帝都サン・クヴァントのレンガ造りの建物が並ぶ街並みに霧が浮かんでいた。帝都の中心に鎮座する巨大な時計塔のホワイト・クロックはこの霧にすっかり飲み込まれていて、僕たちが休憩しているこの公園からは全く見えない。
霧の中で輝く街灯の傍らで、僕はポケットの中から折り畳んだ地図を取り出すと、鉛筆でさっき調査してきた路地裏の場所を書き込んだ。
この地図に鉛筆で印が書かれているのは38ヵ所。その場所は全て、犠牲者の死体が発見された場所だった。さっき調査してきた路地裏にも吸血鬼に血を吸われて亡くなった女性の死体があったんだ。
首筋には牙のようなもので噛みつかれた傷跡があった。でも魔物が食い千切ったような傷跡ではなく、牙を突き立てただけだった。おそらくそのまま被害者の血を吸い取ったんだろう。
目撃者はいなかったらしい。
(手がかりが見つからないね・・・・・・)
「そうだね。これで38人目だよ・・・・・・」
僕の肩に寄りかかりながら、ミラが僕の持っている地図を覗き込んだ。
地図の真ん中にあるのが宮殿で、その近くにはホワイト・クロックがある。
(そういえば、最初の犠牲者が見つかったのは奴隷を売っている店の近くだったんだよね?)
「そうだよ。確か屋根の上だったんだって」
僕は鉛筆の先端を一番最初に被害者の死体が見つかった場所に向けながら彼女に説明した。
この帝都サン・クヴァントで最初に被害者の死体が見つかったのは、昨日兄さんとエミリアさんが調査に向かった奴隷を売っている店の近くにある建物の屋根の上だったらしい。その被害者は2人の少年で、その少年たちの死体が発見されたのはその吸血鬼の死体が見つかった日だった。
間違いなく、逃げ出したその吸血鬼の奴隷が襲ったんだろう。
でも、血を吸われたのは片方だけだったらしい。
「・・・・・・ミラ」
(どうしたの?)
「他の犠牲者の死体にあった傷口は、血を吸われた傷だけだったよね?」
(うん、そうだよ)
でも、一番最初の犠牲者の腹には何かで貫かれたような大穴が開いていたらしい。どういうことだ? しかもその店の牢屋に入っていた吸血鬼は、長い間血を与えられていなかったせいで衰弱した吸血鬼だった筈だ。
人間と同じものを食べることは出来るけど、彼らの主食は血だ。だからその吸血鬼の奴隷は痩せ細って衰弱していたんだ。
「弱った状態で血を吸うんだったら、抵抗してくる人間は襲わない筈だ・・・・・・」
(え?)
「他の犠牲者たちの死体には血を吸われた傷跡しかないのに、この犠牲者には何かで貫かれたような大穴が開いていたということは、もしかしたらこの犠牲者に抵抗されたのかもしれない」
この2人の犠牲者の腹に開いていた大穴は、彼らと戦ったということなんだろうか? でも、その時の吸血鬼は衰弱した状態。彼らと戦うことは出来たのか?
まさか、仲間がいた?
昨日その店に調査に行った兄さんたちが言っていたんだけど、その吸血鬼が入っていた牢屋の鉄格子は何かで押し広げられたようにへし折られていたらしい。
衰弱した吸血鬼が鉄格子をへし折った上に壁を魔術で破壊して逃げ出すことは出来るんだろうか?
「・・・・・・誰かが檻を開けて彼女を助け出したのかもしれない」
(え?)
「ミラ、その店を調査しに行かない?」
僕は再び地図を折り畳んでポケットにしまうと、メガネをかけ直しながら僕の肩に寄りかかっている彼女に問い掛けた。
もうあの吸血鬼に血を吸われた犠牲者は38人になっている。間違いなく、その吸血鬼は衰弱した状態から元の状態に回復しているだろう。
吸血鬼は人間よりも身体能力が高い上に、傷口をすぐに修復できる再生能力を持っている。そのため、普通の武器で傷を与えてもすぐに傷口が再生してしまうため、倒すことは出来ない。
だが、力也と信也が用意してくれた銀の弾丸があれば、彼らを倒すことは出来るかもしれない。この調査が終われば、私たちは彼らと戦わなければならないのだ。
「少し休憩するか?」
「そうだな」
私の隣を歩いていた力也は、フードを外しながらそう言った。
「では、休憩したらまたあの店に行ってみるか?」
「ああ」
確か、あの店の近くにある建物の屋根の上で一番最初の犠牲者の死体が見つかった筈だ。その屋根の上も調べた方がいいかもしれない。
休憩が終わった後の調査の予定を立てながら力也と一緒に霧の広がる通りを進んでいると、通りの右側に建つレンガ造りの建物の上で何かが動いたのが見えた。
「?」
今動いたのは何だ?
私は立ち止まりながら、その建物の屋根を見上げる。
レンガ造りの屋根の上で、再び何かが揺らめいた。真っ白な霧の向こうで揺れたその何かは、まるで小柄な人影のようだった。
頭のような部分で揺れている長い何かは頭髪だろう。少女だろうか? 背中の方で揺らめいているのは頭髪ではなくマントのようだ。
「・・・・・・?」
確か被害者を襲った人影は小柄で、金髪の少女だった筈だ。昨日訪れた店の店員も、吸血鬼の奴隷の外見は16歳か17歳の金髪の少女だと言っていた。
店員が言っていた吸血鬼の奴隷の話を思い出した瞬間、私はぞっとした。あの屋根の上で私たちの事を見下ろしている小柄な人影は、もしかしたらその店から逃げ出した吸血鬼ではないのか?
「力也、あいつは・・・・・・!」
「まさか、吸血鬼か・・・・・・!?」
力也も屋根の上を見上げながら、背中に背負っているスナイパーライフルのL42A1に手を伸ばし始める。
「力也、狙撃で援護してくれ」
「了解だ!」
スナイパーライフルを背中から取り出し、力也が後ろに向かって走り始める。私も背中に背負っていたアサルトライフルのG36Cを取り出すと、屋根の上から走り出したその小柄な人影を追い始めた。
まだ午前10時だが、今日は街の中が霧だらけだ。既に通りの両脇に設置されている街灯たちが霧の中で橙色に輝いている。この霧のせいでいつもより街の中が薄暗いため、あの吸血鬼は昼間に動き出したのだろう。
屋根の上を疾走する小柄な人影は、マントと長い頭髪を揺らめかせながら次々に屋根の上を飛び移って逃げていく。私も全力で走ってその吸血鬼と思われる人影を追うが、追い付く事が出来ない。
このままアサルトライフルを発砲しようかと思ったが、あの吸血鬼と思われる人影の動きは素早い。間違いなく命中しないだろう。
その時、屋根の上を何度も飛び移っていたその人影が建物の間にある路地に飛び降りたのが見えた。私もその路地に足を踏み入れると、地面に転がる木箱や酒瓶を飛び越えながら路地の向こうに逃げていく人影を追う。
建物の裏口に吊るされていたランタンの光が、その近くを通過していった人影を照らし出してくれた。路地に入り込んだ霧とランタンの光の中で揺らめいたその人影の頭髪の色は、あの店の牢屋の中にいた吸血鬼の奴隷と同じ金髪だった。
間違いない。あいつが店から逃げ出した吸血鬼だ!
「待てッ!」
私はアサルトライフルを構えながら、路地を逃げる吸血鬼の後を追い続けた。
吸血鬼の身体能力は人間よりも高い。当然ながら、スピードも人間より遥かに上だ。
その吸血鬼を照らし出したランタンの近くを通過しようとした瞬間だった。ランタンの真下に置かれていた木箱の陰から、突然漆黒の触手のようなものが何本も出現したのだ。
「!?」
おそらく、あの吸血鬼が足止めのために使った魔術だろう。このまま走って吸血鬼の後を追おうとすれば、あの触手に捕まってしまうに違いない。
だが、触手に捕まらないように立ち止ればあの吸血鬼を見失ってしまう。
私は立ち止まらず、そのまま触手に向かって走り続けた。走りながらG36Cのフォアグリップから左手を離し、その左手で腰に鞘に収まっているバスタードソードを引き抜く。
これで切り裂いてやる!
「はぁっ!!」
そのまま触手に向かって突っ走りながら、私は木箱の陰から出現した漆黒の触手に向かってバスタードソードの銀色の刃を叩き付けた。触手から黒い霧のようなものが吹き上がり、千切れ飛んで行く。
だが、その触手が出現した木箱の奥に置かれていた樽の陰から、更に黒い触手の群れが出現し、剣を振り下ろしたばかりの私に向かって襲いかかってきた!
「くっ・・・・・・!?」
私は右手でG36Cを構えると、接近してくる触手の群れに向かってトリガーを引いた。装填されているのは、吸血鬼に叩き込むための銀の5.56mm弾だ。
霧の中でマズルフラッシュが何度も輝いた。銀の5.56mm弾は私に向かってくる触手を次々に食い破ったが、樽の陰から出現した触手の数はさっき私がバスタードソードで両断した触手よりも多かった。
接近した触手がG36Cのトリガーを引いていた私の右手に絡みつく。私はすぐに左手のバスタードソードで切り落してやろうと思ったが、他の触手たちが私の左手からバスタードソードを叩き落とし、そのまま左手や両足に絡みついて来る。
「し、しまった・・・・・・!」
両腕を動かそうとするが、漆黒の触手たちに絡みつかれた私の腕は全く動かなかった。両足も全く動かない。
「ふふふっ・・・・・・」
「・・・・・・!」
何とか触手たちから逃げ出そうとしていると、路地の向こうから逃げていた筈の人影が私の方に歩いて来るのが見えた。
私の方に向かってくるのは、16歳か17歳くらいの外見の金髪の少女だった。胸元に赤いリボンの付いた真っ白な上着とミニスカートを身に着けていて、純白のマントを羽織っている。
触手に捕まった私を見ながらニヤリと笑っている彼女の口の中には、吸血鬼の牙が生えていた。
「捕まえたわ。傭兵のお姉さん」
「き、貴様・・・・・・!」
その吸血鬼の少女は笑いながら私の目の前までやって来ると、私の顔を眺めな始める。
「うん。やっぱり可愛いわね。・・・・・・それに、美味しそう・・・・・・!」
少女は自分の口の周りを舌で舐めると、いきなり私に向かって普通の人間よりも長い爪の生えている手を伸ばし、私が胸に装着していた防具を外し始めた。
何をするつもりだ?
「あら、胸が大きいのね・・・・・・」
「!?」
私の胸から防具を取り外してそう言った吸血鬼の少女は、今度は私の胸に向かって長い爪の生えた人差し指を伸ばすと、その爪で私の制服の胸の部分をゆっくりと引き裂き始めた。
「私、貴女みたいな女の子も好きなの・・・・・・」
「な、何だと・・・・・・!?」
「うふふっ。やっぱり可愛い・・・・・・!」
爪で制服の胸の部分を引き裂きながら、少女が私の顔に唇を近づけてくる。
まさか、血を吸う前に私とキスをするつもりか!?
「や、やめろ・・・・・・!」
彼女の唇が私の唇に近づいて来る。私は逃げようとするが、触手に絡みつかれた両手と両足は全く動かない。
そんな・・・・・・。ファーストキスは力也にしてあげたかったのに―――。
「―――おい、吸血鬼」
「え? ―――ガァッ!?」
その時、吸血鬼の少女の背後から低い少年の声が聞こえてきた。
私にキスをしようとしていた少女の喉元に漆黒のブーツナイフの刃が食い込み、そのまま彼女の喉を引き裂いてしまう。ブーツナイフを持っていたその腕は彼女の喉を引き裂き終えると、今度はそのまま彼女の首に絡みつき、喉元から血を吹き出しながら呻き声を上げる吸血鬼の首をへし折ってしまった。
喉元から血を流しながら吸血鬼の少女が崩れ落ちる。
「―――大丈夫か?」
「り、力也ぁ・・・・・・!」
吸血鬼の少女の喉元を切り裂いたのは、漆黒の制服を身に纏った力也だった。彼はハーピーの真紅の羽根を飾った漆黒のフードをかぶったまま微笑むと、彼女の喉を切り裂いたブーツナイフを右足の小型の鞘に戻した。