いつの間にか、俺の手からはブラッド・エリクサーの瓶がなくなっていた。慌てて俺はフィオナちゃんが作ってくれたエリクサーの瓶を探すために両手を動かすが、その動かした両腕が掴んだのはエリクサーの入った瓶ではなく、俺の体の上にかけてあった毛布だった。
路地にうつ伏せに倒れていた筈なんだが、俺はベッドの上で眠っていたようだった。
俺はベッドから静かに起き上がると、風穴が開いている筈の自分の腹を見下ろした。シャツの下にある筈の傷口はしっかりと塞がっていて、包帯も巻かれていない。傷痕も残っていなかった。
『あ、ギュンターさん』
「フィオナちゃん・・・・・・?」
俺の隣にあるベッドの近くでは、真っ白なワンピースを着たフィオナちゃんが灯の杖を構えて魔術のヒーリング・フレイムを発動させているところだった。ヒーリング・フレイムはフィオナちゃんが使うことのできる治療用の魔術の1つで、彼女が作ってくれるヒーリング・エリクサーを飲むよりも強力だ。
彼女がその強力な魔術を発動させている相手は―――俺の隣のベッドで眠っているカレンだった。
「か、カレン!」
『だ、大丈夫です。さっき目を覚ましましたから。今は眠ってるだけですよ』
「生きてるんだな・・・・・・?」
『はい。死んでませんよ』
「良かった・・・・・・」
俺は右手を顔に当てながら、もう一度さっきまで眠っていたベッドの上に腰を下ろす。
カレンはあの吸血鬼の少女との戦いで血を吸われてしまったけど、彼女に血を全て吸い尽くされる前にレリエルが彼女を連れて行ってしまったため、カレンはアリアに血を吸い尽くされずに済んだんだ。
彼女の首筋にあった筈のアリアに血を吸われた痕は、フィオナちゃんのヒーリング・フレイムのおかげで消え去っているようだった。
カレンの眠っているベッドの枕元には空になったエリクサーの瓶がいくつか置かれている。おそらく、あの瓶の中にはブラッド・エリクサーが入っていたんだろう。あんなに飲んでいるのならば大丈夫だ。
「・・・・・・そういえば、旦那たちは?」
『力也さんは騎士団の団長の所に行っています。他の皆さんはホテルの警備をしていますよ』
「騎士団長の所に?」
『はい』
俺は部屋の中に用意されている時計をちらりと見た。俺とカレンが戦っていたのは午前中だったんだが、もう午後の4時になっている。
何で旦那は騎士団長の所に行ったんだろうか? もう少しで外が暗くなっちまうぞ?
『ギュンターさん』
「ん?」
『ギュンターさんがやられたのって、レリエルっていう黒い服を着た人だったんですか・・・・・・?』
「・・・・・・ああ」
あの路地で、いきなり後ろから攻撃してきて俺の腹に風穴を開けたのは、黒いコートを身に纏ったレリエルという男だった。おそらくフィオナちゃんは、カレンが目を覚ました時に彼女からこの話を聞いたんだろう。
『・・・・・・私の研究室にある絵本のレリエル・クロフォードも、同じ恰好だったんです』
「俺に風穴を開けたあいつが、伝説の吸血鬼だっていうのか?」
『でも、あの吸血鬼は大天使に封印されている筈です』
レリエル・クロフォードは、大昔にこの世界を支配していた伝説の吸血鬼だ。何千年も昔から存在するクロフォード家に生まれた非常に強力な吸血鬼で、彼を倒すために送り込まれた騎士団や勇者たちを次々に返り討ちにし、300年間もこの世界を支配していた。
だが、彼は大天使によって倒されてしまう。他にも封印されたという説もあるが、どちらにしてもあそこにいる筈がない。
「封印が解けたのか・・・・・・?」
『そんな・・・・・・!』
大天使に封印されていたレリエル・クロフォードが復活して、俺たちの前に現れたということなのか?
「伝説の吸血鬼が相手なのかよ・・・・・・!!」
勝てるわけがない。
相手は300年間もこの世界を支配していた伝説の吸血鬼だ。旦那は今まで何十人も転生者を倒してるけど、レリエルは挑んで来た大天使以外の人間を皆殺しにしている最強の吸血鬼だ。
旦那でも勝ち目がないぞ―――。
俺は再びベッドの上に横になると、窓の外に見える巨大な白い時計塔を睨みつけた。
騎士団の砦の中にある指令室には、巨大な世界地図や海軍で採用されている戦列艦の模型が飾られていた。部屋の真ん中にある机の左側の壁には立派な装飾の付いた黄金のバスタードソードが鎮座している。おそらくあれは実戦で敵兵に振り下ろすための剣ではなく、勲章のようなものなんだろう。この部屋で仕事をする団長が有能であることを物語っている。
その部屋の真ん中に置かれている机の向こうにいるヴリシア帝国の騎士団の団長は、モリガンの黒い制服姿で彼を訪ねて来た俺の顔を睨みつけていた。
「―――速河。それは本気なのか?」
「ええ、本気です」
ホテルの部屋で、フィオナの治療を受けていたカレンからギュンターがレリエルという黒いコートの男にやられたということは聞いている。幸いカレンは吸血鬼の少女に血を全て吸い尽くされてはいなかったため無事だけど、まだ治療は続いているようだ。
だが、カレンたちが戦ったアリアという吸血鬼の少女はかなり強力な再生能力を持っているようだった。なんと、至近距離で銀の散弾を心臓に叩き込まれても、心臓を再生させながら襲い掛かってきたらしいんだ。
ギュンターは銀の散弾だけではなく続けざまに銀の.600ニトロエクスプレス弾を何発か彼女の心臓に撃ち込んだようだけど、同じく心臓を再生してから反撃してきたらしい。
銀は吸血鬼の弱点の1つだ。それを心臓に叩き込まれれば確実に倒せる筈なのに、アリアは死ななかった。しかも彼女は、レリエルという男と一緒に行動しているようだ。
アリアは自力で脱出したのではなく、そのレリエルという男に助け出された可能性がある。
「帝都から住民を避難させるには、時間がかかるぞ」
「分かっています。ですが、この帝都で人々の血を吸っていた吸血鬼はかなり強力です」
「ああ。だが―――」
団長は腕を組みながら考え始めた。
俺がこの砦を訪れて団長に頼んだのは、この帝都サン・クヴァントから全ての人間を避難させることだった。
サン・クヴァントの人口は800万人だ。王都の住民を全て避難させるのはかなり無茶だけど、何としても避難させてもらわなければならなかった。
ギュンターを一撃で倒したレリエルという男は、もしかしたら伝説の吸血鬼のレリエル・クロフォードかもしれないからだ。
カレンとギュンターはそのレリエルという男の姿を見ているし、俺たちに合流する途中でフィオナも路地へと向かうレリエルを見ている。
そのレリエルという男に向かって、なんとアリアは跪いてご主人様と呼んでいたらしい。吸血鬼はプライドが高い者が多いらしく、奴隷になったとしても人間に向かってご主人様と呼ぶのは絶対にありえないらしい。プライドの高い吸血鬼たちが自分の主人として敬意を払うのは、自分を眷族にした吸血鬼の主人だけだ。つまり、アリアがご主人様と呼んでいたレリエルは吸血鬼ということになる。
そして、レリエルという名の吸血鬼はこの世界に1人しか存在しない。
かつて無数の眷族たちを引き連れてこのサン・クヴァントを襲撃し、世界を支配した伝説の吸血鬼のレリエル・クロフォードだ。吸血鬼たちにとって彼は最高の英雄であり、彼と同じ名前を持つことは許されないらしい。
でも、レリエル・クロフォードは大天使によって封印された筈だ。封印が解けたのだろうか?
「なぜレリエルが・・・・・・?」
「分かりません。でも、我々は奴らと戦わなければなりません。このまま伝説の吸血鬼と戦えば、間違いなく住民や皇帝陛下まで巻き込む羽目になります」
このサン・クヴァントはかつてレリエルと眷族たちに攻め込まれ、壊滅したことがある。歴史の教科書にも必ずその事が書かれているらしい。だから、この騎士団長もレリエルに帝国が壊滅させられた前例を知っている筈だ。
「団長。お願いします」
「・・・・・・・・・分かった」
腕を組むのを止めた騎士団長は、俺を睨みつけながら椅子から立ち上がった。
「――――皇帝陛下と住民たちを、最寄りの城郭都市に避難させよう」
「ありがとうございます」
やっぱり、再び帝都を伝説の吸血鬼に壊滅させるわけにはいかないんだろう。またレリエルに帝都を壊滅させられれば、間違いなく再び世界はレリエルに支配されてしまう。
もし支配されれば、また人間は吸血鬼の奴隷にされてしまうだろう。
「全ての騎士団に全ての住民を避難させるように命令する。それまであのホテルで待機していてくれ。避難が終わったら伝令を向かわせる」
「感謝します」
「頼んだぞ、モリガン。――――レリエルを倒してくれ」
俺は頷いてから制服のフードをかぶると、踵を返して立派なカーペットの敷かれている指令室を後にした。
帝都の人々を避難させるにはかなり時間がかかるだろう。だが、避難してくれれば俺たちも住民を巻き込まないように気を付ける必要はなくなる。
それに、これは決戦への招待状だ。
プライドの高い吸血鬼ならば、きっとこの招待状を受け取ってくれるだろう。
かつて奴に壊滅させられた帝都で、俺たちは伝説の吸血鬼に戦いを挑むんだ。
俺は砦の廊下を歩きながら、窓の向こうの夕日を睨みつけた。
宮殿の近くに鎮座する巨大な白い時計塔の最上階から、私は夕日で真っ赤になった帝都を見下ろしていた。
あの時も同じだった。無数の眷族たちを引き連れ、帝都を守る騎士たちを蹂躙し、炎と鮮血の2つで真っ赤になった帝都をこの白い時計塔の最上階から見下ろしていたのだ。
だが今の私の眷族は、私の後ろで捕えてきた女性の首筋に噛みつき、血を吸っている吸血鬼の少女だけだ。だが、彼女は間違いなく私が引き連れていた無数の眷族たちよりも強いだろう。
アリアは女性の血を全て吸い尽くすと、首筋から自分の牙を引き抜いてから口の周りの血を長い舌で舐め取り、私の隣へと歩いて来る。
「―――綺麗な街ですね」
「ああ。だから私はここを占領した」
私がここを壊滅させた時、ヴリシア帝国は世界最強の国家だった。最強の帝国が陥落した後、殆どの国々が戦意を失い、私とは戦わずに降伏していったのだ。
「・・・・・・レリエル様、人間たちが避難しています」
アリアに言われるよりも前に私は気付いていた。大通りで防具を身に着けた騎士たちが、住民たちを街の外へと連れ出そうとしているのが見える。
何故全ての住民を避難させる? 皇帝や貴族を逃がすべきではないのか? 私がこの帝都を襲撃した時は、貴族たちは我先にと住民たちを見殺しにし、国外へと逃亡しようとしていたのだ。
あの時を思い出しながら私は大通りを街の外に向かって歩く住民たちを見下ろしていたが、すぐにこれがアリアに何度も傷を負わせたという傭兵ギルドからの招待状であるということに気が付いた。
住民たちのいなくなった帝都で、奴らは我々に挑もうとしている。
我らはたった2人だけだ。だが、我らを舐めているわけではないだろう。
これは、彼らが送ってきた決戦への招待状なのだ。
「アリアよ、これは招待状だ」
「招待状ですか?」
「そうだ。――――奴らは、我らと戦いたがっている」
吸血鬼はプライドの高い種族だ。だから、我々は汚名と恥を最も嫌う。この決戦への招待状を受け取らなければ、我々は決戦を恐れる臆病者だと言われてしまうだろう。
だから、この招待状は受け取るしかないのだ。血を吸うための人間共が逃げるからと破り捨てるわけにはいかないのである。
「・・・・・・よかろう。面白いではないか」
「はい、レリエル様」
この帝都から奴ら以外の人間がいなくなるまで、我らはこの時計塔の最上階で待っていよう。
招待状を送ってきた奴らは、アリアに何度も傷を負わせた手強い奴らだ。彼らとの決戦は、最高の戦いになるに違いない。
私は腕を組むと、笑いながら帝都を見下ろし続けた。
スコープとバイボットが取り付けられたプファイファー・ツェリスカに5発目の.600ニトロエクスプレス弾を装填した俺は、その巨大なリボルバーを腰の右側のホルスターに納めると、壁に立て掛けておいたアサルトライフルのSaritch308ARを拾い上げ、誰もいなくなった豪華なホテルの部屋を後にした。
彫刻や絵画が飾られている廊下にも、もう従業員はいない。彼らも騎士団に指示されて、住民たちと共に最寄りの城郭都市まで避難している。
誰もいないホテルの廊下を歩きながら、俺は銃身の下の40mmグレネードランチャーに聖水の入った40mmグレネード弾を装填する。マガジンの中に入っている7.62mm弾もすべて銀の弾丸に変更してあった。
ホテルの階段を下りて入り口のドアを開くと、目の前の大通りにこの世界には存在しない筈の兵器が鎮座しているのが見えた。ブルーとグレーとホワイトの3色の迷彩模様のスーパーハインドだ。機体の先端にはセンサーとターレットが搭載されている。
そのスーパーハインドの前に整列しているのは、モリガンの仲間たちだった。ギルドで正式採用しているSaritch308を装備して、大通りで俺を待っていたんだ。
「――――これより、俺たちは伝説の吸血鬼と戦いに行く」
相手はこの世界を支配していた伝説の吸血鬼だ。間違いなく、今まで俺が相手にしてきた転生者よりも強いだろう。
「残念ながら、俺たちは大天使が奴を倒したような剣は持っていない。だが、俺たちは銃を持っている」
弾丸は全て銀の弾丸にしてあるし、グレネード弾やロケット弾の中には聖水が入っている。ギュンターたちと戦ったアリアは心臓を銀の散弾で撃たれても再生しているけど、信也と2人でちゃんと作戦は考えてあるんだ。
「伝説の吸血鬼に、火薬の臭いと弾丸の破壊力を教えてやれ。―――行くぞ」
整列していた中からミラと信也がスーパーハインドのコクピットに向かって走り始め、丸いキャノピーを開けて乗り込んでいく。
おそらく、レリエル・クロフォードは俺たちからの招待状を受け取ってくれただろう。かつてその伝説の吸血鬼が壊滅させた帝都で、俺たちは奴らに戦いを挑むんだ。
俺はアサルトライフルのグリップを握りしめると、スーパーハインドの兵員室へと向かって歩き出した。