プロローグ
やっと残業が終わり、ほっとしながら会社の駐車場に停めてある自分の車の運転席に腰を下ろした。このまま帰ろうと思ったんだが、そういえば冷蔵庫の中が空になっていたような気がする。
ちょっとスーパーに寄って買い物してから帰るか。俺はシートベルトを締めると、帰る途中にあるスーパーへと車を走らせた。
俺の名前は速河力也(はやかわりきや)。就職して4年目になる24歳だ。地元から離れた所にある会社に就職した俺は、会社に近いところにある貸家で1人暮らしをしている。出勤する時に通る道にちょうどスーパーがあって、よくそこで買い物をするようにしていた。
見慣れたスーパーの看板が見えたのを確認し、頭の中で買っていく食材を確認しながら車を駐車場に停め、鍵をかけてスーパーの入り口へと向かった。今の時間は空いているのか、駐車場に止まっている車は俺の車くらいしか見当たらない。日が沈んで暗くなった駐車場は不気味に感じたが、俺はとりあえずさっさと買い物を済ませ、家に帰って寝ることを考えた。
車からいくらか離れた時だった。後ろの方から、まるでガラスが割れたような音がしたんだ。駐車場は空いているし、停車している車も俺の車だけ。そんなに離れた所から聞こえたわけでもない。まさか、俺の車のガラスが割れたのか? 入口へと向かって進んでいた足を止め、俺の車じゃないことを祈りながらくるりと後ろを振り返った。
駐車場の街灯が照らす下に停まっている俺の車。予想は当たったらしく、街灯の明かりに照らされた俺の車は、運転席のガラスがしっかりと割られていた。しかもその近くで、怪しい人影がその割れた窓ガラスのところから俺の車の運転席の中へと手を伸ばしているのが見え、俺は怒鳴った。
「おい、何やってんだてめえッ!」
まさか車の持ち主がまだ近くにいるとは思っていなかったんだろうな。俺の車のガラスを割りやがった野郎は驚きながら俺の方を振り返った。車上荒らしだろうか?
俺はそいつを取り押さえようと車の方へ走った。車上荒らしの男は迫ってくる俺から逃げようとするんだろうなと思ったんだが、数歩後ろへと下がると、ポケットに隠していたらしいナイフを俺の方へと向けて睨み付けてきた。もちろん俺はナイフなんか持ってない。丸腰だ。迂闊に近づくことも出来ず、俺は足を止めてその男を睨み返すしかなかった。
「う、動くなよ」
ナイフを俺に向けながら言う男。武器を持っているから強気になっているんだろうか。
このまま掴みかかってナイフを取り上げてしまえばすぐに終わりそうなんだが、さすがにそれはリスクが大きい。このまま何とか時間を稼いで、誰か他の人に助けを求めた方がいいかもしれない。そう思ってちらりと周りを確認するが、駐車場の周りには残念ながら俺とこの男しかいない。スーパーの店員も、恐らく駐車場で繰り広げられているこの睨み合いに気付くことはないだろう。
このままスーパーの営業終了時間まで粘って、出てきた店員に助けを求めるべきだろうか。作戦を考えていると、俺のポケットの中にある財布に気が付いた男が、俺を睨み付けながら「おい」と声をかけてきた。
「ポケットの中身を渡せ。……財布だろ?」
「あ?」
ふざけんじゃねえ。人の車のガラスを割って何か盗もうとした挙句、財布を貰っていくつもりなのかこの野郎は。この車上荒らしの態度にキレた俺は、黙って睨み付けるだけだった状態から前に一歩踏み出し、男へと向かって走り出した。
突然走り出した俺に驚いた男が威嚇するようにナイフを向けてくるが、ナイフを握る手には力が入っていなかった。あんな状態じゃ突き刺せないし、振り回されても致命傷にはならないだろう。俺は走った勢いで男にタックルすると、倒れこんだ男につかみかかった。
高校の時にラグビーをやってたんだが、どうやらパワーはまだ健在だったらしい。
「ひ、ひいっ……!」
俺に掴みかかられ、怯える車上荒らしの男。このまま取り押さえてやろうと男の腕へと手を伸ばした俺だったが、その時ちらりと男の手に銀色に輝くナイフが握られていることに気付き、俺は焦ってしまった。
こいつ、俺のタックルで吹っ飛ばされても、どうやらナイフから手を離さなかったらしい。俺は慌ててナイフを持った腕を押さえようとするが、まるで俺の手を躱すように動いた男の腕が俺の伸ばした手の脇を通過し―――ナイフの切っ先を、俺の胸へと突き刺してきた。
「がっ………!」
「………っ!」
刺されたのは胸の左側らしい。刺された衝撃と共にやってきた激痛で刺された個所を知った俺は、せめてこの男を離すまいと腕に力を込めたつもりだったんだが―――全く力が入らなかった。刺された個所から大量の血を流しながら、俺の身体はまだ大丈夫だという俺の主張を拒むかのように横へと崩れ落ちた。
車上荒らしの男は、ナイフで俺を刺したことに動揺しているらしかった。多分あのナイフは脅しに使う程度で済ませてしまうつもりだったんだろう。汚れる予定のなかったその銀色の刃は、今ではしっかりと俺の血で真っ赤に汚れていた。
男は動揺しながらも俺のポケットへと手を伸ばすと、胸を刺された痛みで動けない俺から財布を奪い、どこかへと向かって走り出した。俺は立ち上がって追いかけようとしたが、両腕も両足にも力が入らない。無理に立ち上がったとしても、走って逃げて行くあの野郎に追いつくことは不可能だろう。
胸の傷からの出血が止まらない。身体から力が抜けていく。周りに誰もいなかったから、きっとここで俺が胸を刺され、大量に血を流して倒れていることに気付いてくれる人もいないだろう。身体に力が全く入らないから救急車も呼べない。
つまり、このままだと俺は死んでしまう。あんな奴にナイフで刺されて死ぬんだ。
くそ………もし死んだら、絶対のあの野郎のことを呪ってやる!
男を睨み付けていた俺。睨み付けるだけで何もできないのかと思っていたら、突然俺から逃げていた車上荒らしの男の身体が、まるで爆発で吹っ飛ばされたかのように粉々になったのが見えた。
「……は?」
『―――仇は取ってやったぞ』
どこからか聞こえてくる男の声。随分と低い声だった。
一体誰がやったのかは分からないが、これで俺があの野郎を呪う必要はなくなったらしい。
『だが、お前はもう助からん』
そうだろうな。この傷じゃ、もし今すぐに救急車が来てくれたとしても手遅れだろう。おかげで駐車場の一部が血の海だ。
『いいか? もし次に目を覚ましたら、ポケットの中身を確認してみろ。大切な物が入っている』
大切な物? 今の俺のポケットは財布が盗まれたせいで車の鍵くらいしか入ってないんだが。
というより、次に目を覚ましたらってどういうことだ? だって俺はもう助からないんじゃないのか? そんな疑問を思い浮かべたが、もうそれをじっくりと考えることも出来なくなっていた。
身体に力が入らなくなっただけじゃない。何も考えられなくなる。
血が段々と駐車場に広がっていくのを最後に見た俺は、まるで睡魔に負けたかのように目を閉じた。