プツリッと、唐突に映らなくなった視界。コンセントが抜けて映らなくなったテレビのように、なんの前触れも無く辺り一面が黒に染まる。
カオスの記憶も、言葉も、感情も、何も聞こえず、見えず、感じなくなった世界で。突如、沼の奥底から引きずり上げられたように、天馬の意識が覚醒した。
「天馬!」
聞きなれた声が自分を呼ぶ。ゆっくりと瞼を開き辺りの光景に目をやると、仰向けに寝転がる自分を覗きこむフェイとアステリの姿が見えた。
近くにはさっきまで一緒に戦っていた神童達や監督の円堂、マネージャー達の姿もあって。皆、二人の上げた声に気付き駆け寄ってきた。
「気が付いたんだな」
「神童先輩……俺、一体。試合はどうなったんですか?」
「試合は少しの間中断してもらってる。お前、あの後急に意識を失って倒れたんだ。……覚えてないのか?」
神童の言葉を聞いて、自分が今まで何をしていたかを思い出す。
ああ、そうだ。ジャッジメントの三点目が決まった後、カオスの見せた悲しそうな目が気になって。
どうしてそんな顔をするのか、その訳を知りたくて。
立ち去る彼を引き留めようと、腕を掴んで。
それ、で……。
「何はともあれ、無事でよかった。このままお前が目を覚まさなかったらどうしようかと――……天馬?」
「……天馬、どうしたの?」
不意に溢れだした涙に驚いて、傍にいた神童やフェイが声をかける。
目の奥が熱い。そう言えば、記憶の中の彼は一度も涙を流さなかったな。
誰よりも大切で、大好きな人に、あんな事されて辛く無いはずないのに。
汗みたいにぼろぼろと零れる涙を抑えるように、天馬は両手で自身の顔を覆った。
「どこか痛むのか?」
「大丈夫です……」
身をかがませて心配そうに尋ねた円堂に返事をすると、天馬は頬に伝う涙をぬぐう。そうしてゆっくりと深呼吸をすると、少しだけ重怠い体を起き上がらせた。
「夢を、見たんだ……」
「夢?」
「まさか……」
不思議そうに首を傾げた信助とは裏腹に、何かを察したように呟く剣城。勘の良い彼はもう気付いているのだろうか。天馬が見た夢が本来は誰のもので、どういう意味を持つものなのか。
天馬は語った。自身が体験した不思議な現象、そしてそこで見た夢の内容を。
皆、最初は天馬の話を半信半疑で聞いていた。「ただの夢だろう」と誰もが思っていた。だが、その内容は夢と語るにはあまりにもリアルで。話す天馬の表情と相まって、次第に皆「ただの夢」で片づける訳にはいかなくなっていた。
「俺、カオスの事はずっと、自分勝手な悪者だと思ってた。関係の無い人達やチームメイトであるアビス達の事も傷付けて、サッカーの事もただの暴力の手段としてしか見てなくて……でもカオスの記憶を見て、カオスと同じ気持ちを感じて分かったんだ。乱暴な行動をとるのも、クロトの野望に賛同するのも、全部ちゃんとした理由があるんだって。……カオスも、被害者だったんだ」
ハーフタイムの時、シエルが言っていた。カオスが他人に暴力をふるうのは、自分の思いを伝える術を知らないからと。
天馬はずっとその意味が分からなかった。『他人に暴力をふるってはいけない』なんて、そんな事、幼い頃から先生や両親に教えられてきた常識で、それを『知らない』だなんてあり得るはずがないと思っていたから。
でも、記憶の中で幼い彼の姿を見て理解した。
彼が伝えたい事を言葉ではなく暴力として伝えようとするのは、彼自身がずっとそうやって接せられてきたから。
誰よりも大切で大好きな両親に、殴られ、傷付けられてきたからなんだと。
「俺、カオスを助けたい」
涙で濡れた拳を握り、天馬が顔を上げる。
「助けるって、どうするつもりだ?」
「カオスに分かってもらうんです。自分のしている事は間違ってるって。でもだからって頭ごなしに叱って否定するんじゃなくて、アイツの気持ちとかそう言うの色々聞いて……全部受け止めた上で、正してやりたい」
「何を言ってるの、天馬」
神童の純粋な問いに答える天馬。そんな二人の会話に入り込んできたのは、アステリだ。
「忘れちゃったの? アイツが今までどれだけ酷い事をしてきたのか。試合中だってアイツはキミの言葉なんて全く聞いてくれていなかったじゃないか。それなのに“分かってもらう”だなんて……そんなの危険すぎるよ!」
人間はイレギュラーと違い、命がある。出来た傷や痣は簡単には癒えないし、それ相応の怪我を負えば死ぬ事だってある。
そんな脆くか弱い彼等をこんな危険な戦いに巻きこんだ負い目と責任がアステリにはあった。
これ以上、皆を傷付けぬように。天馬の無謀な考えを止めようと、アステリは声を荒げる。
「確かにカオスが今までやってきた事が許されるとは思わない。でも、分かりあえないと決まった訳じゃないよ」
そうやって真っすぐに自分を見詰め言い切る天馬に、アステリは困惑した。
今のカオスはこちらの言葉を聞く事ですらしようとしない。
そんな普通の会話すらままならない状況で「分かり合う」だなんて、出来るはずがない。
何を根拠にそんな事を言えるのか、問い詰めたアステリに天馬は少しだけ悲しそうな表情をすると、静かに答えた。
「それは、カオスが元は俺達と同じ、ただの人間だったから」
冷たい、刺すような風がメンバーの間を通り抜ける。
今、天馬はなんと言っただろうか。
カオスが、人間?
「天馬、それ本当なの?」
問う、信助の顔は怪訝そうだ。
それもそうだ。今までのカオスの奇怪な言動や行動は、全て人間とはかけ離れた物ばかり。それでもここまで深く悩まずに来れたのは、カオスはイレギュラーであると言う前提があったから。
天馬もあの夢を見るまでは、そうだと疑わずに信じて来た。
でも夢の中で見た彼は、まぎれも無い自分達と同じ色のある人間だった。
「本当だよ。夢の中で見た小さい頃のアイツは、俺達と同じ命ある人間だった。だからきっと、きちんと話し合う事さえ出来れば分かり合う事だって出来るはずだ」
「……元は人間だったとしても今は違う。イレギュラーになった今のアイツに心は無いんだ。分かり合う事なんて、そんな事出来るはずが無い」
「じゃあ、アステリは?」
唐突に投げられた言葉に、「えっ」と顔を上げたアステリに天馬が言う。
「アステリと俺達も、イレギュラーと人間だから、分かり合えないの?」
「……」
「俺はアステリと分かり合いたいな」
ベンチに腰をかけこちらに微笑む天馬の表情はいつもより少しだけ寂しそうで、それを見ていると何故か無いはずの心が痛む気がして、アステリは視線を逸らした。
その行為が自身の放った言葉に対する賛同なのか否定なのか分からないまま、天馬は仕方無く目を伏せる。
微妙な距離感で黙り込む二人の様子を見かねたのか、ワンダバが天馬に声をかけた。
「だが天馬。いくら分かり合いたいと思っていても、向こうがこちらの言葉を聞いてくれないんじゃどうしようもないぞ」
「うん……。天馬の気持ちも分かるけれど、今のアイツが相手じゃまた乱暴に吹っ飛ばされるのがオチだと思う」
確かに、今のカオスは自分達を拒絶している。
まあ、それは今に始まった事じゃないし。相反する考えを持っている者同士、当然の行動だと思うが。
それにしても今の彼の拒絶具合は異常な程で。こちらが不用意に近付けばあの巨大な鎌で弾き飛ばされてしまうだろう。
フェイの言葉に「それはそうだけど」と唱える天馬に、沈黙を続けていたシエルが口を開く。
「彼の心は解放された力によって守られ、外部からの干渉を一切受け付けようとしない。このまま普通に声をかけ続けたんでは、彼と分かり合う事は出来ません」
外部からの干渉を受け付けない。
それではやはり、いくら頑張ってもカオスは自分達の声を聞いてくれないと言う事だろうか。
カオスの記憶を見て、彼の事をようやく理解出来て。
こんな風に互いを恨み合って拒絶し合うような戦いをせずに済むと思ったのに。
「じゃあ、やっぱりどうしようも無いって事……?」
「いいえ、策ならあります」
「えっ」と、その場にいた全員の視線がシエルに集中する。
「天馬。あなたは試合中、一瞬でもカオスとまともに会話をする事が出来たでしょう? それは彼の心の壁にもわずかながらに隙間があると言う事です」
「そう言えば……」
天馬は試合中にカオスと交わした会話を思い出す。
『カオス、どうして君はそこまでクロトの野望に賛同するの』
『……恩人だから』
『え』
『クロト様は僕を救ってくれた恩人。僕を唯一認めてくれる存在。だから従う』
あの時、カオスは既に力を解放した後だった。にも関わらず、天馬の言葉を普通に聞き入れ、質問にも答えてくれていた。それ以降の会話では自分達の言葉を否定してばかりだったのに。
「俺の力をあなたに授ければ、そのわずかな隙間に入り込む事が出来る」
「そんな事が出来るの?」
「ええ。でも俺の力はあくまで心の隙間に入り込む事が出来るだけ。彼の心を解きほぐし、分かり合う事が出来るかどうかはあなたの力量次第」
「俺に……」
「難しく考える必要はない。あなたはただ、彼に思っている事をぶつければ良いだけ。あなたの持つ、あなただけの言葉で」
シエルの力を使えば、カオスの心の隙間に入り込む事が出来る。端的に言うならば、こちらの言葉を頭から否定し続けているカオスに聞く耳を持たせる事が出来ると言う事。
だが、分かり合えるかどうかは天馬次第。
シエルは素直に思っている事をぶつければ良いと言っているが、自分の思いをカオスが素直に聞き入れ理解してくれる確証はどこにある?
もし自分の放った言葉が原因で、ただでさえ暴走状態であるカオスの神経を逆撫でし、事態を悪化させてしまったら?
この試合も、果てには世界の運命ですら消えて無くなってしまうかもしれない。
アステリの言う通り、自分にとっても仲間達にとっても、そして世界にとっても危険で無謀な道だ。
――それでも。
「俺、やる」
自分とよく似たシエルの顔を見詰め、天馬が言う。
視界の端でアステリが酷く驚いたような、悲しそうな顔をしているのが見える。
きっと自分の身を心配してくれているが故の表情なのだろう。
「ごめん、アステリ。でも俺、どうしてもカオスと分かり合いたいんだ」
「……優しすぎるんだ、キミは」
目を伏せたまま離れていくアステリの背を横目に、ベンチから立ちあがる天馬に神童が声をかけた。
見ると、マネージャーに手当てしてもらったのか頬や体に白い絆創膏を貼っている。……その傷はきっと試合中カオスによってつけられた物だろう。
カオスの力と凶暴性を身を持って体験した彼の表情から言いたい事を悟ったのか、天馬は口を開く。
「分かってます。今のカオスと話し合おうだなんて無謀な事だって。アイツは俺達の敵だって事も、世界を壊そうとしている悪い奴だって事も全部。でも……」
「分かってる。お前は見たんだもんな、アイツの人間だった時の記憶を。……悔しいが、今の俺達じゃアイツの力に適わない。この状況を打破する為にも今はシエルやお前の言う通りにするのが一番だと、俺は思っている」
そう言ってフィールドを見る神童に釣られ目線を動かす天馬。
フィールドでは妖しく揺らめくオーラの中で佇んだままこちらを睨むカオスがいた。
あの八畳半程の小さな部屋で感じた恐怖と不安は、感覚の途切れた今でもハッキリと覚えている。
恐怖と不安で埋め尽くされた。自分達が当たり前のように感じた幸せ等何もない、鬱屈とした冷えた世界。
「シエル」
「……よろしいんですね?」
「うん。お願い」
天馬の言葉にシエルは承知の意を込めた薄い笑みを浮かべると、静かに目を閉じ、意識を集中させる。
街中に吹く風がシエルと天馬を包みこむように集約される。
風に乗せられるように、ふわりと体が宙に浮く。
「目を閉じて」
囁かれた言葉に従ってゆっくりと瞼を閉じる。
視界が完全に闇に閉ざされる前に見たカオスの姿を思い出す。
彼は今も、あの世界に囚われたままなのだろうか。
あの暗い世界で幼い頃の夢を見続けて、日に日に壊れていく家族を必死になって繋ぎ止めようとしているのか。
だとしたら、彼が叶えたい願いと言うのは、きっと――。
天馬を包みこんでいた風が淡い水色の光を帯び、一つの球体へと変化する。
次第に輝きを増す球体はより一層強い光を発すると勢いよく炸裂し、閉じ込めていた天馬の新たな姿を露わにした。
「おお! シエルの力がガッチリと天馬に合わさったようだな!」
ガラス玉のように澄んだ瞳。風に揺らぐ水色の髪は襟足部分が伸び、変化前は無かったモミアゲが生えている。
二つの個性のかけ合わせにより作り出されるミキシマックスとは一変、見た目に大きな変化がある訳ではないが、確かに今までとは違う力が湧いてくるのを天馬は感じていた。
「天馬、首のそれは?」
「え?」
不思議そうに尋ねた信助に釣られ、自身の首を手で触れてみる。
角度的に天馬からは見えないが、確かに首の右側に風を象徴したモノだろうか。水色に光るマークが刻まれている。
「それは力を解放した時に出る紋章です。天馬に授けた色の名は『ヘルブラオ』。対象の人物の感情や考えを読み取る力……要するに相手の心を読む事の出来る力を秘めています」
心を読む力……。
その言葉を聞いて天馬は、シエルが周囲の出来事を予知したり他人の考えを理解出来たのはこの力のおかげだったんだ、と納得した。
吹き渡る風に乗って、周りの皆が今抱えている気持ちや考えを感じ取れる。
シエルの力を得て姿が変わった天馬に対する驚き。カオスの驚異的な力に対する不安、試合に対する焦り。
そんな様々な感情の中でも、誰一人として試合を諦めようとする者はいない。
意識を集中させれば、もっと深くその人の心を読む事が出来そうだ。
フィールドに向けた天馬の瞳が、カオスの持つ血色の瞳と衝突する。
この力なら、カオスの心も――
「行こう、皆」
左腕につけたキャプテンマークを強く握り、天馬は周囲の仲間達に檄を飛ばした。
《ヘルブラオ》
シエルが天馬に授けたカルディア。
特色は『共感性』。風を操り、周囲で起こっている事象や対象の感情を読み取る事が出来る力。
力の解放と同時に両目と髪が水色に変化し、襟足とモミアゲが伸びる。
風のような形を模した紋章が首筋に浮かび上がる。