東京湾を埋め立てて造られた人工島、そこにIS学園というISを学ぶ学校がある。ISに関連する人材を育成するための教育機関だ。世界各国から優れた才を持つ者たちを集め、有能な人材を育成している。所謂エリートを生み出している。だがそこにいる人は誰も彼も程度の差こそあれ、才能に充ち満ちた少女たち、すなわち女性たちばかりだ。ISが女性しか起動できない以上、当然の帰結だ。
だが一年一組の副担任である山田真耶は、そんなエリートの女性たちが集うIS学園で、何の因果か男性を自分のクラスへと案内していた。
藤原紅輝。ISの一斉検査を行った際、IS学園から監視という名目で送られた織斑千冬により山奥からつれられ、ISを起動できたという変わった経歴を持つ男だ。
はぐれていないか確かめるふりをして振り返れば、その藤原はグラウンドを見ていた。釣られて真耶が視線を窓からやれば、そこには誰もおらず、グランドを囲むように植えられた草木がただ風に揺られているだけだった。
もしかしたらわずかとは言え見えてしまった自然から、住んでいたという山を想起してしまいホームシックにかかってしまったのかと真耶は心配したが、口にしたところでどうすることもできずただ黙っているだけしかできずにいた。
「藤原さん、ここが一年一組の教室です」
憐憫と後ろめたい感情を飲み込み、真耶はたどり着いた教室の扉を指した。
「少し待っててください。今から藤原さんのことを説明しますので。合図をしたら入ってきてください」
返事を待たずに真耶は教室へ入る。そこでは多くの生徒たちが坐って真耶を待っており、その中には藤原が来るよりも早くIS学園に通うようになったもう一人の男性操縦者である織斑一夏が常に変わらぬ表情で真耶のことを見ていた。生徒たちに見えないよう注意をしつつ、安堵をこぼした真耶は教卓へ向かう。
「ええ、皆さん。今日は大事なお知らせがあります」
その言葉にクラス中の視線が真耶に集まる。物理的な力すら持ちそうなその視線にさらされ、真耶の背中から汗が出て来る。つばを一度のみ、無理矢理に声を出す。
「今日から皆さんと一緒に学ぶ新入生の人がいます。皆さん、仲良くしてあげてください」
がやがやとクラスが騒がしくなる。女子の多くは四月の上旬で新入生が来るという自体に眉根を潜め、近くの生徒同士で話し合っている。それがクラスのほとんどがするのであれば、いくら声を潜めても全体的にはかなり大きな声となる。
これ以上放置をしていると、喧騒がひどくなる。そう判断した真耶は廊下にまで聞こえるよう声を張り上げた。
「では入ってください、藤原さん」
教室の扉が開き藤原が中に入ると、あれだけ騒がしかったクラスが静まりかえった。織斑一夏に至っては、目を丸くしわかりやすいほどに驚愕という感情を顔に貼り付けている。
藤原は落ち着いた足取りで教卓のそばまで近寄ってきた。誰もが藤原の一挙手一投足に注視し、その言葉を待ちわびていた。
「藤原紅輝」
静まりかえった中、佳音が響く。いくらかの女子生徒はその声の良さに顔を緩めている。その気持ちは真耶もまたよく分かった。さきほど職員室で藤原と会ったとき、最初の挨拶をされたさい、その美声に聞き惚れてしまったほどだ。
「……」
しかしいくら美声だろうとも、余韻だけで人を惹きつけられるわけではない。藤原が無言でいるうちに、意識をどこかにやってしまった生徒たちも帰ってきて続きを聴こうと耳を澄ましている。
だというのに藤原は全く口を開かない。
「えっと、藤原さん。ほかには」
おそるおそると真耶が訊ねる。
「名前だけで十分だろう」
なんとも冷静かつ拒絶あふれる回答が返り、一瞬真耶は言葉を詰まらせる。横目で生徒たちを見れば、みんな口を開けてしまっている。これでは初日の織斑一夏の二の舞、いやそれ以下だとおおわらわに続きを促す。
「ほら、年齢とかどうですか。ほかには趣味とか」
「年齢なんてもう覚えていない。趣味もない」
すげなく返されたことと内容に、真耶は顔を青ざめる。教室の女子生徒も年齢を覚えていないという回答に信じられないものを見たような目で藤原を見ている。どうにか挽回しようと、真耶は脳みそをフル回転させる。IS学園の教師ということは、真耶もまたエリートだ。でなければ才女たちを教え導くことなどできやしない。故にその才能を持ってすればこの凍り付いた空気をどうにかできるはずと己を信じ、真耶は咄嗟に思いついたことを口にする。
「あ、じゃあ、すきなものとかありますか。ほら、食べものとか歌とか」
これならば話のとっかかりになるだろうと真耶は確信し、そして周りの女子生徒も真耶に対しナイスアシストと言わんばかりに輝いた視線を送る。
やればできるのだ。普段から威厳がない、おっちょこちょいと言われ続けたが、それでもこれだけのことはできるのだと失いかけている自信を真耶が取り戻している中、藤原の言葉がもたらされる。
「……生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終りに冥し」
その言葉に一年一組は局所的なブリザードに見舞われた。クラスにいる全員が先程と打って変わり、異物を見るような視線を藤原へと送った。
そして藤原の後ろでは、教卓に身を預けるように真耶がうなだれていた。
一年一組の生徒は全員グラウンドに集まっていた。これからISを使った授業があるためだ。担任である千冬の前に、藤原以外の生徒がきれいに整列する。
そんな悪目立ちしている藤原を、誰もが刮眼していた。
「藤原、お前は織斑の後ろに並べ、……よし。さて諸君。これよりISを使用しての授業を始める。まず始めに伝えることがある。この授業から本格的にISを使い始めることになるが、私たち教師の言うことを良く聴き、実践せよ。お前たちが扱うものは子供のおもちゃじゃない。銃を始めとした兵器を満載した戦術兵器だ。そのことをわきまえろ。その行動一つ一つに責任が課せられる。勝手をするならば、退学させることも辞さない」
千冬の言葉に誰もが姿勢を正す。先程まで藤原をじろじろ眺めていた生徒たちも含め、いまは真剣に千冬の言葉を聴いている。そしてそれは一夏も同じだった。特に一夏は先だってセシリア・オルコットという女生徒とクラス代表の座を賭けて決闘した経験がある。だからこそ、ISが強力無比な兵器の側面を有することを実体験として理解していた。
「ではまず専用機持ちに見本をさせる。各自、よく見ておくように。織斑・オルコットの両名は展開、そして飛行しろ。藤原、お前も飛行をしてみろ」
誰もが藤原を仰天した面持ちで見ていた。
転入してきたばかりの生徒が専用機を持っているなど、誰も考えていなかった。
「へぇ、藤原さん、専用機を持っているんですね」
一見すると子供にしか見えない藤原であるが、その年齢は詳しいことは分からずとも三十は確実に越えているということはSHRにて明かされている。一夏はぞんざいに話しかけそうになったが、咄嗟に敬語に直した。
「ん、ああ。政府とやらデータ収集のためだなんだ言ってな。それよりも、早く展開とやらをした方が良いんじゃないか」
藤原がアゴで示した方を一夏が目で追うと、視線の先では千冬が不機嫌そうな表情で閻魔帳を握り締めていた。慌てて生徒たちから離れた場所に走り、白式を展開し始める。光が一夏の身体を覆う。しかし、それ以上の変化となると遅々として進まない。じれったい感覚に襲われながら一夏が四苦八苦していると、ようやく白式を纏うことができた。
あらためて一夏は自身の専用機を矯めつ眇めつ。白い塗装が光沢を発している。磨き抜かれたその機体は全体的に流線型であり、戦闘機を思わせるようなフォルムをしているが、同時にまるで人のような有機的な美しさをも内包している。
白式の背中にあるウィングには大型スラスターが付いており、速力を売りにすることが一目で分かる特徴的な専用機だ。
「遅い。コンマ一秒でも早く展開できるよう努力しろ。藤原、お前もだ」
藤原もまた飛行準備のためにISを展開しているが、それは一夏よりもうまくいかないらしく、いまだ光が弱々しく集まっている段階だった。一夏の展開終了から五秒ほどしてようやく藤原もISを展開した。
それは奇妙な機体だった。まるでフードをかぶった小柄な人。それが一夏の第一印象だった。頭部をすっぽり覆う、鳥の頭によく似た形状のヘルメット。黒いバイザーで目元すら覆われている。背中のウィングには小型のスラスターが八つも付いている。それでいて外見はほとんど人のように丸みをおびて、要所要所のみを鎧で守っているようなずいぶんと小さな機体だ。色合いは猩々緋がベースで有り、所々金色のラインが装飾としてか施されている。
「珍しいですわね、迦楼羅なんて」
セシリアがブルー・ティアーズという機体に乗ったまま近寄ってくる。一夏の白式よりもさらに機械的なデザインをしているISだ。その色合いはまさに青い雫の名前にふさわしく、鮮明な青で飾られている。
「迦楼羅、だって」
「ええ。第二世代の機体ですわ。日本によって造られた機体でして、同じ日本製の打鉄とは違い、高火力・高機動で相手を殲滅することをコンセプトとした機体ですことよ。ただ、その高機動のために軽量化および航空力学における形態を極限まで高めたため装甲が薄くなってしまいまして、その分防御力に難がある機体ですわね。一夏さんが理解しやすいたとえで言えば、ゼロファイターに似た機体ですわ。またその特徴的な外見と武装から山伏やら修験者とも開発者からは呼ばれていたそうですわ」
言われてみれば確かにそう見えなくはなかった。
「さて、三人とも始めろ」
その言葉に三人同時に飛び出した。とはいえ一夏は飛行どころかISをきちんと操縦する事自体これで二回目だ。うまく飛べるはずもなく、ふらふらと飛び上がり、少しでも気を緩めれば蛇行しそうになる。必死に機体をコントロールしながら空を見上げた。
三人の中で一番上空を飛んでいるのはセシリアではなかった。一番手はまさかの藤原だった。
「そんなっ、いくら迦楼羅が機動性に優れた機体とは言え、初心者相手に私とブルー・ティアーズが遅れをとるですって」
通信越しにセシリアの金切り声が響く。
「……織斑、貴様の機体は三人の中で最も高スペックだ。そのお前が遅れていてどうする。オルコット、代表候補生であるお前が初心者同然の者に後れをとるな。むしろ手本を見せろ。藤原、初めてにしては見事な飛行だ。とはいえ飛びながら改善点を見つけ、それを直すために反復練習を常に行え。まだまだ無駄はある」
地上から千冬が通信してきたが、その内容に一夏は顎が外れそうになった。
自身の姉である千冬は自他共に厳しい人だ。それが垂訓こそあれど、素直に他者を褒めるなどそうそうあることではない。一夏は思わず藤原を見上げた。いくらハイパーセンサーの補助があれども、逆光が強くその顔は見えない。
そうこうしているうちに、セシリア・一夏の順で藤原が留まっている空域にたどり着いた。藤原はただ空を眺めているだけで、一夏たちのことを気にもとめていないようだった。
「なあ、藤原さん。ちょっと良いか」
「なんだ」
「どこで飛行練習したんですか。いや、誰に教わったのですか」
「いや、別に練習なんてしていないが」
その言葉にセシリアが食いついた。
「そんな馬鹿なっ。あれほどの飛行技術、訓練を積んでも難しいですわ。それこそ天才といえども訓練せずには不可能というもの。それを練習もせずにできることなど、あり得ませんわ」
「できるもんはできるだけだ」
すげない回答を返すだけで藤原はそれ以上語ろうとしない。
セシリアが顔をさっと赤らめた。一夏はその顔色を見て、冷や汗をかいた。
「次だ。そこから急降下と急停止を実施しろ。目標は地上から10センチメートルだ。私語を抜かす余裕があるのだろう。さっさと実施しろ」
だが千冬の連絡に、セシリアは苦々しげに顔をゆがめ、それ以上突っかかることはなかった。目の前でまた決闘騒ぎでも起きたら冗談ではないと、一夏は汗を拭いながらひやひやした心を落ち着かせる。
「それでは先に行かせていただきますわ」
さっと髪をひるがえし、セシリアは巧みにISを操縦し、目標である地上10センチメートルに止まった。一夏が藤原の様子をちらりと窺えば、当の藤原はけだるげに一夏を見ていた。
「えっと、俺が先ですか」
「悪いがそうしてくれ。先に行けば、うるさいだろうし」
「は、はぁ」
納得いかないが、一夏は我慢してISを操る。上昇と違い、下降は比較的簡単だった。飛ぶよりも落ちる方が人には合っているのだろうか。とにかく速度をぐんぐんとあげ、耳元に風を切る音が潜り込む。ISの発生する力場でそれほど強くないが、風が正面から吹き付けて清々しい。そして一夏ははたと気づく。速度は速いが、この状態の機体をはたして未熟な自分にコントロールできるのだろうかと。
そして脳裏で行われたシュミレーションおよび現実は顔を青ざめる次第だった。
「どいてくれっ」
一夏の叫びに生徒たちは弾かれたようにぱっと散る。誰もいなくなったグラウンドへ墜落した飛行機さながらに落ちた。
何度もバウンドして、ようやく機体が止まる。砂煙が口に入りじゃりじゃりとした感覚が残る。だがそんなことを気にする余裕はなかった。墜落した最中に幾度も身体中を打ち据えたらしく、至る所が痛む。ISを装着していたとしてもこれほどのダメージが来るとは想像していなかった一夏は、数トンの鉄の塊に拘束されたまま身もだえることもできず、駆け寄ってくるセシリアと箒を視界に入れながら飛行訓練は徹底的にしようと考えた。
放課後というのは学生にとって最も価値のある時間で有りながら、最も価値のない過ごし方で時間を無駄に送ることもあるものだ。
そういう意味では、このIS学園の生徒たちはそのほとんどが前者に当たるだろう。過酷な入学試験を乗り越え、夢を叶えようとしている少女たちだ。放課後だからと遊びほうけるなど馬鹿なことはしない。皆一様にISの練習をするか勉強をするかして己を磨いている。それが良いか悪いかは置いておいて、彼女たちは確かに夢を追いかけていた。
そして生徒たちが自律的に勉強を行うというのであれば、教育機関であるIS学園はそのサポートをする義務が有り、その結果下手なスポーツジムよりも整備が整ったトレーニングルームや、最新設備の整ったグラウンド、そして大学機関顔負けの蔵書量を誇る図書館を有するようになった。もちろんそれらはすべて生徒・教師立場関係なく公開されている。
だがそういった施設は往々にして利用者が固定される傾向にある。知識を得るより身体を動かすのを好むものもいる。また逆に身体を動かすより理論を学びたがるものもいる。さらには身体を動かすよりも知識を本で得るよりも、実際に実験をして知識の習得をしようとする者もいる。多種多様な人間がいれば、設備の多種多様な使い方がある。当然の帰結だ。
だからこそ、その世にも珍しい水色の髪をした少女、更識楯無が図書館を訪れていることは、それはそれは珍しいことだった。
楯無は図書館に入ると館内をぐるりと一瞥する。窓際の人気のない場所に立ち、何かの本を読んでいる藤原の姿を確かめると、そちらへ歩を進めた。
するりと藤原の隣へ入り込む。一瞥されただけで、何の文句も飛ばなかった。
「今、いいですか」
藤原は本から目を離し、楯無のことを見た。その紅い瞳は、楯無が今まで見たこともない深い色合いを醸し出していた。吸い込まれ、その瞳を彩る重さに押しつぶされ、離れることができなくなるような瞳。光にさらされようとも一向にかき消えることのない真っ暗な瞳。
まだ若いが楯無自身の経験はかなり豊富だ。だというのに藤原のような瞳は見たことがなかった。まるで闇そのものを塗り固めたようなその紅い瞳は。
「何のようだ」
「ここで話すのはちょっとアレな話でして、……少し場所を変えてもよろしいかしら」
しばし藤原はリアクションを返さなかったが、本をぱたりと閉じ応答した。その様子に気取られないようにであるが、楯無は安心した。楯無にとって藤原という人物は、今まであったこともないタイプで、苦手意識ばかりが先行するような相手だった。
藤原が本を棚の上で置く。その際ちらりと表紙が見えた。それは弘法大師の『秘蔵宝鑰』と書かれている。ほかにもいくつかの本が有り、それはどれも所謂哲学書と呼ばれるようなものばかりだった。
「好きなのですか、哲学」
「いいや。ただ知りたかっただけだ」
「何をでしょうか」
「人生というやつサ」
藤原はそれら全ての書物を借りると、楯無を自身の部屋へ案内した。
そこは元々倉庫として使われていた一室だった。急遽一人増えるということで、なんとか用意できた一人部屋だ。
もう一人の男性操縦者は、二人部屋である。織斑一夏が篠ノ之箒と同室なのは、幼馴染みという間柄であったためだが、藤原はそういう関係性を持つものはいない。故になんとしてでも一人にさせる必要があった。藤原のためにも、一緒になってしまった女子のためにも。
もし女子生徒と一緒になってしまえば、その生徒は国家からの命令でハニートラップを強要されるだろう。それは藤原に危険が迫るとともに、女生徒自身の心をも傷つける。
そういった自体を事前に防ぐためという思惑で学園が用意した部屋なのだが、元が倉庫というのを置いても、変に殺風景だった。藤原が入学して初日だから使われた形跡がないのは置いておき、あまりに私物がない。スマートフォンどころか携帯電話もなく、それどころか時計などの小物すら一切ない。あるのはただあらかじめ用意されているベッドと机だけ。
その部屋の様子に楯無は、一瞬気圧されかけた。
「あら、まさか部屋にまねかれるなんて。このまま食べられちゃうのかしら」
「安心しろ。性欲なんてないようなものだ。この身体にはそういう欲求はいらないからな」
「ちょっとショック」
藤原の言動に、楯無といえどもさすがに少々警戒した。
更識という一族は特殊な一族だ。代々暗部といわれる情報機関に属し、日本を護り続けてきた一族だ。そして楯無はその跡取り娘である。
幼少のころより厳しく鍛えられてきたし、ありとあらゆることを教えられてきた。特に人間の精神というものは、それこそそんじょそこらの精神医学者なんぞ歯牙にもかけないほどに精通している。普段の所作、言葉遣い、部屋の配置。それだけの情報があれば、楯無からすれば相手を丸裸にしたようなものだ。だというのに、その動きを見、話し方を聴き、部屋を観察した上で、藤原という男について楯無は何ら情報を得ることができていなかった。
情報を一切得られない相手ほどやっかいな者はいない。緩んでいた気を引き締めた。
これが織斑一夏であればまだ楽だっただろう。楯無からすれば、純朴な少年などどうにでも転がせる。しかし目の前にいる人物は一癖も二癖も有り、そう簡単に思い通りにできるような相手ではないだろう。
「それで用件とは何だ」
「ええ、そうですね。本題に入りましょうか」
楯無の中で警戒心は残るが、それをおくびにもださない。直感ではあるが、表情一つで藤原は楯無の内面を探ってくるだろうという予感があった。故にチェシャ猫の仮面をかぶる。
「IS、私が教えますよ」
扇で口元を隠す。藤原がどうでるか観察する。
しかしその観察はすぐに終了してしまう。
「断る」
「……どうしてかしら。もしかして、私が年下だからかしら」
「師弟関係に年齢は関係ないだろう」
「ふうん。じゃあ、なぜ。あなたは自分の立ち位置がわからないほど馬鹿じゃないでしょうに」
「興味がないからだ」
「自分の立場がわかっているのに興味がないって言うんですか」
藤原紅輝という男は、現在デリケートな立場だ。戸籍のない、生まれのわからない人間。そして二人しかいない男性操縦者。この二つが藤原という男を苦しめようとしている。
真相が元々藪の中ならばなんとでもいえる。今も世界各国は、それこそ明らかにアジア系の顔立ちの藤原を、欧州を始めアフリカ・アメリカ・オーストラリア等の国家が国籍を主張している。もちろんアジア各国においてもそうだ。下手をすれば、どこぞの国家にでも国籍が握られ、人体実験の材料にされてもおかしくはない。
そして二人しかいない男性操縦者という立場もまた不幸なことに持ち主を苦しめる呪いの鎖となるだろう。これが一人であるならばまだ良かった。希少性がある故、軽率に人体実験という手を取れないから。しかしそれが二人いればどうなる。片方は生かして、もう片方は解体してくわしく調べる。そういった処置も行える。では織斑一夏と藤原紅輝、どちらが解体されるかと言えば、藤原紅輝一択だ。なにせ彼が死んでも誰も文句を言わない。逆に織斑一夏はその姉が世界最強で有り、近しい存在にISの生みの親である篠ノ之束がいる。下手に手を出し、二人の導火線に火をつけるなどどんな存在であろうとも簡便だろう。
だからこそ藤原紅輝は力を手にしなければならない。庇護がなくとも生きていけるだけの力を見せつけなければならない。下手に手を出そうものならば、やけどではすまないと世界に見せつける必要がある。
それだけの実力を身につけさせるために、更識楯無は、この学園最強のIS乗りは藤原紅輝を鍛えようと提案した。
だがそれは素っ気なく断れた。
「死ぬつもり」
自然と楯無の目つきが鋭くなる。理解できない馬鹿ならばまだしも、理解できる上に命を投げ出すような馬鹿は、さしもの楯無といえども許しがたい。
押さえ込むが僅かであるが楯無から怒気が漏れる。いくら暗部の出身だからといって、楯無は別に人死にが好きなわけではない。むしろそこらへんの感覚は善良な一般市民と同じだ。できればそれは避けたい。だからこそのボランティアとしての指導の提案だった。
だがその怒気を受けてなお、藤原は眉一つ動かさない。別に鈍いわけではなかろうに。
「一つ、思い違いをしているな」
「なにかしら」
「死ぬつもりじゃない。たかだか死ぬ程度だ」
反論できなかった。楯無は紅輝の目に、寒気を感じていた。その言葉は表面をすくい取っただけの暴言でもなく、やけっぱちになった者の言葉でもなく、ただただ疲れ果てた老賢者の語りだと、その目が告げていたからだ。
幼いその容姿に反し、そんな馬鹿げた結論を大まじめに、そして絶対の考えとして構築できるほど死に近しい経験など、まだ若い楯無には許容なんてできやしないし、受け入れられない。故に彼女は何も口にできず、ただ呆然としているだけしかできなかった。
ただひたすら拒絶するしかできなかった。