路地を進む馬車の蹄の音を聞きながら、目の前にそびえ立つワインの倉庫の壁を見上げた。赤いレンガで造られたこの倉庫は3階建てになっていて、一般的な家が連なるこの地区では一番大きな建物となっている。屋根から他の建物の屋根へと伸びるロープやワイヤーには騎士団の旗や王国の国旗が吊るされていて、終わりかけている春の暖かい風の中で揺れていた。
今日は快晴。午後にも雨が降る様子はない。
ワインの香りのする暖かい風の中で深呼吸した俺は、背伸びをしながら後ろを振り返る。俺の後ろには、これから何をするのかと楽しそうに目を輝かせている娘と、相変わらず落ち着いている息子が、私服姿で俺の顔を見上げていた。
俺はいつも仕事をする時は黒いスーツとシルクハットを身に着けるようにしているんだが、今日は休日だから俺も私服姿だ。
今から訓練を始めるところなんだが、他人から見れば、まるで子供を連れて3人で買い物に行く最中にも見えてしまうだろう。
「よし、それじゃ訓練を始めるぞ」
「はーいっ!」
元気な声で返事をするラウラ。タクヤは苦笑いしながら腕を組み、にこにこと笑う同い年の姉を見守っている。
今のところ、タクヤの正体を知っているのは俺だけだ。実際にMP40を手にしていたところを目撃しているガルちゃんとエリスには、タクヤには俺と同じように武器や能力を生産する能力があって、誘拐された際にそれが覚醒したという嘘をついている。出来るならば妻たちには嘘はつきたくないんだが、本当のことを言えばエミリアやエリスはショックを受けてしまうに違いない。
「じゃあ、今からお父さんと鬼ごっこをしよう」
「は?」
「鬼ごっこ? パパ、訓練じゃないの?」
「はっはっはっ。ちゃんとした訓練だよ」
端末を取り出し、武器の生産のメニューをタッチ。武器の項目の中からリボルバーを選択し、その中に並んでいるあるリボルバーの名前をタッチした俺は、指を素早く動かして生産と表示されている画面をタッチし、そのままカスタマイズを済ませてしまう。
生産したばかりのリボルバーを2丁装備した俺は、ホルスターの中からそれを引き抜き、ちゃんとシリンダーの中に弾丸が装填されているか確認してから子供たちに渡した。
生産したリボルバーは、リボルバーの中でもトップクラスの破壊力を誇るアメリカ製リボルバーのS&WM500。.500S&Wマグナム弾を使用する大型のリボルバーだ。俺が使っているプファイファー・ツェリスカよりも小型で、しかもドラゴンの外殻を容易く貫通してしまうほどの威力を持っている。
俺が生産したS&WM500には、かなりカスタマイズが施されている。まず、銃身を8インチから4インチまで短縮し、銃口には反動を軽減するためのコンペンセイターを装着している。だが、このリボルバーの反動はかなり大きいため、完全には反動を軽減することは出来ないだろう。焼け石に水だ。
そのコンペンセイターの更に先には、銃声を小さくするためのサプレッサーが装着されている。更にナガンM1895のようにシリンダーの中にはガスシーラーを装備しているため、サプレッサーを装着すれば普通のハンドガンのように銃声を小さくする事ができるようになっている。
ちなみに、装填されているのは訓練用のゴム弾だ。だが、大口径のゴム弾だから、直撃すれば確実に骨折するだろう。
恐ろしい破壊力を持つリボルバーを受け取ったラウラは銃を眺め始め、この銃を知っているタクヤは青ざめた顔で俺の顔を見上げてきた。
倉庫の屋根の上を見上げながら、俺は
「今から俺が鬼になる。3分間俺から逃げ切るか、俺にそのリボルバーの弾丸を1発でも命中させられたらお前たちの勝ちだ」
「え? パパを撃つの!?」
「安心しろ、ラウラ。中に入ってるのは本物の弾じゃなくてゴム弾だから」
「よ、よかったぁ・・・・・・」
俺の事を心配してくれた娘の頭を優しく撫でながら、俺はルール説明を続けた。
「ただし、リボルバーは再装填(リロード)禁止。お前たちの攻撃はたったの5発だけだ。俺は一切攻撃せずにお前たちを捕まえに行くからな。・・・・・・それと、移動していい場所は建物の屋根の上だけだからな。地面や路地に足をつけたらアウトだ。足をつけてしまったら―――――1回につきその場で腕立て伏せを100回やってもらう」
「はぁっ!?」
「ふにゃあっ!?」
「ちなみに2回目からは200回な。1回地面に足を着ける度に100回ずつ増やしていくから、腕だけマッチョになりたくないなら足はつけるなよ? それと、俺に捕まったら腕立て伏せと腹筋と背筋を500回ずつやってもらう」
最初は剣術や射撃を教えるべきかと思っていたんだが、まずスタミナをつけながら身体能力を鍛え上げた方が良いとエミリアからアドバイスされたので、最初にこの訓練をすることにした。体内にサラマンダーの血を持つ
エミリアも騎士団に入団したばかりの頃は、ランニングや腕立て伏せなどの筋トレだけでなく、騎士団の先輩と罰ゲーム付きの鬼ごっこをやっていたらしい。彼女の身体能力が高いのは、死にもの狂いで先輩から逃げるために駐屯地の宿舎の屋根の上を走り回ったり、防壁の壁面をよじ登って逃げ回ったからだという。
だから、この訓練ならば子供たちのスタミナと身体能力を同時に鍛える事ができる筈だ。更に、数少ない攻撃手段を使って反撃するべきか、それとも攻撃は諦めて逃げ回るかという判断力も鍛える事ができるだろう。
魔物や転生者との戦いでは技術や判断力も必要だし、当然ながらスタミナも必要だ。俺が転生者と戦っていた頃は、基本的に格上の相手ばかりだったから、攻撃が直撃すれば相手の攻撃力を下回っている防御力のステータスが全く役に立たずに即死してしまうため、敵の攻撃は回避するか剣で受け流す必要があった。だからスタミナも鍛える必要がある。
「よし、それじゃこの壁を登れ。登り終ったらもう逃げ始めてもいいぞ」
「ふにゃあっ! たっ、タクヤ、早く登ろうよ!!」
「う、うん!」
大慌てで倉庫の壁を掴む子供たち。2人は早くもレンガ造りの倉庫の壁を登り始めているけど、タクヤよりもラウラのほうが昇る速度は遅い。タクヤはもう屋根の上まで近づいているというのに、ラウラはまだ半分以下だ。
なるほどな。身体能力ではタクヤの方が上か・・・・・・。
ラウラに手を貸してやりたいが、これは子供たちを鍛えるための訓練だ。しかも、訓練してくれと言ってきたのはラウラなんだ。俺が手を貸すわけにはいかない。
弱音を吐くんじゃないかと思いながら壁をゆっくりと上るラウラを見守っているんだが、彼女は弱音を吐く気配がない。それどころか、屋根の上を睨みつけ、歯を食いしばりながら少しずつ登り続けている。
頑張り屋さんだなぁ・・・・・・。頑張れ、ラウラ。もう少しだぞ。
「ほら、お姉ちゃん! 頑張って!」
「ふにゃああああああっ!!」
レンガ造りの壁を掴みながら、屋根の上へと手を伸ばすラウラ。タクヤよりも遅かったが、彼女は諦めずに屋根を無事に登り終えたようだ。
ラウラは息を切らしながら立ち上がると、路地から屋根の上を見上げている俺に向かって小さな手を大きく振った。
「パパ、登ったよ!!」
「よし、もう逃げていいぞ! パパもすぐ登るからな!」
「きゃー! パパが来るよ、タクヤ!!」
た、楽しそうだなぁ・・・・・・。
娘の元気な声を聞きながら、俺もワインの倉庫の壁をよじ登り始める。10年前から傭兵として何度も実戦を経験しているし、道具を使わずに崖をよじ登った経験も何度もあるから、当然ながら登る速度は子供たちよりも速い。貴族からの依頼で登る羽目になった危険なダンジョンの崖に比べれば、こんなレンガ造りの倉庫の壁はスロープみたいなもんだ。
この倉庫は他の建物よりも高い。他の建物の屋根の上に移動するにはジャンプするか、倉庫の屋根の上から伸びるロープにぶら下がって移動しなければならない。
ジャンプするのはリスクが大き過ぎる。ロープにぶら下がって移動するのは安全だが、俺に捕まる可能性は非常に高くなってしまうだろう。
さて、あの2人はどこから逃げるつもりなのかな?
「!」
そう思いながら壁を登り続けていると、一足先に屋根の上に上っていた子供たちが、なんとロープに木製の棒を引っ掛けて別の建物へと滑り下りて行くのが見えた。ロープに引っ掛けている棒を両手でしっかりと掴んでいるタクヤの背中には、ラウラがしがみついている。
どうやら一緒に逃げるつもりらしいな。身体能力で劣るラウラを庇うつもりか?
もし2人で別々に逃げていたのならば、捕まえやすそうなラウラから捕まえるつもりだったんだが、2人で一緒に逃げるのならば問題ないな。
だがタクヤは賢い奴だ。数日前に誘拐された時も、咄嗟にポケットの中の空の薬莢を道にばら撒いていたんだからな。
水無月永人だった頃から賢い奴だったのか? それとも、俺ではなく信也に似たのか?
俺は壁を登りながら感心すると、赤レンガで覆われた壁を蹴り、屋根の上から低い建物の屋根の上へと続いているロープに外殻を生成して硬化した状態の腕を引っ掛け、子供たちと同じように低い建物の屋根の上へと向かって滑り下りて行く。
「タクヤ、パパが来るっ!」
タクヤの背中にしがみついているラウラが叫ぶと、服のポケットの中に入っていたS&WM500を引き抜いた。そのまま片手で俺の方へとサプレッサーが装着された銃口を向け、照準を合わせている。
なるほどな。ロープを滑り降りている状態では身動きが出来ないから、弾丸を命中させられるだろうと考えていたのか。俺もこうやって追いかけてくることは予想していたわけだ。
やっぱりタクヤは賢い奴だな。あのクソガキめ。
ラウラが背中にしがみついていたのは、彼女に攻撃を担当させるためか。確かに彼女の射撃の技術ならば百発百中だろう。
だがな、俺は10年間も傭兵をやってるんだぜ?
「せいッ!!」
「ふにゃあ!?」
思い切り足を右へと振り、身体を揺らし始める。その揺れのせいでラウラの照準がずれ始めた上に、俺の身体も左右に揺れているから照準を合わせ辛くなる。
さすがにこんな状態ではラウラでも命中させるのは不可能だろう。
だが、ラウラは再び銃口を俺に向けてきた。これだけ揺れている状態で、俺に銃弾をお見舞いする自信でもあるんだろうか? 確かにラウラの視力はドラゴン並みだから命中させられるかもしれないが、左右に大きく揺れているロープを滑り降りながら、同じく揺れている俺に向かって弾丸を命中させられるとは思えない。
そう思っていたんだが、ラウラがS&WM500のトリガーを引いた瞬間、サプレッサーの中から飛び出した弾丸が揺れる俺の身体に向かって来るのを目の当たりにし、ぞっとしてしまった。
このまま左右に揺れ続けていればあの弾丸が命中する。そうすれば子供たちの勝利だ。
くそったれ! 当たってたまるか!
「ふんッ!!」
身体が右側へと揺れた瞬間、俺は更に両足と腹筋と背筋に力を込めた。横に90度ほど持ち上がっていた両足を更に持ち上げ、そのままぐるりと時計回りに一回転。何とか弾丸が突っ込んで来る直前に躱す。
「よ、避けられちゃった!」
あ、危なかった・・・・・・!
何という動体視力だ。もう少しで命中するところだったぞ・・・・・・!
「ラウラ、早く!」
「う、うんっ!」
「ハッハッハッ、逃がすか!」
俺よりも一足先に別の建物の屋根の上に辿り着いたタクヤとラウラ。俺もそこに辿り着くまであと3秒ほどだ。リボルバーで応戦する時間もあるまい。まだまだ未熟なタクヤの早撃ちでは、まだ実戦では使えないだろう。
タクヤの背中から下りて逃げ出そうとするラウラ。だがタクヤは逃げ出そうとはせずに、滑り降りて来る俺の顔を見ながらにやりと笑うと、ズボンの後ろの方から蒼い外殻に覆われたサラマンダーの尻尾を出した。
サラマンダーの血が体内にあるためなのか、ラウラとタクヤにも尻尾がある。タクヤの尻尾は俺と同じく外殻に覆われて、先端部がダガーのように鋭くなっているから武器としても使えるだろう。俺の尻尾は赤黒い外殻に覆われているが、タクヤの尻尾はサファイアブルーの外殻で覆われている。
ラウラの尻尾は俺と同じく赤黒いんだが、タクヤのように外殻には覆われておらず、鱗だけになっている。先端部にもダガーのような外殻はない。何故かは不明だったんだが、ガルちゃんの話では、基本的にサラマンダーの雌は外殻が退化しているらしい。巣に近付く外敵は雄が仕留めるし、生まれたばかりの子供たちの体温は非常に低いため、成長するまで体温の高い母親のドラゴンが温め続けなければならないようだ。
ラウラはおそらくその性質まで受け継いでいるんだろう。彼女の性別は女だからな。
武器としても使える尻尾をズボンの中から出し、ニヤニヤと笑い始めるタクヤ。彼と同じく幼少期は悪ガキだった俺も、いたずらする相手に向けたことがある悪ガキの笑みだ。このクソガキが何をするつもりなのか予測した俺は、タクヤが尻尾でロープを切断する寸前に両腕をロープから離し、ロープから飛び降りていた。
国旗や王国の旗がついているロープが切断され、そのまま下の路地へと向かって垂れていく。訓練が終わったら元通りにしておかなければならない。このクソガキめ。
だが、お前は逃げ遅れたぜ! あのまま俺を下に落とす算段だったんだろうが、俺もかつては悪ガキだったからな! すぐに予測できたんだよ!
「捕まえたぜ、タクヤッ!!」
「―――――何を言ってるんだよ、お父さん」
「なに・・・・・・?」
まだ、タクヤの顔からはあの悪ガキの笑みは消えていなかった。
ゆっくりと片手を振り上げるタクヤ。エミリアにそっくりな顔立ちの息子がニヤニヤと笑いながら手にしていたのは――――ロープを滑り降りた時に使っていた、木製の棒だった。
リボルバーで応戦するにはポケットから銃を取り出してから照準を合わせなければならないため、俺が滑り降りてくる前に迎撃するのは不可能だ。だが、既に手にしていたその棒ならば俺が屋根の上に降り立つ前に攻撃できる・・・・・・!
タクヤは振り上げた棒を、ジャンプ中の俺の頭に向かって振り下ろしてきやがった。
「いてっ」
木の棒を頭に叩き付けられた俺は、そのまま降り立つ筈だった建物の壁に激突する羽目になった。エミリアのドロップキックを後頭部に喰らった時のように壁に顔面を叩き付けた俺は、鼻血を流しながら路地へと落下していく。
くそ、タクヤめ・・・・・・! 俺が落下している間に逃げるつもりだな!?
「舐めるなよ、クソガキめ」
左足のブレードを展開させ、落下する前に建物の壁面をブレードを展開した状態の義足で蹴りつける。容易く突き刺さったブレードを使って落下を止めた俺は、ブレードを壁面から引き抜くと同時にレンガで覆われている壁を蹴り、両手でレンガを掴みながら素早く壁をよじ登った。
タクヤたちはまだ隣の屋根の上にいる。どうやら予想以上に俺が上って来るのが速かったらしく、2人とも慌てふためいているようだ。
今度は俺がにやりと笑ってから、2人を追いかけ始めた。
『あ、お帰りなさい』
訓練を終えて子供たちと一緒に家に戻ると、いつもの白いワンピース姿のフィオナがリビングのソファの上に腰を下ろし、ガルちゃんや妻たちと一緒に紅茶を飲んでいた。
今日はいつものように倉庫で研究はしないんだろうか? そう思いながらリビングへと入ると、俺はソファの下にフィオナが持ってきたと思われる小さな木箱が置かれていることに気が付いた。中身は何なのだろうかと思いながら凝視していると、エミリアが笑いながら言った。
「フィオナの新しい発明品だ。写真というものを撮る事ができる機械らしい」
「写真・・・・・・? カメラを作ったのか?」
『は、はい。まだ試作品ですが・・・・・・』
恥ずかしそうに言いながら、木箱の中からカメラを取り出すフィオナ。箱の中に入っていたカメラは、俺たちの世界にあったようなカメラではなく、木製の箱にレンズが埋め込まれたような古いデザインのカメラだった。カメラの上にはストロボのような物体が取り付けられている。
『試しに撮った写真がこちらです』
「ん?」
彼女から渡された写真に写っているのは、いつも彼女が研究に使っている倉庫だった。倉庫の前で警備を担当している2人の社員が、笑いながら肩を組んで写っているのが見える。
カラー写真ではなく白黒写真だったが、改良すればカラー写真も撮影できるようになるかもしれない。
段々とこの世界も俺たちの世界に近くなってきたな・・・・・・。
「凄いわよねぇ・・・・・・。今までは肖像画やイラストだったのに」
「全くじゃ。フィオナは天才じゃのう」
『えへへっ。・・・・・・もし良ければ、皆さんの集合写真でもどうですか?』
「お、いいね!」
やっぱり写真は撮った方が良いよな。ちょうど今日は仕事も休みだし、家族も全員揃っている。
いつかギルドの仲間たちとも写真を撮ってみたいなと思いながら、俺は家族たちと共にリビングの壁の前に並んだ。俺と同じく写真を知っているタクヤは、楽しそうにはしゃぐラウラに腕を引っ張られながら、興味深そうに異世界初のカメラを見つめている。
「やっぱり、真ん中はダーリンよね!」
「そ、そうか?」
「うむ。お前が真ん中の方が良いだろう」
俺が真ん中でいいのかな・・・・・・?
俺の右隣にはエミリアがいて、左隣にはエリスがいる。当然ながら子供たちが並んでいるのは俺たちの前だ。俺の方から見て、右側にラウラがいる。俺の目の前にいるのはタクヤで、左側に並んでいるのはガルちゃんだ。ガルちゃんは幼女の姿をしているせいなのか、子供たちと一緒に並んでも全く違和感がない。
『では、撮りますよー!』
彼女がそう言った直後、カメラのストロボが光を発した。