世界を覆う程に広く、黒く不気味な空。
そんな空に煌々と光る灰色の満月。
ここは色の無い、単色世界――通称【モノクロ世界】。
黒と白の濃淡で染められた不気味で不思議で異質な世界。
そんな世界の奥深くに佇むは、黒い外壁を持った巨大な塔。
空に浮かんだ満月を突き刺さんばかりに上へと伸びたその黒い塔は、この世界を統べる強大な力を持った男の住処。
この、異質で異端な世界を創り出した"主"であり"王"……。
そして、今回の騒動の元凶。
「……ただいま、戻りました」
黒の塔、最上階。
おぼつかない足取りで部屋へと入ってきたのは、先程まで天馬達と戦っていたカオスだった。
色のある世界に長時間いた影響で身体が溶けかかり動く事もままならなかった彼は、身体こそ元に戻ったが、未だ具合の悪そうな白い顔をしている。
そんな彼を見て微笑んだのは、この世界では見慣れないアンティーク調の玉座に座る、毛先に黒いメッシュの入った白髪の男。
「おかえり、カオス」
「……クロト、様……」
『クロト』と呼ばれた男は怪しく光る赤い瞳にカオスの姿を捕らえると、持っていたティーカップを傍のテーブルに置き怪訝そうに眉根を顰めた。
「……顔色が悪いね。その様子からするに、あちらではずいぶんと苦戦を強いられたように見える」
「苦戦」……その言葉にカオスの胸がドキリと高鳴った。
――マズイ。
カオスは、自分の犯した失態を思い出す。
今まで身体の苦痛のせいで忘れかけていたが、自身はクロトの命令を果たす事が出来ず試合に負け、ノコノコとこんな所まで帰ってきた。
自分は、彼の望みを叶えられなかった。彼の期待を裏切ったのだ。
――どうしよう。
全身から血の気が引く。
心臓がバクバクと大きく跳ねる。
この世界に戻ってきて、体調もある程度回復したはずなのに、なぜだかとても息苦しい。
室内の空気が重い。
恐怖のあまり上げる事が出来ない頭の中で、言葉がぐるぐると巡回する。
(どうしよう、どうしよう……)
せっかく僕に期待して、僕を信じて、任せてくれたのに。
何も出来なかった。負けてしまった。ただの人間に。それもあんな醜態を晒して。
今まで、頑張ってきたのに。色々と教えてもらったのに。
全部、無駄だったって思われる。
ガッカリさせてしまう。
失望させてしまう。
――また、嫌われる。
「何があったか、聞かせてもらえるかい。……カオス」
一行に口を開こうとしない彼に痺れを切らしたのか、クロトが言葉を投げかける。
普段とあまり変わらない穏やかな口調の裏にイラ立ちや呆れと言った負の感情が混じっていそうで、カオスは瞼をギュッと強く瞑り息を吐いた。
「ッ……実、は……」
カオスは先程あった事を全て話した。
裏切り者を追って色彩の世界へ行った事。
そこで出会った『松風天馬』と『フェイ・ルーン』の事。
裏切り者をかけて人間達のチームと試合をした事。
そしてその試合で……負けた事も。
一連の話を、クロトはただ黙って聞いていた。
賛成も否定もせず、相槌すら打たず、ただずっと黙り込んだまま。
それが余計に怖くて、カオスは泣き出しそうになるのを必死に堪える事しか出来なかった。
「なるほど……とりあえず、キミの働きは分かった」
クロトの言葉は相変わらず、鋭い刃物の様にカオスの胸に突き刺さっては恐怖を掻き立てる。
四代親衛隊【モノクローム】。
自らを生み出してくれた親であり主でもあるクロトの望みならば、自分達は何であろうとソレを聞き入れ、叶えなければいけない。
「キミは、私の言った『逃げたアノ子を連れ戻せ』と言う命令を果たす為に色彩の世界にまで行って、結局負けて帰ってきたんだね」
クロトから伝えられた『逃走した裏切り者を連れ戻す』と言う命令。
ソレを果たす事の出来なかった自分に待っているのは――――
「カオス。顔をあげなさい」
「は、い……」
恐る恐る下げていた頭を上げ、クロトの方へ視線を向ける。
「お疲れ様。よく頑張ってくれたね、ありがとう」
「…………え」
予想外の言葉に、カオスは自分の耳を疑った。
一体今、彼はなんと言った? 「ありがとう」?
自分は失態を犯した、彼の期待を裏切って、失望させたはずだ。
それなのに、どうして。
動揺するカオスをよそにクロトは穏やかな表情を崩さずに言葉を続ける。
「今回キミが彼等に負けてしまったのは、キミならあちらの世界でも大丈夫だと過信していた私の責任だ。キミには辛い思いをさせてしまっただろう……すまないね」
そう言って心底申し訳なさそうな表情で自身を労わってくれるクロトに、カオスは気まずそうに視線を下に向けた。
……どうして、そんな優しい言葉をかけてくれるんだろう。
悪いのは全部、自分なのに。
「今日はもう疲れただろう。ゆっくり自分の部屋で休むと良い」
「……分かりました」
未だ釈然としない心のままカオスは頷くと、部屋の出入り口の方へと足を伸ばす。
「……クロト様」
扉の前まで歩いた所で、突然何かを思い出したのか。カオスが呟いた。
「どうしたんだい」と尋ねるクロトの方へと向きを変えると、彼は少しだけ強い口調で言葉を発する。
「今回は取り逃しちゃったけど、あの人間達はじきにこの世界にもやってくる。その時は今度こそ絶対、絶対……僕が仕留めてみせるから。……だから」
「"だから"……?」
「………………いや、何でもないです」
最後に「失礼します」とだけ告げて、カオスは部屋を後にした。
無機質な扉の開閉音。
一人、取り残された静かな部屋でクロトは先程の彼の言葉を思い出す。
『今度こそ絶対、絶対……僕が仕留めてみせるから』
『……だから』
(あの時……)
カオスの瞳が、包帯で隠れているはずの右目が。
ほんの一瞬だけ、赤く光った様に見えた。
ふと思い出したのは、彼――カオスと初めて会った時の光景。
錆びたフェンスの感触。
空を赤く染めた夕焼けの暑さ。
見るも無残な程、黒く汚れた手首の色。
泣きはらししゃがれた彼の声から綴られた、願い事。
『お願いします。ぼくは、どうなっても良いから。だから、だから――』
「クロト様」
不意に聞こえた声にクロトは視線を向ける。
そこには空中に展開したモニターに映る、黒い獣のような姿のイレギュラーがいた。
「『スキア』か。どうしたんだい?」
影の様に黒い体。
不気味に見開かれた単眼。
色と顔の無い『通常』とも、両方ある『特殊』とも違う。
この世界でも珍しいその異様な姿を持ったイレギュラーは、クロトの言葉にニコッと笑うと、口を開いた。
「いえ、どうという程の用では無いんですけどね。ただ、カオス様の事が気になりまして」
「カオスの事?」
「ええ。なんでも、例の裏切りさんを追いかけて色彩の世界まで行ったそうじゃないですか。……まあ、どうやら作戦は失敗に終わっちゃったみたいですけど」
「お気の毒です」と、髪を弄りながらスキアは同情の言葉を投げかける。
その表情は並べた言葉とは裏腹に、楽しい事でもあった様な無邪気な笑顔だ。
「お気の毒、ね。私には、そのセリフがどうも嘘臭く感じるんだけど?」
「あれ、そうですか? おかしいですね。私は、素直な気持ちを言っただけなんですけど」
「へぇ」
そう笑顔で話すスキアに、クロトはからかう様な笑みを浮かべると玉座の肘掛けに腕をかけ頬杖を突く。
そんな彼の様子を見てスキアは「こほんっ」と一つ咳払いをすると、先程とは違う、少し低めの真面目そうな口調で話し始めた。
「それより、これからどうするんですか? 例の裏切りさんの事」
カオスは顔も色も持ち、尚且つ色の存在する【色彩の世界】でも自由に行動出来る、特別な存在だった。
しかしそんな彼も、裏切り者――『アステリ』を連れ戻す為の戦いで大きく体力を消耗し、今はこの塔から離れられない状況。
こうなってしまえば、次にクロト達がアステリと接触出来るのは『カオスが完全に回復する』か『アステリがモノクロ世界に戻ってくる』まで待つしか無いのだ。
カオスは大分体力を消耗してしまっている……回復にはまだ時間を要するだろう。
無論だが、わざわざ逃げ出した様な存在が自らの意志で戻ってくる訳は無く、もし戻ってきたとしてもそれはクロトの理想を壊す為の仲間を集め、戦いの準備を十分に終えた時だ。
「色による体調不良が原因とは言え……裏切りさんと共に戦った人間は、モノクロームの一角であるカオス様を負かした。それも、実体は二人だけ。残りのメンバーはその内の一人から生み出された分身だと言うでは無いですか」
「おや、耳が早いね。私はカオスと戦った子達については何も話して無いはずだけど?」
不思議そうな表情で尋ねるクロトに、スキアは「あぁ」と頭をかくと、ばつが悪そうな表情で話し出した。
「実は、クロト様とカオス様のお話を聞いちゃいまして。あ、別に盗み聞きするつもりは無かったんですよ?」
「誤解しないでくださいね」と焦り気味に唱えるスキアに、クロトは「分かってるよ」と笑いかける。
「まあ、聞かれてマズイ話でも無いしね。そんな事で怒ったりなどしないさ。それと、そんな遠回しな尋ね方をしなくても分かってるから」
「え」
クロトの言葉にスキアは驚きの声を上げると、普段から大きい瞳を更に大きく見開いた。
「今度は、キミが行きたいんだろう? あの子とその子供達の元に……」
何もかも見透かした様な赤い瞳を細め、クロトはモニター越しの黒い我が子を見据える。
少しだけアンバランスな体を持つソレは、男か女か分からない中性的な声で「さすがはクロト様」と呟くと、ニタリと不敵な笑みを浮かべた。
「私には秘策がありますから。クロト様の期待にも、応えてみせますよ」
スキアの言う"秘策"。
色を持たず、パーツの足りない極めて不自然な顔を持ち、尚且つクロトに使える者達の中でも力の弱い分類に入るスキア。
そんな彼だけが持つ、他には決して真似する事の出来ない特殊な力。
スキアにとってはカオスが倒され、モノクロームのメンバーも動けない今だからこそ、自分の本来の力を見せる事が出来る。
主であるクロトの役に立つ事の出来る、絶好の機会だった。
「それじゃあ、スキア」
無邪気な笑顔を浮かべている我が子をモニター越しに見つめながら、クロトは親として、主として命を下す。
「カオスが負けたと言う子供達の相手、今度はキミに任せるよ。手段はあくまで『サッカー』で。それ以外は……全て、キミの思う通りにやると良い」
静かに微笑みながら、王としての威厳を含んだ言葉がスキアの耳に届く。
黒い容姿に中性的な声を持つそのイレギュラーは、最後に一つ頷くと――――
「ハイ。クロト様」
怪しく笑った。