「神童が二人いる」と驚く一同に、エレジーは先程神童にしたように改めて自己紹介をした。
「神童さんと同じ顔のイレギュラーか……」
「これもシエルの時と同じなのかな。ねえ、アステ――――――……あれ?」
エレジーについて尋ねようとアステリの方へ目を向けようとした時、天馬は気付いた。
大方のメンバーが集まった白い空間の中で、彼だけがいない事に。
「アステリ?」
天馬の反応に、周囲の皆が自然と部屋の中を見回し始める。
だが、どこを見ても捜してもあの特徴的な黄色い髪を見つける事は出来なかった。
「彼なら大丈夫だ。ちゃんとここへ向かっている。もう少し経てば、姿を現すだろう」
「アステリが今どこにいるか、分かるんですか?」
アステリの事が心配なのだろう。不安気に顔をしかめる天馬の問いにエレジーは静かに答えた。
「俺は他人よりも耳が良いんだ。だからこの場所にいながらも全て聞こえていた。お前達が空の街でモノクロームの一員と戦っていた事も、そこの長にこの街を案内された事も、それよりずっと昔の事も」
「ずっと昔……?」
刹那。バタンッと突然大きな音がし、焦った様子のアステリが姿を現した。
「天馬、皆さんも……!」
「アステリ! 良かった、心配してたんだ」
「ごめん、迷っちゃって…………」
天馬に向かい申し訳なさそうに言葉を述べたアステリは、エレジーに気付くなり顔付きを一変させると、ギロリと険を含んだ目付きで睨み据えた。
「君が、アステリだな」
「…………変異体」
「そんなに警戒しないでくれ。俺はただ、君達に協力したいんだ」
「協力……?」
イレギュラーに対し警戒心を露わにするアステリに反して、エレジーは至極穏やかに、そして静かに言葉を発した。
「ああ、人の中に秘められた色の力――カルディアについてだ」
♯次回更新は11/23(月)17時30分です。